１
ガラムリンの酒場『シャー・メギルガ』は、西から、東から、北から、南からの人々の声に満ちていた。入口近くの席ではこの町の住人らしい人足姿の二人がシェアをあおっている。中央の円卓では、サザ・ダコーア辺りから来たらしい隊商の一行が、ひどい南部訛りで故郷の歌を歌っている。止り木で肩を寄せ合ってささやきあっている男女はジャクレン教徒の法衣をまとっているからにはイリヴァーツからの旅人に相違なかった。
ガラムリンは、二つの街道の交差する街だ。ロラストの山を越えてサンジェリィ、フランジースコなどの西海岸の諸都市と、東部の都シンデックやバスターンを結ぶ黄金街道と、北はエスカールから南はタクメクスまでをつなぐ白銀街道が、この岩だらけの山間の街で交わる。裕福にはなりえないはずの土埃をかぶった殺風景な街がそこそこの繁栄を続けているのは行き交う旅人たちの落としていくダズン金貨のおかげだった。
『シャー・メギルガ』は街の中心部、黄金街道と白銀街道が交わる四つ辻に店を構えている大きな居酒屋だった。旅人たちの腹を満たし喉の乾きをいやす。そしてまたメルカー中の様々な噂話が集まるところでもあった。
私は奥の壁際の席に陣取り、ひとりシェアの酒杯を傾けていた。ディコンといきたいところだったが、生憎と路銀が尽きかけていた。前の街で、牧場の用心棒に雇われたのだが、雇い主の男は襲ってくるはずのならず者どもよりもはるかに始末に終えない悪党だったので、私はそいつを叩きのめして飼い葉桶に逆さに放り込んだ。まちがった行いをした覚えはなかったが、残念なことに金だけは手に入らなかった。
「何だと、この野郎！もう一度今の台詞を言ってみろ！」
南部からの隊商の歌声が跡切れ、割れ鐘のような太い声が酒場に響き渡った。
中央の円卓を挟んで、店の向こう側で騒ぎが持ち上がっていた。酒卓がひっくり返り、赤銅の盃が床に転げて、派手な音を立てた。
立ち上がった男は巨人と言ってよかった。身の丈は六イート半（一イートは約三十センチ、即ち約二メートル）はある。黒革の胴着と腰布をまとったその体は、鋼のような肉の鎧に覆われていた。剃り上げた頭の天辺にだけ、半イート程の髪の毛が針金の束のように突き立っていた。
「積み荷はフォクサンの菓だと！ふざけるな！俺は貴様の隊商が大事な楽を商売するというから、火吹き龍の谷でくたばりそうになりながらもここまでつきあってきたんだ。その代価を奴隷女でどうだだと！この薄汚い人買いめ」
巨人と向き合ったタクメクス人らしい浅黒い肌の男は、反り返った口髭に手をやり、黒い細い目にずるそうな笑いを浮かべてやり返した。
「まあ、落ち着け、そう悪い話ではないぞ。イオロープではお目にかかれない飛び切りの女を世話してやろう。いいか、東部の女というのはな……」
タクメクス人の東部女性に関する考察は最後まで聞くことはできなかった。大男が、彼以外には持ち上げることもできそうにない、巨大な戦斧をその手に握ったからだ。
「このダーチェンのハマームジークにはそんな与太話は無用だ。貴様の血でこの戦斧を磨いてやる！」
悲鳴やわめき声が飛び交い、巨人の周りから人の波が引いていく。口髭の人買いはまだ歪んだ笑みを浮かべたまま、汚い罵言を吐き、手の者を呼んだ。
酒場のあちこちから抜き身を手にした男たちが現われ、ハマームジークと名乗った大男を取り囲む。一対十五といったところだろうか。
「のぼせ上がったイオールを片付けろ！」
最初に飛びかかった男の剣を、巨人は驚くほど軽やかな動きで避けた。重い物が宙を切り裂く唸りが聞こえた。戦斧が、反り身の剣を枯れ枝のようにへし折り、最初の敵の頭を粉砕した。熟れた果実を潰したように、真っ赤な血と脳味噌が飛び散った。
二番手、三番手の刃が埃っぽい空気を裂いて大男の胸倉へと飛び込む。だが、巨人は巧妙な機械仕掛けのような正確さで、相手の動きを読み、すさまじい膂力で戦斧を振り回しては、血の花を宙に咲かせていく。
三人が倒れたところで、隊商の傭兵たちも自分たちが相手にしているのが、死神の衛兵であることに気がついたようだった。遼巻きに巨人を囲み、飛び込む機会をうかがう。
その時、私は視界のすみで動くものを認めた。大男の背後、二階席の露台に弓矢を持った男がいる。口髭の男の目配せに応じて露台の男は弓を引き絞った。狙いはもちろん巨人の広い背中だった。
私は懐に手をやり手裏剣を握った。男たちの視線は巨人に向けられていて誰も私の動きには気づかない。矢が放たれる一瞬前、私は手裏剣を投げた。
短い呻き声と弦が弾ける鈍い音がした。矢は見当はずれな方向に飛び、露台からは男の死体が落ちてきた。
巨人が振り向く。同時に、囲んでいた傭兵たちが一斉に飛びかかった。私も剣を抜き円卓を飛び越えた。
ダーチェンの男は猫のような素早い動きで、突き出された幾振もの剣をかわした。休む間もなく繰り出される次の一撃を戦斧の一払いでなぎ倒し、雷鳴のような戦いの雄叫びを上げた。気押される傭兵たちの頭上に鋼の雷が降り注ぐ。悲鳴と共に血みどろの肉片が飛び散り、屍が重なっていく。
私は大男の死角を狙って斬り込もうする傭兵を背後から二人ほど葬った。一瞬目線が合うと、ダーチェン人は不敵な笑いを浮かべた。新たな敵の出現にならず者どもはわずかに浮足立ったが、すぐに圧倒的な人数の差を思い出したか、凶暴な刃を指し向けてくる。
鎧と剣ががちゃがちゃとなる音がして、ガラムリンの衛兵たちが酒場に入って来た。口髭のタクメクス人が隊長よろしく先頭に立っている。我々の方を指差し、早口で何やらまくしたてている。どうせ、たっぷりと鼻薬を効かせてあるのだろう。ここは逃げる算段をした方が得策と思えたが、巨人はそんなことは御構いなしに戦斧を振い続けている。
衛兵が近づいてくる。二十人はいる。いかな狂戦士といえども勝ち目はあるまい。私は店の奥にあるであろう裏口を目指そうと、道をふさぐ緋色の胴鎧を着けた男に斬りかかろうとした。
その時、異変が起こった。緋色の鎧の男は、突然剣を取り落とし、その場に倒れた。あるまいことに、男は高いびきをかき始まった。『シャー・メギルガ』のあちこちでその現象は起こった。巨人を取り巻いていた十人近くの男たちも皆、床に倒れ眠り始まった。大男はまだ戦斧を振り上げたまま、呆然とした表情でいびきをかいている敵を眺めていた。衛兵たちもまた、隊列を組んだまま、床に転がり眠りこけている。口髭の隊商の男は髭によだれを絡ませていた。
店の中に残った者で起きているのは私とダーチェンの大男、そしてもうひとりだった。
眠っている衛兵たちの後ろに、黄色い長衣を着た老人が立っている。首には幾重にも数珠や金の首飾りをまき、頭には剃り上げたのか、禿げているのか、毛は一本もなかった。頑固そうな面長の顔だちで体つきもがっしりしている。灰色の細い目からは、見えないが鋭い光が放たれているようだった。
「ついてまいれ、お主たちに仕事をやろう」
それだけ言うと僧侶は踵を返し、出口へ歩きだした。
私は思わず、巨人と顔を見合わせた。彼もこの事態にどう対処すべきか、思案中のようだった。
「助太刀はありがたいが、どこへ来いというんだい」
「仕事ってのは何のことだ、坊主！」
僧侶は振り向き、にらむようにこちらを見た。
「ガラムリン城の謁見の間に行くのだ。仕事については陛下御自らがお話しなされる。報酬は弾むと約束しよう。それとも、裁判所に行くか」
私たちはもう一度顔を見合わせた。大男は不満気に喉の奥で獣じみた捻りを発したが、戦斧の血を拭ってうなずいた。私も肩をすくめて、剣を鞘に収めた。
黄衣の僧は鼻の辺りにしわをつくり、微かに笑うと歩きだした。
２
ガラムリン城は岩山を背にして建てられた城で、決して大きくも優美でもない、黄色味がかった古い石作りの砦だった。交易で栄えている街らしく中の調度類はメルカー中から集められた様々な様式、色合い、造りの豪華な物が揃えられていたが、それらの品々を秩序よく配置する美的才能の持ち主は、この城にはいないようだった。
「そちたちに取り戻して欲しいのは、このガラムリン王家に伝わる秘宝『ナジャクスの光』じゃ」
ガラムリン王ガラム・アラムーは、見たところ四十代半ばの壮健な男だった。背丈はあまりないが、体つきは引き締まっており、まずまずの男前だ。身につけているエスカール鹿の毛皮に宝石を散りばめた悪趣味な服と似合わない白い革の長沓を着替えて、夜の『シャー・メギルガ』に出向けば、若い女のひとり二人は引っ掛けられるかも知れなかった。
だが、今のガラムリン王は、木彫りの素朴な彫刻がなされた王座に前屈みに座り、意気消沈した様子で私たちを眺めていた。『ナジャクスの光』というのはよほど、彼にとって意味のある代物らしい。
「宮廷魔道士のペリニューンが『ナジャクスの光』に秘められた力を我がものにしようとして、持ち出したのだ。ペリニューンは北の岩山にある洞窟に逃げ込み、地底深くで『ナジャクスの光』の力を解放し、この世に災いをもたらそうとしている。一刻も早く奴を捕え『ナジャクスの光』を取り戻さねばならん」
王の後を受けて黄衣の僧、チャンザイノが説明した。彼はジャクレン教の僧侶で王の相談役のような立場として、かなりの力を城内で持っているようだった。
「ガラムリンには幾らでも兵隊はいるし、あんたのような気の利いた手品のできる坊さんもいる。俺たちみたいな、氏素性の知れないごろつきを雇おうってのはどういうことだい」
