ザウストの屋敷は真っ暗だった。もちろん青銅の門扉には錠前がかかっていた。私は腰帯から鉤縄を外して、石塀の向こうに放り投げた。塀の上部の出っ張りにうまく引っかかった。ユニオルほど身軽ではないが、何とかはなった。
塀の向こう側は叢だった。御典医が主の頃はご立派な庭園だったのだろうが、息子には庭いじりの趣味はなさそうだった。月明かりで見た限りでは、ザウスト邸は石造りの陰気な家だった。傾きの急な三角の切妻屋根が十文字に組み合わされたような形をしている。玄関には片持ちの小屋根が突き出していた。
周囲を回ると、裏手の部屋の窓からわずかな明かりが漏れていた。裏口の扉を試したが、鍵がかかっていた。厩には一頭の馬がいて、すぐ前に例の二輪馬車が置いてあった。
玄関に戻り、扉に手をかけてみた。鍵がかかっていなかった。ひどく急いでいたのだろうか。エスパンクの首がまだつながっているか、急に心配になった。
私はファバーン剣を抜いた。刀身の神秘文字は微かな緑の光を放っている。掌にはわずかにしびれるような感触があった。
玄関の広間を通り抜け、廊下を奥の方へ進んだ。家の中には薬の臭いが染み付いているようだった。例の甘い匂いも微かにするような気がした。廊下の左右には幾つかの扉が並んでいた。裏手から見えた明かりは、廊下の突き当たりの蝋燭のもののようだ。
ふと、誰かの気配を感じた。左手の部屋の扉がわずかに開いていた。私は扉に身を隠しながら、中に入った。
窓掛けの隙間から月明かりが差し込んでいた。部屋には誰もいないようだった。窓を背にして大きな書き物机があり、分厚い本や巻物が幾つも置かれていた。部屋の隅には標本らしい一体の骸骨が吊るされて立っていた。
その前に黒っぽい織物で覆われた大きな箱のようなものが置かれていた。ちょうど棺桶くらいの大きさだった。この部屋に入ってから、ファバーン文字の輝きが幾らか増したような気がしていた。棺のようなものに近づくと、手に伝わる感覚が強まった。私はそっと織物を除けてみた。
黄緑色の光が現れた。厚い布地で覆われたその箱は、発光する黄緑の液体で満たされていた。蓋には大きく窓が切ってあり、硝子板がはめ込まれていた。
硝子張りの棺には、黄緑色の光る液体に浸されて、全裸の女の体が入っていた。白い肌の、手足がすんなりときれいにのびた若く美しい女だった。女には首がなかった。切り口はわずかに紫がかり、その周辺だけ黄緑色の斑点が少しだけ浮き出ていた。
誰の体なのかはわからない。エスパンクだろうか。彼女の裸身を拝んだことはないが、女探偵にしては、少々肉付きが良すぎるようだった。金貸しの娘が行方知れずになったという話は聞いていなかった。
私は掛け布をそっと戻して部屋を出た。廊下の突き当たりの蝋燭がわずかに揺らいだような気がした。
突き当たりの右側に階段があった。地下室に通じているようだった。私は階段を下りた。地下は煉瓦の壁で覆われていた。右手に頑丈そうな扉があった。鍵はかかっていなかった。私は扉に耳を押し当てて、中の気配をうかがった。誰かの声が聞こえた。少なくとも二人はいて、会話を交わしているようだった。会話の中身までは聞き取れなかった。
私は少しだけ扉を押し開けた。部屋の中には黄緑色の光が見えた。医者が着るような白衣を着た男が歩き回っているのがちらりと見えた。話していることも聞こえた。
「無茶なことはよせ。そのランケンとかいうもう一人の探偵はどうするつもりなんだ」
男の声は苛立っていた。
「あなたの有能な下男に任せるわ。不死身なんでしょう、彼」
スラッティーの声だった。投げ遣りと軽蔑が入り交じっているように聞こえた。
「それより、早くしてよ。もう、この体は持たないわ。ほら、見て、緑色の斑模様が見えるでしょう。こんな体じゃ男も女も抱けないわ」
「スラーシャ、もう少し大切に使えば、体はもっと長持ちする」
「あなたにお説教される云われはないのよ、フェルトーヴ、いんちき医者のバルターフ・ヴェイストと呼んだ方がいいの？ 私はあなたの貴重な生ける実験台なのよ。その黄緑色の霊薬を私で試すことができて、うれしくないの？ 命を救ってくれたことは感謝しているわ。でも、あなたはピュローヴを見捨てたでしょう。私、覚えているのよ。霊薬で意識が蘇ったときに、あなたがあの蜥蜴と話しているのを。男の方は助けるつもりはない。貧民墓地にでも埋めてしまえと言っていたでしょう！」
しばらく沈黙があったが、次の言葉を発したのもスラッティーだった。
「あなたはピュローヴを殺したのよ。でも、おかげで私を手に入れた。ずっと恋い焦がれていたんでしょう、あの舞踏会の夜から。トリプロ街の酒場で会った時は驚いたわ。あの気弱そうな男の子が、怪しい若返りの薬なんか売っているんですもの。
「良かったでしょう、私を手に入れたんですもの。元の体も、今の体も、次の体もあなたのものよ。この女探偵、なかなかきれいな体をしているわ。金貸しの娘より、ずっといいわよ、きっと。さあ、新しい体であなたを抱いてあげるわ」
私は扉をもう少しだけ開いて、部屋の中の様子をうかがった。煉瓦の壁で囲まれた部屋には、簡素な寝台が二つ並んでおり、一つには全裸の女が横たわっていた。顔までは見えなかったが、エスパンクなのだろう。薬が効いているのか、まったく動かない。もう一つの寝台は空だった。
壁際には幾つもの棚があり、薬の入っているらしい硝子壜や鉢、何に使うのかわからない銀色の様々な器具、分厚い本や綴じられた紙束などが並んでいた。二イート（約六十センチ）四方ほどの水槽も置かれ、その中では黄緑色の光る薬液が小さな泡を立てていた。
