スデリ街で後ろから走ってきた女が私にぶつかった。黒っぽい服にやはり黒っぽい頭巾付きの肩掛けを羽織った女は、一瞬振り向いたが、詫びを言うでもなく、そのまま走り去った。頭巾の下にちらりと見えた横顔は、美しかったが青白く、ひどく不安げだった。女はあっという間に人波に消えた。
足元の石畳に油紙で包んで紐をかけたものが落ちていた。私とぶつかった時に、女が落としたものだろうか。拾い上げるとそれなりの重さがあった。固くもなく柔らかくもない何かが包まっていた。長さは半イート（約十五センチ）ほど、幅はその半分くらい。油紙の隙間から、赤黒いものが一滴したたり落ちた。
私は夕暮れの人波の中、女の姿をさがしたが、小雨が降り出していて傘を差している者も多く、重なり合った三角の影の中に女の姿を見つけることはできなかった。
警邏隊の詰所はこのあたりにはない。ラグラン大通りまで出るのは、面倒だった。私は包みを手に持ち、そぼ降る雨の中、クーリカフ街の住処に足を向けた。
スナブ・ランケン探偵局と書かれた小振りの看板の掛かった扉を開け、帽子と外套を脱ぎ、傷だらけの黒い机の上に包みを置いた。腰からファバーン剣を外し、包みの隣に置いた。軋む椅子に腰を下ろすと机の引き出しから〈古鴉〉のディコンの瓶と青硝子の杯を取りだし、一杯注いだ。
一口飲んでから、紐と油紙の包みを解いた。中から出てきたのは人間の右手だった。手首から刃物で切断され、切り口からはまだ血が滴っていた。冷たくはなっていたが、まだ切り落とされてからたいして時間はたっていないだろう。
色の白いほっそりとした手で、指が長い。若い女の手のように思えた。爪はきれいに丸くそろえてあるが、先には幾らか血がついていた。切断されるまで、相手と争ったのだろうか。夕暮れ時の青い薄闇の中で、手はぼんやりと白く光っているように見えた。
私はしばらく白い手を眺めながらディコンを飲んだ。雨空に陽は沈み、部屋は暗くなった。私は机の上の角灯に火を点した。戸口の壁の蝋燭にも灯を入れた。
黄色い光に照らされた手は、随分と柔らかく、温もりさえあるかのように見えた。私は二杯目のディコンを注ぐと一口飲み、机の上に置いたファバーン剣を少しだけ抜いてみた。
古の英雄から譲り受けた魔剣は、大半の力を失ってはいたが、妖魅の力を感じ取り持ち主に知らせることができる。握った柄からはわずかに痺れるような感触が伝わってきた。刀身に刻まれた神秘文字も、幽かに薄緑の光を放っているように見えた。
ディコンを舐めながら、またしばらくそのまま見ていると、手がぴくりと動いた。中指が痙攣するように二度、三度動き、それから、他の指も徐々にひくひくと蠢き出した。魔剣のファバーン文字がはっきりと浮かび上がる。
私は剣を抜いて膝の上に置き、右手で柄を握った。酒は左手で飲むことにした。
手は次第に滑らかに動くようになり、五本の指を曲げたり伸ばしたりした。指先に目玉がついていて部屋の中を見回しているかのような仕草も見せた。
それから五本の指が何かをつかむかのような形になり、手は弾き始めた。そこにはない楽器を、おそらくは鍵盤のある楽器、洋琴の類いを手は弾き始めた。
最初は油紙に指先が触れるがさごそという音が聞こえるだけだった。だが、次第にその音は小さくなり聞こえなくなった。代わりに豊かな響きの楽の音が聞こえてきた。指が触れているのは、相変わらずしわのよった油紙だったが、聞こえてくるのは洋琴の美しい響きだった。
最初に奏でられたのは、絵画派の巨匠アチーレの「川縁の乙女」だろうか。物静かで繊細な旋律が、仄暗い叙情を作り出す。水面の泡のように最後の音が消えると、一転、五本の細い指は軽やかに舞を舞い始めた。跳ねる指先が作り出した律動は「転がる石の舞曲」だろうか。提琴や六弦琴が入らないので純粋に律動だけで成り立っているかのように聞こえ、私は思わず椅子の上で身体を揺らした。
三曲目はまた調子を変え、荘重な音が部屋の中に響き渡った。右手だけでそんな低い音が出せるはずもないのだが、どこかで左手も見えない鍵盤を弾いているのだろうか。重い律動に乗せて、物悲しくも美しい旋律が流れた。記憶に間違いがなければ、それはホウスンの「葬送の足音」だった。
弔いの足音が静かに消え去ると、私は深い感動に包まれ、杯も剣も机の上に置いて、切断された誰かの右手に拍手を送った。手はまるで恥じらうかのように人差し指と中指を絡ませてみせた。
もう一曲演奏をねだろうかと思っていると、無粋にも扉を二度三度と叩く音がして、小さな演奏会はお開きとなった。
私はおとなしくなっている右手を油紙で包み、机の引き出しにしまい、鍵をかけた。手は死んだ手に戻り、動かずぐんなりとしていた。
扉を開けると、黒っぽい頭巾付きの肩掛けを羽織った女が立っていた。肩掛けについた雨滴が銀の飾りのように見えた。頭巾の下には黒髪が濡れて白い額に貼り付いていた。日暮れがたに見た時よりも、さらに顔色が悪いように思えた。