ハマームジークは、儀礼的な乾杯のために出された葡萄酒を、彼の手の中では玩具のように見える小さな酒杯に注ぎ、続けて三杯飲み千した。王の前に出ても、この大男はまったく、物怖じするところがなかった。私まで含めてごろつきという表現にはいささか不満がないでもないが、それなりに付き合えそうな男だ。
「同じことを僕も聞きたい」
チャンザイノは王の方を見てうなずいた。アラムー王は、頬杖をついたまま、仕方ないというように首を振った。
「ペリニューンは兵士たちの追撃を退けるために、邪悪な魔物を洞窟に放った。三度、討伐隊を送ったが、戻ってきた者は人数にして半分、残りの者は化け物の餌食になった。生きて帰ってきた兵士の半分は気が触れている。恥ずかしいことだが、ガラムリンの兵士にもう北の洞窟に入って行く勇気を持った奴はおらん」
「人買いの用心棒になる勇気はあるらしいが」
私の皮肉に、王はチャンザイノを一瞥し、チャンザイノの灰色の目は私をにらんだ。隣でハマームジークは壜ごと高価な葡萄酒を飲みながら、にやにやしている。
「そちたちのような腕のたつ、気概もある者を探していたのだ。どうじゃ、この世を厄災から救う仕事じゃ、引き受けてはくれぬか」
ガラムリン王は、哀願の響きもある声でそう言った。
「『ナジャクスの光』とやらはどんな災難をもたらす？」
直ぐには王の応えは帰ってこなかった。チャンザイノは自分には関係のないことであるかのように、目を細めて視線を隠している。ハマームジークが酒を飲み干す音だけが響いた。
「愛が失われる。『ナジャクスの光』は聖者によって慈愛の光か封じられた秘石じゃ。その光が失われればこのガラムリンの地から愛が消えてしまうのじゃ」
うつ向いた王の頬には涙が流れていた。
「報酬は両名に一万ダズン、それに王宮の宝物庫から望みの宝石を一つずつ取らせよう」 チャンザイノの声が妙に乾いているように私には聞こえた。
「一万！そいつぁ、景気のいい話だ。乗った！と言いたいところだが、そんな化け物の巣窟に二人で行けってのは、幾ら何でも俺たちの腕を買い被り過ぎじゃあねえのかい」
黄衣の僧は灰色の目を冷たく光らせてうなずいた。
「二人で行けとは言っておらん。オーリューン、入れ」
現われたのは、小柄な若い女だった。痩せ過ぎの華奢な体を、黒い袖なしの身にはり付くような服に包んでいる。洋袴は黒地に青や紫で蝶の羽の様な模様が入っており、不規則で複雑な襞がついていた。肌は浅黒く、黒髪はうなじのあたりで短く切っている。小作りな整った顔だちはインディゴスかナクシャッツ人の血を引いているのかも知れない。黒い瞳には聡明さがあった。
「おお！素晴らしい！こんな可愛いお嬢さんといっしょに、地獄の穴蔵へ降りて行けるとは！」
ハマームジークは三文芝居の二枚目よろしく、空になった酒壜を花束代わりにオーリューンの方に差し出す仕草をした。
黒衣の女は、悪意を含んだ、しかし極めて魅力的な笑みを浮かべると、何事かつぶやき、鉛色の指輪をはめた細い指を妖しげにくねらせた。指輪の黒い石が鈍く光った。
巨人が抱えていた空き壜の口から突然、炎が吹き出した。
「うわっ！」
ハマームジークは壜を放り投げた。火を吹く酒壜は床に落ち砕け散った。飛び散った欠片からは、それぞれ小さな火花が吹き出した。
「よろしくね、大男さん、それから……」
オーリューンは私の方を見て小首を傾げた。小烏のようなと形容したいところだが、いささか爪が鋭すぎるようだ。
「スナブ・ランケン、サンジェリィからの旅人だ」
「よろしく、西の都から来た方」
女魔道士は、揶揄するような気取った仕草で、腰を引いて一礼した。
「洞窟は狭い。大人数で行っても無意味だ。お主ら三人、それに儂も同道する」
「こいつは有難い。坊さんがいっしょなら、どこでくたばっても安心というわけだ」
巨人は火の魔術の驚きから立ち直って、軽口を飛ばした。
「お主とは宗派が合うまいて」
ハマームジークは捻り声をあげ、オーリューンはくすくすと笑い、私は肩をすくめた。チャンザイノは鼻にしわを寄せ、ほんの少しだけ満足げな笑みを浮かべた。
３
「あの坊主はどうも気に入らねえ。何か、ろくでもないことを企んでるに違いない！そうは思わねえか、ランケン」
ハマームジークは大皿に山と盛られた骨付き肉をほとんどひとりで平らげながら、チャンザイノに対する疑問と中傷を並べ立てた。もちろん酒は浴びるほど飲んでいる。
「確かに何か裏はありそうだな。そもそも『ナジャクスの光』というのは何なんだろう。そんな結構な石があった割には、この街には愛よりも悪徳がはびこっているのは確かなようだし……」
私は東部名産のブゴム酒をすすった。謁見の後、私たちは城中で豪華な食事と酒をあてがわれた。ガラム・アラムーは美的感覚は鈍くても、舌の方は肥えているらしく、料理も酒も素晴らしいものだった。
「俺は十八でメルカーに渡って以来、東部の街はあらかた行ってみたことがある。ガラムリンにだって、幾度となく来てるが、そんなけったいな石のことは聞いたことがねえ」
「シュヌベル大学でも、そういうものの話は教えられなかったな」
ハマームジークは食べ終わった骨を高い天井に放り投げた。
「こいつは驚いた。お前さんは、大学出かい。役人にも学者にもなれるのにこんな所で何をしているんだ？」
彼の質問は、何の悪意もないものだったが、私は答えに詰まった。確かに、私は岩と土埃のこの東部の街で、いったい何をしようとしているのだろうか。
「さてね、まあ、好奇心という奴のなせる技さ……生まれはダーチェンなのか？」
「ああ、そうだ。ダーチェン一の鍛冶屋の息子だ。日がな一日、親父と鉄床とにらめっこも嫌になって、家を出た。流れ流れて、ここにいる。そうだ、お前さんに俺の喉を披露しよう」
ハマームジークは、手についた脂を豪華な食卓布で拭き、腰帯に差した金槌を取り出した。彼の手の中では小さく見えるが、一イート以上はある代物だ。
「俺は本当はな、吟遊詩人を目指してるんだ！」
巨人は壁に飾ってあった鋼の盾を取り外した。そして、いきなり、鉄槌で鉄の盾を叩き始めた。
耳を突き破るような音が部屋中にこだまする。ハマームジークの手の鉄槌は、嫌でも踊りだしたくなるような、強烈な律動を自在に創り出していった。
その韻律に合わせて、彼は歌いだした。野太い、朗朗とした声で、性急で攻撃的な旋律が繰り出される。詩はその硬質な響きからしてダーチェン語らしく、私には理解できなかったが、野蛮さとある種の洗練されたものが入り混じった、奇妙な雰囲気だけは伝わってきた。
「ちょっと、なんて音なの、いい加減にして欲しいわ。ここは鍛冶屋じゃなくて、王宮なのよ」
オーリューンが、黒い瞳を吊り上げ気味にして、顔を出した。
「おお、こいつは失敬、さすが妖術使いのお嬢様、氏素性もお見通しだ。鍛冶屋には鍛冶屋の歌ってのが、あるもんでね」
「明日に備えて、炎の精霊に祈りを捧げてたのに、台無しだわ。北の洞窟で、死霊の餌食になっても、私は知らないわよ」
「心配御無用、死霊だろうが、ペリニューンとやらの生霊だろうが、この俺の戦斧の餌食に……」
私は硝子の酒杯にブゴムを注ぐと、オーリューンに差し出した。
「バナーニアかフィラスアか知らないがどこの精霊でも、喉を滑らかにしてからの祈りの方が喜ぶだろう」
オーリューンはうさんくさげに私の顔を一瞥して、盃を受け取った。
「西部には、魔道士はほとんどいないと聞いたけど、どうしてそんな名を知っているの」
女魔道士は火酒を口に含み、頬を膨らませ、小ざな唇を尖らせてみせた。童女のような愛らしい表情になったが、次の瞬間には口から火を吐きそうな気もした。
「こちらの御人はシュヌベル大学の出だ。何でも、御承知さ、女の洒落た口説き方もだ」
ハマームジークが皮肉り、自分の杯にブゴムを注いで、一息で胃に流し込んだ。
「ああ、あんまりそっちの勉強をし過ぎて放校になった。今じゃ、ただの無宿者さ」
オーリューンは火は吐かずにブゴムを飲み干した。目線の険しさが消えて笑みが浮かぶ。
「ほんとかしらね。ちよっと変わってるわ、あなたも鍛冶屋さんも」
「俺は酒が飲める女は好きだぜ。例え火吹き女でも」
大男が空になったオーリューンの盃に酒を満たした。魔術だけでなく、男のあしらい方も修行を積んでいるらしい。
「何か知っていることはないのか、この一件に関して」
オーリューンは座布団を集めて、絨毯の上に居場所を作るとあぐらをかいて腰を降ろした。
「何も。私も三日前に雇われたばかりよ。酒場でちよっと占いでもやってやろうと思ったら、この街の占術士組合の連中がけちをつけてきたんで、尻に火をつけてやったらさ、お城からお迎えが来たのよ。私が知ってるのはあんた達があの情けない王様から聞いたのと同じこと、それと…」
若い魔女の台詞が跡切れた。視線が私たちからそれて、何もない宙を見る。
「今日言い残したことを、明日言えるとは限らねえぜ」
ハマームジークが促す。
「北の洞窟から帰ってきた兵士と会ったわ」
「まともな奴かい、それとも気狂いか、まさか屍じゃあるまいな」
オーリューンは細いむき出しの肩を自分の手で抱いた。私は側に言って彼女の肩に腕を回したい衝動にかられたが、ハマームジークと顔を見合わせ、自分の肩をすくめるだけにしておいた。
「そうね、きっとまともよ。でも話はちっともまともじゃない…」
私たちは夜半まで、オーリューンの話を聞いた。酔いもすっかり覚めて、私たちはそれぞれの寝床にもぐり込んだ。極上の羽布団だったが、心のうちに芽生えた氷のように冷たい不安を解かしてくれるほどは暖かくはなかった。
