霧の深い夜だった。
私は一件を終え、アイトーネ街のはずれを家路に着いていた。
私の棲家―スナブ・ランケン探偵局と看板が掛かっている―までは、歩けばかなりの道程だったが、夜更けにこのあたりを辻馬車が走っているわけもない。
私はデリン灯の青緑の明かりが霧の中にぼうっと浮かび上がる路を、一人歩いた。
霧は次第に濃くなり、灰緑の外套が冷たい湿り気を帯びるまでとなった。酒はまだ入っていなかったが、石畳の路は次第に迷路となり、青白い霧がゆるゆると渦巻く中、私は丈高い白壁や石塀の続く路を歩き続けた。
先程通った覚えのある漆喰の剥げ落ちた塀の側を、疲れた足取りで歩んでいると、背後からガラガラと いう車輪の音、石畳に谺する蹄の音が近づいてきた。
振り向くと二頭立ての小ぶりの四輪馬車がデリン灯の人工の緑の光の中に姿を現した。黒塗りの馬車は、赤に濃い紫、金の浮き彫り模様がなされ、霧に濡れた黒い馬の毛並みが光っていた。辻馬車というわけではないようだった。御者は黒い頭巾付きの外套ですっぽりと身を覆い、顔かたちをうかがうことはできなかった。
馬車は私の脇で止まった。
「もし、そこの御方、夜霧も随分と深くなって参りました。よろしければ、お乗りになりませぬか」
小さな窓が開き、聞こえてきたのは女の声だった。艶やかで愛らしい若い女の声のように聞こえた。
車窓からのぞく白く小さな顔は、声に相応しい優しげな美貌だった。
「クーリカフ街まで行くところ、そちらはどちらまでお出でか」
白い小さな顔は、ふっくらとした頬に笑みを浮かべ、明るい声で答えた。
「私はその先、ルプラン街あたりまで行くところでございます。クーリカフ街なら道筋でございます。どうぞ、お乗り下さい」
私は自分で思うよりも、ひどく疲れていたのかもしれない。彼女の笑みに惹かれるように、馬車の踏み台に足を掛けていた。
「これはかたじけない。いささか路に迷っていたところです。ご迷惑でなければよいが」
私は自分の吐く息が白くなっているのに気づいた。霧こそ深かったが、さほど冷える夜というわけではなかったのだが。
馬車の中には色硝子の入った小さな洋燈が灯り、艶やかな唐草模様の装飾が施された内部と、美しい女主人の姿を照らし出していた。
どこかの小貴族か裕福な商家の娘なのだろうか。光る黒繻子の服は胸元が大きく開き、精緻な透かし模様の刺繍がその下の白い胸乳をいっそう際だたせていた。結い上げた黒い髪には、金銀細工に紅玉、碧玉などを鏤めた髪飾りが煌めき、白い耳朶には、ひときわ大きな緑玉の耳飾りが揺れている。
美しい弓形を描いた眉の下の双眸はその緑玉よりも鮮やかな緑色に輝き、少しばかり上を向いた小さな鼻と真紅の紅を引いた大きめの唇が愛らしさと艶かしさを形作っていた。
御者は無言で馬車を出した。しばらくは蹄と車輪の音だけが車内に響いた。
ややあって、女が口を開いた。
「あなたは今日、人を斬りましたわね」
私は思わず「えっ」という短い驚きの声を上げた。
「血の……匂いがしますわ」
確かに私は今日、娼家の立ち並ぶチョウシュ街の路地裏で、一人の破落戸を斬った。
「人を斬った男といて、恐ろしくはないのですか」
彼女は婉然と微笑むと紫色の刺繍手袋をはずし、私の手を取った。小さな白い女の手は冷たく湿っていた。
「こことここに、赤い血がついていましたのね」
細い指先で、彼女は私の手を撫でまわした。緑玉の瞳が濡れて妖しい光を放っていた。
「どんな風に斬りましたの。教えて下さらない？」
彼女は私の手を両手で包み込んだまま、奇怪な問いを発した。
「そんなことを知ってどうするというのです。僕は人殺しのお尋ね者で、あなたを今、斬り殺すかもしれませんよ」
「ただ、知りたいのです。教えて下さるわね」
女は私の手を持ち上げ、ふっくらとした頬に押し当てた。彼女の頬は柔らかく心地よかったが、指先と同じように冷たく湿っていた。