「ここはスナブ・ランケン探偵局で間違いありませんね」
「ええ、僕がスナブ・ランケンです」
「ああ、よかった。捜してほしいものがあるんです。急いで、お願いしたいんです」
女は私の顔は覚えていないようだった。声が少し震えているのは、雨に濡れたせいではなさそうだった。
ミジェティと名乗った女は、来客用の赤い長椅子に座っても、頭巾付きの肩掛けをまとっていた。左手で黒い服の裾を直したが、右手は肩掛けの中に包むようにしたままだった。私がマシュウ茶を淹れようとすると、女は断った。
「あの、急いでいるんです。お願いします。今晩中に捜し出してほしいんです」
ミジェティは青ざめた頬に左手を押し当て、眉根にしわを寄せた。黒いくっきりとした眉の下の瞳も黒かった。いささか顎が角張りすぎているかもしれないが、十分に美しい女だ。歳の頃は二十四五といったところだろうか。
「何を捜し出せというのですか。もう日は暮れたし、雨も降っています」
「油紙の包みなんです。大事なものが入っているんですが、今日の午後、どこかで落としてしまって。半イートくらいのものです。多分、スデリ街の通りで落としたんです。引き返して捜した時にはもうなくて、私、どうしたらいいのかわからなくて」
女は涙の浮かんだ黒い瞳を私に向けた。困惑と恐怖の色が見えた。
「よほど何か大事なものが入っているのですか。次第によっては警邏隊に届けた方が早いかもしれませんよ」
女はとんでもないという風に頭を振った。あまり、こういうことには慣れていないのだろう。
「それはできないんです。あなたに頼みたいんです。あなたは、その……」
「人の噂はともかくとして、化け物やら幽鬼やらを専門にしているわけじゃないんですよ。事情をお話ししてもらえないのなら、引き受けることはできません」
ミジェティはうつむいて自分を納得させるかのようにうなずいた。
「包みの中には右手が入っています」
女はそう言って肩掛けから右腕を露にした。黒い布で包まれた右腕には手首から先がなかった。黒い布には黒い文字らしきものが書き連ねてあるのが、光の加減で見えた。何かの呪文だろうか。
「私の右手です。今晩中に捜し出してつけてもらわないと、私は、私は……。お願いします。あなたなら、その、魔法の剣をお持ちだと聞いています。その魔力で……」
女は机の上に置いてあるファバーン剣に視線を走らせた。剣は鞘に収めてある。刀身の光は見えない。
「つけてもらう？ 切断された手をつなげるのは、真っ当な医者には無理な話です。王宮の御典医だってできはしない。トリプロ街に知り合いでもいない限りはね。あなたは妖術のかかわる何かに首を突っ込んでいる、いや、手を突っ込んでいると言うべきか。何をしたんです。右手がついてもつかなくても、ろくなことにはなりませんよ」
突然ミジェティは立ち上がり、手首のない右腕を振り回して叫んだ。
「手が！ 手がないと駄目なのよ！ あの手を捜して！ お金は幾らでも出すわ！ ほら、ほら、これでいいでしょう、足りなければもっとあるわ！ 早くあの手を捜し出して！ でないと、私、二度と洋琴を弾けなくなってしまう！」
女は半狂乱で左手で黒い洒落た鞄の中をまさぐり、革袋を引っ張り出した。口の開いた袋からはダズン金貨が何枚もこぼれ落ちた。
「あなたが金持ちだということはわかりましたよ、ミジェティさん。ところで、その手とやらは本当にあなたの右手なのですか」
ミジェティは青ざめた顔で目を見開き、涙を流しながら、叫んだ。
「私のよ！ 私の右手よ！ 私のものよ！」
女は急に力をなくしたかのように長椅子に座り込み、左手で顔を覆って泣き出した。
その時、泣き声に混じって、何か物音がした。屋根裏の鼠の足音にも似ていたが、その音は背後の机の方から聞こえてきた。引き出しの中で、何かがごそごそと動いている音。
音はミジェティの耳にも届いたようだった。
「何？ 何の音？ 何？ 誰が洋琴を弾いているの？」
女は泣くのをやめて、蒼白な顔で探偵局の中を見回した。私の耳には楽の音は聞こえなかった。独演会は相手を選んで行われるらしい。
「やめてよ！ やめて！ トゥジール、ここにいるの？ ここにいるのね！ 私のものよ！ 右手は私のもの、私に相応しいものよ！」
「返して、私の手よ」
もう一人の女の声がした。
いつ扉を開けて入ったのか、あるいは開けずに入ったのか、もう一人の女が戸口に立っていた。白い裾の長い服を着て、全身ずぶ濡れだった。雨に打たれたにしても、こんなには濡れはしまい。
波打つ栗色の髪が濡れて乱れ、肩に流れている。ミジェティも青ざめていたが、この女の顔は晒した骨のように白かった。紫じみた隈が目の縁を彩り、澱んだ茶色い瞳がその中で鈍い光を放っていた。
