その男がやってきたのは、どんよりとした曇り空の日だった。灰色の雲が家並みを押しつぶしそうに広がっていた。空気は湿っており、窓を開けても風はそよとも入ってこなかった。
男はブロウエルと名乗った。年の頃は三十前後、縮れ気味の黒い髪に浅黒い肌のやせ形の男で、まずまずの男前だが、鼻はいささか大きすぎて、顎は尖りすぎかもしれない。黒い目が落ち着かなげに、あたりを見回していた。気が弱そうに見えるのは、眉の両端が下がり気味だからだろうか。
ブロウエルはシュヌベル大学を卒業はしたものの、官吏の試験に三度落ちて、今は大学に入ろうとする若者の家庭教師をして糊口をしのいでいると言った。
「冴えない暮らし向きだったのですが、三月ほど前に思わぬ遺産が手に入ったのです。遠縁にあたる港で商いをしている人が亡くなり、私のところにも遺産が転がり込んできたのです」
彼の話によると、遺産というのはストーグ街にあるマイアーク家の屋敷と家財道具一式、それにまとまった額のダズン金貨だった。ブロウエルは屋敷に手を入れ、人に貸して収入を得ようと考えた。
「古い屋敷で、百年以上前に建てられたものらしいのです。長い間、誰も住んでいなかったのですが、持ち主の親戚が手を入れていたのか、さほど傷みもなかったのです。それで、間借り人を入れてみたのですが、どうにもこれがうまくいかないのです」
ブロウエルは癖のある髪を手でかきまわした。
「ああ、つまり、その屋敷に何か出るということですね」
「さすが、お察しがいい」
男はうなずいて、弱々しい苦笑いを浮かべた。
「だいたい、この探偵局へ来る方はそういう用件ですからね。念のために言っておきますが、僕は巷で言われているような魔道探偵などというものではありませんよ。その手の事件に遭遇することが多いのは事実ですが、依頼主に都合よく解決するとは限らない。それをご承知なら、お話を伺いましょう」
ブロウエルは、いささか気勢をそがれたようだったが、話をやめはしなかった。
彼の話によると、マイアーク家の古屋敷に出る幽霊というのは、きわめて古典的なものだった。曰く、夜中に誰もいないはずの廊下から足音が聞こえる、曰く、空き部屋からひそひそ声が聞こえる、曰く、寝床に入っていると、何かがのしかかってくるような気がする云々。これまで三人の間借り人が、そうした怪異に出会い、早々に屋敷を退散したと彼は言った。
出ていった者たちは、いずれもシュヌベル大学に入学することを目指して、近隣の街や村からやってきた若い男で、みな心身共に健康な者たちだったという。ブロウエルは、彼らに古典や史学など教えてもいたのだが、皆、ひと月もしないうちに出ていってしまったので、商売にならず困っていると言った。
「あなたはその屋敷にお住まいではないのですか」
ブロウエルは首を横に振った。彼はダスナタ街の小さな家に妹といっしょに暮らしていると言った。両親はすでになく、体の弱い妹を彼が養っているのだという。
「本当はマイアークの屋敷に妹といっしょに引っ越そうかと思っていたのです。今の家もだいぶがたが来ていますからね。ところが、一度妹を連れて行くと、どうしてもこの屋敷に住むのはいやだと言い張るのです。何がいやなのだと聞いてみても、はっきりとした答えはなく、とにかく、この屋敷はいやだの一点張りです。妹はいろいろなことを気に病む質なもので、それでまた具体が悪くなっても困りますので強いことは言えず、幸い、今の家から屋敷まではごく近いので屋敷には家から通うようにしました。本当はそれも妹はいやがったのですが、暮らしのこともあるので、私が仕事で通うことは渋々承知したのです」
「それでブロウエルさん、あなたはマイアークの屋敷で怪異の気配を感じたことはないのですか」
男は私の質問に少し言い淀むような気配を見せたが、自分が感じたものについて話し始めた。妹が心配するといけないので、泊まりはしなかったが、間借り人からの訴えに応じて、幾度か夜遅くまで留まっていたことはあるのだという。
「私は妹とは違って、極めて実際的な人間です。目に見えない何かの気配など、これまで感じたことは一度もありませんでした」
そこで一度ブロウエルは言葉を切って、自分を納得させるように小さくうなずいた。
「つまり、何かを見たのですね」
「いいえ、はっきりと何かを目にしたわけではありません。間借り人からの訴えで、彼の部屋で夜更けまでチャスガを指していたのですが、その時、音、いや、声が聞こえたのです。小さな音で、最初は虫の羽音かと思いましたが、誰かの名前を呼んでいる囁き声のようにも聞こえたのです」
私はその声は何と言っていたのかと尋ねたが、彼ははっきり聞き取ることはできなかったと答えた。間借り人の方はといえば、ブロウエルが声を聞いたと思った次の瞬間に、チャスガの盤をひっくり返して立ち上がり、廊下への扉を開けて「誰だ！」と叫んだ。彼は囁き声ではなく、足音を聞いたと主張したが、廊下には誰の姿もなかったのだという。
「その後、まだしばらく私は屋敷に留まりましたが、何も起こりませんでした。間借り人は朝までいてくれと言いましたが、私は妹が待っているからと言い、家に戻ったのです。翌日、屋敷に行ってみると、間借り人は置き手紙を残して去った後でした。手紙には乱れた文字で、寝床に何かが入ってきた、とありました」
逃げた間借り人が幽霊話を広めたのか、以来借り手は現れなかった。弱ったブロウエルは人伝てに聞いた噂を頼りに、ここを訪れたと語った。
「あなたはその一件の後、屋敷を調べたりはしているのですか」
私の質問にブロウエルは眉根を寄せて困った顔をした。
「明るい時間に調べようとは思ったのですが、妹にもう絶対あの屋敷には行かないでほしいと泣きつかれて、おまけに彼女は熱を出して寝込んでしまったので、そのままになっているのです。幸い、少し具合も良くなってきたので、今日はこちらにお願いに来ました」
相続に際しても特段の話は聞いておらず、屋敷の怪異の原因について思い当たることは何もないと彼は言った。
「ブロウエルさん、僕なりに努力はしますが、うまく解決できるとは限りません。それをご承知なら引き受けましょう。料金は一日四十ダズン、必要な掛かりは別にいただきます」
男はそれでかまわないと言った。
「屋敷の方を調べる前に、妹さんにお会いすることはできますか。どうして、そんなにあなたに屋敷に行って欲しくないのか、話を聞きたいのですが」
ブロウエルの表情が硬くなるのがわかった。
「ティレッスは何も知りません。ただ、些細なことでも気に病んで、不安になってしまう質なのです。それで体の方も具合が悪くなってしまうことがあるくらいです。受け継いだ屋敷に引っ越すという最初の私の提案で、ひどく不安になってしまっただけです。それに、今、あなたを連れて帰れば、それがきっかけになってまた調子が悪くなるかもしれません」
「そうですか。では、やめておきましょう」
男はまだ硬い面持ちでうなずいた。
日が暮れるにはまだ間があったので、私はブロウエルの案内でストーグ街のマイアーク屋敷に向かった。家は表通りから少し入ったところにあり、なかなか瀟洒な造りだった。
駒形切妻屋根の二階建てで、白く塗られた板壁にくすんだ赤い瓦屋根が載っている。玄関の突き出した小屋根の上で、二階の大きな二つの丸窓が両眼のように見えた。
両脇を大きな館に挟まれてはいたが、庭を広く取ってあるので窮屈な感じはしない。表から見るとさほど大きな家には見えないが、入ってみると奥行きがあるので、見かけよりは広い屋敷だった。
家の中に入る時に、ファバーン剣の柄に手を触れると、かすかに痺れるような感覚が伝わってきた。古の英雄から譲り受けた魔剣は、何かの存在を示唆したのかもしれないが、あまり当てにすることはできない。魔力も時と共にすり減るのだ。
屋敷の中を一通り案内された。一階の広間と食堂、客間、寝室、それに書斎、二階の幾つかの寝室、階段下の物置、等々。三人の間借り人の話も再度聞いたが、最初の二人は二階のそれぞれ別の部屋、最後の男は一階の部屋で、奇怪な物音や声、誰かがいる気配を感じたということだった。私は最後の間借り人が逃げ出したという一階の部屋に一晩泊まってみるとブロウエルに告げた。
「あなたにも出来れば泊まってもらえるといいんですがね。いや、日が暮れてしばらくまででも結構。僕も少しはチャスガができますよ。なんなら骨牌でも」
私の言葉に依頼人はそんなことはできないと答えた。
「申し訳ないのですが、そろそろ戻らないとティレッスが心配します。台所には幾らか食べ物が残っています。どうぞ、ご自由に使ってください。私はまた、明日の朝、ここに来ます」
ブロウエルはそう言い残すとそそくさと屋敷を出ていった。私は無人の古い屋敷に一人残された。
もう一度家の中をひと回りしてみた。家具調度は古びてはいるが美しく保たれ、壁の腰板や壁紙もきれいだった。ブロウエルは外壁を塗り替え、壁紙を張り替え、寝具の交換ぐらいまではしたのだろう。厚手の絨毯や窓掛は、百年前のものかどうかは知らないが、古いものをそのまま使っているようだった。
室内は白を基調にして、茶色や青、薔薇色、薄緑など、部屋ごとに異なる色合いで意匠が凝らされており、主と建築家の趣味の良さをうかがわせた。
書棚や引き出しにかつての住人の日記や覚書などが残っていないか漁ってみたが、成果は得られなかった。肖像画の類いも見当たらない。どうやら、出るものを待つしかしようがないらしい。
私は台所にあった薫製の肉と乾酪、瓶詰めの酢漬け野菜、それに乾麺麭を齧り、葡萄酒を少し飲んだ。葡萄酒は随分と古いものらしく、瓶には埃がこびりついていた。どこかに貯蔵庫でもあるのかもしれないが、入り口は見つからなかった。
食べ物はかろうじて飲み込めるといった体のものだったが、酒は美味だった。私は酒瓶と酒杯を持って、今夜の寝床のある部屋に向かった。日はすでに暮れていた。私は片手に酒瓶を、もう片方の手には手燭と酒杯を持って暗い廊下を歩いた。
雨音が聞こえてきた。一日下界を見下ろす虚しさにこらえ切れずに、曇り空は泣き出してしまったのだろう。雨音は随分とはっきり聞こえたが、それに混じって別の音も聞こえてきた。誰かが私の後ろを歩いているようだった。
振り返っても、誰もいなかった。蝋燭の薄黄色の光が暗い廊下に光の輪を作った。
ファバーン剣に触れてみようかと思ったが、両手は酒瓶と手燭と酒杯でふさがっていた。私はそのまま部屋まで歩いた。小さな足音は私の後をついてくるようだった。
部屋に入り、持っていたものを置き、扉に鍵をかけた。魔剣を鞘から引き抜くと、ぼんやりと青緑の神秘文字が刀身に浮かび上がっていた。足音はもう聞こえなかった。窓の外を薄紫の光が走った。少し間を置いて雷鳴が響いた。
「やれやれ」
自分でも気づかないうちに独り言ちていた。部屋は広めの寝室で、寝台は大きな古いもので、天蓋付きだった。この家の主のものだったのだろうか。書き物机の引き出し、棚や箪笥をもう一度確かめたが、怪異の素性を示すようなものは何も見つからなかった。小さな四角い卓子に葡萄酒の瓶と杯を置いた。部屋には大きな燭台もあったので、手燭から明かりを移した。部屋の中は橙色の明かりに照らされて、少しばかりそういう気配が遠のいた気がした。
杯に黒ずんだ葡萄酒を注ぎ、ちびちびと飲んだ。雷は遠いところで鳴っていて、雨もそう激しくはないようだった。空気は湿っていて、幾らか蒸し暑さがあった。
一杯目を飲み干した時、足音が聞こえた。小さなぱたぱたという軽い音だ。子どものようにも思えた。足音は一度止まり、もう一度、今度はゆっくりと忍び足のような感じになり、また止んだ。
私は剣を手にして、そっと扉に手をかけた。刀身にはファバーン文字がぼんやりと緑色に浮かび上がって見える。扉を開けたが、燭台からの明かりに自分の影が揺らいでいるだけで、誰の姿も見えなかった。
燭台を取ってきて、廊下を照らしてみたが、誰もいない。
私は部屋の中に戻り、もう一杯酒を注いだ。一口すすろうとすると、また足音が聞こえた。さっきよりははっきりとした音だった。無視して酒を口に含むと、今度は声が聞こえた。
「父様、そんなに飲んじゃ……」
女のものらしい少しかすれた声が小さく聞こえた。廊下からではなく部屋の中、卓子の向かいの誰かが囁いたかのようだった。
私はその声も無視して、口の中の酒を喉に流し込んだ。
「やれやれ、誰だか知らないが、君に酒の飲み方を指図される覚えはない。どうせなら、姿を現して相手をして欲しいね」
声は何も答えなかった。その代わりに酒瓶がすべるように動いて卓子の端から落ちそうになった。私は瓶に手をのばし、卓子の真ん中に戻した。
「つまらない悪戯は止せ。いい酒が台無しになる。騒霊なんて子どもじみている」
そう言うと、部屋の扉が急に開き、音を立てて閉じた。遠ざかっていくような足音が聞こえた。なかなか芸の細かい幽霊らしい。それきり足音も囁き声も聞こえては来なかった。私は杯の酒をゆっくりと飲み干して、蝋燭一本を残して明かりを消し、寝床に横たわった。窓の外ではまだ時折稲光が明滅していた。雨は少し強くなったようだ。
しばらく静かにしていると、突然何かの気配を感じた。部屋の中に何かいる、というようなものではない。寝台の上、すぐ隣に何かがいると感じたのだ。敷布が擦れる音か、囁き声か、あるいは柔らかいが冷たい肌触りか、何かが私の体のすぐ脇にいた。
嫌悪と恐怖に駆られて、私は寝床から転がり落ちた。寝台に立て掛けておいたファバーン剣をつかもうとしたが、目に見えない何かが剣を部屋の隅まで跳ね飛ばした。
笑い声が聞こえた。くすくすという女か、あるいは子どものような声だ。先刻とは違って、はっきりと聞こえる。
「君は誰だ？ この屋敷の住人なのか？ 僕はスナブ・ランケン、探偵だ。君の父様じゃない。屋敷を相続した男に頼まれて来た。君のせいで間借り人が逃げ出して彼は困っている。出て行けとまでは言わないけどね、恨みがないなら悪戯は勘弁してくれということだ」
