行方知れずの道楽息子を捜し出して連れ戻して欲しいというのが、その男の依頼だった。ナスティオーブは五十過ぎの気難しそうな顔つきの男で、仕立屋をやっていると言った。仕立屋と言っても何人も職人を抱え、ラグラン大通りには婦人向けの店を構え、役者や踊り子、歌い手の舞台衣装も手掛ける大店らしい。
一見地味な濃紺の上下に細い縦縞の襟の小さな襯衣という衣装は、煤けた洋灯の光を受けて、ちらちらと光った。恐らくは高価な生地で仕立てられているのだろう。中指には幅の広い銀の指輪を嵌めていた。
「お恥ずかしい話ですが、息子は歌い手や役者に入れ揚げてしまう質でしてな。いずれ役に立つこともあろうと、劇場だの舞踏場だの連れ歩いたのが悪かったのか、ちょっと見目のいい女がいるとすぐに手を出して貢いだ揚げ句に痛い目に会うことがこれまで何度もあったのです」
ナスティオーブは何度もマシュウ茶をすすりながら話を続けた。これまでも女のところに転がり込んでしばらく帰ってこないことはあったのだというが、今回はもう一月にもなるという話だった。
「金がなくなるか、手ひどく振られるかで、泣きついてくるのが毎度のことだったのですが、今度ばかりは何の音沙汰もないのです。私どもでも伝手を頼って捜してみましたが、一向に行方が知れません」
私はゲイトローフという名の彼の息子が幾つになるのかと聞いてみた。仕立屋は二十六になると言った。
「どこにいるのかは調べてお知らせしましょう。ただ、十六ならいざ知らず、二十六の男が女に惚れて一緒にいるのなら、無理矢理首に縄を着けて連れて来るわけにはいかない。それで良いのなら、お引き受けしましょう」
ナスティオーブは幾らか不満げな顔を見せたが、それで良いと言い、手付けだと言ってかなりの額のダズン金貨を卓子の上に置いた。それから近頃息子と付き合いがあったという何人かの女の名前を告げた。懐から以前付き合っていた女が描いたという絵を取り出して広げてみせた。
木炭か何かで描かれた細面の優男は父親とはあまり似ていなかったが、仕立屋は死んだ母親似なのだと言った。
父親から聞いた女たちを訪ねたが、皆、ゲイトローフの居所は知らないと言った。近頃贈り物がなくて寂しいと言った踊り子はいたが、他の女たちは行方知れずの男をさして気にかける様子もなく、あからさまに悪くいう女もいた。曰く、金で女心−心だけではないが−を買おうとするろくでなし野郎だと。
最後に訪ねた女は化粧道具が雑然と置かれた楽屋で煙草を燻らせながら別の女の話をした。
「ゲイトローフの旦那ね、ちょっと遊んであげてちょっと貢いでもらっただけよ。ほら、この耳飾り、ちょっといいでしょ」
女は銀に青玉か何かが嵌め込まれた耳飾りを指で揺らせてみせた。
「旦那ね、あの子たちに引っかかってたのよ。あの性悪の双子よ」
「双子？ それは親父さんの話にはなかったな」
「へえ、ちょっとは恥も知ってたのかしらね。女って言ったってまだ子どもよ。十五六なんじゃないの？ ネヴォンズの店で二人で歌ったり踊ったりで、そういうのが好きな男にはちょっとした人気らしいわよ」
私は双子の名前を訊いた。女は自分の吐いた煙にむせて咳をした。それから汚れた床に唾を吐いて答えた。
「確かジェーマとジュニーフだったと思うわ。どっちが姉でどっちが妹だか知らないけど。まあ、おんなじ顔だからどっちでもいいことよね」
女はそう言って笑い、口紅を塗り直した。
二
ネヴォンズの店というのはダンカル川近くの酒場や曖昧宿が集まっている一角にあった。一階は酒場で二階は宿屋らしき作りで、安っぽい看板には〈ネヴォンズの店 酒と宿〉と大書してあった。宿という文字の上には雑に塗りつぶした跡があった。宿屋はもうやっていないらしい。大看板の下にはもう一つ小振りの看板がぶら下がっていて、そこには〈青い花〉と書かれていた。
酒場は無数の蝋燭と洋灯で照らされ、やけに明るかった。四人の男たちがシェアを飲みながら卓子の上に骨牌を並べていた。店に入ってすぐの左側に下へ降りる階段があり、〈青い花〉という飾り文字に青い花の絵が配われた小さな看板が壁に掛かっていた。その下に二人の女が互いの腰に手を回して艶然と立っている絵が貼られていた。「ジェーマとジュニーフ 鏡写しの美神 魅惑の舞」という惹句が添えられている。
階下からは歓声らしきものがわずかに聞こえてきた。階段を降りようとすると帳場にいた男に呼び止められた。
「下に行くんなら、金を払ってからだ」
茶色い巻き毛の男が帳場を回って近づいてきた。右足を引きずるようにしている。薄汚れた前掛けで手を拭いて、こちらに差し出した。男は結構な金額を告げた。
「見合った出し物なんだろうな」
男の掌に銀貨を載せながらそう言うと、店の男は頬を引きつらせるようにして笑いらしきものを見せた。
「ああ、そりゃあ大したものさ。みんな骨抜きさ。もう、とっくに始まってる。さっさと行かないと終わっちまうぜ」
巻き毛よりも濃い焦茶色の目は笑っていないように見えた。
階段を降りると扉越しに中の音が聞こえてきた。拍手と歓声が止んで女の声が聞こえた。重い扉を開けると中は人いきれでむっとした。
暗い地下室には粗末な長椅子が置かれ、数十人の客がいた。左手奥に小さな半円の舞台が設えてあり、そこだけが囲んだ蝋燭の明りで照らされていた。
舞台には二人の女がいた。二人は貼り札の絵のように互いの細い腰に腕を回し、もう片方の腕を客の方に投げ出すようにしていた。腿の上まで切れ込みの入った白い衣裳は肩も露で、蝋燭の明りに輝く白い肌と溶け合うようだった。背中まである長い金色の髪を二つに分け、項のあたりで縛っている。薄い眉も金色なので、ほとんどないように見える。青みを帯びた大きな緑色の瞳にわずかにまくれたような赤い唇、高く尖った鼻に少し突き出した頤、二人は鏡に写したように同じ容貌だった。
舞台化粧のせいか十五六よりはもう少し上に見えたが、声にはどこかまだ幼さが残るようにも聞こえた。二人は客席に向かって来場の礼など述べ、客の男たちは逐一拍手をしたり、歓声を上げたりしていた。二人の声は完全に重なりあって、微塵のずれもなかった。唇の動きから眼差しまで、ぴったりと一致しているようだった。
舞台の袖で手風琴が奏でられ、二人は次の曲を歌い始めた。話し声よりも重い声となり、切ない恋心が裏切った男への恨みへと変わり行く様を歌った。二人は歌いながら白い手足をくねらせて艶やかに踊った。緑玉の瞳は潤んだ眼差しで客の一人ひとりを見据えているようだった。
歌う口元に私は二人のわずかな違いを発見した。向かって左手に立つ娘には右側、右手の娘には左側、それぞれ口元に黒子があった。
手風琴の調子が変わり、速い律動で明るい旋律が流れ出すと、二人は舞台狭しと踊りまわり、衣裳の切れ込みからは腿までが露となった。笑顔で胸を一瞬開けて見せたかと思うと、くるりと後ろを向いて真っ白な背中を見せた。肩から背の肉がうねる様がやけに扇情的だった。
客たちは皆、椅子から立ち上がり、双子の歌と舞に合わせて踊り出した。酒杯を持った手や拳を突き上げて、興奮した声を上げた。
双子は同じ動きをする時でも掛け合いのように動く時でも、ぴたりと息が合い、まるで絡繰り仕掛けが体内に仕込まれてでもいるかのようだった。
二人はそうして何曲か激しく歌い踊ると、また手風琴の音が変わり、静かな曲調となった。双子は低く静かな声で歌い始めたが、次第に曲は速さと激しさを増し、手風琴は叩きつけるような律動を刻んだ。
「あなたは私のもの！」
二つの声が重なり、そう叫ぶように歌うと、客席の男たちが応えて声を上げた。
「私はあなたのもの！」
また二人が歌い叫ぶ。
「あなたは私のもの！」
男たちが応える。
「私はあなたのもの！」
手風琴の音が突然低く静かになると、双子は向かい合い、互いの指を絡ませて接吻するかのように顔を寄せあった。もう一度客席のほうに顔を向けると、細く震えるような声で「あなたは私のもの、溶け合い、一つ」と歌った。
二人の声が消えると舞台は暗転し、客たちは拍手と歓声を送った。再び明りが点ると、もう双子の姿は消えていた。何人もの男たちが舞台に押し寄せ、「ジェーマ！ ジュニーフ！」と二人の名を繰り返し呼んだ。小銭を投げる者や花束や贈り物の包みを差し出す者もいたが、二人は姿を現さなかった。舞台挨拶やおまけの再演はないらしい。