黒い袖無し外套を羽織ったスラッティーの姿が見えた。外套の前ははだけており、彼女はその下に銀の首飾り以外は何も身に付けていなかった。彼女の言う緑色の斑模様はよくわからなかった。
スラッティーの前には、白衣を着た背の低い男の姿があった。鉄縁の丸い眼鏡をかけており、額が随分と広く、飛び出して見える。頬がこけ、青白い肌をしていた。特異な容貌のせいで、年齢がよくわからないが、まだ若いようにも見えた。白衣には褐色の染みと黄緑色の染みが幾つもついていた。
眼鏡の男は何度かため息をついて、「愛しているよ、スラーシャ」と言った。
「その名前はやめて。私は〈ふしだらなスラッティー〉なのよ。趣味は人狩り。あなたも御典医の息子フェルトーヴ・ヴェス・ザウストでは、もうないでしょう。トリプロ街の偽医者バルターフ・ヴェイスト、死体泥棒の気狂い医者だわ。あなたも私も人殺しよ！ なんてお似合いの二人なのかしらね」
スラッティーは低い声でおぞましい笑い声を上げた。地下室の中でその声は無限に響き渡って、大きくなっていくようだった。エスパンクが気を失っているのは、幸いだったかもしれない。
女の笑い声は、鋭い殴打の音で止められた。ヴェイストはスラッティーの頬を平手で何度も叩いた。
「やめて！ やめてよ！ 首がもげちゃうじゃない！」
スラッティーは金切り声を上げ、鼻からはどす黒い血が噴き出した。その血は、イヌン川川端の連れ込み宿で見たように、奇怪な輝きを放っていた。
ヴェイストは肩で息をして、女を殴る手を止めると二三歩下がり、先刻までは打って変わった冷酷な口調で女に命じた。
「さっさと脱いで横になるんだ。首飾りも早く外せ。どれくらい首が腐っているのか、見てやろう」
スラッティーは急に大人しくなり、涙をぼろぼろ流しながら、黒い外套を脱ぎ捨てた。頬には涙で落ちた化粧が黒い筋を作った。それから、奇妙な恥じらうような仕草で、銀と真珠の首飾りを外して、寝台の上に置いた。首飾りで覆われていたところ、首と胴のつなぎ目には、赤紫の傷跡があった。縫い合わせた跡もくっきりと見えた。黄緑色の不気味な染みが、つなぎ目の上下の肌にはっきり現れていた。
「そこで、回ってみるんだ。どれくらい、君の体が腐っているのか調べなくちゃね」
最後の方は、気分の悪くなるような猫撫で声だった。スラッティーは全裸のまま、ゆっくりとその場で一回転した。ヴェイストは、間近に寄って、女の体を撫で回しながら、文字通り嘗めるように裸体を観察した。
「ふむ、言っただろう、使い過ぎはよくないって。相手が女でも男でも同じさ。興奮状態が続くと、崩壊が速く進むんだ。ふしだらなことばかりしているから、こうなるのさ」
ヴェイストは女の股間に手を差し入れて、かき回すような仕草をした。
「ほら、糸を引いてるぞ。ここが一番腐ってるよ」
スラッティーは啜り泣きの合間に生臭い喘ぎ声をあげた。ヴェイストは女の股間に差し込んでいた右手をあげて、スラッティーの首の傷跡を撫で回した。ぬらぬらとした光は黄緑色を帯びているように見えた。
眼鏡の男は正体をなくしたようなスラッティーを空いている寝台に横たえた。それから、また深いため息をついた。
ヴェイストは棚から大振りの硝子の注射器を取り出した。薬棚から黄緑色の燐光を放つ薬液の入った硝子壜を選び取り、中身を吸い上げた。そして、注射器を持ってエスパンクの横たわる寝台に近づいた。
「これで君はスラーシャになる。この君の体がスラーシャの体だ。僕の恋人だよ」
ヴェイストは右手で注射器を持ったまま、左手でエスパンクの乳房をこねるように弄んだ。口元に歪んだ笑いが浮かんでいた。
私は扉を蹴り開けて、部屋の中に飛び込んだ。
「見世物はそこまでだね。こんなに下品じゃ興醒めというものだ」
私はファバーン剣の切っ先をヴェイストに突きつけ、横たわるエスパンクとの間に割って入った。ヴェイストは度の強い眼鏡の下の目を異様なほど大きく見開き、広い額に汗を滲ませながら後退った。
「はは、はは、何だ君は。ここは御典医ヴェス・ザウストの屋敷だぞ。はは、はは、今、大事な治療の最中なんだ。こんなことをして……」
私は彼の言葉の後を強引に引き取った。
「こんなことをしていたんでは、絞首刑だろうね。自分が首縊りになったんでは、後をどうにかしてくれる奴がいるまい。それに、御典医殿は辞めてすぐ死んだんだろう。親父がそんなに嫌いだったのかい」
私の台詞の後ろ半分は只のはったりだったが、眼鏡の青年は雷に打たれたかのように身を引きつらせた。
「トラズィール！ トラズィール！ お前の出番だ！」
気狂い染みた大声で、ヴェイストは叫んだ。彼の背後では、スラッティーが半身を起し、私の方を見た。突然、彼女は自分が全裸であることを思い出したらしく、重たげな乳房を両の手で覆った。白い肩のあたりには、わずかに緑色がかった大きな斑点が見えた。
「スナブ・ランケン！ やっぱり現れたわね。今度こそ、私のものにしてあげるわ」
スラッティーは寝台から滑るように降りると、棚から白い粉の入った壜を取り、中身をぶちまけた。濃厚な甘ったるい匂いが立ち上った。一瞬、額のあたりが異様に重くなり、体から力が抜けそうになったが、そこまでだった。耳の中でアムアッサの囁き声が聞こえたような気がした。視界がはっきりし、手足はまた自分のものとなった。
「生憎だね。今はそんな気分じゃないのさ」
私は峰打ちでヴェイストの持つ注射器を叩き落とそうとしたが、剣を握った右腕を何者かの手がつかんだ。その手は異様に節くれ立ち、緑色の細かな鱗のようなものに覆われていた。振り向くと、青黒い丸い目をした男がいた。頭巾付きの外套は着ておらず、おぞましい姿がはっきりと見えた。
