その子どもは裸足で川岸に一人佇んでいた。歳の頃は七、八歳くらいだろうか。薄い生地でできた裾の短い簡素な貫頭衣を着ている。衣からはしなやかな細い手脚がつき出している。短く切った黒い髪は襟足の辺りで四方にくるりと跳ねていた。
　浅黒い逆三角形の顔の中にこぼれ落ちそうな大きな黒い目があった。鼻と口は小さい。愛らしい顔立ちだったが、今は困惑して大きな目には涙が浮かんでいた。
　身なりからすれば川沿いのどこかの村の子どもだと思われたが、顔立ちはヴェツーの国の多くの人々とはいささか異なるようにも見えた。
　川は緑色の水を湛え、蛇のように曲がりくねって流れている。幅は四十イート（約十二メートル）ばかりだろうか、ところどころに川底から岩が顔を出しており、そうしたところでは流れが速くなり、白い飛沫があがっていた。両岸には密林が迫り、垂れ下がった蔓草の先端が流れに触れて、揺れ動いている。狭い砂利の岸辺にじっとしていた極彩色の蜥蜴が、私の足音に驚いて葉叢に姿を消した。
　私の歩いてきた森の中の小道は川向こうにつながっており、少し下流に壊れた木橋の残骸らしきものが、岩にひっかかっていた。
　少女は向こう岸を見ていたが、私が近づくとこちらに視線を向けた。
「渡れないの」
　小さな口が動いてそう呟くように言うと、生い茂った緑の中で、鳥たちが嘲笑するような甲高い声をあげた。
「家は向こう岸なのかい」
「渡れないの」
　少女は同じ言葉を繰り返した。黒目がちの大きな目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「壊れちゃって……渡れないの」
　目顔で橋の方を指し示し、彼女はまた同じ台詞を繰り返した。
「僕も向こう岸に行くところだ。負ぶっていってあげよう」
　子どもはこくりとうなずき、少しだけ安堵したような面持ちになった。見たところ、さして深い川のようではなかった。流れの速いところに気をつけさえすれば、大人には難なく渡ることができそうだった。
「僕はスナブ・ランケンという旅の者だ。君は何という名前だい」
「パクァ」
「この先のティク・ヨンスの村の子かい。僕はそこに行くところなんだ」
　パクァはわからないという風に首を振った。あまり話すことが得意ではないのかもしれない。
　私は背負っていた麻袋を体の前にかけ、パクァを負ぶった。少女は不安がる素振りも見せず身を預けた。驚くほど軽く、日なたの匂いがした。
　水は冷たく心地よかった。森の葉叢から解放された陽光が水面に降り注ぎ、きらきらとまぶしく輝いていた。少女を向こう岸に送り届けたら、ここで水浴をするのも良い考えかも知れない。鰐が潜むには川は浅すぎるだろう。
　私はパクァを背負って川を渡った。十歩ほど進んだが、水は脛の辺りの深さだった。結構流れは速いので、足にはそれなりの抵抗感があった。そのせいだろうか、河岸で負ぶったときは軽く感じられたパクァがいささか重みを増したかのような気がした。
　一瞬、足に何かが触れたような気がした。流れの中を銀色の魚影らしきものが過ぎていくのが見えた。
　また十歩ほど進むと、川は膝を隠すほどの深さとなった。流れは速く、注意して足を進める必要があった。何度か、踝や脛のあたりを魚らしきものがかすめた。
　背中の少女は徐々に重みを増していくように感じられた。掌に感じる肌の感触が湿り気を帯びたものになっていく気がするのは、川の水気を吸ってのことなのだろうか。
「パクァ、もう少しだよ」
　まだ、半分も渡ってはいなかったが、私は自分の漠とした不安を紛らわせるように、そう背中の少女に話しかけた。首をねじって彼女の顔を見ようとすると、黒い大きな瞳が目に入った。それは艶やかな黒水晶に銀砂をまぶしたかのように光っていた。
「もう少し、もう少しね」
　パクァは私の言葉を繰り返した。単調なようにも、何となく楽しげな響きのある口調にも聞こえた。
　さらに十歩進んだ。パクァが私の背中で重さを増していることは、間違いなかった。棒のように細かった手脚には、柔らかな薄い肉がつき、背中には乳房の膨らみさえ感じられた。乾いた日なたの匂いは湿った甘い香りに変じた。
　川は腰までの深さとなり、流れは重く、ゆっくりと渦巻いて私を巻き込むかのようだった。丁度、川の真ん中まで来ていた。
「パクァ、君は……」
　胸のあたりに回された少女の腕は、いつの間にか日焼けした褐色から、濡れたように光る青白い肌となっていた。掌に感じる尻の肉は吸い付くような艶めかしい手触りとなっていた。
　私は首をねじ曲げ、少女の顔を見ようとした。少女はそれを察したかのように首を伸ばして背中から私の顔を覗き込んだ。
