一
ブリトビオンの地は春を迎えようとしていた。低い丘陵地に点在する木立には名も知れぬ白い花が咲き、痩せた荒原にも淡い緑と小さな花が控えめに色をつけていた。
ブリトビオンはイオロープの西北に位置し、フラーテンとは狭い海峡と荒れた海で隔てられている。ブリトビオン島という島なのだが、手元にある怪しげな地図を信じれば、相当の大きさだ。一周するには一年ぐらいかかるだろうが、そう長居する気はなかった。
空はいつも灰色で滅多に日が差さず、冷たい風に小雪が舞う。住人は無愛想で、皮肉交じりの冗談が得意だ。味のない粥と胡椒が効き過ぎた羊肉、油っ気の多い魚の揚物がご馳走らしい。蜂蜜から作った酒はまずまずだったが、これを飲むには薄暗い窖のような酒場で、げっぷと異臭とブリトビオン人の奇怪な妄想につき合う必要があった。
曰く、ブリトビオンはかつて世界を支配していた。大艦隊を擁し大海を渡り、海の向こうにこの島国の何十倍もの無数の領地を得、黒い肌、黄色い肌、赤い肌の人々を奴隷としていた。偉大な女王のもと人々は結束し、大帝国を築いていたというのだ。
到底信じられるような話ではなかった。伝説がいつの時代のことなのかわかりはしなかったが、今のブリトビオンでは数多の領主が王を名乗って、互いのあまり価値があるとも思えない領地を奪い合っていた。メルカー東部でも〈世界皇帝〉の座をめぐって、終わりなき戦が続いているが、ここでも同じ不毛な戦いが行われていた。
私はネマークの海戦で船が沈み、ブリトビオンの東端に流れ着いた。冷たい海で命を落とさずにすんだことをどこかの神々に感謝すべきだろうが、この地を旅しているとそういう気分にはなれない。道々聞いた話では、コルメストという街がこのあたりでは一番大きな街で、そこからそう遠くない河口の港から船に乗ればイオロープにも渡ることができるらしい。
私はコルメスト城の尖塔が見える丘までたどり着いた。雲が切れて陽光が差し、白い花が輝くように見えた。しばらくぶりに少しましな気分になったような気がした。
丘の麓に一団の人々が見えた。馬に乗った数人に供の者らしき人々が付き従っている。先頭を馬で行く白い頭巾に長衣の女が主なのだろう。その後ろに護衛らしき剣を差した男がついている。徒の者にも剣を持つ者がいるようだが、多くは侍女や下男のようだ。
私はゆっくりと丘を下り、一団から距離を置いて、コルメストの街の方に向かおうとした。お姫様か何かの一行にかかわっても、多分良いことはない。
女主人と従者たちは花の咲いた枝を手折り、草原の小花を摘み、何やら楽しげに笑っていた。侍女が編んだ花飾りを護衛の男が主の頭に乗せているようだ。ただの護衛ではなく、夫か愛人かそうした者なのかもしれない。
日が急に陰った。雷でも鳴るかのように奇妙な緑色を帯びた雲が広がり、冷たく湿った風が吹く。白い花の梢が風に大きく揺れた。
木々が揺れたのは風のせいだけではなかった。木立の中から突然奇怪な一団が現れた。黒ずんだ鎧兜に身を包み、剣や槍を手にしてはいたが、奇妙に前屈みで大猿か立ち上がった熊を思わせる姿だ。手足の長さが不揃いな者もいる。イオロープの地にはそうした者もさほどめずらしくはない。〈大いなる厄災〉がもたらした害毒-あるいは呪い-でそうした異形の者が生まれるのだという話もあったが、本当のところはわからない。
木立の中から現れた者たちは不格好な姿だったが、動きは速かった。たちまち女主人一行に迫り、得物を手に襲いかかった。悲鳴、叫び、怒声が丘に響き、従者たちが次々に倒れる。護衛の男は女を馬に乗せて逃そうとしたが、襲撃者たちはひと足早く馬を追い払った。護衛と残りの従者は女主を囲んで彼女を守ろうとしたが、護衛の男以外にまともに剣を使える者はいないようだった。
私は足下の花を踏み散らして、駆け寄った。一歩走るごとに従者が一人倒れていく。刃が届く距離まで寄った頃には、女主のまわりは血まみれの死骸が輪になっていた。
私は槍を振りかざしたやけに腕の長い男の太股を後ろから斬り裂き、倒れたところを喉を突いた。間近で見ると、それは人間ではない何かのように見えた。黒い剛毛が顔まで覆い、異様に長い顔は馬のようだった。他の襲撃者が気づく前に私はもう一人、今度はずんぐりとした体の男の首筋を後ろから斬った。どす黒い血を噴き上げて、ずんぐりした男は倒れた。男の鼻は猪か豚のように大きく、上を向いていた。
奇怪な襲撃者たちは残り五人だ。三人は護衛の男と女主に向かい、残りの二人が私に刃を向けてきた。一人はやはり猪、もう一人は猿と人間の合の子のように見えた。猪は戦斧、猿は細長い反り身の剣を手に、私を荒原の滋養にしようとした。
私は二人の獣人を斬り伏せた。膂力と速さはあったが、どちらにも剣技と呼べるようなものはなかった。女を襲っていた三人は従者たちを皆殺しにして、護衛の男を倒そうとしていた。
護衛の男は深緑の刺し子の上下に革の胴着という出で立ち、茶色の髭を蓄えていたが、年若に見える。頬を赤くして剣を振るい、迫る獣人に立ち向かっていたが、装束のあちこちには黒ずんだ血の染みが見える。
女主の白い長衣には返り血を浴びたのだろう、赤い染みが点々としている。蒼白な顔に眉毛がやけにくっきりと見える。鳶色の波打つ髪が乱れて、白い頭巾からのぞいていた。小作りな美しい面立ちだったが、今はその美顔は恐怖に歪んでいた。
私はたてがみを生やした狼に似た怪人を剣先で貫き、こちらに襲いかかってきた山猫のような男の額を叩き割った。
女の大きな悲鳴が聞こえた。最後の熊のような怪人が得物を放り投げて、緑の服の男の喉笛に喰らいついていた。私は二度三度、熊男の背中に斬りつけた。粗末な革鎧が裂けて血が噴き出したが、熊男は倒れなかった。緑の服の男から牙を引き抜き、獣人は私を鉤爪のある手で引き裂こうとした。黒い剛毛で覆われた手は人間にしては指が短く太過ぎる。
私はその手に刃を叩きつけた。旅の途中で野盗から奪った鈍ら刀では、斬り飛ばすことはできなかったが、熊男は悲鳴らしきうめき声を上げて、腕を引っ込めた。私はその隙に奴の腹に剣を突き入れた。奴は腕を振り回し、私は肩のあたりを打たれて吹き飛ばされた。幸い爪の一撃は喰らわずにすんだ。
熊男はなおも突進してこようとする。私は手近に転がっていた槍を手にした。獣人の誰かの得物だろう、やけに重かった。私はその槍を熊男の胸を貫いた。突進の勢いで私は後ろに跳ね飛ばされたが、怪人は頽れ、動かなくなった。
肩のあたりが痛んだが腕は動いた。私は立ち上がり、青ざめて震えている女の側に行った。
「とんだ花見になったね」
女は座り込んだまま、私の足にすがって泣き始めた。喉を裂かれた男の虚ろな眼差しがこちらを向いているような気がした。
「ヴェルジェニ様、王妃様、ああ、よくぞご無事で！」
生き残りの侍女がそう叫んだ。
二
「その方がヴェルジェニを救ってくれたのだな。幾重にも礼を言うぞ」
背の高い王座でしわがれた声を出した男は、体の具合が悪いように見えた。血色が悪く目が落ち窪んでいる。褐色の髪には艶がなく頭にも髭にも白髪が目立った。金銀で飾られた胴衣の上に分厚い毛皮の長衣をまとっていたが、肩が下がり衣がずり落ちそうだった。
コルメストの王アルザールはそれでも威厳とやらを保とうと、幾度も身を起こし顔を上げた。整った面立ちは厳しさよりも慈悲深さが似合っているように見えた。
「偶然の出来事です。王妃をお救いできたのも、偶然の神のなせる技でしょう」
私が謙遜してみせると王妃ヴェルジェニはそれを否定した。
「いいえ、スナブ・ランケン殿の戦いぶりはそれは見事なものでした。お一人であのおぞましい獣どもをすべて打ち倒し、私を助けてくれたのです。コルメストの、いやブリトビオンのどんな騎士にもあのような勇敢な戦いはできますまい」
王妃は艶やかな薄桃色の衣裳に着替え、王と揃いの毛皮の上衣を羽織っていたが、それが暑過ぎるのか、前をはだけていたので突き出した胸乳が目立った。化粧もなおして桃色の頬紅と赤い口紅が艶やかだったが、そんなものがなくても色香は十二分だろう。
アルザール王はうなずき、微笑んだ。それから少し眼差しを下げて、死んだ男のことに触れた。
「カルードは残念なことだった。あれはまことに忠義と勇猛を兼ね備えた騎士だった。十分な弔いをするのだ。そして……」
王はそこでひどく咳き込み、しばらく次の言葉を発することができなかった。王座の間に集まっていた甲冑姿の男たちが互いに気まずそうに顔を見合わせる間に、ヴェルジェニが駆け寄り王の背中をさすった。
「薬を！」
王妃の声に侍従たちがあたふたと出て行った。咳は少しするとおさまり、王は差し出された薬湯を押しのけて、擦れ声で叫んだ。
「一刻も早く〈精血の杯〉を探し出すのだ！ 断じてフェルモーグスに先を越されてはならん！ 汚らわしい獣を送り込んできたとあっては、一刻の猶予もならん！ あの魔女より先に杯を手にして、コルメストとブリトビオンの安泰を図るのだ！ メルディーン！ メルディーンはどこだ！」
コルメストの王はそこでまたひどく咳き込み出し、王妃と従者に抱えられるように王座の間から出て行った。
私は湯を使った後、城の広間に通された。妙に天井の低い広間には卓子と椅子が並び、豪華な-あくまでこの地ではという意味だが-料理が並んでいた。私は上座に近い席に案内された。すぐ前には王と王妃が並ぶ卓子があった。王は少しは顔色が良くなったように見えた。王妃は変わらず美しかった。
最初にアルザールが死んだカルードという騎士に対して短い弔いの言葉を述べた。それからアングードの僧侶が焦茶色の頭巾の下でもごもごと何かを祈った。ヴェルジェニはうつむいて少し涙を流した。
その後は私を歓待する宴になった。蜜酒が振る舞われ、道化師がよくわからない寸劇を披露し、楽士が六弦琴に似た楽器を奏でた。
宴席には七八人の騎士たちが並んでいた。それぞれが名乗ったが髭面の男たちの名前をいちいち覚える気にはならなかった。私が東の果て、メルカーのサンジェリィという街から旅して来たと言っても、彼らにはそれを思い浮かべることは難しそうだった。イーテン帝国あたりが世界の果てなのだろう。
彼らの話によると、アルザール王の下には〈十三人の騎士〉と呼ばれる臣下がおり、その一人カルードは今日死んだ。ここにいない残りの者たちは王の命を受けて、ブリトビオン中に散って〈精血の杯〉とやらを探索しているのだという。フェルモーグスというのは西方の女王でアルザール王とは刃を交えたことがあるらしい。魔法の使い手で彼女もまた〈聖杯の杯〉を探しているのだという。
「フラーテンを旅しているときに〈酒神の聖杯〉というものを聞いたことがある。幾ら飲んでも酒が尽きることがないという結構な代物だと聞いたが、〈精血の杯〉もその手のもかい？」
私は何か間違ったことを言ったらしかった。一瞬広間に沈黙が広がり、アングードの僧は眉根を潜めた。
