黒い天幕には控え目ではあるが、白い骸骨や輪郭のはっきりしない亡霊が描かれ、古びた書体の飾り文字が恐ろしげな気配を醸し出していた。子どものように目を輝かせたり、どこか不安げな面持ちを露にしたり、ぎごちない笑いを振りまいたりしながら、ぞろぞろと人々は天幕に入っていく。
こうした見世物には付き物の威勢の良い呼び込みもなく、夕闇迫る墓地裏で黒い天幕に人々は吸い込まれていく。
「ふむ、これはなかなか良い場所を選んだものだ」
「いやですわ、ランケン様。私、今から気持ちがおかしくなってしまいそうです」
私のとなりで深い青の衣裳に身を包んだ女が不安げに眉を曇らせた。
「一度は見に来ているんでしょう、シークォートさん」
「ええ、あのときもとても恐ろしかった。マテニーが一緒でなければ、とても入ることはできなかったと思います」
シークォートは肩を震わせて、私の手を握った。小作りの美しい横顔は篝火の明かりを受けても青ざめて見える。銀の耳飾りが揺れてちらちらと光っていた。
「それでも、こうしてやって来た」
「ええ、私、あの人が私を置いてどこかに行ってしまうなんて、絶対に信じられません。ここで、この天幕の中できっと何かがあったのです」
「あなたにはロッスマンさんの姿が確かに見えたのですね」
シークォートは私の手を握った小さな手に力をこめたが、すぐにはっとした様子で手を放した。
「すみません、私、怖くて……」
「気にすることはありません。これも仕事ですから」
シークォートは長い睫毛を伏せてうなずき、押し殺したような声で言った。
「確かに見たのです。マテニーは幻燈の出し物しか見えなかったと言うんですけど、私には確かにあの人の姿が見えたのです。幕と煙の中、作り物の幽霊や魔物が飛び回る中に、あの人の姿を確かに見たのです。ほんのわずかの間でしたけれども」
シークォートは数日前に探偵局を訪ねてきた。ロッスマンという男-彼女の婚約者-が十日も姿を消したままだという。来月には婚礼を控えており、諸々の打ち合わせの最中だというのに、彼女のもとにも家にも戻らないのだという。
シークォートは大きな紙問屋の娘で、ロッスマンは版元の息子だが、商売上の理由の縁組みというわけではなく、好きあった同士なのだという。
友人や親戚にも当たったが行方はわからない、結婚を控えて行方をくらます理由もないと彼女は言った。両家とも世間体をはばかり警邏隊には報せてはいないのだという。
唯一の手掛かりは、最後に会ったときにロッスマンが話していたこの幻燈見世物だった。彼はすっかり幻燈に魅せられて、何度も通っていたのだという。
「あの人は、幻燈を使ってもっと本格的なお芝居や、光と影の美しい見世物-あの人は芸術と言っていました-ができるんじゃないかと考えていたのです。舞台でも幻燈を使うことはあるでしょう。それをもっと磨き上げて、お芝居の添え物や毒々しい見世物ではない、新しいものを作ることができると考えたのです。それで、何度も幻燈に通っていたのです」
シークォートは大店の娘だが高慢な気配はなく、むしろ大人しく物静かな風に見えた。芸術家肌-多分そうなのだろう-の男とは似合いかもしれないが、商いに向いているかはわからない。
「幻燈というのは、先だってからドゥロケス墓地の裏に掛かっている……ああ、誰でしたっけ？」
「ノストリボアです。ノストリボアの霊妙幻燈会、そういう名前でしたわ」
シークォートは自分の目で確かめようとマテニーという友人と霊妙幻燈会に行ってみたのだという。魔物や亡霊が飛び交う出し物の中に、間違いなく婚約者の姿を見たと彼女は言った。
「それはつまり、観客の中にロッスマンさんの姿を見たということですか」
「いいえ、違います」
シークォートは顔を上げてはっきりとした口調で言った。
「あの人は幻燈の映し出す幻の中にいたのです。信じてもらえないかもしれませんが、白い幕やおぼろな煙に映し出される幻燈の幻影の中に、あの人はいたのです」
彼女は言った。幻燈の仕組みはあの人から聞いてよくわかっている。いかに霊妙と銘打とうとそれが洋灯の明かりと鏡玉と硝子板に描かれた絵が作り出す幻影に過ぎないことは充分に承知だと。
「それでも私にはあの人の姿が見えたのです。揺れ動き、おぼろな姿でしたが、あれは紛れもなくあの人でした」
「ふむ、それでロッスマンさんはどんな様子でしたか。つまり、その幻燈の幻の中で、ということですが」
私の問いに女は眉根を寄せて、暗い面持ちとなった。
「ほんのわずかしか見えなかったのです。どんな様子かと言われてもわかりません。でも、確かにあの人だったのです。マテニーはあの人らしい姿は見えなかったと言うのですが、あの娘は怖くて半分は目をつむっていたということですから……」
シークォートはいささか憤っているような口調だったので、私はそれ以上彼女の見たものを疑うようなことは言わなかった。いずれわかることだろう。
「では、ロッスマンさんは幻燈の中、種である硝子板の中に吸い込まれてしまったとでも言うのですか」
シークォートはややためらいがちにうなずいた。
「そんな不思議なことがあるとは私も信じられません。けれども、他に考えようがないのです。だから、こちらにお願いに来ているのです。ランケン様は数々の奇妙な事件を解決していると聞いています。あの人をどうにか、取り戻してください」
女の長い睫毛には小さな銀の鈴のように涙が光っていた。
「シークォートさん、努力はしますが、あなたの望むような結果になるかどうかは、お約束できません。それでもとおっしゃるなら、お引き受けしますが」
女はそれで構わないと言った。
幻燈という見世物は、これまでにもなかったわけではなかった。私自身、子どもの頃、父親と一緒に見に行った覚えがある。あれはグネーヴァル一座の公演だったろうか。堅苦しいジャクレンの教えを芝居や絵解きなどで説く見世物の中に幻燈会があったのだ。
