「ランケン、しばらくじゃない」
ミューツィーが変わらぬ明るい声で迎えた。秋だというのに、彼女は袖なしの、肌もあらわな黄色い服を着ていた。腰を焦げ茶の帯がきゅっとしぼり、豊かな乳房と尻をいっそう大きく見せている。
「ディコンでいいの」
「ああ、いや、シェアにしておくよ。喉が乾いた」
私は壁際のいつもの席に陣取り、店の中を見回した。この店に来るのは、実際数ケ月ぶりだったが、もう何年も来ていなかったような気がした。傷だらけの丸い卓が幾つか並び、止り木に椅子が幾つか、帳場の奥にはディコンの酒瓶とシェアの樽、酒杯が並んでいる。煤けた古い燭台。豆の殻がばらばらと落ちている床は歩くときしむ。
まだ陽が落ちて間もないせいか、客はまばらだった。ミューツィーは、銅の大きな酒杯を二つ持ってきて、私のとなりに座った。私たちはアルオリクのために乾杯した。
「何だか、顔色がよくないわ、どうしたの」
「いや、何でもない。疲れてるだけさ」
「そう、ならいいけど」
私は喉を鳴らしてシェアを飲む、ミューツィーの横顔を見た。大きな茶色の目、少しばかり上を向いた鼻、肉感的な大きな口、少しだけ尖った願、ナクシャッツの密林に咲く大きな極彩色の花を思わせる派手な顔だちだった。彼女目当てにやってくる客は数知れない。
私たちは取り留めもない、世間話をした。裏の夫婦に子供が産まれたとか、角の爺様が亡くなったとか、エイマン王は近頃、奥方の浮気に悩んでいるとか、何とかいう美形の役者は悪い病気にかかって鼻が落ちだとか、そういう話だ。ミューツィーの横顔を（それと豊かな胸を）見ながら、そういった会話を交わしていると、先刻までの異常な事件が、悪い夢のように思えてくる。彼女の陽気な声は、揺るぎない大地に支えられているかのように、私に安堵感を与えた。
「今日は君一人なのかい」
「父さんはポジュイルに大叔父さんの葬式に出かけてる。シェペッドはナノンカまで、居酒屋組合の会合で出かけて、二人とも今日は帰らないわ」
ミューツィーは、十五の小娘が初恋の男と会うときのように、嬉しそうな顔をした。
「若妻が一人では危ないね」
「泊まっていってよ」
「旦那に悪い」
ミューツィーは子供のように口を尖らせた。
「あの人、料理の腕は若いのにすごいんだけど、寝床の上では、半人前なのよ。ねえ、ジクロイス教徒にでもなったわけじゃないでしょ」
突然、頭の中で、閉ざされた扉がきしむのを感じた。ミューツィーの言った最後の言葉が錆びついた琴線に触れ、大きな不協和音を響かせた。ジクロイス教徒……厳しい禁欲と戒律で知られる新興の宗派……彼らとは、過去に幾度か、あまりありがたくないかかわりを持ったことがある。そう、ポジュイルでの一件があった。それから、それから……
「ランケン、あなた、変よ。やっぱり、休んでいって」
私はミューツィーの胸に顔を埋めたかった。何かが私を壊そうとしている。
「ミューツィ……」
私は彼女の手を握った。
「ミューツィー！」
シェペッドの甲高い声がした。私たちは、慌てて、それぞれの銅杯を持ち、シェアに口を付けた。
「あんた……」
ミューツィーが失望を隠さない声で言った。
腕のいい、人もいい料理人は、片手に山鳥、片手に、ナノンカ名産の魚の干物を持ち、玄関に立っていた。赤い鼻の頭に汗が浮かんでいた。
「君一人にしておくのが心配でね。寄り合いははやめに片付けて、急いで帰ってきたんだ。やあランケンさん、久しぶりですね」
彼は疑うことを知らない口調でそう言った。
「今、君の料理の腕前について、奥方からうかがっていたところさ」
彼はにこりと笑い、右手の山鳥を差し上げてみせた。
「今、美味いのをお造りしますよ」
「いや、せっかくだが、まだやることがあるんでね、失礼するよ」
ミューツィーが卓の下で、私の外套の裾を引っ張った。
「君が山鳥の代わりになればいい。そうすれば、昇天できるさ」
私はそうミューツィーにささやいた。彼女は私の足を手ひどく踏んづけた。やはり、ここは私にとって失われた場所であるように思われた。
家に戻り、ディコンを酒杯に注ぐと、私は机の上にイーヴァの部屋から持って来た紙をひろげた。縦が三分の二イート、横が一イートほどのその紙は、画家が素描などをするのに用いるざらついた表面を持ったものだった。
紙は三枚あり、何れも鉛筆と桃色の色チョークを用いて、ある主題のもとに絵が描かれている。一枚は全裸の女が大きく股を開き、股間に馬ほどもありそうな大きな張り型を突き立てている絵、もう一枚は、男と女が交わっている姿を描いたもので、女は膝をつき、尻を突き出し、男はその背後から犬のように女におおいかぶさっている。残りの一枚は男の逸物を口いっぱいに受け入れている女の顔を描いだものだった。
技巧的にさしたるものはなかったが、異様とも思える力がその絵にはあった。何回も執拗に重ねられた描線一本一本に激しい情欲がにじみ、その姿態は狂気じみた快楽の極みに歪み、ねじれているようだ。髪を乱し、玉の汗を浮がべ、よだれを垂らしたその顔は、どこか人間離れした形相を呈していた。
男はヤズリーに似ていなくもなかった。女はイーヴァだった。あの肖像画に描かれた清楚な少女像からは随分と遠い所に彼女は立っていたが、それでも今にも悶絶するかのような、淫らな悦びに満たされた表情のその女はイーヴァに間違いなかった。
絵には隅に小さな細い飾り文字で、イーヴァという名が記されていた。その署名だけが、あの肖像画に描かれた少女の残滓のように見え、奇妙な違和感をもたらしていた。
三枚の絵を見つめていると、股間のものが固くなってくるのを感じた。絵の中のイーヴァの瞳にはいつしか、淡い金色の光が宿り、私に向けて、蜘蛛の糸のような視線を投げかけているようだった。銀色の服を着た女の唇の感触がよみがえり、どこからか、彼女の匂いまで漂ってくるような気がする。
私はディコンを喉に流し込んだ。強い酒の刺激が、床に横たわっていた宝石商人の姿を思い出させた。私は絵を丸めて、引き出しにしまいこんだ。
見えざる力が私の探索の邪魔をしていることは明らかだった。その力とは、イーヴァを変え、どこかに連れ去ったもので、どうやらその源泉はあの指輪、黒ずんだ血のような色の石にあるらしい。
脳裏にあの女の声がよみがえり、柔らかで魅惑的な響きをもってこだまする。……ランケン、私よ、帰ってきたわ……
これまでに起こったことを合わせて考えると、あるおぼろげな影が見えてくる。いや、意識の奥深くでは、それはもはや幻ではなく、実体を持ったある姿となっていたのだが、私の理性はそれを否定したがっていた。