舞台の袖から背の低いがっしりした体つきの若い男が現われ、客からの贈り物を預かり、投げられた金を集めて回った。先刻まで手風琴を弾いていた男のようだった。男は形ばかりの笑みを浮かべ客に何度も礼を言っていたが、声も面持ちも虚ろに見えた。
舞台下手からもう一人の男が現われた。こちらは五十絡みで長身で痩せていたが、角張った顎や落ち窪んだ目は手風琴の男と似ているようにも見えた。背の高い男も貼り付けたような笑みで客に頭を下げて慇懃に礼を言った。
客たちの殿に階段を上り酒場に出ると、双子の見世物の客と思しき男たちが幾人か酒を飲んでいた。私は止まり木でディコンを飲み、茶色い巻き毛の男に声をかけた。
「なかなか素敵な出し物じゃないか。高いと思ったが、これなら損はないね」
帳場の男は固い笑いを見せて「そうだろう」と言った。
「下にいた背の高いのが店主かい」
男はそうだと答えた。
「ぱっと見にはそんなにやり手には見えなかったが、あんな上玉どこで見つけてきたんだい」
「どうして、そんなことを聞くんだ」
「僕もおこぼれに預かれないかと思ってね」
私はグレイズロウ通りで劇場主の手伝いをしていると言い、多めの銅貨を添えて酒杯を彼の方へ滑らせた。
「同じのを頼む」
巻き毛の男は少しだけ間を置いて、私の前に金色の酒を注いだ杯を置いた。
「言っとくが金を積まれても引き抜きは無理な話だぜ。ネヴォンズの旦那にそんな気は一つもない」
「そんなつもりはないさ。ただ、今日日いい娘を探し出すのは一苦労だ。掘り出し物がどこかに転がっていないかってことさ」
店の男は鼻で笑って首を横に振った。
「家出してきた田舎娘を拾ったのさ。確かクーカッチとかいう村から当てもなくサンジェリィに出てきたのをネヴォンズの旦那が拾ってきたんだよ」
「それを旦那が磨き上げたってことか。さぞかしお楽しみだったろうな」
男は幾分強ばった表情になり、そんなことはないと答えた。
「旦那は売り物に手を付けたりはしない。それにあの二人は最初から寸分違わぬ歌と踊りを見せて、皆びっくりさ」
「まったくの僥倖だね。あやかりたいものだ。楽士もやる気が出るだろう。あの手風琴の男は身の丈は別として旦那に似ているようだが」
「あれは息子のラーニーだ。もう一人、上に提琴弾きのダニッシュってのがいたがね、女とどこかに消えちまった」
もう一枚、銀貨を滑らせると巻き毛の男は、双子が来てしばらくして、その頃舞台に出ていたエルキナという女と出ていったのだと言った。ネヴォンズが双子にばかり肩入れしてエルキナをお払い箱にしようとしたので、エルキナとできていたダニッシュは一緒に出ていったということらしい。
私は懐からダズン金貨を一枚出して、男にちらりと見せた。
「旦那が手を付けていないなら、僕が手を付けてもいいものかね」
「馬鹿言っちゃいけないね。うちはそういう店じゃないんだ」
「でも、そういうことを言い出す客は幾らでもいるだろう。ゲイトローフとかは、だいぶ入れ揚げていたんじゃないのか」
巻き毛の男は杯を拭いていた手を止めて、私を見た。固い表情でこちらを睨んだつもりのようだが、脅えのようなものが見え隠れしているようにも感じられた。
「あんた誰なんだ」
私はゲイトローフとはグレイズロウの芝居小屋で知りあって、何度か飲んだことがあると言った。
「近頃顔を見ないんでね。ここに来れば会えるかと思ってね」
巻き毛の男は私の手の中の金貨をちらちらと見たが、突然視線を上げた。
「エットニン、そろそろ看板にしよう」
振り向くと店主とその息子が階段を上がって来たところだった。地下よりもずっと明るいここで見ても、二人の顔色は冴えず淀んだ風に感じられた。
エットニンと呼ばれた巻き毛の男は「そうします」と答え、私と残っていた客は店を出た。ネヴォンズとラーニーの親子は出来損ないの人形のような笑顔で見送ってくれた。
三
ネヴォンズの店のあたりを調べて回ったが、ゲイトローフの行方はわからなかった。ジェーマとジュニーフの出し物には始終現れて、贈り物などしていたようだが、ここ一月ばかりは誰も姿を見ていなかった。主に金を渡して双子と店の外で会わせてくれと頼み込んでいたという話も聞いたが、首尾よくいったのかどうかは誰も知らなかった。エットニンという巻き毛の男は、口が堅くなり余分な話はしなくなった。
双子の見世物には一度しか行かなかった。美しい姿態と歌舞に男たちが引き込まれるのは一度で十分にわかったが、彼女たちにはそれだけではない何かがあるような気がした。
ネヴォンズの上の息子と出ていったという女の家を捜し出すことができた。サイマー街の漆喰の剥げた薄暗い長屋を訪ねると、顎から喉まで幾重にも肉が重なった大家が出てきて、エルキナは店賃を貯めたままもうずっと帰ってこないと言った。男が出入りしていた様子もないと言った。代わりに金を払ってくれるのかと言うので、少しだけ金をつかませると部屋の鍵を開けてくれた。
派手だが安っぽい衣裳が何着もぶら下がった部屋には薄く埃が積もっていた。卓子の上には萎びた林檎が一つ置いてあった。長く留守にする、あるいはどこかへ引っ越す準備をしていた様子はなかった。ゲイトローフと関わるものも何もなかった。
しばらくして奇怪な男の死体が相次いで見つかったという噂が広まった。一つはダンカル川の河口近くで乱杭に引っかかっていた。もう一つは数日後にイーナムの無縁墓地で野良犬が掘り出したのだと言う。どちらも半ば腐りかけていて人相風体はわからない。何も身につけておらず、どこの誰かもわからない。だが、人々の噂に上ったのはそれだけではなかった。骸はどちらも半分しかなかったという話がまことしやかに囁かれた。頭の天辺から一物まで真っ二つに裂かれていて、二つの死体は一人の男だというのだ。どちらが右半分でどちらが左半分かは説がわかれていた。
奇妙な死体が誰のものかはわからない。ゲイトローフのものかもしれないし、ラーニーのものかもしれないし、まったく別の誰かのものかもしれない。
もう一度〈青い花〉の階段を降りて、ジェーマとジュニーフをつかまえて、ゲイトローフはどこへ行ったと訊いてみればいいのだ。あるいは店主と手風琴弾きを問い詰めるか。
馬鹿げたことだが私はそれをしたくなかった。長い間、その手の女たちと関わりを持ち過ぎたのだろう。忌避感が仕事を妨げる。そろそろ商売替えか、はたまた隠居の潮時か。
クーカッチの村はサンジェリィから馬で半日ほどだった。小高い丘の麓に二三十軒の家々が並び、川へと下る平地に畑が広がっていた。丘の木立の向こうには古そうな石造りの塔が見えた。城跡か寺院のような雰囲気だった。
日に焼けた村人たちは温厚そうに見え、来訪者が珍しいのか子どもが幾人も私の馬の後を追ってきた。奇妙なことにその中には双子が二組いた。片方は姉妹、片方は兄弟だった。
姉妹の方にジェーマとジュニーフという双子のことを尋ねてみた。姉妹も他の子どもたちも顔を見合わせ、何も答えずに散っていった。
一軒しかない酒場兼宿屋に入り、ぬるいシェアを飲み、野菜に何かの肉が少し入った煮込みを食べた。ジェーマとジュニーフという双子について何か知らないかと尋ねると、それまで愛想よくしていた主が急に固い表情になった。
「ジュニーフは村を出て行った。もう一年ぐらいになるか。どこで何してるのかは知らねえな」
私がサンジェリィで姉妹で見世物に出ていると言うと、大柄な主は幅のある肩をすぼめて、眉間にしわを寄せた。
「二人で？ 二人で何をしてるって？」
私は二人の歌と舞が素晴らしいので、この村にはそうした踊り子や歌い手がもっといるのではないかと思い、訪ねてきたと言った。
「そんなものはいねえ。あんた、女衒か何かか？」
私はグレイズロウ通りの興行主の使いだと言ったが、主にはそういう話は通じなかった。
「悪い商売していると今に罰が当たるぞ。二人で、二人でだって？ どこのどいつが一緒にしたんだ？」
主の声が大きくなったので、店の奥から女が出てきた。彼女も大柄で、太い鼻や目尻の下がり具合が主にそっくりだった。