笑い声は止んだが、別の物音がした。寝台の上で白い敷布が蠢いて、擦れる音を立てる。敷布は下に何かがいるかのように-あるいは上から糸で吊られているかのように-奇妙な形で上へと持ち上がっていき、細長い形をとった。まるで人間が敷布を体に巻き付けているかのように。
私はそれが形を取りつつある間に、部屋の隅の剣の方ににじり寄った。蠢く敷布から目を離さず、剣を拾い上げようとしたが、指が届くかと思った刹那、剣は部屋の反対側にとばされた。また、くすくすという笑い声が聞こえた。
「参ったよ、降参だ。じらさずに出てきてくれ」
私の言葉とは-多分-関係なく、寝台の上のものは人間の姿を現しつつあった。白い敷布は裾の短い寝巻きのような形になっていた。少し胸が突き出した少女の体の輪郭が見えてきた。細い肩の上に青白い顔がぼんやりと浮かび上がった。敷布の裾からはすんなりとした足がのびている。
多分、瞳は黒いのだろう。まだ形は揺らいでいたが、意志の強そうな目が寝台の上から私を見下ろしていた。髪もどうやら黒く、うなじのあたりで切り揃えてあるらしい。小振りの鼻と引き締まった口元が硬質な印象を与えるが、整った面立ちの娘だった。
「これは別嬪さんだね。一緒に一杯やるかね。子どもでも葡萄酒ぐらいはいいだろう」
幽霊は少し口を尖らせて、黒い瞳で私をにらんだ。子どもだと言ったのが気に障ったのかもしれない。
突然、敷布が形を失って寝台の上に崩れて落ちた。娘の姿が消えたかと思うと、柔らかいものが首に巻き付いた。白く細い腕が目の前に見えた。指先が首筋やうなじを這い回った。温もりはないが、氷のように冷たいというわけでもない。
耳のすぐ側でくすくすという笑い声が聞こえる。湿った唇が耳に触れ、固い小さな歯が耳たぶを甘噛みした。
私は娘の腕を振り払おうとしたが、確かに肌に触れていたはずのそれは、つかもうとすると途端に煙のように実体のないものとなり、消えた。
部屋の隅のファバーン剣の方に走ろうとすると、敷布が寝台から飛んできて私の前に広がった。私は白い布を引っつかんで放り投げようとしたが、つかんだ布の中には柔らかい何かがあった。敷布がくるくると体に絡みつき、私は布の中のものと一緒に包まれて身動きできなくなった。
目の前に青白い少女の顔があった。少しだけ輪郭がぼやけ揺れているが、長い睫毛の数まで数えられそうだ。娘は半ばまぶたを閉じ、接吻をせがむかのように、薄紅色の小さな唇を突き出した。
甘酸っぱい蠱惑的な香りを感じたのは彼女の作り出した幻覚なのだろうか。私の体に押しつけられた小さな二つの膨らみにぼんやりとした熱と幽かな鼓動すら感じた気がしたのも、幽鬼の為せる技だろうか。
どこからか細い腕が私の首に巻き付き、胸のあたりにある娘の唇に私の顔を引き寄せようとした。滑らかな肌の腕と指先はまるで蛇か触腕のように首筋を愛撫し、体から力を奪っていく。敷布の中でもがいても、振りほどくことはできず、私にできる唯一の動きは、次第に色を濃くしていく幽娘の唇に接吻することのみのように思われた。
突然、大きな音がして部屋の扉が開いた。闖入者は何かにつまずいたようで、蹴飛ばされた何かが卓子か椅子に当たって音を立てた。足下に緑色の光が見えた。
闖入者が何かわめいた。男の声でどうやら「……から離れろ！ 何をする！」と怒鳴っている。
扉から飛び込んできた男が私に体当たりを食らわした。体を縛っていた力が急に緩んだ。敷布がただの布になり、床に落ちた。生々しささえ感じられた少女の姿は消えて、幽かな笑い声が耳の奥に谺した。
私は不意を突かれて、床に転がったが、その先に薄緑に光る剣が転がっていた。剣を拾って立ち上がったが、脇腹に痛みを感じた。触れてみると服が裂け、幾らか血が滲んでいた。
目の前の男は血のついた短刀を手にしたブロウエルだった。依頼人は癖のある髪から雨粒を滴らせ、震える手で刃を持ち、荒い息を吐いていた。
「ティレッスから離れろ！」
ブロウエルが叫んだ。私と彼の間には白い敷布が小さな山を作っているだけだった。部屋に飛び込んできた時には、彼は違う名前を口にしたような気がしたが、聞き違いかもしれない。
「ここには妹さんはいない。そこにあるのは幽鬼が我々をたぶらかすのに使った敷布だけだ」
私はつま先で布をつついた。
「ティレッス！」
ブロウエルの目には妹がそこに倒れているように見えるのだろうか。彼は白い布を抱き上げるように持ち上げて、傍らにそっと置くと、短刀を手に突っ込んできた。
「目を覚ませ、ブロウエル！ ティレッスは家だろう！」
男はそのまま刃を突き出してきたので、私は切っ先をかわすと、剣の柄で彼の右手を打った。短刀は取り落としたが、なおもつかみかかってきたので、仕方なく腹に拳を突き入れると、うめいて倒れた。
ファバーン剣の神秘文字はさっきよりはずいぶん光を薄れさせていた。幽霊はいったん退散したのだろうか。
私は短刀を拾い上げた。半イート（約十五センチ）ほどの反りの強い刃がついており、柄には彫金細工、女性が護身用に持つもののようだった。ものは良いがかなり古びた意匠に見えた。
ブロウエルはすぐに気がついて、腹を押さえながら起き上がった。すぐには自分がどこにいるのか、わからないようだった。私は彼を椅子に座らせ、酒杯に葡萄酒を注いだ。
「飲んだらどうだ。妹さんはここにはいない。いるのは、あなたの商売を邪魔する亡霊だけだ」
男は改めて部屋の中を見渡し、床の上の敷布に目をやるとぞっとしたように肩をそびやかした。
「私はどうしたのでしょうか」
ブロウエルは葡萄酒の杯に手をのばして一口飲んだ。
「聞きたいのは僕の方だね。あなたはこの部屋に飛び込んできて、僕をこの短刀で刺そうとした。おかげで妖しい幽娘の呪縛から逃れることができたから、むしろ礼を言うべきかもしれないが、刺されて死んでいたらそれもできなかった。あなたは妹さんの待つ家に帰ったんじゃないんですか」
ブロウエルは杯を手にうなずいた。
「そうだ。私は家に帰ったのです。ティレッスと夕食を食べて、妹が床に入ったので、私は少し仕事の準備をしていたのです。明日はパルーレ街の方の生徒に帝国前史を教えなければならないので。すると、雨音に混じって声が聞こえたのです。『助けて』という声です」
「それは誰の声だったかわかるますか」
私の問いに依頼人は首をひねりながら答えた。
「それが、ティレッスの、妹の声のような気がしたのです。奇妙な話ですが、それで私はこの屋敷にティレッスを助けにいかなければ、と強く思いました。彼女はすぐ隣の部屋で眠っているはずなのにです。ああ、おかしなことを思い出しました。私は家を出る前に、ティレッスが床に着いていることを確かめたのです。そして、妹を助けるために、雨の中をここへ走ってきたのです」
ブロウエルの話によると、雨の街を駆けている時も、妹のものと思われる助けを呼ぶ声が何度も聞こえたのだという。
「『助けて』という声が頭の中に響くように聞こえるのです。それで、私は矢も盾もたまらない気持ちになって、その妹を苦しめている奴をどうにかしてやらなければ、そう、そいつを殺さなければと思って……」
妹思いの兄は私が手でもてあそんでいた短刀を見て、頭をぶるっと振った。
「これはあなたの家にあったものですか」
「そうですが、元はこの屋敷のものです。以前、屋敷の掃除をしている時に見つけたのです。値打ちものに見えたので、何かの足しになるだろうと持ち帰ったのです」
「ふむ、なるほどね。この小さな刀があったので、屋敷の幽霊はあなたの家まで出張ることができたのかもしれない。どうも僕は歓迎されていないみたいなんでね、あなたを使って僕を退治しようとしたんでしょうね」
ブロウエルは小声で「恐ろしいことだ」とつぶやき、不安げな面持ちになった。それから、不意に手にしていた酒杯を卓子に置き、古い酒瓶を見つめた。
「この葡萄酒はあなたが持ってきたのですか」
私が台所で見つけたものだと答えると、彼は眉根にしわを寄せて、首を横に振った。
「葡萄酒なんてないはずです。私は間借り人にも酒を持ち込まないように言っていました。酔って騒ぎを起こされても困りますからね。貯蔵庫だって、この屋敷にはないはずです」
「ふむ、亡霊に一杯盛られたというところか」
ブロウエルはひどくせき込んだが、胃の中の葡萄酒は出ては来なかった。
「妹が心配です。早く帰らなければ。この屋敷の何かは妹に悪さをしないでしょうか」
「他にこの屋敷から持ち帰ったものはありますか」
依頼人は短刀だけだと答えた。
「そうですか。ならば大丈夫かもしれません。早く帰りたい気持ちはわかりますが……」
私が言いかけた時にはブロウエルはもう立ち上がって部屋の扉に向かっていた。
「帰らなければ……ティレッスが……」
彼は扉の取っ手をつかんだが、扉は開かなかった。
「何だ、これは！ あなたが鍵をかけたのですか！」
男は焦った様子で扉に肩を押しつけ、力づくで開けようとしたが、扉は動かなかった。
「僕は鍵などかけていません。彼女があなたを帰したくないのかもしれません」
「彼女？ 彼女っていうのは……」
ブロウエルは半ば錯乱したように扉の取っ手をがちゃがちゃと動かし、何とか部屋の外に出ようとした。
「先生、私よ」
密やかな声がどこからか聞こえた。私には耳元で囁いているように聞こえたが、おそらくはブロウエルの耳にもそんな風に聞こえたに違いない。
私が座っている卓子とブロウエルが張り付いている扉の間に、青白い靄のようなものが渦巻いていた。それはぼんやりとした光を放ち、幾つもの渦になってぐるぐると回って、次第に形を取った。
ほっそりとした少女の像がそこに現れた。今度は敷布はまとっておらず、細い裸身を露にしていた。うなじで揃えた髪、意志の強そうな黒い目と閉じられた小さな唇、まだ固そうな-だが触れれば柔らかい-肢体。
少女の霊は私の方を見ていた。だが、ブロウエルも大きく目を見開いて、彼女の顔を見つめている。亡霊の姿はどちらから見ても自分の方を見つめている双面なのかもしれない。
私は短刀を腰帯に挟み、ファバーン剣を握った。短刀を帯びると魔剣はまるで嫌がるかのように、ごく短い傷みを掌に送ってきた。刀身の古の文字はくっきりと青緑の光を放っていた。
「それ、私の」
青白い娘がそう言ったかと思うと、もう細い手が私の懐にのびて、短刀を引き抜いていた。
「父様がくれたの」
娘は短刀を手にして、ひどく邪悪そうな笑いを浮かべて、私に斬りかかってきた。私は胸元を切り裂かれそうになり、危うく飛び退った。幽鬼は刃を手にしてさらに私に迫ろうとしたが、私はその背後に奇妙なものを見た。
もう一人の彼女が扉の前でブロウエルにしなだれかかっていた。そちらの娘は先刻私に見せたような仕草で男の首に腕を回し、接吻をせがむように顔を上に向けていた。ブロウエルは引きつった表情で目を見開き、身を強ばらせている。
「兄様、怖いわ」
「ティレッス？ どうしてここに？」
男が妹の名を呼ぶのが聞こえた。
「ブロウエル、たぶらかされるな！ それは君の妹じゃない！」
私の前の亡霊は、美しい顔に歪な笑みを浮かべて、短刀を振り回す。
「父様がくれたのよ。これで悪い男から身を守りなさいって」
異様な低い笑い声をもらしながら、娘は短刀を突き入れてきた。短刀を持った右腕が異様にのびて懐に迫る。
「悪い娘からも身を守らなきゃね」
私はファバーン剣でその腕に斬りつけた。小さな弾けるような音と青緑の火花が散った。手応えはなかったが腕は二つになり、短刀を握っていた肘から先は青白い煙となって消えた。短刀が音を立てて床に落ちる。私は急いでそれを拾い、腰帯にもう一度しっかりと挟んだ。
幽鬼は少し驚いた顔をして後退った。その間にも背後では、もう一人がブロウエルをたらし込もうとしている。私は青白い顔の娘を袈裟懸けに斬った。
火花が散り、幽女の顔は斜めに真っ二つになった。凄まじい悲鳴が上がり、鮮血が激しく飛び散ったかに見えたが、ブロウエルは気づく様子もなく、血飛沫が降りかかっても、血腥い臭いも濡れた感触もなかった。
娘の顔は二つになったまま、凄みのある笑いを浮かべて、扉の前で男を口説いている方に吸い込まれた。一瞬、彼女の腕が四本になり、ブロウエルの首を押さえ込み、肩をかき抱いて強引に接吻しようとした。
私は依頼人に切っ先が当たるのも覚悟で、亡霊に後ろから斬りつけた。ブロウエルが短い悲鳴を上げて、扉に背中を打ちつける。いや、亡霊の悲鳴だったのだろうか。青緑の小さな電光が走り、肩口から幻影の血を噴き出し、少女の姿は青く光る霞となって四散した。
「大丈夫か！」
ブロウエルは扉に張り付いて、額に脂汗を滲ませていた。上衣の胸のあたりが裂けて、のぞいた肌から血が滲んでいたが、切っ先は肉までは届かなかったようだ。
「あれは何だ？ ティレッスがすぐ目の前にいるように見えて、でも、違う娘で、ああ、僕を兄様と呼んで……」
男は見開いた目をきょときょとと動かし、部屋の中を見回した。肩が大きく上下して荒い息を吐いた。
「落ち着いて。あれはあなたの妹なんかじゃない。この屋敷に取り憑いている亡霊か何か、その手のものです。どうやら、あなたにご執心のようですが、何か心覚えはありますか」
ブロウエルは首を左右に振って、憤慨した様子で答えた。
「冗談じゃない、化け物に憑かれる理由なんてありませんよ。この屋敷を手に入れて、ようやく少し運が向いていきたかと思ったのに、何てことだ！」
「ああ、そうでしょうね。あなたに罪があるわけじゃない。でも、向こうには何か勝手なわけがあるのかもしれません。この剣で斬ったので、少しは痛手を与えたかもしれませんが、何せ向こうはもう死んでるんでね。今のうちにさっさと退散するのが得策ですね」
私は扉の取っ手に手をかけた。彼女の力が弱まっているのか、扉は開いた。ブロウエルに手燭を持たせ、私たちは廊下に出た。
「あれを退治することはできないのですか。あなたの持っているのは魔剣なんでしょう」
ブロウエルは暗い廊下で声を潜めて、言った。
「なかなか難しいですね。彼女が生前抱えていた恨み辛みか、あるいはこの世への未練か、そういうものを解消できればいいんでしょうが、そううまくはいかない。この屋敷は売ってしまうか、取り壊すかするのをお勧めしますね。ああ、この剣は中古なもんでね、あまり、当てにはなりません」
