「誰かの気配がすると思っていた。名前を聞いても言うわけはないだろうね」
黒尽くめの男は、口元の吐いたものを手で拭った。黒い手袋についた染みが気になるようだった。あまり日を浴びたことがないような青白い顔をしていた。視線がまだ泳いでいる。口の端に深いしわがあったが、歳はまだ若いようだ。暗殺士としては、駆け出しなのか、腕が今ひとつなのか。
「誰の差し金だと聞くのも野暮だろうね。オルトーリアは誰を殺すつもりだったんだ。自分の愛娘か、僕か、いや、この場にいる者を全員殺せということか」
黒衣の男は私がしゃべっている間に少しだけ自分を取り戻したようだった。
「ここは、化け物屋敷か！ 貴様がスナブ・ランケンだな。誰だろうと、皆殺しだ！」
暗殺士は細身の剣を構え直し、必殺の気迫で襲いかかろうとした。
「警邏隊だ！ 誰も動くな！」
ノップラントの濁声が扉の向こうから響いた。階段を駆け下りてくる、幾つもの足音が聞こえた。暗殺士は凍りついたように動きを止めた。
ヴェイストはそんなことにはお構いなしに、スラッティーの首を愛撫し続けていた。血と黄緑の汚汁にまみれた彼女の首は、もはや誰のものなのか、よくわからなかった。
「姐さん！ あっ、姐さん！」
真っ先に飛び込んできたのはユニオルだった。少年は全裸で横たわる女探偵に抱きつき、名を呼び、揺さぶり続けた。
「……ユニオル……あたし……」
エスパンクはかろうじて目覚めたが、まわりの様子はよくわからないようだった。私は血まみれの外套を脱いで、ユニオルに放った。少年はそれを彼女の体にかけた。
ユニオルの後から地下室に入ってきた警邏が口元を押さえて、呻いた。部屋の中はひどい有様だった。床にはばらばらになった奇怪な死体が転がり、いまだに肉色の泡を噴きながら蠢いている。奥では全身から桃色の触腕を生やした怪物が、女の生首を抱えて、嗚咽していた。その脇に横たわっている首なしの女体は、黄緑色と紫色の斑模様を白い肌に浮かべ、腐り果てようとしていた。
黒尽くめの男は、細身の剣を自分の喉に当てようとしたが、何人もの警邏に押さえ込まれた。それほど、本気ではなかったのかもしれない。
「暗殺士か。おい、絶対に自害などさせるなよ。猿ぐつわをきつく噛ませるんだ。とことん事情を話してもらうぞ」
ノップラントは大声で部下にそう命じると、私の隣に来て小声で言った。
「おい、あの化け物はどうしたらいいんだ」
「さてね、まずは医者を呼ぶことだろう」
ノップラントは、監察医のエドレールを呼ぶように命じたが、ヴェイストはその到着前に死んだ。スラッティーの生首を抱きしめたまま、全身から血と黄緑色の液体を垂れ流して動かなくなった。床の上に転がっていた彼とトラズィールの断片も動かなくなった。
スラッティーとヴェイストとトラズィールの死体は、どれも皆、急速に腐敗してぐずぐずの腐肉の塊のようになった。警邏たちは、地下室から運び出すのに、ひどく苦労するはめになった。
私はユニオルと一緒にエスパンクの体を抱えて、階上に連れ出した。エスパンクはまた意識を失い倒れてしまったので、警邏隊が馬車に乗せて病院に運んだ。ユニオルも一緒についていった。
屋敷の庭に出て、夜気にふれると、少しはましな気分になった。私は叢の中の庭石に腰を下ろして、右往左往する警邏たちをぼんやりと眺めていた。
ノップラントが私の脇に立ち、叢に唾を吐いて言った。
「あの娘を止められなかったのか」
私はあの娘というのが、誰をさすのか、一瞬理解できず、答えられなかった。
「あの娘は無事なんだろうな！」
ノップラントは語気を強め、ようやく私はエスパンクの話をしているのだと、気づいた。スラッティーのことであるわけがない。
「ああ、眠り薬みたいなものを嗅がされただけさ。嫌なものも見ていないだろう」
「そうか」
ノップラントは少し語調を弱めた。
「あの暗殺士は何だ。誰が誰を殺すために雇ったんだ」