白い衣裳は小さな襞、青や桃色の花の刺繍で飾られた愛らしいものだったが、あちこちが破れ、泥と血で汚れていた。左胸には大きなどす黒い血の染みがあった。そして、彼女には右手がなかった。棒のような右腕の先からは血が滴り落ちていた。
凄惨な有り様でよくわからないが、彼女はミジェティよりは少し年下のように思えた。頤が小さく唇も小さく、円らな瞳をしていた。可愛らしい娘だったのだろう、生きている時は。
「トゥジール！」
白い服の女の名を呼ぶミジェティの声は、恐怖のあまり裏返り、滑稽に響いた。
「私の手を返して、ミジェティ。私の手よ。あなたの手じゃないの。それと、心臓も返して。私の心臓なのよ」
トゥジールは左手で、血に染まった衣裳の左胸を開けて見せた。乳房の膨らみは無残に裂けて肉と肋が覗き、その奥は赤黒い空洞だった。
「ひい！ 化け物、地獄に帰れ！」
黒い服の女は鞄を死んだ女に投げつけた。開いた口から化粧道具や小銭が散らばった。ミジェティは少しでも幽女から遠ざかろうと、机を回って部屋の隅へ走った。彼女が近づくと、引き出しは大きくがたがたと音をたてた。
「そこね、そこにいるのね！ 右手が、私の右手が！」
ミジェティは手首のない右腕を引き出しの方に伸ばすような仕草をした。
「あなたのじゃないわ。私の右手よ」
トゥジールはぼたぼたと水と血を滴らせながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。私は机の上のファバーン剣をつかみ、抜いた。刀身の神秘文字がくっきりと青緑色の光を放っている。死んだ娘は魔剣の光を見ると、少しだけ眉を曇らせた。
「さて、手首は一つに女は二人、お互いに自分の手だと主張している。ここは一つ、手首に主を決めてもらうことにしようか」
白い服の幽鬼は紫色の唇を歪めて皮肉な笑みを浮かべた。黒い服の女はぎらぎらと光る黒い瞳で、引き出しの鍵を開ける私の指先を見つめた。
鍵を回し引き出しを開けると、白い手は蜘蛛の脚のように指を動かし、机の上にのぼった。二人の女の左手を見れば、切断された右手が誰のものであるかは明白だった。ほっそりとした長い指は明らかにトゥジールのものだ。
だが、手首はトゥジールの方へは向かわなかった。指を器用に動かして、机の上をミジェティの方へ這っていった。黒い服の女は恐怖と歪んだ喜びが交じり合った引きつった面持ちで、手の方を見つめていた。
「そうよ、私のものよ！ 私の手なのよ！ 私にこそ相応しい右手よ！」
ミジェティは左手で右手を包んでいた黒い布を解いた。呪文らしきものの書かれた布の中から現れた右腕は、手首で切断されていた。傷口のあたりは赤黒く色が変わり、布から写ったように黒い奇妙な文字らしきものが変色した肌に浮かんでいた。
女は机の方に一歩近づき、切り落とされた右腕を伸ばした。切断面のまわりの肌が熾火のように赤く光り出した。その上に詰屈な呪文が黒く浮かび上がる。
「私のものよ！ 私の右手よ！」
ミジェティは机のすぐ側まで寄ると、左手で白い右手をつかもうとした。
「私の手なのに」
トゥジールが異様に低い声でそうつぶやいた。すると、右手はまるで虫が跳ねるかのように机の上からミジェティの喉元に飛びついた。彼女の悲鳴はごく短いものだった。白く細い指が深く喉に食い込み、すぐに声を出すことはできなくなったからだ。
ミジェティは左手と手首のない右腕も使って、喉に食い込む右手を引き剥がそうとしたが無駄だった。青ざめた顔が赤黒くなり、口から泡を噴き、舌を突き出して女は死んだ。
「だから、私の手だって言ったのに。泥棒はいけないことなの」
トゥジールは今度は静かな声でそう言った。
床に頽れた女の死体から私はもう一人の女の右手を拾い上げた。目的を果たした手はまたぐんなりとした死人の手に戻っていた。私は手を机の上に置いた。
「君のものなんだね」
「知っていたくせに。あなた、少し意地悪だわ」
トゥジールはちょっとだけ媚びを含んだ笑みをもらした。生きていたら、さぞかし蠱惑的だっただろう。
「心臓の方はどうしたんだ」
「今、持ってきてくれる」
白い服の女はそう言いながら、左手で右手をつかむと、切断された手首に合わせて、まるで螺子でも回すかのように少し動かした。右手は持ち主の腕に収まったが、継ぎ目には赤い血の色の線が残った。
トゥジールが細長い指をくねらせて右手の動きを確かめていると、扉が開き、また一人の女が入ってきた。今度の女は年老いていた。黒地に赤や紫、緑色で鋭角的な紋様を描いた長衣をまとい、頭には鍔広の黒い帽子を被っていた。
「夜分、失礼するよ。おや、遅かったようだね。ああ、馬鹿な娘さ。人の話をよく聞いていれば、命を落とさずにすんだものを。慌てて飛び出してこの様さ」