「おいランケン」
「何だ」
「いい女だな」
「ああ」
「俺はあいつを抱きたい」
「そうか」
「おまえは？」
「機会があれば」
「控えめなことだ」
「とりあえず、そういう機会が得るためには生きて帰らなければならない」
「その通りだ」
ハマームジークは私の答えにあきれたように黙りこんだ。
「おい」
しばらくして、またダーチェン人が話しかけた。
「うん？」
「学があるのも、面倒なものだな」
私は暗闇の中で苦笑した。
「鍛治屋の息子が吟遊詩人を目指すのと同じようなものさ」
ハマームジークは鼻で笑い（と言ってもかなりの大きな音だったが）ダーチェン語らしき言葉でひとこと言うと眠りについた。
４
北の洞窟は私たちの目の前に黒々とした裂け目を見せていた。ガラムリン城がはり付いている岩山の峠を越え、北側の頂上近くの岸壁にそれはあった。周囲にはまばらに干涸らびたような潅木が生えている。幅は人二人が並んではいれる程度だが、高さは背丈の三倍程ある。一見、なんの変哲もない岩の裂け目にしか見えなかった。
「感じるか、オーリューン」
チャンザイノが若い妖術師に間いかけた。オーリューンは洞窟の暗闇をにらみ、それから空を仰ぎ見た。灰色の雲が幾筋か、強い風に流されて青空に伸びていく。
「何かしらね。何かの力が渦巻いて、入口から洩れ出している」
黄衣の僧侶はうなずき、木の実と黄金の数珠を手にしてジャクレン教の聖句を唱えた。彼女は眉根を寄せて、渋面をつくった。そして、もう一度空を仰ぎ、細い指で何かの印を結ぶと、大気に向かってささやいた。
「バナーニア、逆巻き、燃え盛る炎の大霊よ、我に力を与えたまえよ、エルス、イム、バナン、エルス、イム、アナン……」
「入る前から禅問答か。辛気くさいぜ」
ハマームジークは洞窟の入口に一歩踏み出し、中をのぞき込んだ。私には彼の広い背中が一瞬震えたように見えた。
「何か見えるか」
「真っ暗だ。何も見えやしない」
私の間に振り返った彼の顔はいささか青ざめていた。大男は鉄槌を手にすると鉄の円盾を打ち鳴らし、空に向かって短い旋律を歌った。鬨の声かも知れず、ダーチェンの神への祈りなのかも知れない。
「お主も自分の神に祈っておいた方がよいかもしれぬぞ」
チャンザイノはそう言ったが、それほど私の身を案じているようには思えなかった。
「神様とはなるべくお近づきにならないように努めているんだ。女性と同じくらい扱いが難しいんでね」
僧侶は灰色の目を細めて薄笑いを浮かべた。
「素直な女とばかり付き合ってたのね」
オーリューンが笑う。
「仕事にとりかかろう」
チャンザイノが先頭に立ち、私、オーリューンが続き、しんがりはハマームジークという隊列で私たちは北の洞窟に足を踏み入れた。入ったばかりの足元は平たい敷石のようになっており、私はそこを踏み越える時、ある種の印を見てとった。長い年月に薄れ、消えかかってはいるが、それは逆七芒星形のように見えた。『失われた神々』の印だ。
「チャンザイノ、ここは『失われた神々』と関係のある場所なのか」
ジャクレン教徒は黙って振り返り、手にした大振りの杖を一振りして掲げた。先端にまばゆい青白い光が灯り、辺りを照らした。入口近くはどうやら小さな石室になっているようで、壁や天井にも、七つの角を持つ星形やファバーン文字にも似た形が刻み込まれている。
「さよう、この洞窟は太古には『失われた神々』かあるいはその眷属を祀る役割を持っていたらしい」
「朝の合議じゃそんな話は聞かせてくれなかったじゃないの。禁忌を犯せば何かがあるかもしれないわ」
オーリューンが噛みつく。
「怖気づいたか。何、心配はいらぬ。禁忌はとうの昔に破られておる。時代とともに幾つもの宗派がこの洞窟を利用してきた。神秘的な雰囲気は十分なところだからな」
チャンザイノは落着きはらって答えた。
「イオロープでは神と名がつく奴はほとんど失われたことになってるぜ。どうでもいいが、ジャクレン教はここは使わないのか」
「我らが教えにはこうした薄暗いところは似合わぬものでな」
僧侶はダーチェン人の問いをかわすと歩き始めた。
最初の石室を過ぎると、細い洞窟が曲がりくねりながら続いていた。足元はほぼ平らな石敷きになっており、思いの他歩きやすかった。自然の洞窟に誰かが手を入れたもののようだった。空気は冷たくかすかに動いている。黴臭いような湿った臭いが漂っている。物音は私たちの足音だけだった。蝙蝠も百足も、暗く湿った穴蔵にはつきものと思われる生き物は何ひとついなかった。
だが、死のような静寂が支配しているのにもかかわらず、この洞窟には生きて蠢く何かが潜んでいるような気がした。もちろん、普通に使われる意味での「生きて」とは異なる意味合いになるのだろうが。
道は緩やかな下り坂で延々と続いていた。次第に天地左右が広くなり大きめの部屋のようになってくる。
静けさに耐えられなくなったように、ハマームジークが言う。
「そろそろ、出そうかい、火を吹くお嬢ちゃん」
「そういう呼び方は止めたほうがいいわよ、鍛冶屋のお坊っちゃん」
「俺のことは詩人と呼んでくれ。おまえのことも師匠と呼ぶから」
「軽口もいいが、ああはならないように気をつけることだな」
チャンザイノが行く手の壁際に転がっているものを指し示した。一振りの剣がそこには落ちていた。うっすらと土埃をかぶってはいるが、刀身にはまだ輝きが残っている。前回の探索行で死んだ兵士のものだろう。
剣の柄には干涸らびた茶色っぽい塊のようなものがついていた。僧侶が明かりをかざすと、それが何であるかがわかった。
「手が…噛み千切られたみたい」
「歯形かついているようにも見えるな」
チャンザイノがさらに杖の先を近付けた。炎を押しつけられた生身の手のように、それはびくんと動き、のたうった。
突然、周囲の壁が崩れた。土まみれの何かが、壁の中から現われた。
死体だった。
肉がそげ落ち、ところどころ白い骨を晒した死骸が三体、私たちを取り囲んでいた。手にはそれぞれ剣を持ち、生前の記憶も薄れてきたのか、どこかぎごちない仕草で振り上げる。
狭い洞窟の中にたちまち剣戟の音が響き渡った。ハマームジークの戦斧が亡者の剣を受け止め、跳ね返す。生ける死者は巨人の怪力に壁に叩き付けられたが、まったく怯む様子はなく次の一撃を繰り出す。ダーチェン人は盾でそれを受けると、戦斧で敵の干涸びた頭を叩き割った。鮮血の代りに乾いた皮と肉が木屑のように飛び散る。
私に襲いかかってきた死骸は生前はかなりの手練らしかった。構えには隙がなく動きも素早かった。わずかに残った頭髪がひび割れた額に垂れかかり、その下から黒い虚ろな眼窩が私の動きを見据える。肉のない歯茎がむき出しになった口が開き、声にならない叫びとともに打ちかかってきた。受け流し、反撃を加える。私の刃は奴の右腕を斬り裂いたが、痛みを感じない相手には無意味な一撃だった。
鋭い突きを変わし、肩口に斬り込んだ。死者は機敏に剣で受け止めたが、先刻の一撃で切れかかっていた筋が衝撃で切れた。私の剣はそのまま胸と腹を裂き、斜めに敵を切断した。
ハマームジークの斧はその間に残る一体を人間の残骸のようなものに変えていた。
「やれやれ、先が思いやられるぜ。おい、魔法使いのお嬢ちゃん、もう少し早口で呪文を唱えないと間に合わないぜ」
オーリューンは大男の揶揄を無視して、印を結びながらささやくように呪文を続けていた。瞳は私たちが見ているのとは別の世界を見ていた。
「オーリューン、戦いは……」
言いかけた私の背後で、壁が崩れた。振り向く間もなく、木の根のような腕が組み付いてきた。黴と埃ともう一つの臭いがする。当分干物は食べたくなくなるかも知れない。あらゆる肉が干涸びているにもかかわらず、そいつの力は尋常なものではなかった。
そいつには右手がなかった。左手が私の首にかかる。私は柄頭で思い切りそいつの頭を殴りつけた。頭蓋骨が砕け、柄頭が脳があった場所に食い込む。が、一向に力は衰えない。
「成仏せい！哀れなものよ」
その時、チャンザイノが青く光る杖の先端を亡者の左手に押しつけた。骨を擦り合わせきしませたのか、生ける死者は悲鳴のような声をたて、私を放した。左手は焼け焦げ、煙を上げている。
剣を横に払い、私はそいつの首を斬り落とした。持ち主の元へ帰ろうと、足元を蠢いている右手は踏み潰した。
「ランケン！見ろ！なんてこった！」
巨人が叫ぶ。見るとさらに異様極まりないことが起こっていた。
ばらばらになった四体の骸が、まるで誰かに糸で操られる人形のように這い寄っていく。それは、見る間に骨と干し肉の巨大なかたまりになり、耳障りなきしむ音をたてながら、組み合わさっていく。
四つの頭、八本の腕と八本の足を持つものが立ち上がった。ハマームジークの倍ほどの身の丈がある。胴体は無数の肋骨がでたらめに絡み合い、腕と足も不規則な長さで異常な角度で突き出している。頭のひとつはおぞましいことに股間から逆さにぶら下がっていた。
死骸の巨人は、四本の剣を目茶苦茶に振り回しながら、私たちに迫ってくる。私もダーチェン人も休みなく振り回される四本の剣から逃れるだけで、じりじりと壁際に追い詰められていく。
「バナーニア、エルザム！」
金切り声のようなオーリューンの声が洞窟に響き渡った。前方にのばした彼女の指先に真紅の光が灯っている。光は急激に強さを増し、あらゆるものを赤く染め上げた。広げた指先から自熱した炎が恐ろしい勢いで噴き出した。