何かが、誰かが、私の記憶のどこかに封印を施していた。その記憶は結界に縛られた魔物のようにもがき、意識の表へと出たがっていたが、私の内と外の何かの力によって封せられていた。
私はディコンをもう一杯注いだ。『古鴉』とくすんだ金茶で書かれたはり札には、畑で種をついばんでいる少々ひねた顔つきの鴉が描かれている。マルテやパイレのものより香りがきつく、粗野な味だったが、値はかなり安い。
いつもより早い時間に床についたが、眠れなかった。ここ数日の出来事が頭の中でへたくそな喜劇役者の手によって、でたらめな順序で繰り返し上演された。各々の幕はだんだんと短いものになっていき、第一幕だけが、くっきりと、残っていく。そこだけは喜劇にはならず、役者も一流だった。
銀色の服の女が私の寝台にいる。白い肌、黒い髪、琥珀色の瞳、甘い息、しなやかな身体……くちづけの感触がよみがえる。彼女が流した黒ずんだ血が唇にふれ、舌に流れる。それは芳醇な葡萄酒のような味がした。まろやかで、舌を包み込むような柔らかな刺激。私は彼女の顎や首筋、鼻の穴に舌を這わせ、甘い血を味わった。再び唇を重ね、私たちは互いの舌先に情欲を集めて、からめあった。固くなった彼女の乳首が私の裸の胸に触れる。
目の前にある金色の瞳が私を見る。そのまなざしは私の瞳を突き刺し、脳髄に直接触れて、私の中から何かを剥ぎ取り、何かをつかみ取り、魂に淫らな踊りを教え込む。永遠に終わらない踊り、命の果てるまで、否、情念の尽きるまで続く終わりなき欲望の踊りだ。そしてまなざしはさらに奥深く突き入り、ついには私の頭蓋を突き抜けて、世界の裏側にまで達してしまうような気さえする。私を見ている、どこも見ていない琥珀の瞳。
彼女の白い頬は血の気を帯びて燃え、目は淫らな炎に赤く染まっている。私は彼女に尋ねる。
「おまえは誰だ」
彼女は私に唇を押しつけたまま笑う。
「……おまえは誰だ」
「あなたの……恋人よ……」
彼女は私から体を離し、夜の町へ出ていく。私は彼女の後を追う。街路は雨に濡れている。青白い月の明かりが濡れた石畳を照らし、反射した光が妙にまぶしく目を射る。彼女はその光る道を歩いていく。身にまとった銀の裾の短い服は第二の皮膚のように体にはり付き、一歩ごとに美しい曲線の動きを際立たせている。短く切った黒髪の下にのぞくうなじが月光を浴びて驚くばかりに白く見える。
街には人々が溢れている。サンジェリィの夜は遅い。夜半まで、居酒屋の並ぶ通りには人々が行き来し、陽気な、時には悲しい歌を歌い続けている。だが、誰も彼女に気づく人はいないように見える。誰もが、他の何かに気を取られていて、彼女の姿が目に入らないかのように、彼女は人の流れに逆らって、水の中を行く魚のように街路を歩いていく。
やがて、人波と街並みは途絶えた。
彼女は廃墟の中に立っていた。
夜空は黒い水たまりのように静かに波打ち、時折、波間から星々が弱々しげな光を見せる。その下に、瓦礫の山が横たわる。所々に残っている白っぽい石柱と、白っぽい壁。
そこは寺院の跡のようだ。まだ残っている壁には崩れかけた何かの象徴の浮き彫りがある。何を意味している形なのだろうか。見覚えがあるが、思い出せない。
瓦礫の中に、彼女はたたずんでいる。白い顔に月光がさし、冷たい光が反射されて、奇妙にまぶしい。笑みを浮かべる彼女の色の薄い瞳が私を呼んでいる。
近づくと、そこはかって何らかの存在が祭られていた場所であることに気づく。石造りの祭壇は傷つきながらも、まだ、滑らかな表面を保っている。周囲にはたくさんの供物が捧げられている。廃物の山。錆つき刃のこぼれた長剣、二つに割られた古風な兜、ひびだらけの皿や盃、黴がはえ、ばらばらになった書物、脚の取れた椅子、しおれたたくさんの花、腐って崩れた果実の山、腐敗臭を放つ得体の知れない肉、砕け骨……ごみの捧げ物の中に祭壇はあり、その前に彼女がいる。
霧雨が降っていて、白蛇の革でつくられたような服が濡れて体にはり付き、ぬめぬめと光る。短い髪もまた、濡れて、額に、頬にはり付く。
彼女の唇が動いて、音のない呼び声を形づくる。私の名を呼んでいる。私の名を……
私は彼女を抱きしめ、その名を呼ぶ。私の唇も動いているが、私にはその名を聞くことが出来ない。いぶかる間もなく、私と彼女の唇は重なり、私たちは祭壇の上に身を横たえる。体の下で腐った果実が潰れ、べっとりとした感触があり、腐った臭いが立ち昇る。が、それは極上の羽根蒲団の寝床のようでもあり、レネシャンの飛び切り値の張る香水のようでもある。
脱ぎ捨てられた彼女の服は蛇の抜け殻のように半ば透き通り、とろけて消える。
私は彼女の少女のような乳房を握り、もみしだく。欲情の大波が二人の体を内から揺り動かし、貧るように舌をからませる。彼女のあえぐ声が、耳を介さず、頭の中に響く。熱く、濡れた彼女の秘所を私の手はまさぐり、愛撫する。柔らかい濡れた肉は生き物のように私の指にからまり、吸いついてくる。手のひらで雛尖をこすり上げようとする。彼女のそれは固く、大きく、張りつめている。手の動きにあわせて、太股が引きつるように動くのがわかる。手の中でそれは、ますます固くなり、大きくなっていく。指先ほどの大きさになったそれは、石のように固く、しかし、熱く脈打っている。しどけなく開かれた、彼女の股間に私は目をやる。ほとんど無毛に近い恥丘に、象嵌されたように赤くぬめぬめと光るものがある。黒ずんだ紅色の奥に、渦潮のように何かが轟き、明滅している。あの石だ……
私は身を起こし、祭壇から降りようとする。アムアッサの声が耳の奥でささやく。その女と寝てはだめよ……
だが、私は身を離すことは出来ない。彼女の金色の瞳が私の脳に蜘蛛の糸をかけ、引き寄せている。それは脳のしわの隅々にまで入り込み、強烈な快楽の液汁を染み込ませる。私の逸物はすでに彼女の淫裂の奥深く挿入されている。
彼女のか細い腕が、抗い難い力で、私を抱き寄せる。私はあばらのういた痩せた胸に指を這わせ、尖った乳首を含み、白い喉をなめまわす。そこに、見えない髪の毛の感触を感じる。重い黒髪の房が私の鼻をくすぐる。
「イーヴァ」
彼女は首を振るが、それは私の呼んだ名にうなずいたものか、激しく突き動かされる男根に応えたものかはわからない。
恐ろしいほどの悦楽の頂点で、私は彼女の胎内深く射精する。私は彼女が決して孕むことはないと確信する。彼女は産む女ではありえない。
