雪の降るひどく寒い日だった。
私はサンジェリィの南の外れ、ルファンス街に向かっていた。ラグラン大通りは雪に覆われ、行き交う馬車の轍が幾筋もの絡み合う黒い絵模様を描いている。南市場もいつもの賑わいはなく、売り子の声も白い雪の中に吸い込まれて押し潰されていた。
曲がり角に来る度に嫌な軋む音を立てる辻馬車を、クペルの四つ角で降りて、私は走り使いの少年が持ってきた地図を頼りに歩いた。
私の灰緑の外套は、こんな雪の日に歩くにはいささか頼りなく、歩くうちに寒気が身体の芯に染み込んでくるようだった。
次第に家並は疎らになり、雪を被った茂みの合間合間に、打ち捨てられた屋敷の崩れた煉瓦塀や、骸骨のような姿となった大きな廃屋が目立つようになってくる。
ルファンス街は十数年前までは、小金を貯めた商人や裕福な小貴族の屋敷が並ぶ街だったが、何処から持ち込まれたものなのか、紅腐熱なる流行病が起こり、多くの人々が死んだ。流行病が去った後も忌まわしい記憶と風説は残り、そこに新たに住み着こうというものは少なかった。
スターミネイド将軍の屋敷はそのルファンス街の真ん中で、丈高い石塀に囲まれていた。一面の雪景色の中で、人の背丈の倍ほどもある石塀だけが白く染まることを拒むように、ざらざらとした黒っぽい肌を見せていた。
緑青のふいた青銅の門扉は、優雅な唐草模様とは裏腹に、エスカールの霜の巨人でも壊せないような頑丈な閂がついていたが、半ば開け放たれたままになっていた。門衛の姿はない。
誰の足跡もない雪の中を、私は屋敷の方へ歩いた。白い冠を抱いた木々はあまり手入れをされているようには思えず、この雪が溶ければ、伸び放題の枯れた叢に覆われた荒れ果てた庭園が姿を現すのかもしれない。
母屋は駒形切り妻屋根が幾つも集まった、重々しくがっしりとした作りの建物だった。紅腐熱の流行よりも以前に作られたものに相違ない。だが、無骨な屋敷の外観はその母屋の背後に聳える、目を奪うような建物によって、印象の大きく異なるものとなっていた。
二階建ての母屋よりも一層分丈高い、鉄と硝子の建築物は、いわゆる「温室」というもののようだった。サンジェリィの気候では育ち難い南方の草木を育てるため、富裕な商人や貴族、役人連中の間で、一時期流行ったものだ。だが、このように巨大なものは、見たことがない。硝子は白く曇っていたが、その中には、色濃い緑が見え隠れしていた。
白っ茶けた乾ききった木材で作られた玄関の扉を叩くと、その扉よりも乾いた肌の執事が顔を出した。
「スナブ・ランケン、クーリカフ街の探偵です。当家の御主人の依頼で来ました」
執事はほとんど見えない銀灰色の眉を潜めて不快な表情を示したが、私が手紙を見せると、別人の、極めて職業的な笑顔を見せ、邸内に案内してくれた。
「スナブ・ランケン様のことなら、御主人様より承っております。このような天気故、御主人様は温室の方で、ランケン様を御待ちになっております。さ、さ、こちらへ」
執事は黄金と白磁と白銀が散りばめられた盗賊の夢のような幾つかの部屋を通り抜け、私を鋼と硝子の大温室へと案内した。
短い屋根付きの回廊で母屋と結ばれた温室の扉が開くと、熱気と湿気、それに一言では形容し難い濃密な匂いが私を出迎えた。遠く南方遥かの密林がそこには再現されていた。
生き血のように赤いバンジューカの花がそこかしこに咲き乱れている。奇妙な細長い房となった紫色のタランヤの花、黄色に赤い斑紋の入ったユ・ツァンの花が鮮やかさを競い、青白い燐光を放つというフォチュナの小さな宝石のような花も色を添えている。
だが、大温室の支配者は、濃厚な緑だった。黄色みを帯びたものから黒光りするものまで、様々な緑が大温室を満たしていた。子どもを包んでしまえるかのような巨大な葉を重ねたナーブナの木が見上げるようにそそり立ち、スファールの長く伸びた葉は大蛇のように絡み合い、ロアイナの葉叢は無数の緑の髪持つ生首のように奇怪な姿を見せていた。