横幅の広い頭には髪は一筋もなく、緑色の鱗が覆っていた。口は耳まで裂け、異様に引き延ばされた桃色の唇の裏から、鋸状の歯がのぞいている。耳朶はほとんど無いに等しく、鱗のある頭部の横に開いた穴のようだった。鼻も縦に長い二つの穴だ。大小の疣が顔から頭にかけて、幾つもある。
顎の下から喉にかけての肌は滑りを帯びて白い。その白い喉首を、赤紫色の盛り上がった傷跡が首輪のように取り巻いていた。スラッティーの傷とは違って、縫い合わせた痕跡はないようだった。
薄汚れた灰色の服を着ていたが、大きく曲がった背中は布地が裂けており、そこから鋸歯状の背びれが飛び出している。元の色がよくわからない黒ずんだ洋袴の尻からは、驚くべきことに緑と赤の斑模様の尻尾が生えていた。
正しく蜥蜴と人間の合の子としか形容し難い怪人だった。
「トラズィール！ そいつを殺せ！ 貪り食ってしまえ！」
ヴェイストが硝子玉の奥の目を血走らせて、叫んだ。蜥蜴男は私の喉笛を噛み千切ろうと大きく口を開いた。私は只の穴のようになった奴の鼻のあたりを左手で殴りつけた。鼻の穴から赤い血を噴き出して、奴は私の右手を離した。噴き出した血にはスラッティーのものと同じような奇怪な煌めきがあった。
「殺して！ トラズィール、殺して！」
今度はスラッティーが引きつった声でそう言った。蜥蜴男は鼻孔から流れる血を、妙に人間くさい仕草で拭い、鱗の生えた指で腰帯から短剣を引き抜いた。
トラズィールという名の怪物は、恐ろしい速さで短剣を突き入れてきた。間一髪でよけたが、腰がエスパンクの横たわっている寝台に当たって、よろけた。一瞬の隙を突いて、トラズィールは次の一撃を加えてくる。私はファバンーン剣で奴の刃を受け、返す刀で鱗の生えた右手首に斬りつけた。
手応えがあって、奴の右手は短剣を握ったまま、宙を舞った。人間のものとは思えない悲鳴があがった。
蜥蜴男の手首からは銀色の煌めきを持った鮮血が噴き出した。だが、見る間にその血は奇妙に粘っこい泡状のものとなった。さらには燐光を放つ黄緑色の液体がじわじわと流れ出してくる。
「はは、はは、見ろ！ 私の研究の成果を！ 見ろ！ トラズィールは不死だ！」
傷口から噴き出すねばねばとした赤い泡と黄緑色の液体は混ざり合い、粘土の塊のようになってのびていく。見る見るうちにそれは五本の指を備えた歪んだ手の形を取り始めた。
「見ろ！ 私の霊薬の力を！ 私は生命創造の神秘に触れたのだ！」
ヴェイストは注射器を振り回しながら、自分の研究成果に陶酔して絶叫した。
私は手裏剣を投げた。肩を狙ったつもりだったが外れて、左胸に突き刺さった。
ヴェイストは自分の胸に突き立っている刃物を眼鏡の奥の血走った目で見つめた。
異様な吠え声とともに、蜥蜴男が飛びかかってきた。再生した右手にはすでに緑色の鱗が生えかけていた。私はファバーン剣を奴の肩口に叩き込んだ。
太古の魔剣は怪物の胸のあたりまで食い込み、奇怪な煌めきを持つ血が噴き出した。刀身のファバーン文字がその血の中で緑色の光を放っている。
トラズィールは耳まで裂けた口から、ごぼごぼと血の泡を噴き出しながらも、両の手で私の首を絞めようとする。鱗の生えた細長い指が恐ろしい力で喉を押しつぶそうとする。剣が骨に食い込んだのか、動かない。傷口からは粘つく泡となった血と黄緑色の液汁が膿のように流れ出し、裂けた肉と皮膚を塞ごうとしている。
私は一か八かトラズィールの股間を思い切り蹴り上げた。蛙の声のような悲鳴があがり、首を締め上げる指の力が弱まった。私は剣から手を離し、奴の両腕をはねのけると、もう一度蹴りつけた。蜥蜴男はファバーン剣を胸に突き刺したまま仰向けに倒れた。
私は奴の腹に足をかけて、剣を引き抜いた。半ば肉となった泡立つ粘土のようなものが、糸を引いて刀身に絡み付いた。
傷跡のある首に斬りつけ、そのまま首を切断した。銀粉をまぶしたような赤い血が勢いよく噴き出した。切り離されても、青黒い目玉はぐるぐると動き、大きな口が陸に揚げられた魚のように閉じたり開いたりした。腕も足も糸の絡んだ操り人形のように、蠢いている。
私は蜥蜴男の解体にとりかかった。左右の腕を切断し、両足も斬り落とした。それでもばらばらになった体の各部は、引きつり、のたうち、傷口からは奇怪な血と黄緑の汁が滴り泡立っていた。私はばらばらになった四肢が泡立つ肉芽でつながりそうな気がして、十分離れたところまで手足と首を蹴り飛ばした。
「どうかね、その霊薬はこれでも効くのかい？」
ヴェイストは薬品棚にもたれて、かろうじて立っていた。胸の傷口から流れる血が白衣を朱に染めていたが、そこには銀の煌めきは見えなかった。
「貴様、貴様……よくも……私の研究成果を……」
ヴェイストはごぼごぼと血の泡を吹きながら、恨み言を口にしたが、血の泡には特段の粘り気はないようだった。
スラッティーの甲高い笑い声が地下室に響き渡った。
「あら、フェルトーヴ、あなたは自分にはその霊薬を試してなかったの？ ああ、とんだお笑い種ね。私やトラズィールの体では、さんざん試したくせに。自分に注射するのは恐かったの？ ああ、素晴らしい愛情ね、フェルトーブ」
スラッティーは全裸のままヴェイスト＝フェルトーヴの側により、手裏剣の突き刺さったままの胸をなでさすったり、血まみれで震えている彼の唇に口づけをしたりした。
「ああ、可哀想なフェルトーヴ、でも、あなたは私を蘇らせてくれたわ、首だけの化け物として。あなたは幸せだったでしょう。こうして、私を手に入れることができたのよ。ほら、私をさわって。馴染んだ頃には体は腐っていくわ。でも、その頃が一番いいのよ。ほら、もう蕩けそうだわ」