　間近にパクァの顔があった。青白く滑るような頬、小さな桃色の濡れた唇、天河のような煌めきを宿した黒い瞳……そこに見えたのは女へと変容しつつある危うげな魅力を湛えた少女の顔だった。
　果実のような小さな唇が笑い、赤い舌先が覗いた。光る水滴が唇から一滴零れ落ちた。
「もう少し、もう少しね」
　パクァが耳元で囁くと、むず痒いような心地よいような、甘い刺激が首筋から足の先まで、身中を走った。
　背中の少女を今すぐ放り出したい衝動が起こったが、それはできなかった。パクァの青白い腕と脚は私の体に吸い付くように絡みつき、離れはしなかった。何より放り出したいという気持ちと同じくらい、甘美な彼女の肉体を感じていたいという欲望が私の内に沸き起こっていた。
　負ぶっているのが何か得体のしれない妖しのものであることは明らかだったが、その抱擁から逃れることはできなかった。
「もう少し、もう少しよ」
　パクァがそう囁くと、私の足は絡繰人形のように動いて川の中ほどへと歩を進めた。少女は私のうなじに頬ずりし、柔らかい体を隙間なく絡み付けた。服を着ているのに裸で肌を合わせているかのように、全身に滑るような感触が伝わってくる。甘く香しい匂いが肌から染み込んでくるような気がした。
　突然、足の下から川底がなくなった。ぬめぬめとした何かが足首に巻き付き、私を水の中へと引っ張った。
　もがいてもどうすることもできなかった。パクァの手脚は関節のない触腕のように絡み付き、振りほどくことは出来ない。足を引っ張る何かは凄い力で私を水底へ引き込もうとする。
　自分の吐いた息の泡が目の前で揺らめき川面へと上がっていくのが見えた。水を通して見る陽光はきらきらと輝き、揺らめき、夢幻のように美しかった。
　水の中でも少女の囁き声は聞こえた。
「もう少し、もう少しよ」
　柔らかい舌と唇が耳たぶに絡みつき、嬉しげな声を私の中に送り込んだ。
　揺れ動く水色の煌めきの中で、私は気が遠くなるのを感じた。不思議と苦しさは感じられず、体が水に溶け込んでいくかのような奇妙な心地よさの中で、私は意識を失った。

　目を開けると青と水色、薄緑の世界が広がっていた。大小の岩が転がり、丈のある水草がゆらゆらと蠢いている。頭上から差し込む青白い陽の光は、川面の波にあわせて終わりのない踊りを踊っている。
　目の前を銀色に輝く魚が通りすぎていった。丸い虚ろな目が一瞬こちらを見たような気がした。
　私は川底にいた。息苦しさは感じなかった。口を開いても泡は出て来ない。私は息をしていないのだ。
「着いた、着いたね」
　パクァの声が耳元で聞こえた。振り向くと少女はそこに漂うように佇んでいた。
　そこにいたのは七、八の子どもではなく、乳房の膨らみ始めた十三、四の少女だった。何も身に着けておらず、青白い肌が差し込んでくる陽光に光っていた。
　体つきは変わっても、巴旦杏のような形の大きな黒い瞳と小さな鼻と口はパクァに違いなかった。黒い髪が水草と同じように揺らめいていたが、くるりと巻いたその先端は、自在に動く触手のようにも見えた。
　パクァは楽しげな笑みを浮かべ、私の耳には鈴を転がすような笑い声が響いた。
　少女は笑いながら、すっと細い腕を伸ばして私の手をつかんだ。彼女の長い指と指の間には、水掻きがあった。
　少女の手は吸い付くように私の腕に絡みついた。笑いながら川底を一蹴りすると、彼女は私の手を引いて泳ぎ出した。その足にも薄い膜のような水掻きがついていた。
　私も手足を動かすと驚くほど自在に水の中を進むことが出来た。私の手にも水掻きがあることにその時気づいた。何も身にまとっていないことにも、その時気がついた。
　私たちは水の中を手をつないだり離れたりしながら、泳ぎまわった。銀色の魚たちは私たちのために道を空け、川底では細長い鋏をもった橙色の海老が驚いて泥の中に潜り込んだ。水草は意志あるもののように、私たちに動きを合わせて揺らめく。
　パクァは無邪気な子どものような笑い声をあげ、いつしかその笑いは私にもうつって、気づくと私も笑い声をあげていた。彼女の青白い肌は光を浴びると銀色めいた輝きを発し、しなやかな体はそれ自体水で出来ているかのように流れるように美しく動いた。
　私は幸福感を感じていた。このまま、ずっとパクァと泳ぎ続けていたかった。
　私たちは泳ぎながら身を絡め抱きあった。滑らかな肌がぴったりと私の肌に吸い付く。銀の砂を散らした黒水晶の瞳が目の前で私を見る。きらきらと輝く黒い瞳の中で、天河が大きな渦を巻いて煌めいた。
「ランケン、ランケン……」
　艶やかな珊瑚色の唇が私の名を呟き、そのまま私たちはくちづけた。
　私たちは抱きあいながら、ゆっくりと深みへと落ちていった。ゆっくりと青い桃源郷の中を水底へと沈んでいく。体中の力が抜けても、私はパクァと抱きあっていた。肌は溶け合い私たちはひとつの幸福な生き物となって水の奥底へと沈んでいった。