炎は一気に死せる巨人を包み込んだ。乾ききった紙か木の葉が燃えるように、生ける亡者の歪んだ体が燃え上がる。股間の首が焼け落ちる。腕が、足が次々と崩れていき、それは大きな薪のようになっていく。
亡者が一山の炭のようなものになると、炎は現われたときと同様に唐突に消えた。
「すごいぜ！たいしたもんだ、お嬢ちゃん！こいつはすごい、東部にゃ魔道士は珍しくもねえが、こんな火の魔法は初めて見た！」
ハマームジークは魔女に駆け寄ると、その華奢な体を抱き上げ、洞窟中に届きそうな笑い声を上げた。
「ちよっと放してよ、天井に頭がぶつかるわ」
オーリューンも笑っていたが、下ろされると僧侶の前に行き、顔に指を突きつけた。
「ジャクレンの僧侶は生ける亡者を解呪することもできないの」
チャンザイノは顔色を変えずに、淡々と答えた。
「僧侶、神官だからといって、あらゆる呪いを解くことができる訳ではない。そもそも生前帰依していなかった者の災いを、死んでからどうして打ち消すことができようか。よしんば可能としても、それには長い祈りが必要じゃ」
女魔道士はその答えには不満なようだったが、それ以上追及する材料もないようだった。
「先を急ごう。生き残りの兵士の言うとおり、この辺りは生ける死者が徘徊するらしい。この穴蔵で命を落としたものは決して四人という訳ではない」
僧侶の提案はもっともなことだった。私たちはさらなる暗闇の中へ足を踏み入れることにした。
５
しばらく歩き続けると、道は地底深く降り進む不規則な螺旋状の階段となった。時折、踊り場のようなものがあり、枝別れしている通路も見受けられた。道に迷えば、もちろん二度と日の目を拝むことはできなかったが、私たちには地図があった。ガラムリン王家に伝わるものを、二度の探索行で生きて帰った者たちの話により、より詳細にしたものだ。
私たちは別れ道に出会うと、地図と見比べ、また以前の者たちが残した壁の印しを探した。
どれほどの時間がたったのか、私たちは空腹と疲れを覚えた。ちようど、階段を降りきったところで、辺りはかなり広い空洞になっていた。壁には大きな岩が幾つも突き出ているが、平らに削られた場所もあり、やはり太古に人間の手が入れられたものらしかった。
私たちはそこで、休憩を取ることにした。食料は生憎と干した肉だった。私はオーリューンと顔を見合わせた。チャンザイノは平然と齧りついていた。肩をすくめて私たちはそれを口に運んだ。さすがに、王宮で調達したもので味は良かったが、飲み込む度にいささかの苦労が必要だった。
「あら、鍛冶屋の詩人さんはおなかがすかないの」
「うむ、どうもあの生かされていた亡者たちがな……」
オーリューンは不思議そうに小首を傾げた。
「確かにあなたには鍛冶屋より、詩人が似合うのかも知れないわね」
声には皮肉は含まれていないように聞こえた。ダーチェンの巨人は小山の様な筋肉が盛り上がった肩をすくめてみせた。
「悲しい歌は苦手だ」
「詩人にも色々おる。生命の輝きを愛でる歌い手にならんとするのなら、まずは、自分の命を大事にすることだな」
チャンザイノはそう言って、大男に干し肉の一切れを放った。
「さすが高僧、言うことが一々もっともだ」
ハマームジークは受け止めた干し肉を口に放り込んだ。
しばらく、私たちは無言で休息を取った。その内、微かな寝息が聞こえてくることに私は気づいた。オーリューンだった。ハマームジークの隣で彼女は小さな頭を巨人の肩にもたれて寝入っていた。
「あの炎の魔術は、尋常な力ではできまい。この娘にしては過ぎた術だったのかも知れぬ。それに、どうもこの穴蔵には、儂らの法力を押さえつける力が働いているようじゃ。しばらく眠らせておくしかあるまい」
僧侶が小声で言い、私たちはうなずいた。
「何か、臭わないか」
ハマームジークが鼻をこすった。確かに生臭いような異臭がどこからか流れてきていた。それと、誰かがひそひそとささやきあっているような音も、間こえてくるようだった。
黄衣の僧侶も私たちの意見に同意した。
「新手が来おったようだな。この臭いからして……」
音と臭いが急に強まった。
「起きろ！お嬢ちゃん！」
巨人がオーリューンを揺さぶった。細い首が揺れて、折れてしまうのではないかと思えたが、女魔道士は目覚めなかった。
悪臭は耐え難いものとなった。腐った肉の臭いだ。喉を押し潰されたような声と裸足の足音が迫る。
「何が来るんだ？チャンザイノ！」
僧侶は立ち上がり数珠をつかんだ。
「屍食鬼じゃ！」
行く手の闇の中に赤く光る小さな点が幾つも現われた。ぶつかりあい、耳障りな騒きを撒き散らしながら、近づいてくる。青白い人型のものが闇からチャンザイノの杖が作り出している光の輪の中に飛び出してきた。小柄な頭の大きな子どものような体躯。しわのよった弛んだ皮膚。薄茶色のぼろ切れのようなものを身にまとっている。四肢は骨と皮のように細いが、手足は不つり合いに大きく、指とその先の鋭い爪はさらに長く大きい。
猿のような素早さで飛びかかってきた一番手に私は剣を叩き込んだ。大きな頭に刃がめり込む。人間とは異なる奇妙に柔らかい感触が腕に伝わり、それだけで吐き気か込み上げる。噴き出る血が赤いのが不思議に感じられた。
次から次へ襲いかかる屍食鬼に私は剣を振るい続けた。隣ではダーチェン生まれの巨人が巨大な戦斧を操り、血と脳漿で洞窟の床を浸していく。
「起きろ！オーリューン、起きろ！」
ハマームジークと私は交互に敵を葬る度に叫び続けたが、魔女は目覚めない。
「坊主！何とかしろ！役に立つ法力はないのか！」
三匹の屍食鬼に組み付かれたハマームジークが、剛力で鬼の手足を握り潰しながらわめく。屍食鬼は耳まで裂けた口から泡を吹き、悲鳴を上げる。
私は巨人を襲っている一匹の頭の短い角をつかみ、引き倒そうとした。めりめりという音がして角は抜け落ち、血が噴き出した。屍食鬼は血まみれの顔で振り向いた。何十本もの牙がびっしりと並んだ口を歪めてそいつは笑いのような表情をつくった。真紅の小さな丸い目の奥にはあらゆるものへの憎悪と飽くことのない食欲だけがあった。
そいつは半イートはある爪をのばし、私につかみかかってきた。一瞬たじろいだ私の腕を爪がかすめ、鋭い痛みが走った。私は激しい怒りにかられ、屍食鬼のにやついた顔を二つに斬り裂いた。
チャンザイノは手をこまねいているわけではなかった。オーリューンが横たわる岩場の上に立ち、手にした数珠を振り回して印形を形作っていた。掲げた杖の尻で足元を二度、三度と叩く。しわのよった口が何事かをつぶやいた。
私は突然軽い目眩を感じ、剣を取り落としそうになった。すぐにそれは消えたが、屍食鬼たちにとってはそうではなかった。
奴らは一匹また一匹と力なく崩おれ、倒れていった。伸間の死体と血溜まりの上にひっくり返り、奴らは眠り始めた。程なく洞窟の中には、屍食鬼たちの唸るようないびきが響き渡ることになった。
私とハマームジークは累々と横たわる屍食鬼たちを見渡し、しばらくたたずんでいた。腕の傷が焼けるように痛み始めた。爪に毒があるらしい。屍食鬼のいびきに混ざって、小さな寝息が聞こえていた。炎の女妖術師はいまだ眠りから覚めていなかった。
「たいしたものじゃねえか、坊さん。ついでに、このお嬢ちゃんを起こす呪文てのはないのかい」
「できぬことはないがな、あまりこの娘の身体によいとは言えぬ。自然に活力が戻るのを待つのがよい」
「ふむ」
ハマームジークは化け物の血で汚れた肩をすくめると、オーリューンの細い身体を持ち上げ、背負った。
「まて、傷の手当てをしよう」
チャンザイノは懐から小箱を取り出し、中に入っていたどろりとした軟膏を私たちの傷口に塗りつけた。傷薬は氷のように冷たく、毒で熱を持った傷の痛みがすうっと引いていった。
「この薬にも妖術がかかってるのかい」
巨人があまりの効き目に首をひねりながら言う。
「何でも呪文でかたがつくと思っては大間違いじゃ。これはジャクレンの薬師たちが代々研究を重ねてきたものじゃよ」
私たちは、倒れている屍食鬼の間を縫うようにして進んだ。半分は死骸、半分は生きている。眠りの術に落ちている奴の中には、まるで寝言のように牙をむき出してカチカチと鳴らす奴もいた。
「この術はいつまで効くんだ」
私の問いに僧侶は平然と答えた。
「わからん。人間なら少なくとも半日ばかりは寝ているが、この化け物相手ではな。儂とて、地の底のもの相手に法力の修行をしたことはない」
その時、私の足首をつかむものがあった。横たわった屍食鬼の一匹がひょろ長い手をのばしている。赤い目を半分見開き、口許からはよだれが流れ落ちている。完全には目覚めていないようだった。
私は剣を振い、そいつを永遠の眠りに落とした。血を噴いて、断末魔の痙攣を繰り返すそいつの下に、私は屍食鬼とは違うものを見いだした。白い人骨があった。あちこちを齧られひび割れてはいたが、それは人の骨だった。
改めて周囲を見渡すと、この岩室の奥の一角には、何体もの白骨が散らばっていた。よく見ると、鎧の断片や、折れた剣も見つけることができた。
「ここは奴らの食堂だったようだな」
「坊さん、屍食鬼ってのは生きてるものでも食うものなのかい？」
「こ奴らがそんなことを気にするほど、繊細なものを持っていると思うか？屍食鬼に詩人はいないと思うがね……哀れな兵士たちだ。安らかに眠らんことを……」
チャンザイノは数珠を握り、聖句を二つ、三つつぶやいた。そんなことで、彼らの魂が安らぎを得ることができるとは私にはとても思えなかった。
６
「どうして、起こしてくれなかった！」
