ニュールオーガーの街は、ヴァドサーン河が東の大海にそそぐ河口にある。ヴァドサーン河は河口近くで二またに分れ、その真ん中にはマナ・ハトゥーン島と呼ばれる大きな中洲がある。ニュールオーガーはそのマナ・ハトゥーン島を中心にヴァドサーン河の両岸にひろがる大きな都だ。失われた神々の時代には、西の大都サンジェリィと肩を並べるほどの繁栄を誇っていたとも言われる。
今でも、遠くからニュールオーガーの街を見遣る旅人には当時の栄華がそのままに続いているかのように見える。他のどんな都でも見ることの出来ない、城とも塔ともつかない巨大な建築物が、この街には幾つもそびえたっている。『魔天楼』と呼ばれる、雲を突くかのような高さを誇るそれらの建築物は、高さが四百イートから八百イートにも及ぶ。（一イートは約三十センチ、即ち百二十ないし二百四十メートル）多くが四角柱や台形状のそれらの建物は、得体の知れぬ灰色の石のようなもので作られており、旅人の目には、それが人が住み安らぐ場所というよりは、巨大な墓標のように見えてくる。
ヴァドサーン河沿いに立ち並ぶ街並みに辿り着いた旅人は、そこが沈黙と荒廃の街であることを知る。家並みは古く、朽ちかけ、崩れかけた家々が目立つ。街路に人通りは少なく、物売りの声も聞こえない。走り回る子供たちもいない。店々の店先には腐りかけた果物や、嫌な臭いのする魚が売られている。ヴァドサーン河から立ち昇る霧は瘴気を含んでいるようで、甘ったるい麻薬のような香りを放ちながら街中を覆っている。黒ずんだ長衣をまとった人々がうつ向き加減で、静かに歩いている。
日に幾度か、マナ・ハトゥーン島から巨大な鐘の音が聞こえてくる。恐ろしく低い音で、ゆっくりと打ち鳴らされるその鐘の音を聞くと、道行く人々は皆、島に背を向け目を閉じ、耳慣れない響きの言葉をささやく。旅人は、何故かその時、云われのない恐怖にとらわれ、背筋に寒気が走るのを感じる。
私は河の南岸には一軒しかないという宿屋に泊まっていた。少なくとも建てられてから二百年はたっているとおぼしき石作りの二階屋は、河霧にさらされ続けて汚らしい緑と青と茶の入り混じった黴らしきものに覆われていた。二階の私の部屋はヴァドサーン河に面しており、窓のすぐ下にゆったりと流れる河面が見えた。水は濁って青黒く、水面からは絶えず青白い霧が立ち昇る。泡が弾け、ぬるりとした肌をもつ何かが動いているように見えることもあった。
河幅は三十イートほどある。こちら側も向こう側も石組みが為されており、河というよりも水路と言った方がぴったりするかも知れなかった。行き来する船などありはしないのだが。
河向こうには、マナ・ハトゥーン島の壮大な建築群が見えた。青い濃密な霧を通して『魔天楼』が巨大な影になり、天を裂くようにそびえたっている。それを取り巻くように無数の尖塔が建ち並ぶ様は、島全体が巨大な寺院か神殿であるかのようだった。動くものの姿はない。微かな風に霧が流され、ゆっくりと大きな渦をつくるのみだ。
階下から食事の支度が出来たことを告げる鐘の音が聞こえた。私は荷物をまとめると、食堂に降りた。大きな石の食卓の端にひとり分の食事が用意されていた。芋と魚を煮込んだものと、黄色っぽい穀物を炊いたもの、それに黒ずんだ酒が一杯。器は銀製の古いものだった。食事は温かかったが、何故か、器と同じくらい古いのではないかという気がした。
食事を終え、わずかな荷物を背負い剣を腰に吊っていると、主人がやってきた。染みのいっぱいついた白い前掛けをした老人は、黙って私が支度を整えるのを見ていた。
「馳走になった。そろそろ出かける。幾らだ」
「百ダズンもいただいとこうかの。お前さん、ほんとに河向こうに行く気なのかね」
私は銀貨を出して宿賃を支払った。良心的な商売と言えた。
「行く。苦難にあっている女性を放っておくのは騎士道に反するんでね」
主人は前歯の欠けた口を開けて、声もなく笑った。
「そいつはいい心掛けだがね、ニュールオーガーの、ましてや島の中でもそいつが通用するかどうかは考えもんだ。受難の女ってのはどんな奴だい」
「ほんの一瞬しか見ていないが、たいそうな美形だったな。痩せて色が白く、黒い髪、黒い装束に、黒い口紅を塗っていた」
しわだらけの顔からは笑いが消え、心なしか、肩に震えが走ったようにも見えた。
「橋を渡る前に、司祭を尋ねることだな。橋の袂の石屋の中にいる」
主人は、汚れてもいない手を前掛けで拭き始め、これで会話が終わったことを告げた。
私は宿屋を出て、橋を目指した。橋は宿の部屋からも霧の向こうに霞んで見え隠れしてた。さほどの距離ではない。河沿いの曲がり道を、私はひとり歩いた。
私がこの陰鬱な街にやって来たのは、七日ほど前のことだった。私は、東の玉座を巡るイリヴァーツとシンデックの何十回目かの戦に、シンデックの雇われ兵士として参戦した。支払われた給金以上の働きをしたつもりだったが、ジャクレン教の聖句を呪文のように唱えて突進してくるイリヴァーツ軍にシンデックの軍勢は破れ、国境まで敗走と相成った。ジャクレンの僧侶を三人ばかり葬っていた私は、恰好の追撃の目標となった。シンデックに逃げ延びたとて、怯懦で知られるライガン王が命を保証してくれる当てもない。そこで、私は敗軍からも逃れ、沼沢地を抜けて、忌み嫌われるこの街ニュールオーガーへと逃げ込んだのだった。
金子にはゆとりがあり、しばらくこの街で過ごしほとぼりをさました後、北に行くつもりだった。居心地の良い街ではなかったが、少なくとも河のこちら側には生きた人間が住んでおり、それなりの暮らしがあった。そこそこの酒を飲ませる酒場もあり、女もいた。
三日前の夜のこと、酒場で冷えたゴルダラムを飲んだ私は、幾分千鳥足で宿へと向かっていた。霧は深く、二十イートも離れると青い闇の中にすべてが溶け込んでしまう。街路に立つ灯を頼りに私は歩いていた。この街にはサンジェリィのデリン灯とよく似た人工の明かりがあり、夜の街を青白く照らしているのだ。