執事は、まるでその土に靴先が触れると恐ろしい疫病にかかると思っているかのように、湿った黒土の上に置かれた平たい敷石の上を注意深く歩み、曲がりくねった通路を温室の中央へと案内した。
温室は奥へ行くほど暑く、湿り気を増し、木々の緑も濃くなっていくようだった。凍えて痺れていた足先に血の気が戻り、むず痒い感じがした。胸元にはうっすらと汗をかくような感さえあった。
私は歩きながら、腰に吊ったファバーン剣の柄に触れてみた。太古の魔剣は、あやかしの力が働いている場で持ち主にそのことを伝えてくれる。微かに伝わってくる痺れるような感じは、ここに何らかの妖術の気があることを示していた。
突然視界が開けた。温室の中央は小さな広場のようになっていた。真ん中には、噴水や彫像の代わりに巨大な蒸気缶があった。無数の鋲が打たれた黒塗りの鋼の半球が、しゅうしゅう、ごうごうという低い音を立てていた。上部に放射状に取り付けられた銅の管から、間欠的に白い蒸気が噴き出している。小さな覗き窓からは黄色い強い光が漏れ、その中の熱と炎の激しさを物語っていた。
老人は、その蒸気缶の前に座っていた。黒い漆塗りの車椅子は螺鈿と銀細工に覆われ、まるで玉座のようだった。彼の身体を覆う分厚い毛布は、私の記憶に間違いがなければ、ラトリオンの氷湖の漁師たちのためだけに作られると喧伝される鮮やかな色彩の代物だった。無論、サンジェリィで手に入れることの出来る人間は、極めて限られている。
その毛布と、艶やかな密林の緑、鮮やかな南の花々に囲まれてそこに座る老人には、色というものがなかった。
無数の小さなしわに覆われた顔は、かつては日に焼けた逞しい黒さを誇っていたのかもしれないが、今は幾度も洗って色の抜けた衣服のように、灰色だった。頭巾のように被った毛布から覗く短い髪も、太いが疎らな眉毛も乾いた灰色、肌の裂け目のような薄い唇にも色はなく、高い額の下の淀んだ目も灰色だった。
角張った顎と額、角材を貼付けたような長い鼻は、新聞の戯画に登場する軍人のようだった。
「御主人様、こちらがクーリカフ街の探偵、スナブ・ランケン様でございます」
灰色の老人はしわの寄った口元をわずかに動かし、かすれた声を出した。声が目で見えるものなら、それも灰色だったろう。
「飲み物はどうかね。ナクシャッツから運ばせた良いブゴムがある」
スターミネイド将軍は、フランジースコ辺りから取り寄せたかのような口調で言ったが、その酒が密林の港からこの街へ届くまでには二月は船艙で揺られていたはずだった。
「いただきます」
私が答えると、執事がつやつやとした木彫りの酒杯に赤みを帯びた蜂蜜色の酒を注いで持ってきた。黄色いユ・ツァンの花びらが浮いている。
「この花を、噛んで飲むのだ。私のような者でも、心の臓に火が点る」
将軍は、自嘲的な歪んだ笑いを浮かべて、震える手で酒杯を傾けた。毛布の中から現れた両の手は、灰色の薄い手袋に包まれていた。
私は世界を放浪するの旅の途中で、ナクシャッツの密林王国に足を踏み入れたことがあった。彼の地で、そうした酒の飲み方をするのは、酒に酔う以外に何も希望を持てない者だった。
私は黄色い花びらはそのままに、ブゴムを一口、含んだ。腐った果実を思わせる独特の芳香と味わいが、鼻と口に広がった。
「さて、ランケン君、君には探し出してほしいものがある。花だ。大切な私の花を探し出してほしいのだ」
彼が「私の花」と言った時、その一瞬だけ、灰色の仮面に人間らしい色が現れ、灰色の瞳に光が宿ったような気がした。
「新しいディコールの苗でも盗まれましたか？近頃は、信じ難い高値で取引されることもあると聞いています」
スターミネイド将軍はユ・ツァンの花びらを口中で転がし、その麻薬のような味わいを確かめてから、私の問いに答えた。