王妃ヴェルジェニが私に助け船を出してくれた。
「ランケン殿は遠い異国からの旅人、我らが聖なる杯のことを知らなくとも不思議はありません。ましてや蛮国フラーテンをお通りになったとあっては、仕方ありますまい」
私にはフラーテンもブリトビオンも大差はないように思えたし、酒と料理はフラーテンの方が上等なようにも感じられたが、それには触れないことにした。
王妃の言葉は皮肉な冗談として騎士たちの相好を崩した。
「そうだな、フラーテンから参られたのでは仕方もあるまい。聞けばカルードもフラーテンが出自と言うではないか。獣に喉を裂かれるのも……」
両の眉毛がつながった恰幅の良い騎士が笑いながらそう言いかけたが、王妃がその毛むくじゃらの顔に蜜酒の入った杯を投げつけたので、騎士の発言はそこでお仕舞いになった。
「何たる暴言！ 私の命を救うために犠牲となった騎士を愚弄する気か！」
眉毛の騎士は顔から蜜酒を滴らせながら謝罪した。
「いや、これは御無礼の段、どうかお許しを。いささか酒が過ぎました」
「今宵の酒はその眉から滴っているもので仕舞いにするがいい」
王妃はそう言って笑った。どこまで本気で怒っていたのかは、よくわからない。
アルザール王も青黒い顔に薄笑いを浮かべているように見えた。手元には空になった酒杯が転がっている。侍従がそれに蜜酒を注ぎ、王の手に握らせた。
「ダンニード、お前はまだ我が妻に懸想しておるのか。お前にはあの子だくさんの福々しい妻がおるではないか。それで満足せよ」
宴席の騎士たちは-ダンニードを除いて-どっと笑った。ダンニードも仕舞いにはいささか苦々しい笑みを浮かべた。
「さてさて、勇敢なるカルードの死によって〈十三人の騎士〉の座には空席ができた。余は我が妻ヴェルジェニの命を救った旅の騎士スナブ・ランケンをその座に着けたいと思う。皆の者、如何か？」
一座の者は一斉に杯をあげ、「御意のままに！」と唱和した。嫣然とした笑みを浮かべ、王妃が私を見つめてうなずいた。
私が戸惑いながら、断わりの言葉を発しようとすると、耳元で誰かの声がした。
「お受けなされ、異国のお人。下手に断れば、王と王妃を侮辱したと罪に問われ、命はありませんぞ。まずはお受けなされ」
私の両隣の者は、杯をあげて「御意のままに」と繰り返していた。耳元で囁いているものなど誰もいなかった。
私は立ち上がり、酒杯を掲げて「御意のままに！」と言っていたが、それが果たして自分の意志なのかどうか、どうにもはっきりしなかった。
私は王と王妃の前にひざまずき、アングードの僧侶が何か呟く中、王が抜いた剣を王妃が手にして、私の肩に軽く触れた。儀式はそれだけだった。
三
宴が終わると城の中の一室を宛てがわれた。部屋は質素でがっしりとした作りの大きな寝台が置かれていた。布団は藁布団のようだった。暖炉には火が入っていたが部屋は寒々としていた。
寝床に転がって、この奇妙な一日の出来事を考えていると、扉を叩く音がした。
「暖かい飲み物をお持ちしました」
女の声がそう言った。扉を開けると白い頭巾を目深に被った女が盆に陶器の瓶と硝子の杯を載せて立っていた。
女は部屋に入ると暖炉の前の小振りな卓子に瓶と杯を置いた。杯は二つあった。
「今宵は冷えますゆえ、葡萄酒を暖めてお持ちしました」
女が低い声で言った。
「それはありがたいがね、杯は一つでいい。夜伽には及ばんよ」
「夜伽をするのはあなたです。十三番目の騎士、スナブ・ランケン殿」
女は頭巾の下から顔を出した。暖炉の火を受けた王妃ヴェルジェニの瞳は金色に光って見えた。
「やれやれ、この城は奇妙なことが多過ぎる。十三番目の騎士は王妃と密通するという掟でもあるのかい」
ヴェルジェニは笑みをたたえながら、杯に赤い葡萄酒を注いだ。
「さあ、栄えあるコルメストとブリトビオンのために乾杯いたしましょう」
王妃は私の手に杯を押しつけ、自分の杯を軽く合わせて音を立てると、酒を口に運んだ。
「尻軽な王妃のために乾杯、と言ったら首を刎ねられるのか」
「そんなことを言うものではありませんわ。折角の勇者殿がアングード僧のように堅物では興が冷めます」
ヴェルジェニは葡萄酒で濡れた唇を少し尖らせて悪戯っぽい表情を作ってみせた。
「そうか、ならば自由な女のために」
私は自分の酒を飲んだ。薬草でも入っているのか、不思議に甘い香りがしたが味は良かった。ヴェルジェニは二杯目を飲む前に腰帯を解き始めたので、私は二杯目を飲む暇がなかった。女は花のような匂いがした。葡萄酒の香りとも似ている気がした。
藁布団はがさがさと音がするのが難点だが、彼女は特に気にする様子もなかった。幾度も身をのけぞらせて満足すると、女はまた酒を飲み始めた。
「冷めてしまったわね。暖かいのを持たせましょうか」
ヴェルジェニは私にもたれかかってそう言ったが、私はそのままでいいと答えた。
「酒に何か入れただろう。媚薬とかそいうものか」
「薬師が王のために調合したものを少しいただいたのよ」
「君は死んだあの男とも通じていたんだろう」
「どうしてそんなことがわかるの」
「死んだ時、僕をにらんでいた」
王妃は私の腕の中でくすくすと笑った。
「馬鹿なことを言わないで。騎士たちから聞いたのね」
「アルザール王はよほど寛容と見える」
女は首を振って、小さくため息をついた。
「我が殿は夜のお勤めが難しいお体なのよ。フェルモーグスとの戦でひどい傷を負って、命はとりとめたけれど、剣を振るうのもままならない。生身の剣も折れたままなのよ」
「それじゃあ、君のご乱行は国王公認ということなのか」
「知らないわ、そんなこと。我が殿の頭は、今は〈精血の杯〉を探し出すことでいっぱいなの。それを見つければ、私に子どもが-将来、〈王の中の王〉となる子どもが-できると信じているのよ」
「〈精血の杯〉とはいったい何だ？」
「そんなこと、誰も知らないわ。大昔から伝わる書物だか巻物だかに書いてあるとメルディーンは言っていたけれど、本物の〈精血の杯〉も誰も見たことはない。ただ、それを手にした者は〈王の中の王〉となる子どもを授かることができるって言うのよ」
「ああ、メルディーンとは誰だ？ 確か王がその名を呼んでいたと思うが」
王妃は空になった杯で私の胸を軽く叩き、くぐもった声で笑った。
「あなた、本当に遠い国から来たのね。メルディーンはブリトビオンでは知らぬ者はいない魔道士よ。二百年も前から生きているっていう噂もあるわ。あちらの王、こちらの王と渡り歩いて、助言や予言をしているの。正体は魔物だという者もいるわ。今は我が殿に味方しているけれど、本当の意図なんてわかりはしない」
「ふむ、それで王妃様はその〈精血の杯〉とやらが見つかったら、〈王の中の王〉とかいう子どもを産むおつもりか」
「そうね、それもいいわね。本当にそんなものがあって、見つかったらの話だけれど。メルディーンによれば、〈王の中の王〉は〈大いなる厄災〉以前からの高貴な血を引いていて、ブリトビオンを統一して、さらにはイオロープをも統べる大王になるという話よ。それどころか、海の彼方まで支配する大帝国が復活すると言う者もいるわ。そうしたら、私は大帝国の皇太后ね」
どこまで本気かわからないが、ヴェルジェニはそう言って笑った。
「あなたも〈精血の杯〉探しに駆り出されるわ。十三番目の騎士になったのだものね」
「おいおい、僕もその与太話に巻き込まれるのか」
「逃げてしまえばいいのよ。〈十三人の騎士〉の座は半分くらいが空席だったでしょう。この城にいない者が皆、血眼になって探索をしているとでも思うの？ 確かなことは知らないけれど、多分半分くらいはどこかに逐電しているんじゃないかしら」
「アルザール王はそれを知っているのか？」
「さあ、どうかしらね。私には我が殿の考えることはよくわからない。あなたをいきなり十三番目の騎士にしたのも、薄々騎士たちの逃亡に気づいているからだと思うけれど」
それから彼女は二つの杯を卓子に置いて、私の上にのしかかった。
「メルディーンという魔道士はどこにいるんだ？ さっき、宴の最中、騎士への叙任を受けろと言う声がどこからか聞こえたが……」
「ああ、メルディーンの仕業かもしれないわね。〈精血の杯〉を探すと言ってこの城に出入りし始めて、もう一年近いわ。近くにいるのかもしれないけれど、わからないわ。もしかすると、今ごろ、どこかの蛮夷の王の臣下にでもなっているかもしれないし、それはフェルモーグスのところかもしれない。あの獣人たちを送り出す力があの売女にあるのかどうか」
フェルモーグスとはどんな奴だと私は尋ねようとしたが、ヴェルジェニがたわわな乳房で口をふさいだので、それ以上の質問はできなかった。王妃が扇情的で床上手な女であることはよくわかったが、それ以外は不確かで怪しげなことばかりだった。
四
グラロンドは大きな川の両岸に広がる巨大な廃虚だった。無数の石造りの大きな建物が半ば瓦礫の山と化して建ち並んでいた。巨人の住み処だという言い伝えもあるらしいが、〈大いなる厄災〉以前の都の跡だという話もあった。
長居すれば巨人に貪り食われると言う者もいたし、夜を過ごせば無数の亡霊につきまとわれ、恐怖で発狂すると言う者もいた。
巨人の住み処というのは言い得て妙だった。廃虚は一つ一つが城並の大きさがあり、それがあるものは屹立しあるものは横倒しになり、どこまでも続いているように見えた。
「ダンニード、フェルモーグスの軍勢は本当に現れるのか。物見は何も見つけられなかったが」
ダンニードは洗練とはほど遠い男だったが、私とは気が合った。武芸の方は並の腕だが体は頑健、気持ちを隠すのは不得手だが謀り事とは縁遠い。誇りはあるが妙な自惚れはなかった。彼はつながった眉毛を毛虫のように蠢かして、不愉快そうな面持ちだった。
「知るものか。会ったことはないがな、フェルモーグスはメルディーンに勝るとも劣らぬ女魔道士だという。根城ははるか西方のコンヴァルらしいが、魔法を使って軍勢を遠く離れた地に送り込むことができるという噂だ。お主がヴェルジェニ様を助けたときのあの獣人、奴めらもその手で送り込まれたらしい。でなければ、城の目と鼻の先にいきなり現れるはずがない」
「神出鬼没というわけか。それじゃあ、手の打ちようがないな」
「ふむ、そうでもない。こっちにはメルディーンがついている。きっと魔女の匂いを嗅ぎつけるんだろう」
ダンニードはそう言って、近くの瓦礫の小山の上に立っている男を目顔で指し示した。継ぎ接ぎだらけの長衣をまとった男は顔に刻まれたしわからすれば老人と言って良かったが、大きな黒い目が子どものように輝いていて、一見して奇妙な印象だった。一面にびっしりと絵文字のようなものが刻まれた丸い兜を被り、捩れた木の杖を手にしている
ダンニードの言ったことはただの皮肉というわけでもなく、確かに魔道士は大きな鼻をひくつかせ、あちこちに顔を向けてはにおいを嗅ぐような仕草を繰り返していた。
