トリプロ街へ出る塀の扉は、閂がかかっていたので、私たちは遠回りをするはめになった。トリプロ街の入り口近くは、卜占の店や怪しげな媚薬を売る店、呪い師の店などが軒を連ね、赤や黄色、緑に紫のけばけばしい色硝子の入った角灯や提灯が、騙されやすい、いや、騙されたいと願っている人々を招いていた。
私は恋占いの老婆の店と金運がつくというやけに高額な腕輪などを売る店の間の、すれ違えないくらい細い戸口にエスパンクを案内した。緑色の明かりに照らされた急な階段を下りる時、いささか不安そうに彼女は私の肩に手を触れた。
「この街にはあまり馴染みはなさそうだね」
「割と育ちがいいのよ」
「ふむ、それは結構なことだ」
階下は〈銅の窖〉という名前の酒場だった。がっしりとした四角い卓子が幾つか並び、天井からは銅の傘のついた洋灯が幾つも下がっていた。先祖はロラストの山中で鉱石を掘る矮人だったという主は、確かに背は低かったが、肌はやけに青白く、髭もきれいに当たっていた。
宵の口で、まだ店は空いていた。これから商売にかかるのだろう、幾重にも長衣や肩掛けをまとい、安物の耳飾りや首飾りをつけた占い師らしき女が、湯気のたつ汁碗をすすっていた。
私たちは隅の席に陣取り、銅杯のシェアで乾杯した。食事を頼むと、甘辛い鶏肉とアニャチ風の麺が出てきた。
「僕から手の内を明かそう。僕はスラッティーという〈赤い扉〉に出入りしている女を探っている。彼女のねぐらを突き止めたい。スラッティーの本名はスラーシャ・ルモル・オルトーリア、オルトーリア侯爵の娘だ。君も彼女に用があるようだが、僕とは違う用事らしい」
エスパンクは、シェアを一口飲んで、口元についた泡を手で拭った。
「侯爵の娘？ ご乱行で高名な〈ふしだらなスラッティー〉が？ 素敵な話だわ。あたしはキナラサという娘を捜している。市の出納次長のご令嬢よ。〈赤い扉〉に出入りして夜遊びしてたのが、一月前から行方知れず。スラッティーとは、その……」
「女同士、いい仲だった」
「そうらしいわ。それで、あの女を探っていたんだけど、ワイナントーズっていう男も行方がわからなくなっていて……」
男の方の名は初耳だった。
「誰だい、それは」
女探偵は、少し自慢げに鼻をこすって見せた。
「ワイナントーズはキナラサの前の恋人、スラッティーの前の恋人でもあるのよ」
「難しい関係だね」
エスパンクはうんざりという風に肩をすくめ、またシェアを飲んだ。
「キナラサとワイナントーズは二人で〈赤い扉〉で遊んでいたんだけど、スラッティーは最初にキナラサと関係を持ったらしいの。それで、ワイナントーズは〈赤い扉〉に顔を出さなくなったんだけど、しばらくしてキナラサが行方知れずになったことを知って、スラッティーに問い詰める騒ぎがあったらしいわ。その後、どういうわけだか、ワイナントーズはスラッティーに骨抜きにされたみたいになって、それで、またしばらくすると、ワイナントーズもどこかへ消えてしまった」
「彼女とかかわると、みんな行方知れずかい」
「キナラサの前にも、一人どこかへ消え失せた女がいるのよ。〈花びらの褥〉っていういかがわしい店の踊り子が消えてるわ。舞台が終わった後、裏口からどこかへ消える二人を別の踊り子が見てる」
「それで、スラッティーをつけたというわけだね」
「そうよ。でも、あの女はそう簡単には捕まらないのよ」
エスパンクは彼女をつけたのは三回目だと言った。一度目は、突然現れた馬車に乗って姿を消し、彼女は轢かれそうになった。二度目は途中で気分が悪くなって、追跡を断念したと言った。
「気分が悪くなったって？」
「そうよ。よくわからないけど、つけてる最中に一度だけあの女が振り向いたのよ。それで、こっちに手を振るような仕草をした。ばれたのかと思ってびっくりしたわ。そうしたら、変な甘い匂いがして、直に頭がもやもやしてきて体に力が入らなくなって……」
「相棒が助けてくれたのかい？」
女探偵は少し頬を赤くして、怒っているような恥じらっているような面持ちになった。
「とにかく、毒薬か魔術でも使われたみたいに、急に立っていられなくなったのよ」
