「もちろん、僕の馬じゃない。厩で借りた駅馬だ。掛かりはご主人にいただくよ」
執事はうなずいて、馬丁を呼んだ。私はだだっ広い玄関広間に通された。
オルトーリア侯爵は、この前とは違う青いちらちらと光る生地の上着を着ていた。衿は橙色だった。四角い顔は、いささかやつれて見えた。大きな卓子の上の籠の中では鸚鵡が私と侯爵の顔を交互に見ていた。
「娘の居所はわかったのかね」
卓子の向こうでオルトーリアは葡萄酒を一口飲み、私の背後の娘の肖像画を見上げた。私も葡萄酒の杯を傾けた。年代物のようだが、私はディコンの方が好きだった。
「はっきりとはわかりません」
「少しはわかってきたということかね」
オルトーリアは片眼鏡を少しずらして私の顔を見た。
「ええ、まあ」
私は御典医ヴェス・ザウストの息子フェルトーブ、今はバルターフ・ヴェイストと名乗る医者について話をした。
「ヴェス・ザウスト？ ジェフェリオム・ヴェス・ザウストのことか」
鸚鵡がオルトーリアの方を見た。
「それは、父親の方の名前ですね。ご存知なんですね」
「知っているというほどではない。晩餐会や舞踏会で何度か会ったことはある。もう何年も前のことだ。その何とか言う息子もいっしょだったかもしれない」
「フェルトーヴです。今はバルターフ・ヴェイストと名乗っている。娘さんとヴェイストという男は知り合いなんですか」
オルトーリアは記憶を呼び起こそうとしているのか、葡萄酒の杯を小刻みに動かした。
「ああ、娘も連れて行った時に、一曲くらいは一緒に踊ったかもしれない。そうだ、思い出した。あの眼鏡をかけた青白い子どもだ。いつまでもスラーシャのことを目で追っていた」
「その後は？」
「いや、何もかかわりはない。ザウストは御典医を辞めて、幾らもたたないうちに死んだと聞いたが、その息子の不品行のせいで辞めたとは知らなかった」
「娘さんはこの家には戻らないと思います」
オルトーリアは音を立てて酒杯を卓子に置いた。残っていた葡萄酒が少しこぼれた。
「娘がそう言ったのかね」
「はっきりとは言いませんでした。しかし、そういう気持ちはないでしょう」
スラーシャの父親は大きな声を出した。
「それを連れ戻すのが君の仕事ではないのかね！ 娘とじかに会ったのなら、なぜ連れてこないんだ！」
鸚鵡は丸い目を見開いたまま、私の顔を見た。何か気の利いた台詞を期待しているのだろうか。
「娘さんはもう大人です。強引に連れ帰ることはできません」
「では娘はそのいんちき医者とずっと一緒にいるというわけか！」
「それはわかりません。ヴェイストの屋敷に住んでいるのかどうかも、はっきりしていません。もう一度会って話してみましょう」
オルトーリアは横を向いて暖炉の火をしばらく見つめていた。それから、ぽつりと言った。
「いや、もう結構だ。君は馘だ」
鸚鵡が私の方を向いて、目をきょときょとと動かした。
「そうですか」
私は隠しから革袋を取り出し、手付けから今日までの費用を差し引いた金を卓子の上に置いた。馬の借料も引いておいた。
オルトーリアがどうするつもりなのか、私にはわからなかった。居所の目星がついたからといって、自分で行って娘を説得するとも思えなかった。また誰か別の人間を雇うつもりだろうか。
馬を返して、クーリカフ街の探偵局に戻った。鍵を開けて中に入ると、明かりがついており、依頼人用の長椅子に女の後ろ姿があった。鳶色の長い髪が波打っている。声をかける間もなく、背中に硬いものが押し付けられた。
「動くなよ。黙って話を聞くんだ。命が惜しけりゃな」
大人ぶって低い声を絞り出していたが、まだ半ば子どものように若い声だった。
「楽しい話だったら聞いてみようか。命は君の方が惜しんだ方がいい、ユニオル。まだ、若いんだから」
背中で「ふん」と言う声がして、背中に当たる硬いものに力が入った。
「うんと楽しい話よ。きっと気に入るわ」
鳶色の髪をした女が振り返った。小作りの整った顔立ちに明るい金茶の瞳が輝いていた。化粧のせいか、雀斑はほとんど見えない。頬紅と合わせた濃い桃色の紅を引いた唇が艶やかだった。
「どう、満更でもないでしょう。これなら、侯爵令嬢のお相手ができるかしら」
エスパンクはいつもの男装ではなく、鮮やかな緑色の衣装をまとっていた。襞飾りに縁取られた胸元が大きく開いて、白い肌がまぶしい。薄黄色の繻子の帯で締め上げた腰はびっくりするほど細く、なよやかな体の線があらわになっていた。大きく割れた裾からは、絹の靴下を履いた細い足がのぞいていた。
彼女は銅のような輝きを持った髪の毛をかきあげて、身をくねらせ、しなを作ってみせた。
「あんたも早く着替えて。〈赤い扉〉に着ていった服、まだあるんでしょ」
エスパンクは珊瑚色の爪化粧をした指先で私の胸元をつついた。
「侯爵令嬢のお相手は“あんた”なんてはすっぱな言葉は使わないね。今から稽古するかい」
「嫌みな男ね。“あなた”はあたしに借りがあるのよ。きちんと返してもらわなくちゃね」