彼女の肉襞から、私の逸物が引き抜かれる。彼女の淫水と私の精液が混じりあい、彼女の恥丘に滴る。
赤い宝石と化した彼女の雛尖が突然、まばゆく光る。真紅の光の海の中に私たちはいる。どこかで、人の声が聞こえる、大勢の人の声、歓喜の声が聞こえる。
冷たく暗い寝床に、私は横たわっていた。
体中を虚脱感が覆っている。
まだ夜は明けない。
股間に生暖かい感触があった。私は精を漏らしていた。部屋には自分の精液の臭いと、あの女の甘く腐った香りがかすかに漂っていた。
昼過ぎに私は目を覚ました。それと気づかぬうちに寝台に彼女の姿をさがしたが、彼女はいなかった。
探索の手掛かりは私が触れると皆、跡切れていた。イアハルトとウィールドは肝心な記憶を欠落させていた。故意に私を困惑させようとしているとするには、あまりに見え透いている。ヤズリーは死に、ベルターボンも死んだ。アムアッサの占い通り、何かの力が私からイーヴァを隠していた。もう一人のイーヴァの幻は私を幻惑する。占いの通りに、髪の短いイーヴァは廃墟にたたずんでいた。
アムアッサはイーヴァを抱くなと言った。私はすでにイーヴァを抱いたことになるのだろうか。
廃墟を見つけだすこと、肖像画家を捜し出すこと、この二つが私に残されていた。もうひとつヤズリーとイアハルトの手首にあった蘭の刺青も、気にかかっていた。
私はワイセン十字路近くのサンジェリィ画商組合の会議所に出向いた。応対してくれた中年の口髭の男は、いぶかしそうな顔付きだったが（肖像画など頼むような人間に私は見えなかったのだろう）、プトナウの住所を教えてくれた。
「プトナウはいないかも知れませんよ」
男は赤い首巻きの位置を直しながら言った。
「どこかへ逐電でも？」
「あまり、お話ししたくはないことですが、プトナウは近頃、いかがわしい書物の挿絵に手を染めたとかで、役人に目をつけられているようです。我々としても、信用に関わりますから、本人を呼んで話を聞きたいのですが、一向に出て来ないのですよ」
「なるほどね。だが、腕には変わりはないだろう」
プトナウの住まいは、サイマー街の新月通りだった。アーメット大通りからは通り二本ほど隔てたところで、夜ともなればその名の通り、闇が覆い尽くす寂れたところだった。古びた三階建の建物の二階に彼の部屋はあった。一階は靴屋だったが、黴の生えた革が何枚か放り出してあるきりで、主人も客もいなかった。
私は狭く急な階段を足音を忍ばせて上がった。また死骸に出くわすのはご免こうむりたかったが、何が出てくるのはわかったものではない。剣の柄に手をやってみたが、何にも異変を知らせるものはなかった。
少々かしいでいる扉にはプトナウ・カンデル、肖像画そのほか承りますと書かれた画布の切れ端が打ち付けてあった。
どうやら、部屋の主は生きているらしかった。扉の向こうからは、寝台がきしむ音と、男女の生臭い息の音が洩れていた。
扉とかまちの隙間から中を覗いた。女の白い背中が見える。細身で短い黒髪の女だ。女は、男の上に馬乗りになって腰をゆすっている。男の褐色の腕が、女の白い尻の肉をつかんでいる。
私は宝石屋での惨状を思い出し、部屋に飛び込もうとしたが、思い止まった。ファバーン剣は反応を示さず、また、女の姿も、幻ではなく、しっかりと重みを持ったもののような気がしたのだ。
交わりは延々と続いた。やがて、二人は体の位置を変え、再び行為に耽った。
男は、ナクシャッツ辺りの血を引いているらしく褐色の艶やかな肌をしている。ちらりとしか見えなかったが手首には例の刺青があったようだった。歳の頃は四十過ぎか。プトナウという南方系の名を考えるとこいつが肖像画家と見てもよさそうだった。
女はあの女、私を惑わし続けるあの女だった。女のあえぐ顔は、イーヴァの描いた春画の中の彼女と良く似ていた。
いつ果てることなく、二人は互いの肉を貧り続けた。手のひらに汗がにじむ。逸物が固くなっていくのがわかる。
私は汗で滑る手で、剣の柄頭をつかんだ。魔法の感覚はなかったが、それでも多少は理性が戻るような気がした。ここで、呪縛に囚われるわけにはいかない。
体を引きずるようにして、壁にもたれながら私は階段を降りた。
斜向かいに、流行らない古惚けた茶店があった。店の前の今にも壊れそうな椅子の一つに座り、マシュウ茶を注文した。出口は一つしかないことは確かめてある。しばらくは張り込むしかなかった。飲物はお湯に色を付けたような代物だったが、飲むと、幾分かは頭がはっきりしてきた。
マシュウ茶をもう一杯飲み、しょっぱい粥を胃に流し込むと、辺りは夕闇に包まれた。
二人が階段を降りてくるのが見えた。画家は黒い外套をはおり、女も黒っぽい袖なし外套を着ている。二人は足早に石畳の路地を歩いていく。
私は後を追った。女が半歩先を歩き、プトナウはその後をついていくようだった。つけて行くうちに奇怪なことが起こる。私は自分がどこを歩いているのか、わからなくなったのだ。サンジェリィの道のすべてを知り尽くしているわけではなかったが、夜とはいえ、市街で自分の居場所がわからなくなるようなことはないはずだった。しかし、私は見覚えがあるようでない暗い路地を二人の後を追って歩いているのだった。
不意に追跡行は終わった。あの、夢で見た廃墟についたのだった。廃墟にはすでに、数十人の人々が集まっていた。暗くて、顔だちまではわからないが、皆黒っぽい外套をはおっているようだった。
廃墟の中央には松明が灯され、祭壇を照らしている。夢で見た通りのごみ屑のような捧げ物がある。
人々の詠唱が聞こえる。聞き慣れない、しかし、どこかで聞いたことがあるような言葉を単調な旋律に乗せて繰り返している。私にはその言葉を聞き取ることが出来ない。耳に音としては聞こえるが、言葉として意味をなさないのだ。
祭壇にあの女がのぼる。彼女は集まった人々の（何らかの信徒なのだろうか）野卑な悦びの声の中、着ているものを脱ぎ捨て、白い裸身をあらわにする。自ら、股を開き、肉の裂け目を広げ、さらす。祭壇を囲む人々は一斉に黒い外套を脱ぐ。皆、その下には何も着ていない。老若男女の裸体が並ぶ。
良く見ると、人々は皆、体のどこかに、あの蘭の花の刺青をしている。腕に、乳房に、腹に、うなじに、男根に、尻に、紅色の乱が咲き崩れている。
祭壇の女は、下腹を突き出す淫らな踊りを踊りながら信徒の中から、一人の男を指名する。男は祭壇にのぼり、二人は、狂おしいくちづけをかわす。二人は祭壇に横たわり、互いの股ぐらに顔を突っ込む。