女は床に転がっているミジェティの骸を一瞥すると、そう言った。それから、黒い帽子を取って、雨の滴を払った。艶のある銀色の髪を頭の後ろで縛っている。しわが寄り染みも目立つが、卵色の肌は奇妙に艶があり血色も良かった。眉はほとんどなく、高い額の下の窪みで緑色の目が光っている。鼻は高く顎の先も尖っていた。首の回りには骨のかけらや木ノ実で作った首飾りを幾重にも巻き、骨張った左手に大きな紅玉を飾った白木の杖を持っていた。
「ははん、あんたがトゥジールだね。やれやれ、何かしくじったんだね、この愚かな娘は。ああ、お札がないね。大方、怖くなって忘れちまったんだろう。やれやれだ」
女は右手で立っている方の女を指さして、ひとりごちた。杖を持つ左手とは違い、右の手指は滑らかな線を描き、染みもなかった。肌の色も黄色みが薄く白い。
「どうも、今夜は無礼な客人ばかりだ。あんたは何者だ。トリプロ街から来たんだろうってことはわかるが」
老婆は鼻を鳴らしてじろりと私の方を見た。
「骨接ぎのネボストスを知らないのか、潜り探偵め。あんたも荒っぽい稼業なら覚えときな。骨でも何でも接いでやるよ。ついでに言っておくがね、その手の商売だからって、誰もがトリプロ街に住んでるわけじゃないんだよ。」
「どこにお住まいかは知らないが、近頃の骨接ぎ稼業ってのは、生きている手を切り取ってまるごとつなぐのかい」
「何だって？ あたしの商売にけちをつける気かい。あたしはね、忙しいんだ。これからこの亡霊を何とかしなくちゃならないんだ。そうでないと……」
骨接ぎのネボストスは左手で胸のあたりを押さえて、苦しげな表情になった。
「返して、それは私のものよ」
トゥジールが我がものとなった右手で老婆の方を指さして、そう言った。
「……そうでないと、面倒なことになる。あたしはね、もらったものは返さないんだよ。もう、あたしの中に入っちまってるんだ。それにあんたにはもういらないものだろう。いまさら御託を並べてないで、さっさとあの世にお行き！」
ネボストスは紅玉のついた杖を振り上げ、早口で何かの呪文を唱えようとした。私はファバーン剣で杖を打った。赤い宝石が異様な光を発し、魔剣の文字も緑に光る。
「何をするんだ！ お前さんには関係ないだろう」
「ああ、だから外でやってほしいね。これ以上この家の中で死人を出すのは勘弁してほしいのさ」
私はもう一度剣を振り下ろした。ネボストスは老婆とは思えぬ素早さで、杖で剣を受け止めたが、杖は二つに折れた。奇怪なことに、折れた杖の芯の部分からは赤黒い血のようなものが流れ出した。先端の紅玉が急に色をなくして、煤けた硝子のようになっていく。
「素人相手にその杖は公平とは言えないだろう。それに、その右手はともかく、心臓は公正な取り引きでそこに収めたわけじゃないだろう。嫉妬と傲慢でいかれた娘をそそのかして、手に入れたんだろう」
私は剣先をネボストスの胸元に突きつけた。老婆の艶やかな肌の色合いが少し悪くなった。
「くそ！ 厄介なことになったよ！ でも、あたしは返さないよ！ この心臓はもうあたしのもんだ！」
私は剣を突きつけたまま、骨接ぎ師を家の外へ追い出した。トゥジールは後ろからついてきた。奇妙な冷気が背後から漂ってくるので、振り返らなくてもわかった。
向かいの飯屋はもう閉まっていたし、デリン灯もないこの通りは夜はさほど人通りはない。ましてや、雨模様だ。だが、探偵局の真ん前でやられるのは迷惑だった。私はネボストスを近くの狭い路地に追い込んだ。奥は塀に囲まれた小さな空き地になっている。
「ここならいいだろう。僕はこれでお暇する。善男善女は寝所に入る時間だ。ああ、右手の君、素敵な演奏をありがとう」
トゥジールの姿はぼんやりとした薄青い燐光を放っていた。彼女ははにかんだように少し微笑むと、両手で見えない鍵盤に優美に触れ、指を動かした。夜空のどこからか洋琴の美しい調べが聞こえてきた。
私は踵を返し、探偵局へ戻った。ネボストスが背後で呪文を唱える声が聞こえた。それに絡まるように洋琴の調べが高く低く雨空に響いた。
家の中にはミジェティの死体が舌を出したまま転がっていた。ものを言ったり、洋琴を弾いたりする気配はなさそうだった。警邏隊にはどう説明すればいいのだろうか。喉にくっきりついた指の跡が、私のものでないことはわかってくれるとよいのだが。
三杯目のディコンを飲み干すと、しわがれ声の悲鳴が聞こえてきた。悲鳴の消え行く最後の音は、美しい洋琴の響きと入れ替わり、余韻がいつまでも耳の奥に残った。
足元の石畳に油紙で包んで紐をかけたものが落ちていた。私とぶつかった時に、女が落としたものだろうか。拾い上げるとそれなりの重さがあった。固くもなく柔らかくもない何かが包まっていた。長さは半イート（約十五センチ）ほど、幅はその半分くらい。油紙の隙間から、赤黒いものが一滴したたり落ちた。
私は夕暮れの人波の中、女の姿をさがしたが、小雨が降り出していて傘を差している者も多く、重なり合った三角の影の中に女の姿を見つけることはできなかった。