スラッティーは裸身を瀕死の男にすり寄せ、注射器を持つ手を自分の股間に導こうとした。
ヴェイストは血だらけの顎を不自然に動かし、何か呻いていたが、聞き取ることはできなかった。彼はスラッティーの手を振りほどくようにして、注射器を自分の左胸に突き刺した。震える手で黄緑色の光る霊薬を自分の胸に注射した。
ヴェイストの体は雷に打たれたかのように、激しく痙攣した。口から鼻から耳から目から、どくどくと血が流れ出した。その血は銀粉をまぶしたかのように光っていた。
狂気じみたスラッティーの笑い声が谺する。
「ああ、そうよ、フェルトーヴ、そうよ、あなたの霊薬があなたを救うのよ！ あなたも不死になるのよ！ 私と同じ化け物に！」
スラッティーは全身をがくがくと震わせる男を抱きしめ、胸に刺さった手裏剣を引き抜いた。傷口から噴き出した鮮血と黄緑色の液体は、瞬時に合一し、粘つく肉の塊となった。
同じ現象がヴェイストの体中で起こった。眼球が飛び出し眼鏡が吹き飛んだ。飛び出した目玉は桃色の捩じれた肉の枝の先端できょろきょろとあたりを見回した。口から噴き出した血と黄緑の液汁は飛び出した舌と一体化して、腕ほどの太さのある触手のようなものとなった。顎から外れた歯がその触手の先端で新たな口を作った。
白衣のあちこちが突き出し、破れて、毒々しい桃色の肉錐が飛び出した。スラッティーはその勢いでヴェイストの体から弾き飛ばされた。
体中から数イートの肉色の泡立つ触腕を生やした姿となったヴェイストは、よろめく足取りで、こちらに迫ってきた。床の上には、蜥蜴男のまだ動いている首が転がっていた。足から生えた触腕がその首に触れると、ヴェイストはそれを拾い上げて、胸のあたりに押し付けた。すると胸の傷口から生えた触腕がトラズィールの首に巻き付き、融合した。ヴェイストは胸に彼の研究成果を一体化して、私に近づいてきた。
体中から突き出した肉の触腕がぶるぶると震え、枝分かれしながら、こちらに向かってきた。私は剣を振り回して襲ってくる奇怪なものを斬り払った。燐光を放つ血と黄緑の液体をまき散らして、何本もの触腕が飛ぶ。床に落ちたそれは、瀕死の蛇のようにのたうち、幾つかは泡を噴き出しながら融合して蠢いた。
痛みの感覚はあるらしかった。ヴェイストだった怪物は、でたらめに歯のついた口から苦悶の叫びをあげて後ずさった。胸に斜めに付いた蜥蜴男の巨大な口もかすれたような叫び声をあげた。その首が融合した胸板のあたりには、緑色の鱗が広がり始めていた。
床に倒れていたスラッティーが、怪物と化した男を指差し、耳障りな笑い声をあげた。
「あーら、素敵だわ！ 随分と男前になったじゃないの。それなら舞踏会でもさぞかしご令嬢方の注目を集められるわ！」
スラッティーの笑い声には、ひどく刺があり、どうやらヴェイストだったものも私と同感のようだった。もはや奇怪な増殖する肉の塊の姿となったそれは、床の上で全裸で笑い転げる、彼の“恋人”に向き直り、首を傾げるような仕草をした。胸に付いているとラズィールの首も同じように動く様は、滑稽と言ってよいかのどうか、よくわからなかった。
怪物はスラッティーににじり寄ると、その裸体の上に覆いかぶさろうとした。
「何よ！ そんなになっても、私が欲しいの！ そんなに私が恋しいの！ そうよね、だから、ピュローヴを見殺しにしたんだわ！ あなたがピュローヴを殺したのよ！ 私のピュローヴを！」
スラッティーの声はもはや絶叫だった。彼女はヴェイストだったものを蹴飛ばし、逃れようとした。怪物は少しばかりよろけたが、何本も生えた触腕が宙をのびて、彼女の裸身に巻き付いた。
ファバーン剣をふるえば、化け物と化したヴェイストを倒すことができるのかもしれない。スラッティーを救うことができるのかもしれない。唯一の医者を失った彼女が生きながらえることができるのかは、わからないが。
だが、私は何もしなかった。これは彼女と彼の問題なのだ。私には出る幕はない。
肉色の触腕はずるずるとスラッティーの白い体に巻き付いた。いや、それは彼女の体ではない。〈赤い扉〉にいた金貸しの娘のものだろうか、それともエスパンクが捜していたキナラサという女のものだろうか。
「ヴェイスト、いいわ、もっと絞めて……これで、いいわ。これで、いいのよ。もっと、もっと……首が千切れるくらい……」
桃色の肉の腕に首を絞めつけられたスラッティーは、途切れ途切れにそんな言葉を吐き出した。死の恍惚の声だった。
ヴェイストの本来の腕がスラッティーの首に輪を作った。指が白い喉に沈んだ。赤紫色の傷跡がくっきりと浮かび上がり、そこから赤い血と黄緑の液汁が滲み始めた。
スラッティーは快楽に酔った喘ぎ声をあげ、借り物の白い裸身を淫らがましく、くねらせた。両の腕と太腿を、ヴェイストの奇怪な体に絡みつかせ、腰をすりつけるように動かした。
ヴェイストの体のあちこちで、肉芽が大きな泡のように膨らみ、弾けた。鮮血と黄緑色の膿が噴き出した。歪んだ腕に力が込もり、スラッティーの悶える声がかすれて聞こえなくなった。
肉が千切れる鈍い音がして、ヴェイストの指が根元までスラッティーの首にめり込んだ。鮮血とともに黄緑の液体が噴き出し、銀色の煌めきが霧のように彼女の首のまわりを包んだ。
ヴェイストは千切れた恋人の首をつかみあげた。赤と黄緑の入り交じった汚液がだらだらと滴り落ちる。飛び出した眼球がその青白い顔を見つめた。表裏が裏返ったような口が、その唇に口づけた。胸のあたりで蜥蜴男の首が不満げな唸り声をあげた。