コルメストの城に逗留して三日が過ぎた頃、一人の騎士が城に帰ってきた。ボアニスという名のその騎士は〈精血の杯〉の探索行の途中、グラロンドの廃虚に迷い込み、そこで夜を明かすことになった。真夜中に大きな鐘の音が鳴り響き目を覚ますと、廃虚の中にたつ一つの塔が青白く輝いていた。天啓と思いその塔に近づくと、光が明滅し、その中に黄金と水晶でできた杯の幻が見えたのだという。
騎士は塔の中に入ろうと試みたが、周囲には得体の知れぬ白い影が飛び交い、さらには獣の唸り声も聞こえてきた。騎士は青白い奇怪な獣に襲われ、剣を振り回してようやくグラロンドから脱出した。翌朝、剣を見るとそれは人間の血とは思えないどす黒い何かにまみれていたのだという。
ボアニスの鎧はあちこちが鋭い爪のようなもので裂かれ、傷口は膿み爛れていた。ほどなく騎士は死んだ。兜を脱がされたボアニスの顔は髭がなく、小作りで端正な顔立ちだった。生きている間はさぞかし女が寄ってきただろう。だが、今は腐り始めた青黒い肌の死骸だった。
魔道士メルディーンはその夜に現れた。ぼろを着た男は死人の傷口を見て、腕を組んでうなった。
「これはグラロンドの廃虚に潜み棲む屍食鬼に襲われたのです。かの死の都では、死骸を喰らうにも事欠き、生きた人間を襲ったのでしょう。フェルモーグスはあらゆる魔物を操る術を心得ております。廃都の屍食鬼にもその息がかかっているのやもしれませぬ。そればかりか西の邪悪な魔女は、魔物を作り出す術にも長けております。先日、お妃様を襲った獣人も、あの魔女めが獣と人間を掛け合わせて作り出したものと思われます」
「何と、人と獣の合の子を作り出すと言うのか！ 汚らわしい女だ」
ダンニードが猪首を振ってうめいた。他の騎士たちも眉をひそめたが、アルザール王はことさら驚くという風でもなかった。
「フェルモーグスであらば、そうした術を善くしても不思議ではあるまい」
「我が君、その通りでございます。すなわち〈精血の杯〉を手にすれば、その妖術をもってして〈王の中の王〉を産み出すことも為し得るかと思われます」
アルザールはうなずき、しわがれ声の口調を強めた。
「ならば、必ずや魔女よりも先に杯を手にしなければならぬ。グラロンドの魔物がその手先であるならば、かの地に〈杯〉があることをフェルモーグスも知っているということか」
「間違いありますまい。我が君、かの魔女は遠く離れた地にも兵を送り込む術も身につけております。一刻も早く、我らもグラロンドに赴かなければなりませぬ」
私は素朴な疑問という奴を口にしてみた。
「我らは道士殿の魔力で、そのグラロンドという場所に飛んでいくわけにはいかないのか」
メルディーンは初めて私に気づいたような顔でこちらを見たが、きっと偽りだろう。十三番目の騎士になることを受けよと、私の耳元で囁いた声は、この目の前にいる男の声に違いないように私には思えた。
「おお、異国の騎士よ。そなたには思いも及ばぬことやもしれぬが、すべての魔道士がすべての魔術妖術に秀でているわけではないのだ。我メルディーンは、予見と遠見、火炎の術では並ぶ者もないと言い切ることもできるが、跳梁の術は心得てはおらぬのだ」
魔道士はいささか不愉快そうな面持ちでそう言ったが、唇の端にはずるそうな笑みが浮かんでいるようにも見えた。
「そうかい、それは残念だね」
王妃は褥の中でも、ただ邪悪な魔女だというだけで、それ以上のことを聞こうとすると機嫌が悪くなった。ダンニードや他の騎士たちはその名の魔女がアルザール王の仇敵だと言うばかりだった。中には奇妙な含み笑いを浮かべる者もあったが、その先は沈黙で終わった。
アルザール王の軍勢は大急ぎで準備を整え、グラロンドに向かった。驚くべきことに王妃ヴェルジェニも同行した。メルディーンの話によれば、グラロンドの杯の塔の中である種の儀式を行う必要があるやもしれぬということだった。すなわち、ヴェルジェニが〈王の中の王〉を身ごもるための儀式だ。
王妃は王と共に行軍しているにもかかわらず、夜毎私の天幕に忍んできた。アルザール王は魔道士が新たに調合した秘薬を飲んでいるとの噂で、咳き込むことも少なく血色も良くなっていたが、魔法でも王を男にすることはできないらしい。
「そんなに励んでいると〈王の中の王〉を身ごもる前に、僕の子どもを産むことになるんじゃないか」
ヴェルジェニは私の一物をもてあそびながら、くすくすと笑った。
「多分、大丈夫よ。メルディーンから秘薬をもらっているの。でも、グラロンドが近づいたら止めないとね。だから、今の内に楽しんでおくのよ」
ヴェルジェニは私のものをしごいて固くすると、濡れた秘唇に自らそれを押し込んだ。
魔道士は瓦礫の山から思わぬ身軽さで飛び降りると、王の前で申し立てた。
「風と土が震えております。稲妻のにおいがします。遠からずフェルモーグスの軍勢が現れると思われます」
「それはいつ、数はどうだ」
「恐らくは日暮れ前、数はわかりませぬ。しかし、魔術で送り込める兵の数は恐らくは知れたものでしょう。この廃虚に潜む魔物の力も借りようという算段かと思われます」
「それでは、日が高い内にボアニスが見たという塔を見つけ出さねばなるまい」
「仰せの通りでございます」
王は軍勢を幾つかに分け、廃虚と瓦礫の街の探索に当たらせた。私はダンニードと組み、配下の兵士たちと共に打ち捨てられた街を歩き回った。
グラロンドは広かった。コルメストの街の何倍もの、あるいは何十倍もの広さがあるようだった。廃虚といっても随所に塔のような建物は残っており、ボアニスのように天啓でもなければ、杯の塔を見出すは容易なことではないように思われた。
メルディーンはある仕掛けを用意していた。探索の騎士たちに〈目玉〉を持たせたのだ。それは硝子か水晶で出来た掌に載るほどの球体で、真鍮か何かの枠に収まった球体は絶えず上下左右に動いていた。魔道士はそこに映るものをすべて同時に見ることができるのだという。
ダンニードは〈目玉〉を私に押しつけた。
「どうも俺はこういうものは好かん。生き物でもない、ただの絡繰り仕掛けでもない、こういうものがきょときょと動いているのは気色が悪い」
「生首を掲げて歩けと言われるよりはましだろう。メルディーンが死霊使いでなくて良かったな」
ダンニードは渋い顔でうなずいた。
「なあ、スナブ・ランケン、お主は〈精血の杯〉が本当にあると思うか」
「おいおい、今さらそんなこと僕に聞かれても困るね」
「ここだけの話だが、俺は王は頭がいかれているんじゃないかと思う。それとも、あのぼろを着た魔道士に騙されているかだ。メルディーンはブリトビオン中に〈精血の杯〉の話を触れ回っているらしい。それを求める王たちが競って戦になる。最後まで残った者が〈王の中の王〉となりブリトビオンを統一するっていう筋書きさ」
「〈杯〉がなくとも戦の果てに〈王の中の王〉が生まれるということか。血まみれの大王の誕生というわけか」
「数多の戦に勝ったとて、ブリトビオンを統べることができるものだろうか。西のヴェルリッシュ人や北の猛々しい高地人どもとうまくやれるか？ 無理な話さ」
「まあ、ばらばらだって悪くないさ。戦を止められるのならな」
「そうだ。だが、止められん。アルザール王は勇ましいだけではなく、慈悲の心もあるお方だ。〈王の中の王〉が誕生しブリトビオンが一つになれば、戦のない世になると考えておられるが……」
ダンニードの話はそこで中断された。私の手の上の〈目玉〉は激しくぐるぐると動き、真鍮の枠がかたかたと音を立てた。魔法仕掛けの絡繰りにも驚くということがあるのだろうか。
五
目の前の川のほとりに黒ずんだ塔が立っていた。周囲は瓦礫の山だが、どうやら方形の城塞の角にあった櫓が残ったもののようだ。塔そのものはほぼ原形を留めているかに見える。高さは七十イート（約二十メートル）ほどもあろうか。頂部に近づくにつれて、少しずつ細くなる方形の建物で、壁には縦に溝状の装飾が施されている。細かな彫刻も為されているようだが、意匠はわからない。黒ずんだ壁のあちらこちら、凹凸の間に金色に見える部分がある。石造の塔というわけではないのかもしれない。
「これがそうなのか。ボアニスが見出した杯の塔なのか」
ダンニードは塔を見上げて、独り言のように言った。
「青白い光も見えんし、鐘の音も聞こえないが……」
私が言いかけたとき、沈みかかっていた日が雲間に隠れた。塔の上部から黒い鳥が何羽も飛び立った。やけに大きいが鴉らしい。鴉たちは耳障りな声で私たちの頭上で発した。
「こんなところで何を餌にしているんだ」
ダンニードが憂鬱そうに空を見上げる。
「屍食鬼とやらの死骸じゃないか」
「屍食鬼も死ぬのか」
「そう願いたいね。でないと我々が鴉の餌になる」
どこからか、大きな音が聞こえてきた。鐘の音だとしても、相当にひどい破れ鐘だろう。鉄の板でも叩いているか、あるいは雷鳴のようにも聞こえた。兵士たちがざわざわと声を立て、何人もが塔を指差した。黒い塔がわずかに白い光を発しているように見えた。
「ふうむ、どうやら間違いないらしいな」
ダンニードは周囲を見回し、剣を握りなおした。
「メルディーンや他の連中は来るんだろうな」
「そのはずだが。伝令を受けてからだから、すぐとはいかないかもしれないな」
私たちは杯の塔と思しき建物の周囲を調べた。川に面した南側は川の中に建っていたらしい大きな建物-どうやらそれは巨大な橋らしかった-の残骸でふさがれ、西と北は四角い城塞の残骸が立ちふさがっていた。東側だけがかろうじて開けており、瓦礫で埋まった堀らしきものの向こうに閉ざされた大きな扉が見えた。
西の空が朱色に染まり始めていた。雲間から差す夕日に川面がぎらぎらと光り、建ち並ぶ廃虚が黒い影絵になって見えた。
ぶうんという唸るような音が聞こえた。また、見えない鐘が鳴るのかと思ったがそうではなかった。二度三度、低い唸る音が聞こえると、奇怪なことに西日が歪んで渦巻きのように見えた。渦巻きの中心に黒い穴が開いた。そこから黒い煙のようなものが噴き出した。それは地面の上に広がり、盛り上がり、半ば黒い泥の塊のようにも見えた。四十イート（約十二メートル）ほどもありそうな大きな黒い塊が出現した。それは脈打つように蠢いた。
「奇っ怪な！ これは妖術か！」
ダンニードが一歩二歩と退いてうめく。兵士たちも騒めきながら後退る。
黒い塊が内側から切り裂かれた。剣先が、槍の穂先が見える。黒い塊はずたずたのぼろ切れのようになり、宙に溶けていくかのように消えていった。中からは黒い鎧に身を包んだ兵士たちが現れた。折り重なるようにかたまっていた兵士たちは縛めを解かれて広がった。二十、いや三十はいるだろうか。巨躯の者もいれば矮人もいる。獣人も混じっている。尋常な姿形の者の方が少ないようにも見えた。
「フェルモーグスの軍勢か！」
私の声に女の声が答えた。
「さよう、我がフェルモーグス。その方が昨日、我が兵士たちを倒した異国の戦士じゃな。なかなか天晴れな働きであったらしいな」