警邏隊の詰所はこのあたりにはない。ラグラン大通りまで出るのは、面倒だった。私は包みを手に持ち、そぼ降る雨の中、クーリカフ街の住処に足を向けた。
スナブ・ランケン探偵局と書かれた小振りの看板の掛かった扉を開け、帽子と外套を脱ぎ、傷だらけの黒い机の上に包みを置いた。腰からファバーン剣を外し、包みの隣に置いた。軋む椅子に腰を下ろすと机の引き出しから〈古鴉〉のディコンの瓶と青硝子の杯を取りだし、一杯注いだ。
一口飲んでから、紐と油紙の包みを解いた。中から出てきたのは人間の右手だった。手首から刃物で切断され、切り口からはまだ血が滴っていた。冷たくはなっていたが、まだ切り落とされてからたいして時間はたっていないだろう。
色の白いほっそりとした手で、指が長い。若い女の手のように思えた。爪はきれいに丸くそろえてあるが、先には幾らか血がついていた。切断されるまで、相手と争ったのだろうか。夕暮れ時の青い薄闇の中で、手はぼんやりと白く光っているように見えた。
私はしばらく白い手を眺めながらディコンを飲んだ。雨空に陽は沈み、部屋は暗くなった。私は机の上の角灯に火を点した。戸口の壁の蝋燭にも灯を入れた。
黄色い光に照らされた手は、随分と柔らかく、温もりさえあるかのように見えた。私は二杯目のディコンを注ぐと一口飲み、机の上に置いたファバーン剣を少しだけ抜いてみた。
古の英雄から譲り受けた魔剣は、大半の力を失ってはいたが、妖魅の力を感じ取り持ち主に知らせることができる。握った柄からはわずかに痺れるような感触が伝わってきた。刀身に刻まれた神秘文字も、幽かに薄緑の光を放っているように見えた。
ディコンを舐めながら、またしばらくそのまま見ていると、手がぴくりと動いた。中指が痙攣するように二度、三度動き、それから、他の指も徐々にひくひくと蠢き出した。魔剣のファバーン文字がはっきりと浮かび上がる。
私は剣を抜いて膝の上に置き、右手で柄を握った。酒は左手で飲むことにした。
手は次第に滑らかに動くようになり、五本の指を曲げたり伸ばしたりした。指先に目玉がついていて部屋の中を見回しているかのような仕草も見せた。
それから五本の指が何かをつかむかのような形になり、手は弾き始めた。そこにはない楽器を、おそらくは鍵盤のある楽器、洋琴の類いを手は弾き始めた。
最初は油紙に指先が触れるがさごそという音が聞こえるだけだった。だが、次第にその音は小さくなり聞こえなくなった。代わりに豊かな響きの楽の音が聞こえてきた。指が触れているのは、相変わらずしわのよった油紙だったが、聞こえてくるのは洋琴の美しい響きだった。
最初に奏でられたのは、絵画派の巨匠アチーレの「川縁の乙女」だろうか。物静かで繊細な旋律が、仄暗い叙情を作り出す。水面の泡のように最後の音が消えると、一転、五本の細い指は軽やかに舞を舞い始めた。跳ねる指先が作り出した律動は「転がる石の舞曲」だろうか。提琴や六弦琴が入らないので純粋に律動だけで成り立っているかのように聞こえ、私は思わず椅子の上で身体を揺らした。
三曲目はまた調子を変え、荘重な音が部屋の中に響き渡った。右手だけでそんな低い音が出せるはずもないのだが、どこかで左手も見えない鍵盤を弾いているのだろうか。重い律動に乗せて、物悲しくも美しい旋律が流れた。記憶に間違いがなければ、それはホウスンの「葬送の足音」だった。
弔いの足音が静かに消え去ると、私は深い感動に包まれ、杯も剣も机の上に置いて、切断された誰かの右手に拍手を送った。手はまるで恥じらうかのように人差し指と中指を絡ませてみせた。
もう一曲演奏をねだろうかと思っていると、無粋にも扉を二度三度と叩く音がして、小さな演奏会はお開きとなった。
私はおとなしくなっている右手を油紙で包み、机の引き出しにしまい、鍵をかけた。手は死んだ手に戻り、動かずぐんなりとしていた。
扉を開けると、黒っぽい頭巾付きの肩掛けを羽織った女が立っていた。肩掛けについた雨滴が銀の飾りのように見えた。頭巾の下には黒髪が濡れて白い額に貼り付いていた。日暮れがたに見た時よりも、さらに顔色が悪いように思えた。
「ここはスナブ・ランケン探偵局で間違いありませんね」
「ええ、僕がスナブ・ランケンです」
「ああ、よかった。捜してほしいものがあるんです。急いで、お願いしたいんです」
女は私の顔は覚えていないようだった。声が少し震えているのは、雨に濡れたせいではなさそうだった。
ミジェティと名乗った女は、来客用の赤い長椅子に座っても、頭巾付きの肩掛けをまとっていた。左手で黒い服の裾を直したが、右手は肩掛けの中に包むようにしたままだった。私がマシュウ茶を淹れようとすると、女は断った。
「あの、急いでいるんです。お願いします。今晩中に捜し出してほしいんです」