依頼人はいささか不満そうな声を出した。
「あなたの評判を聞いて依頼したのに、幽霊退治はできないって言うんですか」
「だから最初にお断りしたはずです。依頼人に都合よい解決を約束はできないと。生きていたって、人間なんて面倒極まりないものでしょう。死んでも出てくるんだから、なおさらですよ」
ブロウエルは喉の奥で不満げに唸るような音を出した。
私たちは廊下を玄関に向かって進んだはずだったが、扉を開けるとそこは一階の奥にあるはずの書斎だった。作り付けの書棚を背にして大振りの机が置かれている。おそらくは蔵書で一杯だったであろう書棚は空だった。主がいなくなってから、売り払われてしまったのだろう。
「やれやれ、お嬢さんはまだ遊び足りないと見える」
「この屋敷からは出られないんですか」
ブロウエルは窓に寄って掛け幕を開け、窓の掛け金を外そうとした。
「ここから出れば逃げ出せるんじゃ……」
窓の外で稲光が走り、弾かれたように依頼人は飛び退いた。こちらを振り向いて部屋の中を見回す。
「今、窓に何かが映って、いや、外にいたんだろうか」
私は窓の掛け金を確かめようとしたが、その時、また稲妻が光り、部屋の中は青紫の光で一瞬照らされた。奇妙なことに、その刹那、書棚が本で満たされているように見えた。
「ああっ！」
雷鳴と共にブロウエルが部屋の扉の方を指さした。そこには闇の中に薄青く光る少女の姿があった。
「父様、私の短刀はどこ？ 大事にしていたのに見つからないの」
亡霊はゆっくりとこちらに近づいてくる。また夜空を電光が走ると、戸棚の上の花瓶にあるはずのない花が見えた。
「父様、あれがないと怖いわ。だって、悪い男が来たら……」
ブロウエルは窓に駆け寄ると掛け金を音を立てて動かしたが、窓は開かないようだった。
「父様……」
もう一度稲光が部屋を照らすと、その光はまるで部屋の中にこびりついたかのように消えなかった。薄紫の光が部屋の中の奇怪な有り様を照らし出した。花瓶には花が生けられ、書棚は本で埋まり、机の上には墨壷や鵞筆、文箱などが置かれていた。小さな円卓にはディコンの瓶と酒杯もある。長椅子の背もたれには脱ぎ捨てられた長衣が掛かっていた。
突然、少女がはっと息を飲むのが聞こえた。雷鳴が轟くと長椅子の上にもう一人の姿が見えた。四十絡みの男が、上半身裸でぐったりとしている。胸には刃でえぐられたような傷があり、そこから鮮血が心臓の鼓動に合わせて噴き出している。顎髭を短く刈った男の顔は端正で、どこか少女に似ているように見えた。
「ユリミナ……ユリミナ……」
男は血を吐きながら擦れ声を出した。
「父様……」
娘の声は低く、感情というものが欠落しているかのように聞こえた。
「これは、これはどうなっているんだ！」
ブロウエルが引きつった声で叫ぶ。
「亡霊は自身の記憶を再現することがあると聞いたことがある。これはかつてこの屋敷で起こったことなのかもしれない」
「それじゃあ、あの娘が父親を殺したというのか！」
「さてね。そうなのかい、ユリミナ？ やっと名前で君のことを呼べるね」
ユリミナという名前らしい幽娘は無表情に首を横に振ったが、すぐにまたうなずいて見せた。
「誰が父様を殺したんだ？ 君はそいつをかばっているのか？」
少女の亡霊は私の言葉に一瞬顔を強ばらせたが、すぐに曖昧な笑みを浮かべて、すうっと扉の方に後退った。
「父様は、父様は……」
囁くような声を残して少女の霊は扉の向こうに消えた。途端に部屋の中の青紫の光は消え、手燭の明かりの輪の中には、長椅子の死体は見えなかったし、書棚の本や机の上の文房具も消えていた。
部屋の扉は半ば開いていた。私たちが廊下に出ると、青白い姿が左手の角の方へ消えるのが見えた。私がそちらへ向かおうとすると、ブロウエルが異を唱えた。
「そっちは玄関とは逆ですよ」
「裏にも戸口があったはずだ。出られるなら、そこから出て、家に戻るんだ。僕はもう少しあの娘と付き合ってみる」
「一人で帰るんですか」
ブロウエルが震える声で言った。
「裏口が開いたらの話だ。もう、この家と関わりのある物はもう持っていないだろう。多分、大丈夫だ」
廊下の角を曲がると、右手には裏手の階段があり、左側には裏の戸口があった。ブロウエルはためらいがちに扉の取っ手を回したが、扉は開かなかった。
階段の上から幽かな声が聞こえた。その声は「兄様、兄様」と繰り返しているようだった。
「ティレッス？ ティレッス！」
ブロウエルは手燭を放り投げて、両手で耳を押さえ、頭をふった。彼の耳にはもっと大きな声が聞こえているのかもしれない。
「ブロウエル、君の妹は家で寝ている。あれはティレッスではない！」
私は男の肩をつかんで揺さぶった。
「そうだ、ティレッスは家だ。早く帰らなければ」
ブロウエルは混乱した様子で、裏口と階段に交互に目をやった。彼が手放した手燭から裏口前の敷物に火が移っているのが目に入り、私はそれを踏み消そうとした。
「兄様、兄様！」
階上からは、小さな悲鳴のような声が聞こえた。突然、ブロウエルは私を突き飛ばして階段を駆け上がった。
「くそ！」
私は彼を追って階段を上がった。二階からはユリミナの呼び声が聞こえる。ブロウエルがそれに応えるように「ティレッス！」と妹の名を呼んだ。
二階へ上がると扉が半開きになっている部屋が目に入った。雷鳴が轟き、先刻書斎で見たような青紫の光が戸口で閃いた。ブロウエルに続いて、私もその部屋に飛び込んだ。部屋の中では、紫の光の波が壁を這うように上下していた。
日暮れ前に案内された時には、部屋は寝台と書き物机、椅子が幾つか、小振りの箪笥、背の高い花瓶ぐらいしかなく、がらんとしていたが、今は違っていた。部屋の隅には螺鈿と銀の細工の為された提琴と六弦琴が置かれ、細長い花瓶には大輪の花が飾られていた。作り付けの棚には書物や紙の束、棚の上の壁には卵形の額縁に入った肖像画が掛かっていた。ユリミナらしき少女と、少し年上らしいよく似た顔立ちの少年が寄り添って描かれていた。
書き物机の回りには書きかけの楽譜が散乱していた。机の側の椅子は倒れており、その脇に肖像画の少年と思しき若者が仰向けに倒れていた。薄手の襞の多い襯衣の胸が切り裂かれ、朱に染まっている。ユリミナに似た整った面立ちだが、黒い瞳はうつろに見開かれたままだった。右手にはまだ鵞筆が握られていた。
傍らにユリミナの亡霊がたたずんでいた。悲しげな顔というわけでもなく、道端の石塊でも見下ろしているようだった。
「ティレッス……」
ブロウエルは惨劇の光景に身を固くして、突っ立っていた。
「兄様は死んだの」
少女がつぶやくように言った。提琴と六弦琴が勝手に鳴り出した。哀感のある美しい旋律を奏でたが、時折音が外れ、弦が緩んでいるのか啜り泣きのような音が混じって、不快な響きを発した。
「先生が殺したのね、私の短刀で」
先生と言うとき、ユリミナは一瞬ブロウエルの方に視線を送った。
「先生が……」
亡霊はそこで言葉を区切り、酷薄そうな笑みを浮かべて、うなずいた。弦が切れる音が聞こえて、楽の音はますます不気味なものになった。
ブロウエルは、背を丸めてふらふらと歩き、壁際に寄ると、三イート（約九十センチ）はある細長い花瓶を手に取った。花瓶と言っても陶磁器ではなく、青銅製で緑青がふいている。生けてあるように見えた花は煙のように消えた。依頼人はそれを振り回して私の頭を打ち砕こうとした。
私は剣で花瓶を打ち払ったが、向こうの方が重く、力も込められていたので、手が痺れて剣を取り落としそうになった。古の魔剣でも銅の花瓶は切れなかった。ブロウエルは目が据わり、口元を歪ませ、唸り声をあげて、花瓶を私の腹に打ちつけようとした。
私は危うくそれをよけ、柄頭で男の首を打とうとしたが、わずかに届かなかった。代わりに花瓶でしたたか腰を打たれた。私は体勢を崩して、膝をつきそうになった。
花瓶が頭上に降ってくる。私は床の上を転がって逃れた。重い花瓶を振り上げる前に、私はブロウエルの足首を蹴飛ばした。男がよろけたので、私は腰の痛みに堪えながら、もう一度奴の足を蹴った。
ぐらりと男の体が揺れ、前のめりに倒れた。私は立ち上がり、花瓶の首を握っている手を踏みつけた。ブロウエルは短い悲鳴を上げて、花瓶を手放した。
私は馬乗りになり、剣を男の首に突きつけた。刀身のファバーン文字が緑色に揺らめき、男は体をひくひくと震わせ、口から舌を突き出して泡を噴いた。それから「ティレッス……」と妹の名を呼んで、ぐったりとなった。
振り向くと、少女の幽霊は不満げに唇を突き出して、床の上にのびている男を見ていた。
「君の先生はどうだか知らないが、こっちの先生はあんまり荒事には向いてないんだ。こき使っちゃいけないね」
私は薄紫の光を発している部屋の中で、大きく剣を振り回した。緑色の光が紫の光とぶつかって、かすかな火の粉が爆ぜるような音とともに、あたりを覆っていた幻影が消えていく。うつろな目でこちらを見上げている少年の姿を剣先で払うと、それは紫煙のように消え失せた。
私は刃を少女の方に向けた。
「これでもう一度君を斬れば、今度こそ君も消えてなくなるのか。昇天するのか地獄に落ちるのかは知らないが」
ユリミナは怯えるわけでもなく、つまらなそうな顔をして、手を後ろで組み、つま先で床に円を描いた。
私はファバーン剣を振り下ろした。凄まじい悲鳴があがり、血飛沫が盛大に上がった。ユリミナの姿は肩口から斜めに二つになり、血とはらわたをまき散らしながら頽れた。
血溜まりの中で斜めになった少女の顔がこちらを見上げていた。大きな目がぎろりと私を見上げて、血まみれの唇がにやりと笑った。
「君は悪趣味だ」
赤く染まった腕が床の上を這い、私の足首をつかもうとした。私は二つになった少女の体に何度も斬りつけた。ユリミナは半ば悦楽に酔ったような悲鳴とも嬌声ともつかない声を上げて、ばらばらになった。
「やめてくれ、これじゃ僕が殺人鬼だろう」
ユリミナは半分になった顔でごぼごぼと泡立つような音を出した。多分、笑っているのだろう。
ファバーン剣が斬り裂いた少女の骸は薄緑と紫色の泡を吹いて、ぐずぐずに崩れ、汚泥の塊のようなものになった。それから、白濁した泡立つ腐汁になり、床に染み込みように消えていった。これで、危険な娘はあの世かどこかに行ったのだろうか。刀身にはもちろん血などついてはおらず、床の血溜まりも、もう見えない。だが、海に沈んだ国の神秘文字は、まだ青緑の光を放っていた。
私は倒れたままうめいているブロウエルの頬を叩いた。
「おい、起きてくれ。なかなか厄介な娘なんだ。そう簡単には昇天してくれそうもない。今夜はもう退散だ。可愛い妹が待ってるんだろ！」
最後の言葉が効いたのか、ブロウエルは半身を起こして、私の目を見て「ティレッス！」と妹の名を呼んだ。
「そうだ、ティレッスが頼れる兄貴の帰りを待っている。この家から出よう」
ブロウエルはうなずき、私は肩を貸して彼を立ち上がらせた。部屋の扉を開けると、きな臭いにおいと煙が漂ってきた。階段の下の方が朱色に染まっている。消しそびれた火が燃え広がったらしい。手すりから身を乗り出して階下を見ると、炎は床と壁に燃え移っていたが、まだ通り抜けることはできそうだった。
階段を降りようとすると、廊下の右手から閃光が走った。廊下の突き当たりの円窓から雷光が差し込んだのだ。正面近くの部屋の扉が開き、そこから黒い影が現れた。二度三度と光る稲光りを背にしたそれは、明らかに少女の幻とは違って見えた。顔形はよく見えなかったが、輪郭は痩せた男のようだった。黒い影は右手に何かを持っていた。はっきりとはしないが、それは反り身の短刀のように見えた。
「先生、助けて」
どこかでユリミナの声がした。黒い男は短刀を振り上げて、こちらに突進してきた。足音はせず、姿が黒い煙のように揺らめく。
「ユリミナ、ユリミナ……」
影は擦れた声でそうつぶやきながら、幻の短刀を振り下ろした。黒い霞の中で、刃が一瞬白く光る。幻影の刃でも、斬られれば血肉が裂けるのだろうか。
試してみる気はなかった。私はファバーン剣で幻の短刀を受けた。手応えがあったような気がしたが、それは瞬時に消え、短刀は影の右腕ごと、黒い煙となって消えた。
「先生、先生」
また亡霊の声がする。見れば亡霊の背後、開いた扉の影から、青白い姿が顔だけのぞかせていた。
黒い影はまるでその声に励まされたかのように、今度は左手で襲いかかってきた。手には消えたはずの短刀が握られている。
「くそ、幻燈遊びに付き合えるか！」
私は黒い影の左腕を斬り払い、すぐさま、もやもやと蠢く黒い男の頭に魔剣を振り下ろした。青緑の小さな火花を散らし、二つになって崩れようとする黒い影をさらに斬り裂くと、影は形のない黒い靄の渦巻きとなり、奥の扉の方へ吸い込まれた。音を立てて扉が閉じた。そこがユリミナの部屋なのだろうか。踏み込み度胸は私にはなかった。
「今のうちだ！ 逃げろ！」
私たちは階段を駆け降りて、炎を避けながら裏口の前の廊下を玄関に向かおうとした。炎は裏口を中心に燃え上がっており、そこから出ることは不可能だったのだ。
炎を背にして廊下を走り、扉を開けると今度は玄関広間に出た。広間を突っ切り、玄関の扉を開けようとすると、突然、扉は赤熱して燃え上がった。私たちはその勢いに押されて、後退った。幻の炎なのだろうが、熱も臭いも感じる。
背後で小さな笑い声がした。振り返ると階段に青白い朧な裸身があった。ユリミナはもちろんばらばらになどなってはおらず、白い肌にも一点の染みもない。硬質な美顔に薄笑いを浮かべて、ゆっくりと階段を下りてくる。
「先生……」
ユリミナはつぶやいて、ブロウエルの方を見た。黒い瞳を向けられた男は頭を抱えて、うめいた。
「私は君の先生ではない。女の教え子をもったことなんてない！」
ブロウエルは震える声で亡霊に反駁した。
少女はまた一歩階段を下りて、今度は別の言葉を口にした。
「兄様……」
