太陽が黒い森の木立を通して最後の光の矢を放っていた。斑に朱に染まった草原を馬の蹄が踏み荒らす。
森へ向かって逃げる若い男と女を、三騎が追っている。男はくすんだ褐色の洋袴に薄汚れた白い上衣、革の胴衣、女は裾の長い白い長衣に黒い腰帯を身につけていた。女の大きく開いた襟元からは、白い胸乳が覗いている。
追う三人は、先頭を行く一騎が白馬、後の二騎が月毛に跨り、革の鎧に厳めしい兜で身を固めている。
私は傷みのひどい石畳の街道をゴルシュタイの町に向かっていた。森を抜けた道は、痩せた畑と荒れた叢の中を通って、ゴルシュタイに通じている。木造の門は、もう視界に入っていた。
「助けて、殺される！」
女は私の姿を認めると、叫んだ。金色の髪を振り乱し、よろめく男の手を引くように走ってくる。男は首のあたりから血を流していた。
前の宿駅で借りた馬は、ここに至るまでの山道でいささかくたびれており、鈍い動きで、私の手綱に従った。街道から叢に踏み出すと、小走りで追っ手と獲物の間に入り込んだ。
「殺される、と言っているようだが」
月毛の二騎が、白馬の男を守るように両脇に出てきた。すでに手は腰の物に掛かっている。
「邪魔立てすると、その方もそういうことになる」
左右の男は反り身の刀を抜いた。
「丸腰の怪我人を三人がかりでは、物足りないだろう」
私も長剣の柄に手を掛けた。
「旅の者だな。これには仔細がある。だが、今は時がない。そこを退いていただこう」
白馬の男が口を開いた。
痩けた頬に、落ちくぼんだ眼窩、薄い唇は、高い鼻がなければ髑髏を思わせる面立ちだった。奇妙に小さく感じられる青い瞳が、冷徹な視線を私に送っている。
暗赤色の革鎧には、脇の二人よりも豪華な装飾がなされ、日輪と十字を組み合わせた形の兜の前立は、金色に輝いていた。家紋なのか、同じ意匠が他の二人の胴鎧にも施されている。
「仔細とは？」
私の答えに、男は無表情に刀を抜いた。金色の残光が木立の向こうに消え、あたりを青い夕闇が覆った。背後で聞こえていたすすり泣く女の声が不意に止んだ。
恐ろしい冷気が背中を駆け上がり、私は咄嗟に身をかがめた。何かが引回しの肩をかすめて引き裂いた。
宙を舞って眼前に降り立ったのは、今し方まで、助けを求めてすすり泣いていた金髪の女だった。夕闇の中でも、その容貌の変化は見てとれた。
死人のような白い肌の中に、熾火のように真紅の瞳が燃えている。大きく開いた口元からは、獣の牙が突き出し、異様に節くれ立った指先からは、長い鉤爪が伸びていた。
彼女は低いしわがれ声で囁くように言った。老婆のようにも娼婦のようにも聞こえた。
「……ありがとう……助かったわ……」
三人の男から一斉に呪詛のような言葉が漏れ、白刃が女に向けて突き出された。
女の動きは尋常な人間のものではなかった。瞬時に三本の刃をかいくぐると、跳躍し、左側にいた騎馬の男に跳びかかった。男は反り身の長剣で、白い長衣の裾を切り裂いたが、同時に女の爪は、男の革鎧を引き裂いた。黒ずんだ血飛沫を振りまいて、男は馬から転げ落ちた。
「ナシュカル！」
もう一人の男が、倒れた同輩の名前らしきものを叫びながら、女に斬りつけた。刃は女の豊かな髪を一房切り払った。金色の髪が地に落ちるより早く、彼女の禍々しい影は青い夕空に舞った。
鈍く空気を切り裂く音がした。女は中空で身を強ばらせ、叢に落ちた。女の胸には、太く短い投槍が突き刺さっていた。
白馬の男は、二本目の投槍を構えたまま、注意深く馬から降り、女に近づいた。私も剣を抜き、彼に倣った。
女は胸と口からどす黒い血を流して、手足をばたつかせていた。背中まで突き抜けた槍が、地面に突き刺さり、彼女を磔にしているらしい。
青白い顔面には、紫色の血管が浮かび上がり、血の色の瞳が白濁しかかっていた。
「これが仔細ということか」
男は、女と同じくらい蒼白な顔に何の表情も浮かべず、頷いた。
傷ついた男にもう一人が肩を貸して、近づいてきた。
「無事か」
「は、ゾリキークの御加護がありました」