河を渡り島へ通じる橋の袂を通り過ぎたとき、どこからか細くか弱い声が聞こえたような気がした。立ち止って、耳を澄ましたが聞こえてくるのは、ときおり毒気を孕んだ河が泡立つ音のみだった。
しばらく歩いていくと、また声が聞こえてきた。女の声のように聞こえる。暗く悲しげで、どこかしら救いを求めているような響きもある。また、立ち止り、耳を澄ます。酒神アルオリクが頭の中でうめいて邪魔をする。ゴルダラムの精の悪戯かと思い、足を動かす。
だが、数歩歩く内に、声はまた聞こえてきた。今度は言葉まで聞き取れる。
「助…けて……私を…解き……」
私はふらつく足で橋の方へ引き返した。私の耳に間違いはなかった。『魔天楼』の島へと渡る橋の上に黒い人影がある。
「助けて……そこの殿方…私を救い出して……」
人影は黒く長い衣から細く白い腕をのばし、私を差し招く。私は橋に足を踏み入れ、人影の方へと進んだ。黒い人影はその場を動かず、見えない視線で私を引き寄せる。
橋の中央まで行き着いたとき、突然、朱色の炎が立ち塞がった。何も燃えるものはないのに、炎の垂れ幕が私と彼女の間を隔てた。熱さと、理由のない畏怖で私はそれ以上進むことが出来なかった。
炎の幕の隙間から、黒衣の人影が重たげな頭巾を捲るのが見えた。痩せて色が白く、頤が尖っている。唇を黒く塗っていた。美しい女だった。一瞬、視線が私とあい、微かな笑みを浮かべたようにも思えたが、すぐに炎の向こうに見えなくなった。
炎はやがてふっと消えたが、もう橋の向こうに人影はなかった。
私は足の震えを感じ、踵を返すとよろよろと街へと向かった。
ゴルダラムの酔いと不可思議な出来事に、私の頭はかき乱されていたが、黒衣の女の美しい姿とか細く切ない声だけは、くっきりと心の奥底に刻み込まれた。
私は恋に落ちたのかも知れなかった。
橋の袂の左側、石段を幾らか降りた河のすぐ側に、宿の主人の言っていたものらしき『石屋』があった。大きな加工していない石板を組み合わせて作った小屋のようなもので、入口とおぼしき所には、白い厚手の布がかかっていた。掛幕には灰色がかった紫と青と色あせた朱で、円に矢印のようなものを組み合わせた何かの印が描かれている。失われた神々の紋章の中にはそういうものがあったような気もしたが、はっきりとはわからなかった。石屋の周りは、灰色の地面に、やはり印が描かれた白っぽい石が幾つか置かれていた。どうやら置き方に何かの意味があるようだったが、私の乏しい知識では理解できなかった。
掛幕をくぐると小さな部屋になっていて、両の壁に小さな祭壇らしきものがつくられ、蝋燭が燃えていた。正面にはもう一枚別の印が描かれた掛幕があり、その向こうから低い詠唱のような男の声が洩れている。
布を捲り中にはいると、声が止んだ。石板で囲まれた狭い部屋で、真ん中の床は炉のようになっており、炎が踊っていた。周囲の石壁には、幾つもの印。炎の向こう側に、白装束の頭の禿上がった男があぐらをかいて座っていた。
「何者だ。何用あって、この石屋を訪れる」
「スナブ・ランケン。西部から来た旅の者だ。橋の向こうから救いを求める女を見た。助けに行くと宿の主人に言うと、ここを尋ねるように言われた」
男はふうっと息を吐いた。炎が強い風に煽られたようにひろがり押し寄せた。思わず後退ったが、不思議なことに熱さも痛みもなかった。
「邪悪な意志はどうやらないようだな。腰を下ろされよ」
私は座った。炎の向こうになって男の顔は見えない。
「私はクトニの司祭。ある役目をもって、ここを守っている。話をされよ」
私は三日前のことを話した。司祭は何も言わずに聞いていた。
「帰るがよい、西から来た者よ」
炎の向こうからそういう言葉が聞こえた。
「なぜだ。橋の向こうには何がある。あの女は何者なのだ」
「橋の向こうは呪われし地だ。生身の者が行って正気でいられるところではない。お主は見てはならない幻を見たのだ。諦めよ」
「あの女は確かに助けを求めていた。一度は奇怪な炎に邪魔をされたが、このまま放っておくわけには行かない」
炎の向こうの声は言う。
「ニュールオーガーは呪われし都。私はその害毒が外界に洩れ出ぬよう、ここを見張り、守っている。だが、誘惑に破れ、自ら呪いの地に入りし者を救うことは出来ぬ。お主の腰のものがいかほどに切れようともそれは能わぬことだ」
私は立ち上がった。
「邪魔をした。そこでぬくぬくと火守りをいつまでもしているがいい。御忠告はありがたく受け取っておく」
炎が揺らめき、大きくなる。
「本当に行くと申すのか」
「くどい」
大きな音をたてて、炎が石室いっぱいに拡がった。私の体はその中に包み込まれる。だが、熱さはない。心地好い温もりが体を包んだ。声が頭の中に響いてくる。
「剣を抜いてみよ」
私はその通りにする。反り身の長剣の刀身には、壁や掛幕に描かれているのと同じ印が、幾つも浮き出て、まぶしい橙色の光を放っていた。
「その印が幾許かの力にはなることだろう。だが、過信は禁物、命を惜しまれよ」
「有難い。無事に戻れたら礼をしよう」
「礼は入らぬ、魅入られし者よ。多くの誘いがお主を待つ。お主の心の醒めた熱が、お主の身を守ってくれることを祈ろう」
炎は元の大きさになった。改めて部屋の向こう側に目をやると、白装束の男と見えたものは、彩色された木彫りの像だった。光を放つ剣を収め、クトニの司祭の像に一礼すると、私は石屋を出た。
橋はがっしりとした石作りで、真ん中が軽く盛り上がった追持式だった。橋の中央、あの女が立っていたあたりまで渡って、下を流れるヴァドサーン河を見下ろしてみた。濃い灰色と藍色が入り混じって墨流しのような模様を作りながら、河はゆっくりと流れている。舞い立つ瘴気に息がつまりそうになり、欄干から離れた。宿の飲み水はこの河から取ったものだったのだろうか。そう考えると胃の腑のあたりが痛んでくるようだった。石の欄干のじっとりと湿った感触がいつまでも掌に残った。