「やめろ！ 私はお前の兄ではない！ お前はティレッスじゃない！」
亡霊の双眸からは、目には見えない黒い光が放たれているかのようだった。ブロウエルは両手で顔を覆い、頭を左右に振ったが、指の間から否応無しに亡霊に視線を向けているような気がした。
私はファバーン剣を構えて、ブロウエルと幽鬼の間に割って入った。視線を遮られたユリミナは眉間にしわを寄せ、私をにらみつけた。私は魔剣で宙を払い、見えない黒い眼光を斬り払った。刀身の神秘文字が青緑に光り、火花が散った。
ユリミナは不意に険しい顔つきを止めて、人形のような無表情に戻り、唇の端に少しだけ笑みを浮かべた。
「父様、邪魔をしないで」
そう彼女が囁いたかと思うと、甘酸っぱい匂いが鼻をくすぐった。白い腕がすっとこちらに延びて私の頬に触れようとする。
私はその腕を剣で払い-腕は煙のように消えた-こちらから一歩踏み込んで、亡霊に斬りつけた。
「君のような悪い娘を持った覚えはないね」
ユリミナは今度は血まみれの見世物を演じるつもりはないようだった。青白い姿が霞のように四散したかと思うと、青紫の稲妻がぱちぱちと広間中で光った。ユリミナの姿態は幻燈の写し絵のように大きくなって壁や天井、階段、床にまで広がった。
奇怪なことに手や足や首、それに裸の胸や腰、股間の秘部までもがばらばらになり、でたらめに広間中に大写しになった。
整った美しい顔は天井いっぱいに広がり、珊瑚色の唇が、半開きになって赤い舌をのぞかせたかと思うときゅっとすぼまって淫靡な音を立てた。階段では真っ白な太股と二の腕、細い指がくねくねと絡みあい、淫らな一人遊びを披露する。四方の壁では脹らみかけの乳房と引き締まった腹部が鼓動に合わせて艶めかしく蠢き、肌理細かな肌が視線を吸い寄せ、床の上では淡い赤紫に色づいた秘唇が滑る光を湛えて、私たちを飲み込もうとしていた。
ばらばらになった少女の体は写された像に留まらず、まるで壁や天井が肌と肉そのものになったかのように、薄紫の燐光を放ちながら膨らみ、うねり、私たちを包み込むように迫ってくる。
ユリミナの裸身で包まれた広間の中にまた別の幻が現れた。書斎で死んでいた父親の姿、二階で死んでいた兄の姿があちらこちらに浮かび上がり、先刻二階に出現した短刀を手にした影のような男に幾度も幾度も刺し殺される有り様が繰り返された。短刀が振り下ろされるたびに二人の男は悲鳴と血飛沫を上げ、ユリミナは「父様」「兄様」と物悲しい声を出してみたり、冷たい笑い声を漏らしたりした。私は思わず腰帯に手をやったが、短刀はまだそこに挟まれていた。
二人の男を刺し殺した影は、同じ動きで何度も殺人を繰り返した後に、こちらを振り向いた。ぼんやりした黒い影が急に輪郭をはっきりさせた。異様に目を見開き狂気の影を宿したその顔は、ブロウエルによく似ていた。
「先生、先生……」
今は奥の壁に現れているユリミナの唇がぬらぬらと動いて、甘く毒を含んだ声でそう囁いた。短刀を持った男はユリミナの声に恍惚とした表情を浮かべたかと思うと、短刀で自分の喉を斬り裂いた。黒い煙のような血が噴き出し、男の体にまとわりつく。
廊下に通じる扉からは、朱色の炎-多分、本物の-が漏れ出していた。その炎は先生と呼ばれた黒い影に燃え移り、男は喉から血をしたたらせ、血にまみれた刃を燃える手に持ち、こちらに迫ってきた。
「何だ、何なんだ！ あれは私か！ 私が殺したのか！」
ブロウエルが松明のように燃えながら近づいてくる男を指さしてわめいた。それから、急に踵を返して、玄関扉の方に駆け出したが、すると今度はそちらの扉から大きく炎が上がり、その中からもブロウエルによく似た黒い影が現れた。その影もまた短刀を振りかざしている。
「幻だ！ たぶらかされるな！」
私は玄関から迫ってくる影に斬りつけた。影は一瞬炎を吹き上げたが、すぐに四方に散って消え失せた。玄関扉の炎も消えている。私は扉を蹴破ろうとした。
「熱い！」
ブロウエルの叫びが響き、私も背中にひどい熱を感じて振り向いた。奥の扉の方から現れた影が赤熱した刃を振りかざして、すぐ目の前に迫っていた。私は熱さを堪えながら、その燃える影を斬った。
奇妙な手応えがあった。人を斬ったものではない、もっと固いものに斬りつけたような手応えだ。影は喉から絞り出したようなおぞましいうめき声をあげながら、燃える手を私の方にのばした。腰帯から本物の短刀を奪おうとしているのだ。
私はその腕に刃を叩き込んだ。固いが脆い手応えがあって、燃える何かが床に落ちた。それは火のついた木片-扉の框か何か-だった。
「くそ！ 火遊びはいい加減にしろ！」
なおも迫ってくる燃える影に二度三度斬りつけると、それはばらばらの燃える木材の断片となって、床に散乱した。
見れば廊下へ通じる扉はすでになく、四角い穴からは炎と煙が噴き出している。炎は玄関広間にも燃え移り始め、亡霊のもたらす紫の光と朱の炎が入り交じり、奇怪な色合いがあたりを満たしていた。
ユリミナの姿は広間の四方八方をでたらめに飛び移り、炎と煙の中にもゆらゆらと揺れ動く。年格好にはそぐわない低い吐息を漏らしたかと思うと、子どもっぽい笑い声を谺させ、また邪悪な響きのある声で「父様、兄様、先生」と繰り返し囁いた。
私は四方からのびてくる腕や足を斬り払い、突き出される乳房や尻を斬り裂き、我々を飲み込むように開いて迫る女陰に剣先を突き刺した。その度に嬌笑や艶めかしい吐息、悲鳴や泣き声が広間に響き渡る。古の魔剣を振るえば、亡霊の幻影は火花を散らして消えたが、その都度、幻の少女の肉は朱赤の炎と紫の怪光の中に真紅の血の花を咲かせた。火の粉と煙が舞う中に、幻の血飛沫が吹き上がる。神秘文字の青緑の光と薄紫の小さな電光がそこに更なる色味を加えた。
ある意味、それは美しい空間だった。左岸の〈新しい芸術〉の舞台や絵画を見ているような趣さえあった。奇怪な歪んだ断片として出現しても、ユリミナは美しかった。陶器の人形のような硬質な美貌は、死に誘う邪霊となっても、損なわれることはない。生前の彼女の姿を見たことはないが、むしろ、亡霊となった今こそ、その美形が際立っているのかもしれない。
不意に私は自分の一物が固くなるのを感じた。ユリミナをこの腕にかき抱きたいという欲望が臍の下から湧き上がってきた。ブロウエルと目が合うと、依頼人はぎらついた目で私をにらんだ。私も同じ顔つきをしているのかもしれない。
ブロウエルは私の腰帯から短刀を奪い取ろうと飛びかかってきた。私は彼を斬り捨てようという気持ちをかろうじて抑え、柄頭で殴りつけた。男は鼻血を出したが、なおも襲いかかってくる。
ブロウエルと格闘しながらも、ユリミナの声は四方から聞こえてくる。「先生、兄様、父様」と繰り返し囁き、くすくすと笑い、妖しくうめく。奥の壁は一面炎に包まれ、そこにユリミナの姿が大写しになる。三つの黒い男の影が浮かび上がり、彼らは焔の中でも青白く見える少女の姿にすがりつき、抱きすくめようとし、滑稽に踊る。その前で私たちは熱と煙でふらふらになりながら、揉み合った。じきにブロウエルも私も影たちの仲間になるのだろうか。
燃える壁板が爆ぜる音に驚いた隙に、私は剣を持ち替えて依頼人を峰打ちにした。どこか骨が折れたかもしれないが、勘弁してもらおう。残っている正気を振り絞り、倒れたブロウエルを引きずって、玄関の扉を目指した。広間の奥の方で大きな音がして、梁が焼け落ちた。階段にも火が回っている。
炎と煙の中、ユリミナの幻影は私たちを嘲笑しながら、飛び回る。細い腕が後ろから首に絡まり、まるで生身の少女を背負ったかのような重さを感じた。亡霊は私のうなじに舌を這い回らせる。滑る舌先の感触に、ブロウエルを放り出して、その愛撫に身を任せたくなる。「父様、兄様、先生」と囁くユリミナの声が舌先といっしょに耳の中には入り込んでくるようだ。
「幻だ！ 君は死んでいる。死んでいるんだ！」
私が叫ぶと、甘美な舌先はすぐに火のような熱さを発し、目の前では絡んだ指が燃え出した。
ブロウエルを引きずっているので、ファバーン剣を振り回すこともできず、私はひたすら玄関の扉を目指した。扉もまた炎に包まれていたが、まだ紫色の光が明滅していて、背後で燃え盛る炎とは様子が違って見える。これは幻だと私は自分に言い聞かせ、いったんブロウエルを床に下ろすと、ファバーン剣を振り上げて、燃える扉に斬りつけた。燃える少女の指が刀身をつかもうとしたが、神秘文字の光に触れると、白煙となって消え失せた。
剣を叩きつけると、扉は一瞬紅蓮の炎を吹き上げたが、すぐに紫の電光が激しく明滅して、炎は消えた。扉は二つに裂けて、框から吹き飛んだ。
四角い黒い夜の中に一人の若い女が立っていた。栗色の長い髪を振り乱し、蒼白な顔を引きつらせ、両の手を強ばらせている。雨に濡れ、白い寝間着の裾は泥で汚れていた。彼女は裸足だった。
女は一瞬私の顔を見つめたが、すぐに足下に倒れているブロウエルに目をやった。
「兄さん！」
女は燃える炎も渦巻く煙も執拗な亡霊も目に入らない様子で、うずくまる男に飛びついて、わめきながら肩を揺すった。
「兄さん、兄さん！ ああ、しっかりして！ 兄さん！」
ブロウエルは頭を上げて「ティレッス」と弱々しく妹の名を呼んだ。
「どうしてここに……」
「兄さんがいないことに気づいて、なぜだかわからないけど、きっとここだと思ったの。だから、私……」
「とにかく、扉は開いた。ここから出るんだ！」
私はブロウエルに肩を貸し、ティレッスといっしょに玄関から外に押し出そうとした。その時、白い手が目の前にのびて、ティレッスの濡れた乱れ髪につかみかかった。振り返ると炎の中から恐ろしい形相をしたユリミナがこちらに迫っていた。
落ち窪んだ眼窩の底では黒い炎が燃え、裂けた口からは真っ赤な舌がのびて蛇のようにくねっている。青白い肌はあちこちが腐乱して破れていた。
「逃げろ！」
私はブロウエルを妹に預けて、亡霊の腕に斬りつけた。緑と紫の火花が飛び散り、腕はちぎれて二つになる。
「思い出せ！ 君はもう死んでいるんだ！ あの男は君の兄さんでも父さんでも先生でもない！」
端正な少女の顔が一瞬戻り、亡霊は怪訝な顔をして私を見た。黒い瞳の中に不安げな子どもの表情が宿っているような気がした。私はその顔に古の魔剣を叩き込んだ。陶器の人形のようにユリミナの首から上は砕け散った。小さな笑い声と悲鳴が無数に聞こえる。
「これは君のものだろう。返すよ」
私は腰帯から短刀を引き抜くと、なおもこちらに腕をのばそうしているユリミナの胸乳にそれを突き刺した。薄紫に光る亀裂が縦横に走り、亡霊の体はばらばらになったかと思うと、幾千もの光の粒となって消えた。最後に誰かの名を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、何と言ったのかはわからなかった。
ブロウエルとティレッスはまだ戸口にいた。兄は妹に支えられ背中を向けていたが、妹は玄関の扉に手をかけたまま、こちらに顔を向けていた。鳶色の目を見開き、口を開けて惚けたような顔でこちらを見つめていた。
「逃げろ！ 外へ出るんだ！」
私の声にティレッスは目が覚めたようで、恐怖と混乱が表情に戻り、兄の腕をとって戸口を潜った。
玄関広間は半ば炎に包まれ、熱と煙が押し寄せてくる。それは幻影ではなく、本当の熱さと光を持った炎だった。私は身を翻して、屋敷の外へ飛び出した。振り向くと、二階の二つの円窓が炎で朱に光っていた。一瞬、屋敷が恐ろしい眼光を放つ少女の顔のように見えた。どこかで火消し隊の鳴らす鐘の音が聞こえた。
男はブロウエルと名乗った。年の頃は三十前後、縮れ気味の黒い髪に浅黒い肌のやせ形の男で、まずまずの男前だが、鼻はいささか大きすぎて、顎は尖りすぎかもしれない。黒い目が落ち着かなげに、あたりを見回していた。気が弱そうに見えるのは、眉の両端が下がり気味だからだろうか。
ブロウエルはシュヌベル大学を卒業はしたものの、官吏の試験に三度落ちて、今は大学に入ろうとする若者の家庭教師をして糊口をしのいでいると言った。
「冴えない暮らし向きだったのですが、三月ほど前に思わぬ遺産が手に入ったのです。遠縁にあたる港で商いをしている人が亡くなり、私のところにも遺産が転がり込んできたのです」
彼の話によると、遺産というのはストーグ街にあるマイアーク家の屋敷と家財道具一式、それにまとまった額のダズン金貨だった。ブロウエルは屋敷に手を入れ、人に貸して収入を得ようと考えた。
「古い屋敷で、百年以上前に建てられたものらしいのです。長い間、誰も住んでいなかったのですが、持ち主の親戚が手を入れていたのか、さほど傷みもなかったのです。それで、間借り人を入れてみたのですが、どうにもこれがうまくいかないのです」
ブロウエルは癖のある髪を手でかきまわした。
「ああ、つまり、その屋敷に何か出るということですね」
「さすが、お察しがいい」
男はうなずいて、弱々しい苦笑いを浮かべた。
「だいたい、この探偵局へ来る方はそういう用件ですからね。念のために言っておきますが、僕は巷で言われているような魔道探偵などというものではありませんよ。その手の事件に遭遇することが多いのは事実ですが、依頼主に都合よく解決するとは限らない。それをご承知なら、お話を伺いましょう」
ブロウエルは、いささか気勢をそがれたようだったが、話をやめはしなかった。
彼の話によると、マイアーク家の古屋敷に出る幽霊というのは、きわめて古典的なものだった。曰く、夜中に誰もいないはずの廊下から足音が聞こえる、曰く、空き部屋からひそひそ声が聞こえる、曰く、寝床に入っていると、何かがのしかかってくるような気がする云々。これまで三人の間借り人が、そうした怪異に出会い、早々に屋敷を退散したと彼は言った。
出ていった者たちは、いずれもシュヌベル大学に入学することを目指して、近隣の街や村からやってきた若い男で、みな心身共に健康な者たちだったという。ブロウエルは、彼らに古典や史学など教えてもいたのだが、皆、ひと月もしないうちに出ていってしまったので、商売にならず困っていると言った。
「あなたはその屋敷にお住まいではないのですか」
