１

「待ちやがれ！」
　背後で、吠える声がした。もちろん、私は足を緩めず、あちこちが欠けた石畳の路地を駆け通した。ブホークス街の路地裏で、ちんけなやくざ者の手にかかって死ぬ気はない。
　抜き身の曲刀を手に、私の数十イート後ろを追って来るのは、マグゾル一家の三下どもだった。けばけばしい金糸の縫い取りをした赤や緑の袖無し上衣の下に、薄い象牙色のシャツを胸をはだけて着こみ、だぶついた洋袴をはいている。どいつもこいつも、地獄の皇子インゼルブですら癖易しそうな面構えで追っかけて来るのは、振り向かずとも容易に思い浮かべることが出来た。
「待て！ぶっ殺してやる、犬野郎！」
　また、誰かがわめいた。犬野郎というのは、私のことだが、私の名は犬野郎ではない。この都、サンジェリィのクーリカフ街に、スナブ・ランケン探偵局というものを開いている。
　仕事がら、追い駆けっこはしばしばやっているが、今日のは仕事とは関係がない。たまたま入った居酒屋で、旅人らしい娘が奴らにからまれているのを助けてやったのだが、奴らが刀を抜いたので、騒ぎが大きくなったのだ。
　マグゾル一家はブホークス街を牛耳っている下司どもの集まりだ。私が数人の悪党を背に路地を駆けて行くと、住人たちは知らん顔をするか、眉をひそめて、ぴしゃりと扉を閉ざしてしまった。みな、とばっちりを恐れているのだ。都の警邏隊のやくざ狩りは、いっこうに進んでいないらしい。
　幾つめかの角を左に曲がって、私は人二人がどうにかすれちがえるほどの狭い路地に入った。十歩ばかり奥の左側の家の扉が半開きになっていた。背後でかなり大きく、奴らの声と足音が聞こえてきた。私を招くがごとく開いている、その古びた黄褐色の扉に、私は飛び込んだ。扉の上にかかっていた小さな看板は、そのとき私の目には映らなかった。
　私は家の中に入ると即座に扉を閉ざした。この部屋にには窓というものがないのか、昼だというのに鎧戸をすべて締め切っているのか、中は真っ暗だった。私は手探りでかんぬきを探り当てると、強固な作りらしいそれをおろした。扉に身を寄せて、剣を抜き、息を殺した。やくざどもの足音が聞こえる。足音は止まることなく扉の前を駆け抜けて行った。街の住人が、私をかくまうことなど、ありえないと思っているのだろう。
　私は剣を握ったまま、家の中を見回した。幾分、闇に目が慣れ、ぼんやりと部屋の中の様子が見て取れた。
　二十歩ぐらいの広さの部屋には、椅子が数脚転がっていた。壁際には、私と同じぐらいの背丈の棚が三つ置かれている。他には家具らしき物はなかった。住人の姿も見当たらない。何段にもなった棚の上には、何か白っぽいものが幾つも並んでいた。棚の上だけでなく、四方の壁にも、明かるい色をしたものが幾つもかかっている。それは、何種類かの、太さ、長さの不規則な曲線を持った円柱のような形に見えた。大きいものは腕ぐらいの長さがあり、太さもそれぐらいだった。壁際の床にはもっと太さのある棒状の白いものが、何個も置かれていた。
　不意に部屋は赤い光で満たされた。天井の中央からぶら下がっている握り拳大の球状のものが、血のような紅の光を放っていた。
　部屋の中のすべてのものが、はっきりと輪郭を持ち、赤く彩られて私の眼前に出現した。私は汗がにじんだ手で剣柄を握り直した。
　部屋の壁にかかっていた、あるいは棚に置かれていた白いもの（いまではそれは真紅だったが）は、毎日見慣れているものの断片だった。まぎれもない人間の腕と足、それに首のない胴体が、幾十とこの部屋には置かれていたのだった。
　赤い光に照らされ、鮮血で染められたかのごとく見えるそれらの人間の断片は、いずれも非常に整った美しい形をしていた。本来あるべき自然の状態とは程遠い状態で置かれているにもかかわらず、この腕は、足は、胴体は、奇怪さよりも、遥かに美しさを感じさせるのだった。
　断片は、どれも女、若い女性の体の一部だった。ほっそりとした腕は、ヤイニールの娼館で放蕩貴族たちを招く娼婦の腕よりも美しく、肉付きのよい脚は、トゴの店のフラン人の踊り子よりも悩ましく、豊かな乳房と尻を持った胴体は、エイマン王の後宮の寵妾よりなまめかしかった。部屋中を血の海のように見せている赤光の中で、女体の断片は脈動しているかのごとく見えた。