背後で呻き声が聞こえた。振り向くと細身の剣を握った黒尽くめの男が、覆面をはぎ取って、胃の腑の中のものを吐き出していた。
塀の向こう側は叢だった。御典医が主の頃はご立派な庭園だったのだろうが、息子には庭いじりの趣味はなさそうだった。月明かりで見た限りでは、ザウスト邸は石造りの陰気な家だった。傾きの急な三角の切妻屋根が十文字に組み合わされたような形をしている。玄関には片持ちの小屋根が突き出していた。
周囲を回ると、裏手の部屋の窓からわずかな明かりが漏れていた。裏口の扉を試したが、鍵がかかっていた。厩には一頭の馬がいて、すぐ前に例の二輪馬車が置いてあった。
玄関に戻り、扉に手をかけてみた。鍵がかかっていなかった。ひどく急いでいたのだろうか。エスパンクの首がまだつながっているか、急に心配になった。
私はファバーン剣を抜いた。刀身の神秘文字は微かな緑の光を放っている。掌にはわずかにしびれるような感触があった。
玄関の広間を通り抜け、廊下を奥の方へ進んだ。家の中には薬の臭いが染み付いているようだった。例の甘い匂いも微かにするような気がした。廊下の左右には幾つかの扉が並んでいた。裏手から見えた明かりは、廊下の突き当たりの蝋燭のもののようだ。
ふと、誰かの気配を感じた。左手の部屋の扉がわずかに開いていた。私は扉に身を隠しながら、中に入った。
窓掛けの隙間から月明かりが差し込んでいた。部屋には誰もいないようだった。窓を背にして大きな書き物机があり、分厚い本や巻物が幾つも置かれていた。部屋の隅には標本らしい一体の骸骨が吊るされて立っていた。
その前に黒っぽい織物で覆われた大きな箱のようなものが置かれていた。ちょうど棺桶くらいの大きさだった。この部屋に入ってから、ファバーン文字の輝きが幾らか増したような気がしていた。棺のようなものに近づくと、手に伝わる感覚が強まった。私はそっと織物を除けてみた。
黄緑色の光が現れた。厚い布地で覆われたその箱は、発光する黄緑の液体で満たされていた。蓋には大きく窓が切ってあり、硝子板がはめ込まれていた。
硝子張りの棺には、黄緑色の光る液体に浸されて、全裸の女の体が入っていた。白い肌の、手足がすんなりときれいにのびた若く美しい女だった。女には首がなかった。切り口はわずかに紫がかり、その周辺だけ黄緑色の斑点が少しだけ浮き出ていた。
誰の体なのかはわからない。エスパンクだろうか。彼女の裸身を拝んだことはないが、女探偵にしては、少々肉付きが良すぎるようだった。金貸しの娘が行方知れずになったという話は聞いていなかった。
私は掛け布をそっと戻して部屋を出た。廊下の突き当たりの蝋燭がわずかに揺らいだような気がした。
突き当たりの右側に階段があった。地下室に通じているようだった。私は階段を下りた。地下は煉瓦の壁で覆われていた。右手に頑丈そうな扉があった。鍵はかかっていなかった。私は扉に耳を押し当てて、中の気配をうかがった。誰かの声が聞こえた。少なくとも二人はいて、会話を交わしているようだった。会話の中身までは聞き取れなかった。
私は少しだけ扉を押し開けた。部屋の中には黄緑色の光が見えた。医者が着るような白衣を着た男が歩き回っているのがちらりと見えた。話していることも聞こえた。
「無茶なことはよせ。そのランケンとかいうもう一人の探偵はどうするつもりなんだ」
男の声は苛立っていた。
「あなたの有能な下男に任せるわ。不死身なんでしょう、彼」
スラッティーの声だった。投げ遣りと軽蔑が入り交じっているように聞こえた。
「それより、早くしてよ。もう、この体は持たないわ。ほら、見て、緑色の斑模様が見えるでしょう。こんな体じゃ男も女も抱けないわ」
「スラーシャ、もう少し大切に使えば、体はもっと長持ちする」
「あなたにお説教される云われはないのよ、フェルトーヴ、いんちき医者のバルターフ・ヴェイストと呼んだ方がいいの？ 私はあなたの貴重な生ける実験台なのよ。その黄緑色の霊薬を私で試すことができて、うれしくないの？ 命を救ってくれたことは感謝しているわ。でも、あなたはピュローヴを見捨てたでしょう。私、覚えているのよ。霊薬で意識が蘇ったときに、あなたがあの蜥蜴と話しているのを。男の方は助けるつもりはない。貧民墓地にでも埋めてしまえと言っていたでしょう！」
しばらく沈黙があったが、次の言葉を発したのもスラッティーだった。
「あなたはピュローヴを殺したのよ。でも、おかげで私を手に入れた。ずっと恋い焦がれていたんでしょう、あの舞踏会の夜から。トリプロ街の酒場で会った時は驚いたわ。あの気弱そうな男の子が、怪しい若返りの薬なんか売っているんですもの。
「良かったでしょう、私を手に入れたんですもの。元の体も、今の体も、次の体もあなたのものよ。この女探偵、なかなかきれいな体をしているわ。金貸しの娘より、ずっといいわよ、きっと。さあ、新しい体であなたを抱いてあげるわ」
私は扉をもう少しだけ開いて、部屋の中の様子をうかがった。煉瓦の壁で囲まれた部屋には、簡素な寝台が二つ並んでおり、一つには全裸の女が横たわっていた。顔までは見えなかったが、エスパンクなのだろう。薬が効いているのか、まったく動かない。もう一つの寝台は空だった。
壁際には幾つもの棚があり、薬の入っているらしい硝子壜や鉢、何に使うのかわからない銀色の様々な器具、分厚い本や綴じられた紙束などが並んでいた。二イート（約六十センチ）四方ほどの水槽も置かれ、その中では黄緑色の光る薬液が小さな泡を立てていた。
黒い袖無し外套を羽織ったスラッティーの姿が見えた。外套の前ははだけており、彼女はその下に銀の首飾り以外は何も身に付けていなかった。彼女の言う緑色の斑模様はよくわからなかった。