異形の兵士たちの後ろから現れたのは、黒と銀の衣裳に身を包んだ黒髪の女だった。肌は浅黒く瞳は黒曜石のようだ。細面の美顔に不敵な薄笑いを浮かべている。
女は兵士たちの間を身をくねらせるようにして進み出た。黒と銀の装束はしなやかな体に張り付くようで、まるで蛇の鱗のように青や紫の斑模様がうっすらと光って見えた。
フェルモーグスは芝居がかった仕草でぐるりと周りを見回し、満足げにうなずいた。
「我の遠見の術もなかなかのものであろう。その〈目玉〉を少しばかりのぞかせてもらったぞ。メルディーンには感謝せねばならぬの」
女魔道士は甲高い声で笑った。美しいがあまり愉快ではない女のように思えた。
「魔女め！ お前の好きなようにさせると思うか！」
ダンニードがまた一歩前に出て剣を突き上げた。
「おお、勇敢なる〈十三人の騎士〉よ、役立たずの王のためにせいぜい命の無駄遣いをするが良い。それとも、我が軍勢に加わるか。幾らかでも頭の回る者ならそうするであろう」
フェルモーグスは意味あり気に左右に控える兵士に視線を送った。女魔道士の左右の、これは立派な黒い甲冑姿の騎士が面頬を上げた。
「ネイヴラム！ アグロック！ お前たち……」
ダンニードは驚きの声を上げた。
「そう驚くこともあるまい。その方とて、本当に心の底からアルザールに忠誠を誓っているのか？ 不能の王とふしだらな王妃に仕えて本望か？」
両手で槍を構えた黒い騎士が嘲けるような笑みを浮かべた。
「ダンニード殿、騎士が主君を変えるのは当節少しも珍しいことではあるまい。今ならまだ遅くはない」
「アグロック、生憎と俺は古風な男でな、お前のような尻の軽さは持ち合わせてはおらぬ」
ダンニードは吐き捨てるように言い返した。槍の騎士とは馬が合わないと見えた。
「ならばこの廃虚がお前の墓だ！」
アグロックは槍を構えなおした。この男は気が短そうだ。
もう一人は幾らか年嵩のようで、淡々と諭すような口調だった。こちらは弩を手にしている。
「そちらの見かけぬ男よ、その方はどうだ？ 新顔の騎士と見えるが、アルザールに忠義を尽くす義理がおありか？」
弩の男は私に狙いを付けながら言った。
「誰かに忠義を尽くそうなんて思ったこともないがね、とりあえず、今は雇われた身だからなあ」
ダンニードが怒気を露に叫ぶ。
「ネイヴラム、お前はベイドリの合戦で王に命を救われたのを忘れたのか？」
「忘れてはおらぬがな、その王の命の〈杯〉探しで危うく死にかけたところをこちらの女王に救われてね。これはこれで忠義というものだ」
眉毛の騎士は苦々しげに弩の騎士をにらんだ。
「どうやら、交渉は不成立のようね。あの世で後悔するといいわ」
フェルモーグスの言葉とともに襲いかかってきたのは二人の黒い騎士ではなかった。狼や猪、熊と人間の合の子のような毛むくじゃらの怪人どもが得物を手に突っ込んできた。一手二手、刃を打ち合わせると、彼らが以前斬りあった連中とは違うことがわかった。ただ、獣の力で押しまくるだけではない。この獣人たちはそれなりの剣技を身につけていたのだ。
「気をつけろ、こいつらは出来るぞ！ ただの獣じゃない！」
私が怒鳴るよりも早く、アルザールの兵士が一人二人、血を噴いて倒れる。その後は怒鳴っている暇はなかった。獣人たちは一流とまではいかなくとも、手にした武器を存分に操ることができた。それに加えて人間離れした膂力と素早さを持ち、手傷を負ってもなお向かってくる強靭さを備えていた。
私もダンニードも兵士たちも瓦礫の山の中で刃を振るい続けた。敵方とはほぼ同数だったが、こちらが一人を倒す間に敵は二人を打ち倒す。獣人たちは時に剣を捨てて爪と牙で我々の喉笛を引き裂き、食い千切ろうとした。彼らに続く矮人や巨人、手足の揃わぬ者たちも侮れぬ戦士だった。思いも寄らぬ動きで意表をついた一撃を繰り出し、次々に兵士たちを屠っていく。
「くそ！ メルディーンは何をやっているのだ！ 〈目玉〉でどこを見ているのだ！」
ダンニードが血まみれの顔でわめく。幸いにも返り血が大部分らしいが、鎧はあちこちが裂け、兜にも凹みがある。
大きな鉄槌を振り回す巨漢がダンニードに迫る。そちらに行こうとすると、獣人が私の前に立ちふさがった。飛び出した前歯からすると鼠の化け物らしい。奴は鼠らしい素早い動きで私の剣をかわし、両手に持った反り身の剣を振り回す。視界の隅でダンニードが倒れるのが見える。巨人が槌を振り上げる。
その時朱の光が一閃し、大男の胸板に火球が炸裂した。巨漢は鉄槌を手放し、どうと倒れる。次の火の矢は鼠人を打ち、片腕を炎に包まれて獣人は瓦礫の山を転げ回った。
「出来損ないどもめ！ グラロンドの亡霊となるがいい！」
見ればぼろを着た魔道士が捩れた木の杖の先に炎を点し、叫んでいる。その背後で、散っていた騎士たちが兵士たちとともに槍と剣を突き上げて鬨の声を上げた。
「やっと来たか！ 危うく俺も死霊の仲間入りするところだったぞ！」
ダンニードが剣を杖に立ち上がる。頑丈な男だ。
フェルモーグスの兵士たちは女主の周りに集まった。残っているのは二十人ばかりだろうか。
「久しいな、フェルモーグス。見ての通り、この戦、その方に勝ち目はない。このまま引き上げ、コンヴァルを平穏に治めるが良い。追討はすまい」
アルザール王が前に進み出て、敵軍の女将に寛大な言葉をかけた。
「これはこれは、さすがにブリトビオンを統べようとする大王、慈悲深きお言葉。耳に心地よく響きますぞ。だが、そのような柔弱は命取り、そのような男のもとに〈王の中の王〉なぞ生まれるはずもない。ましてや妃が石女とあってはな」
女魔道士の口調には明らかに毒があり、アルザールは色をなして、フェルモーグスをにらみつけた。
「妃に対するそのような侮弄は許さん。余の寛大さにも限りがあることを知るが良い！」
女は頭をのけぞらせて笑った。
「これは勇ましいことを！ 不能の王と石女の妃にどのような〈王の中の王〉が生まれるのか、見てみたいものだ」
私の隣にいたダンニードが叫び声をあげて、フェルモーグスに突き掛かろうとした。私は既のところで彼の肩をつかみ、引き戻した。
女魔道士はただ言葉をもてあそんでいるわけではなかった。日が落ちて青い夕闇に包まれたあたりには、奇怪な仄白い光があちこちに浮かび上がっていた。遠吠えのような声もどこからか聞こえ、瓦礫の影の闇の中に青く光る双眸が幾つも見え始めた。
「この廃都では日が暮れると我に利する者たちが目を覚ます。明るい日の差す世界とは縁のなきもの、闇の世界にこそ安寧と喜びを見出すものたちだ。アルザール、お前の手勢は百かそれとも千か。グラロンドにはいかほどの亡霊悪鬼が彷徨っていると思う？」
夕闇の中で魔女の黒い瞳は奇怪な光を放った。それは明るく輝くわけではなく、その双眸の中に周囲の光が吸い込まれていくような闇の光だった。
メルディーンが進み出て、炎を放つ杖を高く差し上げた。
「淫蕩な魔女よ、その唇を閉じよ！ 我が魔術が死の都の屍食鬼ども焼き払って見せようぞ！」
「笑止！ ぼろを着た老いぼれにできるのはせいぜいか細い花火をあげること。お前も我の足下にひれ伏すが良い！」
フェルモーグスは突き出た胸乳を誇示するかのように両の手を広げ、何事か叫んだ。ブリトビオンではウォモレン（共通語）に似た言葉がおおむね通じたが、彼女が叫んだ言葉は、それとは異なるものだった。
冷たい風が四方から吹き寄せ、それに乗って青白い形のはっきりしない幽鬼が襲いかかってきた。それは時におぞましい髑髏のような姿も取ったが、剣や槍で打ち払おうとすると瞬時に白い靄のようになり四方に散った。だが、次の刹那には蛇のように相手に絡みつき、体の温みを奪い取り、命の炎を消し去ろうとした。
瓦礫の山の中からは、もっと実体を持った脅威も現れた。薄汚れた灰白色の肌を持ったそれはおおむね人間に近い姿形をしていたが、その輪郭は大きく歪み、頭は犬か狼にも似ていた。耳まで裂けた口からは鋭い牙がむき出しになり、大きな両手からは長い鉤爪が突き出していた。
屍食鬼どもが最初に飛びついたのは転がる骸だったが、獲物が足りないと見るや生きた人間にも襲いかかってきた。鉤爪は鎧を切り裂き、牙は兜を噛み砕いた。
杯の塔の前は血みどろの戦場となった。
六
メルディーンは杖を振りかざし魔法の火の矢を放っては食人鬼を打ち倒し、また何事か呪文を唱えると炎の渦巻きが沸き起こり、それに巻き込まれた亡霊どもは日差しに雪が解けるかのように消滅した。
だが、屍食鬼も幽霊もその数には限りがないようで、倒されても倒されてもまた廃虚の闇の中から新手が現れた。魔道士が放った火球が炸裂する光に、フェルモーグスと二人の黒い騎士が塔の方へ近づいていくのが見えた。
王もそれを目にしたらしい。
「メルディーン！ 魔女めが塔に向かう！ 余が何としてでも阻む！ その方は妃を連れて塔に行くのだ！」
アルザールは血に染まった剣を振り回しながら叫んだ。王妃は護衛とともに陣に残ったとばかり思っていた。この恐ろしい戦場のどこにヴェルジェニがいるというのだろうか。
メルディーンは魔法杖を振り回して王に走り寄った。
「覚悟がおありか、アルザール王よ！」
「問答するつもりはない！ 余は魔女めと決着をつける！ ダンニードとスナブ・ランケンを連れて行け。必ずや〈精血の杯〉を手に入れ、〈王の中の王〉の命を宿すのだ！」
「仰せの通りに！ 然らば、王の剣を炎の剣といたしましょう！ さすれば魔女の雷とも互角、屍食鬼を存分に屠ることもできましょう。ただし、魔法の力には限りがあります。数刻の後には鋼の剣に戻ることをお忘れなく」
「早くいたせ！ 魔女めが塔に入ってしまうぞ！」
魔道士が何か呪文を唱えているのが聞こえたが、私は襲い来る屍食鬼を斬り倒すのに手いっぱいでそちらを見ている余裕はなかった。
視界の隅の方で金色の光がぱっと広がった。思わずそちらに目を向けると、アルザール王の手にした剣がまるで朱金の光を放ち、王がそれを振り回すと炎の舌がのび、近くにいた幽霊と屍食鬼を火に包んだ。
「ご武運を！」
魔道士の言葉に王は応える暇もなく、炎の剣を振り回しては、悪鬼どもを地獄に追い落としていた。
メルディーンはぼろをなびかせ、私とダンニードのもとに駆け寄った。
「聞いていたか！ お前たちはこれから儂と王妃とともに杯の塔に入る！ コンヴァルの女よりも先に〈精血の杯〉を手に入れるのだ！」
「王妃がここにいるというのか！ 俺の目には道士の姿しか見えんぞ！」
「私はここにおります」
間違いなくヴェルジェニの声がした。メルディーンが継ぎ接ぎの長衣を大きくなびかせると、その下に何かゆらゆらと揺れ動くものが見えた。波打つ水越しに見たもののように、王妃の姿がぼんやりと見えた。
「これは！ 隠れ蓑の術か！」
ダンニードが驚きの声をあげた。魔術そのものも驚きではあるが、私はこの戦場に王妃が身を置いていることの方が驚きだった。ヴェルジェニは揺らぐ姿から言葉を発した。