ブロウエルは首を横に振った。彼はダスナタ街の小さな家に妹といっしょに暮らしていると言った。両親はすでになく、体の弱い妹を彼が養っているのだという。
「本当はマイアークの屋敷に妹といっしょに引っ越そうかと思っていたのです。今の家もだいぶがたが来ていますからね。ところが、一度妹を連れて行くと、どうしてもこの屋敷に住むのはいやだと言い張るのです。何がいやなのだと聞いてみても、はっきりとした答えはなく、とにかく、この屋敷はいやだの一点張りです。妹はいろいろなことを気に病む質なもので、それでまた具体が悪くなっても困りますので強いことは言えず、幸い、今の家から屋敷まではごく近いので屋敷には家から通うようにしました。本当はそれも妹はいやがったのですが、暮らしのこともあるので、私が仕事で通うことは渋々承知したのです」
「それでブロウエルさん、あなたはマイアークの屋敷で怪異の気配を感じたことはないのですか」
男は私の質問に少し言い淀むような気配を見せたが、自分が感じたものについて話し始めた。妹が心配するといけないので、泊まりはしなかったが、間借り人からの訴えに応じて、幾度か夜遅くまで留まっていたことはあるのだという。
「私は妹とは違って、極めて実際的な人間です。目に見えない何かの気配など、これまで感じたことは一度もありませんでした」
そこで一度ブロウエルは言葉を切って、自分を納得させるように小さくうなずいた。
「つまり、何かを見たのですね」
「いいえ、はっきりと何かを目にしたわけではありません。間借り人からの訴えで、彼の部屋で夜更けまでチャスガを指していたのですが、その時、音、いや、声が聞こえたのです。小さな音で、最初は虫の羽音かと思いましたが、誰かの名前を呼んでいる囁き声のようにも聞こえたのです」
私はその声は何と言っていたのかと尋ねたが、彼ははっきり聞き取ることはできなかったと答えた。間借り人の方はといえば、ブロウエルが声を聞いたと思った次の瞬間に、チャスガの盤をひっくり返して立ち上がり、廊下への扉を開けて「誰だ！」と叫んだ。彼は囁き声ではなく、足音を聞いたと主張したが、廊下には誰の姿もなかったのだという。
「その後、まだしばらく私は屋敷に留まりましたが、何も起こりませんでした。間借り人は朝までいてくれと言いましたが、私は妹が待っているからと言い、家に戻ったのです。翌日、屋敷に行ってみると、間借り人は置き手紙を残して去った後でした。手紙には乱れた文字で、寝床に何かが入ってきた、とありました」
逃げた間借り人が幽霊話を広めたのか、以来借り手は現れなかった。弱ったブロウエルは人伝てに聞いた噂を頼りに、ここを訪れたと語った。
「あなたはその一件の後、屋敷を調べたりはしているのですか」
私の質問にブロウエルは眉根を寄せて困った顔をした。
「明るい時間に調べようとは思ったのですが、妹にもう絶対あの屋敷には行かないでほしいと泣きつかれて、おまけに彼女は熱を出して寝込んでしまったので、そのままになっているのです。幸い、少し具合も良くなってきたので、今日はこちらにお願いに来ました」
相続に際しても特段の話は聞いておらず、屋敷の怪異の原因について思い当たることは何もないと彼は言った。
「ブロウエルさん、僕なりに努力はしますが、うまく解決できるとは限りません。それをご承知なら引き受けましょう。料金は一日四十ダズン、必要な掛かりは別にいただきます」
男はそれでかまわないと言った。
「屋敷の方を調べる前に、妹さんにお会いすることはできますか。どうして、そんなにあなたに屋敷に行って欲しくないのか、話を聞きたいのですが」
ブロウエルの表情が硬くなるのがわかった。
「ティレッスは何も知りません。ただ、些細なことでも気に病んで、不安になってしまう質なのです。それで体の方も具合が悪くなってしまうことがあるくらいです。受け継いだ屋敷に引っ越すという最初の私の提案で、ひどく不安になってしまっただけです。それに、今、あなたを連れて帰れば、それがきっかけになってまた調子が悪くなるかもしれません」
「そうですか。では、やめておきましょう」
男はまだ硬い面持ちでうなずいた。
日が暮れるにはまだ間があったので、私はブロウエルの案内でストーグ街のマイアーク屋敷に向かった。家は表通りから少し入ったところにあり、なかなか瀟洒な造りだった。
駒形切妻屋根の二階建てで、白く塗られた板壁にくすんだ赤い瓦屋根が載っている。玄関の突き出した小屋根の上で、二階の大きな二つの丸窓が両眼のように見えた。
両脇を大きな館に挟まれてはいたが、庭を広く取ってあるので窮屈な感じはしない。表から見るとさほど大きな家には見えないが、入ってみると奥行きがあるので、見かけよりは広い屋敷だった。
家の中に入る時に、ファバーン剣の柄に手を触れると、かすかに痺れるような感覚が伝わってきた。古の英雄から譲り受けた魔剣は、何かの存在を示唆したのかもしれないが、あまり当てにすることはできない。魔力も時と共にすり減るのだ。
屋敷の中を一通り案内された。一階の広間と食堂、客間、寝室、それに書斎、二階の幾つかの寝室、階段下の物置、等々。三人の間借り人の話も再度聞いたが、最初の二人は二階のそれぞれ別の部屋、最後の男は一階の部屋で、奇怪な物音や声、誰かがいる気配を感じたということだった。私は最後の間借り人が逃げ出したという一階の部屋に一晩泊まってみるとブロウエルに告げた。
「あなたにも出来れば泊まってもらえるといいんですがね。いや、日が暮れてしばらくまででも結構。僕も少しはチャスガができますよ。なんなら骨牌でも」
私の言葉に依頼人はそんなことはできないと答えた。
「申し訳ないのですが、そろそろ戻らないとティレッスが心配します。台所には幾らか食べ物が残っています。どうぞ、ご自由に使ってください。私はまた、明日の朝、ここに来ます」
ブロウエルはそう言い残すとそそくさと屋敷を出ていった。私は無人の古い屋敷に一人残された。
もう一度家の中をひと回りしてみた。家具調度は古びてはいるが美しく保たれ、壁の腰板や壁紙もきれいだった。ブロウエルは外壁を塗り替え、壁紙を張り替え、寝具の交換ぐらいまではしたのだろう。厚手の絨毯や窓掛は、百年前のものかどうかは知らないが、古いものをそのまま使っているようだった。
室内は白を基調にして、茶色や青、薔薇色、薄緑など、部屋ごとに異なる色合いで意匠が凝らされており、主と建築家の趣味の良さをうかがわせた。
書棚や引き出しにかつての住人の日記や覚書などが残っていないか漁ってみたが、成果は得られなかった。肖像画の類いも見当たらない。どうやら、出るものを待つしかしようがないらしい。
私は台所にあった薫製の肉と乾酪、瓶詰めの酢漬け野菜、それに乾麺麭を齧り、葡萄酒を少し飲んだ。葡萄酒は随分と古いものらしく、瓶には埃がこびりついていた。どこかに貯蔵庫でもあるのかもしれないが、入り口は見つからなかった。
食べ物はかろうじて飲み込めるといった体のものだったが、酒は美味だった。私は酒瓶と酒杯を持って、今夜の寝床のある部屋に向かった。日はすでに暮れていた。私は片手に酒瓶を、もう片方の手には手燭と酒杯を持って暗い廊下を歩いた。
雨音が聞こえてきた。一日下界を見下ろす虚しさにこらえ切れずに、曇り空は泣き出してしまったのだろう。雨音は随分とはっきり聞こえたが、それに混じって別の音も聞こえてきた。誰かが私の後ろを歩いているようだった。
振り返っても、誰もいなかった。蝋燭の薄黄色の光が暗い廊下に光の輪を作った。
ファバーン剣に触れてみようかと思ったが、両手は酒瓶と手燭と酒杯でふさがっていた。私はそのまま部屋まで歩いた。小さな足音は私の後をついてくるようだった。
部屋に入り、持っていたものを置き、扉に鍵をかけた。魔剣を鞘から引き抜くと、ぼんやりと青緑の神秘文字が刀身に浮かび上がっていた。足音はもう聞こえなかった。窓の外を薄紫の光が走った。少し間を置いて雷鳴が響いた。
「やれやれ」
自分でも気づかないうちに独り言ちていた。部屋は広めの寝室で、寝台は大きな古いもので、天蓋付きだった。この家の主のものだったのだろうか。書き物机の引き出し、棚や箪笥をもう一度確かめたが、怪異の素性を示すようなものは何も見つからなかった。小さな四角い卓子に葡萄酒の瓶と杯を置いた。部屋には大きな燭台もあったので、手燭から明かりを移した。部屋の中は橙色の明かりに照らされて、少しばかりそういう気配が遠のいた気がした。
杯に黒ずんだ葡萄酒を注ぎ、ちびちびと飲んだ。雷は遠いところで鳴っていて、雨もそう激しくはないようだった。空気は湿っていて、幾らか蒸し暑さがあった。
一杯目を飲み干した時、足音が聞こえた。小さなぱたぱたという軽い音だ。子どものようにも思えた。足音は一度止まり、もう一度、今度はゆっくりと忍び足のような感じになり、また止んだ。
私は剣を手にして、そっと扉に手をかけた。刀身にはファバーン文字がぼんやりと緑色に浮かび上がって見える。扉を開けたが、燭台からの明かりに自分の影が揺らいでいるだけで、誰の姿も見えなかった。
燭台を取ってきて、廊下を照らしてみたが、誰もいない。
私は部屋の中に戻り、もう一杯酒を注いだ。一口すすろうとすると、また足音が聞こえた。さっきよりははっきりとした音だった。無視して酒を口に含むと、今度は声が聞こえた。
「父様、そんなに飲んじゃ……」
女のものらしい少しかすれた声が小さく聞こえた。廊下からではなく部屋の中、卓子の向かいの誰かが囁いたかのようだった。
私はその声も無視して、口の中の酒を喉に流し込んだ。
「やれやれ、誰だか知らないが、君に酒の飲み方を指図される覚えはない。どうせなら、姿を現して相手をして欲しいね」
声は何も答えなかった。その代わりに酒瓶がすべるように動いて卓子の端から落ちそうになった。私は瓶に手をのばし、卓子の真ん中に戻した。
「つまらない悪戯は止せ。いい酒が台無しになる。騒霊なんて子どもじみている」
そう言うと、部屋の扉が急に開き、音を立てて閉じた。遠ざかっていくような足音が聞こえた。なかなか芸の細かい幽霊らしい。それきり足音も囁き声も聞こえては来なかった。私は杯の酒をゆっくりと飲み干して、蝋燭一本を残して明かりを消し、寝床に横たわった。窓の外ではまだ時折稲光が明滅していた。雨は少し強くなったようだ。
しばらく静かにしていると、突然何かの気配を感じた。部屋の中に何かいる、というようなものではない。寝台の上、すぐ隣に何かがいると感じたのだ。敷布が擦れる音か、囁き声か、あるいは柔らかいが冷たい肌触りか、何かが私の体のすぐ脇にいた。
嫌悪と恐怖に駆られて、私は寝床から転がり落ちた。寝台に立て掛けておいたファバーン剣をつかもうとしたが、目に見えない何かが剣を部屋の隅まで跳ね飛ばした。
笑い声が聞こえた。くすくすという女か、あるいは子どものような声だ。先刻とは違って、はっきりと聞こえる。
「君は誰だ？ この屋敷の住人なのか？ 僕はスナブ・ランケン、探偵だ。君の父様じゃない。屋敷を相続した男に頼まれて来た。君のせいで間借り人が逃げ出して彼は困っている。出て行けとまでは言わないけどね、恨みがないなら悪戯は勘弁してくれということだ」
笑い声は止んだが、別の物音がした。寝台の上で白い敷布が蠢いて、擦れる音を立てる。敷布は下に何かがいるかのように-あるいは上から糸で吊られているかのように-奇妙な形で上へと持ち上がっていき、細長い形をとった。まるで人間が敷布を体に巻き付けているかのように。
私はそれが形を取りつつある間に、部屋の隅の剣の方ににじり寄った。蠢く敷布から目を離さず、剣を拾い上げようとしたが、指が届くかと思った刹那、剣は部屋の反対側にとばされた。また、くすくすという笑い声が聞こえた。
「参ったよ、降参だ。じらさずに出てきてくれ」
私の言葉とは-多分-関係なく、寝台の上のものは人間の姿を現しつつあった。白い敷布は裾の短い寝巻きのような形になっていた。少し胸が突き出した少女の体の輪郭が見えてきた。細い肩の上に青白い顔がぼんやりと浮かび上がった。敷布の裾からはすんなりとした足がのびている。
多分、瞳は黒いのだろう。まだ形は揺らいでいたが、意志の強そうな目が寝台の上から私を見下ろしていた。髪もどうやら黒く、うなじのあたりで切り揃えてあるらしい。小振りの鼻と引き締まった口元が硬質な印象を与えるが、整った面立ちの娘だった。
「これは別嬪さんだね。一緒に一杯やるかね。子どもでも葡萄酒ぐらいはいいだろう」
幽霊は少し口を尖らせて、黒い瞳で私をにらんだ。子どもだと言ったのが気に障ったのかもしれない。
突然、敷布が形を失って寝台の上に崩れて落ちた。娘の姿が消えたかと思うと、柔らかいものが首に巻き付いた。白く細い腕が目の前に見えた。指先が首筋やうなじを這い回った。温もりはないが、氷のように冷たいというわけでもない。
耳のすぐ側でくすくすという笑い声が聞こえる。湿った唇が耳に触れ、固い小さな歯が耳たぶを甘噛みした。
私は娘の腕を振り払おうとしたが、確かに肌に触れていたはずのそれは、つかもうとすると途端に煙のように実体のないものとなり、消えた。
部屋の隅のファバーン剣の方に走ろうとすると、敷布が寝台から飛んできて私の前に広がった。私は白い布を引っつかんで放り投げようとしたが、つかんだ布の中には柔らかい何かがあった。敷布がくるくると体に絡みつき、私は布の中のものと一緒に包まれて身動きできなくなった。
目の前に青白い少女の顔があった。少しだけ輪郭がぼやけ揺れているが、長い睫毛の数まで数えられそうだ。娘は半ばまぶたを閉じ、接吻をせがむかのように、薄紅色の小さな唇を突き出した。
甘酸っぱい蠱惑的な香りを感じたのは彼女の作り出した幻覚なのだろうか。私の体に押しつけられた小さな二つの膨らみにぼんやりとした熱と幽かな鼓動すら感じた気がしたのも、幽鬼の為せる技だろうか。