「セルオブ、何を騒いでるんだい」
主は女の方を振り返った。
「姉貴、こいつがジュニーフを知らないかって言ってるんだ。今、ジェーマと一緒にいるんだって言うのさ」
女は弟と同じように広い肩をすぼめて、胸に下げた護符のようなものに手を当てた。
「そうかい、サグマーンの寺からいなくなったっていう話は本当だったんだね。罰当たりめ！」
「ジュニーフは丘の上の寺院にいたのか」
「馬鹿だね、この男は。寺にいたのはジェーマだよ。村にいたのはジュニーフさ。だから情けなんぞかけずに殺してしまえばよかったんだ。そうすりゃシャメインもひどい目にあわずにすんだんだ。結局一緒になっちまったとは！」
私はもっと詳しく話して欲しいと頼んだが、酒場の姉弟は−恐らく双子なのだろう−金はいらないとまで言って、そそくさと私を追い出した。
外は日が傾き始めていた。サグマーンの寺院とやらに一夜の宿を求めることはできるだろうか。私は村の家並みのはずれから丘の上に向かっている道に馬を進めた。木立の中の斜面を少し登ると、梢の向こうに灯が見えた。道から少し外れた場所に草葺きの粗末な家が建っているのが見えた。
家の前で灯が揺れていた。誰かが角灯を手にしてこちらに合図を送っているように見えた。私は馬を近くの木につなぎ、斜面の細い道を登った。家はわずかばかりの平らな場所に建てられていて、屋根は草葺きだった。家の前に古びた角灯を下げた男がいた。緑色の頭巾付きの長衣をまとい、木の実や骨をつなげた首飾りをしている。
「大都から来たんだろう、双子のことで」
頭巾の中の顔は影が深く、白髪交じりの髭が喉まで下がっているが、老人というほどの歳ではないようだった。
「どうして知っている」
「子どもたちが教えてくれた。いずれ、何かはあるだろうとは思っていたが」
頭巾の男はホウメインと名乗り、私を家の中に案内した。家の真ん中には大きな炉があり、鍋の中では食べ物とは思われない何かが煮えていた。壁際の棚には薬草らしきものや大小の薬壜のようなものが整然と並んでいた。巻物や書物もある。ホウメインは村の呪医なのだろう。頭巾を脱いだその顔は存外に若く、四十前のようにも見えた。
男は藁を敷いた寝床に座り、私に丸太を切った椅子を勧めた。私はことのあらましを話した。探偵であることは隠さなかった。
「ジュニーフはこの家で暮らしていた。一年、いやもう少し前までか。私の母が親代わりに育てていたのだ」
ジェーマは寺院の方で育ったのかと聞くと、呪医はそうだと答えた。
「あなたも気づいただろう。この村には双子が多い。三つ子が産まれることもある。昔、クァロニアン帝国の時代か、もっと以前か、魔道士がそういう術の試みを繰り返した名残らしい。一度に二人子が産まれれば、より国が栄えると考えたのか、兵を増やすための策だったという説もある」
双子はこの地では珍しいものではないのだが、稀に二人の体の一部がつながって産まれることがあり、そうした子どもは忌み嫌われるのだとホウメインは言った。
「生き長らえるのが難しい、見た目が恐ろしいといったこともあるだろうが、恐らくはそれは“失敗”だとされていた古の記憶の名残なのだろう」
そうした子どもは川に流されるか、死産ということで片づけられるかなのだが、ジェーマとジュニーフは腰のあたりが皮一枚でつながっているだけだった。母親は出産時に亡くなり、父親は旅の男らしいがはっきりとはわからなかった。ホウメインの母−シャメインという呪医だった−は哀れに思い、双子の体を切り離し、一方を自ら育て、一方は丘のサグマーンの寺院に引き取ってもらったのだという。
「ジュニーフはそれはかわいい娘に育った。私も歳の離れた妹ができたようでうれしかった。ジュニーフはかわいいだけでなく、頭も良かった。飲み込みも速く、母の教えを受けて薬や呪いの知識を蓄えた。森の精霊、地の霊、水の霊の声が聞こえると言っていた。あのまま成長すれば、私などよりよほど腕のいい呪医になっただろう。
「年頃になるとジュニーフの美貌は村でも評判になり、母や私と薬草を売りに行けば、男たちの目を集めるようになった。祭で踊れば村中の男たちが夢中になって見入っていたよ。母は村では一目置かれていたから、そうあからさまに言い寄っては来なかったが、こっそりと手紙や贈り物を私に頼む若者もいた」
ホウメインがそうしたものをジュニーフに渡すと、彼女は目を通しはするもののすぐに火に燃べてしまったのだという。
「そしてジュニーフはこう言った。私には兄様が一番よ、とね」
呪医はそう言って寂しげな薄笑いを浮かべた。ジュニーフの“一番”は幾人もいることがやがて明らかになった。ホウメインは森の中での淫靡な密会を何度か目撃したが、それを問い詰めることはできなかったと言った。
「あの宝石のような緑色の瞳で見据えられると、何も言えなくなってしまう。ジュニーフはまだ十三四だったが、抗うことのできない何かを発散しているようだった」
ジュニーフは物置小屋の奥にしまい込まれていた古い巻物を見つけて読んでいるところをシャメインに見つかって、ひどく叱られたこともあったのだという。
「昔から伝わる禁忌の巻物だ。昔、とても昔、サグマーンの寺から持ち出されたとされている。母も読んだことはなかっただろう」
その巻物は今もあるのかと訊くと、ホウメインは首を横に振った。
「母が燃やしてしまったか、別の場所に隠したか。あるいは……」
ホウメインは言葉を濁した。
その内、ホウメインは母の言いつけで丘を越えた別の村に遣わされた。その村の呪医が助手を求めているので、修業を兼ねてしばらくそこで過ごすようにという話だった。
「母はいろいろなことに気づいていたのだろう。私が深みに嵌まらないように遠ざけ、その間にジュニーフをどうにかする心積もりだったんだろう」
一年ほどしてシャメインが死んだという報せが届き、クーカッチの村に戻るとジュニーフは姿を消していた。村人の話によると、ジュニーフに言い寄っていた村の若者同士が喧嘩になり、片方が大怪我を負った。シャメインはジュニーフを家に閉じ込めて出られないように呪文をかけたが、数日して村人が家に行ってみると、シャメインはひどく恐ろしいものを見たように顔を強ばらせたまま死んでおり、ジュニーフの姿は消えていたのだという。
「ジュニーフの行方はわからず、私は母の跡を継いで、ここの呪医になった。ようやく幾らか落ち着いてきたところだが、大都でそんなことが起こっていたとは」
私はジュニーフがはっきり何かをしたと決まったわけではないと言ったが、ホウメインは首を横に振った。
「そうかもしれない。母が死んだのもジュニーフの仕業だとはっきりしているわけではない。だが、何か恐ろしいことが起こったのだ、きっと」
呪医は立ち上がると床に置かれた小振りの瓶から木の杯に何かを注いだ。形容し難い癖のあるにおいがした。
「オトゥ＝オトゥの蛇酒だ。これがないと眠れない。やってみるかね」
ホウメインがもう一つの杯に赤紫の酒を注ごうとしたので、私は丁重に断った。
「寺院に預けられたという娘はどうなったんだ。酒場の女将は寺からいなくなったと言っていたが」
呪医は蛇酒とやらを一口すすって、顔をしかめた。味を楽しむものではないらしい。
「ジュニーフが村からいなくなった同じ頃に、寺を出て行ったらしい。詳しいことは知らない、知りたくもないが。明日にでもサグマーンの寺に行って聞いてみるがいいだろう」
赤紫の酒の効能はたいしたものらしく、ホウメインはすぐに寝床に横になった。私は彼が指し示した床の上の薄汚れた敷物の上で襤褸のような毛布をかぶって寝た。
四
サグマーンの寺院は丘の北側の斜面に張り付くように建っていた。黄灰色の石造りの建物に木造の背の低い建物が通廊で結ばれていた。四角い石の塔の天辺は鐘楼になっていたようだが、鐘は見当たらなかった。どちらの建物も古びて荒れた気配があった。
サグマーンという神の名も教祖の名も聞いたことがなかった。石造りの建物の扉は半ば開いており、落葉が中まで入り込んでいた。四角い会堂に二列に長椅子が並んでいて、正面には祭壇らしきものがあった。壁には大きな円形の木の浮き彫りが掲げられている。二人の男とも女ともつかない人間が互いに頭を逆向きにして絡みあっている姿が彫られており、円の縁には歯車の歯のようなものが並んでいた。