　私は手近な棚に置いていある左脚の切り口をのぞいてみた。切り口は、ささくれだってはおらず、完全になめらかな曲線を描いていた。血の痕はまったくなかった。その脚はがらんどうだったのだ。中には、血も肉も骨もなかった。ごく薄い皮が、きれいな曲線を描いているだけだった。隣の右腕を思わず手に取っていた。これも空っぽだった。妙に生暖かった。床に置いてある胴体も、丸くぽっかり開いた首の穴の中は何もなかった。
　これらの断片が造りものであると考えるのはむずかしいことだった。繊細な造形といい、柔らかく温かみのある手触りといい、到底、人間の手によるものとは思えなかった。
　私が入ってきた扉の向かい側の壁には、片開きの扉が一つあった。閉ざされていたその扉がカチリと音をたて動いた。私は、半ば無意識のうちに剣先をあげて身構えた。私が扉からの死角に回ろうとする間もなく、扉は開いた。
「キュソアの人形店にようこそ」
　陰気な声が響いた。妙な訛のある異様な声だった。声の主の風体はさらに異様だった。
　そいつは矮人だった。背丈は私の腰あたりまでしかなかった。大きな頭には、側部から後部にかけてのみ、灰色の毛が生えていた。ねじれたような形の耳は大きく、眉毛は濃い灰色だった。左の目には小さな円筒形のものをはめ込み、その先には、丸い鏡のようなものが入っていた。右目は落ち窪んだ眼窩の中で赤い光を映して狂気じみた光を放っている。
　矮人は鈎鼻の下の大きな口を歪めて、笑いのような表情をつくった。皮の胴着の背中の部分は大きく盛り上がっており、この男が傴僂であることを物語っていた。
　瞬きもせずに赤い光が消えた。突然訪れた闇の中を、何者かが私に向かって来る足音がした。かなり体重のある奴の足音のようだ。低くうなるような声がする。一瞬、地下納骨堂の中みたいな臭いがした。私の頭の中で誰かが雷を落とした。目の前にアズルタ座の星々がきらめき、私は剣を取り落とし、後頭部を押さえて床につっ伏した。

　　　　２

　裸の女が私にへばりついていた。女の肌は柔らかく、温もりがあった。女は蠢いていた。欲情した蛇のように身をくねらせていた。私の情欲に火をつけようとしているのだった。私は脂汗をかいていた。体の奥から重く湿った冷たい塊が広がって行くようだった。
　女の肌には一滴の汗の雫も光ってはいなかった。甘い薫りも熱い吐息もありはしなかった。女には首がなかった。
　頭の後に鈍い痛みが走って、私は目を開いた。薄暗い部屋の壁際に転がされていた。がらんとして何もない部屋だった。天井は低く、中央から下がっている球状のものが弱い光を放っていたが、色はさえない橙色だった。
　痛む頭を押さえて、身を起こした。はたして、どれほどの時間、ここであまり楽しくない夢を見ていたのか、さっぱりわからなかった。右手の剣はなくなっていた。すねの中ほどまでの皮の長沓の中を探ってみると、短剣はそのまま残されていた。私の頭をなで回してくれた納骨堂の香水をつけた奴は、その方面の玄人ではないらしい。
　矮人の台詞が頭によみがえった。奴は「キュソアの店」と言った。近頃、サンジェリィの貴族や大商人、将軍たちの間では、しばしば噂の種になっている名前だった。金と権力にものを言わせて、放蕩三昧、生身の女には飽きが来たという者でも、キュソアの店の人形には、心を奪われてしまうのだという。その人形はどんな生身の女もかなわない美しさを持ち、どんな生身の女との交わりでも得ることの出来ない無上の快楽をもたらすのだという。巨万の富をはたいて人形を手に入れ、すっかりそれに溺れて身を持ち崩した貴族もいるという話だった。
　あの女の体の断片からして、噂はかなりの真実を含んでいるようだ。私はマグゾルのやくざどもよりも、厄介な奴の懐にいるらしい。
　周囲を見回すと、扉は一つしかなかった。頑丈そうな取っ手を回そうとすると、向こう側で鍵を回す音がした。