私の頭には売春宿の裏路地で、女の喉元に匕首を突きつけて、狂ったようにわめいている男の姿が浮かんだ。その光景は、知らず内に言葉となって口から流れ出していった。
「匕首が女の喉に食い込み、血が流れ出した。僕が剣を抜くと、奴は女を放り出し、闇雲に斬りかかってきた。奴の刃物を持った右手首を斬り落とした。血飛沫を上げて手首が中を舞った。ラコジョニの実に侵されている男は痛みを感じないらしく、それでも突っ込んできた。袈裟懸けに斬ると、刃が骨を断つのがわかった。奴は裂けた首と胸から真っ赤な血を噴き上げて倒れた。ぬかるんだ水たまりに奴は倒れ、噴き出る血が泥水と混じり合ってひどく汚らしい色合いになった」
「男はすぐに死んだの？」
彼女の緑色の瞳は、ますます熱い輝きを増して煌めいていた。単なる好気の心とは思えないものがそこにはあった。
「ラコジョニの実をやっている者には、死はすぐに訪れない。奴は泥水の中で手足をひくひくと蠢かし、転げ回り、体中血と泥まみれになった。それから、落ちていた自分の手首をつかみあげ、不思議そうに見て、口からどす黒い血を吐き出し、息絶えた」
女の黒い透かし刺繍に覆われた胸は、大きく上下し、冷たい頬にも薔薇色がさしてきた。桃色の舌先がのぞき、赤い唇をなめた。だが、彼女の手も頬も、温もりを取り戻すことはなかった。
「これで満足か？」
彼女はつかんだ私の手を白い喉から胸乳へと滑らせ、瞼を閉じると、しばし陶然とした表情となり黙っていた。
また車輪の音と蹄の音だけが聞こえた。窓の外の霧は生き物のように渦巻き、うねり、やがてその中にデリン灯の緑がかった明かりとは異なる、青白い炎が幾つも見え始めた。
青い炎の玉は、走る馬車に纏わりつくように、幾つも幾つも左右の車窓から見え隠れし、飛び回った。空気はいよいよ冷たくなり、彼女の手や胸乳さえ温もりを感じられるようになった。
霧の間に間に石の墓標が見えた。ひび割れ傾いだ墓石、真新しく夜霧に濡れて光る墓石、ねじくれて枝をのばす木々、そうしたものが霧の河の中に影のように姿を現しては沈んでいった。
アイトーネ街からクーリカフ街へ行く途中に墓地などあったのだろうか？いつしか蹄の音も車輪の音も、石畳の路を行く音ではなくなっていた。
女の胸は、情を欲するかのように上下し続けたが、私の掌には心の臓の鼓動が何故か伝わってはこなかった。
私はファバーン剣を吊った左腰あたりに、微かな痺れるような感覚を覚えた。この太古の魔剣に残された力は、私に妖異の存在を教えてくれる。
ややあって、彼女が再び口を開いた。まるで初めて男に想いを打ち明ける少女のように、おずおずと彼女は言った。
「その……その男の傷というのは、どんなものだったのでしょうか？」
「どんなものと？」
「そう……です。たとえば……こんな傷だったのでしょうか？」
そう言うなり、彼女は胸乳に置いた手に力を込め、私の手を使って黒い透かし刺繍の胸元を引き裂いた。黒繻子の中から、真っ白な右の乳房がこぼれ落ちるように現れた。
小ぶりの美しい乳房には、幾条もの傷が走っていた。蚯蚓腫れのようなもの、浅い切り傷のようなもの、縫い合わせた痕が赤黒く盛り上がったもの……幾筋もの傷が彼女の胸を覆っていた。
私は手を引き抜こうとしたが、万力のような力に押さえられて能わなかった。
馬車は飛ぶように走り、蛇のように這いうねる霧と青い火の玉は、車窓から馬車の中に入り込み、私と彼女の間の中をくねり蠢いた。
体中から冷たい汗が噴き出した。自由な右手で剣を抜こうとしたが、それよりもはやく彼女の左手が私の手首を握った。
「もっと酷い様子だったのですね……こんな……具合でしたか……？」
押さえつけた手で、女は優美な衣装の左胸を引き裂き、もう一方の乳房を露にした。
半ば肉を抉り取られ、その痕を無理矢理に縫い合わされた赤黒い肉の塊がそこにはあった。幾重にも重なりあった縫い痕は指先ほどにも盛り上がり、抜けない糸が黒い醜怪な絵模様をつくりあげていた。