父はジャクレン教徒ではなく-それどころか一切の神とその類いのものを信じなかった-ただ、目新しい見世物を自分も見たかったのかもしれない。
暗い小さな天幕の中、洋灯の光で映し出された幻影は何だったのだろう。不思議なことに何が映っていたのか、記憶がない。ただ、揺れる光が映し出す美しく朧な像に胸躍らせたという記憶だけが残っていた。
一時は常設の小屋も建ち、それなりの人気を博していたかと思うが、洋灯から火が出て火事になり人死にが出た後は、すっかり下火になっていたように思う。ノストリボアの霊妙幻燈会は、恐らくはサンジェリィでは久々のものだろう。
ノストリボアの幻燈会は、幻燈機を何台も使い幻影を動かしたり、煙を焚いて宙に飛び交う亡霊を映し出したり、様々な工夫が凝らされた出し物のようだった。評判も上々で、普段なら人気などないドゥロケス墓地の裏手は、夜毎大勢の人で賑わっているらしい。
一度自分の目で見てその「霊妙」な有り様を確かめようと思ったが、その前にシークォートの友人に会うことにした。
マテニーは幾らか肉付きのよい娘で、赤毛で頬には雀斑が浮いていた。提琴の稽古の帰りをつかまえて、イヌン川縁の店でマシュウ茶と菓子を驕った。愛嬌のある話し好きな娘で聞いていないこともしゃべった。
「ふむ、君とシークォート嬢が五つの頃からの親友で、二人してワバルカの沼で溺れそうになったという話はわかった。それで、僕が聞きたいのは、幻燈会で君たちが見たものなんだ。シークォート嬢は婚約者の姿を幻燈の像の中に見たと言っている。君は何かそれらしいものは見なかったかい」
マテニーは凝乳のついた匙をなめるのをやめて、焦茶色の目を細めて、少し難しそうな顔をした。
「私は何も見なかったわよ。だって、怖くてほとんど目をつむっていたんですもの。でも、目をつむるだけじゃ駄目なの。だって、音も怖いのよ。太鼓と提琴だけじゃない得体の知れない音も聞こえるの。幻燈は絡繰り仕掛けかもしれないけど、きっと本当の幽霊も引き寄せられているのよ」
「なるほどね。得体の知れない音っていうのは、人間の声みたいなものかい。例えば、ロッスマンさんの声とか」
マテニーは頭を振った。
「男の人の声か女の人の声かもわからないわ。それに他のお客さんたちのきゃあって声もたくさん聞こえたから。私は幻燈会なんてよそうって言ったのよ。幻燈を見に行ったからって、いなくなった人が見つかるなんて考えられないでしょう。ねえ、そうでしょう」
彼女はすがるような目で私に同意を求めた。
「常識的にはそうだろうね。気持ちが強過ぎると、見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるということはあるだろうしね」
女は少しだけほっとしたような顔で、菓子を一口口に運んだ。私は話題を変えることにした。
「彼女の婚約者について、何か知っていることはないかい。会ったことはあるんだろう」
「何度か、シー-彼女は親友のことをこう呼んだ-と一緒にお会いしたわ。優しくて素敵な方だけど……」
赤毛の娘は語尾を濁した。私が促すと彼女はためらいがちにロッスマンに対する自分の見方を口にした。
「あの方には何だか影があるような感じがするの。版元さんだからかしら、いろいろなことを知っていて、お話は飽きさせないし、踊りだって上手なのよ。でも、時々、何だか、心ここにあらずみたいに見えるときがあるの。楽しそうにお話していても、シーと仲睦まじくしていても、あの、何でしょう、黒い目の奥に何かがあって、違う所を見ているみたいな気がすることがあったの。それは、あの方は私たちより十も年上だから、つまらない話に夢中になったりはしないのかもしれないけれど……ああ、私、何を言っているのかしら。わからないわ、ただ、そういう感じがしたって言うだけなの。シーには私がこんなこと言ったって言わないでくださいね」
「ああ、それは御心配なく。シークォート嬢は、そういうことを感じていた気配はありましたか」
マテニーはそんな様子はなかったと答えた。
「シーはロッスマンさんに夢中だったわ。おとなしい娘なのに、結婚が決まったときは、はしゃいで一緒にお酒を飲んだくらいですもの」
彼女はいかにシークォートが婚約者を愛していたか、幾つかの話を並べて、菓子を食べ終わり、お茶を飲み干した。私は礼を言って席を立とうとしたが、彼女は腰を下ろしたままだった。
「あの、ランケンさん、こんなことお話していいのか……」
私はもう一度腰を下ろし、彼女と自分のためにマシュウ茶のお代わりを頼んだ。
十年ほど前、ロッスマンには恋い焦がれた女性がいたという話をマテニーは語った。親友の結婚が決まった後、ある小宴で聞いた話だという。
「そんな話、シーには言えないでしょう。だから、ずっと黙っていたのよ。こんなことになって、どうしようかと思ったのだけれども、でも、まさかね。だから、シーが幻燈会に行きたいと言い出したときには、どうしようかと思ったわ。でも、言えないでしょう、こんな話」
私がうなずくと彼女は涙をぽろりとこぼした。女の名前はイディレットといい、ある馬車屋の娘だったという。黒髪に黒い目のほっそりとした美しい娘で、何人もの男が惚れ込み求婚していたが、娘はなかなか首を縦にふらなかった。
ロッスマンも彼女に焦がれる男たちの一人だったが、やがて大方の男たちは脱落し、ロッスマンともう一人の男が残った。二人の男は一人の女を求めて争ったが、互いに敬意と親愛の情も抱いており、イディレットを挟んで三人で観劇に出かけたり、船遊びなど楽しんだりもしたのだという。
二人の求婚に対し、イディレットはついに答えを出すと言った。だが、その答えを聞くはずの約束の晩、イディレットは馬車の事故で命を落とした。二人が駆けつけたとき、イディレットはまだ息があったが、二人に手を握られたまま、何も言わずに息を引き取ったのだという。
もう一人の男は悲しみのあまりサンジェリィを離れ、ロッスマンはその後何人かの女性と交際はしたものの、結婚には至らなかった。イディレットの面影を忘れられないのだという者もいるという。