「そう恥じることはないさ。僕もこの前はその有り難い薬をお見舞いされた。かの名探偵サイク・ネルモンも彼女をつけて、行方知れずだ」
「ネルモンが？ まさか」
「他にもスラッティーのねぐらを探ろうとして、失敗した者は何人かいるらしい」
彼女は「ふーん」といって、思い出したように鶏肉と麺を少し口にした。
「ねえ、あんたが乗り出しているっていうことは、あの女はやっぱり魔女か何かなの？」
「僕がかかわっているからといって、そういう事件だとは限らない」
「でも、あの頭巾の男は全うな人間ではないんでしょう」
「多分ね。君はどうしてあの御典医の家を知ったんだ？」
エスパンクは何か言いそうになったが、しゃべる代わりにシェアをあおり、台詞を変えた。
「あんたばかり質問しているわ。あんたこそ、どうしてあの医者の家に出向いたの？」
「地道に調べたのさ」
「ふざけないでよ！」
女探偵の雀斑の浮いた頬は随分と赤みを増していた。あまり酒に強い方ではないのかもしれない。
「勘弁してくれ、恐い女は苦手なんだ」
エスパンクは銅杯に残っていたシェアを飲み干すと、甲高い音を立てて杯を卓子に置いた。
「あたしをなめてるのね！」
「そんなことはないさ。君はサンジェリィで今、評判の女探偵だ。〈ジーンカの腕輪〉を取り戻した一件は、ヨーコックの新聞にも載った。サンジェリィで一番硬い新聞だぞ」
「ヨーコックのおじさんがお駄賃をくれたのよ」
「駄賃？」
「父さんがあの新聞屋と知り合いだったのよ。子どもの頃、父さんの使いでおじさんの新聞屋に行くと、決まっておじさんはお駄賃をくれたわ。今度の記事も同じことよ」
「ノップラントのおじさんはどうだったね」
エスパンクは眉根にしわを寄せ、ひどくいやそうな顔で私を睨んだ。
「みんな、あんたの知り合いなの？」
「生憎とね」
「警邏隊のおじさんは、父さんの使いをしても、絶対お駄賃はくれなかったわ。いつも難しい顔でうなずくだけで」
「警邏隊の俸給は安いのかもしれない」
「あの人は馬鹿正直なのよ。賄賂が大嫌い。決算書に書けないようなことは、一切しないのよ。でも、父さんが死んだ時には、葬式見舞いをくれたわ。あたしは受け取らなかったけど」
ノップラントに言われたことは彼女に話さなかった。手を引けと言って「わかったわ」と答えるとも思えない。なおさら熱が入るだけだろう。彼女にもう一杯シェアを頼み、自分のためにディコンを頼んだ。それから医師ザウストの屋敷に目をつけた経緯を話した。
「あたしはあの蜥蜴面の下男からたどり着いたのよ。これは……ユニオルが見たんだけど、あたしがあの女をつけてる時に、頭巾姿の傴僂を見たって言うのよ。一度目の時に馬車を駆っていたのは、傴僂男なの」
私は先夜の一件の時に、同様な人影を見た話をした。
「今日、ランガリア橋の近くであの男を見たの。頭巾を深くかぶっていたけど、あの体つきは隠せないわ。つけたら、あの家にたどり着いたのよ」
彼女の尾行も成功することがあるらしい。人通りの多い昼間の方が簡単と言えば簡単なのだ。
「しかし、君は僕よりあとからやってきたね」
「調べてたのよ。アイトーネ街のお屋敷だしね。いきなり踏み込むのもどうかと思って、誰の屋敷かを。まさか、あんたと鉢合わせとは思わなかったわ」
エスパンクはしゃべり方がゆっくりしてきて、眠たげな目つきになってきた。あまり酒は強くないらしい。
「さあ、話はすんだわ。行きましょう」
「どこへ？」
「決まってるじゃないの。御典医様のお屋敷よ。あの蜥蜴男だって、夜中は寝るでしょう」
女探偵は銅杯に残っていたシェアを一気にあおって立ち上がった。少しふらついて、卓子に手をついた。
「今晩はやめておこう。酔っぱらいには難しい仕事だよ」
「あたしが酔っぱらってるって言うの」
「僕が酔っているのさ」
「じゃあ、一人で行くわ」
エスパンクは出口へ向かったが、足下が少しふらついていた。私は矮人の主に急いで金を払い、彼女の後を追った。階段の途中で転びそうになったので支えると「やめてよ。あたしは行くのよ」と言って手を振り払おうとした。