　私は扉の影の壁に身を押しつけた。右手をのばして長沓の中から投げナイフを抜いた。
　扉が開いた。入ってきたのは矮人ではなかった。身の丈七イートはある巨人だった。地下納骨堂の臭いがした。
　奴は灰色の洋袴以外は裸だったが、衣を身に付けていない部分も同じように灰色だった。とても生きている人間とは思えなかった。死斑がすぐにでも出そうだ。
　奴は私に背を向けたまま、ゆっくり部屋の中へ進み、私の姿を求めて髪の毛のない頭を回した。奴の体がこちらを向いた。
　私は右手を素早く振り降ろした。短剣は奴の喉元に深々と突き刺さったが、同時にそれが無意味な試みだったことを私は知った。
　奴の顔は髑髏に皮をはり付けたようだった。大きな眼窩の奥に、ぬめりと光る黒い球体が動いていた。すべての歯がむき出しになった顎を開いて、シューシューと奇怪な音を発した。それは笑っているのかもしれなかった。
　奴は喉から短剣の柄を突き出したまま、長い両腕をのばし、私につかみかかってきた。
　太い腕をかいくぐって、筋肉が波打つ腹へ、拳を突き入れた。奴は一瞬動きを止めたが、その髑髏面に痛みの表情を読むことは出来なかった。私の首をとらえようとする腕をかわして、飛びすさりながら、再び腹を、今度は蹴りあげたが、奴は幾分上体をぐらつかせただけで何の痛手も受けていなかった。アニャチの老人から伝授された拳法も、この化けもの相手には愛称が悪いようだった。
　奴の腕がのびてきた。手刀で打ち払い背後に回り込もうとしたが、奴は意外に速い動きでそれをさせず、つかみかかってきた。私の背中はすぐ壁だった。横に跳んだが、奴の長い腕が私の肩を捕らえた。骨がきしむ音を聞いたような気がした。膝頭を奴の股間に叩きこんだ。相手が生身の男なら、二度と女を抱けなくなるはずだが、奴には意味のないことだった。私の首に巻きついた指は、鋼のように冷たく、強かった。
　目の前の虚ろな髑髏面が、かすんできた。この世の見納めが、こんな化け物とはあんまりだ。
「やめんか、フッグマ！」
　聞き覚えのある耳障りな声が耳をかすめた。
「何をする気だ、愚か者め、手を離すんだ」
　巨人が手を緩めてくれたおかげで今度はもっとはっきり聞こえた。
　私はかろうじて壁にもたれて立ち、私の首を絞めていた巨人の、矮人の主の姿を認めていた。
「フッグマが失礼を致しました。なにしろ、こいつめは出来損ないでしてな。脳味噌も少々足りんのですわ。許してやってくだされ」
　矮人は、血走った片目を上目使いにして、私の顔を見ながら言った。フッグマは、相変わらず私の短剣を喉から突き立てたまま、矮人の横に突っ立っていた。
　私は咳き込みながら言った。
「お宅がキュソアかい」
「さようで」
　矮人が妙にいんぎんな調子で答える。
「噂は聞いたことがあるよ」
「どのような噂ですかな」
「悪魔のごとき人形を造っているという噂だ」
「ホッホッホッ」
　この笑い声に私は胸のむかつきを覚えた。
「それは結構な噂ですな。ホッホッ。私はただ、美しい、そう、ただ、美しい人形を造っているだけですがね。神も魔物も関係ない。真の美にとって、聖なるものも、邪まなるものも、何の力も持ち得ないのです。美とはそんなものを越えたものですよ。ホッホッホッ」
　話しているうちに、キュソアのあらわになっている右の瞳は、異様な輝きを増してくるようだった。
「僕をどうする気かね。僕としてはほんのちょっとの雨宿りのつもりだったのだがね」
「せっかく私の店にいらしたのですからな、フッフッ、そう帰りを急ぐこともありますまいて。私の作品を御覧に入れましょう」

　　　　３

　私たち三人は部屋を出て、暗い廊下を歩いた。廊下には一切窓はなく、両側の壁には数十歩ごとに松明が取り付けられ、小さな炎を揺らめかせていた。
　キュソアが先頭に立ち、私の後では、フッグマが不快な臭いをさせ、歩いている。喉に突き立てた短剣は、キュソアの手に渡されていた。フッグマの傷口からは、青緑色を帯びた白い液体が、一滴、流れ落ちているだけだった。
　キュソアは歩きながら、再び話を始めた。