「私も天啓を受けました。日暮れとともに輝く〈杯〉が見えたのです。〈杯〉が私を呼んでいるのです。私は〈王の中の王〉を授かります。スナブ・ランケン、私の騎士！ 必ずや邪悪な魔女から私を守ってくださりますね」
姿だけでなく声音も揺らいで聞こえるのか、私は女の言葉にどこか不穏なものを感じた。
「それだけの勇気と決意がおありなら、僕の庇護など要りますまい」
するとダンニードが不機嫌な声を出した。
「異国の騎士は王妃に対してそのような無礼を働くものなのか。お妃様、このダンニードがお妃様のお命、何をおいてもお守りいたしますぞ！」
ヴェルジェニはぼやけた姿のまま、淫靡とも思える含み笑いを漏らした。
「そうか、ダンニード、そうか。ならば頼みましたぞ。異国の騎士は何かと気紛れゆえにな」
私は女のその言葉にむしろ安堵した。
「つまらぬ話をしている暇はないぞ！」
魔道士が厳しい声を出し、私たちは混戦を抜け出して瓦礫の陰を縫うように杯の塔に近づいた。西面の扉は高さが十イート（約三メートル）近い大きなもので、両開きの右側が幾らか傾いでいるように見えた。
メルディーンは黒ずんだ扉の縁をなぞるように指先で触れると、杖を振り上げた。その刹那、空気を裂く音が聞こえた。魔道士の胸元で虹色の火花が散り、それた矢が扉に突き刺さった。
「その扉を通すわけには行きませんぞ、高師」
倒壊した城壁の後ろから二人の黒い騎士を従えた魔女が姿を現した。一人は弩を構えてこちらを狙っている。
「お前はとうの昔に破門した。高師などと呼ばれるいわれはない」
「では、やはり老いぼれとお呼びしますか」
言うが早いかフェルモーグスはしなやかな仕草で右手を振った。青い稲妻が指先から走り、メルディーンを襲う。再び虹色の火花が散って稲妻は四散したが、魔道士の影が揺らめきヴェルジェニの姿が現れた。隠れ蓑の術は破られたらしい。
「おお、これは王妃様、このような場所に自ら赴かれるとは、よほど子種が欲しいと見えますな」
フェルモーグスの冷笑にヴェルジェニは奇妙に低い声で返した。
「お前の息子はどうしたのです、魔女よ。お前が我が殿を妖術で誘惑して作った息子はどこにおります？ 人の噂によれば二目と見られぬ化け物で、真の父親は沼地の悪鬼だとも言うではありませんか。でも、それは違いましょう」
ヴェルジェニは急に声を高くして叫んだ。
「お前の胎内に満ちる妖術で穢れた毒血が我が殿の血を汚したのであろう！ 〈精血の杯〉を手にしてもお前には〈王の中の王〉など産めるものか！」
魔女は怒りに震え、恐ろしい面持ちで叫んだ。
「役立たずの石女が！」
黒衣の女は稲妻を放とうとした。だが、それよりわずかに早く火の玉が飛んできて、魔女の体をかすめた。
「フェルモーグス！ 〈精血の杯〉はお前の手には渡さん！」
炎の剣を振りかざしたアルザール王と騎士たちが瓦礫を乗り越え、突っ込んできた。
「剣はあの夜のように燃え立っておりますな、陛下」
フェルモーグスが声をあげて笑いながら、身をひねり、稲妻を王に向けて放った。アルザールが炎の剣でそれを振り払おうとすると稲妻は剣に絡みつき、なおも白く光った。王の鎧にも電光が走ったが、それでもアルザールは前進し、西方の魔女に斬りかかった。
黒い鎧の騎士が槍で炎の剣を受け止めると、槍はたちまち赤熱して二つに折れた。炎の剣がそのまま黒い騎士を真っ二つにするかという刹那、弩から放たれた矢が王の兜をかすめ、燃える刃は空を切った。
メルディーンは再び杖を振り上げ傾いだ扉を叩いた。わずかに青白い光が走り、大きな扉が震える。
「開け！ 〈杯〉を干す時が来た！ 〈王の中の王〉が今宵生を受けるのだ！ 開け！」
魔道士がもう一度扉を叩くと、また青白い光が走り、大きな軋む音を立てて傾いだ扉が開き始めた。
「今だ！」
魔道士が叫び、私たちは人一人分ほど開いた扉の隙間から〈杯の塔〉の中に飛び込んだ。
「行かせてなるか！」
背後でフェルモーグスの叫び声が聞こえたが、それは火球の炸裂する音と騎士たちの雄叫びの中に埋もれていった。
扉の中は漆黒の闇だった。メルディーンが何事か呟くと、杖の先に薄黄色の淡い光が灯った。炎が燃えているわけではなさそうだ。
塔の中はどうやら四角い広間のようになっているようだ。はがれ落ちた壁なのか、あるいは調度品だったのか、ここにも無数の瓦礫が転がっていた。
メルディーンは振り向くと、明りの灯った杖の先を扉に向けた。
「閉じよ！ 我らに仇為すものを通すべからず。閉じよ！」
扉はひどい音をたてて、元に戻った。
「ふうむ、どうにもいけ好かない所だな。〈杯〉とやらはどこにあるんだ。見たところ、ただの廃虚だが」
ダンニードが不安を滲ます声で言った。
「ボアニスは信心深く、いずれは剣を置きアングード僧になりたいなどと申しておった。見えざるもの、異界のものを感ずる力も強かった。異国の騎士よ、その方もそうした類いの人間であろう」
魔道士は杖の光をかざして私の顔を照らした。
「僧侶になりたいなどと思ったことはないね。神などというものを信じたこともない」
「しかし、その方は旅の道々、この世ならざるものと度々かかわってきたのではないかな。妖怪魔神魍魎の類いの小暗い影が、その方の影の中には折り重なって見える」
ダンニードが少し嫌な顔をして私を見た。
「それで僕を〈十三人の騎士〉に推挙したのか。道士こそブリトビオン随一の魔法使いなのだろう。御自分の魔力と博識で見つけ出せたのではないのか」
「何分古い話なのでな、幾つかの魔道書や石碑、言い伝えに現れはするが、その所在は諸説あり明らかにはできなかった。それに私はその手の者どもには好かれてはおらぬ、どちらかというと奴らは私を避けておる」
「ブリトビオン一の魔道士は屁理屈と言い訳もお上手なようだ」
不毛な論議をかき消すかのように、突如広間の奥に青白い光が灯った。見ると奥側の壁に四角い張り出しがあり、そこにはめ込まれた大きな硝子窓のようなものが光っている。窓は床から六イート（約一・八メートル）ほどの高さがある大きなものだった。
そろりと近づいてみたが、窓から外が見えるわけではなかった。硝子自体が青白く光っているようだ。
「道士殿、罠かもしれませんぞ」
ダンニードが剣を構えてメルディーンを制しようとしたが、ぼろを着た魔道士は杖を突き出して、光る窓に触れた。
かすかに唸るような音がして窓が開いた。そこには四角い小部屋があった。小部屋の壁も硝子でできているようだ。
「ふむ、これは昇降機のようだ」
「昇降機？ 台所から料理を運ぶあれか？」
「まあ、そういったものだ。見たところ階段もないようだ。これに乗ってみるしかあるまい」
ダンニードはぶつぶつ言っていたが、私たちはその小部屋に入った。四人が入ると小部屋はほぼいっぱいだった。硝子の引き戸がひとりでに閉まった。
「閉じ込められたぞ！」
ダンニードが叫んだが、魔道士は落ち着いていた。
「さて、行く先はどちらだろうな」
「塔の上に行くのではないの」
ヴェルジェニが不安げに問う。
「そうとは限らんだろう」
小部屋が揺れたかと思うと、体が浮き上がるような奇妙な感覚が襲った。王妃が小さな悲鳴をあげて、私の腕にしがみついた。
「下っているのか」
「そのようだな。おお、見よ！」
四方を硝子で囲まれた昇降機の周囲には黄白色や赤、青など様々な色の光が見えた。大小の梁や柱らしきものも垣間見える。硝子の小部屋はどうやら地下のかなり広い空間を降りていくらしい。硝子に張り付いて上を見ると暗い。だが、下に目をやるとそちらはむしろ幾つもの光が集まり明るく見える。
「道士殿、これは地獄へ向かっているのか！」
硝子から離れたダンニードの顔は青ざめていた。
「我らはまだ生きておる。黄泉の国ではあるまいて」
「これは魔法か、それとも大掛かりな絡繰り仕掛けなのか？ この昇降機は誰かが動かしているのか？」
私の問いに対するメルディーンの答えは曖昧なものだった。
「その昔、そう、〈大いなる厄災〉が起こるよりも昔、魔法と機械仕掛け、数多の学問は一つのものであったという言い伝えがある。ここにあるものは、そうした時代のものなのかもしれぬ。あるいはアングードの僧が説くように名無しの神が造りたもうたものかもしれぬがな」
昇降機は下り続けた。どれほどの時間、硝子の小部屋にいたのかはわからない。
「あれは何？ 何か飛んでいるわ！」
ヴェルジェニが外を指差して叫ぶ。確かに何か白いものが宙を舞っているのが見えた。翼があり鳥のようにも見えたが、羽はなく、全身が白い肌で覆われているように見える。それは赤い瞳を光らせて、昇降機の周りを飛び回り、闇の中に消えた。
「おい、鳥だけじゃないぞ、あれは魚か！」
ダンニードが指し示す方には、体の長い何かがまるで魚のように宙を泳いでいた。大きな胸びれのようなものを動かして、宙を泳いでいる。体は半ば透き通っているようで、側面には幾つもの青白い光の点が並んで、明滅している。魚のようなものは昇降機に気づいたようでこちらに近づいてきたが、突然何かに打たれたかのように尾鰭を翻して去っていった。
奇妙な生き物-なのだろうか-はそれだけではなかった。水母のように漂い浮き沈みするもの、梁の上をまるで木から木へと飛び移る猿のように動いていくもの、柱に絡みつい蠢くきらきらと光る金物の蛇のようなもの……。硝子の小部屋の向こうでは奇怪な生き物たちが、現れては消えを繰り返した。
「きれいね」
ヴェルジェニがつぶやいた。
「王妃様は肝が据わっているね」
私が言うと女は硝子の外を見つめたまま言葉を返した。
「地上は血まみれの戦よ。それに比べたら、たとえここが冥界でも、美しく見えるわ」
やがて軽い衝撃があり、小部屋は止まった。見える限りではそこには生き物はいないようだった。硝子の扉が開いた。
七
地底は薄青い光に包まれていた。昇降機の前には広い通路のようなものがあった。振り返ってみたが、昇降機の上部に綱らしきものはなく、かすかに薄青い光りの帯のようなものが上に伸びているのが見えるのみだった。
左右は柱や梁が複雑に組み合わさって壁のようになっている。ところどころで小さな光が明滅していたが、炎が点っているわけではないようだった。青白い光は所々に埋め込まれた長方形や円形の硝子状のものからのようだ。
「デリン灯か、その類いのものか」
私の言葉を解した者はだれもいなかった。私はサンジェリィの夜を照らす冷たい明りについて話をした。
「なるほど、その方の生まれ育った街では古の遺物が夜を照らしているというのだな」
「そうだ。独眼船長レッザがデリンの島で見つけた不思議な明りだ。火を燃やさずとも夜になると勝手に光る。ここの明りよりも緑がかっているが、この熱のない奇妙な光は似ている。それも〈大いなる厄災〉以前の遺物だと言われている」
「異国の騎士の生まれた街は魔法の都なのね」
ヴェルジェニが素朴な感想を述べた。