スラッティーの前には、白衣を着た背の低い男の姿があった。鉄縁の丸い眼鏡をかけており、額が随分と広く、飛び出して見える。頬がこけ、青白い肌をしていた。特異な容貌のせいで、年齢がよくわからないが、まだ若いようにも見えた。白衣には褐色の染みと黄緑色の染みが幾つもついていた。
眼鏡の男は何度かため息をついて、「愛しているよ、スラーシャ」と言った。
「その名前はやめて。私は〈ふしだらなスラッティー〉なのよ。趣味は人狩り。あなたも御典医の息子フェルトーヴ・ヴェス・ザウストでは、もうないでしょう。トリプロ街の偽医者バルターフ・ヴェイスト、死体泥棒の気狂い医者だわ。あなたも私も人殺しよ！ なんてお似合いの二人なのかしらね」
スラッティーは低い声でおぞましい笑い声を上げた。地下室の中でその声は無限に響き渡って、大きくなっていくようだった。エスパンクが気を失っているのは、幸いだったかもしれない。
女の笑い声は、鋭い殴打の音で止められた。ヴェイストはスラッティーの頬を平手で何度も叩いた。
「やめて！ やめてよ！ 首がもげちゃうじゃない！」
スラッティーは金切り声を上げ、鼻からはどす黒い血が噴き出した。その血は、イヌン川川端の連れ込み宿で見たように、奇怪な輝きを放っていた。
ヴェイストは肩で息をして、女を殴る手を止めると二三歩下がり、先刻までは打って変わった冷酷な口調で女に命じた。
「さっさと脱いで横になるんだ。首飾りも早く外せ。どれくらい首が腐っているのか、見てやろう」
スラッティーは急に大人しくなり、涙をぼろぼろ流しながら、黒い外套を脱ぎ捨てた。頬には涙で落ちた化粧が黒い筋を作った。それから、奇妙な恥じらうような仕草で、銀と真珠の首飾りを外して、寝台の上に置いた。首飾りで覆われていたところ、首と胴のつなぎ目には、赤紫の傷跡があった。縫い合わせた跡もくっきりと見えた。黄緑色の不気味な染みが、つなぎ目の上下の肌にはっきり現れていた。
「そこで、回ってみるんだ。どれくらい、君の体が腐っているのか調べなくちゃね」
最後の方は、気分の悪くなるような猫撫で声だった。スラッティーは全裸のまま、ゆっくりとその場で一回転した。ヴェイストは、間近に寄って、女の体を撫で回しながら、文字通り嘗めるように裸体を観察した。
「ふむ、言っただろう、使い過ぎはよくないって。相手が女でも男でも同じさ。興奮状態が続くと、崩壊が速く進むんだ。ふしだらなことばかりしているから、こうなるのさ」
ヴェイストは女の股間に手を差し入れて、かき回すような仕草をした。
「ほら、糸を引いてるぞ。ここが一番腐ってるよ」
スラッティーは啜り泣きの合間に生臭い喘ぎ声をあげた。ヴェイストは女の股間に差し込んでいた右手をあげて、スラッティーの首の傷跡を撫で回した。ぬらぬらとした光は黄緑色を帯びているように見えた。
眼鏡の男は正体をなくしたようなスラッティーを空いている寝台に横たえた。それから、また深いため息をついた。
ヴェイストは棚から大振りの硝子の注射器を取り出した。薬棚から黄緑色の燐光を放つ薬液の入った硝子壜を選び取り、中身を吸い上げた。そして、注射器を持ってエスパンクの横たわる寝台に近づいた。
「これで君はスラーシャになる。この君の体がスラーシャの体だ。僕の恋人だよ」
ヴェイストは右手で注射器を持ったまま、左手でエスパンクの乳房をこねるように弄んだ。口元に歪んだ笑いが浮かんでいた。
私は扉を蹴り開けて、部屋の中に飛び込んだ。
「見世物はそこまでだね。こんなに下品じゃ興醒めというものだ」
私はファバーン剣の切っ先をヴェイストに突きつけ、横たわるエスパンクとの間に割って入った。ヴェイストは度の強い眼鏡の下の目を異様なほど大きく見開き、広い額に汗を滲ませながら後退った。
「はは、はは、何だ君は。ここは御典医ヴェス・ザウストの屋敷だぞ。はは、はは、今、大事な治療の最中なんだ。こんなことをして……」
私は彼の言葉の後を強引に引き取った。
「こんなことをしていたんでは、絞首刑だろうね。自分が首縊りになったんでは、後をどうにかしてくれる奴がいるまい。それに、御典医殿は辞めてすぐ死んだんだろう。親父がそんなに嫌いだったのかい」
私の台詞の後ろ半分は只のはったりだったが、眼鏡の青年は雷に打たれたかのように身を引きつらせた。
「トラズィール！ トラズィール！ お前の出番だ！」
気狂い染みた大声で、ヴェイストは叫んだ。彼の背後では、スラッティーが半身を起し、私の方を見た。突然、彼女は自分が全裸であることを思い出したらしく、重たげな乳房を両の手で覆った。白い肩のあたりには、わずかに緑色がかった大きな斑点が見えた。
「スナブ・ランケン！ やっぱり現れたわね。今度こそ、私のものにしてあげるわ」
スラッティーは寝台から滑るように降りると、棚から白い粉の入った壜を取り、中身をぶちまけた。濃厚な甘ったるい匂いが立ち上った。一瞬、額のあたりが異様に重くなり、体から力が抜けそうになったが、そこまでだった。耳の中でアムアッサの囁き声が聞こえたような気がした。視界がはっきりし、手足はまた自分のものとなった。
「生憎だね。今はそんな気分じゃないのさ」
私は峰打ちでヴェイストの持つ注射器を叩き落とそうとしたが、剣を握った右腕を何者かの手がつかんだ。その手は異様に節くれ立ち、緑色の細かな鱗のようなものに覆われていた。振り向くと、青黒い丸い目をした男がいた。頭巾付きの外套は着ておらず、おぞましい姿がはっきりと見えた。