「僕を馘にした代わりにオルトーリア侯爵が雇ったんだろう。家の恥になる娘には生きていてほしくないんだろうよ」
私はノップラントに事件の成り行きについて話した。
「オルトーリアの娘は首を括ったが死にきれず、あの化け物医者が他の女の体を首につないで“治療”した。だが、体は時間が経つと腐ってしまう。それで、背格好の似た女をたらし込んで、その体を奪った。そういう気狂いじみたことがこの屋敷で行われたと言うんだな」
練達の警邏は、痘痕面に苦々しい表情を浮かべて、私の話を繰り返した。
「首なしの死体は、お前がばらした怪物が捨てたって言うのか」
「おそらくはね。用済みの死体の処理に困ったんだろう。不死身の体は持っていても、あまり思慮深い奴ではなさそうだ」
「奴は蜥蜴と人間の合の子なのか」
「ヴェイストはナクシャッツに行っていたことがあるらしい。蜥蜴の尻尾は切っても生えてくるだろう。密林王国には、その手の生き物がたくさんいる。そこいら辺からあの黄緑色の霊薬を作り出したのかもしれない」
「蜥蜴の血でも飲めば、手足が生え変わるようになるって言うのか。首だけでも死なないようになるのか。あの化け物医者は魔道士か！」
ノップラントは不愉快そうに吐き捨てた。地下室で光ったファバーン剣の神秘文字が頭の中に浮かんだ。
「さてね。医者と魔術師はナクシャッツ辺りでは、あまり違いのない言葉だ。ヴェイストが自分でどう考えていたのかは知らないがね」
一人の警邏が、ザウスト邸の玄関から走り出てきた。
「局長閣下！ 監察医殿が、監察医殿が！」
「エドレール先生がどうしたって言うんだ。夜更けに呼び出したから、手当を出せとか言っているのか」
警邏は荒い息を吐きながら、答えた。
「監察医殿が、地下室に火を放ちました！」
ノップラントは何も言わずに屋敷の方を振り返った。薄白い煙が玄関から立ち上っているようだった。焦げ臭いにおいも漂ってきた。
「馬鹿な！ 火を消せ！ 誰か消防隊に馬を走らせろ！」
ノップラントは矢継ぎ早に指示を出した。その間にも火の手は地下から地上に上がり、ザウスト邸は炎に包まれた。
「いい加減にしてくれ！ エドレール、エドレールはどこだ！ 監察医であろうとも、火付けは死罪だぞ！」
火の手の上がるザウストの屋敷の方から、黒い痩せた影が近づいてきた。
「私はここだよ、南部局長。仕方がないのだ。あの霊薬は世に出ない方がよい」
エドレールは穏やかといってもよい、妙に落ち着いた表情だった。鉄色の瞳が火明かりを映して光っていた。
「よく燃える。あの薬はよく燃える。これですべてが灰になるだろう」
「エドレール先生！ 何ということを！ 地下室にはこの事件の……」
エドレールは細いが強い声でノップラントの言葉を遮った。
「南部局長、君の言いたいことはわかる。しかし、この世には誰にも知られずに葬られた方がよいこともある。警邏隊が地下室を調べれば、そこで発見されたことはいずれ世に広がるだろう。死者を蘇生させる霊薬、死すべき者が生きながらえる術が、世に広まることになろう。
「幸いなことに、キーライ川で上がった死体からは、たいしたことはわからなかった。だが、あの薬の秘密を知れば、私自身も試したいという気持ちを抑えることができなくなるかもしれない。警邏隊の死体安置所から、誰かの体を盗み出してしまうかもしれない」
エドレールという医者は、そこで言葉を切り、窓から火を噴き出している屋敷を見つめた。あの、火の手の上がっている窓は、スラッティーの本当の体が置かれていた部屋のあたりだろうか。
消防隊の馬車が到着し、喞筒を動かす男たちのかけ声や水の音が炎のあげる音に混じって聞こえだした。近隣の住人たちが集まり始めていた。野次馬根性というものは、アイトーネ街の住人でも変わらないものらしい。
ノップラントは忙しそうだったし、私にはこれ以上話すことはなかった。燃えるザウスト邸を背にして、私は夜道を歩き出した。