橋を渡りきり島へ足を踏み入れると、一瞬の悪寒が体を駆け抜けた。悪い熱病にでもかかったかのような嫌な感覚が背筋を駆け昇って脳髄までを充たした。秘文字が印された剣が嫌がるようにがちゃりと音をたてた。
河霧はこちら側では一層濃く、すべてのものが幾重にもなった青白い紗越しに見るようだった。霧は鼻から、口から、そして肌からも私の体内に入り込んでくるようで、その甘ったるい香りが悪寒をかき消していく。
誰も通る者はない古い街並みが続いている。島の外の家並みも、古く半ば朽ち果てようとしていたが、こちら側ではその古さはさらに数世紀を経ているかのようだった。だが、不可思議なことに街は廃墟ではなかった。向こう側のような破れた窓やひび割れた壁、崩れかけた家は見当たらなかった。石畳の路は、きれいに掃除されているようでごみも落ちていない。人影はなかったが、この街は生きている、そんな感じを受けた。
私は誰もいない路を歩いていった。緩やかに曲がりくねる路沿いには、かつては栄えたであろう様々な店々が立ち並ぶ。背が高く柱に壁に複雑な彫刻を施した建物ばかりだった。霧の中、目を凝らすと、異形の怪物の彫り物が、家々の軒に幾つも幾つもありこちらをにらんでいた。建物の壁には単なる装飾とも思えない大小の管状のものが何本も何本も走っている。屋根からは背の高い煙突状のものも突き出ているようだ。
やがて、行く手に異変が現われた。路上の一点で霧が渦巻き、もやもやとした何らかの形を作ろうとしている。霧は人の背丈ほどの大きさの玉になった。その中にぼんやりとではあるが幾つもの人の顔が現われる。目は落ち窪み、口は黒い穴、髑髏のような顔が幾つも幾つも霧の中に浮き出ては消える。
それは空中を漂い、私の方に近づいてくる。本能的に手が剣の柄を握る。次の瞬間には理性が疑問を呈す。霧の亡霊を相手に刃がいかなる働きをするというのか。
霧の球が近づいてくる。幾つもある顔のどれかが口を開いた。
「お前は何者だ。この街に何用あってやって来た」
寒気が体を駆け抜けた。エスカールの氷の洞窟から響き出る声だった。
「女を助けに来た。黒い口紅を塗った痩せた女だ」
別の口が言った。
「島の奥深くに歩み入れば、その女と出逢うこともあるだろう。捜してみることだな」
霧の亡霊は笑った。百人分の様々な声で。その声は氷の刃になって私の胸に突き刺さった。私は剣を抜いた。
また別の声が言う。
「そのちっぽけな針で何をしようというのだ。河霧を相手に道化の舞でも演じるか。お前の邪魔をしようとは思わん。むしろ、お前の為すことを楽しみにしているぞ」
魔物はまたしても不愉快な笑い声をあげ、消え去った。
私は歩き続けた。街路は蛇のように曲がりくねって続く。幾つかの別れ道があったが、街の中心部に行くとおぼしき道をとった。
霧の中を歩き続けるうちに、時間の感覚が麻痺していくのがわかる。どれほどの時、歩いているのだろうか。陽光は霧のはるか彼方に封じられており、自分の影すら路上に拡散してはっきりと認めることが出来なかった。
小さな広場に出た。真ん中に円形の池がある。池の中には真四角な柱が立っている。大人二人分ほどの高さがあり、得体の知れない黒ずんだ金属らしき物で出来ていた。表面には螺旋状に細い溝が何本か切ってある。池の中の水は驚いたことに澄んでおり、底に施されたきれいな陶板の絵模様が見えた。
重く低い音色で、鐘が鳴った。柱の天辺から水が噴き出した。水は柱の溝を滑り落ち、池に入っていく。誰も見る者はいないのに、噴水は働き、水は舞踏を演じる。
水は後から後から噴き出し池に流れ落ちる。やがて池は満ち、水は広場に溢れだした。機械仕掛けが壊れているかと思ったが、すぐそうではないことがわかった。広場は平らなはずなのに、水は私の方に向かって流れてきた。石畳の間を縫うように、黒ずんだ蛇のように、水がこちらに向かってくる。
私は後退る。水は私の前に集まり、まるで上から粘土の塊を落としていくように、その場に溜まっていく。
鍾乳洞の石筍のようにそれは背を伸ばし、あっという間に私の背丈ほどになる。透明な飴状のものの腹のあたりに顔が浮かび出る。先刻の霧の亡霊にも似た、髑髏を思わせる陰気な顔だった。だが、そのものにはもっと別の表情、餓えがあった。
私は剣を引き抜く。同時に水の怪物から触腕状の腕が飛び出し、私に向かって来る。
剣を振った。奇妙な甲高い悲鳴が上がり、触腕は剣が触れたところから先が蒸気となって散った。刀身の神秘文字が赤く光っている。
第二、第三の触手が襲ってくる。斬り払うと、悲鳴と蒸気が上がる。水は勢いを増して流れ出し、触腕の数はもはや数え切れない。
一本が、腕に絡みついてくる。氷のように冷たい。上衣の厚手の生地を通して焼けるような感触が伝わってくる。
私は盲滅法に剣を振り回して、襲い来る水の腕を斬り払い、怪物の本体に走り寄った。獣じみた表情を浮かべる顔に剣を突き立てる。絶叫が石の広場に谺して、顔は蒸発した。無数の触手が宙で形を失い、雨となって石畳に落ちた。池の中の水は渦巻き、柱を駆け昇り、その中へと吸い込まれた。
鐘が鳴り終わった。
ほんのわずかな間の闘いだと思えたが、辺りには夕闇が訪れたようだった。青白かった空が暗い青灰色となり、街灯に人工の灯がともった。デリン灯によく似た緑がかった青い明かりが霧の街を照らしだした。
私の行く手には道筋が三つあった。私は正面の路地を選び進んだ。霧が、街灯の光を街中に散らしているようで、薄青い光がすべてを曖昧に照らしている。周囲の建築物はますます装飾過多の奇怪なものとなっていった。管状のものが無数に壁面を這い回り、幾つかは口を開けてわずかながら蒸気のようなものを吐き出している。
しばらく歩いていくと、路上に動く影が見えた。四つ足の獣のようなものがうごめいている。私は剣を手に、慎重に近寄った。
