サモン街のジャクレン寺院に向かおうと、キーライ川沿いを南に向かっていると、ランガリア橋の辺りに人だかりがしていた。荷を積んだ船が始終行き交うイヌン川とは違って、川幅の狭いキーライ川沿いはさほど繁華なわけではない。河口よりの紅花橋辺りは幾らか船宿も集まってはいるが、ランガリア橋は朽ちかけて危ないという話もあって、人気がそうあるはずもなかった。
だが、今朝はそうではなかった。古い木橋のこちら側の袂に大勢の野次馬、それに十数人の警邏隊がいた。警邏隊は野次馬を追い散らそうとしていたが、なかなかうまくいかないようだった。
黄ばんだ灰色の橋脚には、枯れた水草や上流から流れてきたごみが絡まっていた。その中に、全裸の青白い女の体が浮いていた。体つきからは、まだ若い女のように見えた。女には首がなかった。只の死斑とは違う、黄緑色の奇妙な斑が首から肩、乳房にかけて浮かび上がっている。
痴情のもつれで殺されたどこぞの娼婦だとか、裏切りの見せしめに殺された盗賊の情婦だとか、果ては西の大洋から来た首狩り族の仕業だとか、勝手なことを言いあっている野次馬の間を抜けて、川縁まで出ると、厳つい肩をした男がまるで私を待っていたようにこちらを向いた。痘痕のある四角い顔はいつもと同じように不機嫌そうだった。
「やあ、局長閣下。ご機嫌うるわしゅう。あんまり現場に出向いてると部下に煙たがられるよ」
ノップラントは私の挨拶は無視して、いきなり本題に入った。
「首なし女の死体がこれで三人目だ。お前の好きそうな事件だな。知っていることを話せ」
警邏隊南部局長は、私を押し戻そうとする警邏を指先で制して、濁声でそう言った。
「猟奇の徒というわけじゃないんでね。首のついてる女が好きだな。首だけでもいやだし」
ノップラントは小さな目を細めて、ますます機嫌の悪そうな顔になった。
「お前の女の好みを聞いてるんじゃない。お前はこの事件にかかわっているのか」
「何の関係もない。首なし死体が三人もあがってるなんてことも、今初めて知った。いつからそういうのが流行ってるんだ」
老練の警邏は訝しげな目つきで私を見ながら答えた。
「二月ほどだ。最初は沼地の水草の中で鴨獲りの猟師が見つけた。二人目はエルスコッチの廃寺で、棺桶屋が見つけた。今日で三人目だ」
やはりヨーコックの新聞を読むべきなのかもしれない。雑多な噂話が飛び交う賑やかな酒場にも、このところご無沙汰だった。厭世家では探偵は勤まらないということだろう。
「身元は？」
「わからん。何しろ首がないからな。それに、あの黄緑色の斑点が、見ろ、もう全身を覆っている、あれが広がって直にぐずぐずに崩れてしまう。捜索依頼の出ている金持ちの娘が何人かいるが、確かめることもできない」
川縁では口元を布で覆った数人の警邏が、鉤棒を使って死体を引き寄せていた。確かに黄緑の斑点は最初見たときよりも広がっており、胸の辺りの肌には黒ずんだ穴が幾つか開いていた。只の溺死体とは思えない、異様な甘い臭気が漂っている。
死体の腕をつかんで引き寄せようとした警邏が「うわっ」と声を上げて、尻餅をついた。女の腕は肩口から腐り落ちて千切れていた。
野次馬がいっせいに声を上げて、一歩退き、また前へ出ようとした。
「おい、慎重にやるんだ」
ノップラントの濁声が響いた。
「少しは目星がついてるのかい」
警邏隊南部局長は、しばらく私の質問に答えず、部下の警邏に指示を与えていた。お仕着せの革胴衣ではなく、青い洒落た服を着た無帽の男がやってきて、私の方を胡散くさげに見た後、小声でノップラントに何か報告した。
「いい報せかな」
「本当にいい報せなど、ここ二十年聞いたことがないな。おまえは傴僂男か蜥蜴男に知り合いはいないか」
「生憎と。蛇女なら、昔イオロープで出会ったことはあるが。傴僂男を捜すんなら、鐘突き堂でも当たってみたらどうだ」