何気なくその歯に触れると、円形の浮き彫りは軋む音を立ててゆっくりと回転した。
「誰じゃな、〈陰陽の輪〉を回すのは」
気がつくと灰色の法衣のようなものをまとった老人が広間に立っていた。私は非礼を詫び、ジェーマという娘を知らないかと尋ねた。老人は薄い水色の目を一瞬見開き、首から下げた円形の護符らしきものに触れた。
「お主もあの魔性のものに惑わされておるのか」
老人はしわの寄った口を歪めて自嘲的とも取れる笑いを浮かべた。禿頭も顎も先が尖っていて、奇妙な木の実のような形に見えた。私は多分まだ大丈夫だと答え、呪医にしたのと同じ話をした。
「二人は一つになったのか。一つのものを二つにしておくことはできんということじゃな。引き離しておいても、引き寄せられ、一つに戻る。それが理りというものじゃろう」
私は老人にこの寺には他には人はいないのかと訊いた。
「少しはまだ残っておる。だが教主様は亡くなってしもうた。あの娘もいなくなって、若い者たちもおらんようになった。もうサグマーンもお仕舞いじゃろう」
老人は手近な長椅子に腰を下ろした。私も通路の反対側の椅子に座った。
「クーカッチの村に行ったのじゃな。双子ばかりで驚いたであろう。サグマーン様の成せる技じゃ。古の道士サグマーン様が子孫繁栄のため陰陽の秘術を用いて成し遂げたのじゃ」
今もその秘術がこの寺に伝えられているのかと訊くと、老人はまた自嘲的な笑みを浮かべた。
「遠い遠い昔の話じゃ。今はただ、サグマーン様と〈陰陽の神〉を崇めて、豊饒と繁栄を祈るだけ、それもすぐに途絶えてしまうじゃろう。あの娘がどこかで……いや、そんなことはあるまい」
私はジェーマがこの寺で何をしたのかと尋ねた。
「様々なこと、いや、ただ一つのことか。十何年か前、呪医のシャメインが女の赤子を連れてきた。教主様は事情を聞いて哀れに思い、寺で引き取ることにした。ジェーマは利発で素直、よく働く娘に育った。サグマーン様の教えもよく学んで、寺に残る古い書物や巻物も精読した。教主様はいずれはジェーマが跡を取ってくれるのではという期待もしていたようじゃ」
ジェーマの話はジュニーフの話と同じようなものだった。ジェーマは輝くような美しい娘に育ち、僧侶や寺男たちの目を惹きつけるようになった。詠歌を歌えば素晴らしい歌声で、誰もが耳を傾けて聞き入った。表向き、敬虔で楚々とした様子は変わらなかったが、その裏で人気のない物置部屋や穀物倉に男たちを誘い込み、密かに情交に耽るようになったのだという。
その内、ジェーマをめぐる男たちの諍いがしばしば起こるようになり、行商に来た男をある若い僧が刺し殺しそうになるという事件が起きた。僧は行商人がジェーマを連れて逃げると思い込んでいたのだという。
「教主様は深く憂いて、ジェーマを石塔の下の古い霊堂に閉じ込めた。そこで七日の間精進潔斎させようとしたのじゃ。だが、七日目の朝、儂が朝餉を運んでいくと霊堂の扉が開いていた。ジェーマの姿はなく、中では教主様が裸で身を強ばらせて亡くなっておった。それだけではない。霊堂の奥の錆びついた書物庫の扉がこじ開けられていた。中には教主様すら見たことのないサグマーン様の秘法書が入っているはずだったが、空になっていた。ジェーマの行方は杳として知れず、教主様に代わって寺を治める者もおらず、爾来ここは荒れ果てた」
老人は長椅子から立ち上がると〈陰陽の輪〉に手をかけて、ゆっくりと回した。軋む音が高くなり低くなり聞こえた。
「聞こえるか。歓喜の声、恍惚のうめき、悦楽の喘ぎじゃ。陰陽の秘術はあの娘の内にあったのじゃ。サグマーン様があの娘を遣わしたのじゃ、違いない。ああ、ジェーマ……ジェーマ……儂のかわいい娘よ……」
老人はその場に膝をついて座り込み、頭を垂れて泣き始めた。
五
サンジェリィには数多の神やら聖人やらの寺や社があるが、サグマーンの寺院というものは見つからなかった。だが、ロウノドル門の近くに〈陰陽宮〉という名の小さな神殿らしきものがあった。子孫繁栄と健康長寿を願うところらしい。
その〈陰陽宮〉に双子の片割れらしき娘が時折姿を見せるらしいという噂を私はネヴォンズの店の客から聞いた。〈陰陽宮〉はサグマーンの石造りの寺院とはだいぶ趣の異なる木造の切妻屋根の建物だったが、扉に掲げられた円形の浮き彫りは〈陰陽の輪〉を簡素にしたような意匠だった。
黄昏時の建物の中には円形の窓から黄色い斜めの光が差し込んでいた。正面の壁には差し渡し四イート（一イートは約三十センチ）ほどの円形の浮き彫りが掲げられてたが、歯車のような形ではなく、回転するようでもなかった。
白衣の神官が円形の浮き彫りを背に説教をしていた。幾人かの男女が長椅子に座って話を聞いている。後ろの方の席に白い頭巾に面紗を被った女が一人座っていた。私は彼女の斜め後ろの椅子に腰を下ろした。
神官の話は特段の興味を引くようなものではなかった。日々の暮らしに真面目に励めば健やかな人生を送ることができる、子宝にも恵まれ一族は栄えるであろう、云々。
話が終わり、神官も人々も去った。白い面紗の女と私だけが残った。女が斜め後ろを向き、頭巾から胸に垂れた金色の髪が目に入った。
「君はジェーマか」
女は白い面紗を上げた。白肌に尖った鼻、青みを帯びた緑色の瞳、双子の片割れであることに間違いはなかった。唇の右側に小さな黒子が見えた。
「どうして私がジェーマだと思うのです。ジュニーフかもしれませんよ」
女は赤い唇の端にわずかに笑みを浮かべた。指先で口の端の黒子をこするとそれは消えてなくなった。
「サグマーンの寺院が懐かしいのかい」
女は長椅子の背もたれに白い腕をかけた。傾いた日の光に産毛がちらちらと光って見えた。
「あなた、一度私たちの舞台を見に来たでしょう。上の店やまわりの店だけじゃなくて、サグマーンまで行ったのですね」
「客の顔を一々覚えているのか」
「誰でもっていうわけじゃありません」
女−多分、ジェーマ−は椅子の上で身を捩り、両手を背もたれにかけてこちらを見た。顔を背もたれの上に載せて、子どもっぽい仕草をしてみせた。
「あなた、少し変わった人ですね。おもしろそうな人」
「君たちほどじゃないだろう」
「そうかもしれませんね、たぶん」
「ジュニーフとは示し合わせて出てきたのかい」
ジェーマは背もたれの上の顔を左右に振った。
「そんなことしなくても。ずっと、もう一人いると感じていました」
「ずっと？ 幼い頃からということか」
「そう。サグマーン様にお祈りしていると、もう一人の私がどこかでお祈りしているんです。祈りの言葉は違うし、別の何かにお祈りしているみたいだったけど、でも、もう一人私が……」
ジェーマはどこか遠いところを見ているような眼差しになった。クーカッチの村へは行ってはいけないと言われていたが、ある時、行商人を言いくるめて荷馬車に乗り込んだのだという。すると、村の広場で薬草を売っている娘を見かけた。それはもう一人の自分だった。
「何も話はしませんでした。ただ荷馬車で通り過ぎる時に一瞬目があっただけ。でも、それで十分でした」
二人は−示し合わせたわけではなかったが−しばらくして、真夜中に村外れの追分けで出会った。行く宛てがあったわけではないが“親切”な男たちに手助けしてもらい、サンジェリィにたどり着いたのだという。
「私のことは話しました。あなたのことも話してください。どうして私たちのことを調べているのです？」
ジェーマは緑の瞳でじっと私を見た。傾いた日差しが当たると、瞳には金色の光の粒が宿るようだった。背もたれから白く細い腕がこちらにのびてきた。薄桃色の爪が光って見えた。
「たった一度しか見に来てくれない、花も贈り物もない、おかしいでしょう。そんな人いませんよ」
柔らかに動く指が頬に触れた。かすかに温かい。そこから温もりとは違う何かも伝わってくるような気がした。
「ゲイトローフという男を探している。君たちの熱心なお客だったんじゃないのか」
その名前を聞いてもジェーマの指の動きは止まらなかった。
「そんな人知りません。一々お客さんのことなんか覚えているわけないじゃありませんか」