「その女性が幻燈の影の中に現れた、だから彼は幾度も幻燈会に足を運んでいた、そう君は思うのかい」
マテニーは赤毛を揺らせて「そんな恐ろしいことは……」と言った。
「でも、シーも黒髪に黒い瞳で、そのイディレットという人によく似ているという人もいて……だからロッスマンさんは結婚する気になったんだって……そんなこと、そんなことシーには言えないでしょう、そうでしょう」
娘は花柄の刺繍入りの手巾を取り出して涙を拭った。
「では、その話はシークォート嬢は知らないのですね」
マテニーは知らないはずだと言った。ロッスマンの友人たちも花嫁を慮って、そのことは口にしないのだという。
私はマテニーから聞いたロッスマンの友人を訪ね、かつての悲劇について話を聞いた。友人たちは多くは語らず、その中味もマテニーから聞いたものと変わらなかった。幻燈とロッスマンの失踪を結びつける者はいなかったが、シークォートの中に死んだ娘の面影を見る者はいないわけではなかった。
失踪の原因については、誰も何も知らなかった。借金があるわけでもなく、他に隠れた恋人がいたわけでもなかった。ただ、何度目かの幻燈会の後、行方がわからなくなったのだ。
ドゥロケス墓地裏の見世物に赴こうと外套を羽織っていると、探偵局の扉を叩く音がした。
「生憎今からでかけるところなんだ」
扉の向うに声をかけると、聞き覚えのある声が返ってきた。
「私です、シークォートです」
扉を開けると依頼人が少し青ざめた顔で立っていた。青い襞の多い衣裳に銀の耳飾りがよく映えて似合っている。
「おや、これは。なかなかご報告に行けずに申し訳ありませんね。今から幻燈会に行ってあれこれ、確かめてみようかと思っていたところです」
シークォートはほっとしたような微かな笑みを浮かべた。
「よかった。私、幻燈会に御一緒願えないかと思って、こちらに来てみたのです。よかった、これで安心ですわ」
「ふむ、もう一度ロッスマンさんの姿が見えるか、確かめたいということですね」
シークォートは小さな頤をあげて、声は小さいがはっきりとした口調で言った。
「いいえ、あの人が幻燈の影の中にいるのは間違いありません。私はあの人を影の中から救い出したい、いいえ、取り戻したいのです」
そう言うと彼女は視線を私の腰のあたりに落とした。
「剣が必要になるかもしれません。聞くところによると、ランケン様は大層な魔剣をお持ちとか」
私は外套の上からファバーン剣の柄頭を叩いてみせた。
「ただの古い剣で、魔法の残り滓のようなものがついているだけですよ。それに僕は剣を振り回すのが好きなわけではない。どうしてそんな物騒な話になるんです？」
シークォートは小さくうなずき、視線をあげて黒い双眸で私の目を見た。視線は固く強ばっている。
「それは道々、お話しましょう」
彼女が踵を返したので、私は慌てて家の明かりを消し、扉の鍵を締めた。
ラグラン大通りで馬車を拾い、行く先をドゥロケス墓地と告げた。御者は「幻燈見物ですかい。近頃、評判ですからね」と陽気な声を出した。シークォートは曖昧に微笑み、私は「墓参りだよ」と答えた。
通りの両側にはデリン灯が青白い光を放ち始め、店先の洋灯や提灯には朱の光が点されていく。家路をたどる人々と夜の街に繰り出そうとする人々で、大通りは賑やかだった。行き交う人々の騒めき、夜食を売る屋台の売り子の声、蹄の音や車輪の軋む音、様々な音が馬車の中にも入り込んでくる。
シークォートは少しの間黙って窓の外に視線をやっていたが、抱えていた小さな鞄を開けて中のものを取り出した。
「これを見つけました。あの人の部屋で」
シークォートは婚礼の日延べなどの相談のため、ロッスマンの家を訪ね、彼の部屋を見せてもらったのだと言った。そのとき、書棚の隅に納められていた小振りの帳面に奇妙に惹きつけられたのだという。
彼女はその帳面を開いて、中ほどの頁を私に見せた。それは忘備録のようなもので、幻燈を使った新しい見世物の案などが図も交えて書きつけられていた。
だが、最後の部分には少し違うことが書いてあった。
イディレット、ああ、こんな幻が。霊妙とはこのことなのか。イディレット、ああ。
走り書きに近い文字で記された短文には、他の部分とは異質な、一種の切迫感が感じられた。その部分からは、一度もあったことのないロッスマンという男の声が聞こえてくるような気がした。
「イディレットという女性のことは私も調べました。あなたは以前からこの女性のことを知っていたのですか」
私の問いにシークォートは小さくうなずいた。
「あの人は何も言いませんでしたが、人の噂で昔そういうことがあったことは聞いていました。でも、十年も前の話です。あの人が私を愛してくれているのは知っていましたし、何よりその人は疾うの昔に死んでいるのです。今さら蒸し返す必要があるとは思えませんでした。でも、違っていたのです」
彼女は自嘲的ともとれる笑みを浮かべた。
「あの人がいなくなっても、すぐにはこのことは頭に浮かびませんでした。けれども、マテニーと一緒に幻燈を見たとき、いいえ、幻燈の写し絵の中にあの人の姿を見たとき、不意に思い出したのです」
「幻の中にこのイディレットという女性の姿があったのですか」
シークォートはまた薄笑いを浮かべた。
「いいえ、あの人の姿を一瞬見ただけです。ただ、この事を思い出したのです。それで、彼女があの人を呼んで、あの人は行ってしまったのではないかと……」
「その話は先日はしませんでしたね」
女は自分を納得させるかのようにうなずいた。
「幻燈の中に人が消えてしまったというだけでも、充分おかしな話でしょう。その上、死んだ女にあの人を取られてしまったなんて、自分でも信じたくなかったのです。でも、これを見て、確信しました。あの人は死んだ女の幻に惹かれて、行ってしまったのです」