待っていたかのように、乱交が始まる。人々は、異性同性の区別なく、抱き合い、肌を重ねる。
松明の揺れる炎が、祭壇で色情に狂う二人を照らしだす。男の顔が、明かりの輪の中に入り、はっきり見えた。
全身に汗が吹き出し、額のあたりがひどく痛んだ。異常な興奮が、胸の奥から沸き起こり、私は獣のような叫びを上げた。祭壇の上の男は私だった。髪の短い女と、曲芸師のような姿で交わっている男はこの私にほかならなかった。
私は剣を抜き、廃墟に飛び込んでいこうとした。崩れた壁を飛び越え、走りだした。わめき続けていたが、行為に耽る人々は誰も気づかないようだった。
瓦礫に足を取られて転んだ。口の中を切って血が流れ出す。剣を杖に立ち上がろうとする。刀身の緑の光が私の目を焼いた。刻まれた太古のファバーン文字は、超自然の力が働いていることを示し、幽気のような青緑の光を放っていた。
刀身を頬に押し当てた。氷のように冷たい。熱を出すことのない、炎をかき消す光だった。
冷気が、どうにか私の鼓動を静めた。私は剣を頬に当てたまま、瓦礫の中を無様に這いずるように、逃げ出した。
背後では、私とあの女の荒い息が宙を満たすように響き渡っていた。意味の取れない詠唱は、しつこく、耳の中にこびり付き、ライアノン通りまで私を追ってきた。
次の日は薄灰色の雲がサンジェリィの空を覆い尽くしていた。目が覚めたが、時刻はさっぱりわからなかった。腹がすいているのかどうかさえ、良くわからなかった。乾いた麺麭と乾し肉をディコンで流し込んだ。喉に真綿、腹に焼けた石を突っ込まれたような気分だった。
今まで起きたことを、頭の中で整えようとした。何らかの淫祠邪教の類が存在している。イーヴァはその巫女にされているのだろうか。それもあの女が、イーヴァだとしての話だが。もしそうだとしても、それはイーヴァの意志でなされているのだろうか。ヤズリーの話、イーヴァの署名のあった絵からすれば、そうとも思える。蘭の刺青は、しかし、イアハルトの腕にもあった。イアハルト、ヤズリー、プトナウは、皆通じていて、イーヴァを邪教の生贄にしているのだろうか。
そして、あの石だ。石には、どんな魔力が秘められているというのか。
私はこの一件にどんな関わりを持っているのだろうか。
私はすべての疑問の答えを知っているような気がした。だが、それは記憶の水底深く沈められ、引き上げようとすれば、何かが網を絶ち切り、意識の海に大波を立てるのだ。この奇怪な一件の真の主役はイーヴァではなく私であるのかも知れない。
私は街へ出た。
残された手掛かりを追わなければならない。この事件は何よりも自分のために解決しなければならないのだ。しかし、靴には鉄の轡がつけられたようで、腰のファバーン剣はハーナン族の戦斧のように重く感じられた。百回も女と交わったかのように、腰のあたりがだるかった。
どうやら、昼はとうに過ぎているらしかった。人通りはそれほど多くはなかったが、それでもここは西部最大の都サンジェリィだ。雑多な人々がそれぞれの何かを抱いて行き交っている。
大きな葛を背負った商人が額に汗をにじませて歩いていく。走り使いの少年が、薄汚れた灰色の布袋をもって走り去る。白髪の老婆が、杖をついて、ゆっくり午後の散歩をしている。
だが、彼らは回り燈篭に描かれた人影のように、私の左右を通り過ぎていく。私はどこへ向かっているのだろうか。周囲の風景は歩いていくに従い、おぼろな影のようになっていく。ただ、薄灰色の雲に屡われた空だけが、くっきりと見える。雲のひだには、あざやかな青や赤の輪郭線が、版のずれた色刷り版画のように、見えている。
影絵のような景色の中を私は歩いていく。街行く人々の騒ぎがはるか遠いものになっていく。
私は廃墟に立っていた。
昨夜見た通りの、夢で見た通りの廃墟だった。白い石柱が何本かはまだ立っている。白い壁もまだ、幾らかは残り、そこには何かの象徴らしい浮き彫りが半ば崩れて残されている。
地面を瓦礫の山が埋めている。大小の石片、漆喰のかけら、ひび割れた敷石、雨ざらしになり朽ち果てた木製の長椅子。
その奥には祭壇とおぼしき低い台がある。人が横たわれるほどの大きさの滑らかに磨かれた石の台。
空のどこかで雷が鳴っている。低い雷鳴が聞こえる。灰色の空から、雨粒が落ちてくる。
祭壇の向こうに彼女が立っていた。肖像画で見た青紫の上品な着物をまとっている。蒼白な肌、だが、唇と頬は上気したように赤い。鳶色の瞳が私を見ているように見える。長い黒髪が雨に濡れて光る。細い指には銀の指輪がはめられているが、そこにあるべき宝石はなかった。
私は彼女に歩み寄った。
「……イーヴァ…君か……」
「私よ。イーヴァ・ライヴェ・イアハルト……」
イーヴァはかすかな笑みを浮かべて、そう答えた。だが、彼女がその名を口にするとき、赤い唇は異なる音を発しているかに見えた。
「あなたの……恋人よ、ランケン」
近づくとその高価な絹の衣装は汚れ、あちこちが裂けているのがわかった。何日も湯につかっていない乞食のような臭いがした。
イーヴァは青い服を脱ぎ捨てた。灰色の空に投げ上げられた服は、宙で溶けて、青インキのようになって飛び散った。
彼女は何も身につけていない。白いやせた胸に雨粒が当たってはじけて落ちる。
彼女は手に銀の刃を持っている。それを自分の髪に押し当て、ざっくりと切り落とす。黒髪はゆらゆらと妙にゆっくりと、なめらかな彼女の肌の上を滑り落ちていく。
もう一人のイーヴァがそこに出現する。瞳の色が薄くなっていき、琥珀色になる。視線は私の体と脳を縛り、世界の果てを見つめる。
弱い風が、彼女の香りを運んでくる。甘い蜜の匂い。少女にはそぐわない熟れ過きた果実のような匂い。
私は瓦礫を越えて、彼女のもとに行こうとする。祭壇の前に立つ。
夢で見た通りのごみのような供物がたくさん周囲に並んでいる。泥と汚穢にまみれているのは、裁判官の法衣だろうか。幾つにも裂かれて、無意味な文字の列をさらしているのは、『民人の法』か『王の法』か。ひびわれた髑髏にかぶせられているつばのない黒い帽子は、警邏隊長官のものではないのか。
イーヴァは満足げな笑みを浮かべて、右手を股間にやる。自ら秘められた裂け目を拡げると、そこには、あの石が鈍く光っている。それは白く粘ついた液体にまみれている。
夢で漏らした私の精液だ。
イーヴァは自らのそこを慰めるようにゆっくりと、それを拭った。彼女の白い指には、赤く血が混じったような樹液がついた。彼女はそれを丹念になめ取った。