彼女はもう一度転びそうになり、危うく二人で階段を転げ落ちそうになった。戸口までたどり着き、扉を開けると、赤い胴衣に金髪の少年が立っていた。
「そろそろかな、と思って待ってましたよ、姐さん」
「ユニオル！ 夜歩きは駄目だって言ってあるでしょう」
少年は「はいはい」といい加減な返事をしながら、私の手からエスパンクを受け取った。にこやかに笑って、私に礼を言った。
「ありがとうございます。姐さんは酒に弱いんです」
天使のような、と形容したくなる美顔だったが、青い瞳は存外鋭い光を放っていた。
「そのようだね。まだシェアを二杯しか飲んでないんだが」
「姐さんがまともでいられるのは、一杯までなんです」
「次はそうするよ」
少年に抱えられていたエスパンクが突然大きな声で言った。
「スナブ・ランケン、この事件はあたしが解決するのよ！ 抜け駆けは許さないわ！」
道行く人々の視線が幾らか集まった。
「そうなるといいね」
私はまだ何か言っているエスパンクとなだめるユニオルを残して、歩き出した。
クーリカフ街の探偵局に戻ると、引き出しから〈古鴉〉のディコンの壜を取り出し、青硝子の杯に注いだ。〈銅の窖〉で飲んだものより、少しばかり荒い味がしたが、私はこの方が好みだった。
バルターフ・ヴェイスト−フェルトーヴ・ヴェス・ザウストと言うべきか−と蜥蜴面の傴僂の下男は、首なし死体の事件とかかわりがあるらしい。スラッティーのまわりでは、何人もの男女が姿を消している。ヴェイストが死にかけた女に施した治療とは、どんなものなのだろうか。あまり想像はしたくなかった。
ザウスト邸を調べるのが真っ当な筋というものだろうが、私の依頼された仕事はスラッティーの居所を突き止めるというものだった。キナラサとかいう女の失踪はエスパンクの仕事、首なし殺人はノップラントの仕事だ。
エスパンクは明日の夜、ザウスト邸に忍び込むつもりだろうか。もちろんあの剣呑な美少年も一緒だろう。明日、スラッティーが〈赤い扉〉に現れれば、女探偵に邪魔されずに尾行することができる。
私は〈首飾りの女〉または〈ふしだらなスラッティー〉との逢瀬を楽しみに、寝床に入った。
私は恋占いの老婆の店と金運がつくというやけに高額な腕輪などを売る店の間の、すれ違えないくらい細い戸口にエスパンクを案内した。緑色の明かりに照らされた急な階段を下りる時、いささか不安そうに彼女は私の肩に手を触れた。
「この街にはあまり馴染みはなさそうだね」
「割と育ちがいいのよ」
「ふむ、それは結構なことだ」
階下は〈銅の窖〉という名前の酒場だった。がっしりとした四角い卓子が幾つか並び、天井からは銅の傘のついた洋灯が幾つも下がっていた。先祖はロラストの山中で鉱石を掘る矮人だったという主は、確かに背は低かったが、肌はやけに青白く、髭もきれいに当たっていた。
宵の口で、まだ店は空いていた。これから商売にかかるのだろう、幾重にも長衣や肩掛けをまとい、安物の耳飾りや首飾りをつけた占い師らしき女が、湯気のたつ汁碗をすすっていた。
私たちは隅の席に陣取り、銅杯のシェアで乾杯した。食事を頼むと、甘辛い鶏肉とアニャチ風の麺が出てきた。
「僕から手の内を明かそう。僕はスラッティーという〈赤い扉〉に出入りしている女を探っている。彼女のねぐらを突き止めたい。スラッティーの本名はスラーシャ・ルモル・オルトーリア、オルトーリア侯爵の娘だ。君も彼女に用があるようだが、僕とは違う用事らしい」
エスパンクは、シェアを一口飲んで、口元についた泡を手で拭った。
「侯爵の娘？ ご乱行で高名な〈ふしだらなスラッティー〉が？ 素敵な話だわ。あたしはキナラサという娘を捜している。市の出納次長のご令嬢よ。〈赤い扉〉に出入りして夜遊びしてたのが、一月前から行方知れず。スラッティーとは、その……」
「女同士、いい仲だった」
「そうらしいわ。それで、あの女を探っていたんだけど、ワイナントーズっていう男も行方がわからなくなっていて……」
男の方の名は初耳だった。
「誰だい、それは」