ハマームジークの背中で目覚めた魔女は、大男の髪の毛を三本ばかり引き抜いて飛び降りた後、事情を聞くと不満をぶちまけた。
「お主の身にはちと、あの火炎の魔術は荷が重すぎたのかも知れぬ。それにここは特別な力が支配している。バナーニアの力も地上と同様にお主に伝わってくるわけではないのかも知れぬ」
オーリューンはなおも不満気な顔をしていたが、事実を否定するほど感情的になる女ではないようだった。
屍食鬼の巣窟を後にした私たちは、早足に道を下っていった。鬼どもが追って来る気配はなかった。チャンザイノの睡魔の術はかなりよく効いているらしい。
道は細くなったり、広がったりしながら、延々と続いていたが、不意に行き止まりになった。幅はひと二人分程しかないが、天井はかなり高いらしく光の輪の外にある。私たちの前にはごつごつとした岩壁か立ち塞がっていた。
「道を間違えたの？」
「いや、確かなはずじゃ。もっとも屍食鬼の洞窟より先に来た者は誰もおらぬがな」
僧侶は杖の光を引き寄せて地図を確かめた。私ものぞき込んだが、屍食鬼の巣窟からここまでは、迷うほどの複雑な別れ道はなかったはずだった。
「その地図は本当に信頼できるものなんだろうな、坊さんよ」
「ガラムリン王家と同じくらいには信頼できるものじゃ」
チャンザイノは灰色の目を細くして、皮肉っぽく笑った。私はアラムー王の覇気ない姿を思い起こしたが、ここで不安にかられていても仕方なかった。
「地図によればだ、左側に通路があり、かなり大きな洞窟に通じているはずじゃ」
私たちは、左側の岩壁を叩いたり、なで回したりして隠された入口がないかを探った。だが、秘密の仕掛けは見当たらず、ただ指先が痛んだだけだった。
「特別な呪文が施されているということは考えられないのか」
「うむ、ないとは言えぬが、儂にはそれは読み取れぬ。そういう気もない。どうじゃ、オーリューン」
黒衣の女魔道士は壁に顔を寄せていた。
「呪文はないと思うわ。それより、何か聞こえるわ」
私たち三人は口をつぐんだ。岩の向こうから、かすかに届いていくる物音が確かにある。はっきりとはわからないが、水音のようにも聞こえる。それと低く長い響きも聞こえるような気もした。四人ともそれ以上のことを聞き取ることはできなかった。
「地底の湖か、河が流れているのかも知れぬ。地図のこの絵模様は水じゃろう。じゃが、どうしたものかのう」
「音が大きくなった気がしない？」
耳をそばだてなければ聞こえなかった水音が随分とはっきり聞こえていた。
「向こう側で化け物が小便でもしているのかも知れねえな」
「下品な詩人だわ」
オーリューンはハマームジークの腕を爪でつついた。
「馬鹿を言え、詩人は気取ってるだけでは駄目だ。広く市井の人々にも親しまれてこそ、本当の歌と言えるんだ」
「誰も怪物のおしっこの歌なんか聴きたくないわよ」
オーリューンがまぜっ返す。
「良く聞け、お嬢ちゃん。俺が言いたいのはだ……」
ダーチェン人が両腕を広げて自説をまくしたてようとするのを、チャンザイノがさえぎった。
「水音はこちら側から聞こえるぞ……見ろ！壁じゃ！」
黄衣の僧は、光る杖で行く手を塞いでいる岩壁を指し示した。青白い光に照らされた岩肌は尋常ならざるものに変化していた。
茶色と灰色の斑模様だった岩壁は、黴のような白っぽい薄緑色に変色し、微かな燐光さえ放っている。あちらこちらから濁った黄緑色や灰青色の膿のようなものが流れ出し、滴り落ちては不快な粘つく音をたてている。腐汁の中には一筋二筋、赤い血のようなものが混じり、それが一層の嫌悪感を招いていた。
「これは何？」
オーリューンが眉を潜めて、くぐもる声で尋ねる。吐き気を押さえているようだった。誰も彼女の問いに答えられる者はいない。チャンザイノさえ、黙って、変容するものを見るだけだった。
私たちは、無意識のうちに数歩後退りした。目の前の不快なものから逃れたいという本能が足を動かしたのだ。だが、私たちの道は前方にしかなかった。岩は変容を続ける。薄汚れた白緑色と本来の黒ずんだ色が膿み爛れた肌のような模様をつくる。とめどなく流れ落ちる膿汁の下にはさらにおぞましいものが現われだしていた。
「イオロープでくたばってる数知れぬ神々にかけて言うが、俺には岩に顔ができてるように見えるぜ！」
ハマームジークが戦斧を胸元で握りしめて言う。岩壁は見えない手が粘土をこね回しているかのように蠢いていた。そこには、人の背丈ほどもある顔が形作られていた。ひどく大雑把に粘土を重ねた塑像のような、それでいて底知れぬ歪んだ悪意に満ちた巨大な顔だ。
顔の口が大きく開いた。牙はない。赤くぬめる舌もない。ただ、黒い闇があるだけだった。
その闇から濁った桃色のものが飛び出してきた。それは岩の顔が滴らせる黄緑色の腐汁を浴びて全身を光らせて迫ってくる。長さは八イートもあろうか、頭部の肥大した巨大な蛭に奇形の蜥蜴の足をつけたようなものだ。頭とおぼしき所からは短い触覚がのび、口に当たるところには縦に一筋の黒ずんだ裂け目があった。
岩の顔は嘔吐するかのように表情を歪め、二匹、三匹とそれを吐き出した。蛭蜥蜴は次から次に、膿を飛び散らせながら、飛びかかってきた。
私たちはその化け物のあまりのおぞましさにのけ反りながらも剣を突き出し、ぬめぬめとした粘液質の体を斬り裂いた。まるで寒天か脂身の塊を切っているかのようだった。骨もはらわたらしきものもなかった。一刀両断すると桃色と黄緑色のどろどろの粥状のものが噴き出した。私もハマームジークも汚液にまみれて、化け物を斬り続けた。
暗黒の口は果てることなくその忌まわしい子どもを産み出し続ける。蛭蜥蜴は、鋭い爪も牙もなく火を吹く訳でもなかったが、私たちの腕に確かな疲れを覚えさせていった。
「くそ！いったい何十匹この気色悪いぬるぬる野郎を叩っ斬らなきゃならないんだ！チャンザイノ！オーリューン！」
大男は罵詈と共に二匹の怪物を戦斧で真二つにした。足元の狭い岩場にはすでに脛の半ばあたりまで、膿汁と桃色の腐肉のようなもので埋まっていた。
二人の幻術使いは私たちの後方で必死に呪文を唱えていた。オーリューンの小さな額には汗が浮かび、黒髪がはりついている。ジャクレンの僧侶は年月に刻まれたしわを一層深くして数珠を握っていた。この場所はおそらく彼らが頼りとする異界のものの力が、地上近くよりも、さらに及び難い性質をもっているらしい。私が過去に見知っている魔道士たちに比べて、二人の力が劣っているとは考えられなかった。
チャンザイノが杖を振りかざした。先端から放たれる青白い光が一際強くなり、金色を帯びる。そのまま杖をオーリューンの頭にゆっくりとかざした。青味がかった金色の光が女魔道士を包み、小さな火花が飛び散った。私にはオーリューンの華奢な身体が一回り大きくなったように見えた。
オーリューンの小さな唇から洩れる秘密の言葉は、強くたくましい響きを得た。黒い瞳の奥から、見えない金色の光が射しているような気がした。
「エルス、バナーニア、オム、ファナン……」
黒衣の魔女は、細い腕を大きく広げ、見えない空の彼方に住まう炎の精霊を仰いだ。そして両腕を前に突き出し、鉛色の指輪をはめた細い指で、化け物を指し示した。
「バナーニア、イシュゼム！」
オーリューンの指先から金色がかった白い光の線がほとばしった。炎ではなく、純粋な光と熱の塊のようだ。熱線は、蛭蜥蜴を斬り続ける私とハマームジークの肩口をかすめ、岩の顔へと突き刺さった。頬を熱気が襲い、髪がちりちりと焦げる。飛びかかってきた桃色の怪物は、熱線に貫かれ、煙をあげて宙空で悶絶した。
光束は呪われた顔の額に命中した。
膿が蒸気をあげて飛び散った。凄まじい異臭が私たちの鼻を襲う。岩が溶ける臭いではなかった。人肉が焼ける臭いに極めて近い、それを数倍ひどいものにしたような悪臭だった。
しゅうしゅうという音と共に、黄ばんだ煙が立ち込める。蒸気の戸帳の向こうで、岩の顔の額からは、大量の膿汁が吹き出しているのが見えた。その表情は、苦痛というものをこの化け物も感じることができることを示している。大きく開かれたままの口からは、桃色の蛭蜥蜴が、身体を半分まで吐き出された姿でのたうち回っていた。
「バナーニア、バナーニア、イシュザム！」
魔女の小さな唇から発せられたとは思えない強い声の呪文が、洞窟に響いた。指先から走る光の束が、さらに輝きを増した。私とハマームジークは熱さに耐え切れず、壁際に後退さる。
オーリューンは細い腕をゆっくりと下に向けて動かした。光と熱の刃はその動きに合わせて、岩の顔を真二つに斬り裂いていく。もうもうたる蒸気と悪臭を放つ腐汁が、果てることなく吹き出して、あたり一面を汚していく。顔は苦悶に歪み、吐き出しかけていた奇形のものを歯のない口で噛みつぶした。汚れた桃色の粘着質のものが飛び散る。
女魔道士は、化け物の顎まで下ろした光束を一気に額まで振り上げた。岩肌の中にあった薄皮がはじけたかのように、熱線がつくった巨大な傷口から、黄緑と桃色、それに紺や赤が混じった、どろどろの汚物が溢れだした。後から後からそれは流れ出し、洞窟の床を埋めていった。
中身を失った岩の顔は、白緑色の黴の塊のようにしぼんで、自らの腐ったはらわたの上に浮かんでいた。それは、文字どおりの巨大な死面だった。
「見ろ！穴がある。先に行けるぞ」
ハマームジークが悪臭に鼻をつまみながら、前方を指差す。今まで岩の怪物が塞いでいた道の向こう、左側の壁にぽっかりと丸い穴が開いていた。大男は、足元の汚濁を気にしながら、穴の方へ近づいた。詩人志望の繊細な戦士は、この悪臭渦巻く死骸?本当にそう呼べるのだろうか?の溜まり場には、もう一刻も我慢ならないようだった。
