アーカンタの店の止まり木でディコンを飲んでいると、女が隣の席に座った。黒髪をうなじの辺りで切り揃え、前髪も眉の下で真っ直ぐに揃えている。切れ長の黒い瞳、少しだけ上を向いた鼻に大きめの口、突き出した豊かな胸乳を見なくても、色気を感じる女だった。
女はこちらを見るわけでもなく、口髭の主に小さな酒杯の澄んだ青緑の酒を頼み、二口で飲み干した。同じ酒をもう一杯注文し、やはり二口で飲み干した。
豊かな肉が露になる銀灰色の服をまとい、止まり木の小さな椅子からは丸い尻がはみ出していた。私は彼女の体を横目で見ながらディコンを干した。
二杯目の金色の酒が目の前に滑ってきた。泡の入った硝子の酒杯を手に取ると、女が口を開いた。
「あなた、スナブ・ランケンでしょ」
少し低い、少し嗄れた声だった。黒い瞳がわずかにこちらに動いて、それからまた自分の杯に戻った。
「僕がそういう名前だったら、どうするんだね」
女はきれいな小鼻にしわを寄せて、皮肉な笑みをわずかに浮かべた。
「仕事があるのよ。一日四十ダズンなんでしょう。三倍払うわ」
「正しくは、一日四十ダズンに必要な掛りを頂く、だね」
女はかすかにくすっという笑い声を漏らした。
「意外ときっちりしているのね」
「きっちりしていないと生きていけないんでね」
「資格はどうなっているの」
「何だって？ 探偵やるのに鑑札はいらない。同業組合もない」
「生きる資格はあなたの中ではどうなっているの？」
女はまた幽かな流し目をこちらに送った。何か答えなくてはいけない気分になった。
「生きるのに資格なんてない。人間はもほかの全ての生き物も、ただ、生きているだけだ。資格はいらない」
女は空になった酒杯を唇に押し当てて、やけに濃い桃色の舌を見せ、その縁を舐めた。硝子の杯に色がつきそうだった。
「そう？ 資格がない奴もいるわ」
私はディコンを多めに口に含み、喉を焼く感触を味わいながら、飲み干した。
「そういう気分になることもあるだろうね」
「気分？ いつもそういう気分なのよ。だから、あなたにそういう奴を殺してほしいの」
女は今度は真っ直ぐに私の目を見た。漆黒の双眸が自分の目の中まで食い込んでくるような気がした。
その後、クラーシャ街の裏通りの待合で情交した。夜更けに、女は窓辺で煙管をくわえて低い声で言った。
「ねえ、引き受けてくれるんでしょう？」
私は夢うつつで彼女の声を聞いた。頭の中で自分がこれは夢なんだと言っていた。
寝床が沈んで女の匂いと煙草の匂いがした。
「聞いてるの？ 人を殺してほしいと言ってるのよ」
耳元で低いがくっきりとした声がそう言った。どうやら夢ではなさそうだった。
「君は勘違いしているよ。そういう仕事は暗殺士組合に頼むべきだ。金さえ積めば、大抵の場合は引き受けてくれる」
女は短い答えを返した。
「断られたわ」
「金が足りなたかったんだろう。一日四十ダズンじゃ無理だ」
女は私の胸に軽く爪を立てながら次の台詞を囁いた。
「お金じゃないのよ。ああいう手合いには手を出さないことにしてるって言うのよ」
「ああいう手合いとは、どういう手合いかね。奴らも弱気になったもんだ。昔は民議員だろうと貴族だろうと、お構いなしだった」
「暗殺士組合の昔の話なんてどうでもいいのよ。私はあなたに頼みたいのよ」
私はひどく眠かった。ディコンを飲み過ぎたし、女は床の上でことのほか激しかった。
「明日の朝まで、君がこの部屋にいて、僕の懐から金を抜き取ったりしなければ、もう少し話を聞いてみよう。だが、人殺しは僕の仕事じゃない」
女はまだ何か言っていたようだが、私は睡魔に勝てなかった。
鎧戸の隙間から鈍い朝日が差し込んで、しわくちゃになった敷布に複雑な影模様を作っていた。腕を伸ばしたが、隣に女はいなかった。脱ぎ散らかした服の中の巾着を確かめたが、金はなくなってはいなかった。女の服はなかった。
立ち上がると頭痛がした。水瓶を探したが見当たらない。のろのろと服を着ていると隣の小部屋の扉が開いて、女が出てきた。
顔を洗って化粧が落ちていたが、あまり雰囲気は変わらなかった。切れ長の目の縁の翳りは化粧ではないのだろう。ちらちらと光る灰色の服に包まれた体は酔いが醒めた目で見ても魅力的だった。
「おはよう。水はまだあるかい」
女は肩をすくめて、少しだけ笑った。
「朝までいたし、お金も抜いたりしていないわよ」
私はうなずき、彼女の手を取って口づけた。
「姫君のお話を伺います」
「あなた厭味だわ」
女はそう言って、私の腹を軽く蹴った。
「よく言われるね。皮肉と当てこすりは知性の証だと思うが。君も近頃流行りの知性否定論者かね」
女は私の台詞を無視して自分の話を始めた。
「キエルゴ・ゾラヴァーズを殺して欲しいの」
「そんな名前は聞いたことがない。昨日も言ったが、僕の仕事は人殺しじゃない。人捜しはするが、人殺しはしない。人殺しを生業としているのは軍隊と暗殺士だけで、どちらも僕は好きじゃないね」
女が水を持ってきてくれそうもないので、私は洗面台の方へ行って、水差しに少しだけ残っていた水で顔を洗った。
「私の父親は軍人だったわ。フィジンガ島の戦いで死んだ将軍よ」
「フィジンガ島の戦い？ フィジンガ島は元々あの島に住む海の民と鳥や蟹たちのものだ。それをサンジェリィとフランジースコが勝手に自分たちのものだと騒いでいる。君の父上が大将だか何だか知らないが身勝手な侵略者に過ぎない」
女は腹を立てたのか、しばらく黙っていた。私はもう一度顔を洗って、服を着た。互いに服を着て向き合うと少しは頭がまともに働いてきたような気がした。
「キエルゴ・ゾラヴァーズとは何者かね」
「人間じゃなければ殺してくれるの？」
「人間じゃなけりゃ、何なんだ」
「私の兄よ」
「君はまだ酔っているのか。それとも僕の二日酔いが酷過ぎるのか」
「兄は人でなしなのよ」
その後、私たちはまだしばらく噛み合わない会話を続けた。彼女の兄キエルゴは父親同様軍人で、フィジンガ島でのフランジースコとの小競り合いに出陣した。互いに牽制しあう程度だった戦いは激戦となり、サンジェリィ側の大将の父親は死んだ。キエルゴは生きて帰ってきたが、人が変わってしまったと言う。
「兄は頭がおかしくなってしまったのよ。部屋に閉じこもって夜中に大声をあげたり、食事中にもぶつぶつと独り言を−まるで呪文みたいな−を言い続けたり……。夜中にどこかに出かけて、夜が明ける頃に血まみれになって帰ってきたこともあったわ。それに……」
少し話がまともになってきたところで、彼女は口ごもった。
「大丈夫さ。もっと酷い話を僕は幾らでも知っている。君はこうしてちゃんと生きているしね」
女は暗い目を床の辺りに這わせて、話を続けた。
「兄は母を殺したのよ。夜遅く、私が家に帰ると母が食堂の卓子の上で死んでいたわ。何かよほど恐ろしいものを見たように、目を大きく見開いて顔を強ばらせて。服が乱れていて股間から血が溢れていた」
「その話が本当ならば、警邏隊に話すべきことだ」
「警邏隊に知らせに行った女中は帰ってこなかったわ。兄は、部屋にこもっていて何も見てはいないけれど母は毒を飲んで自殺したに違いないって言ったわ。父の死を嘆いてのことだって。それから兄は私を犯したのよ。私がひどく取り乱しているからと、何か変な薬を飲まされて……目が覚めたら、体中に気味の悪い呪文を書かれていた……それで、私は家を逃げ出したのよ。兄が部屋で何かと話している間に。家には私と兄しかいないはずなのに、くぐもった声が聞こえたの。家を出る時に、背中にぞっとするような視線を感じたわ。兄は私を見ているのよ。感じるの。澱んだ沼の中で、何かがぎらぎら光っているような、あの目を……。今、こうしてあなたと話していることだって、見られているのかもしれない」
女はそわそわと落ち着かなくなり、紙巻き煙草に火をつけようとしたが、うまくいかなかった。
「昨日あなたと寝た時も、兄に犯されているような気分になったわ。獣に犯されているような、恐ろしい気分。ずっと兄は私と一緒にいるのよ。あの目が私を見つめていて、あの指が私を……」