「いや、そういうわけではない。魔道士が大手を振って街を歩いているわけじゃないさ。デリン灯も多分魔法ではない何かだ」
「ふむ、その方の話をとっくりと聞きたいものだな」
「生きて地上に戻れたら幾らでも」
ダンニードがため息をついた。
私たちは昇降機の前の通廊を進んだ。見上げても梁は交錯していたが、天井らしきものはなく、奇妙な明りと恐らくは宙を飛んでいる生き物らしきものが朧に見えるだけだった。
通廊を進む内に何か奇妙な音が聞こえてきた。耳鳴りのようにも思えたが、ダンニードもヴェルジェニも耳を押さえている。
「これは何だ」
メルディーンは少しだけ眉間にしわを寄せて不快な顔をしていた。
「わからんが、これが鐘の音の元なのかもしれない。我々は恐らく〈杯〉に近づいているのだ。スナブ・ランケン、何か感じるものはないか」
「何もありはしないさ。念のために言っておくが、僕は好きこのんで化け物と相対してきたわけじゃないし、そんなものを探り当てる力もないぞ」
「ああ、そうであろう。だがな、サンジェリィの騎士よ、天啓も怪異もその方の意志とは関係なく起こるものだ」
「さすがブリトビオン一の魔道士様のお言葉だね。地底の地獄巡りにやる気が湧いてくるよ」
ヴェルジェニが私たちのやり取りをさえぎった。
「私は感じます。耳鳴りだけではない。何か、言葉か、歌声のようにも感じる」
王妃はこめかみを押さえて瞼を閉じた。
「ああ、〈杯〉が輝いている。きっと、あれがそうよ」
私はダンニード、メルディーンと顔を見合わせたが、彼らもそういうものは見えないようだった。ヴェルジェニは私たちを導くように前へ進んだ。
通廊の先には硝子の扉らしきものがあったようだが、床に倒れて幾つかに割れていた。その先は円形の部屋になっていた。細い円柱が規則正しく円を描いて並んでおり、部屋の中央には上から同様の細い円柱が束になって下がっていた。壁をなしている円柱とつながっているのかどうかは暗くて見てとれない。
円柱は銀色に光る金物で、中央から下がっているものは長さや太さもまちまちだった。中空の管状になっているようで、中から細い管か針金のようなものが伸びているものもあり、それはその下の球状のものにつながっていた。
球形のものは青みを帯びた鈍い光を放っており、金物とも硝子や水晶とも判別し難い。文字とも絵ともつかないものが薄く全面に掘り込まれていたが、それはメルディーンの丸い兜の文様とどこか似ているようにも見えた。下部は金物の輪を円錐状に重ねた台に載っている。
「この中に〈杯〉があるのですね？」
ヴェルジェニが幾らか不安げにそう言ったが、誰もはっきりとは答えない。
「王妃はそうお感じか」
彼女がうなずくと、魔道士は球の周りをぐるぐると歩き回り、時折杖を突き出してはくぐもった声で呪文を唱えた。
呪文の声が高くなり、杖が大きく振られると、耳鳴りのような音が大きくなった。それは心の臓の鼓動のように脈打ち、頭の中に響き渡った。
球状のものの表の絵模様が動き始めた。複雑な組木細工のようにそれは滑り動いて、あちこちに隙間ができていく。球の上三分の一ほどがそうしてどこかに組み込まれて見えなくなり、丸い穴がぽっかりと開いた。
中から白い靄のようなものがかすかに上がった。メルディーンは球に近づき、開いた穴の中に目をやった。
「見よ、〈精血の杯〉だ」
私たちは恐る恐る球状のものの中をのぞき込んだ。球の内部は白い煙のようなものが満ちており、そこに奇妙なものが浮かんでいた。それは二つの細長い杯を口の部分でつなぎ合わせたような形をしており、口の部分や細い脚、台は鈍い黄金色に光っていた。口をはさんで両側の紡錘状の部分は水晶か硝子のように透き通っており、中に満たされたものを見てとることができた。半分は白濁した液体、半分は赤い液体が入っていた。長さは半イート（約十五センチ）ほどだろう。
「身も蓋もないな。これが〈王の中の王〉を生むための種ってことなのか」
「恐らくは」
魔道士の重々しい声が妙に滑稽に聞こえた。
「いつのものだか知らないが、これはどこぞの高貴なお方の精液と血か？ これを女の腹に入れるか飲むかすれば〈王の中の王〉の誕生と相成るってわけか」
私の言葉にヴェルジェニは眉間に少ししわを寄せた。
「馬の種付けみたいだな」
ダンニードがぼそりと言った。王妃がにらむ。
「さよう、人も馬も精をもって孕む生き物だ。王家の血筋を守るための努力はいずこの土地でも珍しいことではない。それと同じことだ」
「血筋を守ったら名君が生まれるのかい？ 暗愚の王は往々にして名君から生まれるものだろう」
メルディーンは目をつぶって私の言葉にうなずいた。
「異国の騎士の言うことはもっともではある。確かにホーン愚劣王はハラオン大王の嫡子だ。だが、〈精血の杯〉に保たれているのは、もっと特別なものだ。〈大いなる厄災〉以前にさかのぼる秘術によってつくられた特別の血と精なのだ。かつて世界中の人々をこの世の苦難から救った大いなる神の子の血筋、かつて世界を統べる大帝国を築いた王家の血筋、かつて世界を不思議で満たした偉大なる魔道学者の血筋、それらのものが精製され、純化され、この〈杯〉に集められているのだ」
「それは本当のことなのか」
その後、魔道士は古文書、魔道書、古の碑文の記述、あるいはブリトビオン方々の言い伝えなどをずっと並べ立てた。
「疑いだせば切りがないわ。ここまで来てそんなことをしても無意味よ。私はこれで世継ぎを産むことができるのでしょう！ メルディーン、これをどうすればいいの。私は〈王の中の王〉を産む。ブリトビオンを、世界を統べる王の母になるのよ！」
業を煮やした王妃は強い口調になった。目には憑かれたような光があった。フェルモーグスの罵りは本当のことなのかもしれない。
「それは〈杯〉が教えてくれましょう。『純潔の書』の第三章によれば……いや、さあ、〈杯〉をその手に取るのです」
ヴェルジェニはゆっくりと球の中に手を入れようとした。また唸るような音が高まった。球の中の白い煙が急に沸き立って、外側へあふれ出し、王妃の姿を朧に包んだ。天井から下がっていた銀色の管状のものが何本も動き出し、蛇のように、あるいは幾つもの節のある虫の脚のように、王妃の体に取り付こうとする。
「王妃！」
ダンニードが剣を構えて近づこうとするのを魔道士が杖でさえぎった。
「案ずることはない。〈精血の杯〉がその意を表そうとしているのだ」
「しかし！」
ダンニードは助けを求めるように私の顔を見たが、私には何も言うべきことはなかった。身の危険を冒して戦場にまで自ら身を運んだ以上、彼女を止めることができるとは思えなかった。
球状のものから〈精血の杯〉が浮かび上がった。あたかも白煙に持ち上げられるかのようにそれは宙に浮かんだ。白と赤の液を収めた紡錘形のものは宙で回転を始めた。上下左右にあるいは捩れて、それはぐるぐると回り、中のものが混ざり合っていく。赤い液と白い液は一緒くたになり、泡立つ桃色の液になった。
王妃の体は何本もの触腕状のものに支えられ、宙に横たわるようになっている。意識を保っているのかどうか、時折身をくねらせる。半眼に開いた瞳は陶然としているように見える。
〈杯〉は回転を止めた。一本の節のある銀の細い棒が球の中から現れ、紡錘形の片方の端につながった。同時にもう片方の端からは細い管のようなものが伸びる。王妃の体はちょうど足首のあたりで球を挟むような形になり、絡みついた銀の蛇が少しずつ両足を広げた。長衣の裾がはだけて白い太股が露になった。杯は股間へと近づいていく。
「ふうむ、神聖なる受胎という雰囲気ではないな」
「俺は見ておれん！」
ダンニードはそうは言ったが、眼前で起こっている怪事から目を離すことはできないようだった。
メルディーンが何かの気配を感じたかのように後ろを振り返った。
「その方たち、通廊の出口で構えよ！ 何かが来る！」
「フェルモーグスか？」
「恐らくは」
魔道士の推測はすぐに確かめられた。私とダンニードが部屋の入り口に陣取る間もなく、通廊の奥から青紫の電光が飛んできたからだ。不意打ちを食らったメルディーンは、守りの術が不十分だったか稲妻に打たれて昏倒した。
甲冑のなる音がする。二人の黒い騎士を従えたフェルモーグスが通廊から姿を現した。
「どうやら、間に合ったようね。〈杯〉が無駄にならずにすんだ」
「王は？ アルザール様は？」
ダンニードがうめくように言う。
魔女は指先から青い火花を飛ばしながら、笑った。
「さて、今ごろはグラロンドを彷徨う亡霊どもの仲間入りではないかしらね」
「メルディーン！」
私は倒れた魔道士を助け起こした。ぼろの長衣が少し焦げていたが、大事はなさそうだった。
「絡繰り仕掛けは相手を選ばんからな。扉の呪文を破って昇降機に乗ったということだな。良かろう、ここで決着をつけるしかあるまい」
メルディーンは杖を頼りに立ち上がった。
「コンヴァルで大人しくしていれば良いものを！ 身の程を知るが良い！」
「これは異なことを。〈王の中の王〉をつくろうと、ブリトビオン中に〈精血の杯〉の噂を広めたのは、高師ではありませぬか」
「お前は破門した！」
「ブリトビオン一の魔道士ともあろうものが、年端も行かぬ弟子に手を出したとあっては、面目が保たれませんからね」
「我が秘術を盗もうと寝所に忍んできたのは、お前ではないか！」
「高師も満更でもなかったご様子と記憶しておりますが……」
私はダンニードに目顔で本当なのかと聞いてみたが、眉毛の騎士は肩をすくめただけだった。
八
フェルモーグスの雷撃の影響なのか、王妃の股間で〈聖杯の杯〉は動きを止めていた。
「さっさと済ませるってわけにはいかないのか」
私が言うと魔道士は大きく杖を動かしながら頭を振った。
「〈大いなる厄災〉以前の遺物だ。儂らの思うようには動かん」
たとえ動いたにせよ、本当に〈王の中の王〉なるものが王妃の胎内に宿るのだろうか、誰も確かなことは知らないのだろう。
フェルモーグスは稲妻を放ち、メルディーンは火炎を放った。魔道士は〈杯〉を背にしていたので、魔女はそれなりに注意深く稲妻を操っているらしく、いささか攻め難いようにも見えた。だが、二人の黒い騎士は雷撃の合間を縫って、こちらに突進してきた。一人が弩を放ち、その間にもう一人が長剣を振りかざして間合いを詰めた。
ダンニードが敵の剣を受け止め、自らの剣で逸らして、反撃を加えようとする。私が横手から加勢しようとすると、また矢が飛んできた。私は危うくよけて、床に転がりながら、懐中の短剣を投げつけた。短剣は運良く弩の弓弦に引っ掛かり、射手はそれを振り払おうとした。私は床を滑るようにして近づき、奴の足に一撃を加えようとしたが、臑当てに阻まれた。だが、奴は衝撃で体勢を崩した。短剣が絡んでいる弩を放り投げ、剣を抜いて私を突き刺そうとしたが外した。
私は立ち上がり、次の斬撃を加えようとしたが、頭上を走る稲妻が刀身にあたり、体中にひどい痛みと痺れが広がった。敵の刃が迫る。だが、メルディーンの放った火の矢がそれを阻み、黒い騎士は後退った。