「俺には文学趣味はない。ロンチェイの鐘突き男の話など興味はない。首なし死体の現場近くで、怪しい人影が目撃されている。一人目の沼地のときはわからんが、二度目のエルスコッチの廃寺のときは、真夜中に荷車を引いてきた傴僂男を見たという夜鷹がいる。こいつには、蜥蜴のような尻尾があったと夜鷹は言っている。アシュハーに冒されてる女の言うことだから、どこまで信じられるかはわからんが。三度目の今回は、もっとましな話だ。昨日の夜中に、ブリュタイ橋から何か大きなものを投げ落とす音を聞いたという話がある。そのとき、橋から走り去る腰の曲がった影を見たそうだ。尻尾はともかく、背中や腰の曲がった何者かが、この事件に絡んでいるらしい」
「ふむ、まるでアルケム舎の三文小説のようだね」
私は〈赤い扉〉を出た後の一件については黙っていた。ノップラントは、小さな目で私を睨んで、何も言わなかった。
この男と睨めっこは苦手だった。視線をそらすと、野次馬の中につばの短い帽子をかぶった女がいるのに気づいた。
「エスパンクという女の探偵を知ってるかい」
私の視線の先を見やって、ノップラントは少しばかり眉間にしわを寄せた。
「知っているさ。お前、彼女とかかわり合っているのか」
「商売敵というところかな」
「あの娘はこの事件にかかわっているのか」
私は答えるのに一瞬躊躇した。
「何ともいえないな。行方知れずの娘を捜しているらしい」
ノップラントは厳つい肩をすくめて、私の襟首をつかみ、顔を寄せた。やめたはずの噛み煙草の臭いがした。
「やめさせろ」
「何だって」
「どう考えても真っ当な事件じゃない。あの娘の手には負えまい。やめさせるんだ」
「まさかあんたの隠し子だとかいうんじゃないだろうな」
「馬鹿を言え。あの娘の親父に、ちょっとばかり借りがあるだけだ」
「父親は殺されたと聞いたが」
警邏たちはようやく引き上げた女の死体を、布で包んで馬車の荷台に載せた。白っぽい布に濁った黄緑色の染みが浮かんでいた。ノップラントはその様子を見ながら、低い声で言った。
「新聞屋に聞いたのか」
「噂話さ」
「あの娘の親父が殺られるのを俺は防げなかった」
「自分で言ったらどうなんだ」
「あの娘は警邏隊を信用していない。賄賂でももらって、止めにかかっていると思われるのが落ちだろう」
若い警邏が近づいてきて、いささか緊張気味に南部局長に報告した。
「閣下、遺体の引き上げが完了いたしました」
「わかった。エドレール先生はまだか」
「はっ、監察医殿には早馬を送ってありますが……」
その時、黒塗りの馬車が到着し、茶色い大振りの鞄を持った男が降りてきた。痩せて年老いていたが、背筋を伸ばして早足で死体の乗っている荷馬車の方へ向かった。
「医者にも知り合いは多いのか」
「糞ったれの監察医殿だけで十分だ。昼前に呼び出すと機嫌が悪い。おまけにいつもひと言多い」
「そうか」
監察医は引き上げられた死体の上にかがみ込み、しばらく診ていたが、やがてこちらへやってきた。尖った鼻に灰色の鋭い目をした男だった。薄い髪を丁寧に後ろに撫で付けていた。白い手袋には黄緑色の汚液がついていた。
「南部局長、残念ながら腐敗が速すぎる。もっと早く私を呼びにくることはできなかったのか」
ノップラントは一瞬、意外そうな表情を露にしたが、すぐにいつもの仏頂面に隠し込んだ。
「エドレール先生、一番の早馬を飛ばしましたよ」
「そうか。局長、これは奇異な事件だ。ただの殺人ではない。あの黄緑色の斑点、あんなものは見たことがない。何か未知の薬で死体を処理しようとしたのかもしれない」
エドレールという医者はその時初めて私に気づいたようで、私とノップラントの顔を交互に見た。
「スナブ・ランケンという探偵です。まあ、信頼していい男です」
ノップラントが渋々という口調で私を紹介した。
「ほう、君が。君は魔術がらみの奇怪な事件に詳しいというが、どうかね、こんな死体を見たことはあるかね」
「ありませんね、エドレール先生」
「そうか。局長、死体を私の病院に運ばせてくれ。よく調べてみたい」
ノップラントはまず警邏隊に運ぶのが規則だと言ったが、監察医は腐敗が進行するからと言って、聞き入れなかった。ノップラントは渋面で承諾した。
幌付きの馬車が動きだし、野次馬も徐々に散り始めていた。人ごみに紛れてエスパンクも姿を消そうとしていた。