女は両手で頭を抱えて、黒い髪をかきまわした。体が震え出し、立っていられないようだったので、私は彼女の肩を抱いた。
「見ているのよ、あの目が！ あの目が私を……」
乱れた髪の間から覗く彼女の瞳は、濁った水面の下で何かが光っているような、異様なものに見えた。
獣に犯されているような気分と言うのは、私の台詞にもなりそうだったが、黙っていた。私はひどく厄介な女とかかわったことを知った。今に始まったことではなかったが。
二
ゾラヴァーズ邸は王宮を囲むように立っている古い家柄の貴族の屋敷の一つだった。黒塗りの格子の門は開いていた。庭木はまだ形が整っていたが、最近手入れを怠っているのか、あちこちで草が伸び始めていた。
建物は二階建ての武骨な石造りで、突き出した四角い玄関屋根の上で海蛇の像が鰭のついた尾を振り上げていた。呼び鈴の紐を引いても、扉を叩いても誰も出てこなかった。
鍵はかかっていなかった。玄関広間は白と黒の市松模様の石敷で奥に階段があった。床にはうっすらと埃がつもっていた。
どこかで扉が開く音がして、階段を男が降りてきた。赤紫色の長衣を羽織り、青白い顔をしている。うっすらと無精髭を生やし、黒い瞳は澱んでいた。
「どなたです。私は誰とも会わないようにしているのです」
「スナブ・ランケン、探偵です。あなたがキエルゴ・ゾラヴァーズさんですね。妹さんに頼まれて様子を伺いに来ました」
「マジェアンに？ ほう、それは御苦労なことだ」
キエルゴは妹よりも面長だったが、少し上を向いた鼻の形はそっくりだった。黒い短い髪を眉の上でまっすぐに切りそろえていた。二日酔いの朝のように冴えない表情をしていた。歳の頃は三十過ぎといったところだろう。
キエルゴは私を一階の食堂らしき部屋に案内した。マジェアンの話によると母親が兄に犯されて殺されたという部屋だ。大きな食卓の上には白い卓布がかけられていた。無論、赤いしみなどはなかった。
食堂の壁には肖像画が何枚も並んでいた。脂色の古ぼけた絵の中の男たちは百里鏡を手にしたり湾刀を下げた姿で描かれていた。御先祖様は海賊なのだろう。正面の暖炉の上には比較的新しい肖像画がかかっていた。勲章をたくさんぶら下げた厳めしい顔のその男が兄妹の父親のようだ。
「生憎と使用人に暇を出してしまいまして、こんなものしか御用意できないのです」
キエルゴは卓子の上に葡萄酒の瓶と硝子の酒杯、薫製肉を並べた。酒杯に注がれた葡萄酒は黒ずんで酸っぱいにおいがした。
「妹が私のことを気にかけているというのですか」
キエルゴはそう言って、杯を半分ほど飲み干し、薄く切った肉を一枚、口に押し込んだ。
「妹さんはフィジンガ島から帰ってから、あなたが変わってしまったといって心配しています」
「ああ、それはその通りです。妹から聞いているのでしょうが、あのくだらない戦で父は亡くなりました。ひどいものです。御存知の通り、サンジェリィでは絶えて戦はなかった。父も私も実際に人を殺したことなどなかったのです。それが、あの有り様です。岩山とほんのわずかの荒れ地しかない島で、ひどい嵐の中の戦いです。わけのわからないまま、指揮を執っていた父は死にました。フランジースコ兵に槍で串刺しにされたのです。鎧の隙間からはらわたがこぼれていましたよ。他にも大勢の兵士が死にました。私は運良く大傷は負いませんでしたが、それは体に限っての話です」
キエルゴはゆっくりとした奇妙に落ち着いた口調で話し、また酒を口に運んだ。
「お気の毒です」
男はうなずいて、杯に葡萄酒を満たした。
「お母様も亡くなられたそうですね」
「妹は何と言っていましたか。私が殺したと言っていたのではないですか」
男は青白い顔に薄笑いを浮かべた。濁った目は私の方に向いていたが、私のことを見ているわけではないようだった。
「ええ、そういうことを言っていましたね。この食堂であなたが母を犯して殺したと」
キエルゴは何度もうなずいて自嘲的な笑いを浮かべた。
「母は自殺したのです。父が亡くなったことに絶えられず、心を病んでいたのです。この食堂で葡萄酒に毒を入れて飲み、死にました。強い毒薬で、体中から血を流して倒れていました。私が母を見つけた時に、ちょうど妹が帰ってきたのです。それで私が殺したと決めつけて、家を飛び出してしまったのです」
銀の小刀をかたかた言わせて、男は薫製肉を切り、口に運んだ。
「妹さんはあなたに犯されたとも言っています」
キエルゴは声を立てて笑い、肉の切れ端が口からこぼれ落ちた。
「やれやれ、犯されたのは私の方です。父が亡くなってから、妹も乱心気味でね、怖い、寂しいと言って私の寝床に入り込んで来るのですよ。そう言いながらもね、有無を言わさず私にのしかかってくるのです。戦いの後、身も心も衰弱していた私は抵抗できなかったのです」
手巾で口元を拭いながら、男は私を上目遣いで見た。嘲笑とも哀れみとも取れる目つきはいささか不愉快だった。
「ああ、あなたも妹と寝ましたね。なぜでしょうね、顔を見るとわかるのですよ。マジェアンはきれいでしょう。翳りのある美しさ、色香がある。大抵の男は魅了されてしまう。でも、マジェアンは化け物です。何人もの男が妹に振り回されて死んでいます。子どもの頃からね。あなたも気をつけた方がいい」
屋敷には私たち二人しかいないと思われたが、キエルゴは誰かの視線を気にするように目線を動かし、声を低くした。
「実のところを言いますとね、母を殺したのは妹だと私は思っているのですよ。母は夕食の後にこの食堂で一人で葡萄酒を飲むのが、このところの習いだったのですよ、父の肖像画を見ながらね。あの日もいつものように葡萄酒を飲んだ後に血を吐いて倒れたのです。妹は友人と会うと言って出かけていたのですが、母が愛飲していた酒の瓶は知っていたはずです」
「妹さんにはお母様を殺そうとするわけがあるのですか」
「わけって、母が死んでしまえば、このゾラヴァーズ家の遺産を受け継ぐのは私と妹しかいないのです。妹は幼い頃から怪しげな呪法や妖術、〈失われた神々〉の邪教に惹きつけられていたのです。妹の友人とやらには、トリプロ街あたりに巣くっている魔道士、死霊使い、妖術師、そんな奴らがいるのですよ。父も死に母も死に、私も死ねば、ゾラヴァーズ家の遺産を好きに使って、そういうことに没頭できるのです。あなたは妹に私を殺してほしいと言われてきたのではないのですか」
キエルゴ・ゾラヴァーズは血の気のない顔に薄笑いを貼り付かせたまま、ひどい話を続けた。
「あなたは確か化け物退治で名の知れた探偵でしょう。新聞で読んだことがある、思い出しましたよ。そうだ、僕の方からもあなたに依頼しましょう。マジェアンを殺してください。妹は一種の怪物です。まともな人間とは言えない。何人もの人間がまわりで死んでいる。これからも死ぬでしょう。いいでしょう、化け物退治なら」
その後、キエルゴは報酬として一万ダズンではどうかと言い出したが、次第に呂律が回らなくなった。私は酔っぱらいを残して、屋敷を後にした。
三
〈割れ兜〉という店は港に近い薄暗い小路にあった。元は小さな蔵だったらしい店の中は天井がなく梁が剥き出しで、巨獣の肋の中のようだった。古い船板でも使ったのか、不揃いな卓子と不揃いな椅子が、奇妙に整然と並んでいた。
主は棒切れのベトランという東部からの流れ者で、戦で片足をなくして木の義足をつけているのでそう呼ばれていた。店主がそうだからか、店は軍人上がり、兵士くずれ、そういった人間が集まる場になっていた。戦乱続きの東部と違い、サンジェリィ近郊では大きな戦は絶えてない。だが、フィジンガ島の争いのような小競り合いや、盗賊、海賊との戦い、あるいはエイマン王が送り出す南方や大海への探検行で命を落としたり、傷を負う兵士はそれなりにはいた。あるいは東の玉座をめぐる不毛の戦いで酷い目にあい、夢の西岸へ−東部人の中にはこのあたりを理想郷と見る者もいる−やって来た者なども、この店の客になった。
私は主のベトランにフィジンガでの戦の後、この店にも不幸な客が増えただろうと尋ねてみた。