ジェーマは嫣然と目を細めた。彼女は私の頬を撫でさすりながら、奇妙な身のこなしで椅子の背もたれを乗り越えた。そんな風に体を動かすことができるとは思えなかったが、まるで蛇が身をくねらせるかのように長衣の裾から露になった白い足が背もたれを越え、女の体は私の体に張り付いていた。
「でも、あなたは別。あなたのことは忘れず覚えていました。おかしな人ですもの」
ジェーマの腕は両方とも私の顔と首に絡みつき、白い腿まで私の足に絡ませようとしていた。甘い香りが直に肌から染み込んでくるように思えた。
「教主を殺して出てきたのか」
伏せていた瞼が見開かれ、翠玉の瞳が間近で私を見た。艶いた表情に一瞬固い何かが入り混じった。私は長椅子に立てかけたファバーン剣をつかんだ。掌にはわずかに痺れるような感覚が伝わってきた。太古の英雄から譲り受けたこの剣には、怪しの力を感じとる力が残っている。
「無粋な人ですね。大都の男の人はみんなもっと優しいのかと思っていました」
私は剣を抜こうとしたが、女の細い腕に抑えられて適わない。いつの間にかジェーマは私のひざの上に馬乗りになっている。赤く濡れた唇が聞き取れない声で何かを囁いている。睦言のような呪文のようなぼやけた響きだ。
突然、大きく扉が軋む音がした。ジェーマはするりと私の上から退いて立ち上がった。会堂の奥の扉が開いて、箒を持った中年の女が現れた。
「まだ、いたのかい。そろそろ神さんも店仕舞いだよ。続きは他所でやっとくれ」
女はがさがさと音を立てて床を掃き始めた。
ジェーマはつんと顎を上げて私を見下ろした。
「また、お会いしましょうね。お店に来れば、二人でもっと素敵なものを見せてあげます」
私は何か言葉を返そうとしたが、うまく唇が動かなかった。ジェーマは甘い残り香を漂わせて出ていった。掃除婦はその後ろ姿を一瞥し、それから私の方をじろりと見て、無言で掃除を続けた。
六
日が暮れて探偵局に戻り、古鴉のディコンをすすっていると扉を叩く音がした。今日はもう店仕舞いだと言ったが、扉の向こうから「助けてください」という女の声が返ってきた。
「変な男につきまとわれているんです」と扉の向こうの声は言った。
玄関の戸を開けると、濃い緑色の長衣をまとった女が転がり込むように入ってきた。私は外の通りを見回したが、それらしき人影は見えなかった。
女は目深に頭巾を被り、口元まで届く薄い首巻きを身につけていた。何者かから身を守るように背中を丸めている。
「つけられているのですか。通りには誰もいないようですが」
緑衣の女はすすめられるままに隅の破れた客用の長椅子に座った。
「ここは悪い人から身を守ってくれるんでしょう」
「少し違いますね。用心棒稼業というわけじゃない。まあ、そんなことをすることもないわけじゃないが」
女はうつむいたまま、頭を上下させた。
「じゃあ、私を守ってください。怪しい男につきまとわれているんです」
「怪しい男というのはどんな奴です」
女は小声で何か言ったが、聞き取れなかった。
「知らない男ですか、それとも？」
「知っている人よ、だって、それはあなただもの」
女は首巻きの下で小さく笑い声を上げた。私は溜め息をついてディコンの杯を手に取った。
「つまらない芝居はやめてくれ。君はジュニーフの方か」
女はするすると首巻きを取り、頭巾を頭の後ろにやった。金色の髪と白い顔が現れた。翠玉の瞳が悪戯っぽく笑っていた。赤い唇の左側に黒子があった。
「さあ、どっちかしら。ねえ、どっちだと思う」
女はそう言いながら指先をなめて、黒子をこすった。それは消えてなくなった。
「怪しい男というのはゲイトローフという名前じゃないのかい」
「誰、それ？ そんな男知らないわ」
「君たち姉妹の御贔屓だったんじゃないのか」
「そんな男幾らでもいるわ。一々覚えていないのよ。でも、あなたのことは覚えているわ。特別な感じがしたの。どうして、一度しか見に来てくれないの、待っていたのに」
双子の片割れ−多分、ジュニーフ−は白い頬を少しふくらませて、甘えた表情を作ってみせた。
「よほど気に入らなければ、同じ舞台を二度は見ないのさ」
「意地が悪いのね。都の男の人はもっと優しいのかと思っていたわ」
女は芝居じみた仕草で唇を尖らせ、肩をすくめた。
「ホウメインという呪医は覚えているか」
「誰、それ？」
「シャメインという呪医は覚えているか、女だが」
「知らないわ、そんな女。私が知っているのはジェーマだけよ」
「クーカッチの村で薬草を売っていた君に偶然出会ったとジェーマは言っていたが」
「そうよ、荷馬車の後ろで物珍しそうにあたりを見ている娘がいたのよ。なんてきれいな娘だろうと思ったら、私とおんなじ顔だった。荷馬車はすぐに行ってしまったけど、一度目があっただけでわかったわ、私たちは一つだって」
「それでシャメインを殺して二人でサンジェリィに出てきたのか」
「やっぱり意地悪だわ、あなた。私たちはただもっと広い世界を見てみたかっただけ。それだけよ」
ジュニーフは長椅子から立ち上がり、暗緑色の長衣の裾をまくり上げ、私の机の上に座った。裾の短い朽葉色の服に包まれた丸い尻と白い太股が目の前に投げ出された。
「ジェーマの方が慎みがあったな」
「育ちが違うからかしらね。でも、おんなじよ、おんなじ」
ジュニーフは体をのけぞらして私の方に顔を近づけた。逆さまになった赤い唇がそこだけ別の生き物のように蠢いた。ジェーマと同じ甘い匂いがした。
「ね、このまま接吻して」
開けた胸元から乳房が半分のぞいた。細い腕が蛇のようにこちらにのびてきた。私は机の下で抜いた短剣を女の白い喉に当てた。
「何してるの、あなた、やっぱり怪しい男なのね」
白い喉が刃の下で波打った。緑の瞳が短剣を見て、それから私の目を見た。洋灯の明りが星のように瞳に映る。
「ゲイトローフはどこだ。生きているんだろうな」
「このまま喉を裂くの？ 大変よ、後始末が」
「じゃあ、鼻を削ぐぐらいにしておこうか。区別がつきやすくなっていいだろう」
「そうしたら、ジェーマの鼻を私が削ぐわ」
「馬鹿なこと言わないで」
もう一人の声がした。いや、ジュニーフの台詞だろうか。その声は彼女の喉から発せられたのだろうか。どこか違うところから聞こえてきたようにも思えた。
一瞬の虚を突いて、女は私の右手を握って、机の上で身を捩じった。そんな動きがまともな人間の体にできるのか、彼女は私の胸を靴の踵で蹴りつけた。私の手を放すと、後ろに一回転して床に降り立ち、長椅子を飛び越えて一気に玄関の扉まで走った。私は手首をひねられて、短剣を取り落とした。
「また、遊びましょう。今度はもっと優しくしてね」
ジュニーフは長衣の裾をひるがえして探偵局を出て行った。ファバーン剣をつかんで外に出ると霧が出ていた。夜霧に紛れて女は姿を消していた。
七
夢の中にも霧が出ていた。濃い乳色の霧が渦巻き、どこにいるのかわからない。霧は奇妙に生暖かい。霧の中から女の声がする。またお会いしましたね、遊んでくれるのね。くぐもった奇矯な歌声と心臓の鼓動のような太鼓の音が聞こえる。
霧の中から白く細い腕がのびてくる。一本、二本、三本、四本、いや、もっとだ。艶く動きで白蛇のような腕が私に絡みつく。頬をなで、首に巻きつき、胸を抱きすくめ、股間をさすり上げる。
変わった人ですね、怪しい男だわ、女の声が耳元でささやく。二重に重なった声が体中をなでさする指先から響いてくる。幾つもの腕や指は、いつの間にか溶け合ってただ柔らかく湿った肌になり、全身がそれに包み込まれていくようだ。甘い匂いが肌から直に体内に染み入ってくる。
女の肌は私の肌の内に入り込み、それはまた細い指先となって、私の体を内側から愛撫する。指先が頭の中にまで入り込んでくるように感じる。頭蓋の中味を女の指がかき回している。
白い指とも蛇ともつかないものは私の体内をかき回しぐるぐると巡った後、再び外へ出る。口から一物から肌から白いどろどろとしたものが際限なく噴き出すと恐ろしい快楽に全身がしびれて引きつったように動く。