横幅の広い頭には髪は一筋もなく、緑色の鱗が覆っていた。口は耳まで裂け、異様に引き延ばされた桃色の唇の裏から、鋸状の歯がのぞいている。耳朶はほとんど無いに等しく、鱗のある頭部の横に開いた穴のようだった。鼻も縦に長い二つの穴だ。大小の疣が顔から頭にかけて、幾つもある。
顎の下から喉にかけての肌は滑りを帯びて白い。その白い喉首を、赤紫色の盛り上がった傷跡が首輪のように取り巻いていた。スラッティーの傷とは違って、縫い合わせた痕跡はないようだった。
薄汚れた灰色の服を着ていたが、大きく曲がった背中は布地が裂けており、そこから鋸歯状の背びれが飛び出している。元の色がよくわからない黒ずんだ洋袴の尻からは、驚くべきことに緑と赤の斑模様の尻尾が生えていた。
正しく蜥蜴と人間の合の子としか形容し難い怪人だった。
「トラズィール！ そいつを殺せ！ 貪り食ってしまえ！」
ヴェイストが硝子玉の奥の目を血走らせて、叫んだ。蜥蜴男は私の喉笛を噛み千切ろうと大きく口を開いた。私は只の穴のようになった奴の鼻のあたりを左手で殴りつけた。鼻の穴から赤い血を噴き出して、奴は私の右手を離した。噴き出した血にはスラッティーのものと同じような奇怪な煌めきがあった。
「殺して！ トラズィール、殺して！」
今度はスラッティーが引きつった声でそう言った。蜥蜴男は鼻孔から流れる血を、妙に人間くさい仕草で拭い、鱗の生えた指で腰帯から短剣を引き抜いた。
トラズィールという名の怪物は、恐ろしい速さで短剣を突き入れてきた。間一髪でよけたが、腰がエスパンクの横たわっている寝台に当たって、よろけた。一瞬の隙を突いて、トラズィールは次の一撃を加えてくる。私はファバンーン剣で奴の刃を受け、返す刀で鱗の生えた右手首に斬りつけた。
手応えがあって、奴の右手は短剣を握ったまま、宙を舞った。人間のものとは思えない悲鳴があがった。
蜥蜴男の手首からは銀色の煌めきを持った鮮血が噴き出した。だが、見る間にその血は奇妙に粘っこい泡状のものとなった。さらには燐光を放つ黄緑色の液体がじわじわと流れ出してくる。
「はは、はは、見ろ！ 私の研究の成果を！ 見ろ！ トラズィールは不死だ！」
傷口から噴き出すねばねばとした赤い泡と黄緑色の液体は混ざり合い、粘土の塊のようになってのびていく。見る見るうちにそれは五本の指を備えた歪んだ手の形を取り始めた。
「見ろ！ 私の霊薬の力を！ 私は生命創造の神秘に触れたのだ！」
ヴェイストは注射器を振り回しながら、自分の研究成果に陶酔して絶叫した。
私は手裏剣を投げた。肩を狙ったつもりだったが外れて、左胸に突き刺さった。
ヴェイストは自分の胸に突き立っている刃物を眼鏡の奥の血走った目で見つめた。
異様な吠え声とともに、蜥蜴男が飛びかかってきた。再生した右手にはすでに緑色の鱗が生えかけていた。私はファバーン剣を奴の肩口に叩き込んだ。
太古の魔剣は怪物の胸のあたりまで食い込み、奇怪な煌めきを持つ血が噴き出した。刀身のファバーン文字がその血の中で緑色の光を放っている。
トラズィールは耳まで裂けた口から、ごぼごぼと血の泡を噴き出しながらも、両の手で私の首を絞めようとする。鱗の生えた細長い指が恐ろしい力で喉を押しつぶそうとする。剣が骨に食い込んだのか、動かない。傷口からは粘つく泡となった血と黄緑色の液汁が膿のように流れ出し、裂けた肉と皮膚を塞ごうとしている。
私は一か八かトラズィールの股間を思い切り蹴り上げた。蛙の声のような悲鳴があがり、首を締め上げる指の力が弱まった。私は剣から手を離し、奴の両腕をはねのけると、もう一度蹴りつけた。蜥蜴男はファバーン剣を胸に突き刺したまま仰向けに倒れた。
私は奴の腹に足をかけて、剣を引き抜いた。半ば肉となった泡立つ粘土のようなものが、糸を引いて刀身に絡み付いた。
傷跡のある首に斬りつけ、そのまま首を切断した。銀粉をまぶしたような赤い血が勢いよく噴き出した。切り離されても、青黒い目玉はぐるぐると動き、大きな口が陸に揚げられた魚のように閉じたり開いたりした。腕も足も糸の絡んだ操り人形のように、蠢いている。
私は蜥蜴男の解体にとりかかった。左右の腕を切断し、両足も斬り落とした。それでもばらばらになった体の各部は、引きつり、のたうち、傷口からは奇怪な血と黄緑の汁が滴り泡立っていた。私はばらばらになった四肢が泡立つ肉芽でつながりそうな気がして、十分離れたところまで手足と首を蹴り飛ばした。
「どうかね、その霊薬はこれでも効くのかい？」
ヴェイストは薬品棚にもたれて、かろうじて立っていた。胸の傷口から流れる血が白衣を朱に染めていたが、そこには銀の煌めきは見えなかった。
「貴様、貴様……よくも……私の研究成果を……」
ヴェイストはごぼごぼと血の泡を吹きながら、恨み言を口にしたが、血の泡には特段の粘り気はないようだった。
スラッティーの甲高い笑い声が地下室に響き渡った。
「あら、フェルトーヴ、あなたは自分にはその霊薬を試してなかったの？ ああ、とんだお笑い種ね。私やトラズィールの体では、さんざん試したくせに。自分に注射するのは恐かったの？ ああ、素晴らしい愛情ね、フェルトーブ」
スラッティーは全裸のままヴェイスト＝フェルトーヴの側により、手裏剣の突き刺さったままの胸をなでさすったり、血まみれで震えている彼の唇に口づけをしたりした。
「ああ、可哀想なフェルトーヴ、でも、あなたは私を蘇らせてくれたわ、首だけの化け物として。あなたは幸せだったでしょう。こうして、私を手に入れることができたのよ。ほら、私をさわって。馴染んだ頃には体は腐っていくわ。でも、その頃が一番いいのよ。ほら、もう蕩けそうだわ」
