スラッティーが〈赤い扉〉を出たのは、真夜中過ぎだった。上弦の月が家並の黒い影の上に鋭い刃物のように突き刺さっていた。
クラーシャ街もさすがに人通りが少ない時間だ。夜明けまでやっている店もあるから、まったく人気が途絶えるということはないのだが、それでも、千鳥足の酔漢や片寄せ合う男女が時折石畳に長い影を落とすくらい。デリン灯の緑色がかった明かりが、冷たく街路を照らしていた。
〈赤い扉〉の前で、しばらく取り巻きたちと歓談していた彼女は、意外にも一人で歩き出した。かなり飲んでいたように見えたが、足取りはしっかりしていた。黒い踵の高い靴が、石畳に固い靴音をたてた。
私は彼女が少し路を行ったところで、身を隠していた路地から出ようとしていた。だが、私より一足早く、別の路地から出てきた者がいた。
尻までの短い引き回しをまとった細身の男だ。中背だがぴったりした洋袴をはいた足はやけに細い。短いつばのついた平たい帽子をかぶっている。鼻から口にかけて黒い布を巻いていて、顔立ちはわからない。細身の男は、明らかにスラッティーをつけようとしていた。
私は仕方なく、細身の男の後ろから歩き出した。前を行く男の尾行はあまりうまいとは言えなかった。距離が近すぎるし、路地や看板に身を隠そうとする動きが大きすぎて、かえって目立っていた。足音も大きすぎる。
スラッティーはクラーシャ街の表通りを早足で歩いていたが、しばらくすると気配に気づいたらしく後ろを振り返った。細身の男は不器用に横道に身を隠そうとしたが、スラッティーは気づいたらしい。そのまま進むと見せて、反対側の路地に飛び込んだ。
細身の男は追って駆け出した。私は一本手前の路地に入り、走った。スラッティーが入った路地につながる小路があったはずだ。
二十歩ほど走ってお目当ての角を曲がった。誰かが立ち小便をしたらしい臭いがした。小便臭い路地を抜け出すと、細身の黒い影と鉢合わせした。
短い叫び声をあげて、細身の影は路に転がった。足が絡んで私も転んだ。
立ち上がると、スラッティーが路地の先を駆けていくのが見えた。路地の先も十字路だった。右手から急に二輪馬車が現れ、御者がスラッティーを引っ張り上げた。奥の本通りのデリン灯に照らされた御者の影は、老人か傴僂のように背が丸まって見えた。
走り寄ると、御者が何かをこちらに投げつけた。とっさに身をかわしたが、短剣が飛んできたわけではなかった。代わりに奇妙に甘い匂いがした。馬車の影が朧に歪み、蹄の音も車輪の音も、ひどく遠くから聞こえるような気がした。
何か怪しげな薬をまいたらしい。私は鼻と口を手で覆い、来た道を引き返した。路地の出口では、細身の男が頭を振って立ち上がったところだった。
「あんた、あの女の仲間ね！」
女の声がそう叫んだ。細身の影は右手に反り身の短刀を握りしめていた。
十字路の真ん中に出てくると、デリン灯の光が影の姿を照らし出した。つばの短い帽子をかぶった女は、顔を覆った黒い布をもどかしそうに引きはがした。小作りの、どこか少年のような面影のある美しい顔立ちだった。髪は短く刈っているのか、帽子の中に結い上げているのか。
細身の洋袴は膝下まで、その下の細い脛は長沓に覆われている。白い衿なしの襯衣に黒っぽい胴衣を着ている。短い引き回しは暗くてよく見えないが、鳶色の格子縞のようだ。
「おいおい、勘弁してくれ。僕は多分、君と同じことをしていただけさ。もっとも、君がその物騒なものをあの女相手に使おうとしていたというんなら、別だが」
「世迷い言はよして、覚悟しな！」
女は短刀を振りかざし飛びかかってきた。尾行よりはこちらの方が上手そうだった。デリン灯の光にぎらっと光った切っ先を避け、手首を打とうとしたが、うまくかわされて、次の手で胸を斬られそうになった。もう甘い匂いはしなかったが、御者がまいた薬がまだ効いているのかもしれない。
飛び退って距離を稼ぎ、私はファバーン剣を抜いた。妖魅の存在を示す刀身の神秘文字は光ってはいなかったが、デリン灯の明かりを受けて暗い緑色に浮かんで見えた。