「ディコールの苗と花は、確かにこの大温室の蒸気缶に火を絶やさぬ為に、役立ってはおる。馬鹿げた値でも買っていく俗物紳士は、幾らでもおるからな。だが、そんな物を探す為に、君を雇おうというのではない」
彼の灰色の瞳が、私の背後のどこかに焦点を結んだような気がした。
「そこに植えられていた私の花が盗まれたのだ」
将軍は灰色の手袋の指で、私の斜め後ろあたりを指さした。指先が震えているのは、病のせいなのだろうか、感情の昂りのせいなのだろうか。
老人が指さしたあたりは、黒っぽい土が掻き乱され、差し渡しも深さも二イート（一イートは約三十センチ）ほどの穴があいていた。
「ここには何が植わっていたのですか」
スターミネイド将軍は、かすれる声に少し力を入れて答えた。
「私の花が植わっていたのだ。レルウェルが」
そう言う将軍の肩が震えているのは、齢や病のせいではなさそうだった。
「私はエイマン王陛下に仕える金蹄隊の一員として、幾つもの戦に加わってきた。陛下は戦よりも交易による益を良しとする賢明な御方だが、それでも、金蹄隊はフランジースコとの長年の小競り合いやコリゾットの愚王の乱、時には白銀街道沿いの山賊どもの討伐などに剣を振るってきた。私は武勲を立て、将軍となった。陛下が異国の古の都邑や廃寺に惹かれるようになってからは、シュヌベル大学の学者たちとともに、金蹄隊を率いて古怪な廃墟に足を踏み入れることも、我らの役目となった」
この武人がシュヌベル大学の教授たちの御供という役目に満足であったのかは、いささか疑問だったが、老将軍は恬淡として話を進めた。
「ナクシャッツの密林王国のさらに南、マツァオン・グランゾと呼ばれる大河の河畔に広がる大密林の中で、メルカーの人間にはまったく知られていない遺跡を調べていたときのことだ。深い緑の中に、忽然と現れた石造りの大遺構だ。凹凸の多い台形の上に、丸みを帯びた小さな塔が何十も立っていた。奇怪な絵文字のようなものが遺跡全体をびっしりと覆っていた。学者たちは絵文字の一部を読み解き、それがナクシャッツ古王国より、さらに千年は遡る時代の、何らかの神を祀った神殿であることを突き止めた。
「学者たちは、如何なる神なのかということについて激論を交わしていた。ある者は豊穣を約束する農耕の神であると主張し、ある者は男女の睦言にかかわる快楽の神であると言い張った。
「私はそうした議論を聞くのにも飽いて、神殿の地下の冷気を求め、仄暗い通廊を下った。かつては輝く宝玉を象眼されていたらしい神像の残骸が散らばる暗い通廊の果てに、私はある部屋を発見した。
「天井の高い四角い石造りの部屋には、奥に階段状の祭壇のようなものが築かれていた。その真ん中に奇怪な植物が生えていた」
スターミネイド将軍はそこで言葉を切り、私の足下あたりに視線を送った。無論、私の雪と泥に濡れた長沓を見ているわけではなかった。
「ランケン君、もう一杯ブゴムはどうかね」
杯の中には、まだ半分ほど酒が残っていたが、私は老人に感謝の意を表した。執事は魔法のような素早さと優雅さで、二杯目の酒を注いだ。
金蹄隊を率いた将軍は静かに木彫りの杯を傾けた。手の震えはいつの間にか治まっていた。
「人面花というものを知っているかね」
将軍は静かにそう尋ねた。
「花びらの斑紋や、雄蕊、雌蕊の形から、人の顔のように見える花のことですか、それとも、別の意味でしょうかね」
裂け目のような口を歪ませて、彼は皮肉な笑みを作った。
「ただの珍しい花のことで、君を呼び寄せるはずはなかろう。魔道探偵を雇うにはそれなりの理由がある」
私は些かの不快感を込めて、返答した。
「念のために言っておきますが、僕は魔術を使えるわけでもなく、幻視者でもない。たまたま、そういう事件を扱うことが人より多いだけです。この雪では、いずれ辻馬車も走れなくなるかもしれない。クーリカフ街まで帰り着くには、足先が凍りつく。仕事は手早くすませましょう」