犬のようなあえぐ声が聞こえる。黒っぽい影と白っぽい影が互いの体を絡ませて動いている。白い影は全裸の女。黒い影は犬と人間の合の子のような生き物だった。体のつくりは人のようだったが、全身を黒い短い毛で覆われており、尻からは犬そっくりの細い尻尾が生えている。頭の両脇には垂れた大きな耳朶、鼻面が飛び出し、牙のある口からだらりと舌をはみ出させていた。女は石畳に四つん這いになり、大男はその上にのし掛かって、二人は犬のように交わっているのだった。
私が近づくと犬男は気づき、ちらりとこちらを見た。人間の額と目に、鼻から下は犬の顔をくっつけたようなその姿は、異様な嫌悪感を私に与えた。犬男は私の手に持つ得物に目をやると、腰の動きを止めた。
「やめろ、その剣をしまえ、その文字は見たくないんだ。お前、どこから来た、そんなものを持って、何をする気だ」
犬男は口許からだらだらとよだれを垂らしながら、わめいた。
「オグド様、伯爵様、なぜ、おやめになるのです。私はまだ……」
裸の女が男の下で不平を漏らした。女もまた私に気づき、首を曲げてこちらを見る。女の顔は豚そっくりだった。大きな穴の開いた鼻が突き出し、小さな硝子玉のような目が光っている。尻から、くるくると丸まった尻尾も生えていることに私は気づいた。
「ああ、何でしょうこの御方は、そんなものをお持ちになって、外から来たのね、気狂いだわ」
「そうだ。私は外から来た気狂いだ。ひとつ聞きたいことがある。黒い服を来た黒い口紅の女を知らないか。橋の袂で助けを求めていた」
「それはきっとマリエ・メアリエのことだろう。マリエ・メアリエならスターツェンヴィルだ、あそこにいる。この路を真っ直ぐ行けばいいんだ。だから、さっさと行くんだ。はやく、そいつを見せるな、ああ、私の肉棒が縮んでしまう……」
オグド伯爵とやらは、さらに二言三言卑猥な言葉を並べ立てた。
豚女が、わめく。
「はやく、はやく、伯爵様、続きを致しましょう。気狂いなどほおっておいて。それとも、マリエ・メアリエが気になるとでも」
犬男は、慌てて腰を突き動かす。
「何を言う、私は路の上でするのが大好きだ。石の上でやるほど気持ちのいいことはない。お前の臭い鼻の穴も大好きだ」
「ああうう、私もよ、路の上でやるのはいいわ。あああ……」
犬男と豚女は激しい行為の続きを始めた。
「かたじけない、助かったよ」
私は二人に礼を言い、立ち去った。背後からはずっと気狂いじみた喜悦の声が聞こえていた。
またしばらく歩くと、後ろから、足音が聞こえてきた。決して大きく響いたりはしない、肉の足音だ。妙に早足のようにも聞こえる。犬の息のような、はあはあいう音も聞こえるような気がした。
振り向いたが、青白い霧しか見えない。先刻の犬男が追って来ているのだろうか。
歩きだす。足音は消えたかに思えた。その時、何かが、背後からぶつかってきた。足音ならぬ羽音と共に、それは私の腰のあたりに当たり、飛び去っていった。
そのものは私の腕から剣を奪い取った。数十イート先でそいつは空中で止り、振り返った。不規則に並んだ青緑の三つの目がこちらを見る。それは大きな猫のような生き物だったが、猫にしては細く長い足はどうやら六本あり、虫の足のような奇怪な関節を持っていた。均整の崩れた体は黄色と灰色の混ざり合った色の短い毛で覆われ、背中からは桃色の毛のない蝙蝠のような翼が突き出していた。そいつは妙に人間の髑髏に似た歪んだ顔に、笑いのような表情らしきもの浮かべた。
牙が生えた大きな口に私の剣をくわえていたが、口からは桃色の体液のようなものがだらだらと流れ、しゅうしゅうと音を立てて白い煙が上がっている。
「クトニの剣！呪いの剣！気狂いの剣！」
驚くべきことに獣は人語を話した。剣をくわえたままでも聞き取れる、流暢だが、何処か熱病にでも犯されたかのような上ずった狂気を感じる言葉だった。奇怪な獣は、すぐに、翼を大きく羽ばたかせ、霧の中に見えなくなってしまった。
私は霧深い路をさらに進み続けた。島の、ニュールオーガーの中心部に私は入り込んでいく。『魔天楼』だ。道幅は辻ごとに広がり、七十イートほどにもなる。サンジェリィのラグラン大通りよりもなお広い。両側の建物はその高さを急激に増していく。三階、四階建てが続いたかと思うと、その次に並ぶ建物の頂は霧の中に見え隠れする。高さは四百イートもあろうか。灰色の壁に、壁がんのような窓らしきものが並んでいる。それは無数の髑髏の眼窩のようにも見えた。それまでの家々と違って、『魔天楼』の建物には奇怪で複雑な装飾は為されていない。ただ、無数の管状のものだけはそのひび割れた壁にも石と化した蛇のように這い回っていた。
立ち並ぶ巨大な建築物は、あるものは薄茶色がかった、あるものは紫がかった、また青白いもの、黄色味のあるものなど様々な色合いだったが、いずれにせよ冷たい乾いた灰色にそれらの色合いがわずかに混じるといった程度であり、遠方から見たときに感じる巨人の墓石群という印象はその中を歩いている今でも変わりはしなかった。
私は墓碑の谷間を歩いた。路の両側には文字通り天を貫かんばかりの四角い建築物がそびえる。広場のように広い街路もここでは石畳ではなく、白っ茶けた灰色の一様な物質で覆われている。
空気が冷たい。
風が吹いている。
霧が、大きくうねり、流され、渦巻く。
私は肌寒さを感じ、外套の襟を立てる。揺らぐ霧の向こうに人工の街灯が怪物の目玉のように青白く光る。
寒さは体だけでなく、心の内にも忍び寄ってくるような気がした。物寂しさが霧に姿を変え、私の中に入り込んでくる。
路は行く手で左右に分れている。正面にひときわ大きな建物がある。小さな城と言ってもよい大きさだ。さしわたし百イートはある角柱状の楼閣がそびえたち、その両翼には幾分小さな台形状の建物が張りついている。これが異形のものたちが言っていたスターツェンヴィルなのだろうか。両翼の屋根はそれでも百五十イートの高みにあり、中央部の頂は泥流のように蠢く霧の彼方に消えていて、どれほどの高さがあるのか想像するより他なかった。