私の中から出たその白い泥のようなものは、次第に形をなしていく。細い突起が指先となり腕となる。一本、二本、三本、四本。同じように足が生えていく。一本、二本、三本、四本。濡れた金色の髪をべっとりと張り付かせた頭が二つ現れる。隣り合った二つの顔は翠玉の瞳で見つめあい、接吻をかわす。すると赤い唇は張り付き溶け合い、離れると白と薄桃の粘つくものが滴り落ちる。丸い乳房が突き出し、上になり下になりぬるぬると位置を変えながら二人分の胸が形作られる。
やがて瓜二つの二つの女体ができあがる。二人は互いの体を弄りあい接吻を繰り返す。そのたびに触れ合った肌は融合し、粘つくものを残しながらまた二つに分かれる。二つの淫靡な吐息が重なり、肌が溶け合っては別れる濡れた音が途切れなく聞こえる。
乱れた吐息はやがて小さな笑い声になり、二人は愛撫の手を休めると、翠緑の瞳で私を見つめる。片方の腕を互いの腰に回し、もう片方の腕をこちらに差し伸べる。私と、私と、一緒に、一緒に、私と、私と、一緒に、一緒に……。二つの声が重なり、体を包み込むように響いてくる。
二人の同じ女が左右から腕をのばし私を抱きしめようとする。白い美しい女体は、だがまだ完全に二つにはなっていない。腰の部分で二つの体は密着し、白い肌が一つにつながっている。二人は左右から私を抱こうとするが、腰から尻が融合しているのでうまくいかない。
「忌まわしい」
どこからか別の女の声がした。
「失敗だ」
どこからか男の声が聞こえた。
双子の顔に困惑と恐怖の表情が広がる。
また知らない声がする。
「呪われている」
「出来損ないだ」
双子は混乱し、声の主を探してあたりを見回す。
二人の肩越しに銀色に光る筋が現れる。それはこちらに降り下ろされてくる巨大な刃のようだ。二人は恐怖に歪んだ顔を見合わせ、一緒に後ろを振り向く。悲鳴が霧を吹き飛ばすように響く。
巨大な刃が二人の融合した腰に振り下ろされ、血飛沫が上がる。止めどなく噴き出す鮮血が霧となってあたりを赤く染める。二人の女は切り離された腰の傷口から血の糸を引いて左右に倒れていく。
どこ、どこなの、どこ、どこなの、二人の女は赤い霧の中で互いを手探りで求めあう。二人ののばした手が触れ合い、握りあうと、笑い声が起こる。甲高い耳障りな二つの笑い声が血の霧の中で響きあう。
ひとしきり笑った後、双子は再び私に目を向ける。あなたは私のもの、あなたは私のもの、二つの声が呪文のように何度もそうつぶやく。あなたは私のもの、あなたは私のもの、でも、私は二人、あなたは一人、私は二人、あなたは一人……。
二人の間にまた大きな銀色の刃が現れる。巨人の蛮刀のようなそれは、双子にではなく私に振り下ろされる。赤い霧の中を刃が落ちてくるが、奇妙なことに恐怖は感じない。刃は私の頭に食い込み、そのまま真っ直ぐに体を真っ二つに裂いていく。痛みも何も感じない。赤い霧の中にさらに自分の血が噴き出してあたりは真紅の海中のようだ。私の体は二つになる。
真っ二つになっても私は生きている。頭の天辺から一物の先まで、体の真ん中がひどくむず痒い。半分の私が残り半分の私を見る。赤黒い切断された面から粘つく泡状のものが噴き出している。ぶくぶくどろどろと噴き出す肉色のそれはあっという間に切断面を覆い、膨れ上がっていく。胸や腰が形になり、肩からは腕が、尻からは足が生えていく。半分になった私の残り半分が見る間に形作られる。私は二人になり、鏡に映ったようなもう一人の私を見る。
私は二人、あなたも二人、私は二人、あなたも二人、双子の歌うような声が聞こえる。双子は二人になった私をそれぞれが抱きすくめる。甘い匂いと柔らかな肌が私ともう一人の私を包み込む。あなたは私のもの、あなたは私のもの……二つの声がいつまでもいつまでもささやき続ける。
誰かが扉を叩く音で目が覚めた。私は赤い長椅子の上で横になっていた。卓子の上には飲みかけのディコンの酒杯が日の光を浴びて鈍く光っていた。
重い体を起こすと眩暈がした。体が右に左に大きく揺れて、二つに分かれて倒れそうな気がした。椅子にすがって立ち上がり、足下を見ると足は二本だけで体は一つだけだった。
玄関の扉を開けると薄汚れた服を着た十二三の子どもが立っていた。子どもは白い封筒を私に差し出した。
「誰に頼まれたんだい」
「ネヴォンズの旦那だよ。急ぎで届けてくれって」
子どもが手を差し出したので、私は小銭を渡した。
「飲みすぎだろ、あんた。吐きそうな顔してる」
「ご忠告ありがとう」
子どもは去っていき、私は長椅子に戻って封筒を開けた。中に入っていたのは招待状だった。
今宵、悦楽の夢の一夜を。
〈青い花〉の麗しの二輪の花、ジェーマとジュニーフがあなたのために歌い踊る。
眩惑魅惑、惑溺耽溺の素晴らしき舞台。
いざ、ともに歓を尽くし幻と溶け合わん！
緑墨の細い文字で書かれた文面の下にはふたつの赤い口紅の跡が並んでつけられていた。二つの紅唇の跡が蠢いて重なりあい、また離れ、また溶け合うように見えて、私は招待状から目をそらした。
八
夕刻、ネヴォンズの店に出向くと今日は休みだという貼り紙がしてあった。明りの点いていない看板を見上げていると、静かに扉が開いて、黒い髪を短く刈った男が出てきた。鼻が曲がっているのはそういう仕事が多いからなのか。
「新顔だな。今日はエットニンは休みなのかい」
「誰だ、そいつは。あんたがスナブ・ランケンか」
私は招待状を男に見せた。
「入んな」
鼻の曲がった男は無愛想にそう言った。
店の中は薄暗かった。左端の〈青い花〉へ降りる階段の上にだけ燭台に灯が入っていた。
「腰のものは預かる。お楽しみには無用だろう」
私は腰帯から外すと見せて、剣を抜いた。刀身のファバーン文字が仄かな緑色に浮き上がって見えた。
「お楽しみにもいろいろあるんだよ。あんたも試してみるかい」
男は懐から短刀を抜こうとしたが、私はその手に斬りつけた。手の甲が裂けて血が滴り落ちた。短刀が床に落ちて音を立てた。血糊のついた切っ先を喉元に突きつけると、男は愛想笑いのつもりなのか、口元を妙に歪ませた。
「いや、無理にってわけじゃないんだ。いろいろある、そう、いろいろあるだろうよ」
鼻が曲がっているのは生まれつきなのかもしれない。
「下に御注進に行くかね、それともこのままどこかに消えるか。僕なら消えるね。端た金で命を落としたくはないだろう」
男は店の扉の方にゆっくりと後ずさった。こちらに背を向けて扉に手をかけるような素振りをしたかと思うと、左手に別の短剣を握って飛びかかってきた。
私は刃をかわすと男の左腕に斬りつけた。二の腕から血を噴いて男は扉に倒れ込んだ。扉が開いて男は外へ転がり出た。何かわめきながら、走り去っていく音が聞こえた。
「役に立たない男を雇ってしまった。エットニンが急にいなくなってしまったものでね」
階段から背の高い男が顔を出していた。この前見た時よりもさらに痩せて、髑髏のように落ち窪んだ眼窩の奥で小さな黒い目が光っていた。
「結構な歓迎ぶりだね。招待に預かって光栄だよ」
ネヴォンズは嫌みには答えず、取ってつけたような笑みを浮かべた。
「さあ、下で二人が待っている。今夜は最高の舞台にすると張りきっているんだ」
「ゲイトローフもこうやって招待したのかい」
私は抜き身を手に階段を降りながらネヴォンズにそう尋ねた。振り向いて奇妙な笑いを浮かべた店主の顔は本当の髑髏のように見えた。
「誰の話をしているんだ。招待客なんてあんたが始めてだ」
下まで降りるとネヴォンズは扉を開け、私を先に通そうとした。
「あんたが先だよ」
店主は何も言わずに先に〈青い花〉に入った。並んでいた長椅子は壁際に寄せられ、中はがらんとしていた。半円形の舞台には明りが点っていたが、誰の姿もなかった。
突然、楽の音が鳴り出した。舞台袖の暗がりで手風琴が燭光を映してちらりと光るのが見えた。手風琴は細い音でうら悲しい旋律を奏でたかと思うと突然転調し、明るく速い楽の音を響かせる。
明と暗が不規則に入り混じる奇妙な音楽に乗って、ジェーマとジュニーフが舞台の左右から現れる。口の端の黒子はない。同じ顔、同じ姿の二人は舞台の中央で手をつなぎ、腕を組み、奇妙な踊りを踊る。光を浴びて淡い虹色に光る衣裳は肌に張り付くよう、深い切れ込みからのぞく足をも絡ませて、双子は妖艶な舞を続ける。