「私は悪魔の人形師ですか、ホッホッホッ、私はね、この世に本当の美を造りだしているのですぞ。どんな現し世の女もかなわぬ絶世の美女をね。ホッホッホッ、生身の肉体はいずれは年老い、醜く変化し、やがては塵と化してしまう。だが、私の人形は永遠にその美しさを保つ。時の浸食に打ち勝つことが出来るのです。そして、何よりも、私の人形には心がない。魂がないのですよ。よいかな、お若いの。愛や憎しみ、諸々の感情で満ち満ちた心ほど、美に邪魔なものはないのですぞ。そういったものは美を濁らせるだけなのです。真実、美しいものに心や魂などいらんのです。ホーッホッホッ」
　狂気の人形師は私に背を向けたまま、その醜く歪んだ姿と同様、ねじ曲がった心の生み出した考察を披露した。彼がこちらに背を向けたままでいてくれたのは、幸いだった。この、おぞましき熱情にとりつかれた矮人の表情を見るのは、けっして心地のよいことではないに違いない。
　何度か角を曲がり、幾つかの扉の前を通り過ぎた。それらの扉は、鍵をかけられているものもあり、幾らか開き加減のものもあった。そういった戸口からは、何種類もの禁じられた麻薬の薫りがただよってくるのだった。
　やがて私たちは、とある扉の前で止まった。扉には、小さな木板が取り付けられ、何か文字のようなものが書かれていたが、私には読み取ることは出来なかった。
　キュソアは腰帯から鍵の束を出すと、一つをあてがい、扉を開いた。
　部屋の中は、私が最初に飛び込んだ部屋と同じ、紅色の明かりがついていた。扉の向かい側の壁にそって、四つ、天井まで届きそうな箱状の物が置かれていた。幅はちょうど棺ぐらいのもので、断面は六角形をしているようだった。
　六つの面はそれぞれ透明な硝子状のものがはめ込まれ、内部には人間の背丈ほどの白い布にくるまれたものが収められていた。その人間様のものは、頭部から数本の細い管のようなものが出ており、それは箱の天井の方へ続いている。同じような管が他の部分からも何本か出て、これは箱の台座の方へ続いていた。
　一番近くの箱に近寄るとキュソアはこちらを向き、口許を歪め、ぞっとするような笑いを表した。
「ホッホッホッ、私の労作を見せてあげましょう。ホッホッ、あなたは私を狂っていると思っているかもしれないが、これを見れば気がかわりますよ。ホーッホッホッ」
　キュソアは、箱の後の方へ回り、何事か操作をした。すると、箱の中身をおおっていた白布が、するりとほどけ、そのおそるべき内容物を私の目の前に出現させた。
　それは、すなわち、私が見た女体の断片をつなぎあわせたものであった。真紅の光を浴びて立っているそれは、正に美の結晶であった。一糸まとわぬ裸体は完璧な曲線を描き、その肌はどんな天鵞絨よりもつややかでなめらかに見えた。
　私は心臓の鼓動が、しだいに速くなってくるのを感じた。人形は（そう、それは人形なのだ！）何処の国の女を摸したものでもなく、あらゆる種族の美しい点を結合させたようにも見え、かといって、寄せ集めなどという感じはまったくないのだった。その肢体は、豊かな半球形の乳房、細くくびれた胴、肉付きのよい、しかし引き締まった太股、そしてややきゃしゃな感のあるすねまで、すべての部分の調和が取れており、一分の隙もなく造りあげられていた。
　細い首の上にのった顔は、幽かな笑みとも取れる表情を浮かべ、大きな金色の瞳は半眼に開かれ、あてどない宙を見つめていた。波打つ黒髪は背中までたれている。
　私の眼中には、キュソアもこの赤光に照らされた部屋もなく、ただ、その異常な美しさを持った人工の女体があるばかりだった。頭の中からも、それ以外のことはすべてどこかへ消え去って行った。自分の心臓の鼓動が私に聞こえる唯一の音であり、それは私の中で割れ鐘のように響いていた。私は人形の方へ向かい、足を踏み出したことを、かろうじて感じ取った。ふらふらと、足が交互に動いていた。鼓動がますます大きく、速くなった。耳の穴から血が吹き出すような気がした。