シークォートは婚約者の残した忘備録を固く握りしめた。革の表紙に爪の跡がつきそうだった。
馬車は大通りを外れ、墓地へと向かった。棺桶を積んだ馬車が通れるように道は広げられていたので、墓地裏の会場近くまで行く事ができた。篝火が焚かれた林の中の空き地には数十人の客が集まっていた。何台かの馬車も止まっている。帰りまで待たせる者もいるのだろう。私たちも御者にそう頼んだ。
木戸銭を払い、黒い天幕の中に入った。中は幾つもの燭台からの明かりで照らされていた。前方に舞台があり、今はまだ幕が下りている。幕にも骸骨や幽霊の絵がかすれるような筆致で描かれていた。左右には燭台の他に大振りの香炉のようなものが幾つも置かれ、うっすらと煙が上がっていた。
舞台を扇型に囲んで、長椅子が三列に置かれており、既にあらかたの席が埋まっていた。シークォートは私の手を引いて、前の方の列に席を取った。
「この前もこのあたりの席に座りました」
「ロッスマンさんの姿はどのあたりに見えたのですか」
彼女は舞台の右端の方を指差した。
「あのあたりに。最初はぼんやりと、それから一瞬だけはっきりと見えて、そしてすっと消えてしまいました。もう、出し物も終わりの頃です」
すぐに場内は満席になった。提琴らしき音が物悲しい旋律を奏でると、ざわついていた客席は急に静かになった。舞台の上手から黒い衣裳に身を包んだ男が現れた。
浅黒い顔に黒い口髭をはやし、方眼鏡をかけている。鷲鼻が目立つ小柄な中年の男だ。この男がノストリボアなのだろう。よく響く低い声で男は話し始めた。
「ようこそ皆様、ノストリボアの霊妙幻燈会へ。これよりお目にかけますのは、皆様の心のうちに潜み棲む幻、隠された思い、いつか聞いた伝説の精霊魔神、また死霊と亡霊。これはただの出し物、下世話な見世物ではございません。皆様の強く念じる思いがあれば、そこにはすでに失われた人々の姿が幻影となった現れるやもしれませぬ。さあ、皆様、目を閉じ、心を空にして、冥界からの声に耳をお澄ましください。さあ、目を閉じて、目を閉じて、声をお聞きください」
なかなかの名調子だった。隣を見るとシークォートは目を閉じていた。私も幻燈師の口上に従う事にした。
提琴の音が低くなり高くなり、女の声のようにも聞こえてくる。普通の弾き方ではないのか、何か仕掛けがしてあるのか。目を閉じていてもあたりが暗くなっていくのがわかった。蝋燭が消されているのだろう。
提琴の音が小さくなっていき、ほとんど消えかかったかと思うと、太鼓の音が聞こえ始めた。心の像が脈打つように規則正しく小さく律動が続く。
「さあ、目をお開けください。霊妙なる世界が皆様の前にあります」
舞台の上と思しきところに、何かぼんやりとしたものが見えた。ゆらゆらと丸い白いものが浮いている。それは次第にくっきりとした形-髑髏-になった。客席から悲鳴が聞こえる。髑髏は大きくなり小さくなり、宙を飛び回り、他にも肋や腕、足の骨、骨盤が飛んできて、やがて一つの身体となった。手足を得た骸骨はうれしげに歯を慣らすと、壇上で奇妙な踊りを踊り始めた。怖がらせるだけではないらしい。
舞台の上には薄ぼんやりとした男や女の姿も現れた。押さえた胸から血を流している男、眉間を割られて顔を血まみれにしている女が現れ、手を取って舞った。子どもの首が転がってきたかと思うと、それを追う体が現れ、首を追って舞台を右往左往した。客席からは笑い声をも聞こえたが、不愉快そうな声を漏らす者もいた。
骸骨と幽霊たちの踊りが一段落すると、次は妖怪変化が登場した。舞台の下から現れたのは、百足と蛇の合の子のような地虫の神だろうか。上から降るように現れたのは蝙蝠の翼に蜂のような体を持つ魔物、舞台の奥からこちらに歩み寄り、朧な姿を次第にはっきりさせたのは、毛むくじゃらの森の魔神スグワージらしいが、足が一本しかないのはキューベスあたりの伝承に従っているのだろうか。
化け物たちは舞台から飛び出さんばかりになり、得体の知れない吠え声らしきものが天幕に響き渡った。提琴と太鼓の音も恐怖の情を盛り上げる。魔物たちの犠牲者よろしく、先ほどの血まみれの亡霊たちも現れた。彼らは魔物たちから逃げ惑った末に餌食になった。ご丁寧に真っ赤な血飛沫すら浮かび上がったので、客席からは悲鳴や不快そうな声も上がり、席を立つ者もいた。
魔物たちが生贄に満足して姿を消し、提琴の歪んだ音が谺すると、舞台には装飾過多気味の宮殿が映し出された。絵図で馴染のクァロニアン帝国の王宮だった。長衣をまとい魔法錫を持った魔道士の王が呪文を唱え、灰褐色の軍服を着た兵士たちが、行進する。太鼓の音は軍靴の響となり、提琴の弦が詰屈怪異な呪文を奏でる。
舞台には拷問器具が並び、帝国に異を唱えた抵抗者たちが血まみれになり引き裂かれる様子が映し出される。ここでも幾人かの客が耐えられずに出ていった。やがて太鼓の音が高まると大勢の人々の怒号らしき音が飛び交い、蜂起した市民に宮殿は取り囲まれ炎が上がった。
炎が闇に吸い込まれるように消えると、太鼓の音は止み、提琴の音だけがかすかに聞こえるようになった。弦の音は女のすすり泣きのようにも聞こえる。
客席の上にぼうっと何かが浮かび上がった。青白い鬼火が宙にゆらゆらと揺れている。客席からは男女を問わず驚きと恐怖の声が上がる。鬼火は二つ三つと増えていき、響めく観客の上を右に左に飛び回る。よく見れば、鬼火の中心には悲嘆や怨念に歪んだ顔が見える。杖を振り回し、追い払おうとする者もいたが、怪異は歪んで消えたかに見えてもすぐに元通りの姿を現した。また、何人かの客が逃げるように出ていった。
鬼火はしばらく飛び回っていたが、一つ二つと姿を消し、今度は舞台の中央に幻影が現れた。顔立ちははっきりとせず、体の輪郭もぼやけていたが、どうやらそれは女の姿のようだった。肩を落とし、頭をたれ、ゆっくりと右に左に揺れながら動く。どこからか、女の声らしきものも聞こえる。何を言っているのかは聞き取れないが、泣き声混じりの恨み言のようにも感じられる。