　子どもの笑い声と水飛沫の音が聞こえてきた。瞼を通して強い陽の光が差してくる。目を開けると真っ青な空と白い雲、ぎらぎらと輝く太陽があった。
　体の下にはごつごつとした固く熱いものがある。身を起こして、私は川岸の焼けた石の上にいることに気がついた。
　大小の石が転がる河原が広がっている。向こう岸からは緑の森が迫り出し、川面に影を落としている。右手には高さ二十イート（約六メートル）ほどの滝があり、どうどうという音を立てて水が流れ落ちていた。
　滝壷の辺りでは、五、六人の子どもたちが裸になって水遊びに興じていた。近くの大きな岩の上では三角の深い編笠をかぶった男が釣糸を垂れていた。魚籠が側においてある。
「気がついたかい」
　編笠の男が言った。ヴェツーの言葉には違いなかったが、どことなく抑揚が妙な感じがした。
「ここは……」
「そこの滝壷に浮かんでおったのを子どもたちが見つけた。息があるようなので、引き上げて寝かせておいた」
　男は歯が足りないのか、はっきりしない粘つくような発音でそう言った。
「……あ、ありがとうございます」
　私ははっとして、自分の手を見た。水掻きなどは付いていなかった。半乾きの服を着ていた。濡れた麻袋や剣が近くに放り出してあった。
「ここは……どこです」
　漁師らしき男はこちらを見ることもなく、ぼそぼそと答えた。
「ここはティク・ヨンスの村外れだ。お前さん、旅の者だね」
　どうやら、私はどういう道を辿ったのかはともかくとして、目的地には着いているらしかった。
「橋が壊れていて……女の子を負ぶって渡してあげようとして……パクァという名だった……」
　男は編笠を深くかぶり直して、こちらを見やった。笠の下から切れ込みを入れただけのような口元と後退した顎が覗いた。
「村にはパクァなんていう名の子どもはおらんな。上の橋なら婆様の代から壊れてる。お前さん、化かされたんだろ」
「化かす？」
「この辺りの川には魚や海老蟹以外にも棲んでるものがおる。溺れ死んでも死体が揚がらんかった者がそのまま水の中に棲み続けるという話もあるし、大昔におった水神様の裔だという話もある。時々川底から出てきて、人を化かすんだよ」
　私はもう一度自分の手をじっと見た。どこにも水掻きの痕跡などはなかった。だが、パクァの滑らかで吸い付くような肌の感触は残っているような気がした。
「なあに、面白半分に人をからかうだけだ。たいしたことじゃない。だがな、お前さん、今度川に入る時は気をつけるんだな。気紛れにお前さんのことを思い出して、また引っ張るかもしれん。二度目は帰れない。万が一帰れても、人間の姿には戻れないという話だ」
　男は話は終わりだというように、川面の方に向き直った。灰色じみた首筋には深いしわが見えた。
　私は子どもたちに礼を言おうと立ち上がった。麻袋を担ぎ剣を吊った。もう一度礼を言おうとした時、男が釣竿を持つ手に手袋をしていることに気がついた。
　私は言葉が出ないまま、滝壷の子どもたちの方へ歩いていった。水をかけあい、潜っては浮かび、歓声をあげて遊んでいる。五、六歳の小さな子から、胸の膨らみ始めた子まで、褐色の肌を輝かせて夢中で遊び興じていた。
「君たち、ありがとう」
　私の声に何人かの子どもはこちらを見て笑いながら、何事か答えた。黒い大きな瞳には明るい光が宿っていたが、パクァの銀河のような輝きとは別のものだった。口も屈託の無い大きな笑い声をあげるためであるかのように、皆大きかった。
　私は手を振り子どもたちに別れを告げると、踵を返した。何歩か歩いてもう一度手を振ろうと振り返った。
　乳房の膨らみかけた少女だけが、こちらを向いて手を振った。青白いその手には水掻きがあり、黒水晶の瞳には銀砂の輝きがあった。
　私は吸い寄せられそうになる視線を何とかずらして、滝壷に背を向けた。編笠の男は黙って釣糸を垂れていたが、傘の中から丸い虚ろな目がこちらを見ているような気がした。
　早足で男の側を通りすぎると、粘つくような幽かな声が聞こえたような気がした。
「気をつけることだ、気をつけることだ……」

　サンジェリィの街にはイヌン川を始めとして、幾筋かの川が流れている。先人たちの作り上げた石造りの用水路もある。
　夏の暑い日、水遊びに興じる子どもたちを見ると、ヴェツーの国での奇妙な出来事を思い出すことがある。
　不思議と恐怖は沸き起こっては来ない。パクァの滑らかで心地よい肌と甘い香り、美しい水の中の姿が心中に蘇ってくる。
　あの時、あのまま水底の住人となっていれば、と思うことがある。もう一度あの青い桃源郷に行きたいと思うことがある。
　だが、気紛れな水の少女は、私のことを思い出してはくれないのだ。