　そのとき、私の肩を強くつかむものがあった。強大な力で、私は無理矢理、動きを止められ、頭を人形からそらされた。手は、私を引きずるように部屋から連れ出し、廊下へ放り投げた。固く冷たい床が、私をこの世につれ戻した。
「あまり見せておくと、うつけになってしまいますからな、ホッホッホッ」
　矮人の耳障りな声だった。側にはフッグマの巨大な姿があった。
　次第に意識が正常になってきた。今は閉ざされた扉の向こうにあるものを思うと、震えと悪寒が走った。あれは冒涜的な美しさだった。人間を地獄の深奥まで引きずり降ろす力を持っていた。
「どうですかな、私の言うことが真理であることが、おわかりになったでしょう。ホッホッ、あなたは、私の作品をほんのちょっと見ただけですが、それでも、大きな衝撃を受けておいでのようだ。だが、真の悦びは、これだけではわかりますまいな。ホッホッホッ」
　キュソアは勝ち誇ったように、かん高く笑い声をあげた。奴の言う「真の悦び」というのを想像すると、胸が悪くなった。が、同時にそれは、例えようがない甘美な誘いでもあった。私は再び、矮人と巨人にはさまれて廊下を歩いていたが、前後の監視者がいなければ、すぐさま踵を返して、さきほどの部屋へ駆け戻り、常軌を逸する行為に耽るのではないかという恐れが、心にふくれあがった。
　さして歩かぬうちに廊下は行き止まりとなった。右側の壁に、黒く四角い穴が穿たれ、階段が下へとのびて行った。
「ホッホッ、おまえさんにはな、私の人形造りの秘密を教えてあげますよ。私のお得意様たちもこの秘めたる事を知ってはいないのですぞ。ホッホッホッ」
　キュソアは振り返り、奇怪な笑いを浮かべて言った。

　　　　４

　私たちは階段を降りて行った。ここには明かりはなく、ほとんどまったくの闇の中を、ぬるぬるとした湿った苔状のものにおおわれた石段を下った。二十段ほど降りると、松明の明かりのある扉が見えてきた。扉の前につくと、それが木の上に何かの金属板をはったものであることがわかった。金属板は青みを帯びた色相で、不規則な直線的輪郭を持ち、文字様のものが打ち出されていたが、階上の部屋のものと同じく読むことは出来なかった。ただ、その文字は数年前に弾圧されたある秘密結社が意味もわからず用いていた太古文字に、若干の類似性を見出せるようにも思えた。
　キュソアは扉の前に立ち、素早く何らかの印を結ぶと、ぼそぼそと口の中で何事かをつぶやき、厳重にかけられた鍵をはずした。
　扉が開くと甘い薫りがした。どろりとした、腐敗を感じさせるような甘ったるい薫りだった。部屋に入るとその薫りはいっそう濃くなった。部屋の一方の壁にしつらえてある祭壇状のものの中で、香が焚かれているのだった。
　その祭壇は壁の端から端までを占め、天井にまで届く大きなもので、黒っぽい木で造られていた。何層にも段が重なり、様々な異様で猥褻な彫り物がなされてい、非常に複雑な作りになっている。何本もの尖塔のようなものが立ち、赤、紫、緑、紺などの宝石が、壁に取り付けられた松明と、祭壇に立っている十数本の蝋燭の光を受けてきらめいていた。中央部には、縦長の方形の箱状のものがあり、それには両開きの扉があって閉ざされていた。幾つもの金属製の祭器が置かれていたが、それらは皆、非常に整った美しい形をしていた。しかし、それらが何を型取ったものであるのかということは、皆目わからないのだった。
　祭壇の前には、低い木製の長椅子のようなものが置かれていた。その長椅子と、周囲の床にはちらちらと光る粉のようなものがついていた。
　平たい石がしかれている床の上には、所々黒っぽい汚点があり、白チョークで文字らしきものが大きく描かれていた。
　これらのものを見て取るうちに、私は頭が朦朧としてくるのを感じた。祭壇で焚かれている香の作用らしいと考え始めたときには、もはや眼前の光景が輪舞を始めていた。どうしようもない脱力感に私は膝を折った。キュソアの声がどこか遠いところから聞こえきた。
「ホッホッホッ、さあて、お若いの、これからあなたには私の人形造りの秘密に直に関わってもらいますよ。ホッホッ、折角ですからね、お礼に秘密を教えてあげましょう」