もう一人、亡霊が姿を現した。どうやら今度は男のようだ。やはりぼやけて、目鼻立ちはよくわからない。こちらもうなだれて、物悲しげな気配で、さまよい動く。うめくような恨めしい声も聞こえてきた。
女と男の亡霊は意味あり気に近づいてみたり、また離れたりして、不気味な死の舞踏を演じた。互いを呼びあうような声を漏らしたかと思うと、客席に向かって何かを訴えかけるように揺れ動いた。
二つの幻は大きく揺らいだかと思うと、舞台から客席の方へと飛び出した。観客の頭をかすめるように女と男の幽霊は飛び回り、陰鬱なうめき声をあげた。
恐怖の叫びがあちこちから天幕に響き渡った。女だけでなく男も悲鳴を上げた。頭を押さえてうずくまる者、腕を回して霊を振り払おうとする者、椅子から転げ落ちる者もいた。
同時に客席からはすすり泣く声も聞こえ始めた。失われた者の名を呼ぶ悲痛な声も聞こえてきた。
ノストリボアの幻燈は確かに素晴らしい出来栄えで、映し出される像は精緻で迫真力があると共に、芸術とも言える美しさも備えていた。演出は巧みで、舞台の大きな幕と客席に漂う煙を自然に行き来する幻像は、まるでそこに実在しているかのように感じられた。提琴と太鼓の楽の音と、歌とも言葉ともつかない人声も、硝子絵と洋灯の作り出す幻影を強く心に刻み込むのに、大きな役割を果たしていた。残酷さの中にも美しさがあり、見る者に衝撃を与えるだけでなく、情感を揺り動かす何かも兼ね備えているように思えた。
私たちのすぐ目の前に男の亡霊がやってきた。間近で見ても目鼻立ちがはっきりするわけではない。青白い顔に歪んだ黒い穴が開いているようだ。暗い眼窩の奥で時折赤い光が瞬くような気がする。
観客が手を振って追い払おうとすると幕の代わりを果たしている煙が揺れ動き、幽霊は形を崩す。両耳を押さえて、頭を抱え込んでいる者もいる。泣きながら連れの者にしがみつく客もいる。
だが、シークォートはそのいずれでもなかった。顔を上げ、目を見開き、舞台を覆う幕を見つめていた。舞台の幕には今は鬼火が揺らめき、時折、翼のある異形のものが横切ったり、あるいは赤い血の染みらしきものがぽつりと垂れてはふくらんで消えたりしている。
シークォートは飛び回る幽霊たちの背景となっている幕の一点を見ている。はっと息を呑む音が聞こえたかと思うと、彼女は「ああ、あなた！」とかすれ声で叫んだ。
私は彼女が凝視している先を見つめたが、女の霊が邪魔をするように揺らめいて、はっきり見ることができない。舞台の右端の確かにそのあたりに何かもやもやとしたはっきりしない影のようなものが見えた気がしたが、それがシークォートの言うような男の姿かどうかは、どうにも判然としなかった。
外套の下に隠したファバーン剣の柄を握ると、魔力や怪しのものの存在を示す痺れにも似た感覚がわずかに伝わってきた。
太鼓が一際大きく打ち鳴らされると、霊たちは天幕の上の方に浮かび上がっていく。客席からはすがるように死んだ者の名を呼ぶ声が聞こえる。提琴の音もいよいよ哀切を帯びて細く高く響き渡ったが、太古の魔剣は沈黙した。
すべての幻は観客の頭上に揺れながら消えていき、楽の音が余韻を残して消えると、闇に包まれた場内には、すすり泣きと安堵の溜め息が静かに交錯した。
やがて、舞台の上に燭台を手にしたノストリボアの姿が現れた。
「皆様、ノストリボアの霊妙幻燈会はお楽しみいただけたでしょうか。幻の中、影の中に昔日の面影、切ない追想、あるいは精霊や神妙なるものの姿を見た方もあるやもしれません。この天幕の中の幻は消えても、皆様の心のうちには必ずやその影が残り、この世を生きる支えとなり、また次の世への希望の灯火となることをお祈り申しあげます。さて、外はすっかり夜も更けております。ここは墓地裏、幻燈に誘われて墓場よりさまよいでた幽鬼魍魎の類いにはくれぐれも御注意ください。ありがとうございます、ありがとうございます、またの御来場を心よりお待ちしております」
ノストリボアがしゃべっている間に客席にも蝋燭が点り、観客は三々五々、帰路に着き始めた。
シークォートは私の隣の席に座ったまま、放心したように舞台の方を見ていた。すでに幕は下り、燭台からの明かりに描かれた髑髏がにやけた笑いを見せていた。
「彼が見えたのですね」
私の問いに女はうなずいた。
「この前よりもはっきり見えました。最後の幽霊たちの舞の合間に、あのあたりに見えたのです」
シークォートは舞台の右端の方を指差した。
「あなたにも見えましたか」
彼女の問いかけが随分とはっきりしていたので、私はいささかためらった。
「僕の目には、どうもはっきりしませんでした。影のようなものが見えた気もしましたが、幻燈の女に遮られて……」
「あの女が邪魔をしたのです」
「えっ」
「私の前にも現れましたが、私はあの人のことを強く念じました。すると、あの女は私を睨みつけて消えました」
「それで、ロッスマンさんはあなたに何か答えてくれましたか」
「いいえ、何も」
シークォートは目を閉じた。涙が溢れて頬を伝った。
「何か見たのですか、お客さん」
声に驚いて振り向くと、すぐ後ろに幻燈師が立っていた。シークォートは立ち上がり、涙を手巾で拭うと、鷲鼻の男をきっと見つめて言った。
「あの人を返してください。あの人は幻燈の中にいるのでしょう。写し絵になってしまったのですか？ それとも鏡玉の中に取り込まれているのですか？ あの人を返してください！」
女の食ってかかるような物言いにも、ノストリボアは驚く様子もなく、落ち着いた声で答えた。
「何かを見たのですね。あなたのいい人を幻影の中に見たのですか」
「あなたは知っているのでしょう。私のあの人が幻燈の光の中に吸い込まれたことを。あの女が写し絵の中からあの人を呼んだのでしょう。あの人を返してください！」
幻燈師はシークォートの剣幕に押されるように、一二歩後退ったが、落ち着いた態度は崩さなかった。