黒尽くめの男は、口元の吐いたものを手で拭った。黒い手袋についた染みが気になるようだった。あまり日を浴びたことがないような青白い顔をしていた。視線がまだ泳いでいる。口の端に深いしわがあったが、歳はまだ若いようだ。暗殺士としては、駆け出しなのか、腕が今ひとつなのか。
「誰の差し金だと聞くのも野暮だろうね。オルトーリアは誰を殺すつもりだったんだ。自分の愛娘か、僕か、いや、この場にいる者を全員殺せということか」
黒衣の男は私がしゃべっている間に少しだけ自分を取り戻したようだった。
「ここは、化け物屋敷か！ 貴様がスナブ・ランケンだな。誰だろうと、皆殺しだ！」
暗殺士は細身の剣を構え直し、必殺の気迫で襲いかかろうとした。
「警邏隊だ！ 誰も動くな！」
ノップラントの濁声が扉の向こうから響いた。階段を駆け下りてくる、幾つもの足音が聞こえた。暗殺士は凍りついたように動きを止めた。
ヴェイストはそんなことにはお構いなしに、スラッティーの首を愛撫し続けていた。血と黄緑の汚汁にまみれた彼女の首は、もはや誰のものなのか、よくわからなかった。
「姐さん！ あっ、姐さん！」
真っ先に飛び込んできたのはユニオルだった。少年は全裸で横たわる女探偵に抱きつき、名を呼び、揺さぶり続けた。
「……ユニオル……あたし……」
エスパンクはかろうじて目覚めたが、まわりの様子はよくわからないようだった。私は血まみれの外套を脱いで、ユニオルに放った。少年はそれを彼女の体にかけた。
ユニオルの後から地下室に入ってきた警邏が口元を押さえて、呻いた。部屋の中はひどい有様だった。床にはばらばらになった奇怪な死体が転がり、いまだに肉色の泡を噴きながら蠢いている。奥では全身から桃色の触腕を生やした怪物が、女の生首を抱えて、嗚咽していた。その脇に横たわっている首なしの女体は、黄緑色と紫色の斑模様を白い肌に浮かべ、腐り果てようとしていた。
黒尽くめの男は、細身の剣を自分の喉に当てようとしたが、何人もの警邏に押さえ込まれた。それほど、本気ではなかったのかもしれない。
「暗殺士か。おい、絶対に自害などさせるなよ。猿ぐつわをきつく噛ませるんだ。とことん事情を話してもらうぞ」
ノップラントは大声で部下にそう命じると、私の隣に来て小声で言った。
「おい、あの化け物はどうしたらいいんだ」
「さてね、まずは医者を呼ぶことだろう」
ノップラントは、監察医のエドレールを呼ぶように命じたが、ヴェイストはその到着前に死んだ。スラッティーの生首を抱きしめたまま、全身から血と黄緑色の液体を垂れ流して動かなくなった。床の上に転がっていた彼とトラズィールの断片も動かなくなった。
スラッティーとヴェイストとトラズィールの死体は、どれも皆、急速に腐敗してぐずぐずの腐肉の塊のようになった。警邏たちは、地下室から運び出すのに、ひどく苦労するはめになった。
私はユニオルと一緒にエスパンクの体を抱えて、階上に連れ出した。エスパンクはまた意識を失い倒れてしまったので、警邏隊が馬車に乗せて病院に運んだ。ユニオルも一緒についていった。
屋敷の庭に出て、夜気にふれると、少しはましな気分になった。私は叢の中の庭石に腰を下ろして、右往左往する警邏たちをぼんやりと眺めていた。
ノップラントが私の脇に立ち、叢に唾を吐いて言った。
「あの娘を止められなかったのか」
私はあの娘というのが、誰をさすのか、一瞬理解できず、答えられなかった。
「あの娘は無事なんだろうな！」
ノップラントは語気を強め、ようやく私はエスパンクの話をしているのだと、気づいた。スラッティーのことであるわけがない。
「ああ、眠り薬みたいなものを嗅がされただけさ。嫌なものも見ていないだろう」
「そうか」
ノップラントは少し語調を弱めた。
「あの暗殺士は何だ。誰が誰を殺すために雇ったんだ」