彼女は小鼻を大きく膨らませ、開きめくれあがった紅唇からは、ぬるりとした涎が滴り落ちていた。悍しい死の欲情が、可憐な若い娘を支配していた。
「もっと……もっと……酷い……傷だったのね」
女は荒い息の中から、台詞を吐き出した。淫猥な動きで太腿をもぞもぞと擦り合わせ、むき出しになった異形の胸をくねらせた。ふさがっているかのように見えた傷口からは、薄赤い液体が染み出し、ぬめぬめと光っている。
「その手を放せ！」
私はほとんど恐慌に囚われて怒鳴り、強く手を引き抜こうとした。妖女は意外にもあっさりと手を放し、私は化粧板に酷く頭を打ち付ける破目となった。
扉を打ち破り外へ飛び出そうとしたが、鉄の閂でもかかっているかのようにそれは頑として動かなかった。
彼女の赤く潤んだ緑玉の瞳は粘り着くような異様な光を放ち、私を捕らえて放さない。上気して薔薇色を帯びていたはずの頬は、まるで屍斑のような不気味な紫色に変色しつつある。白濁した涎を絶え間なく滴らせる唇は、割れた両端からどす黒い血が流れ落ち、壮絶な死の淫欲にかられた笑いを浮かべていた。
「……もっと……もっと……酷い傷だったのですね……あ、あああ……もっと……もっと……ひどい……」
びちゃびちゃという音がして何かが馬車の床に滴り落ちていた。洋燈に照らされて真紅の液体が彼女の足下に水たまりをつくっていた。細く締まった黒い衣装の腹から、華麗な襞飾りに縁取られた裾から、どす黒い液体が後から後から滲み出し、流れ落ちていた。
「こんな……こんな……傷だったのですね……」
彼女は衣装の腹の部分に白い指を突き立てた。溢れ出る血でたちまちの内に白い指先は朱に染まった。その指先は薄い繻子の生地を突き破り、柔らかな肉に食い込んでいるように見えた。
私はファバーン剣を抜いた。刀身の神秘文字が鮮やかな緑青色に燃え上がった。抜き様、女を斬った。目の前に真っ赤な大輪の血の花が咲いた。彼女の血は冷たかった。
「そう……こんな……こんな傷……だったのね……」
血煙に霞む目をこすり、眼前のものを見た。ほんのニイート（約六十センチ）前の椅子には血みどろの女の残骸のようなものがあった。
傷痕だらけの上半身は向かって右の方に横たわっていた。黒い衣装に覆われた下半身は左側にある。紫色の絹の靴下に覆われた太腿が露になり、股間からはどす黒い血が大量に流れ出していた。
真ん中にあるものは、ほとんど形を止めていなかった。臓物が裂けた大きな傷口から溢れ出し、床の上には腸が淫らがましくとぐろを巻いていた。血みどろの白い腹の皮が、申し訳のように上にのっていたが、そこにも無数の盛り上がった縫合の痕があった。
驚くべきことに、彼女はまだ“生きて”おり、血塗れの白い指先で愛おしそうに自分のはらわたをまさぐっていた。
「こんな……こんな傷だったの……ですね……」
「ああ、そんな傷だったよ」
私が答えると、彼女は満足気に恍惚とした表情を血飛沫に染まった美しい顔に浮かべ、ぶちまけられたはらわたさえ、至上の快楽に打ち振るわせ、やがて静かになった。
私はしばらく彼女の死骸を眺めていた。これまでに交わった何人かの女の姿が、眼前に浮かび、彼女の死骸と重なった。
馬車は静かに止まり、青い火の玉は霧に溶けるように消えていった。その霧も静かに流れを止め、薄れていく。
骸は急激に変貌し、歪んだ骸骨に襤褸布が纏わりつくものとなった。馬車は崩れ落ちて私を放り出し、朽ちた木片の塊となった。御者台あたりの黒い襤褸布の中には、幾つもの人骨を継ぎ合わせたかのような奇怪な骸があった。
ひねこびた枝々の向こうから鈍色の曙光が射し、霧は炎に氷が溶けるように急激に薄れ消えていった。
探偵稼業をしているからと言って、サンジェリィ全ての墓地を見知っているわけではない。
私は傾いだ墓石の向こうに見える古びた礼拝堂らしき建物の方へ歩き出した。