「何かを見たのですね！ 霊妙幻燈会では間々あることです。お望みならば、これより特別上演を行いましょう。あなただけのために、あなたの心の幻影を確かめるために！」
ノストリボアは口髭の下で唇を歪め、笑い顔のようなものを作った。
「やれやれ、困惑している御婦人につけこんで金を取ろうというのかね」
私は立ち上がり、幻燈師を睨んだ。
「お客様、これは興行でございます。霊験あらたかとうたう占い師や祈祷師も見料を取ります。坊主や神官もお布施を受け取ります。一介の興行師である私奴が日々の糧を欲して何が悪いのでしょうか」
ノストリボアはそう言って方眼鏡を直した。
「いいんです。お金ならお支払いしますわ。その代わり、あの人の姿をもう一度見せてください」
シークォートは幻燈師に金を渡し、ここに通い詰めて姿を消した男のこと、舞台の右端の方に姿が見えたことなどを話した。イディレットという女のことは何も言わなかった。
「確かにそう言われれば、幾度も訪れてくださる男の方がいたようにも思いますが、何分、暗い場内に大勢のお客様がおります。すべての方のお顔を覚えているわけには参りません」
ノストリボアは準備をすると言って、闇の中に姿を消した。少しすると場内の蝋燭が消された。顔まで黒い頭巾で覆った黒ずくめのやけに小柄な男の姿がちらりと見えた。何人かの助手を使っているのだろう。
太鼓の音も提琴の音も聞こえては来なかった。闇と静寂の中にノストリボアの声がくぐもって聞こえた。
「それでは、本日の特別興行！ 失われし愛を求める清らな魂のために、冥界より救いと誘いの手が差し伸べられます」
幻燈師の声には嘲笑にも似た不快な響きが感じられた。隣席のシークォートは私の手を握った。小さな手は冷たいのに汗ばんでいた。
「私、怖いんです。私……」
女はそうささやいた。
「実はけっこう立ち回りは得意なんですよ。魔剣もなかなか役に立つ。ご安心ください」
私は取りあえずそう答えた。
擦れるような音がして舞台の幕が上がったことがわかった。舞台の上に青い鬼火が現れた。振り向いてみたが、明かりは見えない。舞台上の写し絵は、大きな上演用の幕の後ろ側から映し出しているようだ。
鬼火は二つ三つ現れて揺れ動き、明滅した。そこに上から赤い血が流れ落ちてくる。滴る血の中にぼんやりとした男の姿が映し出される。そこまでは、先刻見た出し物とほとんど同じだった。
男の影はゆらゆらと動き、こちらに近づいてきたり、また遠ざかるように見える。鏡玉の工夫か、あるいは幻燈機自体を前後に動かしているのだろうか。
突然、シークォートが叫んだ。
「あなた！ そこにいるのね！ 私です、ここに、ここに戻ってきて！」
彼女は私の手を放し立ち上がった。男の幻影は幾らか輪郭がはっきりしたようにも感じられたが、はっきり誰とわかるようなものには、私には見えない。
「あなた、戻ってきて！ 私はここよ！ 戻ってきて！」
シークォートは幻影に向かって両腕をさしのべた。すると、演幕に映った像が乱れ、もう一つの人影のようなものが現れた。それもぼやけた輪郭だったが、どうやら女の姿に見える。
「ああっ、やはり、あなたなのね！ あなたがあの人を連れていったのね！ そんなことはさせないわ！」
シークォートは長椅子の間の通路に飛び出すと、舞台に向かって走り寄った。私は後を追ったが、長椅子の角にひどく足をぶつけて、出遅れた。
「あなた、私はここよ、戻ってきて！ 私のところへ戻ってきて！」
舞台裏でノストリボアが女の叫びを聞いて幻燈機を操っているのだろうか、女の幻影が急に大きくなり、男の姿を覆い隠すようになった。
「邪魔をしないで！ 止めて！ あの人は私のものよ！ あなたなんかに、死人なんかに渡しはしない！」
私は彼女の肩をつかんで引き戻そうとしたが、わずかに届かなかった。
写し絵の光が大きく明滅したかと思うと、男とも女ともつかない影が大きな腕のように舞台から突き出された。影はシークォートをわしづかみにしたかと思うと、舞台の上、明滅する光と影の中に彼女を吸い込んだ。幕が大きく揺れて、映る像も歪み、波打った。その中に一瞬、目を見開き何かを叫ぶシークォートの姿がはっきりと見えた。
光は激しく明滅し、舞台の幕にはでたらめに鬼火や血糊や幽霊、骸骨、魔物の姿が消えては現れ、現れては消えた。どこからか女の悲鳴と笑い声が重なって聞こえたような気がした。そして、闇が訪れた。
「シークォート！ どこだ！ シークォート！」
答えはなかった。私は闇の中で剣を抜いた。刀身に刻まれた神秘文字がぼんやりと緑色に光って見えた。握った右手には幾らかの痺れるような感覚があった。
「ノストリボア、これはどうこうことだ！ 明かりをつけろ！ ノストリボア！」
舞台の上に薄黄色の光の輪が浮かんだ。その中に幻燈師のものと思しき影が現れた。
「お望み通り、愛しい人に会わせてさしあげましたよ。あちらで、どんなことになっているかは、存じ上げませんが」
幻燈師の影は皮肉な口調でそう言い、方眼鏡を押し上げる仕草をした。
「彼女に何をした？ 何の術を使った？」
「私は何もしていませんよ。あのお客様の思いが強過ぎたのです。私の幻燈機は特別なものなのですよ。生者の強い思念で死んだ者の姿を見せることができる。先ほどの出し物でも誰かの名を呼びすすり泣くお客様がいたでしょう。硝子板に描かれた幽霊に自らが思う人の姿を重ねて見る者もいるのです。もしかすると、もっとはっきりとした姿を見たり、声を聞いたりする者もいるのかもしれません。あなたのお連れ様も、行方知れずらしい殿方の姿を見たのです」
「だが、客は消えなかった。彼女をどこにやった？ 彼女の婚約者はどこに消えた？ 知ってるのだろう、お前がやったのだろう！」
私は舞台に上がって、幕の後ろにいる興行師に詰め寄ろうとした。だが、何者かに足や腰をつかまれて、前のめりに倒れそうになった。かすかに黒ずくめの矮人のような姿が見えた。