「僕を馘にした代わりにオルトーリア侯爵が雇ったんだろう。家の恥になる娘には生きていてほしくないんだろうよ」
私はノップラントに事件の成り行きについて話した。
「オルトーリアの娘は首を括ったが死にきれず、あの化け物医者が他の女の体を首につないで“治療”した。だが、体は時間が経つと腐ってしまう。それで、背格好の似た女をたらし込んで、その体を奪った。そういう気狂いじみたことがこの屋敷で行われたと言うんだな」
練達の警邏は、痘痕面に苦々しい表情を浮かべて、私の話を繰り返した。
「首なしの死体は、お前がばらした怪物が捨てたって言うのか」
「おそらくはね。用済みの死体の処理に困ったんだろう。不死身の体は持っていても、あまり思慮深い奴ではなさそうだ」
「奴は蜥蜴と人間の合の子なのか」
「ヴェイストはナクシャッツに行っていたことがあるらしい。蜥蜴の尻尾は切っても生えてくるだろう。密林王国には、その手の生き物がたくさんいる。そこいら辺からあの黄緑色の霊薬を作り出したのかもしれない」
「蜥蜴の血でも飲めば、手足が生え変わるようになるって言うのか。首だけでも死なないようになるのか。あの化け物医者は魔道士か！」
ノップラントは不愉快そうに吐き捨てた。地下室で光ったファバーン剣の神秘文字が頭の中に浮かんだ。
「さてね。医者と魔術師はナクシャッツ辺りでは、あまり違いのない言葉だ。ヴェイストが自分でどう考えていたのかは知らないがね」
一人の警邏が、ザウスト邸の玄関から走り出てきた。
「局長閣下！ 監察医殿が、監察医殿が！」
「エドレール先生がどうしたって言うんだ。夜更けに呼び出したから、手当を出せとか言っているのか」
警邏は荒い息を吐きながら、答えた。
「監察医殿が、地下室に火を放ちました！」
ノップラントは何も言わずに屋敷の方を振り返った。薄白い煙が玄関から立ち上っているようだった。焦げ臭いにおいも漂ってきた。
「馬鹿な！ 火を消せ！ 誰か消防隊に馬を走らせろ！」
ノップラントは矢継ぎ早に指示を出した。その間にも火の手は地下から地上に上がり、ザウスト邸は炎に包まれた。
「いい加減にしてくれ！ エドレール、エドレールはどこだ！ 監察医であろうとも、火付けは死罪だぞ！」
火の手の上がるザウストの屋敷の方から、黒い痩せた影が近づいてきた。
「私はここだよ、南部局長。仕方がないのだ。あの霊薬は世に出ない方がよい」
エドレールは穏やかといってもよい、妙に落ち着いた表情だった。鉄色の瞳が火明かりを映して光っていた。
「よく燃える。あの薬はよく燃える。これですべてが灰になるだろう」
「エドレール先生！ 何ということを！ 地下室にはこの事件の……」
エドレールは細いが強い声でノップラントの言葉を遮った。
「南部局長、君の言いたいことはわかる。しかし、この世には誰にも知られずに葬られた方がよいこともある。警邏隊が地下室を調べれば、そこで発見されたことはいずれ世に広がるだろう。死者を蘇生させる霊薬、死すべき者が生きながらえる術が、世に広まることになろう。
「幸いなことに、キーライ川で上がった死体からは、たいしたことはわからなかった。だが、あの薬の秘密を知れば、私自身も試したいという気持ちを抑えることができなくなるかもしれない。警邏隊の死体安置所から、誰かの体を盗み出してしまうかもしれない」
エドレールという医者は、そこで言葉を切り、窓から火を噴き出している屋敷を見つめた。あの、火の手の上がっている窓は、スラッティーの本当の体が置かれていた部屋のあたりだろうか。
消防隊の馬車が到着し、喞筒を動かす男たちのかけ声や水の音が炎のあげる音に混じって聞こえだした。近隣の住人たちが集まり始めていた。野次馬根性というものは、アイトーネ街の住人でも変わらないものらしい。
ノップラントは忙しそうだったし、私にはこれ以上話すことはなかった。燃えるザウスト邸を背にして、私は夜道を歩き出した。