女探偵は、少し自慢げに鼻をこすって見せた。
「ワイナントーズはキナラサの前の恋人、スラッティーの前の恋人でもあるのよ」
「難しい関係だね」
エスパンクはうんざりという風に肩をすくめ、またシェアを飲んだ。
「キナラサとワイナントーズは二人で〈赤い扉〉で遊んでいたんだけど、スラッティーは最初にキナラサと関係を持ったらしいの。それで、ワイナントーズは〈赤い扉〉に顔を出さなくなったんだけど、しばらくしてキナラサが行方知れずになったことを知って、スラッティーに問い詰める騒ぎがあったらしいわ。その後、どういうわけだか、ワイナントーズはスラッティーに骨抜きにされたみたいになって、それで、またしばらくすると、ワイナントーズもどこかへ消えてしまった」
「彼女とかかわると、みんな行方知れずかい」
「キナラサの前にも、一人どこかへ消え失せた女がいるのよ。〈花びらの褥〉っていういかがわしい店の踊り子が消えてるわ。舞台が終わった後、裏口からどこかへ消える二人を別の踊り子が見てる」
「それで、スラッティーをつけたというわけだね」
「そうよ。でも、あの女はそう簡単には捕まらないのよ」
エスパンクは彼女をつけたのは三回目だと言った。一度目は、突然現れた馬車に乗って姿を消し、彼女は轢かれそうになった。二度目は途中で気分が悪くなって、追跡を断念したと言った。
「気分が悪くなったって？」
「そうよ。よくわからないけど、つけてる最中に一度だけあの女が振り向いたのよ。それで、こっちに手を振るような仕草をした。ばれたのかと思ってびっくりしたわ。そうしたら、変な甘い匂いがして、直に頭がもやもやしてきて体に力が入らなくなって……」
「相棒が助けてくれたのかい？」
女探偵は少し頬を赤くして、怒っているような恥じらっているような面持ちになった。
「とにかく、毒薬か魔術でも使われたみたいに、急に立っていられなくなったのよ」
「そう恥じることはないさ。僕もこの前はその有り難い薬をお見舞いされた。かの名探偵サイク・ネルモンも彼女をつけて、行方知れずだ」
「ネルモンが？ まさか」
「他にもスラッティーのねぐらを探ろうとして、失敗した者は何人かいるらしい」
彼女は「ふーん」といって、思い出したように鶏肉と麺を少し口にした。
「ねえ、あんたが乗り出しているっていうことは、あの女はやっぱり魔女か何かなの？」
「僕がかかわっているからといって、そういう事件だとは限らない」
「でも、あの頭巾の男は全うな人間ではないんでしょう」
「多分ね。君はどうしてあの御典医の家を知ったんだ？」
エスパンクは何か言いそうになったが、しゃべる代わりにシェアをあおり、台詞を変えた。
「あんたばかり質問しているわ。あんたこそ、どうしてあの医者の家に出向いたの？」
「地道に調べたのさ」
「ふざけないでよ！」
女探偵の雀斑の浮いた頬は随分と赤みを増していた。あまり酒に強い方ではないのかもしれない。
「勘弁してくれ、恐い女は苦手なんだ」
エスパンクは銅杯に残っていたシェアを飲み干すと、甲高い音を立てて杯を卓子に置いた。
「あたしをなめてるのね！」
「そんなことはないさ。君はサンジェリィで今、評判の女探偵だ。〈ジーンカの腕輪〉を取り戻した一件は、ヨーコックの新聞にも載った。サンジェリィで一番硬い新聞だぞ」
「ヨーコックのおじさんがお駄賃をくれたのよ」
「駄賃？」
「父さんがあの新聞屋と知り合いだったのよ。子どもの頃、父さんの使いでおじさんの新聞屋に行くと、決まっておじさんはお駄賃をくれたわ。今度の記事も同じことよ」
「ノップラントのおじさんはどうだったね」
エスパンクは眉根にしわを寄せ、ひどくいやそうな顔で私を睨んだ。
「みんな、あんたの知り合いなの？」
「生憎とね」
「警邏隊のおじさんは、父さんの使いをしても、絶対お駄賃はくれなかったわ。いつも難しい顔でうなずくだけで」
「警邏隊の俸給は安いのかもしれない」
「あの人は馬鹿正直なのよ。賄賂が大嫌い。決算書に書けないようなことは、一切しないのよ。でも、父さんが死んだ時には、葬式見舞いをくれたわ。あたしは受け取らなかったけど」
