店が開いてしばらくして、繻子織りの青緑の服の女が入っていった。スラッティーの目下の恋人だという金貸しの娘だ。
随分待った気がしたが、スラッティーは私の期待を裏切らなかった。一人、石畳に足音を響かせて、現れた。黒い薄手の袖無し外套を羽織っている。外套の下には黒い刺繍のついた衣装の裾と黒い光沢のある靴下がのぞいていた。結い上げた黒い髪と外套の衿の間に白いうなじと銀の首飾りが見えた。
私は少し離れた路地に身を隠し、女が出てくるのを待った。紫色の長い肩掛けをまとった疲れた顔の女が声をかけてきたが、女を待っていると言うと、不機嫌そうに離れていった。
プルクト神殿の鐘の音が遠く聞こえた。真夜中だ。真っ赤な扉が開き、数人の男女が出てきた。酔って足下がふらついている者もいる。スラッティーは青緑の服の女の腰に手を回し、かなり酔っているらしい彼女の体を支えていた。
スラッティーは恋人を連れて、すっと人の輪から逃れ、クラーシャ街の表通りへ歩き出した。私は三十イート（約九メートル）ばかり間を空けて、二人の後をつけた。スラッティーと女は時々くすくすと笑い声を上げ、時々口づけをかわしながら、歩いていく。スラッティーの白い手は、女の腰や尻を淫らがましく愛撫し続けていた。
しばらく二人はクラーシャ街の表通りを歩いていたが、やがて右に折れた。クラーシャ街も外れあたりで、夜の店の明かりも途絶えている。二人は横道をしばらく行くとどちらからともなく立ち止まり、抱き合い、長い口づけをかわした。スラッティーの白い手が金貸しの娘の繻子の衣装を這い回り、胸乳や股間をまさぐった。こちらまで淫靡な匂いが漂ってくるようだった。
私はこの前の甘い匂いの薬を警戒して、手巾で鼻と口を覆い、女同士の抱擁を観察した。少し熱心に見入りすぎたのか、出がけに飲んできたヤムラス特製のお茶のせいなのか、背後から近づく者に気づかなかった。何かで頭の後ろをひどく叩かれ、気が遠くなった。それから、濃厚な甘い匂いが私を包み、何もわからなくなった。
気がつくと冷たい寝台に寝かされていた。薄汚れた硝子窓から青ざめた月明かりが差し込み、部屋の中を照らしていた。窓掛けは透ける刺繍のついた洒落たものだったようだが、古びて蜘蛛の巣と入り交じっている。私が寝ている天蓋付きの寝台もどこか傾いでいた。
半ば廃屋のような部屋だ。丸い小さな卓子と椅子が二つ。卓子の上にファバーン剣が置いてあった。鏡台は扉が開き、染みの浮き出た鏡が半ば見えていた。壁には絡み合う男女の姿を描いた安っぽい版画が貼られていた。水の流れる音がわずかに聞こえた。
染みの浮いた鏡に女の姿が映った。銀と真珠の首飾りをつけた黒衣の女だ。
スラッティーは戸口に立っていた。右手に持った銀の煙管から一筋の紫煙が漂っている。
「こんばんは、ネクラン・ナーヴスさん」
「やあ、洒落たお誘い、感謝するよ。侯爵令嬢さん」
私は頭の後ろに手をやった。こぶができていたが、出血はない。
「あなたは少し手強そうに思えたのよ、探偵さん。寝ている間にその剣を拝見したわ。あなた、スナブ・ランケンとかいう探偵でしょう。父に頼まれたのね」
「そうだ。君を捜して家に連れ帰ってほしいという依頼だ。君のことをオルトーリア家の宝だと言っていたよ」
スラッティーは毒のある笑い声をあげた。
「そうね、確かに侯爵家の一人娘は家宝に違いないわ。嫁ぎ先によっては、凋落甚だしい名門オルトーリア家にも光明が差してくるかもしれないものね」