石の色が変わっている。こびり付いた血を拭ったかのように、黒ずんだ赤からそれは深い紫色になっていた。石は光を増し、雷鳴と鼓動を合わせるように明滅している。
私たちは互いの体を抱きしめ、唇を重ねた。私は身に付けているものを引き剥ぐように取り去った。投げ捨てたファバーン剣の刀身には神秘文字が緑色に燃えていた。魔法が行われている。だが、暗闇の魔法ではない。甘く美しい、色とりどりの魔術だ。冷たい緑色の光は、今の私には意味はなかった。
祭壇の上で私と彼女は交わった。昨日の夢のように、腐った果実の布団の上で、腐敗した汁にまみれて、狂ったように腰を動かし、舌をからめあった。
恐ろしい快楽が私を支配した。逸物から、いや、彼女と触れ合っているすべての皮膚から、鉄をも溶かす熱い快感が生まれ、私の理性を粉々に打ち砕き、どろどろの欲望の粘液に変えた。二人の体を動かす律動は完全に一致し、肉と肉、肌と肌、体液と体液が、狂気の祝宴の楽の音を奏で続ける。
韻律が速まり、悶える声の旋律が高まる度に、私の中で、閉ざされていた記憶の封印が解けていく。包み隠していた魔法の絹布がじわじわと焼け落ち、中のものがのぞいていく。かいだことのある香り、感じたことのあるまなざし、見覚えのある瞳、触れたことのある肌……
私の体内に、快楽とは違う何かが沸き起こり、急激にそれは高まっていく。快感の大波に、その影のように何かがつきまとって、体の中を駆け巡る。閉ざされたものは、ほとんどその姿を現わしている。私には見える、それが何かが。言葉だけが、未だ封印されている。
イーヴァはナクシャッツの熱病に冒されたかのように、痙攣するように腰を突き上げ、私の逸物をより深く、その胎内にくわえこもうとする。私もそれに応えて、彼女の肉の穴を突き破り、子宮の中にまで達せとばかりに、男根を突き入れる。沸き起こるもう一つの何かは情欲の中に埋没し、解かれ始めた記憶の幻は意味を失っていく。
私とイーヴァは同時に快楽の絶頂に達した。頭や手足から、血の気が引き、すべての知覚、感覚が麻庫していく中、性の快楽のみが化け物のように膨れ上がり、爆発した。射精の瞬間、すべての封印は解かれ、言葉が、私の冷たくなった脳に満ち、こだました。
大勢の声が聞こえる。悦びに満ちた声が、廃墟に響いている。その悦びの声は、百人もの人々が、同時に悦楽の絶頂を迎えたかのようだった。灰色の雨雲の裏側で稲妻が千本も走り、空は青白い光に包まれた。
今こそ、私はこの祭壇が、いかなる存在のためにあるかを理解した。私はその神の名を知っていた。一度は自らの手で、その復活を阻止した邪神、三千年の昔、シェラドゥーアの都に君臨し、堕落と退廃に満ち満ちた夢幻境をこの世に造りだした妖美の女神を私は今、呼び起こしたのだ。
その神の名はヨウラという。
三千年前、『光る神々』との争いに破れて、何処の宇宙へか追放されていた魔性の女神を私はよみがえらせたのだ。
イーヴァの股間で脈打つ石は、神々の復活を担う力を秘めた石、私が廃塔から海に投げ捨てたはずの魔石『ハルロッツの瞳』に違いなかった。
廃墟にはたくさんの人影があった。白っぽい長衣を身につけた数人の男女は、猥雑さと荘厳さが入り交じった異国風の節回しでヨウラを賛える歌を歌っている。歌いながら、彼らは法衣の裾を捲り上げ、男は屹立した男根を巫女たちにくわえさせ、女は、少年達に女陰をなめさせている。神官の一人の顔はウィールドに良く似ているような気がする。
様々な身なり、年齢の人々が口々に神の名を賛える。
「ヨウラ、コーラ、アフティ、エバス……」
アニャチの言葉、イオロープの言葉、エスカールの言葉、ナクシャッツの言葉、ブーマ・グージアの言葉も聞こえる。ナクシャッツ語で叫びながら、子供の尻を犯しているのは、あの肖像画家のようだ。
誰かの声はこう聞こえる。
「ジョウル・ラー、ジョウル・ラー……」
そう呪文のようにつぶやきながら、髪の長い痩せた少女を犯している老人は、イアハルト伯爵に良く似ている。青ざめた少女は、まだ乳房もほとんどふくらんではいない。
私は、身を起こし、まだ交わったままの女の顔を見る。
「至福の時が来たのよ」
ほほえむ彼女の顔は心持ち肉付きがよくなり、唇がより肉感的になったような気がする。髪の短いイーヴァは誰かに似ている。もう一つの幻から霧が払われ、あやかしの姿が明らかになる。
かつて『ハルロッツの瞳』をジクロイスの寺院から取り戻してくれと私のもとを訪れた女がいた。その女も琥珀の瞳の持ち主だった。イム・モエヤと名乗ったその女は、ヨウラのこの世の化身、ヨウラの復活を計る蛇淫の女だった。帰って来たわとささやいたのは凶々しい石に閉じ込められた彼女の思念だったのだろうか。
壁の半ば崩れた印を見る。横線が中央より上についた十字形、交わった点には、星。この廃墟はトリプロ街のジクロイス寺院だ。『ハルロッツの瞳』が隠されていたところ、あそこに転がっている頭の砕けた聖像、あそこに神を復活させる石は隠されていたのだ。
記憶が次々と継ぎ合わされ、形をなしていく。それは黒紫色の煽情的な衣装をまとったモエヤ夫人の爛れた彫像になっていく。
八年前のある日、モエヤ夫人は『ハルロッツの瞳』を取り戻して欲しいと現われた。ワコフに、それは神々の復活に関わる魔法の石だと忠告された私は石を渡すまいとした。ヨウラの復活を阻止しようとするジクロイス教徒、自らの人食いの邪神をよみがえらせようとするセベ・チャグルの神官も入り乱れた闘いは、太古の魔術によってそびえたつ廃塔の頂きにもつれ込んだ。モエヤ夫人の幻術にかかり、ジクロイス教徒とセベ・チャグルの神官たちは、色情の虜になって悶え狂う。
星々の位置がそろい、復活の時が来る。私はファバーン剣の力を借り、モエヤ夫人を斬った。赤光の中に妖女は消え、私は石を海に投げ捨てたのだった。
記憶の封印は解かれたが、それは私に何ももたらしはしなかった。ただ、そういう過去があったというだけだ。
まわりの人々は、口々に邪神を賛えながら、手当り次第に交わりを始めている。廃墟は、男と女、男と男、女と女の上げる淫らな音で満たされる。
私は祭壇から降り、まわりを見渡した。
「あなたの世界よ」
イーヴァが私に体を押しつけ、耳たぶを噛みながらささやく。