「ふむ、地図に間違いはなかったようじゃな」
僧侶も隠しから出した地図を一瞥し、巨人の後を追った。
私はオーリューンに目線を戻した。先刻、生ける亡者を焼き尽くした術と、おそらくは同程度、あるいはそれ以上の強力な怪しの力を解放したにもかかわらず、小柄な魔女は眠りに落ちることなく、しっかりと立っていた。むしろ、まだその体内には多くの活力を蓄えているようで、黒い瞳の縁には金色の光の輪がかすかに、燃えているようにさえ見えた。「オーリューン、大丈夫か」
私の声に、初めて我に帰ったかのように、彼女は頭を振り、深く大きな呼吸をした。それから、それがまるで自分の身体であることを確かめるかのように、細い指を握ったり開いたりした。そして、少女のような仕草で、頬に手をあて首を傾げた後、私に答えた。
「変だわ。奇妙な力があるわ。身体の芯が熱持ってるみたい。チャンザイノ、何の術をかけたの！」
ジャクレンの僧は、ダーチェン人と穴の向こうをのぞき込みながら答える。
「お主の中にある力を、何と言ったらよいかのう、一時だけ高める術じゃ。邪悪な力ではない、お主自身の持っている力を、言ってみれば煮詰めて発揮させる、そういう術じゃよ。時間がたてば元に戻る、害はない。ただ……」
「おい、坊さんよ、下にどうやら河が流れているらしいぞ」
ハマームジークが穴に半身を乗り出して言う。私の耳にもはっきりと流水の音が聞こえてきた。
「ただ、何なのよ」
チャンザイノは穴からこちらに向き直って、しわの多い顔に苦笑ともとれる表情を浮かべた。
「ただしだ、ちょっとした悪い結果も招く。つまりだ……この術をかけられた者は……ひとつ歳を取る」
「何ですって！歳を取る！」
オーリューンは形の良い目を吊り上げて叫んだ。だが、すぐにその声は大男と老僧の短い叫び声にかき消された。がらがらという岩が崩落する音が響き渡り、二人の姿は穴の向こう側へ吸い込まれた。
「ハマームジーク！チャンザイノ！」
大きな水音が答えた。私たちは落ちてくる岩を避けながら、二人の名を呼んだが、ぞれは怪物の死骸で敷き詰められた洞窟に不気味な響きをもって谺するだけだった。
７
あたりを闇が包んだ。黄衣の僧侶の杖が灯していた青い光はもうないのだ。岩の死面だけがぼうっとした青緑の燐光を放って、足元に拡がっていたが、それも見る間に弱々しくなり消えていこうとしていた。
「ランケン、どこにいるの？」
闇の中からひどく不安気な細い声が聞こえた。
「君の右斜め後ろ五歩くらいのところだ。そのまま動くな。僕がそっちに行く」
私はチャンザイノに食ってかかっていたオーリューンの姿と位置を頭に思い浮かべ、前に進んだ。足元を埋める蛭蜥蜴の死骸と膿汁に沓底がすべる。転べば、たちまち方向感覚を失ってしまいそうだ。
「オーリューン」
「ランケン、ここよ」
「手をのばしてくれ」
私は五歩前へ歩き、そこから左に一歩動いた。手をのばしたが、宙をつかんだだけだった。
「オーリューン、どこだ」
「ランケン、ここよ、はやく来て」
私は少女のような頼りない声を手操って、慎重に歩いた。さらに三歩ほど左に行くと、か細いが暖かい身体が腕の中に飛び込んできた。
炎の術を操る魔女は、信じ難いことに震えていた。私は衝動的に彼女を抱きしめた。「真っ暗なところは好きじやないわ」
彼女は私の胸に向かってささやいた。
「魔女というものは、いつでも真っ暗な穴蔵で、洞窟蝙蝠と黒蜥蜴の煮込みを作りながら、暗闇の王と黒い魂のやり取りをしているものかと思っていたけど」
「いろんな魔女がいるのよ。あなた三文小説の読み過ぎだわ」
勝ち気な台詞はすぐに戻ったが、私の腕の中からはまだ出る気はないようだった。私も腕の中の華奢な身体の感触をしばらく楽しむことにした。
「松明は持っている。火を付けられるか」
「できるわ。チャンザイノの変な術のおかげで、全然、疲れを感じてないの。力が身体の中に渦まいている感じがするわ」
私は背中の革袋から小振りの松明を一本引っ張り出した。チャンザイノによると、ジャクレン寺院秘伝の特別な油が染み込ませてあって、一昼夜燃え続けるという代物だ。
オーリューンは渋々私から離れて、小声で呪文を唱えた。闇の中で指輪の黒い石が鈍く赤く光った。小さな火花が飛び、松明に火が灯った。
燈色の柔らかい光があたりを照らしだした。目の前にいるのは、闇という原初の恐怖に抗し切れずにいるひとりの女だった。僧侶の術のせいか、疲労の影はなかったが、表情にはまだ不安が暗い影を宿していた。私は彼女を抱き寄せ、黒髪を撫でた。岩室には、名状し難きものの屍臭が渦巻いていたが、その汚臭の中に彼女の甘い香りがひとすじの見えない霧のようにたなびいていた。
私は唇を重ねたい衝動に駆られたが、残念なことにその前にするべきことが、明らかにたくさんあった。
二人が落ちたときには水音が聞こえた。河か湖に落ちていれば助かっているかも知れない。
私たちは、崩れる岩を気にしながら、ぽっかりと口を開けている岩穴までよじ登った。水音が大きくなる。足元では小さな石が次々に崩れて転がり落ちていく。
眼前には巨大な空間が拡がっていた。差し渡しは二百イート（約六十メートル）、高さは六十イートほどだろうか、大きな円形劇場のような洞窟だった。ただし、観客席はない。周囲は切り立った絶壁になっており、私たちが顔を出している穴は、そのちようど真ん中くらいの高さのところにある。頭上には無数の鐘乳石が氷柱のように垂れ下がっている。
絶壁の下には、河が流れている。幅は十五イートほど、流れは速く、水は逆巻き、岩壁に当たっては白い飛沫をあげていた。私たちの向かい側の壁の上部からは滝が流れ落ちている。滝壷はこの岩室の半分ほどの広さを占める小さな湖のようになっており、河は絶壁の下を一周して、滝のすぐ脇の壁に開いた黒い穴に吸い込まれていた。
私の持っている一本の松明だけでは、こんなことはもちろん、見て取ることはできない。洞窟の中には不可思議な青白い光が溢れていたのだ。
光は水と岩から放たれていた。流れる水はまるで砕けた宝石のかけらを大量に流し込んだかのようにきらきらと青い光を放ちながら流れている。奥の湖は湖底に巨大な金剛石を抱いているかのように輝いている。
天井から突き出す白い石の氷柱もまた、青自い燐光を放ち、淡い光の柱のように見える。眼下の岩肌も青白い濃淡が、不規則な斑模様を描いており、仄かな光を発していた。
私たちは、しばらく言葉を忘れたように、この地底の光る空間を見つめていた。
ハマームジークならこの絶景を見て、どんな詩をつくるだろうか。彼とジャクレンの僧侶の姿はどこにもなかった。
「さて、どうするかだ」
「私、地図を持ってるわ」
オーリューンは腰に下げた布袋を探ると、四つ折になったまだ真新しい紙を取り出した。「合議の時、頭の中に書き写したのよ。帰って来た兵士の話も参考にして作ったのよ」「素晴らしい。魔女というものは……」
オーリューンは私の口に細い指を押し当てて、軽口を押し止めた。
「あなたの冗談は下品じゃないけど、面白くないわ」
「ふむ、そんなにはっきり言われたのは初めてだ」
「変な人だわ。ロラストの山の向こうじゃ、みんなそういう口のききかたをするの？」「君はきれいで、とても魅力的だ」
「そんなにはっきり言われたのは初めて、と言いたいところだけど、そういう台詞は何十回も言われてるわ」
「すごい自信だ。魔法とどっちが得意なんだ？」
「何が？」
「言い直す。火の魔術と男を灰にする魔術だ」
「後の方に決まってるわ」
私たちは互いの首に手を回し、くちづけを交わした。彼女の薄く小さな唇は、暖かくとても柔らかかった。
「見て、階段と橋よ。誰がつくったのかしら」
オーリューンが足元を指差した。私たちが顔を出している穴のすぐ下から、岩壁を削って作った狭い階段が下に延びていた。それは光る河の水際まで続き、そこから人ひとりが渡れる程度の幅の石作りの橋が河を横切っている。ひびわれ、あちこちが欠けていたが、明らかに何ものかが作った代物だった。
私たちは階段に足を踏み出した。白く光る岩は崩れやすく、絶えず小石が河面に落ちていく。この石段の最上部が崩れて、大男と僧侶は河に落ちたのだ。幾度も滑り落ちそうになりながら私たちは三十イートほどを降りて、河岸の岩場の上に降り立った。空気は冷たく、水飛沫も氷のように冷たかったが、掌には汗がにじんでいた。
あたりには人影も、彼らのものらしい持ち物もなかった。河は身近で見ると、より激しく渦巻き、より速く岩の間を流れていた。水は澄んでいたが底は見えない。思いのほか深いようだった。
私たちはもう一度地図を広げた。
「この洞窟の奥に通廊があって……」
「チャンザイノの話では、その奥の石室にペリニューンはいるらしいって」
私たちは顔を見合わせた。私もオーリューンも決して臆病者ではない。だが、悪戯に自分の命を無駄にするほど、愚か者でもなかった。
オーリューンは、河面に向かって、何事かつぶやき印を結んだ。炎の精霊の弔いの祈りは、私には理解できない言葉だった。私には、崇める神はいない。光の粒が飛び交う河面に、二人がそれぞれの神のそれぞれの天国で、優雅にすごせることだけを願った。
私たちが階段の上の穴を揃って見上げた時、そこに顔を出したものがあった。洞窟の青白い光を浴びて、そいつの顔はいっそう白く、そう、蛆虫のように白く見えた。乱杭歯が並んだ大きな口からはよだれが滴り落ちている。朝飯の時間というわけなのだろう。