そう言った男の革鎧は首から胸にかけて大きく裂け、血が溢れ出していた。早く手当をしなければ死んでしまうだろう。
「シグルヴァン卿、早く止めを」
白馬の男は、無言で頷くと、槍をもう一人の男に渡し、彎刀を大きく振り上げた。
その時、森の中から何かが聞こえてきた。小枝を踏みしだく音、鳥たちが一斉に飛び立つ音、狼の遠吠え、それらと混じり合って、何か獣の荒い息のような音も聞こえてくる。
途端に男たちの間に緊張感が走った。
「カラフ、ナシュカル、来るぞ！」
男たちは馬に飛び乗り、黒い森に向かって得物を構えた。
音はあっという間に高まり、梢が大きく揺れると、森の中から黒いものが飛び出した。
カラフという男が気合いと共に槍を投じたが、黒い影の中から白刃が閃き、彼方へ弾き飛ばした。反り身の刀を振るう間もなく、カラフの首が鮮血をまき散らして宙を舞う。
シグルヴァン卿と呼ばれた白馬の男は、第二の槍を放ったが、黒いものが再び大刀を振るうと、槍は真っ二つになって、叢へ落ちた。
「人外のシグルヴァン、今宵こそ、地獄の最奥に堕ちるがよい！」
黒い獣に乗った黒ずくめの武者は、そう言い放った。低く響く声だったが、それは女の声だった。
全身を肌に張りつくような黒い革鎧で覆った女がそこにいた。腰帯や手甲、肩当てには、わずかな銀の細工があるが、夜の闇のような鎧だった。右手の三イート（約九十センチ）近くある幅広の大業物は、血を吸ってすでに赤黒い。
無帽の頭には、黒革の鎧よりもなお黒い、射干玉の長い髪が艶やかに伸びている。
黒髪と黒い鎧に囲まれて、小さな顔が白い仮面のように浮き上がって見える。紙のように白い肌、灰色の影に縁取られた瞳も薄い灰色、小さな頤には不釣り合いにも見える大きめの唇だけが淡い紅色で、唯一彩度を保っていた。
黒い女戦士は両膝で跨った獣に下知を下すと長剣を振りかざし、シグルヴァン卿に突進した。彼女が乗っているのは、馬に良く似ていたが、馬ではない何かだった。夕闇の中で、よく見てとれないが、漆黒の全身を覆っているのは、毛ではなく細かな鱗のようにも見えた。裂けた口から剥き出しになっている牙は馬のものではないし、足先には蹄ではなく鉤爪がついていた。
黒ずくめの女と赤い鎧の男の白刃が交わる寸前、私の投じた短刀が女戦士の手甲をかすめた。女はわずかに手首をひねってかわしたが、シグルヴァン卿の長剣が黒い鎧の脇腹あたりを捉えた。
黒い女は、苦し気に体勢を崩しながらも、森の端で異形の乗馬の向きを変え、再び突進してくる。夕闇の中でその白皙の顔は、悪鬼のように見えた。
私はちらりとシグルヴァン卿を見遣ると、黒い女に向かって、馬を走らせた。女戦士の太刀と私の長剣が交わり、薄暮の中に火花を散らした。
恐ろしい膂力だった。右腕が抜けそうな衝撃を受け、私はかろうじて馬の背にしがみつき落馬を免れた。
同時に、背後で鈍い突き刺さる音とうめき声が聞こえた。首をひねって見ると、黒い女の胸のあたりに短槍が突き刺さっているのが見えた。彼女は大きく身をのけぞらせ、黒い髪を振り乱し苦悶に喘いでいた。
「覚悟！」
赤い鎧の男の彎刀が、女に迫る。
地面から突然風が巻き起こったかのごとく、女の黒髪と黒い引き回しが膨らんだ。引き回しはそのまま宙に飛ぶ。露になった女の背中には黒革の鎧に大きな裂け目があり、そこから一瞬にして、巨大な翼が現れた。
翼につかみ上げられるかのように、黒い女戦士は空中に舞い上がった。彎刀が空を斬る。
黒い巨大な蝙蝠の翼が、濃紺の夕空に二度、三度はばたき、それは森の方へ去っていった。
馬のような獣は、はらわたが震えるような吼号をあげると、主人を追って森の中へ走り去った。
シグルヴァン卿は、言葉にならない唸り声をあげた。夕闇が濃くなりよくわからなかったが、その顔は、憤怒で蒼白になっているようにも見えた。
投槍で地べたに磔にされた女は既に息絶えていた。まともな人間の死に方ではなかった。肌はひび割れた灰となり、金色の髪もまた、老婆のような灰色となっていた。崩れた肌の合間からのぞく骨までもが、灰色の枯れ枝のようなものとなっていた。