「フィジンガでの戦だって？ 旦那は戦ってもんがどんなもんか、てんで知っちゃいませんね。あのくだらない突っつき合いで何人死んだか御存知か」
「新聞には、五十とか書いてあったと思うね。ヨーコックのだから、信じてもいいだろう」
棒切れのベトランは傷の縫い痕の残る歪んだ顔に凄絶な笑みを浮かべた。子どもが見たら、しばらくは悪夢にうなされるだろう。
「五十？ そんな死人の数じゃ戦とは言いませんよ、旦那。戦ってのはね……」
それからベトランは自分が兵士として加わった東部の恐ろしい戦いについて話した。
「一万ですよ、旦那。シンデックとイリヴァーツの七回目の合戦でジャクレンの聖なる池の辺に住処を得た兵士は。もちろん、忌まわしきシンデックの下郎どもは数に入っちゃいません。どちからに妖術師がいればね、墓石が幾つあっても足りなくなるんですよ」
ベトランの話が止まらなくなるかもしれないので、私は自分の東部での経験について語るのはやめておいた。話したところで既に死んだ人間の数が減るわけではない。義足の男は壁際の席で一人で飲んでいるまだ若い男を目顔で指し示した。
「あいつぁ、近頃よく来るんですがね、何でもあの島でえらく恐ろしい目にあって、ちっとばかりいかれちまったって話ですよ。ドナルジルズ将軍のお気に入りだったらしいですがね。ああやって昼過ぎからぼんやり飲んでるんですよ。たまに何かいやなことを思い出して騒ぐことがあるんで、そういう時はお帰りいただいてますがね。今日はまだ大丈夫そうですよ」
若い男は金髪碧眼の整った顔立ちだったが、今は無精髭を伸ばし、落ちくぼんだ目の下には深い隈があった。金の肩章のついた青いよれよれの上着を肩にかけていたが、どうやらそれは貴族の子息など一部の「選ばれた」兵士による帝命隊のもののようだった。
一部の軍人や貴族に、メルカー大帝国とやらの建設を目指す輩がいた。西岸を支配したクァロニアン帝国の復活を目指すわけではない。メルカー大陸全土を統一する帝国がかつてあり、それを復興しようと夢想する奴らだ。東の玉座−世界皇帝プラジナーオの玉座−とどう違うのかは私にはよくわからなかったが、どちらにしても、正気の人間の考えることとは思えなかった。ドナルジルズ将軍はそのいかれた奴らの頭目という噂だった。
ベトランは若者の名前はサルローだと教えてくれた。私は彼の前に座ってみた。
「やあ、サルロー、調子はどうだい」
サルローの目の縁は紫じみていてまるで殴られたみたいだった。澱んだ水色の目が私をぼんやりと見た。
「誰だ、お前は」
「キエルゴの知り合いさ。フィジンガ島で死んだゾラヴァーズ将軍の息子の。知っているだろう」
サルローは視線を迷わせて不安げな顔つきになった。
「キエルゴもあんたと同じような調子でね。僕としては島であったことが知りたい。それでキエルゴが救えるならね。ああ、酒がないね」
私はベトランに合図し、義足の男はディコンの入った杯を二つ持ってきた。
サルローはちらりと私の顔を見てから、新しい杯に口をつけた。
「キエルゴを救う？ 嘘をつくな。あいつを助けたい奴なんているわけないだろう。殺したい奴ならいるだろうが」
「ああ、そうかも知れないが、僕は仕事なんでね」
男は締まりのない口元から酒か涎かを垂らして笑った。
「仕事だって？ そうか、お前はあの探偵だな。化け物退治をやっているスナブ・ランケンとかいう。結構な仕事だな。父親殺しの化け物を助けるのか？」
「意味がわからないね。ゾラヴァーズ将軍は戦死だろう。自ら奮戦してフランジースコ軍を追い払ったんじゃないのか」
「フランジースコの奴らだって、俺たちだって真剣に戦う気なんてなかった。いつもの小競り合いで帰れるもんだとお互い思っていたのさ」
「ほう、しかし五十人も死んだ。将軍も。激戦だったんだろう」
サルローは杯の酒を一気に飲み干した。すぐにベトランが無言でお代わりを置いていった。サルローは目を不自然にぐるぐると回した。床、店の奥、入口、天井、店の中に何かを探しているようだった。
「ああ、激しい戦いだった。敵は人間じゃないからな」
キエルゴは人間じゃないし、マジェアンも化け物、フィジンガ島にも怪物が出たらしい。いや、こちらが元締めだろうか。
「君たちは何と戦ったんだ」
突然、サルローは背筋を伸ばし、右腕をぴんと高くあげ、私の頭の上あたりに視線を向けた。
「我ら帝命隊は栄えあるメルカー大帝国建設のため、身命を賭して戦う！ 怯懦な政治家ども、狡猾な商人ども、奸黠な学者ども、愚昧な民衆と我らは戦う！ 自由と平和に溺れた幾千万の敵を蹴散らし、輝かしい大帝国勃興の日まで、我らの聖なる戦いは続く！」
何人かいた客が大声をあげた若者に目を向けた。嘲笑を浮かべる者、床につばを吐く者、醒めた目で見る者。義足の主は渋い顔でこちらを見ていた。
サルローは勇ましい台詞を言い終えると、げらげらと笑いだし、椅子にだらしなく身を沈めた。引きつったような笑い声は不快だったが、帝命隊云々の台詞よりはましだろう。
「島には議会も大店も大学もなかったろう。住んでるのは海鳥と蟹ぐらいのものだ。それとも船虫に恐れをなして逃げ帰ったのかね」
酔った男は澱んだ目を酒杯の酒に映して、何事かぶつぶつとつぶやいていたが、次第に声が大きくなった。
「そうか、お前があの探偵なら教えてやろう。お前なら信じるだろう？ 俺は島から戻ったら頭がおかしくなったと言われてお払い箱だ。ドナルジルズの糞野郎め！ 俺のことなど知らないと言いやがった。そうだ、あいつも我らの敵だ！ 帝命隊が殲滅すべきは、まず第一にあの将軍どもだ！」
サルローの言うことは筋が通っているような気もしたが、私が知りたいのは違うことだった。
「そうだ、お前を雇おう。俺は今は勘当の身だが家には金はある。あの島のあれを滅ぼしてくれ！ そうすれば、そうすれば……」
男の声は再び小さくなり、卓子の上に突っ伏した。杯が倒れて残っていたディコンがこぼれたが、サルローは気づかなかった。
「旦那、もう駄目ですよ。寝ちまったら金輪際起きない。一度外に放り出したら、次の日までそのままぶっ倒れて寝てましたからね。飲ませすぎだね」
ベトランは倒れた杯を片付け、卓子の上をきれいにした。サルローはいびきをかいて寝ていた。私は金を払って店を出ようとした。
「ああ、こんなにはいらない。旦那が飲んだ分だけです。こいつの分はもらってるんだ。家令だか執事だかが来てね、金を置いていくんですよ。お屋敷にいられるよりは、ここで酔いつぶれてくれた方がましなんでしょうかね」
ベトランは正体もなく寝ている若者の足を木でできた足でこづいた。サルローは気づく様子もなく、いびきをかき続けた。
四
マジェアンの知り合いに会うのは苦労した。彼女のことは知っていても、何も話したくないという者ばかりだった。ようやく捜し当てた相手は、イヌン川左岸の怪しげな酒場兼劇場で、酒を飲んだり踊りを披露したりしている女だった。
「どう、あたしの踊り見てくれた？」
舞台の上でひとしきり半裸で転げ回ってから、女はそのままの姿で私の席にやってきた。左目のまわりに大きな星形を青く描き、額の右隅には白い三日月が上がっていた。頬には流れ星らしき細い斜めの縞模様、剥き出しになった左の乳房には真っ赤な描かれた血飛沫が飛び散っていた。
「ああ、素敵だったよ、シュプローン」
「お世辞でも嬉しいわ。あたしも飲んでいいかしら」
シュプローンは私の前に置かれたディコンの杯を見てそう言った。私は彼女のためにもう一杯のディコンを頼んだ。硝子の酒杯の琥珀色の酒を、女は猫のように舌を出してなめた。やけに舌が赤く見えるのは、色硝子の洋灯のせいか、何か悪い薬でもやっているのか。
私は彼女の舞踊について、ルーサ・ヴォンレイの衣鉢を継ぐようだと誉めそやしたが、女は王立劇場の高名な改革者のことは知らないようだった。
「最近、マジェアンと会ったかい」
私が本題に入ろうとすると、シュプローンはディコンを舐めるのを止めて、一息で飲み干した。私は給仕を呼んで彼女の杯を満たした。