微かに褐色を帯びた灰色の壁面には穴蔵のような暗い小さな窓が無数に並び、地上から三階分ほどまでの高さには大小の円柱、角柱、それに這いうねる管状のものが複雑に絡み合い城門のように見えるものを形作っている。扉にあたる部分はやや奥まっていて、そこには暗い色合いの巨大で分厚い硝子のようなものがはまっているようだった。
その奥に、明かりが見えた。
橙色や青緑の小さな明かりがちらちらと光を放っている。
私は自分の歩みがいつしか速くなっているのに気づいた。あの光の下には、何か生きて動くものがいるのではないかという漠然とした期待が足を動かしていた。それは、路上で交わっていたものたちのような悪夢の産物なのかも知れないが、それでもかまわないという気がした。この墓石の谷間から抜け出したいという気持ちが足を交互に引っ張った。目指す所はその墓石の中にほかならないというのにだ。
私は硝子の巨大な扉の前に立った。黒玉のようなその表面に映る自分の姿は、霧の中からさまよい出た亡霊のようだった。その朧な影の向こうに朱色や緑青、紫や薄黄色の小さな光が揺らめいている。
見上げると無数の管を不規則に束ねたような梁の下の所に、細い色硝子の管をねじ曲げて造られた文字らしきものの列があった。それは優美とも言える曲線を描いていたが、文字としては読めなかった。シュヌベル大学の図書館にあったいかなる古文書の文字とも異なっている。硝子の管の中では、時折じいじいという音がして光が明滅していた。
重い唸るような音がして扉が動きだした。引戸になっているらしく左右に分れていく。厚みがニイートはあるようだ。
私は建物の中に足を踏み入れた。門を潜るとき、奇妙な安堵感があった。この中は守られている、という感覚がどこからか沸き起こった。
そこは巨大な吹き抜けの広間になっていた。灰色の石と鈍く光る金属を組み合わせた幾本もの柱がまわりを取り囲み、上へ上へと延びている。天井は不規則な七角形で乳白色の石がはめ込まれぼんやりとした光を放っていたが、少なくとも百五十イートの高みにあるので、その光はほとんど床までは届いていなかった。壁面には幾つもの回廊、階段、露台、そのほか意味不明の張り出しがある。外壁と同様に無数の管状のものが縦横に走っている。
床は、黒と銀灰色の複雑な市松模様で、やはり石と金属が組み合わされいる。様々な形の長椅子や寝椅子が置かれており、色とりどりの座布団や敷布、掛布が散乱していた。
光は壁に造り付けのものや、床に置かれている銀色の燭台に立てられた蝋燭の炎だった。蝋燭には色鮮やかな絵細工が施されており、溶け出す蝋の色に従って幻惑的な色合いの光を放っているのだった。
「辿り着きましたね、スナブ・ランケン」
女の声がした。背の低いゆったりした椅子に黒衣の女が座っていた。橋の上で見たあの女だ。胸の開いた幾重もの襞のある裾の長い服に身を包み、椅子に身を沈めて足を組んでいる。ほっそりとした逆三角形の顔は彫りが深く繊細で、匠の腕で造られた陶器の人形のようにも見える。肌も陶器のように白く全く血の気というものがなかった。深い影の中の瞳は黒い。頭には黒い薄絹の被りものを被り、その下にのぞく結い上げた髪も漆黒だった。
橋の上で見たときと同じように、黒い口紅を塗り、形良い爪も黒く塗っていた。女には、全く色というものがなかった。白い紙に墨一色で描かれた絵のようであり、只、揺らめく色蝋燭の炎が、時折その白い肌にわずかな色合いを与えていた。
「あなたがマリエ・メアリエか」
「そうです。名前をお聞きになったのですね」
マリエ・メアリエは微かに笑った。静かな、魅力的な笑顔だった。
「伯爵だか、男爵だかの犬男がそう言っていた」
「オグド伯爵ですね。うまくやっていらしたかしら」
私は彼女のそのあまり品がいいとは言いかねる言葉に驚きを感じた。
「路の上で忙しそうだった。僕が来ることをあなたは知っていたのか」
「必ず来てくれると思っていましたわ。だから、助けを求めたのです」
「あなたはここに幽閉されているのか」
「そうとも言えますわ。でも、そういうお話は後に致しましょう。もうすぐ宴が始まりますから」
「宴？ここには住人がいるのか」
黒衣の女は、また不思議な笑みを浮かべると立ち上がった。飾り襞の多い長衣の絹ずれの音が耳をくすぐる。
「少し、御案内を致しましょう」
マリエ・メアリエは私の手を取った。彼女の白く小さな手は、大理石の彫像のように冷たかった。
広間から出て、天井の高い廊下を私たちは歩いた。壁は灰色、床に敷かれた擦り切れた絨毯も灰色で、天井からは細い鎖で硝子の火屋のついた燭台が下がり、どこからともなく吹いてくる微かな風に揺れていた。火屋どうしが触れてちりんちりんという音がする。
廊下は長く、途中幾つも扉があったが、皆閉ざされており、マリエ・メアリエは立ち止ることはなかった。いくつもの角を曲がったが、別れ道はなく、廊下は一本だった。やがて、それは弧を描くようになり、洞窟のように曲がりくねるようになった。短い階段、上り下りの勾配も現われ、奇怪な回廊はどこまでも続いていた。
「どこに連れていく気だ。この廊下は……」
一歩前を足音もなく滑るように黒衣の女は歩いていく。
「どこって……ほら、御覧なさい」
マリエ・メアリエが右側の壁に手を触れると、そこに不規則な多角形の窓が現われた。広い寝室で、豪華な寝台が部屋の真ん中にしつらえてある。天蓋からは紗の織物が下がり、名匠の手になるらしい大きな壼には南国にしか咲かない艶やかな花々が活けられていた。だが、その部屋には色がなかった。花も寝台の上掛けも絨毯もすべて、燃え尽き乾ききった灰の色をしていた。
「おわかりでしょう」
「わからないね。いったいこれはなんの真似だ」
女は答えず、私の手を取って歩き続けた。しばらく行き、今度は左手の壁に触れる。そこにはまた不規則な形の窓が現われる。前の部屋とよく似た寝室。だが、寝台の上には人影がある。正確には人だったものの影。黄白色の崩れかけた骨がある。
不可思議なことに、その人骨の周囲、数イートだけは花と鳥の模様の布団に淡い色が残っていた。