どこからか細い腕が私の首に巻き付き、胸のあたりにある娘の唇に私の顔を引き寄せようとした。滑らかな肌の腕と指先はまるで蛇か触腕のように首筋を愛撫し、体から力を奪っていく。敷布の中でもがいても、振りほどくことはできず、私にできる唯一の動きは、次第に色を濃くしていく幽娘の唇に接吻することのみのように思われた。
突然、大きな音がして部屋の扉が開いた。闖入者は何かにつまずいたようで、蹴飛ばされた何かが卓子か椅子に当たって音を立てた。足下に緑色の光が見えた。
闖入者が何かわめいた。男の声でどうやら「……から離れろ！ 何をする！」と怒鳴っている。
扉から飛び込んできた男が私に体当たりを食らわした。体を縛っていた力が急に緩んだ。敷布がただの布になり、床に落ちた。生々しささえ感じられた少女の姿は消えて、幽かな笑い声が耳の奥に谺した。
私は不意を突かれて、床に転がったが、その先に薄緑に光る剣が転がっていた。剣を拾って立ち上がったが、脇腹に痛みを感じた。触れてみると服が裂け、幾らか血が滲んでいた。
目の前の男は血のついた短刀を手にしたブロウエルだった。依頼人は癖のある髪から雨粒を滴らせ、震える手で刃を持ち、荒い息を吐いていた。
「ティレッスから離れろ！」
ブロウエルが叫んだ。私と彼の間には白い敷布が小さな山を作っているだけだった。部屋に飛び込んできた時には、彼は違う名前を口にしたような気がしたが、聞き違いかもしれない。
「ここには妹さんはいない。そこにあるのは幽鬼が我々をたぶらかすのに使った敷布だけだ」
私はつま先で布をつついた。
「ティレッス！」
ブロウエルの目には妹がそこに倒れているように見えるのだろうか。彼は白い布を抱き上げるように持ち上げて、傍らにそっと置くと、短刀を手に突っ込んできた。
「目を覚ませ、ブロウエル！ ティレッスは家だろう！」
男はそのまま刃を突き出してきたので、私は切っ先をかわすと、剣の柄で彼の右手を打った。短刀は取り落としたが、なおもつかみかかってきたので、仕方なく腹に拳を突き入れると、うめいて倒れた。
ファバーン剣の神秘文字はさっきよりはずいぶん光を薄れさせていた。幽霊はいったん退散したのだろうか。
私は短刀を拾い上げた。半イート（約十五センチ）ほどの反りの強い刃がついており、柄には彫金細工、女性が護身用に持つもののようだった。ものは良いがかなり古びた意匠に見えた。
ブロウエルはすぐに気がついて、腹を押さえながら起き上がった。すぐには自分がどこにいるのか、わからないようだった。私は彼を椅子に座らせ、酒杯に葡萄酒を注いだ。
「飲んだらどうだ。妹さんはここにはいない。いるのは、あなたの商売を邪魔する亡霊だけだ」
男は改めて部屋の中を見渡し、床の上の敷布に目をやるとぞっとしたように肩をそびやかした。
「私はどうしたのでしょうか」
ブロウエルは葡萄酒の杯に手をのばして一口飲んだ。
「聞きたいのは僕の方だね。あなたはこの部屋に飛び込んできて、僕をこの短刀で刺そうとした。おかげで妖しい幽娘の呪縛から逃れることができたから、むしろ礼を言うべきかもしれないが、刺されて死んでいたらそれもできなかった。あなたは妹さんの待つ家に帰ったんじゃないんですか」
ブロウエルは杯を手にうなずいた。
「そうだ。私は家に帰ったのです。ティレッスと夕食を食べて、妹が床に入ったので、私は少し仕事の準備をしていたのです。明日はパルーレ街の方の生徒に帝国前史を教えなければならないので。すると、雨音に混じって声が聞こえたのです。『助けて』という声です」
「それは誰の声だったかわかるますか」
私の問いに依頼人は首をひねりながら答えた。
「それが、ティレッスの、妹の声のような気がしたのです。奇妙な話ですが、それで私はこの屋敷にティレッスを助けにいかなければ、と強く思いました。彼女はすぐ隣の部屋で眠っているはずなのにです。ああ、おかしなことを思い出しました。私は家を出る前に、ティレッスが床に着いていることを確かめたのです。そして、妹を助けるために、雨の中をここへ走ってきたのです」
ブロウエルの話によると、雨の街を駆けている時も、妹のものと思われる助けを呼ぶ声が何度も聞こえたのだという。
「『助けて』という声が頭の中に響くように聞こえるのです。それで、私は矢も盾もたまらない気持ちになって、その妹を苦しめている奴をどうにかしてやらなければ、そう、そいつを殺さなければと思って……」
妹思いの兄は私が手でもてあそんでいた短刀を見て、頭をぶるっと振った。
「これはあなたの家にあったものですか」
「そうですが、元はこの屋敷のものです。以前、屋敷の掃除をしている時に見つけたのです。値打ちものに見えたので、何かの足しになるだろうと持ち帰ったのです」
「ふむ、なるほどね。この小さな刀があったので、屋敷の幽霊はあなたの家まで出張ることができたのかもしれない。どうも僕は歓迎されていないみたいなんでね、あなたを使って僕を退治しようとしたんでしょうね」
ブロウエルは小声で「恐ろしいことだ」とつぶやき、不安げな面持ちになった。それから、不意に手にしていた酒杯を卓子に置き、古い酒瓶を見つめた。
「この葡萄酒はあなたが持ってきたのですか」
私が台所で見つけたものだと答えると、彼は眉根にしわを寄せて、首を横に振った。
「葡萄酒なんてないはずです。私は間借り人にも酒を持ち込まないように言っていました。酔って騒ぎを起こされても困りますからね。貯蔵庫だって、この屋敷にはないはずです」
「ふむ、亡霊に一杯盛られたというところか」
ブロウエルはひどくせき込んだが、胃の中の葡萄酒は出ては来なかった。
「妹が心配です。早く帰らなければ。この屋敷の何かは妹に悪さをしないでしょうか」
「他にこの屋敷から持ち帰ったものはありますか」
依頼人は短刀だけだと答えた。
「そうですか。ならば大丈夫かもしれません。早く帰りたい気持ちはわかりますが……」
私が言いかけた時にはブロウエルはもう立ち上がって部屋の扉に向かっていた。
「帰らなければ……ティレッスが……」
彼は扉の取っ手をつかんだが、扉は開かなかった。
「何だ、これは！ あなたが鍵をかけたのですか！」
男は焦った様子で扉に肩を押しつけ、力づくで開けようとしたが、扉は動かなかった。
「僕は鍵などかけていません。彼女があなたを帰したくないのかもしれません」
「彼女？ 彼女っていうのは……」
ブロウエルは半ば錯乱したように扉の取っ手をがちゃがちゃと動かし、何とか部屋の外に出ようとした。
「先生、私よ」
密やかな声がどこからか聞こえた。私には耳元で囁いているように聞こえたが、おそらくはブロウエルの耳にもそんな風に聞こえたに違いない。
私が座っている卓子とブロウエルが張り付いている扉の間に、青白い靄のようなものが渦巻いていた。それはぼんやりとした光を放ち、幾つもの渦になってぐるぐると回って、次第に形を取った。
ほっそりとした少女の像がそこに現れた。今度は敷布はまとっておらず、細い裸身を露にしていた。うなじで揃えた髪、意志の強そうな黒い目と閉じられた小さな唇、まだ固そうな-だが触れれば柔らかい-肢体。
少女の霊は私の方を見ていた。だが、ブロウエルも大きく目を見開いて、彼女の顔を見つめている。亡霊の姿はどちらから見ても自分の方を見つめている双面なのかもしれない。
私は短刀を腰帯に挟み、ファバーン剣を握った。短刀を帯びると魔剣はまるで嫌がるかのように、ごく短い傷みを掌に送ってきた。刀身の古の文字はくっきりと青緑の光を放っていた。
「それ、私の」
青白い娘がそう言ったかと思うと、もう細い手が私の懐にのびて、短刀を引き抜いていた。
「父様がくれたの」
娘は短刀を手にして、ひどく邪悪そうな笑いを浮かべて、私に斬りかかってきた。私は胸元を切り裂かれそうになり、危うく飛び退った。幽鬼は刃を手にしてさらに私に迫ろうとしたが、私はその背後に奇妙なものを見た。
もう一人の彼女が扉の前でブロウエルにしなだれかかっていた。そちらの娘は先刻私に見せたような仕草で男の首に腕を回し、接吻をせがむように顔を上に向けていた。ブロウエルは引きつった表情で目を見開き、身を強ばらせている。
「兄様、怖いわ」
「ティレッス？ どうしてここに？」
男が妹の名を呼ぶのが聞こえた。
「ブロウエル、たぶらかされるな！ それは君の妹じゃない！」
私の前の亡霊は、美しい顔に歪な笑みを浮かべて、短刀を振り回す。
「父様がくれたのよ。これで悪い男から身を守りなさいって」
異様な低い笑い声をもらしながら、娘は短刀を突き入れてきた。短刀を持った右腕が異様にのびて懐に迫る。
「悪い娘からも身を守らなきゃね」
私はファバーン剣でその腕に斬りつけた。小さな弾けるような音と青緑の火花が散った。手応えはなかったが腕は二つになり、短刀を握っていた肘から先は青白い煙となって消えた。短刀が音を立てて床に落ちる。私は急いでそれを拾い、腰帯にもう一度しっかりと挟んだ。
幽鬼は少し驚いた顔をして後退った。その間にも背後では、もう一人がブロウエルをたらし込もうとしている。私は青白い顔の娘を袈裟懸けに斬った。
火花が散り、幽女の顔は斜めに真っ二つになった。凄まじい悲鳴が上がり、鮮血が激しく飛び散ったかに見えたが、ブロウエルは気づく様子もなく、血飛沫が降りかかっても、血腥い臭いも濡れた感触もなかった。
娘の顔は二つになったまま、凄みのある笑いを浮かべて、扉の前で男を口説いている方に吸い込まれた。一瞬、彼女の腕が四本になり、ブロウエルの首を押さえ込み、肩をかき抱いて強引に接吻しようとした。
私は依頼人に切っ先が当たるのも覚悟で、亡霊に後ろから斬りつけた。ブロウエルが短い悲鳴を上げて、扉に背中を打ちつける。いや、亡霊の悲鳴だったのだろうか。青緑の小さな電光が走り、肩口から幻影の血を噴き出し、少女の姿は青く光る霞となって四散した。
「大丈夫か！」
ブロウエルは扉に張り付いて、額に脂汗を滲ませていた。上衣の胸のあたりが裂けて、のぞいた肌から血が滲んでいたが、切っ先は肉までは届かなかったようだ。
「あれは何だ？ ティレッスがすぐ目の前にいるように見えて、でも、違う娘で、ああ、僕を兄様と呼んで……」
男は見開いた目をきょときょとと動かし、部屋の中を見回した。肩が大きく上下して荒い息を吐いた。
「落ち着いて。あれはあなたの妹なんかじゃない。この屋敷に取り憑いている亡霊か何か、その手のものです。どうやら、あなたにご執心のようですが、何か心覚えはありますか」
ブロウエルは首を左右に振って、憤慨した様子で答えた。
「冗談じゃない、化け物に憑かれる理由なんてありませんよ。この屋敷を手に入れて、ようやく少し運が向いていきたかと思ったのに、何てことだ！」
「ああ、そうでしょうね。あなたに罪があるわけじゃない。でも、向こうには何か勝手なわけがあるのかもしれません。この剣で斬ったので、少しは痛手を与えたかもしれませんが、何せ向こうはもう死んでるんでね。今のうちにさっさと退散するのが得策ですね」
私は扉の取っ手に手をかけた。彼女の力が弱まっているのか、扉は開いた。ブロウエルに手燭を持たせ、私たちは廊下に出た。
「あれを退治することはできないのですか。あなたの持っているのは魔剣なんでしょう」
ブロウエルは暗い廊下で声を潜めて、言った。
「なかなか難しいですね。彼女が生前抱えていた恨み辛みか、あるいはこの世への未練か、そういうものを解消できればいいんでしょうが、そううまくはいかない。この屋敷は売ってしまうか、取り壊すかするのをお勧めしますね。ああ、この剣は中古なもんでね、あまり、当てにはなりません」
依頼人はいささか不満そうな声を出した。
「あなたの評判を聞いて依頼したのに、幽霊退治はできないって言うんですか」
「だから最初にお断りしたはずです。依頼人に都合よい解決を約束はできないと。生きていたって、人間なんて面倒極まりないものでしょう。死んでも出てくるんだから、なおさらですよ」
ブロウエルは喉の奥で不満げに唸るような音を出した。
私たちは廊下を玄関に向かって進んだはずだったが、扉を開けるとそこは一階の奥にあるはずの書斎だった。作り付けの書棚を背にして大振りの机が置かれている。おそらくは蔵書で一杯だったであろう書棚は空だった。主がいなくなってから、売り払われてしまったのだろう。
「やれやれ、お嬢さんはまだ遊び足りないと見える」
「この屋敷からは出られないんですか」
ブロウエルは窓に寄って掛け幕を開け、窓の掛け金を外そうとした。
「ここから出れば逃げ出せるんじゃ……」
窓の外で稲光が走り、弾かれたように依頼人は飛び退いた。こちらを振り向いて部屋の中を見回す。
「今、窓に何かが映って、いや、外にいたんだろうか」
私は窓の掛け金を確かめようとしたが、その時、また稲妻が光り、部屋の中は青紫の光で一瞬照らされた。奇妙なことに、その刹那、書棚が本で満たされているように見えた。
「ああっ！」
雷鳴と共にブロウエルが部屋の扉の方を指さした。そこには闇の中に薄青く光る少女の姿があった。
「父様、私の短刀はどこ？ 大事にしていたのに見つからないの」
亡霊はゆっくりとこちらに近づいてくる。また夜空を電光が走ると、戸棚の上の花瓶にあるはずのない花が見えた。
「父様、あれがないと怖いわ。だって、悪い男が来たら……」
ブロウエルは窓に駆け寄ると掛け金を音を立てて動かしたが、窓は開かないようだった。
「父様……」
もう一度稲光が部屋を照らすと、その光はまるで部屋の中にこびりついたかのように消えなかった。薄紫の光が部屋の中の奇怪な有り様を照らし出した。花瓶には花が生けられ、書棚は本で埋まり、机の上には墨壷や鵞筆、文箱などが置かれていた。小さな円卓にはディコンの瓶と酒杯もある。長椅子の背もたれには脱ぎ捨てられた長衣が掛かっていた。
突然、少女がはっと息を飲むのが聞こえた。雷鳴が轟くと長椅子の上にもう一人の姿が見えた。四十絡みの男が、上半身裸でぐったりとしている。胸には刃でえぐられたような傷があり、そこから鮮血が心臓の鼓動に合わせて噴き出している。顎髭を短く刈った男の顔は端正で、どこか少女に似ているように見えた。
「ユリミナ……ユリミナ……」
男は血を吐きながら擦れ声を出した。