私がその場を去ろうとすると、ノップラントはもう一声かけてきた。
「さっきの件、頼んだぞ」
私は肩をすくめて応えた。ノップラントは真っ当な男だが、警邏隊と約束を交わすほど、私は馬鹿正直な人間ではなかった。
だが、今朝はそうではなかった。古い木橋のこちら側の袂に大勢の野次馬、それに十数人の警邏隊がいた。警邏隊は野次馬を追い散らそうとしていたが、なかなかうまくいかないようだった。
黄ばんだ灰色の橋脚には、枯れた水草や上流から流れてきたごみが絡まっていた。その中に、全裸の青白い女の体が浮いていた。体つきからは、まだ若い女のように見えた。女には首がなかった。只の死斑とは違う、黄緑色の奇妙な斑が首から肩、乳房にかけて浮かび上がっている。
痴情のもつれで殺されたどこぞの娼婦だとか、裏切りの見せしめに殺された盗賊の情婦だとか、果ては西の大洋から来た首狩り族の仕業だとか、勝手なことを言いあっている野次馬の間を抜けて、川縁まで出ると、厳つい肩をした男がまるで私を待っていたようにこちらを向いた。痘痕のある四角い顔はいつもと同じように不機嫌そうだった。
「やあ、局長閣下。ご機嫌うるわしゅう。あんまり現場に出向いてると部下に煙たがられるよ」
ノップラントは私の挨拶は無視して、いきなり本題に入った。
「首なし女の死体がこれで三人目だ。お前の好きそうな事件だな。知っていることを話せ」
警邏隊南部局長は、私を押し戻そうとする警邏を指先で制して、濁声でそう言った。
「猟奇の徒というわけじゃないんでね。首のついてる女が好きだな。首だけでもいやだし」
ノップラントは小さな目を細めて、ますます機嫌の悪そうな顔になった。
「お前の女の好みを聞いてるんじゃない。お前はこの事件にかかわっているのか」
「何の関係もない。首なし死体が三人もあがってるなんてことも、今初めて知った。いつからそういうのが流行ってるんだ」
老練の警邏は訝しげな目つきで私を見ながら答えた。
「二月ほどだ。最初は沼地の水草の中で鴨獲りの猟師が見つけた。二人目はエルスコッチの廃寺で、棺桶屋が見つけた。今日で三人目だ」
やはりヨーコックの新聞を読むべきなのかもしれない。雑多な噂話が飛び交う賑やかな酒場にも、このところご無沙汰だった。厭世家では探偵は勤まらないということだろう。
「身元は？」
「わからん。何しろ首がないからな。それに、あの黄緑色の斑点が、見ろ、もう全身を覆っている、あれが広がって直にぐずぐずに崩れてしまう。捜索依頼の出ている金持ちの娘が何人かいるが、確かめることもできない」
川縁では口元を布で覆った数人の警邏が、鉤棒を使って死体を引き寄せていた。確かに黄緑の斑点は最初見たときよりも広がっており、胸の辺りの肌には黒ずんだ穴が幾つか開いていた。只の溺死体とは思えない、異様な甘い臭気が漂っている。
死体の腕をつかんで引き寄せようとした警邏が「うわっ」と声を上げて、尻餅をついた。女の腕は肩口から腐り落ちて千切れていた。
野次馬がいっせいに声を上げて、一歩退き、また前へ出ようとした。
「おい、慎重にやるんだ」
ノップラントの濁声が響いた。
「少しは目星がついてるのかい」
警邏隊南部局長は、しばらく私の質問に答えず、部下の警邏に指示を与えていた。お仕着せの革胴衣ではなく、青い洒落た服を着た無帽の男がやってきて、私の方を胡散くさげに見た後、小声でノップラントに何か報告した。
「いい報せかな」
「本当にいい報せなど、ここ二十年聞いたことがないな。おまえは傴僂男か蜥蜴男に知り合いはいないか」
「生憎と。蛇女なら、昔イオロープで出会ったことはあるが。傴僂男を捜すんなら、鐘突き堂でも当たってみたらどうだ」
「俺には文学趣味はない。ロンチェイの鐘突き男の話など興味はない。首なし死体の現場近くで、怪しい人影が目撃されている。一人目の沼地のときはわからんが、二度目のエルスコッチの廃寺のときは、真夜中に荷車を引いてきた傴僂男を見たという夜鷹がいる。こいつには、蜥蜴のような尻尾があったと夜鷹は言っている。アシュハーに冒されてる女の言うことだから、どこまで信じられるかはわからんが。三度目の今回は、もっとましな話だ。昨日の夜中に、ブリュタイ橋から何か大きなものを投げ落とす音を聞いたという話がある。そのとき、橋から走り去る腰の曲がった影を見たそうだ。尻尾はともかく、背中や腰の曲がった何者かが、この事件に絡んでいるらしい」