惚けたように目を見開き、繰り広げられる肉の宴を見続ける。見覚えのある顔が幾つもある。全裸の金髪の女の足元に膝まつき、足の指をしゃぶっている小男は、ヨウラの力を借りて、完全な美の化身を造っていたキュソアという名の人形師ではないのか。一団の鉛色の顔をした、半ば腐った体を持つ男たちは、『ハルロッツの瞳』を付け狙っていたセベ・チャグルの神官たちではないのか。何匹もの蛇のようにからみあって、互いの性器と肛門を責めあっている血まみれの男女の群れは、この寺院で石を守護していたジクロイス教徒たちではないのか。黒髪をゆらし、男に馬乗りになって喜悦の声を上げている豊満な肉体の女にも見覚えがある。ロラストの山の向こうで沼に棲む魔物と結び、美しさを手に入れたあの女ではないのか。笑い声とすすり鳴きを交互に漏らしながら激しく瓦礫の中で交わり続ける中年の男と、細みの女は、ギルーべのはらわた男爵とその双成の子ではないのか。
あの石柱の影で、大きな乳房を揺らして、三人の男と同時に交わっているのは、ミューツィーではないのか。
私の人生は、今、この時のために、用意されてきたものなのだろうか。すべてはこの時に収束するのか。数知れない不毛な闘いは、この時のためにあったのだろうか。
生暖かい雨が降っている。雨は精液のように粘つき、淫水のような香りがする。灰色の空には淡い虹色の光が、狂ったように、犯しあう人々の腰の律動に合わせて、舞を舞う。見慣れたサンジェリィの家並みが蜃気楼のように揺らいで見える。王宮のオフの塔、シュヌベル大学の時計塔、プルクト神殿の尖塔、そして、遠くルクセン岬の廃塔が、見えない手で引き伸ばされて、空に延びていく。エスカールの極北の地で見られる極光のように、緑や紫、桃色の光の布が、灰色の曇り空に出現する。町並みをすっぽり覆うようにもう一つの街が現われる。白い丸屋根と尖塔が幾つも連なる美しい都。その街を見たことはなかったが、私には街の名がわかる。シェラドゥーアが、邪美神ヨウラの街が三千年の時の彼方からよみがえろうとしているのだ。
見る見るうちにシェラドゥーアの幻は、サンジェリィのくすんだ建物を覆い隠す。白い家々には宝石のように様々な色合いがちりばめられ、どの家も流れるような官能的な曲線で形作られている。シェラドゥーアは街自体が一つの芸術作品なのだ。理性によらない様々な感覚を集合させた、巨大な生命の建築。
気づくと私がいるところも、もう廃墟ではなかった。白い大理石で造られた宮殿に、私はいた。いかなる匠の技なのか、飴のように不規則にねじ曲がった柱が、これも不規則な凹凸をもった半球状の屋根を支えている。黄金の鉢が黄金の鎖で吊され、濃密な匂いの香がたかれている。壁は、考えられる限りのあらゆる姿態で、淫らな行為を続ける男女が、恐ろしく歪んだ煽情的な姿で彫り込まれている。
広間の一面は露台となっており、狂気じみた、しかし美しい家並みが広がっているのが見える。塔は男根、丸屋根は女陰だ。灰色の雨雲が地平近くで跡切れ、沈もうとする夕陽がのぞく。夕陽は、信じられないほど赤く、白い町並みを紅に染める。
「殿、陽が沈みまする」
細い指が私の胸を後ろから抱きすくめる。
「イーヴァ……」
髪の短い少女が立っている。ほっそりした体を絹の薄物一枚に包み、私にもたれかかる。額には黄金の頭環、開き切った女陰を型取ったその飾りには紫色の石が光る。
私はイーヴァを見つめる。彼女の金色の瞳はしっかり私を見つめている。深く限りない純真さがその瞳にはあった。珊瑚色の唇からは、これから夜通し行われるであろう快楽の行為への期待が隠し切れずに、見えない唾液となってあふれ出る。その唾液は澄んで美しく、混じり気のない蜜のように甘く、かぐわしい。
「寝殿へまいりましょうか。それとも、ここで……」
「ここでいいじゃないか」
私たちは、互いの服を脱がし、くちづけをし、体をまさぐり、交わった。私の逸物は幾度精を漏らしても、萎えることはなく、イーヴァの秘裂は果てしなく蜜を溢れさせ、私の樹液を吸い込んだ。夜は明けることがないようで、晴れ上がった夜空では、星々が幾度も幾度も昇り、沈んでいった。街からは灯が消えることなく、騒きが湿った風に乗って聞こえてくる。無数の人々が、それぞれのやり方で、肉の悦びに浸り、魂を解き放っている。歓喜の声が、いつまでもいつまでも聞こえてきた。
私たちの悦楽には終りがなく、大理石の床は私とイーヴァの流した様々な体液で濡れ、冷たい石までが欲情しているようだった。
短い行為の合間にイーヴァは床に転がっていた林檎を取り、囓った。林檎は黒ずみ、腐りかけていたが、甘い良い香りがした。イーヴァは口移しで私に林檎を与えた。腐った果実は甘かった。
「すばらしい世界が訪れたのよ」
彼女はうわごとのようにつぶやいた。私はあいまいにうなずき、彼女の口の端についた果汁をなめ取った。
「街の声を聞いて。誰もくだらない倫理や道徳、常識というものに縛られる者はいないのよ。誰もが、魂と肉体の自由を得たのよ。永遠の美と快楽の世界が始まったの。人々は愛を交わすわ、なにものにも束縛されない愛よ。純粋な美が生まれるわ。芸術家の心を縛っていた伝統も、見えない枷も消えるの、本当に自分の欲するものだけを造ることが出来る。理性という枷はないのよ。ヨウラがそれをもたらしたのよ。ヨウラは邪神ではない、ヨウラは解放の神よ」
私はうなずき、もう一度、彼女にくちづけた。
私は幸福を感じた。安堵感があった。私はずっと、何かを求めて旅をしていた。得体の知れない何かを求めて世界を放浪し、サンジェリィに帰っても、まだその何かを求めて、街をさまよい続けていた。その間、私は数え切れないほど、剣を振い、おぞましい異界のものを滅ぼしてきたが、一度としてその闘いを望んだわけではなく、勝利はいつも空しく意義のないことだった。
人々は身近なところに彼らなりの何かを見いだし、それぞれの幸福をつかんでいたが、私には何かを見いだすことがとても難しかった。
その何かを私はついに見いだしたような気がした。イーヴァとの阿片の夢のような交わりの中に、私の安逸は約東され、魂は解放された。
いつの間にか、夜は明け、水色の空に金色の陽が昇った。だが、街からの声は変わることなく、跡切れはしなかった。終わり無き宴は陽光によってかき消されることはないのだった。
昼夜の時間は女神の気まぐれで決定されているようで、日ごとに違っているようだった。陽は沈み、陽は昇り、狂った機械時計のように宇宙は時間を刻み続けたが、誰もそれに気を止める者はなかった。
私たちは互いの唇を、舌を、股間を、胸を、尻を、足を、腕を、指を、肌を、髪を、味わい尽くし、貧りあった。