「父様……」
娘の声は低く、感情というものが欠落しているかのように聞こえた。
「これは、これはどうなっているんだ！」
ブロウエルが引きつった声で叫ぶ。
「亡霊は自身の記憶を再現することがあると聞いたことがある。これはかつてこの屋敷で起こったことなのかもしれない」
「それじゃあ、あの娘が父親を殺したというのか！」
「さてね。そうなのかい、ユリミナ？ やっと名前で君のことを呼べるね」
ユリミナという名前らしい幽娘は無表情に首を横に振ったが、すぐにまたうなずいて見せた。
「誰が父様を殺したんだ？ 君はそいつをかばっているのか？」
少女の亡霊は私の言葉に一瞬顔を強ばらせたが、すぐに曖昧な笑みを浮かべて、すうっと扉の方に後退った。
「父様は、父様は……」
囁くような声を残して少女の霊は扉の向こうに消えた。途端に部屋の中の青紫の光は消え、手燭の明かりの輪の中には、長椅子の死体は見えなかったし、書棚の本や机の上の文房具も消えていた。
部屋の扉は半ば開いていた。私たちが廊下に出ると、青白い姿が左手の角の方へ消えるのが見えた。私がそちらへ向かおうとすると、ブロウエルが異を唱えた。
「そっちは玄関とは逆ですよ」
「裏にも戸口があったはずだ。出られるなら、そこから出て、家に戻るんだ。僕はもう少しあの娘と付き合ってみる」
「一人で帰るんですか」
ブロウエルが震える声で言った。
「裏口が開いたらの話だ。もう、この家と関わりのある物はもう持っていないだろう。多分、大丈夫だ」
廊下の角を曲がると、右手には裏手の階段があり、左側には裏の戸口があった。ブロウエルはためらいがちに扉の取っ手を回したが、扉は開かなかった。
階段の上から幽かな声が聞こえた。その声は「兄様、兄様」と繰り返しているようだった。
「ティレッス？ ティレッス！」
ブロウエルは手燭を放り投げて、両手で耳を押さえ、頭をふった。彼の耳にはもっと大きな声が聞こえているのかもしれない。
「ブロウエル、君の妹は家で寝ている。あれはティレッスではない！」
私は男の肩をつかんで揺さぶった。
「そうだ、ティレッスは家だ。早く帰らなければ」
ブロウエルは混乱した様子で、裏口と階段に交互に目をやった。彼が手放した手燭から裏口前の敷物に火が移っているのが目に入り、私はそれを踏み消そうとした。
「兄様、兄様！」
階上からは、小さな悲鳴のような声が聞こえた。突然、ブロウエルは私を突き飛ばして階段を駆け上がった。
「くそ！」
私は彼を追って階段を上がった。二階からはユリミナの呼び声が聞こえる。ブロウエルがそれに応えるように「ティレッス！」と妹の名を呼んだ。
二階へ上がると扉が半開きになっている部屋が目に入った。雷鳴が轟き、先刻書斎で見たような青紫の光が戸口で閃いた。ブロウエルに続いて、私もその部屋に飛び込んだ。部屋の中では、紫の光の波が壁を這うように上下していた。
日暮れ前に案内された時には、部屋は寝台と書き物机、椅子が幾つか、小振りの箪笥、背の高い花瓶ぐらいしかなく、がらんとしていたが、今は違っていた。部屋の隅には螺鈿と銀の細工の為された提琴と六弦琴が置かれ、細長い花瓶には大輪の花が飾られていた。作り付けの棚には書物や紙の束、棚の上の壁には卵形の額縁に入った肖像画が掛かっていた。ユリミナらしき少女と、少し年上らしいよく似た顔立ちの少年が寄り添って描かれていた。
書き物机の回りには書きかけの楽譜が散乱していた。机の側の椅子は倒れており、その脇に肖像画の少年と思しき若者が仰向けに倒れていた。薄手の襞の多い襯衣の胸が切り裂かれ、朱に染まっている。ユリミナに似た整った面立ちだが、黒い瞳はうつろに見開かれたままだった。右手にはまだ鵞筆が握られていた。
傍らにユリミナの亡霊がたたずんでいた。悲しげな顔というわけでもなく、道端の石塊でも見下ろしているようだった。
「ティレッス……」
ブロウエルは惨劇の光景に身を固くして、突っ立っていた。
「兄様は死んだの」
少女がつぶやくように言った。提琴と六弦琴が勝手に鳴り出した。哀感のある美しい旋律を奏でたが、時折音が外れ、弦が緩んでいるのか啜り泣きのような音が混じって、不快な響きを発した。
「先生が殺したのね、私の短刀で」
先生と言うとき、ユリミナは一瞬ブロウエルの方に視線を送った。
「先生が……」
亡霊はそこで言葉を区切り、酷薄そうな笑みを浮かべて、うなずいた。弦が切れる音が聞こえて、楽の音はますます不気味なものになった。
ブロウエルは、背を丸めてふらふらと歩き、壁際に寄ると、三イート（約九十センチ）はある細長い花瓶を手に取った。花瓶と言っても陶磁器ではなく、青銅製で緑青がふいている。生けてあるように見えた花は煙のように消えた。依頼人はそれを振り回して私の頭を打ち砕こうとした。
私は剣で花瓶を打ち払ったが、向こうの方が重く、力も込められていたので、手が痺れて剣を取り落としそうになった。古の魔剣でも銅の花瓶は切れなかった。ブロウエルは目が据わり、口元を歪ませ、唸り声をあげて、花瓶を私の腹に打ちつけようとした。
私は危うくそれをよけ、柄頭で男の首を打とうとしたが、わずかに届かなかった。代わりに花瓶でしたたか腰を打たれた。私は体勢を崩して、膝をつきそうになった。
花瓶が頭上に降ってくる。私は床の上を転がって逃れた。重い花瓶を振り上げる前に、私はブロウエルの足首を蹴飛ばした。男がよろけたので、私は腰の痛みに堪えながら、もう一度奴の足を蹴った。
ぐらりと男の体が揺れ、前のめりに倒れた。私は立ち上がり、花瓶の首を握っている手を踏みつけた。ブロウエルは短い悲鳴を上げて、花瓶を手放した。
私は馬乗りになり、剣を男の首に突きつけた。刀身のファバーン文字が緑色に揺らめき、男は体をひくひくと震わせ、口から舌を突き出して泡を噴いた。それから「ティレッス……」と妹の名を呼んで、ぐったりとなった。
振り向くと、少女の幽霊は不満げに唇を突き出して、床の上にのびている男を見ていた。
「君の先生はどうだか知らないが、こっちの先生はあんまり荒事には向いてないんだ。こき使っちゃいけないね」
私は薄紫の光を発している部屋の中で、大きく剣を振り回した。緑色の光が紫の光とぶつかって、かすかな火の粉が爆ぜるような音とともに、あたりを覆っていた幻影が消えていく。うつろな目でこちらを見上げている少年の姿を剣先で払うと、それは紫煙のように消え失せた。
私は刃を少女の方に向けた。
「これでもう一度君を斬れば、今度こそ君も消えてなくなるのか。昇天するのか地獄に落ちるのかは知らないが」
ユリミナは怯えるわけでもなく、つまらなそうな顔をして、手を後ろで組み、つま先で床に円を描いた。
私はファバーン剣を振り下ろした。凄まじい悲鳴があがり、血飛沫が盛大に上がった。ユリミナの姿は肩口から斜めに二つになり、血とはらわたをまき散らしながら頽れた。
血溜まりの中で斜めになった少女の顔がこちらを見上げていた。大きな目がぎろりと私を見上げて、血まみれの唇がにやりと笑った。
「君は悪趣味だ」
赤く染まった腕が床の上を這い、私の足首をつかもうとした。私は二つになった少女の体に何度も斬りつけた。ユリミナは半ば悦楽に酔ったような悲鳴とも嬌声ともつかない声を上げて、ばらばらになった。
「やめてくれ、これじゃ僕が殺人鬼だろう」
ユリミナは半分になった顔でごぼごぼと泡立つような音を出した。多分、笑っているのだろう。
ファバーン剣が斬り裂いた少女の骸は薄緑と紫色の泡を吹いて、ぐずぐずに崩れ、汚泥の塊のようなものになった。それから、白濁した泡立つ腐汁になり、床に染み込みように消えていった。これで、危険な娘はあの世かどこかに行ったのだろうか。刀身にはもちろん血などついてはおらず、床の血溜まりも、もう見えない。だが、海に沈んだ国の神秘文字は、まだ青緑の光を放っていた。
私は倒れたままうめいているブロウエルの頬を叩いた。
「おい、起きてくれ。なかなか厄介な娘なんだ。そう簡単には昇天してくれそうもない。今夜はもう退散だ。可愛い妹が待ってるんだろ！」
最後の言葉が効いたのか、ブロウエルは半身を起こして、私の目を見て「ティレッス！」と妹の名を呼んだ。
「そうだ、ティレッスが頼れる兄貴の帰りを待っている。この家から出よう」
ブロウエルはうなずき、私は肩を貸して彼を立ち上がらせた。部屋の扉を開けると、きな臭いにおいと煙が漂ってきた。階段の下の方が朱色に染まっている。消しそびれた火が燃え広がったらしい。手すりから身を乗り出して階下を見ると、炎は床と壁に燃え移っていたが、まだ通り抜けることはできそうだった。
階段を降りようとすると、廊下の右手から閃光が走った。廊下の突き当たりの円窓から雷光が差し込んだのだ。正面近くの部屋の扉が開き、そこから黒い影が現れた。二度三度と光る稲光りを背にしたそれは、明らかに少女の幻とは違って見えた。顔形はよく見えなかったが、輪郭は痩せた男のようだった。黒い影は右手に何かを持っていた。はっきりとはしないが、それは反り身の短刀のように見えた。
「先生、助けて」
どこかでユリミナの声がした。黒い男は短刀を振り上げて、こちらに突進してきた。足音はせず、姿が黒い煙のように揺らめく。
「ユリミナ、ユリミナ……」
影は擦れた声でそうつぶやきながら、幻の短刀を振り下ろした。黒い霞の中で、刃が一瞬白く光る。幻影の刃でも、斬られれば血肉が裂けるのだろうか。
試してみる気はなかった。私はファバーン剣で幻の短刀を受けた。手応えがあったような気がしたが、それは瞬時に消え、短刀は影の右腕ごと、黒い煙となって消えた。
「先生、先生」
また亡霊の声がする。見れば亡霊の背後、開いた扉の影から、青白い姿が顔だけのぞかせていた。
黒い影はまるでその声に励まされたかのように、今度は左手で襲いかかってきた。手には消えたはずの短刀が握られている。
「くそ、幻燈遊びに付き合えるか！」
私は黒い影の左腕を斬り払い、すぐさま、もやもやと蠢く黒い男の頭に魔剣を振り下ろした。青緑の小さな火花を散らし、二つになって崩れようとする黒い影をさらに斬り裂くと、影は形のない黒い靄の渦巻きとなり、奥の扉の方へ吸い込まれた。音を立てて扉が閉じた。そこがユリミナの部屋なのだろうか。踏み込み度胸は私にはなかった。
「今のうちだ！ 逃げろ！」
私たちは階段を駆け降りて、炎を避けながら裏口の前の廊下を玄関に向かおうとした。炎は裏口を中心に燃え上がっており、そこから出ることは不可能だったのだ。
炎を背にして廊下を走り、扉を開けると今度は玄関広間に出た。広間を突っ切り、玄関の扉を開けようとすると、突然、扉は赤熱して燃え上がった。私たちはその勢いに押されて、後退った。幻の炎なのだろうが、熱も臭いも感じる。
背後で小さな笑い声がした。振り返ると階段に青白い朧な裸身があった。ユリミナはもちろんばらばらになどなってはおらず、白い肌にも一点の染みもない。硬質な美顔に薄笑いを浮かべて、ゆっくりと階段を下りてくる。
「先生……」
ユリミナはつぶやいて、ブロウエルの方を見た。黒い瞳を向けられた男は頭を抱えて、うめいた。
「私は君の先生ではない。女の教え子をもったことなんてない！」
ブロウエルは震える声で亡霊に反駁した。
少女はまた一歩階段を下りて、今度は別の言葉を口にした。
「兄様……」
「やめろ！ 私はお前の兄ではない！ お前はティレッスじゃない！」
亡霊の双眸からは、目には見えない黒い光が放たれているかのようだった。ブロウエルは両手で顔を覆い、頭を左右に振ったが、指の間から否応無しに亡霊に視線を向けているような気がした。
私はファバーン剣を構えて、ブロウエルと幽鬼の間に割って入った。視線を遮られたユリミナは眉間にしわを寄せ、私をにらみつけた。私は魔剣で宙を払い、見えない黒い眼光を斬り払った。刀身の神秘文字が青緑に光り、火花が散った。
ユリミナは不意に険しい顔つきを止めて、人形のような無表情に戻り、唇の端に少しだけ笑みを浮かべた。
「父様、邪魔をしないで」
そう彼女が囁いたかと思うと、甘酸っぱい匂いが鼻をくすぐった。白い腕がすっとこちらに延びて私の頬に触れようとする。
私はその腕を剣で払い-腕は煙のように消えた-こちらから一歩踏み込んで、亡霊に斬りつけた。
「君のような悪い娘を持った覚えはないね」
ユリミナは今度は血まみれの見世物を演じるつもりはないようだった。青白い姿が霞のように四散したかと思うと、青紫の稲妻がぱちぱちと広間中で光った。ユリミナの姿態は幻燈の写し絵のように大きくなって壁や天井、階段、床にまで広がった。
奇怪なことに手や足や首、それに裸の胸や腰、股間の秘部までもがばらばらになり、でたらめに広間中に大写しになった。
整った美しい顔は天井いっぱいに広がり、珊瑚色の唇が、半開きになって赤い舌をのぞかせたかと思うときゅっとすぼまって淫靡な音を立てた。階段では真っ白な太股と二の腕、細い指がくねくねと絡みあい、淫らな一人遊びを披露する。四方の壁では脹らみかけの乳房と引き締まった腹部が鼓動に合わせて艶めかしく蠢き、肌理細かな肌が視線を吸い寄せ、床の上では淡い赤紫に色づいた秘唇が滑る光を湛えて、私たちを飲み込もうとしていた。
ばらばらになった少女の体は写された像に留まらず、まるで壁や天井が肌と肉そのものになったかのように、薄紫の燐光を放ちながら膨らみ、うねり、私たちを包み込むように迫ってくる。
ユリミナの裸身で包まれた広間の中にまた別の幻が現れた。書斎で死んでいた父親の姿、二階で死んでいた兄の姿があちらこちらに浮かび上がり、先刻二階に出現した短刀を手にした影のような男に幾度も幾度も刺し殺される有り様が繰り返された。短刀が振り下ろされるたびに二人の男は悲鳴と血飛沫を上げ、ユリミナは「父様」「兄様」と物悲しい声を出してみたり、冷たい笑い声を漏らしたりした。私は思わず腰帯に手をやったが、短刀はまだそこに挟まれていた。
二人の男を刺し殺した影は、同じ動きで何度も殺人を繰り返した後に、こちらを振り向いた。ぼんやりした黒い影が急に輪郭をはっきりさせた。異様に目を見開き狂気の影を宿したその顔は、ブロウエルによく似ていた。