　キュソアはフッグマに何事か指図すると、髑髏面の巨人は私の体を祭壇の前の長椅子の上に引きずりあげた。私は抵抗を試みたが、化け物は意に介さなかった。
「あなたも見たとおり、私の人形造りの腕はこの世で並ぶものはないのです」
　長椅子の上に縛り付けられながら、キュソアの声を聞いた。
「自惚れではないことはもう、わかっているでしょう。しかしね、私はまだ満足できなかった。私は、この世ならざる美女を造りたかったのですよ。ホッホッ、このような姿に生まれついてはいるが、私は生身の人間ですからね。力の及ばぬところがある。源初的なところに於いてね。そこで私はヨウラの力を借りることにしたのですよ」
「ヨウラ！？」
　霧のかかったような頭の中で、古い記憶が弱々しい光を放った。
「シェラドゥーアのヨウラ！？」
「ホーッホッホッホッ、ヨウラの御名をご存知とはね。そうですよ、三千年の昔、栄華を極めたシェラドゥーアの都で崇められていた邪美神ヨウラですよ。シェラドゥーアでは、あらゆる芸術が栄え、人々はくだらぬ道徳、倫理などにとらわれず、悦楽に浸っていた。今の世に伝えられる説話では、それは背徳と堕落の都であったとされていますがね。シェラドゥーアは楽園であったのですよ。ヨウラがこの都に至福をもたらしていたのです。都には、巨大な神殿が造られ、様々な捧げものが絶えることがなかったと『ニベの書』には記されています。ヨウラは人々の心を開かせ、美しいものに対する眼を鋭いものにしてくれたのです。人々は愚かしい禁忌から解き放たれ、この世に楽園を見出だしたのです」
「だが、シェラドゥーアは滅んだのだ。三千年の昔にな。ヨウラも神々の戦に敗れ、消え去ったはずだ」
　少なくとも私の知っている伝説ではそうなっていた。キュソアは自慢気な笑いを浮かべて言った。
「ホッホッ、たしかにその通り、シェラドゥーアは神々の戦に敗れたヨウラとともにこの世から消えた。都は灰塵に帰した。しかし、ヨウラは塵になったわけではないのですよ。今は伝説の中で語られる失われた九柱の神々の一柱に過ぎないけれどもね、やがて時が至れば、必ずやこの世に帰還する。『ニベの書』を始め、『ミルヒ・シカー』や『死せる神々の書』にもそういった記述があります。
「もちろん、私にはヨウラを今、帰還させるような力はありません。しかしね、私はその眷族を呼び出すことに成功したのです」
　キュソアの声は次第に熱を帯びた様になり、両手を振り回しだした。
　私は次第に頭がはっきりしてくるのを感じていた。あの薫りは今も部屋にたちこめていたが、麻薬としての効果は長くは続かないものらしい。だが、フッグマの馬鹿力で縛られた体を動かすのは難しかった。
　キュソアは祭壇の中央の箱の扉を開いた。人間の上半身ほどの四角い穴の中には、灰色のものが渦を巻いていた。煙霧のような、あるいは何らかの液体にも見えるものが、大小幾つもの渦を巻き、蠢いているのだった。時折、その中からちかちかと鋭い小さな光が放たれている。
　狂信者である矮人は床に描かれた神秘文字の上に注意深く足の位置を決め、右手に祭壇の上に置かれていた細長い形の金属器を一つ持ち、左手には、首からはずした円や三日月型の小さな金属板がたくさんついた首飾りを巻き付けた。私の頭越しに祭壇の灰色のものが蠢く扉を見つめ、右手の祭器を頭上に振りかざして、異界のものを呼び出すべく呪文を唱え始めた。
「麗しきもの、至福をもたらすもの、真実の美を解き放せしものよ、忠実なるしもべの供物をお受け給え。我にさらなる力を与え給え」
　奴の表情からは、あのいやらしい笑いが消え、瞳にはぎらぎらと狂気の炎が燃えているようだった。呪文は理解できない、およそ奇怪な発音を伴なう言葉となっていった。
「レッ！リーツ、タルムグア、グッハセケチュナア、ヨオラ・アートゥクア、グラセケチュナ、オオ！オウ！シェラドゥーア、イ・ムグア、ヨオラ！ヨウラ！ヨオラ！ヨウラ！」
　呪文にあわせて矮人は左手の首飾りを動かし印を結んだ。私は首をねじって扉の中を見たが、変化は現われていなかった。