侯爵令嬢は、薄笑いを浮かべたまま寝台に近づいてきた。飛び起きれば、ファバーン剣をつかむことはできるだろう。
「だめよ。今晩は私と遊ぶのよ、探偵さん。たっぷりとね」
スラッティーは、煙管を置いて、左手でファバーン剣をなでた。右手で乳房の間から香水でも入っているような小壜を取り出した。さっと中身を振りまくと、果実の腐ったような甘ったるい匂いが広がった。
私は身を起こそうとしたが、目眩がしてうまくいかなかった。寝台がくるりと回転して転げ落ちそうになったような気がして、天蓋の柱にしがみついた。軋む音がして埃が落ちてきた。
「その寝床の上で、ピュローヴと私は薬を飲んだのよ。でも、眠くなっただけで薬は効かなかった。それで、首を吊ったの。ほら、まだ窓掛けが天蓋の上からぶら下がってるでしょう」
彼女の指し示す方を見ると、裂かれて紐代わりになった二本の窓掛けが天蓋の端からのぞいていた。
「ピュローヴは死んで、私は生きてるわ。ほら、温かいでしょう。私は生きてるのよ」
スラッティーは白い手を私にのばして、首のあたりに触れた。死人のようだとまでは言わないが、奇妙に冷たい手だった。
衣擦れの音がして銀糸で飾られた黒い腰帯がほどけた。白い指先がゆっくりと小さな釦と留め金を外していった。月光を浴びた彼女の裸身は大理石の彫像のように見えた。
私はもう一度体を起こそうと努力したが、足にも腕にも力が入らなかった。
スラッティーは黒い下着も脱ぎ捨て、身につけているものは、銀と真珠の首飾りだけになった。彼女は裸身を滑らせて、寝台の上にあがった。白蛇が忍び寄ってくるようだった。大きく股を開いて、私の上に馬乗りになった。
白い手が首のあたりに絡みついてきた。冷たい指が私の首に輪を作った。
「あなた、首を吊ったことがおあり？」
スラッティーは私を見下ろしながら、そう呟くように言った。
「ないね。そういう予定もない」
「そう、じゃあ、少しそういう気分を味わってみる？」
女は私の首にまわした指に力を込めた。息が詰まって、頭の中身が四方から押しつぶされるような気がした。腰の上の白い裸身が、赤くなったり黒くなったり星屑に囲まれたりした。
「ほら、いい気分でしょう」
スラッティーはまだ片手を私の首にかけたまま、もう片方の手で、私の耳から、頬、唇をなで回した。私は彼女の体の下でなす術がなかった。手足は思うようには動かず、頭の中には靄がたちこめているかのようだった。ただ、股間のものだけが、私の意志とは関係なく、硬くいきり立っていた。
女は身を倒して頬ずりし、生暖かい舌で私の頬をなめ、唇を押し開けた。彼女の涎もまた、甘く腐ったような匂いがした。銀の首飾りが胸にあたる冷たい感触がした。
「ピュローヴ、あなたは死んだけど、私は生きてるわ」
スラッティーは私の耳たぶをなめながら、そう呟いた。それから身を起こし、私の股間をまさぐった。一物が彼女の濡れた女陰に触れるのがわかった。奇妙に冷たい体の中で、そこだけは熱く濡れそぼって、生きているという彼女の言葉に応えているようだった。
スラッティーが私のものの上に身を沈めようとしたその刹那、大きな音がして窓硝子が割れた。冷たい夜風が吹き込んできた。二度、三度、硝子の割れる音が響き渡った。
スラッティーは私から離れ、寝台から降りたが、また硝子が割れて飛び込んできた何かに打たれて、短い悲鳴を上げた。硝子の欠片も浴びたのか、押さえた乳房のあたりから血が滴っていた。