「極く稀なことですが、念が強過ぎると、相手の姿を呼び起こすだけではなく、自分があちらの世界に吸い込まれてしまう者もいるのです。あなたのお連れ様や婚約者とやらは、そういう珍しい例なのでしょうね」
ノストリボアはまるで他人事のように言って、押し殺したような笑い声を出した。
「ふざけたことを！」
私は下半身にまとわりつく黒衣を振り払おうとしたが、彼らは思いの他力が強かった。私を押さえつけ、それどころか足下から引き倒そうとする。一言も発さず姿もほとんど見えないが、彼らは異様な力を発揮していた。
「すべてを吸い込まれはしないまでも、精気を吸い取られてしまう者もいるのですよ。演幕に映し出される幻に心奪われてしまう者たちです。肉体はこの世に残っても、魂はすでにこの世にはないのです。その者たちは、幻燈の写し絵を作り出し、存在させるために、残っているすべての力を尽くすのです」
ノストリボアの言葉が終わると同時に太股に鋭い痛みが走った。はっきりとは見えないが、黒衣が歯を立てているようだ。私は剣の柄頭でそいつの頭と思しき所を打った。呻き声すら聞こえなかったが、そいつは顎を開いて、私の足から離れた。
私はファバーン剣を腰のあたりで振り回した。鈍い手応えがあったが、奴らの頭を斬りつけたのだろうか。悲鳴は聞こえなかったが、足音らしきものが響き、足腰に取り付いていた手の感触はなくなった。
また、近づいてくるような音-足音と衣擦れだろうか-が聞こえたので、私はもう一度、剣を低い位置で振り回した。
今度は短い「ぎゃっ」という声が聞こえた。手応えがあり、生暖かいものが足にふりかかった。血の臭いがした。
私は剣を腰の下で振り回しながら、ノストリボアの影の方に走った。もう一度、苦痛の声が聞こえ、股に飛沫がかかる感触があった。足に絡みつくこの黒衣の中にロッスマンがいるのではないかという思いが一瞬過ったが、映し出された影の中に姿があったのなら、そうではないのだろう。
黒衣たちを払いのけ、私は舞台の上に上がった。ノストリボアの大きな影に斬りつけると幕が裂け、私はその中に飛び込んだ。
舞台の中には何台もの幻燈機が置かれ、硝子絵らしきものが並んだ箱がその脇の台に置かれていた。提琴と太鼓が床に置かれているのも見えた。光を放っている機械は奥に置かれた一台のみで、その前に幻燈師が立っていた。シークォートの姿はない。
「彼女をどこにやった！」
私は剣先を幻燈師に突きつけた。ファバーン文字は緑の光を放っている。
「あの方はここです。幻の世界、影の世界に行ったのです」
幻燈師は背後の機械を指し示した。彼の後ろの幻燈機は他のものとは少し形が違っていた。他の機械は四角い箱に鏡玉のついた筒と、洋灯の熱を逃がすための縦の筒がついた簡単な作りだったが、彼の後ろの幻燈機は、少し大振りで、箱の代わりに球状に膨らんだものが本体となっていた。銅か真鍮ででもできているのか、鈍い光を放ち、見慣れぬ文様で飾られている。
「お捜しになるなら止めはしませんよ」
そう言うとノストリボアは体を横にずらした。幻燈機からの光が目に入る。ただの洋灯の光とは思えない眩しさに私は思わず目をそらした。すると、そこに幻影が現れた。頭のない子どもが切り株のようになった首から血を溢れさせて手招きしていた。視線をずらすと、そこには骸骨が薄ら笑いを浮かべて奇妙な踊りを踊っていた。羽音がしたような気がして上を見ると、蝙蝠の翼に虫の体を持つ化け物が宙を舞っている。
ノストリボアは幻燈機の横にまわり、手元で硝子板や鏡玉を操作をしている。だが、光を放っている幻燈機は一つ、像を映すための幕も煙もないのに、舞台の上にはあちこちに幾つもの幻が浮かび上がり、動き回っていた。提琴と太鼓は床の上だが、どこからか楽の音も聞こえてくる。
「さあ、尋ね人は見つかりましたか。幻の中に、冥界からの影の中に、お捜しの方はおられましたか。見つからないのですね。これではどうですか」
ノストリボアが思わせぶりな仕草で手を振ると、舞台に置かれた幾つもの幻燈機に灯が入った。操作する黒衣の姿はない。だが、何台もの幻燈機からは光が放たれ、何人もの亡霊、幾体もの骸骨と死骸、妖怪が四方を乱舞する。胸から血を流す女が、頭を割られた男が、拷問で引き裂かれた者たちが、右に左に、また上に下にでたらめに動き回る。楽の音だけでなく、苦悶と悲痛の声、狂気をはらんだ笑い声も聞こえる。
「さあ、あなたのお捜しの方はおられますか。あなたは誰をお捜しですか。本当は誰を捜しているのですか。本当は誰に会いたいのですか。あなたが会いたい人は？ あなたが求めている人は？ 幻の奥へ、影と影の交わる中へ、そこにあなたの求める人は佇んでいるやもしれません。さあ、幻の中へ」
ノストリボアの声は幻影たちと同様に近くなり遠くなり、ぼやけてはまたはっきりとし、木霊のように聞こえてきた。
私を取り囲む幻影たちは次第に輪郭がぼやけてきた。亡霊も妖魔も髑髏もぼんやりとした柔らかい光の塊のようになる。残酷で恐ろしい気配が消えていき、代わりに懐旧と切なさ、甘美な憂鬱とでもいうようなものが心の内に沸き起こってきた。
ぼやけた幻たちが再び形を取ろうとしていた。女の姿だろうか。一人ではない。男と思しき影もある。ゆっくりとうねるように揺らめきながら、幻影は明瞭になろうとする。
頭の芯のあたりが奇妙に痺れていくような気がする。暖かい空気が体をつつみ、心地よさの中で、剣を持った手の力が緩んでいく。
その時「あなた！」という叫び声が聞こえた。柔らかな幻が裂けて、鬼女のような形相のシークォートの姿が見えた。もう一人の女の姿も見える。後ろ向きで顔は見えない。黒髪が水の中にいるかのように広がってうねっている。二人の女はもみ合い、もう一人の女の顔がこちらを向いた。その顔もまた、恐ろしい面持ちのシークォートのものだった。
掌に鈍い痛みのようなものが走り、力が戻ってきた。私は剣を振り回し、周囲をつつむ幻に斬りつけた。刀身のファバーン文字が緑色に輝いた。二人の女も形を取りつつあった影も、ばらばらになって光の塵のようなものとなった。