「あんた！ あんた、スナブ・ランケンね！ その剣がファバーン剣なのね！ そうでしょ！」
女は構えを崩し、刃を下げた。私はその下がった右手を峰で打ち、短刀をはじき飛ばし、腕を捻り上げた。
「痛い！ 何すんのよ！ あたしは同業者よ、女探偵エスパンクを知らないの！」
「知らないね。世事には疎いんだ。今、斬りつけようとしていた相手に、そんなに簡単に気を抜くようでは、この稼業は続かない。いや、君の命が続くまい」
「大きなお世話よ！」
その時、何かが空を切る音がした。頭を下げたが間に合わなかった。石礫らしきものが後頭部を打った。痛みに手が緩んだ隙に女探偵とやらは、私から逃れて短刀を手にした。また空を切る音がして、第二、第三の石礫が飛んできた。右に左にかわすうちに、もう一つの黒い影が現れ、エスパンクに寄り添うように立った。
「ユニオル、子どもの夜歩きは駄目じゃない」
ユニオルと呼ばれたもう一人の影は、女探偵よりも小柄でほっそりとしていた。こちらは大きな衿のついた白い襯衣に赤い胴衣、膝下までの洋袴は緑色だった。金色の巻き毛の下は白皙の美貌、どうやら少年のようだ。
「若い女の夜歩きも駄目ですよ、姐さん。僕がついててよかったでしょう」
まだ声変わりしたばかりのような声が、生意気そうに言った。手には短剣が握られている。子どもにしては、随分と刃物が手に馴染んでいるように見えた。
「ふん、まあ仕方ないわね。スナブ・ランケン、今夜はここまでにしておきましょう。でも、あんたがいかに大都随一の魔道探偵でも、あたしの仕事の邪魔はさせないわ」
女探偵は勝手に会見を終わりにするつもりのようだった。どうもつきあい難い女だ。
「君たちの仕事の邪魔をするつもりはないよ。ただ、僕は僕の仕事をするだけだ」
「あんたより先に、あの女の悪事の尻尾をつかんでみせるわ！」
女探偵と少年は、暗い路地の向こうへ姿を消した。スラッティーは侯爵と家名に傷をつけること以外にも、何か「悪事」に身を染めているのだろうか。少なくともエスパンクはそう考えているらしかった。
クラーシャ街もさすがに人通りが少ない時間だ。夜明けまでやっている店もあるから、まったく人気が途絶えるということはないのだが、それでも、千鳥足の酔漢や片寄せ合う男女が時折石畳に長い影を落とすくらい。デリン灯の緑色がかった明かりが、冷たく街路を照らしていた。
〈赤い扉〉の前で、しばらく取り巻きたちと歓談していた彼女は、意外にも一人で歩き出した。かなり飲んでいたように見えたが、足取りはしっかりしていた。黒い踵の高い靴が、石畳に固い靴音をたてた。
私は彼女が少し路を行ったところで、身を隠していた路地から出ようとしていた。だが、私より一足早く、別の路地から出てきた者がいた。
尻までの短い引き回しをまとった細身の男だ。中背だがぴったりした洋袴をはいた足はやけに細い。短いつばのついた平たい帽子をかぶっている。鼻から口にかけて黒い布を巻いていて、顔立ちはわからない。細身の男は、明らかにスラッティーをつけようとしていた。
私は仕方なく、細身の男の後ろから歩き出した。前を行く男の尾行はあまりうまいとは言えなかった。距離が近すぎるし、路地や看板に身を隠そうとする動きが大きすぎて、かえって目立っていた。足音も大きすぎる。
スラッティーはクラーシャ街の表通りを早足で歩いていたが、しばらくすると気配に気づいたらしく後ろを振り返った。細身の男は不器用に横道に身を隠そうとしたが、スラッティーは気づいたらしい。そのまま進むと見せて、反対側の路地に飛び込んだ。
細身の男は追って駆け出した。私は一本手前の路地に入り、走った。スラッティーが入った路地につながる小路があったはずだ。
二十歩ほど走ってお目当ての角を曲がった。誰かが立ち小便をしたらしい臭いがした。小便臭い路地を抜け出すと、細身の黒い影と鉢合わせした。
短い叫び声をあげて、細身の影は路に転がった。足が絡んで私も転んだ。