侵入者は明け方に訪れた。私とイーヴァは体をつなげたまま、浅い眠りに落ちていた。私は足音で目を覚ました。瓦礫を踏むような不規則な足音だ。広間に広げた羽蒲団の上で私は見を起こした。濡れた音がして逸物がイーヴァから抜け出た。イーヴァも目を覚ました。
広間には、デリン燈を硝子細工の篭に収めた明かりがある。手を触れると、薄緑の光が部屋を照らした。
侵入者は枯れ葉色の長衣に見を包んだ痩せた人影だった。その姿は、絶えず細かく震え、揺れているので、はっきりと顔形を見て取ることが出来ない。亡霊のような影は右手に光る剣を持っていた。刀身が青緑に輝く反り身の長剣だ。
影は、奇怪な足音を響かせて近づいてくる。くぐもった声で何事かつぶやく。聞き取れない呪文のようなつぶやきと、一歩ごとに石を崩すかのような音が広間にこだまし、私は総毛立つような恐怖を覚える。
「ランケン、あれは……」
イーヴァが私の肩に手をかけ、しがみつく。だが、私には彼女を守ってやれる自信がなかった。私はその存在が怖かった。薄茶色の亡霊からは、腐敗臭が漂う。頭巾をかぶった白い顔は、水に映る影のように揺れ続けているが、髑髏のように見える瞬間もあった。
「ラ……ン…ケン……」
世界の果てから響いてくるような声が、私の名を呼ぶ。恐怖のあまり、冷たい汗が吹き出てくる。
私は壁にかけてあった、銀の短剣を握った。宝石で飾られているが、長さ二イート近い、刃を持った武器だ。
亡霊の剣から放たれる光に照らされると、宮殿は変質する。大理石は崩れ、織物は朽ちた。恐ろしい時の経過が、その光によってもたらされるのだろうか。
「ランケ……ン……」
影の呼ぶ名が、私の脳髄から爪先までを嵐のようにかき乱す。
「だめよ、ランケン、答えてはだめ、連れていかれるわ」
イーヴァが震える声で言う。
「…ランケン」
光る剣が振り上げられた。切っ先が、祭壇を打つ。石にひびが入り、それは数世紀の時を一気に経たようになってしまう。剣はこぼれる様子もなく青緑の光を放ち続ける。
私は短剣を亡霊に突き入れた。亡霊は緑の剣で私の刃を受け止める。白い骨のような手がぼうっと光っている。私たちは剣を組んだまま、押し合った。腕に力が入らない。亡霊はまた、私の名をささやく。
「ランケン…ランケン……」
声はだんだんとはっきりしたものになっていく。頭のどこかで、亡霊の声が、現し世のものと重なり合う。
「ランケン、だめよ、それを滅ぼして！」
イーヴァが叫ぶ。その時、揺らぐ亡霊の顔が、一瞬、はっきり見えた。
全身が凍りついたようになり、私は短剣を取り落とした。亡霊は緑の剣の柄頭で、私の頭を打ち、私は床に崩おれた。影が剣を振り下ろすのを、私は床の上から見た。
緑色の光る刀身が、イーヴァの額を打った。恐ろしい叫びが上がったが、イーヴァの頭蓋は割れはしなかった。額に巻いた金の環だけが二つになり、中心の宝石は粉々に砕け散った。
紫の炎が燃えあがり、剣の緑の光と激しくぶつかりあった。亡霊が、耳慣れない呪文のような言葉を叫ぶ。紫の炎は怒りをはらんで膨れ上がり、剣を包みこむ。
「リューフェン、イヒト、ヴィー！」
亡霊が、金切り声で叫んだ。
亡霊の剣から、目も眩む巨大な稲妻が走り、紫の炎をかき消した。炎は塵のように、うっすらと広間を漂い、一瞬、私の方へ集まってくるように見えた。だが、次の稲妻が、それを撃ち、炎は消えた。
私の目の奥には、金色の瞳の女の幻像が残った。彼女は赤い唇を動かし、最後の秘め事をささやいた。聞き取ろうとするうちに彼女は消えた。
イーヴァは糸の切れた操り人形のように、私の上に倒れた。私は萎えた両腕で、その冷たい体を抱きしめた。イーヴァはとても軽かった。
雨が降っていた。細い雨糸が私とイーヴァの体を瓦礫とごみの中に縫い付けるように灰色の空から落ちてくる。
宮殿もシェラドゥーアもどこにもなかった。私たちはジクロイス寺院の廃墟に重なって倒れていた。いろいろなものが腐り、朽ちていた。肉、魚、野菜、果実……供物があちこちに散らばり、腐敗臭を放っていた。汚物の臭いもする。私とイーヴァの体にも、汚れたものがこびり付き、臭いを放っていた。
少し離れた倒れた石柱に、枯れ葉色の服をまとい手に剣を持った者が座っていた。長い黒髪と白い顔は墨で描かれたアニャチの蒔絵のようだった。
「街から、異様な気が立ち昇っていたの。占いの水盤は割れたわ。人も街も透き通る幻と実体がゆらゆらと重なって、蜃気楼の中みたいだった。あなたの声が聞こえるような気がして、歩いていると、ここに辿り着いたわ。ファバーン剣が今まで見たことがないほど輝いていたわ。あなたはそこで、その女と……
「『ハルロッツの瞳』は破壊したわ。ファバーン剣が活性化したの。三千年前にシェラドゥーアを滅ぼしたのも、この剣の持ち主かも知れないわね」
私は何も言えずに、アムアッサを見ていた。彼女の美しい顔はいつにもまして白く、白墨で塗られたようだった。
「そんな目で見ないで。おもちゃを取り上げられた子供みたいよ」
占い師はぎごちなく笑い、剣を置くと立ち上がった。瓦礫の中を疲れた足取りで、歩み去った。
「…ランケン」
イーヴァが寝言のようにささやいた。長い髪が彼女の肩から落ちて、私の顔を覆った。私は彼女を抱き起こし、乾いた唇にくちづけた。
イアハルト伯爵は、ほとんど言葉らしいものはしゃべれなかった。一月前に卒中を患い、それ以来、一人では何も出来ない身になったと、ウィールドは言った。ウィールドは私の顔を覚えてはいなかった。彼は愚直なまでに主人に忠実なただの執事だった。
「お嬢様は、このお屋敷の暮らしが嫌になって、家を出てしまわれたのです。ヤズリーという家庭教師が家に出入りしていたのですが、こいつが、家柄とは大違いの放蕩者でして……世間知らずのお嬢様は甘言に乗せられてしまったのです。ご主人様は大層心を痛められまして……屋敷に縛りつけていた私が悪かったと……」
私は偶然、夜の街をさまよっていたイーヴァを見つけたと、嘘をついた。ウィールドは礼だと言って、百ダズンをくれた。
イーヴァの記憶はすべてがおぼろな霧に包まれているようだった。もやもやとした幻に悩まされる様子もあったが、多くのことは、記憶の奥底に閉じ込められているようだった。
「不思議ですわ、ランケン様。あなたを良く知っている気もするし……でも、お会いしたことはない……」
赤い、イオロープ風の酒落た服を着たイーヴァは歳相応に見え、愛らしかったが、幻影の宮殿で肌を重ねた彼女とは別の女だった。肖像画の中の彼女より、少しばかり唇に赤みがさし、艶っぽく見えた。