　再び、キュソアの声がこのおそるべき秘密を宿した地下室に響いた。何本もの松明と蝋燭の炎により投影された幾つものキュソアの影が、ゆらゆらと亡霊のように壁や天井を這い回り印を結んでいく。
「…オオ！オウ！シェラドゥーア、イ・ムグア、ヨオラ！ヨウラ！ヨオラ！ヨウラ！！」
　祭壇の側からびりびりという振動が起こった。それはごく低い地鳴りのような響きになり、部屋中の炎が大きく揺らいだ。開いた扉の中の灰色の渦が、そこから飛び出そうとしていた。渦は非常に速い回転となり、赤、青、緑などの鋭い閃光を断裂的に発している。私の頭上を青白い稲妻が走った。キュソアの右手の祭器と扉の中に、電光の橋がかかったようだった。
　その電光の橋をわたるようにして、何者かが、こちらに現われようとしていた。灰色のものはすでに渦の状態ではなくなり、波しぶきのように扉から吹き出し、飛び散った。
　それは閃光の集積物とでも言えばよいのだろうか、不規則な輪郭は絶えず変化を続け、定まった形を示さなかった。様々な色相の光を明滅させ、キュソアの右手と扉の間の電光にまとわりつくようにして、こちらに向かってくる。
　麻薬の効果はほとんど消えていた。私はこの窮地を脱すべく、体を動かしたが、縄はゆるんでくれない。虹色の化け物は、戸口からずるずると体を引っ張りだしている。閃光が眼を刺す。縄はほどけない。奴の伸縮する体から触腕のようなものがのびてきた。
　そのとき、誰かがわめく声が、どこからか聞こえた。続いて、部屋の扉に外から誰かがぶつかる音。掛け金がとんて、扉が乱暴に押し開けられた。
「やっぱり、ここにいやがったな。貴様の剣が階上の部屋に転がってたんだ。覚悟しやがれ！」
　このあたりの家をしらみ潰しに調べてきたのだろうか、若いやくざ者は、腹立たしげにわめき散らすと、私の剣を手に部屋に飛び込んできた。奴の所からは、祭壇で起こっていることは見えなかったのだ。同時にキュソアが侵入者に目をやり叫んだ。
「馬鹿者！来るな、結界が破れる！」
　だが、マグゾルの三下は、もう床の神秘文字を足下に踏みにじっていた。
「な、なんでえ、こいつは！」
　奴は恐怖に顔を引きつらせ、異界からのものを見つめている。キュソアの手の祭器から発していた稲光が、急激に形を崩した。バチバチと音をたてて、蜘蛛の巣状の稲妻が走った。
　ヨウラの従者だという輝く怪物は、道を失ったように祭壇の上に転がり出てきた。全身を現わしたそれは、巨大な光の蛞蝓のように、不定形の体をくねらせ祭壇を降りてくる。矮人は大声をあげ、必死に奇怪な呪文を唱えながら、印を結ぶのだが、電光は瀕死の龍のように空中を暴れ回っている。
「くそ！化け物が！」
　やくざは剣を振り回して突進してきた。口許からよだれをたらしていた。
　輝く怪物に剣を突き立てようとする。怪物は再び触腕のようなものをのばした。やくざの手から剣をはじき飛ばす。剣は私の左腕に浅い傷をつくり、長椅子に突き立った。私は左腕が自由になったことを知った。剣は私の腕だけではなく、縄にも傷を与えていたのだ。私は左腕でどうにか剣を持つと残りのいましめを切った。
　その間、祭壇ではおぞましいことが起こっていた。長い長い悲鳴が聞こえた。やくざに絶対に哀れみなど感じない私でさえも、その声には耳をふさぎたくなった。赤い飛沫が降りかかってきた。私はすべてのいましめを切り落とすと、長椅子から転げるように逃れた。
　キュソアが痴呆のような顔で突っ立っていた。口の中でぶつぶつとまだ呪文らしいものを唱えていた。
「マヒデ、どうした！奴は…」
　戸口から四、五人のやくざどもが部屋に駆け込んできた。部屋の様相を見て絶句する。
　マヒデの体を飲み込んだ怪物は蛇が鎌首をもたげるように、体を上へのばし、一度に数本の触腕をのばして襲いかかってきた。閃光とともにやってくる触腕に一太刀を浴びせる。切断された腕の部分が花火のように燃え上がり消滅した。しかし、触腕は瞬時にして元の長さに戻り、襲ってくる。
　数人のやくざの叫びが聞こえた。私はキュソアの肩を揺さぶり、怒鳴った。
「あれを何とかしろ！あの化け物を！」
　キュソアは私の方を見もせず、答えた。