「しばらく会ってないわ。そうね、この前会った時は、もう半年も前かしら。いいのよ、あんないかれ女、付き合いきれないわ。あんた、何？ マジェアンの新しい男？ 気をつけなさいよ。男でも女でも幾らでも手を出すんだから」
半裸の女は少し険のある目で私を値踏みするように見た。私も彼女の顔を改めて見てみた。ふっくらした頬に大きな目は、化粧を落とせば幼く見えるだろう。歳はせいぜい二十歳というところか。
シュプローンは二三ヶ月ほどマジェアンの恋人だったらしい。彼女の踊りを見て気に入ったマジェアンは、何度も店に訪れ、そういう仲になった。その内、シュプローンを屋敷に招き入れたという。
「大層なお屋敷でびっくりしたわ。そこで、特別な踊りを踊ってほしいって言うのよ。大昔の由緒正しい踊りだっていう変な振りを教えられたわ」
今まで彼女が踊っていたものも、十分変わった踊りのような気もしたが、マジェアンの舞踊はさらに奇妙なものだったのだろうか。
「窓掛けを閉めた暗い部屋で、マジェアンが気味の悪い歌を歌って、私が踊るのよ。時々、青白い顔したキエルゴって兄さんもやってきて、おかしな笛を吹いたり、臭いお香を焚いたり。兄妹揃っていかれてるのよ。ほら、こんな歌よ、覚えてるわ」
シュプローンは喉を押しつぶしたような低い声を出して、陰鬱な旋律の歌を歌い出した。はっきりとした言葉にはなっておらず、呻き声と風の音のような奇妙な声が交互に組み合わされていた。それとも、これは私の知らない何かの言葉なのだろうか。舞台にいた掲琴弾きがシュプローンの歌に合わせようとしたが、うまくいかずに諦め顔で弓をくるくる回した。
突然、女は咳き込んで奇怪な歌は途切れた。咳をするたびに露な乳房が揺れた。
「駄目だわ。こんな歌歌ってたら喉がどうにかなっちゃうわ」
シュプローンは残っていた酒を飲み干し、私に空の杯を差し出した。
「もう一杯ちょうだい。おかしな歌なんか歌ったら、あたしの頭もいかれそうだわ」
女は額に手を当ててこすったので、白い三日月が崩れて、たなびく雲のようになった。
「どうしてマジェアンと別れたんだ」
給仕が持ってきたディコンを引ったくるとシュプローンは腰帯から小さな袋を取り出し、中の白い丸薬を一粒杯に入れた。指で酒をかき混ぜると、にやにやと笑って私を見て、杯を口に運んだ。女は一回しゃっくりをした。だらしなく開いた赤い唇から、涎が滴り落ち、濃い化粧に縁取られた瞳がぎらぎら光り出したように見えた。
「どうしてって、あの女がいかれてるからよ。何回目かに屋敷に行ったら、キエルゴと事に及んでいる最中だったわ。あたしが見ていることに気づいたけど、平気でのけぞるまでやってたわ。その後、裸のままやってきて、お兄様はどこかの島へ戦に行くから、思い残すことのないようにしたんだって言うのよ。呆れて黙っていると、お兄様がお土産を持って帰ってきたらお裾分けするわとか、あなたも一緒に極楽に行きましょうとか、わけがわからない話をするのよ。戦のお土産って、ジースコ兵の首でもくれるって言うの？」
シュプローンの口調はだんだん速くなり、鼻の穴が開き、息が荒くなった。
「お土産が何だか、マジェアンは言ってなかったかい？ それと、踊りは何のためかも」
「知らないわよ、そんなこと。変な踊りにも嫌気がさしていたし、目の前で実の兄と交わるいかれ女とは付き合いきれいないから、それっきりよ！」
シュプローンはそう叫んで立ち上がり、客と給仕の視線を集めた。女は髪の毛をかきむしり「ああ、頭の中で歌が聞こえる！ あんな歌、歌わなきゃよかった。もう、あたしは嫌よ！」とわめいた。それから、乳房をわしづかみにするようにして、背を丸め、苦しげに呻いたかと思うと、ばったりと倒れた。
私は倒れた女の側にしゃがみ込み、首筋に手を当てた。脈はすでになかった。誰かが悲鳴を上げて、店の中は騒ぎになった。私は女の死体を一目見ようと集まる客たちの間を抜けて、店を出た。
五
ゾラヴァーズ邸は、やはり門が開いていて、呼んでも誰も出てこなかった。玄関にも鍵はかかっていなかったので、私は白と黒の市松模様の玄関広間に足を踏み入れた。階段を下りて出迎えてくれる者はいなかった。
私はキエルゴの名を呼び、屋敷の中を歩き回ったが、答える者は誰もいなかった。屋敷の中はしんとしていた。
前回通された食堂で若い主は私を待っていた。食卓の上には葡萄酒の瓶と酒杯、薫製肉が載った皿が置かれていた。キエルゴは食事中−これが食事といえるのならばだが−だったようだが、それが私を出迎えなかった理由ではなかった。
キエルゴ・ゾラヴァーズは、父親の肖像が見下ろす正面の椅子に座り、濁った水色の目を見開いて死んでいた。これでは死神以外の客を出迎えることはできない。
薄汚れた白い襯衣の胸にどす黒い血の花が咲いていた。血は既に固まっていた。床には薫製肉が刺さった銀の肉刺しが落ちていた。肉はいささか干涸びていた。
争った様子はなく、背後から忍び寄った相手にひと突きにされたようだった。私は屋敷の中を探ったが、泥のついた足跡とか血のついた短刀とか、そういったわかりやすい手掛かりは何もなかった。
玄関広間の階段から二階に上がろうとすると、マジェアンが階段を下りてきた。今日は黒い裾の短い服を着ていた。肉付きのよい太股も黒い絹の靴下で覆われている。頭の上には黒い小さな鍔のない帽子が載っていた。黒ずくめで喪服のようにも見える。
「あら、探偵さん、来ていたのね。あなたが兄を殺ってくれたの？」
「馬鹿を言っちゃいけない。僕は暗殺士の真似事はしない。いつから屋敷にいたんだ」
「ここは私の家よ。いつ来たって自由よ。私がキエルゴを殺したと思っているの？」
「そんなことは言っていない。君はキエルゴを殺した侵入者には出くわさなかったのか」
「私が今朝来た時は、もう死んでいたわ。兄は朝は食べないし、お酒も飲まないから、きっと昨日ね、お客さんがきたのは」
「君は何をしに帰ってきたんだ」
「警邏隊みたいに問いただすつもり？」
「いやなら答えなくてもいいが、警邏隊はもっとしつこいぞ」
「警邏隊を呼ぶつもりなら、私が帰ってからにしてちょうだい。好きじゃないのよ」
マジェアンは話しながら階段を下りてきた。私の目の前まで近寄ると、人さし指で私の鼻の頭に触れた。
「どうしましょう。兄は死んでしまったから、もうあなたを雇っておく理由はないわね。でも、あなたが兄を殺したのではないのなら、私のところにも物騒なお客様が来るのかしら」
マジェアンは私の鼻から唇に指先を移し、独り言のようにそう言った。
「君は誰かに……」
女は指先で私の言葉をさえぎった。
「そうよ、あなたを護衛として雇うわ。私の高潔の騎士になってもらうわ」
私は女の腕をつかみ、唇をまさぐっていた指を引き離した。
「高潔の騎士が仕えるのは、清らの姫君と相場は決まっている」
「あら、新月の騎士オビリニは毒姫モニーヴに仕えたわ」
「最後は毒殺されたがね」
「オビリニが妹と契っていたからよ」
「君に古典劇の教養があるのはわかったが、一体誰が君の兄上を殺して、君を狙うというんだね」
「それを調べるのが探偵、いえ、高潔の騎士の仕事よ」
マジェアンは毒のある笑いを浮かべ、素早く私に口づけると、振り返りもせず、屋敷を出ていった。
二階に上がると玄関の上の窓から、少し先に止めてあった黒塗りの馬車が走り去るのが見えた。
二階には幾つか寝室と客間らしき部屋が並んでいた。一つはマジェアンの部屋らしかった。黒に銀の星模様の揃いの絨毯と窓掛け、天蓋付きの大きな寝台にも金銀螺鈿の星や月の装飾、黒い布団にも星模様が散っていた。夢見るお嬢様の素敵な寝室だ。お嬢様はいささか悪趣味で、人間や小動物の骨が枯れた花束と一緒にあちこちに飾られていたが。
小さな書架には読み古した古い物語や説話集などに混じって、占星術や魔術に関する本も並んでいたが、いずれもさして危険な書物ではなかった。