「ふむ、まるでアルケム舎の三文小説のようだね」
私は〈赤い扉〉を出た後の一件については黙っていた。ノップラントは、小さな目で私を睨んで、何も言わなかった。
この男と睨めっこは苦手だった。視線をそらすと、野次馬の中につばの短い帽子をかぶった女がいるのに気づいた。
「エスパンクという女の探偵を知ってるかい」
私の視線の先を見やって、ノップラントは少しばかり眉間にしわを寄せた。
「知っているさ。お前、彼女とかかわり合っているのか」
「商売敵というところかな」
「あの娘はこの事件にかかわっているのか」
私は答えるのに一瞬躊躇した。
「何ともいえないな。行方知れずの娘を捜しているらしい」
ノップラントは厳つい肩をすくめて、私の襟首をつかみ、顔を寄せた。やめたはずの噛み煙草の臭いがした。
「やめさせろ」
「何だって」
「どう考えても真っ当な事件じゃない。あの娘の手には負えまい。やめさせるんだ」
「まさかあんたの隠し子だとかいうんじゃないだろうな」
「馬鹿を言え。あの娘の親父に、ちょっとばかり借りがあるだけだ」
「父親は殺されたと聞いたが」
警邏たちはようやく引き上げた女の死体を、布で包んで馬車の荷台に載せた。白っぽい布に濁った黄緑色の染みが浮かんでいた。ノップラントはその様子を見ながら、低い声で言った。
「新聞屋に聞いたのか」
「噂話さ」
「あの娘の親父が殺られるのを俺は防げなかった」
「自分で言ったらどうなんだ」
「あの娘は警邏隊を信用していない。賄賂でももらって、止めにかかっていると思われるのが落ちだろう」
若い警邏が近づいてきて、いささか緊張気味に南部局長に報告した。
「閣下、遺体の引き上げが完了いたしました」
「わかった。エドレール先生はまだか」
「はっ、監察医殿には早馬を送ってありますが……」
その時、黒塗りの馬車が到着し、茶色い大振りの鞄を持った男が降りてきた。痩せて年老いていたが、背筋を伸ばして早足で死体の乗っている荷馬車の方へ向かった。
「医者にも知り合いは多いのか」
「糞ったれの監察医殿だけで十分だ。昼前に呼び出すと機嫌が悪い。おまけにいつもひと言多い」
「そうか」
監察医は引き上げられた死体の上にかがみ込み、しばらく診ていたが、やがてこちらへやってきた。尖った鼻に灰色の鋭い目をした男だった。薄い髪を丁寧に後ろに撫で付けていた。白い手袋には黄緑色の汚液がついていた。
「南部局長、残念ながら腐敗が速すぎる。もっと早く私を呼びにくることはできなかったのか」
ノップラントは一瞬、意外そうな表情を露にしたが、すぐにいつもの仏頂面に隠し込んだ。
「エドレール先生、一番の早馬を飛ばしましたよ」
「そうか。局長、これは奇異な事件だ。ただの殺人ではない。あの黄緑色の斑点、あんなものは見たことがない。何か未知の薬で死体を処理しようとしたのかもしれない」
エドレールという医者はその時初めて私に気づいたようで、私とノップラントの顔を交互に見た。
「スナブ・ランケンという探偵です。まあ、信頼していい男です」
ノップラントが渋々という口調で私を紹介した。
「ほう、君が。君は魔術がらみの奇怪な事件に詳しいというが、どうかね、こんな死体を見たことはあるかね」
「ありませんね、エドレール先生」
「そうか。局長、死体を私の病院に運ばせてくれ。よく調べてみたい」
ノップラントはまず警邏隊に運ぶのが規則だと言ったが、監察医は腐敗が進行するからと言って、聞き入れなかった。ノップラントは渋面で承諾した。
幌付きの馬車が動きだし、野次馬も徐々に散り始めていた。人ごみに紛れてエスパンクも姿を消そうとしていた。
私がその場を去ろうとすると、ノップラントはもう一声かけてきた。
「さっきの件、頼んだぞ」
私は肩をすくめて応えた。ノップラントは真っ当な男だが、警邏隊と約束を交わすほど、私は馬鹿正直な人間ではなかった。