ノップラントに言われたことは彼女に話さなかった。手を引けと言って「わかったわ」と答えるとも思えない。なおさら熱が入るだけだろう。彼女にもう一杯シェアを頼み、自分のためにディコンを頼んだ。それから医師ザウストの屋敷に目をつけた経緯を話した。
「あたしはあの蜥蜴面の下男からたどり着いたのよ。これは……ユニオルが見たんだけど、あたしがあの女をつけてる時に、頭巾姿の傴僂を見たって言うのよ。一度目の時に馬車を駆っていたのは、傴僂男なの」
私は先夜の一件の時に、同様な人影を見た話をした。
「今日、ランガリア橋の近くであの男を見たの。頭巾を深くかぶっていたけど、あの体つきは隠せないわ。つけたら、あの家にたどり着いたのよ」
彼女の尾行も成功することがあるらしい。人通りの多い昼間の方が簡単と言えば簡単なのだ。
「しかし、君は僕よりあとからやってきたね」
「調べてたのよ。アイトーネ街のお屋敷だしね。いきなり踏み込むのもどうかと思って、誰の屋敷かを。まさか、あんたと鉢合わせとは思わなかったわ」
エスパンクはしゃべり方がゆっくりしてきて、眠たげな目つきになってきた。あまり酒は強くないらしい。
「さあ、話はすんだわ。行きましょう」
「どこへ？」
「決まってるじゃないの。御典医様のお屋敷よ。あの蜥蜴男だって、夜中は寝るでしょう」
女探偵は銅杯に残っていたシェアを一気にあおって立ち上がった。少しふらついて、卓子に手をついた。
「今晩はやめておこう。酔っぱらいには難しい仕事だよ」
「あたしが酔っぱらってるって言うの」
「僕が酔っているのさ」
「じゃあ、一人で行くわ」
エスパンクは出口へ向かったが、足下が少しふらついていた。私は矮人の主に急いで金を払い、彼女の後を追った。階段の途中で転びそうになったので支えると「やめてよ。あたしは行くのよ」と言って手を振り払おうとした。
彼女はもう一度転びそうになり、危うく二人で階段を転げ落ちそうになった。戸口までたどり着き、扉を開けると、赤い胴衣に金髪の少年が立っていた。
「そろそろかな、と思って待ってましたよ、姐さん」
「ユニオル！ 夜歩きは駄目だって言ってあるでしょう」
少年は「はいはい」といい加減な返事をしながら、私の手からエスパンクを受け取った。にこやかに笑って、私に礼を言った。
「ありがとうございます。姐さんは酒に弱いんです」
天使のような、と形容したくなる美顔だったが、青い瞳は存外鋭い光を放っていた。
「そのようだね。まだシェアを二杯しか飲んでないんだが」
「姐さんがまともでいられるのは、一杯までなんです」
「次はそうするよ」
少年に抱えられていたエスパンクが突然大きな声で言った。
「スナブ・ランケン、この事件はあたしが解決するのよ！ 抜け駆けは許さないわ！」
道行く人々の視線が幾らか集まった。
「そうなるといいね」
私はまだ何か言っているエスパンクとなだめるユニオルを残して、歩き出した。
クーリカフ街の探偵局に戻ると、引き出しから〈古鴉〉のディコンの壜を取り出し、青硝子の杯に注いだ。〈銅の窖〉で飲んだものより、少しばかり荒い味がしたが、私はこの方が好みだった。
バルターフ・ヴェイスト−フェルトーヴ・ヴェス・ザウストと言うべきか−と蜥蜴面の傴僂の下男は、首なし死体の事件とかかわりがあるらしい。スラッティーのまわりでは、何人もの男女が姿を消している。ヴェイストが死にかけた女に施した治療とは、どんなものなのだろうか。あまり想像はしたくなかった。
ザウスト邸を調べるのが真っ当な筋というものだろうが、私の依頼された仕事はスラッティーの居所を突き止めるというものだった。キナラサとかいう女の失踪はエスパンクの仕事、首なし殺人はノップラントの仕事だ。
エスパンクは明日の夜、ザウスト邸に忍び込むつもりだろうか。もちろんあの剣呑な美少年も一緒だろう。明日、スラッティーが〈赤い扉〉に現れれば、女探偵に邪魔されずに尾行することができる。
私は〈首飾りの女〉または〈ふしだらなスラッティー〉との逢瀬を楽しみに、寝床に入った。