キエルゴの部屋は廊下の向かい側にあった。部屋は誰かが荒らした痕があった。書き物机や箪笥の引き出しが開けられ、中身が床に放り出されていた。納戸も開けられ、高価そうな衣服が散らばっている。
書棚の本も床に落ちており、いささか剣呑な本も見受けられた。『大帝国の曙光』『メルカーの統一』はドナルジルズ将軍の著作、他にもクァロニアン帝国や東の玉座に関するいかがわしい本もあった。
何冊か手に取って見ていると、落ちた本の影に隠れて、書棚と箪笥の間の隙間に小振りの本が一冊落ちているのが目に入った。指を押し込んで引っ張り出すと、古びた革表紙の本で、擦れた金箔押しの書名は『古き海辺の民の歌』と読めた。著者の名はウム・モル・オクーとでも読めばいいのだろうか。
開くと楽譜と詩らしきものが並んでいた。詩はウォモレン（共通語）で書かれてはいたが、意味の取れない音が続いていた。譜面も今のサンジェリィの楽士たちが使っているものとは異なっているようだった。
私はその本を隠しに入れてゾラヴァーズ邸を出た。近くの警邏隊の詰所に投げ文をして、殺人があったことを伝えた。
六
クーリカフ街の探偵局に戻り、『古き海辺の民の歌』を開いた。かつて−〈大いなる厄災〉よりも前から−メルカー西岸と沿岸諸島には古い民族が住み着いていて、今もその血は人々の間に溶け込んで受け継がれている、という話は聞いたことがあった。ロラストの山の民と同祖だという説もあったような気もする。だが、それ以上の知識は私にはなかった。
本は百年ほど昔の私家版のようだった。短い後書きがついていて、古き海辺の民の末裔であるウム・モル・オクーなる人物が西岸の鄙びた漁村を歩いて収集した古の歌をまとめたものだと書いてあった。ディコンをすすりながら読んでみても、詩は無意味な音の連なりのようで、無論譜面も読めなかった。
外は日が暮れようとしていた。ボニージュ街へでも寄って古い記譜法を記した書物を探してみれば良かったのかもしれない。楽士に知り合いはいないが、〈龍髯亭〉あたりの提琴弾きにでも聞いてみれば何かわかるだろうか。
ノップラントからの呼び出しがあるかと思ったが、ゾラヴァーズ邸のあたりは北部局の縄張りだった。警邏隊南部局長にはまだ話は伝わらないのだろう。
二杯目のディコンを青硝子の酒杯に注ごうとした時、突然、扉が開いて、黒衣の女が飛び込んできた。
「助けて！ 命を狙われているのよ！」
マジェアンは幾らか青ざめた顔でそう言って、背後に隠れるように私の肩をつかんだ。震えてはいなかったが、やけに力が入っていた。
私は机の天板の裏に隠してある短剣を握り、しばらく動かず扉に視線を送った。誰も入っては来ず、扉を叩く者もいなかった。私は短剣を腰に手挟み、まだ肩をつかんでいるマジェアンの手をそっと握った。
「とりあえず、扉を蹴破ってまで君を追ってくる者はいないようだね。ディコンでいいかね。それしか置いてないんだ」
私は立ち上がり、もう一度マジェアンの手を軽く握ってから手を離した。女の手は冷たい汗で湿っていた。私は玄関まで行き、そっと扉を開けた。クーリカフ街の狭い通りには誰も歩いているものはいなかった。向かいの飯屋はもう店仕舞いだった。左右を見たが、遠くにデリン灯の緑がかった光が見えるだけだった。
私は扉を閉めて鍵をかけ、台所に行って客にマシュウ茶を入れる陶器の茶碗を持ってきた。来客用の赤い長椅子を目顔で示すとマジェアンは大人しく腰を下ろした。
「あいにく、客用の器がこれしかない」
「あら、家ではいつも一人酒なの」
少し調子が戻ったのか、女はそんな軽口をたたいた。私は艶のない地味な茶碗に琥珀色の酒を注ぎ、彼女の前に置いた。
「一人で飲むのが好きなのさ。酔っ払いの相手をしなくていいし、自分の醜態も曝さなくてすむ」
マジェアンは一息で飲み干したので、私は酒を注いだ。
「私の騎士になるには、そうはいかないわ」
「そんな約束をした覚えはない」
二杯目も一息で飲み干しそうな勢いだったので、私は彼女の手から茶碗を奪い取った。ディコンが少しこぼれた。
「誰が君の命を狙っているんだ。どうして、君は狙われるんだ。酔っ払うのはその話を聞いてからにしてもらおう」
女は不満げな顔で赤い唇を噛んだ。そういう表情をすると、意外に子どもじみても見える。
「そんなことわからないわよ。きっとキエルゴを殺した奴だわ。つけてくるのよ、ずっと。人気のない通りに入ったら、足音が近づいてきて……灯がなくてよく見えなかったけど、黒い影が……。それで、怖くなってここまで走ってきたのよ」
「君はここへ来るつもりだったのか」
「言ったでしょう。私を守ってほしいって」
マジェアンは私が机の上に置いた茶碗を取って、二杯目のディコンを飲んだ。
「誰から、いや何から守るんだ。君の兄上が島から連れてきた何かかね。鱗の生えた腕が十本くらいあって、目玉は六つくらいついているだろう」
「足音は二本足みたいに聞こえたわ」
私は机の上から革表紙の本を取り、客用の低い卓子の上に置いた。
「君が歌っていたのはどの歌だ。僕も聞いてみたいね。踊るのは遠慮しておくが」
古い歌の本を手にした女は、ぱらぱらと興味なさげに頁をめくった。
「歌は苦手なのよ。そんないやらしい歌い方はお止しなさいって、ぶくぶく太った先生に怒られたわ。清らなる乙女の歌声は天にまで届いて、この世に清浄の雨を降らせる。おお、天空の彼方に御座す大いなる御方よ……」
マジェアンは気取った作り声で歌い出した。わざとらしくため息交じりに息継ぎをした。謡いの教師は同情されるべきだろう。
「ヴィエネルか、いい加減にしてくれ。僕が聞きたいのはシュプローンの踊りのための歌だ。無論、哀れな踊り子のための歌ではないだろうが。あの娘は死んだ」
女は芝居じみた仕草で口に手を当て、歌をやめた。それから、両耳に手を当てて、左右をきょろきょろと見回した。
「しっ！ 聞こえる？ 聞こえるでしょ？ 誰かが来た！ お客さんよ！」
私はマジェアンを殴りたい衝動に駆られたが、克己心を試している暇はなかった。裏口の方で物音がしたかと思うと、抜き身を下げた男が部屋に飛び込んできた。
足も腕も二本だった。濃い鼠色の地味な縞の服を着て、顔には黒い覆面をしている。手には短めの諸刃の剣。
「その女に用がある。邪魔立てすれば命はない」
男は覆面の下からくぐもった声を出した。
「止めておいた方がいい。この女はとんでもなく厄介だ。持て余すぞ」
「ふざけるな！」
覆面の男は斬りかかってきた。マジェアンが持っていた茶碗を投げつけた。男は剣で払い除けたが、残っていた酒が飛び散って、覆面に染みを作った。私は隙をついて、襲撃者の懐に飛び込み、短剣の柄頭で男の顔を殴った。剣を持った右手を捩じ曲げ、短剣を男の喉元に突きつけた。
「言っただろう、厄介な女だって。酒臭い覆面じゃ主の所へ帰れまい。一杯引っかけてしくじったと思われる」
私は短剣に少し力を入れた。小さな血の玉が膨らんだ。男は右手の剣から手を離し、剣はがらんと音をたてて床に落ちた。
「マジェアン、覆面を剥ぐんだ」
女は眉間にしわを寄せて灰色の布の端をつかみ、一気に引きはがした。まだ若い男の顔が現れた。黒い髪を短く刈り、鼻の下には薄い髭を蓄えていたが、口が小さく、顎が引っ込み気味のせいか、あまり似合っているとは言えない。
「知り合いかね」
「見たことがあるわ。兄のところに来たことがある。同じ隊の……サテマーゴ、そう、サテマーゴね」
妙にうれしそうにマジェアンが言った。サテマーゴと呼ばれた男は怒りに顔を歪めて吐き出すように言った。
「呪われろ、裏切り者め！ 兄妹そろって、お前たちは下司野郎だ！」
マジェアンは男が落とした剣を拾うと、いきなり刃を男の頬に押し当てた。
「あなたがキエルゴを殺したのね。じゃあ、私があなたを殺してもいいわよね。それとも目玉をくりぬいて、ほうりだそうかしら」
奇妙に抑揚のない調子でマジェアンはそう言った。私は目顔で止めろとマジェアンに伝えたつもりだったが、女は私の意向を気にするつもりはなさそうだった。
「サテマーゴ、この女は僕の言うことなど聞かない。いや、誰の言うことも聞かない。君が下手なことを言えば、君の目玉をくりぬいて鴉の餌にしかねない」