立ち上がると、スラッティーが路地の先を駆けていくのが見えた。路地の先も十字路だった。右手から急に二輪馬車が現れ、御者がスラッティーを引っ張り上げた。奥の本通りのデリン灯に照らされた御者の影は、老人か傴僂のように背が丸まって見えた。
走り寄ると、御者が何かをこちらに投げつけた。とっさに身をかわしたが、短剣が飛んできたわけではなかった。代わりに奇妙に甘い匂いがした。馬車の影が朧に歪み、蹄の音も車輪の音も、ひどく遠くから聞こえるような気がした。
何か怪しげな薬をまいたらしい。私は鼻と口を手で覆い、来た道を引き返した。路地の出口では、細身の男が頭を振って立ち上がったところだった。
「あんた、あの女の仲間ね！」
女の声がそう叫んだ。細身の影は右手に反り身の短刀を握りしめていた。
十字路の真ん中に出てくると、デリン灯の光が影の姿を照らし出した。つばの短い帽子をかぶった女は、顔を覆った黒い布をもどかしそうに引きはがした。小作りの、どこか少年のような面影のある美しい顔立ちだった。髪は短く刈っているのか、帽子の中に結い上げているのか。
細身の洋袴は膝下まで、その下の細い脛は長沓に覆われている。白い衿なしの襯衣に黒っぽい胴衣を着ている。短い引き回しは暗くてよく見えないが、鳶色の格子縞のようだ。
「おいおい、勘弁してくれ。僕は多分、君と同じことをしていただけさ。もっとも、君がその物騒なものをあの女相手に使おうとしていたというんなら、別だが」
「世迷い言はよして、覚悟しな！」
女は短刀を振りかざし飛びかかってきた。尾行よりはこちらの方が上手そうだった。デリン灯の光にぎらっと光った切っ先を避け、手首を打とうとしたが、うまくかわされて、次の手で胸を斬られそうになった。もう甘い匂いはしなかったが、御者がまいた薬がまだ効いているのかもしれない。
飛び退って距離を稼ぎ、私はファバーン剣を抜いた。妖魅の存在を示す刀身の神秘文字は光ってはいなかったが、デリン灯の明かりを受けて暗い緑色に浮かんで見えた。
「あんた！ あんた、スナブ・ランケンね！ その剣がファバーン剣なのね！ そうでしょ！」
女は構えを崩し、刃を下げた。私はその下がった右手を峰で打ち、短刀をはじき飛ばし、腕を捻り上げた。
「痛い！ 何すんのよ！ あたしは同業者よ、女探偵エスパンクを知らないの！」
「知らないね。世事には疎いんだ。今、斬りつけようとしていた相手に、そんなに簡単に気を抜くようでは、この稼業は続かない。いや、君の命が続くまい」
「大きなお世話よ！」
その時、何かが空を切る音がした。頭を下げたが間に合わなかった。石礫らしきものが後頭部を打った。痛みに手が緩んだ隙に女探偵とやらは、私から逃れて短刀を手にした。また空を切る音がして、第二、第三の石礫が飛んできた。右に左にかわすうちに、もう一つの黒い影が現れ、エスパンクに寄り添うように立った。
「ユニオル、子どもの夜歩きは駄目じゃない」
ユニオルと呼ばれたもう一人の影は、女探偵よりも小柄でほっそりとしていた。こちらは大きな衿のついた白い襯衣に赤い胴衣、膝下までの洋袴は緑色だった。金色の巻き毛の下は白皙の美貌、どうやら少年のようだ。
「若い女の夜歩きも駄目ですよ、姐さん。僕がついててよかったでしょう」
まだ声変わりしたばかりのような声が、生意気そうに言った。手には短剣が握られている。子どもにしては、随分と刃物が手に馴染んでいるように見えた。
「ふん、まあ仕方ないわね。スナブ・ランケン、今夜はここまでにしておきましょう。でも、あんたがいかに大都随一の魔道探偵でも、あたしの仕事の邪魔はさせないわ」
女探偵は勝手に会見を終わりにするつもりのようだった。どうもつきあい難い女だ。
「君たちの仕事の邪魔をするつもりはないよ。ただ、僕は僕の仕事をするだけだ」
「あんたより先に、あの女の悪事の尻尾をつかんでみせるわ！」
女探偵と少年は、暗い路地の向こうへ姿を消した。スラッティーは侯爵と家名に傷をつけること以外にも、何か「悪事」に身を染めているのだろうか。少なくともエスパンクはそう考えているらしかった。