ミジェティは青ざめた頬に左手を押し当て、眉根にしわを寄せた。黒いくっきりとした眉の下の瞳も黒かった。いささか顎が角張りすぎているかもしれないが、十分に美しい女だ。歳の頃は二十四五といったところだろうか。
「何を捜し出せというのですか。もう日は暮れたし、雨も降っています」
「油紙の包みなんです。大事なものが入っているんですが、今日の午後、どこかで落としてしまって。半イートくらいのものです。多分、スデリ街の通りで落としたんです。引き返して捜した時にはもうなくて、私、どうしたらいいのかわからなくて」
女は涙の浮かんだ黒い瞳を私に向けた。困惑と恐怖の色が見えた。
「よほど何か大事なものが入っているのですか。次第によっては警邏隊に届けた方が早いかもしれませんよ」
女はとんでもないという風に頭を振った。あまり、こういうことには慣れていないのだろう。
「それはできないんです。あなたに頼みたいんです。あなたは、その……」
「人の噂はともかくとして、化け物やら幽鬼やらを専門にしているわけじゃないんですよ。事情をお話ししてもらえないのなら、引き受けることはできません」
ミジェティはうつむいて自分を納得させるかのようにうなずいた。
「包みの中には右手が入っています」
女はそう言って肩掛けから右腕を露にした。黒い布で包まれた右腕には手首から先がなかった。黒い布には黒い文字らしきものが書き連ねてあるのが、光の加減で見えた。何かの呪文だろうか。
「私の右手です。今晩中に捜し出してつけてもらわないと、私は、私は……。お願いします。あなたなら、その、魔法の剣をお持ちだと聞いています。その魔力で……」
女は机の上に置いてあるファバーン剣に視線を走らせた。剣は鞘に収めてある。刀身の光は見えない。
「つけてもらう？ 切断された手をつなげるのは、真っ当な医者には無理な話です。王宮の御典医だってできはしない。トリプロ街に知り合いでもいない限りはね。あなたは妖術のかかわる何かに首を突っ込んでいる、いや、手を突っ込んでいると言うべきか。何をしたんです。右手がついてもつかなくても、ろくなことにはなりませんよ」
突然ミジェティは立ち上がり、手首のない右腕を振り回して叫んだ。
「手が！ 手がないと駄目なのよ！ あの手を捜して！ お金は幾らでも出すわ！ ほら、ほら、これでいいでしょう、足りなければもっとあるわ！ 早くあの手を捜し出して！ でないと、私、二度と洋琴を弾けなくなってしまう！」
女は半狂乱で左手で黒い洒落た鞄の中をまさぐり、革袋を引っ張り出した。口の開いた袋からはダズン金貨が何枚もこぼれ落ちた。
「あなたが金持ちだということはわかりましたよ、ミジェティさん。ところで、その手とやらは本当にあなたの右手なのですか」
ミジェティは青ざめた顔で目を見開き、涙を流しながら、叫んだ。
「私のよ！ 私の右手よ！ 私のものよ！」
女は急に力をなくしたかのように長椅子に座り込み、左手で顔を覆って泣き出した。
その時、泣き声に混じって、何か物音がした。屋根裏の鼠の足音にも似ていたが、その音は背後の机の方から聞こえてきた。引き出しの中で、何かがごそごそと動いている音。
音はミジェティの耳にも届いたようだった。
「何？ 何の音？ 何？ 誰が洋琴を弾いているの？」
女は泣くのをやめて、蒼白な顔で探偵局の中を見回した。私の耳には楽の音は聞こえなかった。独演会は相手を選んで行われるらしい。
「やめてよ！ やめて！ トゥジール、ここにいるの？ ここにいるのね！ 私のものよ！ 右手は私のもの、私に相応しいものよ！」
「返して、私の手よ」
もう一人の女の声がした。
いつ扉を開けて入ったのか、あるいは開けずに入ったのか、もう一人の女が戸口に立っていた。白い裾の長い服を着て、全身ずぶ濡れだった。雨に打たれたにしても、こんなには濡れはしまい。
波打つ栗色の髪が濡れて乱れ、肩に流れている。ミジェティも青ざめていたが、この女の顔は晒した骨のように白かった。紫じみた隈が目の縁を彩り、澱んだ茶色い瞳がその中で鈍い光を放っていた。
白い衣裳は小さな襞、青や桃色の花の刺繍で飾られた愛らしいものだったが、あちこちが破れ、泥と血で汚れていた。左胸には大きなどす黒い血の染みがあった。そして、彼女には右手がなかった。棒のような右腕の先からは血が滴り落ちていた。
凄惨な有り様でよくわからないが、彼女はミジェティよりは少し年下のように思えた。頤が小さく唇も小さく、円らな瞳をしていた。可愛らしい娘だったのだろう、生きている時は。
「トゥジール！」
白い服の女の名を呼ぶミジェティの声は、恐怖のあまり裏返り、滑稽に響いた。
「私の手を返して、ミジェティ。私の手よ。あなたの手じゃないの。それと、心臓も返して。私の心臓なのよ」
トゥジールは左手で、血に染まった衣裳の左胸を開けて見せた。乳房の膨らみは無残に裂けて肉と肋が覗き、その奥は赤黒い空洞だった。
「ひい！ 化け物、地獄に帰れ！」