廊下は突き当たりに扉があり、そこで終わっている。
「さあ、宴が始まっていますわ」
マリエ・メアリエは振り向き、冷たく美しい笑みを浮かべて扉を開けた。
そこは先刻出てきた広間だったが、まばゆい鮮やかな明かりに照らされて別の部屋のように見えた。
たくさんの人が集まっている。華麗な装束を身にまとった貴族的風貌の男女が、手に手に酒杯を持ち、歓談している。一方の壁際には楽士たちが集い、律動的だが物悲しさを持った旋律の曲を奏でている。人々は飲み、食べ、踊り、笑い、議論し、愛を語り、接吻を交わしていた。
部屋に一歩足を踏み入れると、華やかな人々の群れに飲み込まれた。黒い肌、黄色い肌、白い肌、赤い肌、黒い髪、黄金の髪、栗色の髪、赤い髪、灰色の瞳、黒い瞳、緑の瞳、青い瞳、鳶色の瞳、皆美しく整った容姿をしている。身に付けている装束や髪形は何れも、見たことのない類のものだった。笑いさんざめく声が聞こえる。だが、全く理解できない。私の聞いたことのない言葉だ。
白銀色の裾の短い装束の娘とぶつかりそうになった。赤く斑に染めた髪を短く切って、銀と緑の宝石をちりばめた鎖で止めている。紫の頬紅に、黄色い口紅。
私の肱が彼女の腕に触れた。だが、なんの感触もなかった。彼女の体は霧ででも出来ているかのように、私の腕をすり抜けた。
また別の男が私にぶつかってきた。背の高い、紺の胸の開いた服を着こなした伊達男だ。だが、彼もまた現実の感触を私に与えることはなかった。
私は恐慌に襲われ、唯一のこの場での知り合いである女の姿をさがした。振り向き周りを見回したが、人込みに紛れて、彼女の姿を見いだせない。宴の人々の影と色合いが急に薄れ、灰色じみた霧の中に凍りつく。
一瞬、人影の向こうにどこかで見たことのある男の顔が見えたような気がした。憔悴して青ざめ痩せた顔が見えたように思えた。手応えのない人込みをかき分け、彼の方へ行こうとする。周囲の人々は全くの幻影というわけでもないらしく、微かに水を掻くような感触がある。
音楽が跡切れ、宴の人々は灰色の彫像のようにその動きを止める。
再び男の姿が目に入った。男は大きな黒い寝椅子に腰布一枚で横たわっている。肌には血の気がなく、肉は薄く肋が浮いている。
その上に、黒いものがのし掛かっている。黒くほっそりした輪郭の、優美とさえ言える何か。それは広間のあらゆる光を吸い込むかのように黒く、陰影も何もわからない。
近づくと黒いものはしなやかな身のこなしで男から身を離す。暗黒の中に白い霧のようなものが広がり、それは目鼻と口がぽっかり開いた白い女の仮面になっていく。墨で描かれたような白と黒の女が出来上がる。
「待っていたのですよ。ランケン殿、あなたが救いに来てくれるのを……」
「何から、あなたを救えばいいのだ」
「魂の渇きと、淋しさと、虚しさから…」
マリエ・メアリエの白く細い腕が、私の方へ差し伸べられる。彼女の白い肌はわずかに灰色がかっているような気がする。
私は彼女の腕を取り、細い腰に自分の腕を回す。抱きしめて、くちづけを交わす。彼女の肌は温り薄く、唇はなお冷たい。唇を重ねているうちに、その冷たさが私にも染み入ってくる。逆に私の体温は彼女に移って行く。
唇を離すと、私は腰布一枚で寝椅子に横たわっている。マリエ・メアリエの唇には赤い色が点っている。彼女は細い指で自分の唇を撫でる。形の良い爪にも、淡い桃色があらわれる。
マリエ・メアリエに手を引かれ、私は立ち上がり奇妙な衣服を身に付ける。粗い布地のほっそりした赤い洋袴、鏡のように光る薄地の長袖上衣に黒の大きな袖なし外套。宴の場の人々の仲間入りというわけだろうか。
楽士たちが再び、音楽を奏でる。滑稽で遠い調子の舞踏曲が広間に響く。ヴィオロネンに似た弦楽器はしばしば意図されたように音を外し、狂った調べを撒き散らす。
私とマリエ・メアリエは踊る。鼓動にあわせ、身を寄せて、互いの吐息を感じながら、踊る。踊りながら唇を重ねる。女の唇は色づき、熟れた果実のように赤くなる。頬に赤みがさし握った掌に温もりが生まれる。女は笑う。幸福そうな笑顔。
宴は続いた。
「街を案内しましょう」
マリエ・メアリエは私をスターツェンヴィルの外へと誘った。
「外は大丈夫なのか」
私は漠然とした不安を感じた。建物の外には、何かはわからないが私を不安にさせるものあるような気がした。
「大丈夫ですわ。もうあなたはこの都、ニュールオーガーの住人なのですから」
マリエ・メアリエは幼子に語りかける母親のように、私の手を握った。彼女の掌は暖かい。
私たちは、幾つもの巨大な塔のような城のような建物が並ぶニュールオーガーの中心街を散策した。霧は深く『魔天楼』は静かにそそり立っている。
だが、今、私の目には広い大通りに蠢くものたちが見えた。
巨大な蚯蚓のようなものが何十匹もかたまって絡み合いのたくっている。濁った赤と紫が入り混じった色はおそらくは吐き気を催すようなものなのだろうが、今の私には極く自然なものと見えた。そのぬらぬらとした塊の中に数人の裸の男女が入り込み、陶然とした悦楽の表情を浮かべていた。よく見るとその内の幾人かは下半身がそのまま蚯蚓と融合しているようだった。
広い路に他にもぽつりぽつりと奇怪なものが見える。牛ほどの大きさの心の臓のようなものがどくどくと動いている。引き千切られたような太い血の管が、断末魔の蛇のようにのたうち、どす黒い血のような液体を振り撒いている。霧の中に節くれだった蜘蛛の足のようなものが見える。蟹と甲虫の合の子のような姿が見え隠れする。
街は異形のものたちの広場と化している。
「この街は、いつからこうなったのだ」
「『大いなる悲劇』と外の者たちが呼んでいる厄災が起こってからですわ。それ以来この街は呪われているのです」
「『大いなる悲劇』は三千年の昔のことだと聞く」
私は肩のふれあうところを歩いている女に、ぞっとする恐怖を覚えた。三千年という途方もない時間の蓄積と、朽ち果て崩れ去ったものの臭いが漂ってくるような気がした。