「もう、私には何も出来ませんよ」
　そして、あの耳障りな笑い声をあげるのだった。
　剣を振りかざし逃げ惑うやくざの一人が、松明を化け物に投げつけた。どーんという音とともに、天井まで炎が噴き上げた。怪物は一瞬ひるんだように触腕を緩め、激しく光を明滅させる。私も手近の壁の松明を手に取り、投げつけた。再び、大きな炎があがる。生き残った二人のやくざも次々に松明を投げつけた。
　部屋は火炎地獄のようになった。ちりちりと髪や服が焦げる。
　私は扉の方へ駆けた。二人のやくざも駆ける。もはや、私の事などどうでもいいらしい。
　やくざの方が一足先に戸口についた。だが、そこに立ちふさがるものがあった。フッグマだ。奴の主人は、床に描かれた呪文の上に膝をついて笑い続けている。主人の狂気が移ったかのように、フッグマは棍棒のような腕を振り回し、やくざの襟首をひっつかむと、頭上高く持ち上げた。やくざは声も出せず手足をばたつかせている。残る一人のやくざが巨人の胴に、剣を突き刺した。ほとんど根元まで突き入れる。
　だが、奴には何の効果もないことを私は知っていた。フッグマは頭上に吊り上げたやくざの体で、自分の胴に突き刺した剣を抜こうとしている男を殴りつけた。頭から人間を叩きつけられたやくざは、もんどりうって、仰向けに倒れた。その上に、今や、完全に首を折られて息絶えた男を何度も叩きつける。骨の砕ける音がして、赤や肌色のものが飛び散った。
　炎は、もう祭壇を焼き焦がし、その荒れ狂う火炎の中で閃光の怪物は、異様にねじくれた体を奮わせ、のたうっていた。その体から発する閃光は、ほとんどが紫と緑の色を帯び、炎をつらぬくように閃き続ける。
　突如、太い触腕がのび、キュソアの体に巻きついた。狂える人形師は、叫びをあげる間もなく、枉枉しき笑いを残し、炎の中に引き込まれていく。ひときわ鋭い赤い光がきらめき、肉の焼けるいやな臭いがした。
　主人の絶命とともに、髑髏面の巨人は、ぼろ切れのようになった屍体を投げ捨てると、全身を返り血で赤く染めたまま動かなくなった。炎がその巨体に這い寄り、めらめらと巨人は燃え上がった。人間の焼ける臭いとはまったく異なった悪臭が立ち込め、奴はどろどろの粘液状のものとなり、床の上を流れ出した。

　　　　５

　私は紅蓮の炎で満ちた部屋を抜け出し、階段を駆け上がった。背後を振り返ると、炎が戸口から吹き出し猛烈な勢いで追ってくる。私は駆けた。階上の廊下を駆け抜ける私の眼に、ちらりと記憶にある木札のかかった扉がかすめた。足が鈍った。
　私は立ち止まっていた。背後では、炎が地下室を焼き尽くす音が聞こえる。私は数歩後戻りすると、その扉を開いていた。
　硝子張りの六角柱の棺は、そこにあった。中のものは、再び布でおおわれていた。強烈な衝動が沸き起こった。剣の柄頭で、硝子を叩き壊した。きらめく破片が飛び散り、頬から血が滴った。手をのばし、白い布に触れる。おそるおそる持ち上げてみると、白い足と桃色の美しい爪が見えた。
　背中の方で、ごうごうという音がする。白煙がただよってきた。
　私は非常な努力を払って、目を閉じると、棺の下部の台座の部分に足をかけ、布を引き払った。剣を縦横に振り回す。柔らかい手応え。何か生温かいどろりとしたものが、肌にふりかかる。断片が床に落ちる音。結果を見ないよう注意深く目をそらして次の棺にとりかかる。硝子を砕き、布を引き裂き、人工の肉を切り裂く。
　すべてを破壊すると、煙の渦巻く廊下に這うように逃れた。剣は青緑がかった白い粘性の液体で、ほとんど刀身が見えず、その粘液は私の体にもべったりと付着していた。それは祭壇で焚かれていた薫りと良く似た、甘い薫りがした。
　廊下を闇雲に走り、いつのまにか、ブホークス街の路地裏に飛び出していた。すでに陽は落ち、星々の支配する時となっていた。
　炎は人形店の屋根を突き抜け、星空を焦がしていた。
　よろよろと石畳を駆け、崩れ落ちる背徳と狂気の人形店を振り返ると、橙色の巨大な炎の中から、あざやかな紫と緑の光束が、天空に駆け昇っていくのが見えた。