その血は光っていた。月光の中、黒い一筋の流れにしか見えないであろうはずの血が、はっきりと真っ赤な筋に見えた。銀の粉でも混ぜ込んだかのように、ちらちらと微かな燐光すら放っていた。
夜風が毒のある匂いを吹き払ったのか、あるいは、彼女自身の持つ魔力が減衰したのか、少しだけ頭がはっきりし、体に力が戻ったような気がした。呻き声をもらしながら、衣服をかき集めているスラッティーをよそに、私は転げ落ちるように寝台から降りた。
卓子の上のファバーン剣をつかみ、抜こうとしたが、剣を杖にして立っているのが精一杯だった。
部屋の扉が勢いよく開き、細身の人影が飛び込んできた。黒い布で顔を覆い、帽子を目深に被っている。人影は反り身の短刀をスラッティーに突きつけながら、飛び散った硝子を音を立てて踏みつけ、私の手を取った。
覆面の人影は無言で私の手を引き、戸口に向かった。スラッティーが恐ろしい形相で遮ろうとしたが、破れた窓から飛んできた石礫に打たれて、後退る。
私は手を引かれるままに、よろよろと部屋から出た。狭い廊下の両側に、幾つかの扉が並んでいた。細い影は私の手を引いて廊下を走った。突き当たりは帳場と玄関だった。宿屋らしい。帳場には誰もおらず明かりもなかった。開け放した玄関の扉から、デリン灯の緑色がかった光が差し込んでいた。街のざわめきが聞こえた。
玄関を出ても、私の手を引く人影は足を緩めなかった。ほの暗い小路を抜けて幾度か曲がると、急に大きな通りに出た。真夜中でもラグラン大通りはデリン灯の不滅の明かりに照らされていた。商家は閉まり、鎧戸を降ろしているが、石畳の広い道にはちらほらと人影も見える。千鳥足で歩く者、片寄せあう男女、東部なまりで猥歌を歌う者、飲み過ぎたのか道端で吐いている男もいた。
すぐ前がイヌン川、ヤーマルーマ橋の袂だった。水の音を聞いたような気がしたのは、川の音だったのだ。ヤーマルーマ街の連れ込み宿にいたらしい。
橋の袂で足を止めると、細身の人影は顔を覆っていた黒い布を緩めた。うっすらと雀斑の浮いた小作りの顔が現れた。
「やあ、かたじけない」
エスパンクは眉間にしわを寄せて、私とは目を合わさず、しばらく息を整えていた。
「あんた、何やってるのよ。魔道探偵が聞いて呆れるわ」
「いやあ、面目ないね。おかげで命拾いしたよ。ありがとう」
女探偵は長沓の先で私の脛を蹴った。私はよろけて、石造りの橋の欄干につかまった。
「ふん、お邪魔だったでしょうよ！」
道の向こうで酔っぱらいがこちらを見て、笑い声を上げた。痴話喧嘩でもしていると思ったのだろう。
「よく、場所がわかったね。君はてっきり、ザウスト邸を探っているのかと思っていた」
「ユニオルが、あんたがスラッティーをつけて出し抜くんじゃないかって。それでザウスト邸に行く前に、ユニオルに様子を見にやらせたのよ。そしたら、あんたがあそこに連れ込まれて、危ないって知らせてきて。行ってみたらこの様ね」
「いい相棒を持って、幸せだね。彼にもお礼が言いたいな」
「ユニオルはスラッティーをつけてるはずよ。今度こそ、あの牝狐の尻尾をつかまえてやる」
「今夜は止めておいた方がいい。彼女はきっと機嫌が悪い」
エスパンクは私の顔を睨みつけて、もう一度脛を蹴った。ひどく痛かった。私は剣を杖にしようとしたがうまく行かず、転んだ。
「今夜はあたしも機嫌が悪いのよ！」
今度は夜回りの警邏がこちらを見ていた。女探偵はそれに気づくと、ようやく立ち上がった私の腕を取って、早足で歩き出した。