「あなたの思うとおりですわ。私がこの世に生を受けたのは『大いなる悲劇』より以前のことです」
マリエ・メアリエは立ち止り、道端の石に腰を下ろした。腰掛けとして造られたらしく、上面は鏡のように磨き上げられ、側面は荒々しい岩肌のままの灰色の石だ。
私は立ち尽くしたまま、目の前の美しい女を見つめた。痴呆のようにずっとずっと見つめていた。陶磁器のような白い肌がぱっくりと割れて、黒々とした時間の深淵から数千年の齢が顔を出す幻が脳裏をよぎる。
マリエ・メアリエは軽くまぶたを伏せ、何処でもない何処かに黒い瞳をさまよわせている。墓石のような『魔天楼』を吹き抜ける風が、彼女の黒髪を揺らし淡い桃色の頬に黒い筋を這わせる。
「私たちは呪いを受けているのです。『大いなる悲劇』に至るまでに私たちが踏み付けにし、虐げてきたものたちの呪いです。『悲劇』の後も私たちは繁栄の時代の欲望を忘れることはありません。私たちは永遠にこの都で幻の栄華を虚しく味わい続けるしかないのです。宴は毎日続きます。でも誰も本当に楽しむものはありません。いつも、何かが欠けています。一番欲するものがこの都にはありません。私はこうして見つけましたけど」
マリエ・メアリエは白く細い手をのばして、私の手に触れた。不安は消えた。
私はマリエ・メアリエの隣に腰を下ろし、黒衣の女の細い腰に腕を回し口づけを繰り返した。唇が触れ合う度毎に、彼女のからだは暖かくなっていく。陶器の人形に魔道士が仮そめの生命の火を灯すように。
私は、幾重にも飾り襞が折り重なった幽女の衣を引き剥がしていく。黒い装束の下には、精緻な刺繍の施された黒い肌衣。触れるだけで千切れてしまいそうな薄絹を脱がして、肉の薄い裸身を露にすると、私の恋人は奇妙な恥じらいを見せ、うつ向き自分のからだを抱きしめる。私は、彼女の冷たい尻に触れ、薄い肉を強く握った。小さな吐息がもれ、手の中の肉から、温みが伝わってきた。
私たちは、湿って冷たい路の上に横たわり、互いのからだの温もりと冷たさが等しくなるまで、交わった。二回目に精を漏らすとき、自分の顔が犬になり、彼女の顔が豚になる幻が、脳裏をよぎったが、すぐにそれは次の悦楽のうねりの中に消えていった。
私は、肱を起こし、路上に横たわるマリエ・メアリエの赤い唇を撫でた。石のような不可思議なもので出来た路は冷たく、霧は私たちのからだを湿らせたが、寒さは感じなかった。毒気を孕んでいるとさえ思えた河霧は、今では優しさをもって私たちを包み、その一粒一粒が肌を愛撫し、神秘的な滋養を持って、肉に染みいってくるような気がした。
マリエ・メアリエが目を覚ます。重たげな瞳の下から、漆黒の瞳があらわれる。私はその小さな宇宙の闇をのぞき込む。星々のきらめきが見える。とても遠いきらめきだ。私がこの世に生を受けるはるか以前、三十世紀の過去のきらめきが彼女の瞳には宿っている。だがそれは、今の私にはもはや、馴染み深いとさえ言える光になっている。
私は彼女の裸の乳房に触れ、小さな尖った乳首を指でつく。彼女はクスクスという笑い声をあげ、身を起こす。白い細いからだが私の上におおいかぶさる。濃い霧が流れ、私の恋人の白い肌を半ば隠す。固くなった私のものを包み込む柔らかい肉襞の感触だけが、彼女の存在の証になる。私は霧の中に腕を延ばし、薄い乳房と細い腰をつかみ引き寄せる。微笑むマリエ・メアリエに口づけを繰り返し、私は恋人の存在を確かめる。
幾度目かの行為を終えた私たちは、ニュールオーガーの街を散策する。
長さが二十イート程ある蛇のようなものが三匹並んで体を延ばしている。太さが三イートもあるそれは、両端までほとんど同じ太さで、体の表面は深いしわと浮き出た血の管のようなものに隙間なく覆われている。両端にある肛門とも口とも言いかねる穴からは、とめどなく黄色い膿漿を流しており、その周りには妙に背の低いずんぐりした裸の人々が集まっていた。矮人たちは、奇怪な生き物が垂れ流す糞便のようなものを争ってすくい取り、体に塗りつけたり、口に入れたりしていた。黄色い膿にまみれながら、獣のような声をあげて交わっている者もいた。
ひどい悪臭がしたが、不思議と嫌悪感はわかなかった。異様極まるはずの光景も、もはやごく当たり前のものとして私の視野を通り過ぎていくのだった。
鐘の音が聞こえてきた。鉛の塊が耳を打つかのような重々しい響きが聞こえる。
「あの鐘はどこで鳴っているんだ」
「ラヴァーティの女神の寺院から聞こえるのよ」
私はマリエ・メアリエに手を引かれて、『魔天楼』がそびえ立つ巨人の回廊をくぐり抜けていった。
汐の匂いが強くなっていき、海辺に向かっていることがわかった。やがて、霧の中に浮がぶ高塔の影が消えた。静かな波の音も聞こえてきた。
そこはかつては大きな船が出入りする港であったのだろう。石作りの大きな桟橋が幾つか、灰色の海に向かって突き出しているのが、霧越しに見えた。
その内の一つを私たちは歩いていった。海は河の水とほとんど変わらぬ静けさで、桟橋の石組に寄せていた。波の音は低く、大きさを増した鐘の音にほとんどかき消されてしまう。船は一隻も見当たらない。ただ、霧の中にときおり浮き出る、斜にかしいだ棒状のものは、朽ち果てた帆柱の残骸のような気もした。
鐘の響きはいや増し、はらわたを震わせんばかりになっていった。私たちは桟橋の突端に着いた。
「あれがラヴァーティの女神よ」
マリエ・メアリエが指差す方角を見遣ると、白い霧の紗幕の向こうにぽんやりとした巨大な灰色の影が見えた。海の中に小島が浮かび、そこに女神の神殿と鐘があるものと思ったがそうではなかった。風の気まぐれが視野を覆っていた霧を払い、女神の無残な骸を暴き出した。
それは緑灰色の石のようなものでつくられた巨大な女神像だった。簡素な長衣のようなものをまとい、頭には尖った短い角のような物が幾本もついた冠をかぶった姿で、女神は三千年の待ち惚けに疲れ果てたのかのように、海に横たわっていた。首と、胴の何か所かが大きく割れており、それぞれが短い間隔をおいて波に洗われていた。頭の脇には、右腕が不自然な角度で折れて、海中から突き出している。