スラッティーは裸身を瀕死の男にすり寄せ、注射器を持つ手を自分の股間に導こうとした。
ヴェイストは血だらけの顎を不自然に動かし、何か呻いていたが、聞き取ることはできなかった。彼はスラッティーの手を振りほどくようにして、注射器を自分の左胸に突き刺した。震える手で黄緑色の光る霊薬を自分の胸に注射した。
ヴェイストの体は雷に打たれたかのように、激しく痙攣した。口から鼻から耳から目から、どくどくと血が流れ出した。その血は銀粉をまぶしたかのように光っていた。
狂気じみたスラッティーの笑い声が谺する。
「ああ、そうよ、フェルトーヴ、そうよ、あなたの霊薬があなたを救うのよ！ あなたも不死になるのよ！ 私と同じ化け物に！」
スラッティーは全身をがくがくと震わせる男を抱きしめ、胸に刺さった手裏剣を引き抜いた。傷口から噴き出した鮮血と黄緑色の液体は、瞬時に合一し、粘つく肉の塊となった。
同じ現象がヴェイストの体中で起こった。眼球が飛び出し眼鏡が吹き飛んだ。飛び出した目玉は桃色の捩じれた肉の枝の先端できょろきょろとあたりを見回した。口から噴き出した血と黄緑の液汁は飛び出した舌と一体化して、腕ほどの太さのある触手のようなものとなった。顎から外れた歯がその触手の先端で新たな口を作った。
白衣のあちこちが突き出し、破れて、毒々しい桃色の肉錐が飛び出した。スラッティーはその勢いでヴェイストの体から弾き飛ばされた。
体中から数イートの肉色の泡立つ触腕を生やした姿となったヴェイストは、よろめく足取りで、こちらに迫ってきた。床の上には、蜥蜴男のまだ動いている首が転がっていた。足から生えた触腕がその首に触れると、ヴェイストはそれを拾い上げて、胸のあたりに押し付けた。すると胸の傷口から生えた触腕がトラズィールの首に巻き付き、融合した。ヴェイストは胸に彼の研究成果を一体化して、私に近づいてきた。
体中から突き出した肉の触腕がぶるぶると震え、枝分かれしながら、こちらに向かってきた。私は剣を振り回して襲ってくる奇怪なものを斬り払った。燐光を放つ血と黄緑の液体をまき散らして、何本もの触腕が飛ぶ。床に落ちたそれは、瀕死の蛇のようにのたうち、幾つかは泡を噴き出しながら融合して蠢いた。
痛みの感覚はあるらしかった。ヴェイストだった怪物は、でたらめに歯のついた口から苦悶の叫びをあげて後ずさった。胸に斜めに付いた蜥蜴男の巨大な口もかすれたような叫び声をあげた。その首が融合した胸板のあたりには、緑色の鱗が広がり始めていた。
床に倒れていたスラッティーが、怪物と化した男を指差し、耳障りな笑い声をあげた。
「あーら、素敵だわ！ 随分と男前になったじゃないの。それなら舞踏会でもさぞかしご令嬢方の注目を集められるわ！」
スラッティーの笑い声には、ひどく刺があり、どうやらヴェイストだったものも私と同感のようだった。もはや奇怪な増殖する肉の塊の姿となったそれは、床の上で全裸で笑い転げる、彼の“恋人”に向き直り、首を傾げるような仕草をした。胸に付いているとラズィールの首も同じように動く様は、滑稽と言ってよいかのどうか、よくわからなかった。
怪物はスラッティーににじり寄ると、その裸体の上に覆いかぶさろうとした。
「何よ！ そんなになっても、私が欲しいの！ そんなに私が恋しいの！ そうよね、だから、ピュローヴを見殺しにしたんだわ！ あなたがピュローヴを殺したのよ！ 私のピュローヴを！」
スラッティーの声はもはや絶叫だった。彼女はヴェイストだったものを蹴飛ばし、逃れようとした。怪物は少しばかりよろけたが、何本も生えた触腕が宙をのびて、彼女の裸身に巻き付いた。
ファバーン剣をふるえば、化け物と化したヴェイストを倒すことができるのかもしれない。スラッティーを救うことができるのかもしれない。唯一の医者を失った彼女が生きながらえることができるのかは、わからないが。
だが、私は何もしなかった。これは彼女と彼の問題なのだ。私には出る幕はない。
肉色の触腕はずるずるとスラッティーの白い体に巻き付いた。いや、それは彼女の体ではない。〈赤い扉〉にいた金貸しの娘のものだろうか、それともエスパンクが捜していたキナラサという女のものだろうか。
「ヴェイスト、いいわ、もっと絞めて……これで、いいわ。これで、いいのよ。もっと、もっと……首が千切れるくらい……」
桃色の肉の腕に首を絞めつけられたスラッティーは、途切れ途切れにそんな言葉を吐き出した。死の恍惚の声だった。
ヴェイストの本来の腕がスラッティーの首に輪を作った。指が白い喉に沈んだ。赤紫色の傷跡がくっきりと浮かび上がり、そこから赤い血と黄緑の液汁が滲み始めた。
スラッティーは快楽に酔った喘ぎ声をあげ、借り物の白い裸身を淫らがましく、くねらせた。両の腕と太腿を、ヴェイストの奇怪な体に絡みつかせ、腰をすりつけるように動かした。
ヴェイストの体のあちこちで、肉芽が大きな泡のように膨らみ、弾けた。鮮血と黄緑色の膿が噴き出した。歪んだ腕に力が込もり、スラッティーの悶える声がかすれて聞こえなくなった。
肉が千切れる鈍い音がして、ヴェイストの指が根元までスラッティーの首にめり込んだ。鮮血とともに黄緑の液体が噴き出し、銀色の煌めきが霧のように彼女の首のまわりを包んだ。
ヴェイストは千切れた恋人の首をつかみあげた。赤と黄緑の入り交じった汚液がだらだらと滴り落ちる。飛び出した眼球がその青白い顔を見つめた。表裏が裏返ったような口が、その唇に口づけた。胸のあたりで蜥蜴男の首が不満げな唸り声をあげた。
背後で呻き声が聞こえた。振り向くと細身の剣を握った黒尽くめの男が、覆面をはぎ取って、胃の腑の中のものを吐き出していた。