「先生、先生……」
今は奥の壁に現れているユリミナの唇がぬらぬらと動いて、甘く毒を含んだ声でそう囁いた。短刀を持った男はユリミナの声に恍惚とした表情を浮かべたかと思うと、短刀で自分の喉を斬り裂いた。黒い煙のような血が噴き出し、男の体にまとわりつく。
廊下に通じる扉からは、朱色の炎-多分、本物の-が漏れ出していた。その炎は先生と呼ばれた黒い影に燃え移り、男は喉から血をしたたらせ、血にまみれた刃を燃える手に持ち、こちらに迫ってきた。
「何だ、何なんだ！ あれは私か！ 私が殺したのか！」
ブロウエルが松明のように燃えながら近づいてくる男を指さしてわめいた。それから、急に踵を返して、玄関扉の方に駆け出したが、すると今度はそちらの扉から大きく炎が上がり、その中からもブロウエルによく似た黒い影が現れた。その影もまた短刀を振りかざしている。
「幻だ！ たぶらかされるな！」
私は玄関から迫ってくる影に斬りつけた。影は一瞬炎を吹き上げたが、すぐに四方に散って消え失せた。玄関扉の炎も消えている。私は扉を蹴破ろうとした。
「熱い！」
ブロウエルの叫びが響き、私も背中にひどい熱を感じて振り向いた。奥の扉の方から現れた影が赤熱した刃を振りかざして、すぐ目の前に迫っていた。私は熱さを堪えながら、その燃える影を斬った。
奇妙な手応えがあった。人を斬ったものではない、もっと固いものに斬りつけたような手応えだ。影は喉から絞り出したようなおぞましいうめき声をあげながら、燃える手を私の方にのばした。腰帯から本物の短刀を奪おうとしているのだ。
私はその腕に刃を叩き込んだ。固いが脆い手応えがあって、燃える何かが床に落ちた。それは火のついた木片-扉の框か何か-だった。
「くそ！ 火遊びはいい加減にしろ！」
なおも迫ってくる燃える影に二度三度斬りつけると、それはばらばらの燃える木材の断片となって、床に散乱した。
見れば廊下へ通じる扉はすでになく、四角い穴からは炎と煙が噴き出している。炎は玄関広間にも燃え移り始め、亡霊のもたらす紫の光と朱の炎が入り交じり、奇怪な色合いがあたりを満たしていた。
ユリミナの姿は広間の四方八方をでたらめに飛び移り、炎と煙の中にもゆらゆらと揺れ動く。年格好にはそぐわない低い吐息を漏らしたかと思うと、子どもっぽい笑い声を谺させ、また邪悪な響きのある声で「父様、兄様、先生」と繰り返し囁いた。
私は四方からのびてくる腕や足を斬り払い、突き出される乳房や尻を斬り裂き、我々を飲み込むように開いて迫る女陰に剣先を突き刺した。その度に嬌笑や艶めかしい吐息、悲鳴や泣き声が広間に響き渡る。古の魔剣を振るえば、亡霊の幻影は火花を散らして消えたが、その都度、幻の少女の肉は朱赤の炎と紫の怪光の中に真紅の血の花を咲かせた。火の粉と煙が舞う中に、幻の血飛沫が吹き上がる。神秘文字の青緑の光と薄紫の小さな電光がそこに更なる色味を加えた。
ある意味、それは美しい空間だった。左岸の〈新しい芸術〉の舞台や絵画を見ているような趣さえあった。奇怪な歪んだ断片として出現しても、ユリミナは美しかった。陶器の人形のような硬質な美貌は、死に誘う邪霊となっても、損なわれることはない。生前の彼女の姿を見たことはないが、むしろ、亡霊となった今こそ、その美形が際立っているのかもしれない。
不意に私は自分の一物が固くなるのを感じた。ユリミナをこの腕にかき抱きたいという欲望が臍の下から湧き上がってきた。ブロウエルと目が合うと、依頼人はぎらついた目で私をにらんだ。私も同じ顔つきをしているのかもしれない。
ブロウエルは私の腰帯から短刀を奪い取ろうと飛びかかってきた。私は彼を斬り捨てようという気持ちをかろうじて抑え、柄頭で殴りつけた。男は鼻血を出したが、なおも襲いかかってくる。
ブロウエルと格闘しながらも、ユリミナの声は四方から聞こえてくる。「先生、兄様、父様」と繰り返し囁き、くすくすと笑い、妖しくうめく。奥の壁は一面炎に包まれ、そこにユリミナの姿が大写しになる。三つの黒い男の影が浮かび上がり、彼らは焔の中でも青白く見える少女の姿にすがりつき、抱きすくめようとし、滑稽に踊る。その前で私たちは熱と煙でふらふらになりながら、揉み合った。じきにブロウエルも私も影たちの仲間になるのだろうか。
燃える壁板が爆ぜる音に驚いた隙に、私は剣を持ち替えて依頼人を峰打ちにした。どこか骨が折れたかもしれないが、勘弁してもらおう。残っている正気を振り絞り、倒れたブロウエルを引きずって、玄関の扉を目指した。広間の奥の方で大きな音がして、梁が焼け落ちた。階段にも火が回っている。
炎と煙の中、ユリミナの幻影は私たちを嘲笑しながら、飛び回る。細い腕が後ろから首に絡まり、まるで生身の少女を背負ったかのような重さを感じた。亡霊は私のうなじに舌を這い回らせる。滑る舌先の感触に、ブロウエルを放り出して、その愛撫に身を任せたくなる。「父様、兄様、先生」と囁くユリミナの声が舌先といっしょに耳の中には入り込んでくるようだ。
「幻だ！ 君は死んでいる。死んでいるんだ！」
私が叫ぶと、甘美な舌先はすぐに火のような熱さを発し、目の前では絡んだ指が燃え出した。
ブロウエルを引きずっているので、ファバーン剣を振り回すこともできず、私はひたすら玄関の扉を目指した。扉もまた炎に包まれていたが、まだ紫色の光が明滅していて、背後で燃え盛る炎とは様子が違って見える。これは幻だと私は自分に言い聞かせ、いったんブロウエルを床に下ろすと、ファバーン剣を振り上げて、燃える扉に斬りつけた。燃える少女の指が刀身をつかもうとしたが、神秘文字の光に触れると、白煙となって消え失せた。
剣を叩きつけると、扉は一瞬紅蓮の炎を吹き上げたが、すぐに紫の電光が激しく明滅して、炎は消えた。扉は二つに裂けて、框から吹き飛んだ。
四角い黒い夜の中に一人の若い女が立っていた。栗色の長い髪を振り乱し、蒼白な顔を引きつらせ、両の手を強ばらせている。雨に濡れ、白い寝間着の裾は泥で汚れていた。彼女は裸足だった。
女は一瞬私の顔を見つめたが、すぐに足下に倒れているブロウエルに目をやった。
「兄さん！」
女は燃える炎も渦巻く煙も執拗な亡霊も目に入らない様子で、うずくまる男に飛びついて、わめきながら肩を揺すった。
「兄さん、兄さん！ ああ、しっかりして！ 兄さん！」
ブロウエルは頭を上げて「ティレッス」と弱々しく妹の名を呼んだ。
「どうしてここに……」
「兄さんがいないことに気づいて、なぜだかわからないけど、きっとここだと思ったの。だから、私……」
「とにかく、扉は開いた。ここから出るんだ！」
私はブロウエルに肩を貸し、ティレッスといっしょに玄関から外に押し出そうとした。その時、白い手が目の前にのびて、ティレッスの濡れた乱れ髪につかみかかった。振り返ると炎の中から恐ろしい形相をしたユリミナがこちらに迫っていた。
落ち窪んだ眼窩の底では黒い炎が燃え、裂けた口からは真っ赤な舌がのびて蛇のようにくねっている。青白い肌はあちこちが腐乱して破れていた。
「逃げろ！」
私はブロウエルを妹に預けて、亡霊の腕に斬りつけた。緑と紫の火花が飛び散り、腕はちぎれて二つになる。
「思い出せ！ 君はもう死んでいるんだ！ あの男は君の兄さんでも父さんでも先生でもない！」
端正な少女の顔が一瞬戻り、亡霊は怪訝な顔をして私を見た。黒い瞳の中に不安げな子どもの表情が宿っているような気がした。私はその顔に古の魔剣を叩き込んだ。陶器の人形のようにユリミナの首から上は砕け散った。小さな笑い声と悲鳴が無数に聞こえる。
「これは君のものだろう。返すよ」
私は腰帯から短刀を引き抜くと、なおもこちらに腕をのばそうしているユリミナの胸乳にそれを突き刺した。薄紫に光る亀裂が縦横に走り、亡霊の体はばらばらになったかと思うと、幾千もの光の粒となって消えた。最後に誰かの名を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、何と言ったのかはわからなかった。
ブロウエルとティレッスはまだ戸口にいた。兄は妹に支えられ背中を向けていたが、妹は玄関の扉に手をかけたまま、こちらに顔を向けていた。鳶色の目を見開き、口を開けて惚けたような顔でこちらを見つめていた。
「逃げろ！ 外へ出るんだ！」
私の声にティレッスは目が覚めたようで、恐怖と混乱が表情に戻り、兄の腕をとって戸口を潜った。
玄関広間は半ば炎に包まれ、熱と煙が押し寄せてくる。それは幻影ではなく、本当の熱さと光を持った炎だった。私は身を翻して、屋敷の外へ飛び出した。振り向くと、二階の二つの円窓が炎で朱に光っていた。一瞬、屋敷が恐ろしい眼光を放つ少女の顔のように見えた。どこかで火消し隊の鳴らす鐘の音が聞こえた。
マイアーク屋敷の火事は半分ほど家を焼いたところで消し止められた。警邏隊が調べに入ったが、私たちの姿を見た者はなく、咎められることはなかった。ブロウエルは家主としての責任を問われたが、ちょうどその頃近辺で放火事件が起きており、その犯人の仕業だろうということになった。
依頼人は肋が一本折れていたが、ティレッスの献身的な看護もあって、程なく動けるようになった。しばらくして、兄妹は二人で探偵局を訪れた。
ティレッスは髪を短く切り、白地に白い刺繍飾りの着いた服を着ていた。落ち着いた面持ちで、血色も良かった。あの夜、炎に照らされて鳶色に見えた瞳は、ずっと黒く見えた。兄によく似ていたが、鼻や顎はさほど目立たず、整った面立ちだった。
兄の方はいささか顔色が冴えず、幾らか痩せたように見えた。まだ傷が痛むのか、長椅子に腰を下ろすときに、顔をしかめていた。
ブロウエルはマイアーク屋敷を取り壊し、土地ごと売り払うつもりだと言った。
「調べに来た年配の警邏が言っていた話ですが、あの屋敷では百年ほど前にひどい人殺しがあったそうです。やはり警邏をしていた祖父から聞いた話だと言っていました。娘の家庭教師をしていた男が当主と娘の兄を殺して自殺したのです。家庭教師は娘に恋慕していたのですが、娘が、その……」
ブロウエルは言い淀んで、ちらりとティレッスの方を見た。妹は口元にかすかな笑みを浮かべたように見えた。
「娘は父親とも兄とも関係があり、それを知った男が二人を殺して自ら命を絶ったというのです」
「なるほど。我々はその惨劇をあの屋敷で体験させられたというわけですね。それで、その娘はどうなったのですか」
「娘は……」
ブロウエルはまた言葉を止めて、妹の顔を見た。まるで話をするには彼女の許可がいるかのようだった。ティレッスはかすかな微笑とともにうなずいたように見えた。
「警邏隊が屋敷を調べて、地下室を発見しました。入り口が台所の大きな棚の後ろになっていて、我々は気がつかなかったのです。葡萄酒や食物の貯蔵庫だったらしい部屋で、そこに子どもか小柄な女性のものらしい骸骨が横たわっていたそうです」
「それがユリミナだと」
「おそらくは。老警邏の話では、娘と母親は事件の後、行方知れずになり、母親の方はしばらくしてイヌン川に骸が浮かんだそうです。ですが、娘の行方は杳として知れなかったとか」
ブロウエルは眉間にしわを寄せて鬱々とした面持ちだったが、ティレッスはわずかな笑みを浮かべたまま淡々した様子だった。
「これはまったくの推測ですが、娘の乱行を知った母親が、地下室に閉じ込めたのかもしれません。おそらく母親はまともな状態ではなかったのでしょう。母親はイヌン川に身を投げ、娘は百年ばかり地下室であなたのことを待っていたということですかね」
ブロウエルは、はっとしたように顔を上げ、訝しげな顔で私を見た。
「私を、ですか」
「玄関広間に出現した短刀を持つ黒い影は、はっきりとはしないが、あなたによく似ているように見えた。あなたもあの時、そう思ったでしょう。あなたは遠縁とはいえ、ユリミナと血のつながりもあり、おまけに仕事も家庭教師ときている。彼女にしてみれば、運命の人がやってきたというところだったのかもしれません」
「私が、ですか」
ブロウエルは意外そうな面持ちだった。奇妙なことに彼は自分が狙われているという気持ちは持っていなかったらしい。
「私はあの短刀を家に持ち帰ってしまったことが原因なのかと思っていました」
そこでまた男は言葉を途切らせ、視線が妹の方に泳いだ。妹は、またわずかにうなずいたように見えた。ブロウエルは話を続けた。
「実はあの短刀ですが、警邏隊が調べているうちに、奇妙なところで見つかりました」
「と言うと？」
「地下室の骸骨の胸に突き刺さっていたのです」
「ふむ、奇妙と言えば奇妙、当然と言えば当然ですが。それで短刀は今どこにあるのです？」
「ああ、警邏隊が持っていきましたよ」
彼は少し上ずった調子でそう答えた。
恐怖が蘇ったかのように、ブロウエルは背を丸め、肩をすくめた。傷が痛むのか、胸に片手をやったが、まるで自分が刺されたかのように胸の真ん中あたりを押さえていた。ティレッスが隣でさも心配そうに兄のもう片方の手を握ったが、その顔にはどこか満足げな笑みが浮かんでいるようにも見えた。
初めてティレッスが口を開いた。
「怪我の方はもう大丈夫だとお医者様も言っておられるのですが、あんなことがあった後なので……」
妹の口調は妙に冷静に感じられた。
「ああ、そうでしょうね。無理もないことです。なるべく早く地所は売り払って、今回のことは忘れた方がいい」
「ぜひ、そうしますわ」
兄よりも早くティレッスが答えた。ブロウエルが顔を上げて続けた。
「火事も起きたし、二束三文かもしれませんがね。幸い、妹は不思議なことにあれ以来至極調子がいいのです。医者も驚いているくらいです」
「きっと、兄さんを幽霊から助けたせいよ。死人に打ち勝って生きる力をもらったのよ」
ティレッスはそう言って、兄の手を握った手に力を込めた。そう、確かに彼女は死に打ち勝ったのかもしれない。
話はそれで終わりになった。兄妹は一日分の料金に幾らか上乗せした額を置いて帰っていった。戸口まで見送ると、二人は手をつなぎ、指と指を絡ませて、ライアノン通りを歩み去った。