「鴉なんて私は飼ってないわ」
「ああ、そうだろう。そういうことだから、サテマーゴ、君は正直に答える必要がある。君は帝命隊の一員でドナルジルズ将軍の命令でキエルゴを殺した、そうだな」
若い男は私の顔とマジェアンの顔を交互に見て目玉をきょろきょろさせた。額には汗が滲んでいる。いろいろと後悔することがあるのだろう。
「呪われろ！ 大帝国建設のためにこの身を捧げているのだ！ お前たちの脅しになぞのると思うか！」
マジェアンが肘をあげて切っ先を男の目玉に突き刺そうとしたので、私はサテマーゴを床に放り出し、女の剣を握った腕をつかんだ。
「痛い！ 何するのよ！」
「馬鹿なことをするな！」
私は女が剣を放すまで手をゆるめなかった。マジェアンは剣を取り落としたが、その隙にサテマーゴは扉に向かって走った。私は短剣を投げつけたが、外れた。刺客は扉の外に走り去った。
すぐに後を追ったが、どこかの路地を抜けて大通りに入ったのか、サテマーゴは見つからなかった。探偵局に戻り、扉に刺さった短剣を抜いた。マジェアンは赤い長椅子に座って、ディコンの酒瓶をなでていた。サテマーゴの剣は床に転がったままだった。私はそれを拾い上げた。
「帰ってもらおうか」
「ひどいことを言わないで。また、狙われるわ」
「警邏隊の詰所に行って、ゾラヴァーズ家の娘だと名乗ればいい。愛想のない男たちだが歓迎してくれるだろう」
「私の騎士にはなってくれないのね」
「毒抜きが必要だね。三四日、警邏たちと付き合うとずいぶんすっきりするかもしれない」
マジェアンは憤然とした様子で立ち上がり、ものも言わずに出ていった。私は転がっていた茶碗を拾い、短剣を元の場所に戻し、机の上にサテマーゴの置き土産を置いた。軍人や警邏隊がよく使う、何の変哲もない短めの真っ直ぐな剣だった。
私は青硝子の酒杯にディコンを注いで一口飲んだ後、ゾラヴァーズ邸から持ってきた革表紙の本が見当たらないことに気づいた。
七
扉を叩く音で目が覚めた。窓掛けの向うは薄明かりで、まだ夜が明け切らない気配だった。サテマーゴのお仲間なら、扉を叩きはしない。マジェアンも叩かないかもしれない。何にせよ、こんな朝早く訪ねてくる知り合いはいなかった。
私は沓を履いて短剣を後ろ手に持ち、扉の向うの来客に声をかけた。
「探偵局は昼前からだ。店開きには早過ぎるね」
「警邏隊だ。探偵スナブ・ランケンに出頭の命が出ている。ここを開けるんだ」
掛け金を外し扉を開くと、茶色い外套の襟をたてた仏頂面の男が立っていた。顎が細くて、口のわきのしわがやけに深い。眉間にもしわが寄っているのは早朝からの仕事だからだろうか。
「どういう用件だね。この前飲み過ぎて立ち小便をしたのがまずかったのか」
警邏はにこりともせずに同じ台詞を繰り返した。
「警邏隊だ。探偵スナブ・ランケンに出頭の命が出ている。朝っぱらから面倒はかけるな」
「局長直々の御命令かね」
「そうだ、ソルフロンド様からの夜が明けたらすぐに呼び出すようにとの御命令だ」
「そうか、寝間着じゃ行けないな。着替えてくるよ」
私は下着の上に鎖帷子の胴着を着込み、その上に青い襯衣を着た。腰にファバーン剣を佩くと、柄から奇妙な高揚感とでもいうべきものが伝わってきた。
この剣を古の英雄から譲り受けてから、随分と月日が経っていた。三千年の歳月の前に、剣の魔力は磨り減っていたはずだったが、不思議なことにむしろ近頃は力を増しているように感じられた。活性化した時のその力は、幾度となく私を救ってくれてはいたが、近頃では私の意志とは別に、剣自身が私とは別の振る舞いをしようとすることがあった。いや、そういう風に私が感じるということだろうか。剣が喋るわけではないし、私の意志を縛り動かすわけではない。だが、私は長年の付き合いのこの太古の魔剣に、幾許かの不安と不信を感じるようになっていた。
剣が何か不満を言うわけではない。反り身の刀は私の左腰に黙って収まったが、そこからは一種の微熱のようなものがかすかに伝わってきた。ソルフロンドは警邏隊北部局の長だ。高圧的で市民の評判は悪い。
玄関を出ると黒塗りの馬車が待っていた。紋章も何もついていない。御者台には鍔広の帽子を目深に被った男が座っていた。警邏のお仕着せではない。
「朝が早過ぎて、御者になる警邏がいなかったのかい」
顎の細い男は不機嫌に一言「乗れ」と言っただけだった。
馬車の中にはもう一人男が乗り込んでいた。四十前くらいの長身の男で、濁った緑色の軍服のような服を着て、両膝の間には鱗付きの革を巻いた柄の長剣があった。男は糸のように細い目でじろりと私を見た。
私は目の細い男の向かい側に座り、私の隣に顎の細い男が座った。馬車は走り出した。二人の男は押し黙っていた。馬車の窓には窓掛けが下ろされていて外は見えなかった。ラグラン大通りには出ていないようだったが、北には向かっているようだ。
馬車はがたがたと揺れる裏道を何度も曲がり、走り続けた。窓掛け越しに朝日が差し込んできたが、鈍い光だった。あまり良い天気ではないのだろう。
やがて馬車はどこかの屋敷の拱門の中に入ったのか、光が翳り、また明るくなり、止まった。
「降りるんだ」
茶色の外套の男がそう言って、先に馬車から下りた。もう一人の男が細い目で降りるように私を促した。
馬車から出ると、そこは明らかに警邏隊北部局ではなかった。どこかの屋敷の車寄せで、緑色がかった石造りの館の玄関口だった。目の細い男よりも、さらに細い目をした蝋人形のような肌の執事が出迎えてくれた。ぴかぴかに磨かれた廊下の奥の下り階段へ連れていかれた。客人を地下室ではもてなさない。大抵の場合は。
階段の下には地下室にしては豪勢な扉がついていた。蝋人形が扉の側の伝声管のようなものに何かささやき、鍵が開く音がした。どこかで見たことのある服を着た若い男が扉を開けた。金の肩章付きの青い軍服−〈割れ兜〉にいた酒乱の若い兵士と同じだ。顔にも見覚えがあった。サテマーゴとかいう名の昨夜の若造だ。目が合うとサテマーゴは虚勢を張って私を睨んだ。
「お家までちゃんと帰れたんだな。着替えも済ませた。たいしたもんだよ」
若い兵士は怒りに顔を赤く染め、腰のものに手をやったが、荒い鼻息を二三度吹き出しただけで、我慢することができた。
地下室は中も豪勢な作りだった。暖炉があり、床はちゃんと板敷きで絨毯も敷かれ、石壁を幾つもの綴れ織りの壁掛けが覆っている。正面の壁には大きなメルカーの地図が美しく織り込まれたものが掛かっていた。金の糸でメルカー大帝国と縫い込んであるのが、安っぽく見えて玉に瑕だ。
部屋の中央には大きな円卓が置かれ、その向うにより高級そうな金の肩飾りと青が深い軍服を着た男が座っていた。髭をきれいに剃り、金茶の髪も短い。眉の端は下がっているが、口の端が上がっているので、泣き笑いをしているようなひどく奇妙な表情に見えた。歳は五十を超えたくらいだろうか。
ドナルジルズ将軍−恐らくは−の隣にはもう一人男がいた。黄色っぽい肌をした太った男だ。禿頭で右の頬に目立つ黒子がある。二重瞼がやけにくっきりとしている。新聞の戯画で見覚えのある顔だった。警邏隊北部局のソルフロンド局長だ。
ソルフロンドとは反対側にマジェアンが座っていた。昨日と同じ黒い服を着ている。目の下の隈がいささか深い。女はちらりとこちらを見て、すぐに目をそらした。姫君はだいぶ機嫌が悪そうだ。
「北部局はどこぞのお屋敷の地下にも詰所をお持ちかね」
太った男が気色ばんで何か言おうとしたが、軍服の男が仕草で制した。
「君がスナブ・ランケンか」
ドナルジルズ将軍はそう言って椅子から立ち上がった。かなり小柄な上に声も甲高いので、子どもが芝居でもしているようだった。下がった眉の下で光る暗い瞳は子どもには見えないが。
「拝謁を許され、身に余る光栄ですね、将軍閣下に局長殿」
「ふざけた男だ。引っ捕らえてやる」
ソルフロンドが黄色い顔を幾らか赤くして吐き捨てた。