スターミネイド将軍は「無礼者め」と言いたかったのかもしれないが、灰色の顔に無表情を貼り付かせて小さくうなずき、話を続けた。
「マツァオン・グランゾの廃墟で私が見つけたものは、真の人面花だ。鮮やかな緑の薄葉が幾重にも重なった茎は、なよやかな曲線を描く緑の薄衣に包まれた女体そのものだった。差し上げられた両の腕のような枝分かれした部分からは、何枚もの紫がかった大葉が優美に垂れ下がり、私をその葉叢の中へ招いていた。花は差し渡しが二イート（約六十センチ）はあった。真っ赤な血の色をしていて
「花の後ろのあたりからは、白っぽい黄緑色の蔓のようなものが何本も生えていた。蔓といっても子どもの腕ほどの太さがある。それが渦巻き、捩じれて、絡み合って、蜘蛛の巣のように石室の中に広がっていた」
老人は再び言葉を途切れさせ、私の足下あたりを虚ろに見遣った。二杯目のブゴムを飲み干したが、しわだらけの頬は灰色のままだった。
「ここにその人面花が植わっていたのですね」
私は斜め後ろの穴に目を落として聞いた。
将軍はわずかに首を振り否定の意を示した。
「そこにいたのは、私のレルウェルだ」
私は黙って話の続きを待つことにした。執事が三杯目の飲み物をどうかと目顔で尋ねたが、老人は小さく手を振り断った。
「神殿がその花の為に建てられたものだと私は悟った。自分が、その花にどうしようもなく、魅入られてしまったことも。だが、サンジェリィに持ち帰る術を考える暇はなかった。通廊の向こうから、聞き慣れない鬨の声と悲鳴が聞こえてきたのだ。
「マツァオ・モルゴと呼ばれる密林の住人の襲撃だった。獣の骨を焼いた灰を身体に塗り、青や赤、白の奇怪な刺青をした蛮族だ。神殿に辿り着くまで吹矢や弓矢で幾度か襲われ、首縄の罠を仕掛けられたこともある。その度に打ち払っていたが、今度はこれまでにない人数と激しさだった。
「我が金蹄隊は勇猛果敢に闘い、蛮人どもを血祭りに上げたが、多勢に無勢の上、奴らは卑劣にも毒霧を炊いた。赤紫の霧が漂ってきたかと思うと、次々と我が戦士たちは血を吐いて倒れ伏した。私は幾人かの兵と共に、何とか毒霧を逃れ、神殿から脱出した。
「私は人面花の咲く石室から、『種』を持ち帰った。階段状の祭壇にうやうやしく鎮座していた一イート近くある褐色の卵形のものだ。サンジェリィへの帰途は苦難の連続だった。兵士たちは皆死に、私だけが一年後に帰還した。私は歩くことも出来ない身体となったが、『種』だけは手放さなかった。そして、十五年の歳月をかけて、私のレルウェルを育て上げたのだ」
「私のレルウェル」などという言い回しは、この灰色の老人にはまったく似つかわしくなかった。選り抜きの頑健な軍人であったろう十五年前の彼にも似あわしい言葉とは思えない。自ら魅入られてしまったという通り、彼はその妖しい花に取り憑かれているのだろう。
「その大切な花が持ち去られたというのですね」
「そうだ。そこに、私のレルウェルはいたのだ。もうじき……もうじき、花が開き、その姿を現すところだったのだ。メルカーの人間が誰も見たことのない神秘の花が、この世ならざる美の化身が、そこに生まれ出るはずだったのだ！」
再び、手袋に包まれた手が震え出し、声音はざらざらと荒れたものとなった。
「私のレルウェルを取り返してくれ。報酬は君の決まりの額の倍、払おう、いや三倍でもかまわん。私の人生には、あれしかないのだ。生きる望みはあれだけなのだ。頼む」
スターミネイド将軍は瘧慄いのように全身を震わせ、手にした酒杯を落とした。執事が静かに、しかしこの上なく素早く近づき、水と丸薬を飲ませた。
蒸気缶のたてる轟々という音がひときわ高まり、無数の緑の葉が、それに合わせて揺れているような気がした。