炎と雷が円形の部屋を飛び交い、鋼と鋼がぶつかり合う音が響き渡った。二人の魔道士はそれぞれに盾の魔法を使っているのか、雷撃も火炎も相手の体に届く前に弾かれて四方に散る。それが周囲の銀の管に当たり、あちこちで火花が飛び散った。
剣劇の響きを打ち消すかのような唸る音が聞こえた。火花だけでなく、部屋のあちこちで赤や青の光が明滅していた。部屋の右奥の円柱の列の一部が上へとせり上がっていった。開いた暗い穴の中から奇怪なものが現れた。それは鈍く光る銀灰色の甲冑姿の騎士のようにも見えた。だが、人間が鎧をまとっているわけではなかった。それには甲虫のような脚が四本ついていた。上半身が人間で下半身が馬だという怪物の話を聞いたことがあったが、そいつの下半身は金物でできた虫に見えた。
怪物は耳障りな音を立てて、こちらに近づいてきた。ひと足歩くたびに節々が軋んでいるようだ。板金鎧のような体の表にはどうやら錆らしきものも浮いている。長い間この地底に潜んでいたのだろうか。
誰もがこの奇っ怪なものの出現に戦いの手を止めた。それは鉄色の兜のような頭を左右に動かし、顔についた赤く光る二つの目玉らしきものをぐるぐると動かしながら、こちらにやってくる。
「騒ぎ過ぎたんじゃないのか」
「ふむ、そうかもしれんが……」
メルディーンは眉間にしわを寄せた。
「駄目だ。こやつの胸の内は儂には読めん。絡繰りで動いているのか」
魔道士がそうぼやいた刹那、それは両の腕を突き出した。手首に何本もの尖ったものが突き出しているのが見えた。私は咄嗟に叫んだ。
「伏せろ！」
黒い騎士の一人は間に合わなかった。怪物の腕の先から飛び出した短い矢が何本も胸甲を貫き、騎士は倒れた。
「俺たちに味方してくれるのか」
そう言った瞬間、頭のすぐ上を次の矢が襲い、ダンニードは頭を抱えてうずくまった。
「そういうわけには行かないようだな」
私たちは双方とも昇降機と結ぶ通廊に退却した。
「王妃は！ 王妃はどうする！」
ダンニードの言葉に魔道士が怒鳴るように答える。
「お妃には当たらないように放っている！ つまり、奴は〈王の中の王〉の誕生を邪魔するものを打ち倒そうとしているのだ！」
「それは忠義なことで」
私の言葉に応えたのは、思いがけずも黒衣の魔女だった。
「古の機械仕掛けは一度命じられれば永遠にそれを守るものらしいぞ」
「それはたいしたものだな。大昔の絡繰りは人間と違って主に忠節を尽くすのだな」
フェルモーグスはにやりと笑って、私の顔を見た。
「ふん、その方はなかなかおもしろい男だな。どうだ、我が召し抱えてやろう。〈十三人の騎士〉とやらよりも、よほど良い目に遭えるぞ」
私は転がっている黒い騎士の死骸に目をやった。
「いいや、止めておくよ。元より誰にも忠節など誓う気持ちはないしね」
魔女は声を出して笑った。ダンニードが私を半ば呆れ顔で見た。
私たちは円形の部屋への入り口の陰に身を潜めた。どうやら絡繰りの怪物はそう素早くは動けないらしい。軋む音や唸る音が絶え間なく聞こえるのは、思うように脚が動かないからだろうか。
「まだ雷の術は使えるな」
メルディーンが女魔道士に問うと、フェルモーグスは指先から火花を散らしてそれに答えた。
「奴は恐らくは全身が鉄か何かはわからぬが金物でできている。火炎よりは雷の方が効果があろう」
フェルモーグスは黙ってうなずいた。
「それからその方、ネイヴラムか。これをまだ使えるな」
メルディーンが手にしているのは先刻、騎士が投げ捨てた弩だった。
「これで奴の目玉を狙うのだ。ゆめゆめ外すことなどないようにな」
ネイヴラムはいささか青ざめた顔で言い返した。
「これでも〈十三人の騎士〉随一の射手と言われたものさ」
「王妃の心は射止めることができなかったろう」
ダンニードが笑うと黒い騎士は拳を突き出したが、魔道士がそれを杖で打ち据えた。
「続きは生きて地上に戻ってから存分にせよ！」
怪物はぎごちなく脚を動かしながら、こちらに近づいてくる。
「今だ！」
メルディーンの合図でコンヴァルの魔女は雷撃を放った。指先から放たれた紫電が怪物の脚の付け根に当たり、火花が散る。絡繰りの化け物は手足をでたらめに振り回し、大きな唸るような音を立てたかと思うと、動きが止まった。
ネイヴラムが弩を放った。硝子が砕けるような音がして、矢が片方の目に突き刺さった。
「もう一本行ってくれよ」
ダンニードがけしかける。黒い騎士は通廊の陰から身を乗り出して、次の矢を放とうとした。怪物の残った目が赤く光った。弩が放たれる前に奴の腕から矢が何本も飛んできた。一本の矢がネイヴラムの右腕を貫き、騎士は悲鳴をあげて弩を取り落とした。その拍子に弓弦が切れる。怪物はまた前進を始めた。
「引きつけてもう一度雷を放て。儂も火球を放つ。弓弦を代えている暇はない。奴の動きが止まったら、近づいてもう一つの目玉を打ち壊すのだ！」
メルディーンの言葉に私たちはうなずいた。怪物が歩く耳障りな音が近づいてくる。距離は十イート（約三メートル）もないだろう。
フェルモーグスが稲妻を放った。ばちばちという音が間近で聞こえる。すぐさまメルディーンが火の玉を放つ。何かが爆ぜる音がして、怪物は炎に包まれた。動きは止まっている。
私とダンニードは奴の目玉に矢が突き刺さっている側から近づいた。炎は関節の部分からはまだ上がっていたが、金物の部分が燃えるわけではない。私は奴の残った赤い目玉を剣先で突き刺そうとした。その目玉が動き、私を見た。奴の腕が動いた。
絡繰り仕掛けの弩が発射されるよりも、ダンニードが奴の腕に斬りつける方が早かった。斬り飛ばすことはできなくとも、狙いを外すには十分だった。矢は大きくそれて、その隙に私たちは奴の背中側に回り込んだ。奴が振り向くよりも先に攻撃できると踏んだのだが、そうではなかった。奴の上半身は腰の部分でぐるりと回転して、真後ろを向いた。
「下に飛び込め！」
私は思わず叫び、ダンニードもともに怪物の下半身の下に入り込んだ。脚の付け根の部分はまだ炎がくすぶり、板金で覆われていない、黒っぽい筋や管のようなものが露になっていた。私たちはそこを剣で突き上げた。怪物は四本の脚をばたばたと動かし、もがいているように見えた。私たちは二度三度と剣を突き入れ、奴の腹の中をえぐった。
「うわっ！ 何だこれは！」
剣が突き刺さった脚の付け根から、悪臭を放つ黒い油のようなもの、それに赤い血のようなものが噴き出した。私たちは化け物の腹の下から這い出した。奴はでたらめに手足を振り回し、上半身をぐるぐると動かしていた。時折、腕の先から矢が飛び出す。
「離れろ！」
魔道士の声が響いた。電光が閃き、一瞬遅れて火球が飛んだ。怪物は再び炎に包まれ、虫のような脚をがくがくと震わせたかと思うと体勢を崩して横倒しになった。
もう一度雷撃と炎が襲うと、ついにそれは動きを止めた。体の下からは黒と赤の液が混ざり合って流れ出していた。歪んで外れかけた兜の下から、赤黒い肉のようなものがのぞいていた。
「これは元は人間なのか……」
メルディーンは怪物に近づき、杖をのばそうとした。その時、青紫の光が走った。魔道士は体をのけ反らせて倒れた。
フェルモーグスはすでに王妃の側へと走り寄り、宙に浮いていた〈杯〉をその手につかんでいた。
「珍奇なものを見ると夢中になってしまうのは昔と変わりませんね、高師」
魔女は右手に桃色の液の入った〈杯〉を持ち、高らかに笑った。
「道士！」
ダンニードが駆け寄る。黒い騎士が動くのが見えた。片手で剣を振り上げ、襲いかかってくる。私は奴が打ち下ろした刃を自分の剣で受け止めた。片手だが膂力がある。押し返して打ち込もうとすると、すぐさま次の一撃が襲ってきた。得意なのは弩だけではないらしい。
私は剣を流して受けると、そのまま矢傷を受けた腕を打った。鎖帷子に阻まれたが、黒い騎士はうめき声をあげて体勢を崩した。私はもう一度奴の二の腕に斬りつけた。鎖が千切れて血飛沫が噴き出した。ネイヴラムはなおも片手で反撃しようとしたが、その前に私は奴を蹴り倒し、喉元に二度三度剣先を力任せに突き刺した。鎖帷子が破れ、擦れた悲鳴とともに血の泡を吹いて奴は動かなくなった。
「逃げるか、魔女め！」
ダンニードが叫ぶ。見れば、フェルモーグスは〈杯〉を手にして通廊へ向かおうとしている。魔道士はまだ床に倒れたままだ。
ダンニードが魔女に飛びかかろうとしたが、指先からの雷撃を受けてもんどり打って倒れた。
私はフェルモーグスを追おうとしたが、急に頭の中に沸き起こった考えに足が緩んだ。〈精血の杯〉も〈王の中の王〉も、どうでもいいことではないか。誰がどんな王を産もうが、それで世界が救われるとは到底思えない。
もちろん、戦の最中にそんなことを考えるのは禁物だった。目の前で紫色の光が閃いたかと思うと、全身をひどい痛みと痺れが襲い、私は気を失った。
九
頭の中で幾人かがささやいていた。
「お前は王になるのだ。〈王の中の王〉に！ 世界を統べる王になるのだ。〈王の中の王〉よ！」
「お前は選ばれし者だ。選ばれし血と精を受けた者だ。お前は誰よりも優れている。お前は君臨し支配する者だ！ 〈王の中の王〉よ！」
「あなたは生まれついての王。あなたは諸人の上に立つ者。民を導き、世界を一つにする者。〈王の中の王〉よ！」
「いい加減にしろ！」
自分の怒鳴り声で目が覚めた。体中が痛い。手足が痺れていて自分のものとは思えない。かすむ目に映ったのはもがいているフェルモーグスの姿だった。何かが魔女の体に絡みついていた。銀色に光る蛇か長虫のようなもの、幾つもの節のある虫の脚のようなものが何本も女の体に巻き付き、捕らえて放さなかった。
あたりを見回すとヴェルジェニが床に転がっていた。痛む体を引きずって近寄ると、息はしているようだった。
「どうなってるんだ、これは」
ダンニードがいささか寝ぼけたような声を出した。
「〈杯〉を持って外へは出られないということなのだろう」
魔道士が体のあちこちをさすりながら半身を起こした。
「〈杯〉を手にした女は否応なしに〈王の中の王〉を授かる仕組みになっていると見える」
「誰でもいいのか？」
ダンニードが訝しげな声を出す。
「それはわからんが……」
私たちの中でヴェルジェニだけが〈杯〉の幻を見た。同様に幻影を見たボアニスという騎士の顔が頭に浮かんだ。彼には髭がなく、小作りのきれいな顔立ちをしていた。
「ボアニスは女だったのか？」
眉毛の騎士は頭を振った。
「馬鹿な。あれはやっかみから来た悪い噂だ！」
「放せ！ 化け物め！」
フェルモーグスは毒づきながら、体に絡みつくものに雷を放とうとしていたが、銀色の触腕は巧みに彼女の腕の自由を奪い、それを許さなかった。
「どうする、道士殿」
ダンニードがメルディーンに問いかけている間に、私はフェルモーグスに駆け寄った。