「もう、捕まっているのかと思いましたよ。将軍閣下に対する不敬罪か何かですか。御存知でしょうが、そんな法律はこの街にはない。王の悪口を言おうが、将軍の批判をしようが、警邏隊の不正を暴こうが自由です」
ソルフロンドは太った体を揺すって立ち上がった。顎の細い男と目の細い男が左右から私を押さえつけようとした。
「止めたまえ。私は君に話があってここへ呼んだのだ。無駄な刃傷沙汰はご免被る」
ドナルジルズは円卓をまわり、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「用件は二つある。君はこの女性から大切なものを預かっているだろう。我々はそれが欲しい。それは本来、我々が手にするべきものだ。大人しく渡してくれれば、この女性も君も安泰だ。謝礼もしよう」
「大切なものねえ。愛とか、そういうものかね」
マジェアンは青ざめた顔に薄笑いを浮かべ、ドナルジルズは私を見上げて睨みつけた。瞼がぴくぴくと動いていた。
「我々はメルカー統一、帝国の建設という崇高な目標のためにこの身を捧げている。君のそうした態度は、この場に相応しくないものだ」
「大切なものって何だ？ 僕はこの事件がさっぱりわかっていないんだよ。あんたたちはあの小さな島で何を漁っていたんだ？ 兄妹で奪い合っていたものは何だ？ もう四人も人が死んでいるが、僕は何も知らない。いい加減にして欲しいね」
背の低い将軍は今度は口の端をぴくぴくと震わせた。ぎろりとマジェアンの方を睨んだが、彼女はくすくすと笑い声をあげたので、ドナルジルズは唇を白くなるまで噛んだ。
「それで、もう一つの用件というのは何かね。聞くだけは聞いておこう」
将軍は怒りを抑えて話を続けた。
「君を我々の仲間に迎え入れたい。君の佩剣についての話は聞き及んでいる。古のファバーンの島で鍛えられた魔剣だ。君がその剣を振るって幾多の邪悪なものを退治したことも知っている。我々の大義のために、君とその剣の力が欲しい。いつまでも市井の徒でいるような器ではないだろう。メルカー大帝国建設のために力を貸して欲しいのだ」
マジェアンがげらげらと笑い出した。ソルフロンドが分厚い手で女の頬を打った。どす黒い鼻血が流れ出たが、彼女はまだ笑っていた。血がやけに黒く見える。
「馬鹿げた妄言は東の玉座とかクァロニアン帝国とかだけで十分だ。それに、あいにくと無頼が性に合ってるんでね。徒党を組むのは無理な相談だ。特にあんたらみたいないかれた奴らとはね」
ドナルジルズは肩を怒らせ拳をにぎりしめたが、口を開いたのはソルフロンドだった。
「将軍、大義も何も持たない奴をまともに相手にしても無駄だ。ヤムオー、ギナンキーク！」
二人の部下は名前を呼ばれただけで、自分の仕事がわかるようだった。そういう仕事しかやらないのだろう。顎の細い男がマジェアンの側に行き、剣を抜いて彼女の頬に押し付けた。目の細い男は私の隣で剣に手をかけた。瞬きする間に抜いて私を斬れるつもりなのだろう。
「スナブ・ランケンとやら、お前はあの南の堅物の知り合いらしいが、そんなことはここでは何の力にもならんぞ。いずれ、あいつにもほえ面かかせてやるが、まずはお前だ」
ソルフロンドは顎の細い男に向かって目顔で合図した。男は剣をマジェアンの頬の上で滑らせ、にやにやと笑った。女は笑うのは止めたが、奇妙に余裕のある表情で、宙のどこかに視線をさまよわせていた。
「自分の方が早く抜けると思っているだろう。そうかもしれない、俺を斬れるかもしれない。でも、その間にお前の女の顔には一生消えない傷がつく。お前が女のもとに駆けつける前に、首にもう一筋傷がついて、血が流れて止まらなくなる。すぐには死なない。ヤムオーはそういうのが好きなんだ。お前はヤムオーを斬ることができるかもしれないが、女は助からない。そういう寸法になっている」
目の細い男−彼がギナンキークなのだろう−は、ますます目を細くして、低い声でつぶやくように言った。彼はしゃべりすぎた。
私は剣を抜く振りをして、外套の裏に仕込んだ手裏剣をヤムオーめがけて投げつけた。掌ほどの刃は奴の細い顎の下に突き刺さった。血を噴いて呻きながら、ヤムオーは床を転げ回る。
ギナンキークは剣を抜いたが、私は手裏剣を投げた勢いで波打つ外套を奴の刃に絡ませた。外套の裾は裂けたが、私の体は無事だった。
抜いたファバーン剣をギナンキークに叩きつける。刀身の神秘文字が緑の光を放っている。誰が魔術を行っているのか。
大層なことを言うだけあって、目の細い男はそれなりの腕だった。私の一撃を受け止め、流すと、打ち返してきた。二度、三度、鋼の刃が打ち合い火花が散る。ファバーン剣が本当に鋼でできているのかは、謎だが。
私はマジェアンがこちらに逃げてくるものと踏んで勝負に出たが、そうはいかなかった。ソルフロンドが剣を抜き、ドナルジルズも剣を手にして円卓をまわり、女の側に駆け寄った。ちんぴら警邏も将軍もやることは同じだ。
マジェアンは目の前の出来事に興味がないように、視線を泳がせて、椅子に座ったままだった。
「剣を置け！ 女が死んでもいいのか！」
ソルフロンドが大声を出す。私は気を取られた振りをして切っ先を下げた。ギナンキークは気を緩めるのがいささか早すぎた。私は剣を返して、奴の喉笛を下から突き上げた。細い目を精一杯見開き、口から血を吐き散らして、奴は死んだ。
「サテマーゴ、何をしている！」
門番のように突っ立っていた帝命隊の若者が剣を抜いた。切っ先が揺れている。青白い顔に汗が浮かんでいる。
「怖いのか。御立派な帝国とやらは一介の兵士の命など守ってくれはしない。アニャチでもイーテンでも、もちろんメルカーでも」
サテマーゴは剣術学校で飛び交っているような奇声を発して、斬りかかってきた。私は彼の剣を弾き返し、右腕に斬りつけた。剣を握ったままの右腕が吹き飛び、鮮血が噴き出した。若い男は悲鳴を上げたが、次の一太刀で永遠に静かになった。
「剣を捨てろ！ この女も血反吐を吐いて死ぬことになるぞ！ 聞こえないのか！」
ソルフロンドの丸い顔は売れた果物みたいに赤くなっていた。命令を聞かない相手とは、滅多に会わないのだろう。
「その女が死んで困るのはあんたたちじゃないのかい。彼女が何て言ったのか知らないが、僕は高潔の騎士じゃないんでね。僕はあんたたちの探している何かなんて知らない」
警邏隊の長官はふっと表情を緩めた。赤らんでいた顔が急に白くなったように見えた。そして、剣先をマジェアンの頬に押し付け、さっと引いた。
マジェアンは悲鳴も上げなかった。ぱっくりと口を開けた頬の傷からは黒い何かが流れ出た。血ではない、墨のように黒いものだ。ソルフロンドは自分の剣が作った傷を信じられないという目つきで見ていた。ドナルジルズは呆けたように口を開いていた。
私は素早く手裏剣を二本、投げつけた。一本はソルフロンドの右肩に刺さり、太った男は剣を取り落とした。もう一本はドナルジルズの背中に突き刺さったかに見えたが、下に鎖帷子を着ていたのか、上着に穴を空けただけのようだった。
私は円卓に飛び乗り、マジェアンのもとへ走った。ファバーン剣が緑色に光り、掌にはしびれるような感覚が伝わってくる。ソルフロンドは太った指で肩に刺さった短剣を抜こうとしている。私は円卓の上からドナルジルズに跳びかかった。
だが、私の剣は空を斬った。将軍は何かに足を取られて、床の上を引きずられていた。
マジェアンは椅子に座ったままだったが、椅子の下にはどす黒い液体が滴り落ちていた。顔の傷だけではない、黒衣の裾の下から黒い墨のようなものが流れ出ている。強い潮の匂いがした。
液体だけではなかった。黒く蠢くものが、彼女の衣裳の下から伸びて、ドナルジルズの足に巻き付いていた。ぬらぬらと光る黒い蛸か烏賊の脚のようなものが、将軍の体を搦め捕っているのだ。
ドナルジルズは蒼白な顔で、床の上を右に左に引きずられていた。剣はまだ握りしめており、ひいひいという泣き声とも悲鳴とも付かない声を漏らしながら、黒い触腕に斬りつけようとするが、当たらない。それどころか、一撃が自分の太股を斬り裂き、将軍は一際大きな苦悶の声を上げた。噴き出した赤い血が床の上の黒い液体と入り交じる。