彼女は胸元に揺れる髪をうるさそうに、肩越しに背中へやった。
「お父様もご病気で大変でしょうが……はやく良い花婿を見つけられることを祈っていますよ。それと……」
「何ですの、ランケン様。あなたは恩人ですから、何でもおっしゃって下さい」
私は、外套を取り、帽子をかぶった。
「その長い髪はとても美しい。よく似合っている」
イーヴァは頬を染めて、無邪気な笑いを浮かべた。私はイアハルト邸を後にした。
「雨の夜、イーヴァを拾ったときから、呪術にはまっていたわけか」
「そうかも知れないわ」
アムアッサはマシュウ茶をいれた。今日はいつもより香りが強い葉らしく、薄荷のような匂いが立ち昇った。
「『ハルロッツの瞳』にはモエヤ夫人の意識がこびり付いていたのね、きっと。石が赤く染まっていたのは彼女の血、彼女の思念がこの世に形をとったものだったんだと思うわ」
「その思念が、ヨウラの復活を企んだ」
「そうね。でも、それだけではないわ。すでに滅んだモエヤ夫人の魂のかけらだけでは、こんな大きな魔術は行えない。ヤズリーという好色な男、そしてイーヴァね」
アムアッサは窓の外の青い空を眺めた。硝子細工のように繊細な横顔はあえて無表情をよそおっているようだった。
「イアハルト家の祖先には魔道士がいたらしい。彼女もその血を引いて、異界のものと共鳴する何らかの力を持っていたということだろうか」
「そう、それが、モエヤ夫人の思念に強く応えてしまったのね。イーヴァはあの屋敷に閉じ込められたような生活で、心の内に芽生えてきた色々なものが抑圧されていた。彼女はきっと恋をしたかったのよ。激しい恋をね。でも、それは厳しい父親や、弱い体のせいで許されなかった。朽ち果てようとしている屋敷の中で、彼女の活き活きとした生への羨望は煮詰められ、膨らんでいったのでしょうね。そして、魔石とヤズリーという引鉄が、彼女の精神の内奥に潜んでいた力を解き放ったのね」
私はうなずき、マシュウ茶を飲んだ。苦味を帯びた味がする。
「沼に行きましょう」
アムアッサは、足早に、金色の螺旋階段を降り、外へ出た。私は後を追った。
彼女は、着ていた灰色の長衣を脱ぎ捨てると、丸い鏡のような沼に飛び込んだ。
「あなたも来て」
私は服を脱ぎ、沼に入った。幾度も彼女のもとを訪れていたが、この沼に入るのは初めてだった。水は冷たく、身を切るようだったが、なぜか、心地好い温もりもまた感じられた。普通の水よりも、この沼の水は濃い、そんな感じがした。
アムアッサは沼の真ん中まで泳いていき、私を呼んでいた。私が側に行くと、彼女はか細い腕を私の首に回した。瞳に陽の光が入り、紫の宝石のように見えた。
「あなた、まだあの女のにおいがするわ。ここできれいにして」
「アムアッサ……」
「あなたが、望んだから、ヨウラは復活しそうになったのよ。石やイーヴァの力だけじゃない。あなたがヨウラの世界を望んだからよ。モエヤ夫人の思念はヨウラの復活よりもあなたとの交わりに向けられていたのかも知れないわ」
彼女は私の腕を取り、水底へと引き入れた。沼は信じられないほど深く、水は澄んでいたが、底は見えなかった。息は苦しく、私は手足をばたつかせてもがいた。水は私の中へ入り込み、何かを洗い清めてくれたような気がした。
岸辺に泳ぎついた私たちは、身を横たえ、弱々しい秋の日差しが体を乾かしてくれるのをじっと待った。
扉を叩く音がした。陽はとっぷりと暮れ、窓からは冷たい夜風が吹き込んでくる。私は、空の酒杯を寝台の横の小卓に置いた。ひどく疲れていたが、眠気はなく、ディコンを飲もうか、飲むまいかも決めかねて、ただ、寝床に座っていたところだった。
また、扉を叩く音がした。ぎいと蝶番がきしむ。鍵をまだかけていなかったのだ。
隣の部屋を静かに歩き回る足音が聞こえる。足音は近づき、私のいる部屋の前で止った。
「誰だ」
客人は答えない。私はファバーン剣をつかんだ。魔界の力を示すしびれるような感覚は伝わっては来ない。しかし、活性化して、強大な力を放った後なので、剣はあまりあてにはならなかった。
私は部屋を区切っている、掛幕を払った。
イーヴァが立っていた。白い夜着を着て両手を胸の前で組み、不安げな顔で彼女は立っていた。
「ご、ごめんなさい……自分でもよくわからないの。どうしてか、あなたに会いたくて……家も知らないはずなのに、いつの間にか、ここに……」
私は彼女の胸元で光る金の首飾りに目をやった。紫色の宝石がはめ込まれている。
私は切っ先をその石に突き付けた。イーヴァは息をつめ、鳶色の瞳からは涙が溢れた。ファバーン文字はくすんだままで剣はなんの反応も示さなかった。石を手に取ってみたが、それは安物のメクス石だった。
「すまない。気になることがあったんだ。こんな時間に何をしているんだ」
イーヴァは無言で立ち尽くしていた。青ざめた唇が震え、雨の中に倒れていた彼女の姿と重なる。廃墟での果てしない情事の感覚がよみがえりそうになる。
「はやく帰りたまえ、屋敷では心配している。辻馬車をまだ拾えるだろう。そこまで送ろう」
「ランケン様……私……あなたを愛していますわ」
彼女はあまりにも唐突な自分の台詞に、半ば驚いたように口に手をあてた。
「私……」
「君はヤズリーに良くない薬を飲まされていたんだ。だから、しばらくは妙な幻を見る」
「違うと思いますわ。イーヴァはあなたを……」
彼女はうつ向き、自分の胸を抱きしめた。それから、鳴咽を漏らして、私に抱きついてきた。
「私……私を抱いて下さい」
私は彼女の腕をふり払い、肩を乱暴に揺さぶった。
「馬鹿なことを言うな。子供に煩わされるのはごめんなんだ。僕は寝る、一人でね。君は帰るんだ」
私はすすり泣くイーヴァを引きずるように連れ出し、通りかかった馬車に押し込んだ。馭者はけげんな顔をしたが、銀貨一枚で口をつぐんだ。
私は誰もいない探偵局に戻った。古びた机に足を投げ出し、引き出しからディコンの瓶と硝子の盃を取り出した。『古鴉』はまだ、封を切ったばかりだった。
私は自分と自分以外のすべてのものを呪いながら、酒杯を傾けた。瓶が空になるのはあっという間のことだった。
外に出て、デリン燈の緑の明かりに照らされた通りを当て所なく歩いた。
また、雨が降り出した。霧雨は、夜風に乗って穏やかな、しかし見る者を嘲るような舞を演じた。
酔った足はもつれ、私は道端のごみの中に転んだ。通り行く人々は眉をひそめ、視線をそらした。
目の前に腐った林檎が転がっていたが、銀の服を着た髪の短い少女はどこにもいなかった。