黒い服の女は鞄を死んだ女に投げつけた。開いた口から化粧道具や小銭が散らばった。ミジェティは少しでも幽女から遠ざかろうと、机を回って部屋の隅へ走った。彼女が近づくと、引き出しは大きくがたがたと音をたてた。
「そこね、そこにいるのね！ 右手が、私の右手が！」
ミジェティは手首のない右腕を引き出しの方に伸ばすような仕草をした。
「あなたのじゃないわ。私の右手よ」
トゥジールはぼたぼたと水と血を滴らせながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。私は机の上のファバーン剣をつかみ、抜いた。刀身の神秘文字がくっきりと青緑色の光を放っている。死んだ娘は魔剣の光を見ると、少しだけ眉を曇らせた。
「さて、手首は一つに女は二人、お互いに自分の手だと主張している。ここは一つ、手首に主を決めてもらうことにしようか」
白い服の幽鬼は紫色の唇を歪めて皮肉な笑みを浮かべた。黒い服の女はぎらぎらと光る黒い瞳で、引き出しの鍵を開ける私の指先を見つめた。
鍵を回し引き出しを開けると、白い手は蜘蛛の脚のように指を動かし、机の上にのぼった。二人の女の左手を見れば、切断された右手が誰のものであるかは明白だった。ほっそりとした長い指は明らかにトゥジールのものだ。
だが、手首はトゥジールの方へは向かわなかった。指を器用に動かして、机の上をミジェティの方へ這っていった。黒い服の女は恐怖と歪んだ喜びが交じり合った引きつった面持ちで、手の方を見つめていた。
「そうよ、私のものよ！ 私の手なのよ！ 私にこそ相応しい右手よ！」
ミジェティは左手で右手を包んでいた黒い布を解いた。呪文らしきものの書かれた布の中から現れた右腕は、手首で切断されていた。傷口のあたりは赤黒く色が変わり、布から写ったように黒い奇妙な文字らしきものが変色した肌に浮かんでいた。
女は机の方に一歩近づき、切り落とされた右腕を伸ばした。切断面のまわりの肌が熾火のように赤く光り出した。その上に詰屈な呪文が黒く浮かび上がる。
「私のものよ！ 私の右手よ！」
ミジェティは机のすぐ側まで寄ると、左手で白い右手をつかもうとした。
「私の手なのに」
トゥジールが異様に低い声でそうつぶやいた。すると、右手はまるで虫が跳ねるかのように机の上からミジェティの喉元に飛びついた。彼女の悲鳴はごく短いものだった。白く細い指が深く喉に食い込み、すぐに声を出すことはできなくなったからだ。
ミジェティは左手と手首のない右腕も使って、喉に食い込む右手を引き剥がそうとしたが無駄だった。青ざめた顔が赤黒くなり、口から泡を噴き、舌を突き出して女は死んだ。
「だから、私の手だって言ったのに。泥棒はいけないことなの」
トゥジールは今度は静かな声でそう言った。
床に頽れた女の死体から私はもう一人の女の右手を拾い上げた。目的を果たした手はまたぐんなりとした死人の手に戻っていた。私は手を机の上に置いた。
「君のものなんだね」
「知っていたくせに。あなた、少し意地悪だわ」
トゥジールはちょっとだけ媚びを含んだ笑みをもらした。生きていたら、さぞかし蠱惑的だっただろう。
「心臓の方はどうしたんだ」
「今、持ってきてくれる」
白い服の女はそう言いながら、左手で右手をつかむと、切断された手首に合わせて、まるで螺子でも回すかのように少し動かした。右手は持ち主の腕に収まったが、継ぎ目には赤い血の色の線が残った。
トゥジールが細長い指をくねらせて右手の動きを確かめていると、扉が開き、また一人の女が入ってきた。今度の女は年老いていた。黒地に赤や紫、緑色で鋭角的な紋様を描いた長衣をまとい、頭には鍔広の黒い帽子を被っていた。
「夜分、失礼するよ。おや、遅かったようだね。ああ、馬鹿な娘さ。人の話をよく聞いていれば、命を落とさずにすんだものを。慌てて飛び出してこの様さ」
女は床に転がっているミジェティの骸を一瞥すると、そう言った。それから、黒い帽子を取って、雨の滴を払った。艶のある銀色の髪を頭の後ろで縛っている。しわが寄り染みも目立つが、卵色の肌は奇妙に艶があり血色も良かった。眉はほとんどなく、高い額の下の窪みで緑色の目が光っている。鼻は高く顎の先も尖っていた。首の回りには骨のかけらや木ノ実で作った首飾りを幾重にも巻き、骨張った左手に大きな紅玉を飾った白木の杖を持っていた。
「ははん、あんたがトゥジールだね。やれやれ、何かしくじったんだね、この愚かな娘は。ああ、お札がないね。大方、怖くなって忘れちまったんだろう。やれやれだ」
女は右手で立っている方の女を指さして、ひとりごちた。杖を持つ左手とは違い、右の手指は滑らかな線を描き、染みもなかった。肌の色も黄色みが薄く白い。
「どうも、今夜は無礼な客人ばかりだ。あんたは何者だ。トリプロ街から来たんだろうってことはわかるが」