ソルフロンドはようやく肩に刺さった刃を引き抜いた。剣を拾い上げようとしたが、そこへもう一本の黒い触腕が伸びてきた。大きな蛞蝓のようにも見えるそれは、男の太い手首に巻き付いた。警邏隊北部局の長官は顔を真っ赤にして、逃れようとしたが、マジェアンの黒い腕は決して獲物を放さなかった。ソルフロンドは左手で剣をつかみ、触腕に斬りつけたが、ぬめる表面に刃は滑り、切断することはできなかった。
マジェアンは椅子に座ったままだったが、突然顔を上げ、左右の男たちを見て、にやにやと笑った。それから視線をあげて、円卓の上に立ち尽くしている私を見た。
「助けに来てくれたのね、私の高潔の騎士様」
切れ長の黒い目には、奇怪な青みのある光が宿り、赤い唇の中にのぞく舌は触腕と同様に黒ずんで見えた。
「問答無用で連れて来られただけだ。それに君には僕の助けはいらないだろう。君の騎士は君の中にお住まいのようだ」
「薄情な人ね」
「多分、君ほどではない。その二人をどうするつもりだ」
マジェアンは触腕に捕えた二人の男に流し目を送った。ドナルジルズ将軍は足からの出血のせいか、蒼白な顔になり、子どものような甲高い声で「この化け物！ 呪われよ！」などとわめいている。ソルフロンド局長は真っ赤な顔に汗を滲ませ、まだ触腕を切断しようと努力していた。
「私、この人たち、嫌いなのよ」
「僕も好きではないがね……」
私が次の台詞を言う前に、彼女の裳裾の下から、幾らか赤みを帯びた別の触腕が二本、するすると伸びた。それは二人の男の首のあたりに巻き付いた。鏃のように尖った先端が喉笛に突き刺さり、二人の男は体をひくひくと痙攣させ、口から赤い血の泡を噴き出した。すぐに二人の男はぐったりとして動かなくなった。ソルフロンドはひと回り痩せたように、ドナルジルズはいっそう小柄になったように見えた。二人とも顔色は紙のようだった。
触腕が彼らの体から離れ、マジェアンの黒衣の下に吸い込まれるように見えなくなった。いつの間にか、頬の傷は跡形もなくなっていた。黒い墨のようなものだけが、白い頬に幾筋か跡を残していた。
喉に手裏剣が突き刺さったヤムオーとかいう男はすでに事切れていた。
「帰りましょう。ここは空気が悪いわ。潮風にでも当たりたいわ」
そう言ってマジェアンは立ち上がり、黒い刺繍入りの手巾で頬をていねいに拭った。
八
階段を上がり玄関広間まで行くと、どこからか執事が現れた。この手の人間はたいていどこからともなく現れる。
「地下室で君の御主人と客人が死んでいる。新しい勤め先を探した方がいい」
「うちで雇ってもいいわよ。使用人がいなくて困っているのよ」
執事は蝋人形のような顔にわずかに困惑の表情を浮かべて、首を横に振った。それから、廊下の方へ出ていった。
玄関前の車寄せにはまだ馬車が止まっていた。御者は帽子を脱いで、庭で虫か何かをついばんでいる小鳥を眺めて微笑んでいた。
「さて、将軍と警邏隊の局長が死んだ。大事になる。街を逃げ出すという手もあるが」
「お風呂に入って、ゆっくり寝たいわ」
「ふむ、それもいいかもしれない」
「クラーシャ街のあの待合に行きましょう。あそこは部屋でお湯が使えたわ」
御者は小金を渡すと、すぐに馬車を出した。今日出会った中で一番いい人間に違いない。
「あの執事より御者を雇った方がいいんじゃないか」
「そうかもしれないわね」
マジェアンは窓掛けを上げて、窓も開けて、朝の空気を吸い込みながら、そう言った。
待合に着く前に、マジェアンは馬車を高価そうな衣装や装身具が並んでいる店の前に止めた。店はまだ開いていなかったが、彼女の顔を見ると、店主は愛想よく扉を開けた。マジェアンは絹か何かの服を三四着と革の洒落た旅行鞄を買った。高潔の騎士としては、買い物に付き合い、荷物を持つしかなかった。
それから待合に入り、彼女はお湯を運ばせて風呂に浸かった。卵と魚と粥の朝食を二人で食べると、マジェアンは眠いと言って寝床にもぐり込み、すぐに静かな寝息をたてはじめた。
私は早起きしたわりには眠くはなかった。きれいな寝顔を−どこにも傷痕はなかった−眺めながら、少しシェアを飲んだ。
キエルゴが島から何を持ち帰ったのかはわからないが、それはどうやらマジェアンと一体となったらしかった。大帝国建設の力となると帝命隊の連中が信じた何かが、この女の中にいるのだ。母親が股間から血を流して死んでいたという話を私は思い出した。それは女の胎内に巣くう何かなのかもしれない。死んだ踊り子はそのために、古の踊りや歌を仕込まれていたのだろうか。兄が殺された後、マジェアンは何かを手に入れて、自分の体で試したのか、あるいは、自分の体の中に隠したのだろうか。ウム・モル・オクーの本に記された歌のどれかが、儀式には必要だったのだろうか。
いくら考えてもはっきりとした答えが出るはずはなかった。そもそも彼女は何をしようとしていたのだろうか。メルカー大帝国の女帝でも目指しているのか。
「何をそんなに私の顔を見ているのよ」
薄目を開けて女がそう言った。
「眠れる姫君の御尊顔があまりに魅力的でね」
マジェアンは瞼を閉じて唇の端を少し歪めて笑った。
「目覚めるには騎士の接吻が必要なのよ」
私が黙って見ていると目をつぶったまま女は言った。
「怖いの？ 怖いでしょう、一物を食い千切られるんじゃないかって」
「ああ、正直言ってひどく怖いね」
マジェアンはぱっと目を開き、上掛けを跳ねのけた。先の尖った豊かな乳房が揺れた。彼女は私に抱きついた。
「怖くても駄目よ。腰が抜けるまでしてちょうだい」
暖かい唇が押し付けられてきたので、言葉を返すことはできなかった。彼女の唇は少しだけ潮の味がした。
腰が抜ける前に待ち合いには警邏隊が踏み込んできた。散々絞られたが、彼らはマジェアンと私を罪に問うことはできなかった。将軍と警邏隊局長の死、あからさまな叛乱の企てに、偉い奴らは四苦八苦したようだった。
ノップラントには一度だけ呼び出された。旧知の警邏隊南部局長は「何も言うな、何もするな」と私に忠告した。
私は忠告を守ったが、新聞は帝命隊の陰謀を書き立てた。ドナルジルズとソルフロンドは帝命隊内の抗争で死んだことになっていた。何人かの軍人と警邏の名前が上がり、彼らは陰謀に加担していたとして、重罰に処された。
ウム・モル・オクーやフィジンガ島について少し調べてみたが、はっきりとしたことはわからなかった。彼らが崇拝していた今は忘れられた存在−神、精霊、その手のものだ−については、ほとんどわからなかった。
マジェアンは屋敷を引き払い、しばらくどこかに雲隠れしていたようだった。キエルゴはフィジンガ島での戦いで受けた傷が元で死んだということになったらしい。
しばらくして、彼女から手紙が届いた。市の北の外れ、海沿いに立つ古い館に移り住んだという。遠い昔にはウム・モル・オクーの一族が所有していた館で、遠くフィジンガの島影も見えると書いてあった。
手紙には、館への誘いの言葉も記されていたが、私は行かなかった。姫君は騎士は憶病者だと蔑んだかもしれない。手紙は一度しか来なかった。
しばらくして、ピグヴァフやフィンレットあたりの北の漁村で、急に魚が捕れるようになったという噂を耳にした。港の酒場では、漁夫や船乗りの間で潮の巫女という女が崇められているいう話も聞こえた。その女の言うことを聞いていれば、豊漁と航海の安全が約束されるのだという。代償に男たちの精力が必要だという噂もあった。それで女房と騒動になったり、命を落とす男もいるという話だ。
アーカンタの店で北の港で揚がった蛸や魚をつまみに酒を飲むと、マジェアンの姿態が頭に浮かんだ。酒杯に手を伸ばせば、彼女の柔らかい肌と重い肉に触れられるような気がした。
冷たい硝子や陶の肌とその中の火酒は、私に女の肌とは違う幻を与えてくれた。だが、幻を現に打ち勝たせるための努力をいつまで続けられるのか、私にはわからなかった。