〈精血の杯〉はまだ魔女の手に握られていた。私は剣の平で彼女の手を打ち、それを叩き落とした。〈杯〉は床に落ちたが割れなかったので、私は剣でそれを幾度も打ち据えた。透き通った部分が砕け散り、中からどろりとした桃色の液が流れ出した。私はそれを沓で踏みにじった。
「何ということを！」
そう叫んだのは、メルディーンもフェルモーグスも同時のようだった。
「これで終わりだ。〈精血の杯〉も〈王の中の王〉も、くだらない争いもだ。清々しただろう」
魔女を捕らえていた動く管状のものは急に力をなくしたようで、するすると球の上の元の位置に収まった。解放されたフェルモーグスは何か意味の取れない言葉で罵詈らしきものを吐くと、恐ろしい目つきで私をにらみつけた。
「その目を見るな！」
メルディーンが大声を出したが、すでに私は魔女の黒い瞳を見てしまった。双眼から黒い炎が広がり、その中へ吸い込まれていくようだ。次の刹那、朱色の光が広がり黒い炎をかき消した。女魔道士が炎に包まれている。燃え上がる炎の中でなおも黒い双眸がこちらをにらみつけている。松明のような腕がこちらに突き出される。体が動かない。
突然、二つの黒い目の間を何かが引き裂いた。フェルモーグスの体は胸のあたりまで二つに裂けて、燃えながら崩れ落ちた。ダンニードがその向こうで血まみれの剣を手にしていた。
私は彼とメルディーンに礼を言ったが、魔道士は渋い顔つきだった。
「やれやれだ。外つ国の騎士よ、儂の見込み違いであったか。いや、思わぬ結果をどこかで望んでいたからその方を引き入れたのかもしれぬが。ふむ、これがブリトビオンの運命か」
「僕はただの放浪者だ。ブリトビオンの運命など与り知らない。つまらない争いに嫌気が差しただけのことだ」
メルディーンはなおも何かぶつぶつと続けながら、二つに裂けて燃えている魔女の死骸の側にひざまずき、大きく息を吹きかけた。炎は消え、血みどろの骸が白い光に包まれた。浅黒い肌の輝くように美しい娘の姿が朧に見えた。魔道士はこちらに背を向けて、頭をたれた。
「ああ、これは？ 何が起こっているの？ 〈杯〉は？ ああ、頭が痛いわ」
ヴェルジェニが身を起こし、眉間にしわを寄せた。
「王妃様、ご無事で！」
ダンニードが駆け寄ったが、ヴェルジェニはあたりを見回し顔を曇らせた。
「とても良い気持ちだったのです。〈王の中の王〉を授かるのかと、夢見心地でした。いや、夢を見ていたのです。光り輝く王がいました。その周りで幾千の人々がひれ伏していました。白い肌、黄色い肌、黒い肌、赤銅色の肌の人々もいました。皆、〈王の中の王〉を称え、その名を唱和していました。その名前は……ああ、思いだせない。それから、光が渦巻き、何もわからなくなって……。いったい、何が起こったのです」
ダンニードは言葉につまり、メルディーンは背を向けたままだったので、私が答えた。
「ご覧の通りですよ、王妃。〈杯〉の奪い合いが起き、幾人かが死にました。〈杯〉は僕が壊しました。これ以上の争いは不毛です。本当に〈王の中の王〉が欲しいのなら、近隣の王家から養子でも迎えたらいかがです？ あなたとアルザール王、メルディーン道士が教えを授ければ、まあ、そこそこの跡継ぎができるかもしれません」
王妃は少しだけ考えているような様子だった。無論、そんな表情を作っていただけかもしれない。
「〈杯〉はもうないのですね」
「そうです」
「コンヴァルの魔女は死んだのですね」
女はひざまずいている魔道士の方は見ずにそう言った。
「ええ」
「では、地上に戻りましょう」
そう言って、王妃はよくわからない微笑みを浮かべた。満足げとも諦念ともとれる奇妙な笑みだった。
円形の部屋を照らしていた明りが一つ二つと薄れて消え始めた。唸るような音も聞こえなくなった。
「この部屋も役割を終えたということか」
「おい、あの昇降機とやらは動くんだろうな。こんなところで飢え死には御免蒙りたい」
ダンニードが心配そうな声を出す。
私たちは通廊へ向かおうとしたが、魔道士はまだフェルモーグスの骸の前だった。
「道士、行きましょう」
私が声をかけるとメルディーンはうなずいて立ち上がり、こちらを向いた。しわが深くなり、急に年老いたように見えた。
私たちはよろめきながら通廊を昇降機の方へ戻った。あちこちに負った手傷が痛み、雷撃のせいでまだ手足に痺れが残っていた。ヴェルジェニは怪しげな施術のせいなのだろうか、時折足をふらつかせた。
通廊の明りも一つまた一つと消えていくようだったが、正面の昇降機はまだ青白い光を放っていた。近づくとその光の中をひらひらと影が横切った。降りる途中で見た翼のある奇妙な生き物のようだった。生き物は昇降機の前を水中を泳ぐかのように飛び回っていた。
私とダンニードは剣を構えて近づいたが、奇妙な生き物は襲ってくるわけでもなく、ただ私たちの頭上を飛ぶだけだった。
突然、ヴェルジェニが悲鳴をあげた。
「顔よ！ 人間の顔が！」
王妃は飛び回るものを指差して叫んだ。生き物が飛びながらくるりと身を翻すと、光の加減なのか、その白い腹の襞のようなものが確かに人間の顔のように見えた。
生き物は女の悲鳴に驚いたのか、上方の暗闇の中に姿を消した。私はメルディーンの方を見たが、魔道士は黙ってただ首を横に振るだけだった。
幸いなことに昇降機の扉は開き、私たちが乗り込むとそれは地上へと動き始めた。四角い硝子の部屋の外では、青白く光る生き物たちが闇の中に浮かんでは消えた。ヴェルジェニは私の腕にしがみついて、外を見ないようにしていたが、ふと何かに気づいたかのように顔を外に向けた。
「この生き物たちは、別の〈杯〉が作り出したの？」
その問いはメルディーンに向けられたもののようだった。老魔道士は疲れた様子で硝子の壁にもたれていたが、少しだけ顔を上げた。
「恐らくは。だが、失敗作だ。〈王の中の王〉を生みだすために無数の〈杯〉が作られ、試されたと儂は考えている。フェルモーグスもコンヴァルの城で〈杯〉と同様のものを作ろうとしていたのやもしれぬ。獣人はその成果なのだろう」
王妃は私の腕を放し、魔道士に詰め寄った。
「私に化け物を産ませるつもりだったの！ あの魔女のように！」
「化け物ではない、〈王の中の王〉だ！ あの〈杯〉はフェルモーグスにも儂にも作り出せない、古の秘術が作り出した特別のものだったのだ！」
メルディーンは厭味を言ったつもりだったのかもしれないが、私は無視することにした。
「恐ろしい。あなたは恐ろしい人だわ。王に罰してもらわねば」
ヴェルジェニは髪を振り乱して一歩退き、はっと身を固くした。
「ああ、アルザールはどうなったの？ あの魔女はどうして地の底へ降りてきたの？ あの人が炎の剣で打ち倒しているはずではなかったの？」
メルディーンもダンニードも黙っていた。私は取りあえずの返答をした。
「それはわからない。地上に出て確かめるしかない」
ヴェルジェニは頭を抱えて黙り込んだ。程なく昇降機が止まった。扉が開き、私たちは塔の暗い広間を出口に向かった。傾いだ扉は閉ざされていた。メルディーンが二度三度呪文を唱えると、軋みながら扉は開いた。私とダンニードは王妃を下がらせ、油断なく剣を構えた。
夜空は雲で覆われているのか、星も見えなかった。あちこちで炎が上がっているのは、火炎の魔術やアルザールの炎の剣で焼かれた死骸なのだろう。肉の焼ける臭いがした。
瓦礫の中に屍食鬼と獣人、騎士と兵士たちの骸が点々と転がっていた。幽鬼たちもすでにどこかに去ったのか、炎と煙以外に動いているものの姿はなかった。
「アルザール！」
王妃の声が廃都の闇に谺したが、答えるものはなかった。
アルザール王は屍食鬼と獣人の死骸の下で血まみれになって息絶えていた。炎の剣は消し炭のように黒くなり、二つに折れていた。
ヴェルジェニはひとしきり泣いた後立ち上がり、ぽつりとこう言った。
「こんなところでは寝られないわ。天幕に戻りましょう」
十
コルメストに戻るとヴェルジェニは女王になった。メルディーンは追放される前にいずこかへ姿を消した。女王は〈杯〉の探索に出ていた残りの騎士たちを呼び戻すよう、使者を出した。
アルザール王の弔いの儀式の晩、床の中でヴェルジェニは言った。
「スナブ・ランケン、コルメストの王になって欲しい」
私は寝たふりをして返事をしなかった。女王が眠った後、静かに寝台を抜け出した。
手早く荷物をまとめて厩舎に向かい、丈夫そうな馬を選ぼうとすると、先客がいることに気づいた。
「ダンニード、何をしている？」
眉毛の騎士は驚いてこちらを見た。
「スナブ・ランケン、お前こそ何をしているんだ？」
「僕は王になるつもりはない。女王ともこの城ともおさらばさ」
「これはこれは、奇特な男だな。俺は〈十三人の騎士〉の長となるよう言われた。だが、そんなお役目は俺には向かん。戦も騎士もうんざりだ。田舎の館に帰って羊でも飼う」
「それはいい考えだな」
「お前は郷里には帰らんのか」
ダンニードが馬に鞍を付けながら言った。
「ふむ、だいぶ遠いんでね。そう簡単には帰れない」
「そうか、それは難儀なことだ」
ダンニードも私も〈十三人の騎士〉だ。門番に咎められることはなかった。月光が照らす丘を私たちは駆けた。街道の傾いた道標のある場所で、ダンニードは北に向かい、私は南を目指した。
その後、ヴェルジェニやコルメストがどうなったのかは知らない。ブリトビオンが統一されたという話も聞かなかった。ダンニードが本当に剣を捨てたのかどうかも知らない。だが、メルディーンについては、再びイオロープの地に戻ってから噂話を聞いたことがある。
曰く、ブリトビオンから来た魔道士が勇敢な戦士を募って、ある宝物を探している。それは古の神によって聖別された〈杯〉で、それを探し出した者は、荒廃の地イオロープを統べ、大王国を築くことができるのだという話だ。
ナマンド近くの街の酒場でその話を聞かせてくれた男は、その話を半ば信じているようで、私に一緒にその魔道士の館に行かないかと誘いかけてきた。
「何でもブリトビオン一の大魔道士だそうだ。フラーテンのどこかにその〈杯〉があることがわかり、この地にやって来たんだ。どうだ、イオロープの大王だぞ、信じてみるのもおもしろかろう！ ナマンドの合戦で無駄死にするよりはずっとましな話ではないか！」
男は葡萄酒の杯を飲み干して、大声で笑った。
「その魔道士にはブリトビオンで会ったことがある。そいつは詐欺師だ。〈杯〉など与太話に過ぎない。関わらないのが身のため、イオロープを統べる大王などただの幻だよ」
私の言葉に男はつまらなそうな顔で舌打ちをした。私は一人、酒場を出た。
道は昨日の雨でぬかるんでいた。月が道沿いに連なるみすぼらしい家並みを照らしていた。その向こう、坂下の野原にはどこかの陣営の灯が見える。夜明けには戦が始まるのかもしれない。
静かな店で飲み直したい気分だったが、無論そんな店などあるはずもなかった。私はただ月明かりの泥道を歩いた。