「“あたし”じゃなくて“わたし”だ」
エスパンクは指先で私の鼻をつまんだ。背中でユニオルがくくっと笑い声を上げたが、まだ物騒なものは突きつけたままだった。
作戦というほどのものはなかった。エスパンクが〈赤い扉〉に入り込んで、スラッティーの気を引く。私とユニオルが後をつける。後は成り行き任せらしい。
「この前の晩の尾行の首尾は？」
エスパンクは少し渋い顔になった。
「駄目よ。さっさと二輪馬車で逃げられたわ。あの連れ込み宿の裏で待ってたのね」
「ふむ、まあザウスト邸が根城なのは間違いないだろうがね」
「あの女が本当は何をしているのか、突き止めたいのよ。行方知れずになっているキナラサやワイナントーズ、他の女たちや探偵はどうなったの？ 首なし死体は彼女たちのものじゃないの？ ヴェイストって医者崩れは何者なの？ あたしが直に突き止めてやるわ」
エスパンクは威勢が良かった。私が入れたマシュウ茶を飲もうとした彼女は、思い直して相棒の少年に尋ねた。
「ユニオル、薬は大丈夫ね」
「ばっちりですよ、姐さん」
金髪の美少年は赤い胴衣の隠しから、ちいさな紙包みを取り出した。中には薬包が入っていた。
「トリプロ街の薬屋で調合してもらったのよ。あの変な薬で眠らされるのはご免だわ」
「なんていう薬屋だい」
「蛇革のヤムラス。ユニオルが調べてきたのよ」
少年は少しばかり得意そうな顔でほほえんだ。美しい笑顔だが、片手ではずっと短剣をもてあそんでいた。
「いい薬屋を見つけたもんだ」
「あんたの分もあるわ。飲むでしょう」
私は差し出された薬包を広げてみた。アムアッサの館で見たものとは明らかに違う、薄い青色の粉だった。ヤムラスは一見の客には、安い薬をつかませることがあるが、ユニオルはうまくやったのだろうか。
「遠慮しておくよ。僕は別の薬を飲んだ。飲み合わせは恐いからね」
「そう」
エスパンクは青色の粉をマシュウ茶に入れて、まずそうに飲んだ。
「スラッティーをうまく誘惑できなかったら、いや君が誘惑されなかったら、どうする」
緑の衣装の女探偵は、長椅子の上で足を組み替えて、すらりとした脛を見せつける仕草をした。
「あら、わたくし、魅力がないかしら？」
「いい女だとは思うけどね、彼女の好みに合うかどうかはわからないだろう」
「あの牝狐は、少し上背があって細身の女がお好みなのよ。キナラサも、〈花びらの褥〉の踊り子も、高利貸しの娘も、みんな同じくらいの背格好よ。あたしもね」
エスパンクはスラッティーや金貸しの娘と比べて、少しばかり胸が足りないような気がしたが、私は黙っていた。
「僕は〈赤い扉〉には、入れないぞ。スラッティーに顔が割れている。君みたいに別人になるってわけにもいかない」
「ふーん、そうね。あんたはじゃあ外で待ってて。あたしが牝狐と出てきたら、しっかりつけるのよ。あいつが何かしそうになったら、出番よ」
「例の蜥蜴男が馬車で出てきたらどうする」
「〈赤い扉〉のあたりで、人さらいができそうで、馬車が通れる道は全部調べたわ。そっちはユニオルが見張るわ」
青い瞳の少年は短剣の鍔を指に引っ掛けて、器用に回してみせた。手妻でも使うのだろうか。
「ちょうどいい具合の店の屋根を見つけましたよ、姐さん。蜥蜴男が馬車で来たら、飛び乗ってこれですよ」
ユニオルは短剣を持っていない方の手で、首をはねる仕草をした。
「人殺しはだめよ、ユニオル」
エスパンクが思いの外、きつい声で言った。
「わかってますよ。ちょっと御者台から降りてもらうだけですよ」
少年は特に不服そうではなかったが、怜悧な刃物のような目には、冷たい何かが浮かんでいた。
どうも気に入らない話だったが、エスパンクはこの夜の冒険にわくわくしているようだった。つきあうしかなさそうだった。
「君の得物は？」
女探偵は緑の衣装の裾を大きくまくり、白い太腿に革帯で止めた短刀を見せた。
「あたし、意外とできるのよ」
彼女は短刀を抜いて、ユニオルと同じようにくるりと回してみせた。どちらが師なのかは、よくわからない。
「紹介状はあるのか。ロジャルコが一見の客をすんなり入れてくれるとは思えないが」
エスパンクは隠しから小さな花柄の紙切れを取り出した。細い文字で、プラウナム商会夫人誰それが、アルファート婦人服店令嬢ナルノエスを紹介する旨が書いてあった。
「アルファートなんて店は知らない」
「フランジースコの大店ってことにしてあるわ」
「ふむ、なかなか良くできてる。一晩くらいは持つだろう」
「さあ、そろそろ出かけましょう。牝狐が〈赤い扉〉にお出ましになる頃よ」
エスパンクは立ち上がったが、もう一つ彼女に言っておくことがあった。
「酒は飲むなよ」
「わかってるわよ」
「シェア一杯でも」
「うんと高いマシュウ茶でも飲むわ」
彼女が高級なマシュウ茶の銘柄を知っているのかは疑問だったが、私も詳しくはなかった。ディコンなら大丈夫なのだが。