私はそのままノストリボアが操る幻燈機に斬りつけた。大きな音がして火花が飛び散り、激しく光が明滅した。幻燈機は光を散乱させながら向こう側にいたノストリボアと共に倒れた。
短い悲鳴のような声と機械が壊れる音がした。硝子が割れる音も響く。幻燈機の中心の金物の球体が壊れ、そこから四方に光と幻が飛び出した。無数の男と女の影が舞台中に交錯した。壁に床に、幕の裏側に、屋根の天幕に、幾つもの歪んだ影が飛び回り、絡みあい、叫び声をあげた。引きつるような笑い、悲嘆の泣き声、苦しみにうめく声が切れ切れに谺する。亡霊たちの姿も引きつけを起こしたように奇怪に動き、閃くように現れては消えた。提琴が狂ったような音を出し、太鼓がでたらめに打ち鳴らされた。
ノストリボアの姿が壁に天井に演幕に幾つも幾つも映し出された。鷲鼻に鼻眼鏡の男の姿は、割れた鏡に映る像のように無数に切断されて、八方を飛び回った。亡霊たちが彼を追いかけているようにも見えた。幻燈師が必死で霊たちを追い求めているようにも見えた。彼の姿は大きくなり小さくなり、時に一つになり、また引き裂かれ、亡霊たちと狂気じみた追いかけっこを演じた。
狂騒は長くは続かなかった。壊れた幻燈機からの光は二度三度大きく閃いたかと思うと、血のように赤い色を帯び、太鼓の皮が破れる音とともに不意に消えた。亡霊たちとノストリボアは闇の中に姿を消した。呻き声と泣き声はもう少し残って聞こえていたが、提琴の弦が切れる音がすると、それも聞こえなくなった。
床の上では壊れた幻燈機から漏れ出した油が小さな炎を上げていた。私はその炎を舞台の隅にあった燭台に移し、床の火は踏みつけて消した。
不思議の幻燈機は球状の部分が大きくひしゃげて壊れ、鏡玉もはずれて割れていた。絵が描かれた何枚もの硝子板が割れてあたりに散乱している。ノストリボアの姿はどこにも見当たらなかった。
「あなた！ あなたなのね！」
客席の方からシークォートの声がした。私は燭台を掲げ、幕の裂け目から舞台の前に出た。舞台のすぐ下で、シークォートが一人の男を抱きしめていた。男は意識があるのかないのか、ぼんやりとした様子でされるがままになっているようだった。
私は蝋燭を持って客席の中を歩き、ノストリボアの姿を捜した。他の燭台にも火を点したが、幻燈師の姿はどこにもなかった。舞台のまわりには黒ずくめの服だけが何着も落ちていた。持ち上げてみると、中から黒い灰のようなものが少しこぼれ落ちた。
舞台に上がり、もう一度幻燈師の姿を捜したが見つからなかった。壊れた幻燈機のまわりをもう一度見ると、一枚だけ割れていない硝子板が落ちていた。拾い上げて蝋燭の光を当てると、そこには方眼鏡をして口髭をはやした幻燈師の姿が描かれていた。蝋燭の炎にかざしてみると、演幕の裏に映し出されたその姿が少しだけ動いたような気がした。
私は硝子板を床に落とした。硝子板は割れなかったが、足で踏みつけると粉々になった。
シークォートは何が起こったのかよくわからないと言った。驚くことに彼女は自分が舞台に向かって行ったことも覚えていないと主張した。ただ、ひたすらロッスマンに戻ってくるようにと念じていただけだと言うのだ。
「あなたは、幻影の世界-と言っていいのかわかりませんが-の中で、その、亡霊のようなものと闘ったのではないのですか」
帰りの馬車の中でそう訊ねると、彼女は違うと答えた。
「私はただ、この人に帰ってきてほしいと願い続けていたのです。ただ、私のもとに戻ってきてほしいと強く念じ続けていただけです。後はランケン様のお力が、この人を救い出してくださったのです」
シークォートは隣の男の手を握って、はっきりとした口調で言った。
彼女の婚約者はまだ頭がはっきりとしないらしく、虚ろな面持ちで馬車の揺れに身を任せていた。幻影の世界に引き込まれた次第やあちらの様子を彼に訊ねるのは止めておいた。
私はあの幻燈機自体に何か秘密の力があったらしいこと、これまでにも幾人もの人間を取り込んでいたらしいこと、ノストリボアは自らがあちらの世界に吸い込まれて消えたことなどを話したが、シークォートは「恐ろしいことですわ」と返したのみで詳しく聞こうとはしなかった。
「私はこの人が戻ってきてくれれば、それでいいのです」
彼女は安堵と自信に満ちた表情でそう言って、隣の男の腕をつかんだ。
しばらくして、シークォートから結婚式の招待状が届いたが、私は顔を出さなかった。
一年ほどして、ウラック街での観劇の帰りにマテニーと偶然出会った。赤毛の娘は男連れだったが、私の姿を認めると気にする様子もなく話しかけてきた。彼女はもうじき結婚すると言って、隣の小太りの男を私に紹介した。私はおめでとうと言い、当たり障りのない会話を二言三言交わしたが、急にマテニーは声を低めてため息交じりにこう言った。
「私は幸せなんだけどね、シーはね、うまくいってないのよ」
彼女の話によると、シークォート夫妻はもうじき離婚するかもしれないという。ロッスマンが新しい幻燈芝居を作ることに夢中になって、家庭を顧みないことが原因なのだという。
「シーの話だとね、彼は取り憑かれていると言うのよ」
「幻燈にかい？ それとも……」
マテニーは目を伏せて首を横に振った。
「それはわからないわ。シーは、私よりも幻燈を愛しているって、言っているけど……」
小太りの男が目顔で促したので、会話はそこまでとなり、二人は帰りの馬車に乗り込んだ。
私は近くの屋台で少し酒を飲んで、クーリカフ街の探偵局まで歩いた。デリン灯の青白い光や店々の灯火に引き寄せられた虫たちが光の輪の中で舞っているのが目に入った。
灯が消えれば虫たちは去るだろうが、消えてなくなるわけではない。
幻燈の光と影の中に消える幻も、心の奥底では永遠に消えない。消えたように思っても、それはいつか浮かび上がる日を待っている。ただ、その日を待っているのだ、消えずに。