歌声が聞こえる。二つの赤い唇が閉じては開き、白い喉が蠢いて吐息とともに声を吐き出す。だが、意味を持った言葉は聞こえない。声だけが時に艶やかに時に嗄れて、舞台から部屋の中に谺する。二つの重なり合う声が四方から聞こえてくるような気がする。耳元で何かを囁かれたような気がして振り向くが壁際の長椅子しか見えない。
柔らかく生暖かいものが首筋に触れたような気がする。指先かもしれないし、唇か、あるいは別の部分の肉かもしれない。だが、双子は舞台で、身をのけ反らし、くるくると回り、踊り続けている。
四つの房となった長い金色の髪が広がり、捩れ、また房となって宙を舞う。それさえ、鏡に映したように同じ動きに見える。
歌声が時折、言葉になる。雲間からわずかに月が顔を出すかのように、声が言葉となって聞こえる。あなたは私のもの、あなたは私のもの、溶け合い、一つに……そう繰り返される言葉が、言葉にならない歌声の合間に欠片のように浮かび上がる。
茶番は止めろと何度も叫ぼうとするが、喉に何かが詰まっているかのように声が出ない。ファバーン剣を握る掌に汗が滲む。振り上げようとするが、腕が棒切れとなったようで動かない。また何かが体に触れる。服の中に何かが潜り込んだかのように、濡れて暖かいものが触れては消えていく。甘い匂いが体を取り巻いて離れない。
半円形の舞台が次第に歪んでいく。それは熱した蝋のように溶け出して、両側に燭台を立てたまま、こちらに向かって流れてくる。その奇怪な花道をジェーマとジュニーフが踊りながらこちらに近づいてくる。二人は手を取りあい、抱きあい、舞の合間に唇を重ねる。接吻すると二人の白い顔は溶け合って一つの塊になったかに見える。唇を離すと溶けた飴のようなものが糸を引く。長い髪が絡みあい、金紗のように二人の体を包んだかと思うと、またほぐれる。
双子は虹色に光る衣裳を脱ぎ捨てる。宙に投げ上げられたそれは、四散して光の粒となって消えていく。白い二つの裸身が滑るような光を放って近づいてくる。丸い整った乳房の上で赤く色づいた乳首が四つの果実のように揺れている。薄い金色の茂みの下で赤い濡れた秘唇が見え隠れする。
二人が身をくねらせてくるりと回ると、雪肌に薄桃色の歪んだ何かが見え隠れする。腰骨から尻にかけて歪な円形の薄赤い染みが見える。二人並べば互いに相手と接するところ、奇妙な薄紅色の地図が描かれているように見える。
二人がその染みを合わせると、接吻する唇と同じように肌が溶け合い一つになる。踊りながら体を離すと、肉色の粘つくものが糸を引く。染みを合わせて離す度にそれはまるで細い蛇が何本も絡み合うようになっていく。
もう双子は私の目の前にいる。流れ出した舞台は私と二人の回りで穴の開いた円のようになり、蝋燭は円の縁で揺れる光を放っている。手風琴の音が一際高くなる。甲高い旋律をまるで太鼓のような律動が支えて響き渡る。
あなたは私のもの、あなたは私のもの……声がまた言葉になる。二人は私を囲む円形の舞台をぐるぐると巡りながら、呪文のようにその言葉を歌い続ける。二人の体は腰の部分でぴったりと張り付き、白い肌は滑らかに溶け合って、もう桃色の染みは見えない。
二人は一つ、溶け合い一つ……双子はそう歌いながら、私の方に手をのばす。二組の腕が四方からのびてくる。四本、八本……無数の白く細い腕が、私を捕らえ引き寄せようとする。
楽の音がまた調子を変える。和声を乱し、律動が崩れる。奇矯な叫び声のような音が二人の声と入り乱れるように奏でられる。
低い声が聞こえる。深い井戸の底から幾重にも響きあって上ってきたかのような声、重く湿った声が聞こえる。あなたは一人、あなたは一人……そう、歌っているように聞こえる。
声は別人のように明るい頓狂な声になる。サグマーン様にお願いしましょう、森と地と水の精にお願いするわ……初めて二つの声が違う言葉を発するが、すぐにそれはまた一つの言葉になる。……お願いしましょう……お願いするわ……お願い、お願い、お願い……私は二人、私は二人、あなたを二人に、あなたを二人に……。
ぐるぐると回る二人が止まる。溶け合っていた腰の部分の肌がぶくぶくと泡立って赤いものがどろりと滴り落ちる。二つの体が左右に分かれる。肌が粘ついて糸を引き、中では絡み合った桃色の細い長虫のようなものが次第にほぐれていく。
二人の体は離れて腰から尻に薄赤い染みが残る。二人はゆっくりと円形の舞台を左右に別れて歩いていく。私の左右まで来ると、それぞれがこちらに腕をのばす。
あなたは私のもの、あなたは私のもの……左右から双子がそう歌う。あなたは二人、あなたは二人、あなたは私のもの、あなたは私のもの……。
左右からのびた白い腕が私の左右の腕をそれぞれつかむ。左手は細い指が私の指に絡みあい、まるで一つのものとなったように感じる。右手はファバーン剣を握ったままの拳の上に指が覆いかぶさる。暖かく吸い付くような肌触りの指が私の拳を開かせようとする。指を一本ずつ柄から引きはがそうとする。あなたは私のもの、あなたは私のもの……歌声が左右の腕から体の中に流れ込んでくる。お願い、お願い、あなたは二人、私は二人……。
昨夜の夢の記憶が蘇る。溶け出して形をなくした舞台に大きな刃が現れる。鈍く銀色に光る厚みのある刃。巨人の蛮刀のような刃。闇の中でそれは振り上げられ、私の頭の上に落ちてくる。あなたは二人、あなたは二人、あなたは私のもの、あなたは私のもの……。
右側から女の悲鳴が聞こえる。私が知らず内に動かしたのか、彼女が誤って触れたのか、白い右腕に刀身のファバーン文字が鏡文字となって焼き付いているのが見える。赤黒い焼き鏝の跡のようなそこから血が滴り落ちる。
左側の女が「ジュニーフ！」と叫ぶ。左手に絡みついていた指がほどける。頭上に落ちてくる巨大な刃が波に乱れる水面の月のように揺れ動き、溶けるように見えなくなる。
左手からジェーマがジュニーフの方へ駆け寄る。ジェーマの左腕からも血が流れ落ちている。双子は腕の傷を重ね合わせ、もう片方の手でその腕を握りあう。ジュニーフの右腕とジェーマの左腕はぴたりと張り付いて融合し、一つのものとなる。二人が裸身を寄せ合うと互いの腰の痣から細い触腕がのびて絡み合い、一つにつながっていく。
私はようやく右腕が自由に動くことに気がつく。硬直した体が右腕から次第にほぐれていき、自分の体が自分のものに戻ったことを感じる。
双子は身を絡ませ、接吻をかわしながら、融合していく。腰と肩が溶け合い、胴の間の隙間には薄い膜のようなものができて波打っている。内側の腕は一本になったかと思うと、今度は肘から先が再び裂けて二股になる。神秘文字の傷跡はまだ残っている。内側の二本の足が骨を無くしたかのように絡みあい、溶け合おうとしている。
いつの間にか止んでいた手風琴の音が、突然背後から聞こえる。それはもはや楽の音ではなく、乱れた音を吹子のように響かせる。振り向くと奇怪なものがいる。手風琴は楽士の体に食い込んで一体となり、蛇腹の中に鼓動する心の蔵が赤くぼんやり透けて見える。体を動かすたびに蛇腹が伸び縮みし、無数の釦が動いて調和のない音を吐き出す。
男の両手は楽器から離れ、それぞれに反り身の短刀を握っている。奇妙な音を鳴り響かせながら、手風琴の男は襲いかかってくる。両手の刃を振り回すたびに幾つもの音が重なりあった怪物の叫び声のような音がその体から吹き出る。
私は右手の短刀を弾き飛ばし、左手の刃が襲ってくる前に手風琴の蛇腹を斬り裂く。空気が勢いよく抜ける音がして、それから蛇腹の裂け目から鮮血が噴き出す。男が悶えながら釦を押さえると、悲鳴のような音が幾重にもなって飛び出す。
手風琴の男は仰向けに倒れて動かなくなる。もう音は聞こえない。
双子に視線を戻すと内側の足が一つになっている。腕と同じように膝からは二つに分かれた奇妙な三本足と化している。
奇怪な双子に剣先を向けようとすると、背の高い黒い影が割り込んでくる。骸骨のように痩せた店主が虚ろな笑いを浮かべて何か喋っている。
いらっしゃいませ、〈青い花〉にようこそ、今宵は夢の舞台、ジェーマとジュニーフ、鏡写しの美神、誘惑の舞踏、蠱惑の歌声、いらっしゃいませ、ありがとうございます、ジェーマとジュニーフがあなたのために、二人はあなたのもの、あなたは二人のもの、いらっしゃいませ……。