その手が大きな吊り鐘を下げていた。誰も突き手の姿は見あたらなかったが、緑青色の鐘はひとりでに動き、体を震わせる重く悲しげな音を放っていた。
「ラヴァーティは何を司る？」
私の質問に、マリエ・メアリエはしばしの間をおいて答えた。
「愛、自由、それから……」
「それから？」
「欲望だという者もいるわ。本当のところは誰にもわからない」
半ば海中にある女神の顔は、細面の美しいものにつくられていたが、その頬には歳月が黒ずんだ幾筋もの汚れを記していた。虚ろな灰色の瞳から、黒い涙が流れ出ているようにも見えた。
「あまり力のある神ではなかったのか」
「そうかも知れない。でも、三千年、ニュールオーガーを支配しているとも言えるわ」
私は、ふとマリエ・メアリエの横顔を見た。彼女は、霧の向こうに矛盾の塊を抱えて海に横たわる女神像を見つめていた。黒玉のような瞳は、古びた友愛と共感の色を湛えて、壊れたラヴァーティを見つめているようだった。
「あの鐘は？」
マリエ・メアリエはラヴァーティの像を見ながら答え
た。
「女神像の中の機械仕掛けで動いているらしいわ。でも、もしかすると別の何かが動かしているのかも知れない」
私の恋人は視線を私に移し、目を細めて翳りのある笑みをつくった。
「ラヴァーティについて知られていることは少ないのよ」
私たちは、桟橋を後にして、街並に戻った。私は灰色の路の上に、鈍く朱色に光るものを見つけた。霧はそのものを避けるように、その周りだけ薄まっていた。
それは一振りの剣だった。見覚えのあるものなのだが、何故か思い出せない。剣の周りには灰のようなものが固まっており、それは異様に歪んだ形の獣の骨の集まりのようにも見えた。私はほとんど無意識のうちに、その剣を拾い上げようとした。マリエ・メアリエが私の腕を引き、止めた。
「それには触れないで、それに近づいてはいけないわ」
恋人の頬からは血の気が引き、青ざめて見えた。
また鐘が鳴り響いた。
頭の中で、何かが弾けたような気がした。私は彼女の腕を振りほどき、路上の剣を拾った。
剣を抜いた。炎のような赤光が刀身からほとばしる。マリエ・メアリエの唇から跡切れ跡切れのか細い悲鳴が聞こえる。
私は、自分の腕が燃える剣を振り上げ、私の恋人を一太刀で斬り倒すのを、まるで他人事のように見ていた。
倒れ伏したマリエ・メアリエから、色が失われていく。頬の赤みは消え、唇は灰色になり、そして、出逢ったときのように闇の色に変わっていく。
私は剣を投げ捨て、墨絵の女を抱き起こした。黒い唇が震えるように動き、何事か囁いた。
「あなたは……クトニの司祭に……呪文を……」
私はどう答えていいかわからず、彼女を抱きしめるばかりだった。
耳のそばでもう一度唇が動き、何かを伝えようとしたが、私には微かな温もりを持った吐息しか感じることが出来なかった。
マリエ・メアリエは陶磁器のように白くなった美しい顔に、笑みを浮かべた。
細い指が私の頬に触れ、そして彼女は息絶えた。
私は彼女の黒い唇に口づけたが、もはや、生の色がそこに宿ることはなかった。霧が、穏やかな波のように彼女を覆い、また薄れ、その度事に私の恋人の姿は、次第次第に実在感を失い、深い霧と一つになっていく。彼女の骸は私の腕の中で小鳥のように軽くなっていった。
やがて、私の腕の中にはマリエ・メアリエという女が存在していた証は何一つなくなり、ただ、白い霧だけが私の掌の感触を惜しむかのように、揺れ動くのみとなった。
鉛の鎖をつけられたような足取りで、私は橋を渡った。
河面からは、瘴気のような霧が立ち昇っていたが、つい先日まで不快で邪悪なものと思われたそれは、今は肌に馴染んだ優しげなものと思えた。霧は、裂けた私の気持ちに入り込み、優しく傷口を覆った。
袂の『石屋』の奇怪な文字が記された掛幕をくぐった。炎の向こうにはクトニの司祭の像が変わらぬ姿で鎮座していた。
「私に何をした。この剣に何をした」
自分の声が震えているのがわかった。
炎が揺れ、司祭の像を覆い隠した。声が響いた。
「西からの旅人スナブ・ランケンよ、よくぞ、魔性のものを倒した。その力と勇気は長くクトニの神と民人により、誉め称えられることとなろう」
頭の中で、熱い塊が膨れ上がり、額を破って飛び出しそうな気がした。
「私の質問に答えろ！」
炎は私の言葉に不快を感じたように揺らめいた。
「黒衣の女は、この幽鬼の都に封じられた古のものどもの中でも、最も邪悪な存在だ。ほとんどの魔物は河のこちら側に、その手を延ばすことことは出来ないが、黒衣の女だけは旅人を惑わし、『魔天楼』に誘い込み、その生命を吸い尽くす。だが、私には、橋の向こう側に直接力を及ぼすことは出来ない。結界は内と外に力を持っている」
「それで、私を利用したということか」
炎は油を注がれたかのように、大きく燃え上がった。
「お主の剣にクトニの力を封じた。魔性のものの誘惑に打ち勝つ力をお主の心に吹き込んだのだ。だが、お主の心には破滅への誘いの種子が残ってしまったようだな」
私は剣を引き抜いた。刀身はまだ、朱色の輝きを持っていた。
炎の幕越しに見える司祭の像に向けて、剣を力いっぱい投げつけた。
空気が震える音がして、剣は木彫りの像の頭に突き刺さった。
炎が一瞬にして消えた。木像は額から剣を生やして、塗りの剥げた虚ろな目で私を見つめていた。もう、声は聞こえてはこなかった。
私はニュールオーガーを後にした。枯れ木立が並ぶ河沿いの道を北への旅を続けた。ヴァドサーン河はニュールオーガーを離れると、当たり前の魚や虫たちの生きる河となった。旅人には誰も会わなかった。
一度だけ振り返り、『魔天楼』を見遣った。白くたなびく霧が、私に別れを告げた。手の中にまだ恋人のかけらが残っているような気がした。立ち止り、掌を見つめたが、もちろん、そこに何かを見いだすことは出来なかった。