屍食鬼は獲物の姿を求めて赤い小さな目をぐるぐるまわしていた。もうひとつ、岩穴から醜い頭が現われ、そいつはすぐに私たちの姿を見つけた。そいつは、仲間を押し退けて穴から身を引きずりだし、転がるように無器用な足取りで階段を降り始めた。すぐにもう一匹も後を追う。大きな足の爪が、脆い石段の端を崩し、そいつは身体の均衡を失って落ちた。途中の岩棚にあたり、赤い血を撒き散らしながら水流の中に消える。
穴からは次から次へと白いおぞましい顔が現われ、我先にと石段を降りてくる。
最初の一匹が五イート程の高さから爪をのばして飛びかかってきた。私は剣を振り上げて奴の弛んだ腹に刃を突き刺した。異様に柔らかい手応えがあり、どす黒い血とはらわたが吹き出す。空中で爪を振り回して、奴は河の中へ飛沫をあげて落ちた。
二匹目からはそうは行かなかった。奴らは戦術も何もなく、ただ食物を求めて、石段を転げ落ちるように降りてきた。途中で落ちる奴もいるが、そんなことを意に介しはしなかった。何十本もの爪が私たちを引き裂こうと迫ってきた。何百本もの牙が私たちを食いちぎろうと迫ってきた。
「橋を渡るんだ！向こう岸の袂なら一匹ずつ相手にできる！」
青紫や赤の血管が浮き出た屍食鬼の首を斬りはねながら、私は叫んだ。
オーリューンはすぐに行動に移ったが、走って渡るわけにはいかなかった。迫持型の橋は幅が二イートしかなく、おまけに小柄な魔女が一歩踏み出す度に、どこかが崩れて水飛沫をあげた。
屍食鬼どもは今や河縁に溢れていた。私は力の限りに刃を振い、化け物の蛆虫のような身体を折り裂いたが、奴らは折り重なる仲間の屍を踏み台にして石段から飛びかかってきた。私は機械仕掛けにでもなったかのように、戦い続けた。剣は柄まで朱に染まった。
「ランケン、あなたも、はやく！」
オーリューンの悲鳴のような声が水流の向こうから聞こえる。私は一イートのところに迫った奴のしわのよった喉に剣を突き通し、後に続く奴らにそいつの身体を力一杯押しつけた。後ろの二匹ばかりか足元の血に滑って、河に落ちる。
一瞬、攻撃が止んだ隙に、石橋に駆け寄った。最初の一歩で足元の石が崩れた。刻まれた奇怪な龍とも巨大な蛆とも見える怪物の姿が半分なくなって、水に飲まれた。
屍食鬼どもは、滑稽とも見える危なげな足取りで橋に近寄ってくる。向こう岸ではオーリューンが両手を額の前で組み、唇を動かしていた。バナーニアの力はこの不可思議な光に満ちた洞窟まで、届くだろうか。
私は意を決して、走った。橋は私が足を下ろす側から崩れる。幅が半分ほどになってしまう。
後数歩で向こう岸に着くというとき、背後で大きな水音がした。追ってきた屍食鬼が橋の中央から河に落ちたのだ。その衝撃で足元の石が大きく崩れた。
足の下に何もなくなる直前、私は向こう岸目がけて、跳んだ。
岩塊にしがみつき、身体を引きずり上げる。白く光る岩棚に身を転がして振り返ると、石橋は十匹ばかりの化け物といっしよにばらばらになって崩れ落ちた。大きな水飛沫が、宝石のような光をあげて飛び散り、屍食鬼どもは甲高い鳴き声をあげて、水に飲まれていった。
「エルス、バナーニア、イム、オム、セルス……」
オーリューンの呪文のつぶやきが次第に大きくなっていく。青自い光が満ちる空間に、金色と朱色の霞のようなものが渦巻き、魔女の身体に吸い込まれていくのが見えた。それは時として生き物のような形を取るかにも見え、どこからともない宙から出現し、女妖術師めがけて収束していくのだ。
「バナーニア、アルゾ、エム！」
炎の魔女は、口許にあてた両手を勢い良く前方にのばした。まるで接吻を投げるかのように。
彼女の唇からは灼熱のくちづけが、飛び出した。巨大な火炎の流れが吹き出し、向こう岸にひしめいている屍食鬼を襲った。炎は洪水のように、何十匹もの化け物どもを一気に押し包んだ。
恐ろしい悲鳴が巨大な岩室の中に谺する。耳を裂くような高い声と牙をがちがちと噛み鳴らす音が響き渡る。炎は意志を持った生き物のように、石段を駆け上がり、鈴生りになっていた怪物どもを残らずその中に飲み込んだ。黒焦げになった体躯が石のように河に落ちていく。
炎は数十匹の屍食鬼どもを焼き尽くすと文字どおり魔法のように消えた。後には煙を上げる炭と化した死骸の山だけが残った。
８
「気持ち悪いわ」
オーリューンは焼け焦げた死骸が重なる向こう岸に背を向け、口許を押さえた。屍食鬼の骸はなまじ人間と近い姿形を持っているだけに、より凄惨な印象を与えた。私は掌の血を拭うと、彼女の細い肩を抱いて岩場に腰を下ろした。しばらくそうしていると、次第に彼女の肩の震えはおさまってきた。
「君は妖術師には向かない」
「どんな道が本当は向いているかなんて、後からわかるものだわ。大金持ちになって何不自由なく生きても、死ぬときには後悔する人もいるわ」
「その台詞からすると、占い師には向いているかも知れない」
魔術師は小首を傾げて、私の顔をちらりと見た。小さな唇の端を曲げて笑みを作る。
「母親はシンデックで占い師をやっていたわ。硝子玉と、絵札を組み合わせたやつよ。良く当たるのよ。私も仕込まれたわ。でも、もっと深いものを知りたくて、ヘヴレットに弟子入りしたの」
「ヘヴレット？」
「西部では知られていないのね。東海岸では結構有名な魔道士よ。弟子が五十人もいて、シンデックの魔術師組合を牛耳ってるの。イリヴァーツとの戦では双方に弟子を送り込んで、漁夫の利を得てるわ」
『東の玉座』を巡る戦が絶えない東部では、強大な力を持つ魔道士の存在が戦いの勝敗を決することがあるとは、聞いたことがあった。
「商売の才覚もある？」
「そう。魔道士というと森の奥に小屋を立てて隠遁生活を送るものだとあなたは思ってるかも知れないけど、現生の富と名声と悦楽が欲しい人もたくさんいるのよ。ヘヴレットもそのひとり。私は才能があったから、二年の間に弟子の中でも力のある方になれたわ」
「それで独立したってわけかい」
「ちょっと、違うわ」
オーリューンは言葉を切って、肩をすくめた。小鼻を膨らませて、自嘲気味に笑う。
「世にも陳腐な三文喜劇よ。ヘヴレットは私に手をつけようとしたのよ。百三十八歳なのよ、あの爺さんは！まあ、あっちの方は淫魔と研鑽を積んだせいか、ご立派なものだけど、私はご免だったわ」
「それで、師匠のお怒りをかって、追い出されたと」
「ふふん、ちょっと、違うわ」
オーリューンは少しずるそうに、にやりと笑った。
「あんまりしつこいから、落ちた振りして床入りしてね、師匠直伝の火の魔術を使ってあげたのよ。お陰様でこんなに上達しましたってね。あそこから煙突みたいに煙をあげて、水、水って叫びながら、寝床を飛び出していったわ」
「世にも恐ろしい話だ」
「その後は、黄金街道沿いをふらふらさまよって……修行も少しはしたわよ……色々とね」 魔女は光る滝の流れを見つめた。そうして、しばらく黙っていた。私は彼女の短い黒髪にそっと触れた。
「あなた、変わってるわ。私にはわかるわ。あなたを占えばとんでもないことが出てきそうよ。ねえ、誰かを愛したことあるの？」
「そういう風に思っていたことはある。今となってはそう言っていいのかどうかはわからない。それから、僕の運勢は占わないでくれよ。勝手に先行きを決められるみたいで嫌なんだ」
「神様はいらない、愛は知らない、占いは嫌い、ひとりが好きなのね」
「君のことも好きだよ」
オーリューンは拳で私の頭を軽く叩いた。
「私たち、二人とも大物だわ。こんな地面の底の穴蔵で、命がどうなるかもわからないのに、いったい、何をやってるのかしら」
「男と女にとって極めて普遍的なことさ。地の底でも変わりはしないさ」
私はオーリューンの細い腰を引き寄せ、唇を重ねた。彼女の小鳥のように軽い身体は震えていたが、それは恐怖や嫌悪感のせいではなかった。
「ここなら、安心だ」
横たわった彼女の薄い胸に手を這わせながら、私はつぶやいた。
「え……何が？」
「水はすぐ側に幾らでもある」
オーリューンは私の指に歯を立てた。
「ここは何かを祀る場所だったのかもしれない」
私は足元に続いている浅浮き彫りがなされた石板の列を指差した。擦り切れた石畳の路が橋の袂から真っ直ぐ滝壷へと続いている。
「逆七芒星形が刻まれてるわ。『失われた神々』の印ね」
オーリューンは黒い酒落た服の褶を直しながら言った。
「君はこの奇怪至極な絵文字が読めるのかい」
女魔道士はひどく恐ろしいこと聞いたかのように首を振った。
「読める奴がいるとしたら、陽の下を歩ける生き物じゃないことは確かだわ」
地図からすると、滝の後ろ側に抜け道があるようだった。私たちは、太古の祭壇へと続く道を進んだ。石畳をつくっている石板は、他の部分の岩と比べて、一層幽鬼じみた青白い光を放っている。
石板の列は滝壷まで続きそこから左右に分れて、光る湖の岸をぐるりと回っていた。正面では五十イートの高さから輝く水が、轟音をたてて流れ落ちている。泡立つ滝壷は青い光の華のようで、金剛石の粒を撤き散らしている。
滝の正面の岸辺には石碑のようなものが立っていた。人の背丈の倍ほどはある、ほっそりした不規則な多角柱で、半ば硝子のように透き通った青く光る石でできている。表面には七芒星形や人間には読めない詰屈な文字らしきものが彫り込まれている。碑全体には、蛇のようなひょろ長い体躯を持ったものの彫り物が絡み付いており、頂部にはそのものの頭らしきものが載り、こちらを見下ろしていた。