ネヴォンズは長い指をひらひらと動かし、呼び込みの惹句を垂れ流し続ける。両手を腰の後ろに回したかと思うと、次の刹那、その手には細身の短剣が握られている。いらっしゃいませ、いらっしゃいませ……店主はそう繰り返しながら、両手の短剣で斬りかかってくる。
くるくると体を回して、素早く細身の刃を振り回し、突き入れる。受け止めて打ち返すと間髪を容れずにもう一方の剣が襲いかかる。ぎくしゃくとした木偶のような動きにもかかわらず、私の打ち込みを巧みにかわして、次の一撃を加えてくる。
私たちは地下室の中を動き回り、刃を交わす。体は動くようになったものの、ファバーン剣はやけに重く感じられる。招待状を持ってきた子どもの言葉が不意に頭をよぎる。飲みすぎだろ、あんた。吐きそうな顔してる。
足が何かにぶつかって構えが崩れそうになる。手風琴の男の骸だろうか。細い刃が突き入れられる。かろうじてかわして、突っ込んできたネヴォンズに体当たりを食らわす。痩身を折るように店主が倒れる。ファバーン剣を振り下ろす。ネヴォンズは両手の短剣を組んで受け止めるが、片方の刀身が折れ、切っ先が胸板に食い込む。
いらっしゃいませ、魅惑の舞台にようこそ、今宵夢か現か……胸から血を噴き、口元から赤い泡を吐き出しながら店主はまだ煽り文句を続けている。剣を引き抜くと痩せた体が引きつって、手足がそれぞれ勝手な向きに動いて震える。喉元から顎へ、顎から鼻筋、額へと赤い線が走っていく。ようやく口上が止まったかと思うと、ネヴォンズの体はぱっくりと二つに裂ける。一旦はあちこちから鮮血が噴き出すが、すぐに左右の断面から桃色の肉の泡のようなものが湧き出す。それは二つになった体を一つにつなぎ戻そうとするかのように見える。
だが、肉色の粘つくものは勢いをなくし、緩い粥状のものとなって流れていく。引きつる動きも止まり、ネヴォンズは二つに裂けた死体になる。
「殺した、殺した、人殺し、人殺し」
白い肌の異形のものがそうささやく。二つの体は融合し、三本の腕に四つの手、三本の脚に四つの足がついている。
「いい加減にしてくれ、ゲイトローフもこういうことか。他にも悪さをしているのか。店主のもう一人の息子や上の店にいた男もか」
「知らない、知らない、私たちはお願いしただけ、サグマーン様に、森と地と水の精霊に、お願い、お願い、あなたは私のもの、あなたは私のもの、お願い、お願い……」
双子はふざけた口調で歌うようにそう言って、笑った。
「あなたも私のもの、あなたも私のもの……」
双子は奇怪な裸身をくねらせながら、近づいてくる。左右に広げた腕が異様に長く見える。まるで白蛇のようにこちらにのびてくる。指の一本一本が蔓草のようにのびて、私を捕らえようとする。
金色の髪が大きく広がり、きらきらと光る金の網のようになって、双子と私のいる場所を包み込もうとする。
四つの足が地を這う長虫のようにくねりながら床の上をのびて近づく。恐ろしい速さで育つ木の根のようにも見える。
真ん中の腕の二股に分かれた肘から先の部分が形を変える。指がすぼまり一体となり、それは細長い白い鰐の顎門のようになる。だが、内側には舌も牙もない。ぬめぬめと光る幾重のもの肉襞が蠢き、その隙間に埋もれるように何かが銀色に光る。
「あなたは私のもの、あなたは私のもの……」
白い腕が再び私の腕に絡みつこうとする。白い足が私の足に巻きつこうとする。白い腕が、足が、蜘蛛の巣のように私のまわりを取り巻いている。その外側では金の紗幕が私たちを包んで、ちらちらと光っている。万華鏡をのぞいたかのように、幾つもの乳房が、臍が、陰裂が、うねりながらぐるぐると回る。
鰐の頭のような真ん中の腕が喉元に近づく。甘い匂いがする。二股の腕はまた姿を変え、赤い肉の襞の中から薄い銀の刃のようなものが迫り出してくる。腕は縦に大きく開き、まるで巨大な鋏のように上下から私を捉えようとする。鋏の両側でぼやけた二つの同じ顔が笑っている。赤い染みのような唇が蠢いて何か淫らな言葉を発している。四つの翠緑の瞳だけが奇妙にくっきりとして輝く。
目の前に一本の鉛色の筋が現れる。近づく鋏を遮るようにそれは下から迫り上がってくる。青みがかった緑色の光が鉛色の筋を縁取っている。それが自分の手に握られたファバーン剣であるとわかるまで、ひどく時間がかかったような気がする。
私は剣を振り上げ、振り下ろした。巨大な銀の鋏は蝶番が外れたように二つになって、鮮血を撒き散らしながら弾け飛ぶ。悲鳴が四方から聞こえる。長くのびた腕と足が見る間に縮んでいく。万華鏡が割れて砕けるように、無数の女体の断片が千切れ飛んで闇に消える。悲鳴は無限に息があるかのように、止まずに響き続ける。髪の紗幕が金砂のように粉となって飛び散る。
重い二つの音が同時に聞こえる。二つの白い裸身が床に倒れている。まるで誰かが慎重に体の向きを整えたかのように、二人は鏡写しに同じ姿で倒れている。内側の手は握られたまま、腰の染みの部分が赤い花のように肉が弾け、そこから血が流れ出している。血溜まりさえも左右同じ形に見える。二人の唇はもう動かないが、悲鳴は谺のように少しずつ小さくなりながら、まだ聞こえている。
半円形の舞台は元の形のままだった。ネヴォンズの二つになった死体は肉が崩れ落ちて、骨があちこちからのぞいていた。ラーニーは壊れた手風琴の脇に倒れていた。胸板が裂けて肋が何本か飛び出していた。
階段を上るとようやく悲鳴は聞こえなくなった。
九
私は警邏隊の詰所に投げ文をして〈青い花〉に死体が転がっていることを報せた。少しして、ノップラントに呼び出しを受けた。店のまわりを聞き込んで歩いていた怪しい男の話を誰かが警邏隊にしたのだろう。警邏隊南部局長はいつもの渋面で私の話を聞いた。
「その双子が怪しい術で男を二つに分けてそれぞれ自分のものにしていたというのか。そんな与太話を誰が信じるんだ」
「あんたは信じるんだろう。ああ、あのメドセアンという心霊探偵を使ってみたらどうだ。ネヴォンズの地下室に連れて行けば、何か感じ取れるかもしれない」
ノップラントは眉間のしわをさらに深くして、濁声で答えた。
「あいつは駄目だ。警邏隊からでも金を取ると言いやがった。ふざけた男だ」
「ふむ、僕もそうしたいところだね。信じたくなければ、信じなくてもいい。本当のところはよくわからない。直に人間を二つにするところを見たわけじゃない。ジェーマはサグマーンの寺院で何か失われた秘術を見つけたのかもしれない。ジュニーフはあのあたりの呪医に伝わる古の秘法を身につけたのかもしれない。本人たちが言っていたように、サグマーン様と森と地と水の精霊が願いを叶えてくれたのかもしれない。どちらに頼んでも同じことなのだとしたら、寺院と呪医は元をたどれば一つなのかもしれない。〈青い花〉で起こったことの大半は二人が見せた幻影だったのかもしれない。男を弄んだ後、二つに裂いて捨てるのが趣味だっただけなのかもしれない」
「馬鹿なことを言うな。どんな剛腕の剣士でも腕の立つ医者でも、あんな風に人間を真っ二つに斬り裂くことなどできるわけがない！」
「そうだろう。ほら、あんたも双子の怪しい力を信じているってことさ」
ノップラントは腕組みをして唸ったが、私を牢に入れることはしなかった。ネヴォンズの店の一件は、双子の踊り子と店主とその息子の痴情のもつれの果てということで片が付いた。
仕立屋のナスティオーブには、ゲイトローフの行方はどうしてもつかめないと話をした。依頼人は腹を立て、私に見切りをつけて警邏隊に息子の行方知れずの件を持ち込んだ。警邏隊はダンカル川とイーナムで見つかった奇怪な死体も〈青い花〉の一件もゲイトローフと結びつけることはしなかった。仕立屋の道楽息子は永遠に行方知れずになった。
出奔したというネヴォンズのもう一人の息子と双子の前の踊り子はどこに行ったのかわからない。エットニンという巻き毛の男は危険を感じて逃げ出したのだろうか。
奇妙な死体は他にもどこかに埋まっているのかもしれない。水底に沈んでいるのかもしれない。だが、誰も知らない。