老婆は鼻を鳴らしてじろりと私の方を見た。
「骨接ぎのネボストスを知らないのか、潜り探偵め。あんたも荒っぽい稼業なら覚えときな。骨でも何でも接いでやるよ。ついでに言っておくがね、その手の商売だからって、誰もがトリプロ街に住んでるわけじゃないんだよ。」
「どこにお住まいかは知らないが、近頃の骨接ぎ稼業ってのは、生きている手を切り取ってまるごとつなぐのかい」
「何だって？ あたしの商売にけちをつける気かい。あたしはね、忙しいんだ。これからこの亡霊を何とかしなくちゃならないんだ。そうでないと……」
骨接ぎのネボストスは左手で胸のあたりを押さえて、苦しげな表情になった。
「返して、それは私のものよ」
トゥジールが我がものとなった右手で老婆の方を指さして、そう言った。
「……そうでないと、面倒なことになる。あたしはね、もらったものは返さないんだよ。もう、あたしの中に入っちまってるんだ。それにあんたにはもういらないものだろう。いまさら御託を並べてないで、さっさとあの世にお行き！」
ネボストスは紅玉のついた杖を振り上げ、早口で何かの呪文を唱えようとした。私はファバーン剣で杖を打った。赤い宝石が異様な光を発し、魔剣の文字も緑に光る。
「何をするんだ！ お前さんには関係ないだろう」
「ああ、だから外でやってほしいね。これ以上この家の中で死人を出すのは勘弁してほしいのさ」
私はもう一度剣を振り下ろした。ネボストスは老婆とは思えぬ素早さで、杖で剣を受け止めたが、杖は二つに折れた。奇怪なことに、折れた杖の芯の部分からは赤黒い血のようなものが流れ出した。先端の紅玉が急に色をなくして、煤けた硝子のようになっていく。
「素人相手にその杖は公平とは言えないだろう。それに、その右手はともかく、心臓は公正な取り引きでそこに収めたわけじゃないだろう。嫉妬と傲慢でいかれた娘をそそのかして、手に入れたんだろう」
私は剣先をネボストスの胸元に突きつけた。老婆の艶やかな肌の色合いが少し悪くなった。
「くそ！ 厄介なことになったよ！ でも、あたしは返さないよ！ この心臓はもうあたしのもんだ！」
私は剣を突きつけたまま、骨接ぎ師を家の外へ追い出した。トゥジールは後ろからついてきた。奇妙な冷気が背後から漂ってくるので、振り返らなくてもわかった。
向かいの飯屋はもう閉まっていたし、デリン灯もないこの通りは夜はさほど人通りはない。ましてや、雨模様だ。だが、探偵局の真ん前でやられるのは迷惑だった。私はネボストスを近くの狭い路地に追い込んだ。奥は塀に囲まれた小さな空き地になっている。
「ここならいいだろう。僕はこれでお暇する。善男善女は寝所に入る時間だ。ああ、右手の君、素敵な演奏をありがとう」
トゥジールの姿はぼんやりとした薄青い燐光を放っていた。彼女ははにかんだように少し微笑むと、両手で見えない鍵盤に優美に触れ、指を動かした。夜空のどこからか洋琴の美しい調べが聞こえてきた。
私は踵を返し、探偵局へ戻った。ネボストスが背後で呪文を唱える声が聞こえた。それに絡まるように洋琴の調べが高く低く雨空に響いた。
家の中にはミジェティの死体が舌を出したまま転がっていた。ものを言ったり、洋琴を弾いたりする気配はなさそうだった。警邏隊にはどう説明すればいいのだろうか。喉にくっきりついた指の跡が、私のものでないことはわかってくれるとよいのだが。
三杯目のディコンを飲み干すと、しわがれ声の悲鳴が聞こえてきた。悲鳴の消え行く最後の音は、美しい洋琴の響きと入れ替わり、余韻がいつまでも耳の奥に残った。
数日して私は警邏隊から解放された。ノップラントがどこかで口を利いてくれたのかもしれない。落とし物を届けなかったとして、幾許かの過料を取られはしたが。
ラグラン大通りの警邏隊の詰所を出ると、新聞売りの少年が大声をあげていた。
「シサルクーン音楽院の大醜聞！ 実に恐ろしきは女の闘い！ ああ、あの楽の音を奏でる右手が憎い、右手はおろか心の臓までえぐり取るおぞましさ！」
色恋沙汰も絡んでいたと書き立てた新聞もあったが、真偽のほどはわからないし、興味もなかった。
ネボストスは路地奥の空き地で死んでいた。胸板を裂かれ、心臓がなくなっていた。警邏隊はスデリ街の横路にある彼女の“診療所”に踏み込んだが、人間の身体のいろいろな部分−萎びた右手と心臓を含む−が発見されたらしい。
トゥジールの死体は空き地にはなく、数日してダンカル川から上がった。骸には両手がついており、胸乳に塞がりかけた大きな傷痕があったという。
酒場や芝居小屋で、楽士が奏でる洋琴に耳を傾けると、時折、楽の音が揺らぎ、視界が霞むことがある。鍵盤の上では手首から先だけの右手が踊り、あの夜の洋琴の音が両耳の間に響いている。生きているトゥジールの愛らしい微笑みを一瞬目にしたように思う時もあるが、猥雑な酒場の空気はすぐに幻をかき消し、私を包み込む。