「この化け物がここの御神体なのかい」
「そうみたいね」
私たちは言葉少なに、その異形のものの像を見上げた。
「龍……なのかな」
「芋虫のお化けみたいにも見えるわ」
透き通る石でつくられた彫像は、長大な年月、雫と湿気に晒されてきたせいか、磨耗し崩れかかっており、はっきりとした形はつかみ難かった。それでも、長いその身体には幾つもの体節のようなものがあり、また鱗状のもので覆われているのもわかった。短い脚とも触手ともつかないものが何本も生えており、翼とも鰭とも見えるものもついている。頭は前半分が欠け落ちており、容貌はよくわからなかったが、残された部分には巨大な牙の並ぶ口と虫のような丸い目が幾つもついていた。
「ペリニューンとやらは、『失われた神々』とも通じているのだろうか」
「さっぱり、わからないわね。チャンザイノの説明も、強大な力を持った魔道士だというだけで、氏素性はあかそうとしないし……」
「先に行くしかない。あそこに素敵な橋がもう一つある」
湖の右端、河に水が流れ込んでいるところに、先刻崩れたのとそっくりな石橋がかけられていた。こちらもかなり傷んでいる。
私たちは手を取り合って、ぐらぐらする橋を渡った。どうにか、橋は二人の重みを支えて、崩れずにいてくれた。
岩壁にそって、細い道がつけられて、滝の裏側に続いている。滝壷の裏は深く岩がえぐられたようになっており、迫持状の天井には、お馴染みの星形をはじめとして様々な奇怪な印形が刻まれていた。
「この洞窟、全体がつくられたものじゃないかしら」
オーリューンが周囲の不気味な絵文字を眺めながらつぶやいた。
「こんなきれいに丸くなっているのは不自然な気がするわ。それにこの河も、造園されたみたいじゃない」
「さぞかし、穴堀人夫が入り用だったことだろう」
「人間には無理だわ」
私たちは顔を見合わせ、うなずきあって、その話題を打ち切った。
滝の裏はかなり広めの隧道になっていた。そこからは岩もまた通常のものに戻り、私たちは松明を掲げて進んだ。
二十イート程進んだとき、背後の水音がかき乱れた。何か重いものが水面を打つような音がしたのだ。私たちは振り返り、隧道の入口にかかる水の垂れ幕を見遺った。
逆光になって、よくはわからなかったが、巨大な赤黒い長い影が、滝をさえぎった。飛沫を散らせたそれは、蛸の足のようにのたくり、すぐに滝壷に姿を消した。
私たちは足早に通廊の奥を目指した。
９
程なく道は左に折れた。そこから先は天地左右とも、浅浮き彫りのある四角く切った石で組まれている。光る洞窟で異形の神が祀られていた頃は、神官たちがここを出入りしていたのかも知れない。
私たちは松明の明かりの下で、もう一度地図を閲いた。
「この通路の右側に部屋が三つあるはずよ。その一番奥から細い筋が描いてあって、山の中腹に出ている。これが地上に続く道のはずだわ」
オーリューンが地図を指で辿った。
「ペリニューンは、この三つの部屋のどこかに陣取っているらしいと、チャンザイノは言ってたな。ということは、最後の関門として立ちふさがってることもあるってことだ」
魔女はうなずいた。私は剣を握り直し、彼女は鉛色の指輸の位置を直した。ペリニューンが何者にせよ、今まで遭遇した妖鬼どもを自在に操っているのだとすれば、相応の力の使い手ということは間違いない。
私たちは最後の扉を目指して、歩きだした。背後の水音ももはや届かなくなり、耳に入ってくるのは、松明が静かに燃える音と、二人の足音だけだった。生きるものの気配はなかった。
「何か、感じるか」
「何かしらね、すごく混沌とした流れを感じるわ。とても強い、でもとても乱れてる力よ」
「乱れてる？」
オーリューンは細い指を動かして、私にはわからない印を宙に描いた。
「心がかき乱されているのよ。占いをやっていた頃、お客からこんな気を感じたことがあるわ」
「妖術使いも占い師のところに来るのかい」
「普通の人よ、恋に狂ってたけど」
私が何か答えようとしたとき、行く手右側に扉が見えた。青銅を太い鋲で打ち付けてある、がっしりした重い扉だったが、木の部分は年月に朽ち果て、隙間が開いていた。
突然、どすんという大きな音がした。扉が内側から破られ、木片とともに何かが飛び出してきた。それは私たちの前をごろごろと転がり、反対側の壁に当たって止った。追うように、部屋からは大きな影が現われた。
「ハマームジーク！」
ダーチェン人は巨躯のあちらこちらに傷を作り、血を流していたが、その並外れた活力は失われていないようだった。手には見慣れぬ古びた意匠の戦斧を握っている。
「気をつけろ！まだくたばっていないぞ！」
壁際で崩折れていたものが、ゆっくりと身を起こした。ハマームジークと同じくらいの背丈がある。横幅はずっと小さくほっそりとした身体に、ぼろぼろの赤や金がはいった長衣らしきものをまとっている。
そいつはどうやら人間に近い姿を持っていた。ただし、異常な悪意をもって戯画化されていたが。頭と胸は常人の三倍程の大きさがある。異様に膨れた後頭部は背中の瘤状の膨らみとつながっている。のっぺりとした低い額の硬質化した皮膚には気味の悪いひびわれが走っている。下顎は胸まで属くほど肥大しており、鱶の口を逆さまにでもしたような巨大な口には無数の牙がむき出しの歯茎から無秩序に生えている。目鼻は、顎の付属物のようにひと塊になっており、真っ赤に充血した小さな眼球は、憎悪と源初の欲求に煮えたぎっていた。
手足は細く長かったが、大木の根のような筋肉がつき、五本の指には一イートはある鈎爪が、毒とおぼしき液汁を滴らせている。尻からは汚らしい桃色の鼠のような尾がのび、それは地上でのたうつ蚯蚓のように絶えずくねくねと蠢いていた。
怪物は奇妙に人間臭い動きで、頭をはっきりさせるように左右に振り、最初にハマームジークを、それから私たちをにらみつけた。
そして、信じ難いことに、奴はしゃべった。巨大な顎を不目由そうに動かし、どす黒い舌をちらつかせて唾液を飛ばしながら、明らかに言葉とおぼしき音を発したのだ。もちろんそれは、誰にも解することのできない言葉ではあったが、恐ろしい悪意がこもっていることだけは、感じられた。
化け物の動きは猫のように素早かった。稲妻のように爪を閃かせ、私たちに飛びかかってきた。
私はオーリューンを後ろに突き飛ばし、尻餅をつきなから、奴の腕を蹴り上げた。怪物は私にのしかかり、爪で私の首をかき切ろうとする。横に転がり、爪をよける。石の床を鈎爪がこすり、嫌な音をたてる。
奴は私が起き上がるよりもはやく、爪を突き立ててくる。私は土埃にまみれて、逃げ続ける。爪が肩をかすめ、焼けるような痛みが走る。
「くたばれ、大口野郎め！」
巨人の叫びと重いものが空を切る音かした。怪物はすざまじい絶叫をあげ、弓形に反り返る。見ると、化け物の背中には巨大な戦斧が突き刺さっていた。ダーチェン人が、剛力にものを言わせて、手斧のように投げ付けたのだ。
怪物は背中に突き刺さった斧を何とか抜こうと、のたうち回っていたが、どうしても、手が届かなかった。どす黒い血が雨のように降り注ぐ。私は立ち上がり、袈裟懸けに斬りつけた。ぼろのような長衣が裂け、鮮血が吹き出す。
『大口野郎』はうつ伏せに倒れて、口から黒い舌をはみ出させて、動かなくなった。蚯蚓のような尻尾だけが断続的に蠢いていた。
「無事だったのね。詩人にしてはたくましいわ」
「素敵なお嬢ちゃんと学士様をこんな所に置いて、くたばるわけにもいかないだろ」
オーリューンはちらりと私の顔を見て、少しばかり、申し訳なさそうな顔をした。
大男は、怪物の背から戦斧を抜き取り、掲げてみせた。
「どうだ、なかなかの業物だろう。ちっとばかし軽いが、持ったときのつり合いは最高だ」
もちろん軽いというのはハマームジークにとってと言うことで、常人では持ち上げることすら難しそうだった。柄まで金属でできており、全体に神秘文字の浮き彫りがなされている。
「呪いでもかけられてなければいいがな」
ハマームジークは眉間にしわを寄せ、もう一度斧を柄から刃先まで見直した。
「お嬢ちゃん、どうだい、鑑定でもしてくれよ」
女魔道士は柄の絵模様を指でなぞり、目を閉じた。
「特に変なものは感じないけど……この場所の気自体が乱れているから、よくはわからないわ……多分、大丈夫、としか言えないわ」
大男はうなずき、大きな肩をすくめた。
「チャンザイノは無事かい」
「命にかかわることはないだろう。こっちだ」
ハマームジークは部屋の中に私たちを案内した。そこは石作りのかなり大きな部屋で、何らかの儀式に使う道具を置いておくための場所のようだった。壁際には朽ち果てた棚板が幾重にも重なり、金銀、青銅などで作られた器や燭台、奇怪な装飾のある刀剣、何に使うのか見当もつかない祭器の類が大量に転がっていた。
部屋の中央には朽ちた板きれや行李を乱雑に重ね合わせて作られた寝台のようなものがあり、そこに黄衣の僧侶が座っていた。左の二の腕に長衣の裾を裂いた布を巻いている。包帯にはかなりの血がにじんでいた。
「お主たちも無事であったか。ふふん、てっきり儂らを見捨てて逃げ帰ったかと思ったぞ」
チャンザイノは腕の怪我など意に介さないようで、灰色の目を細めて笑った。
「ちゃんとお祈りはしといたよ。法力で水からあがったのかい」
「そううまくはいかんさ。河に飲まれて、気がつくと薄暗い岸辺に流れ着いとった。お主ら光る滝を見たであろう。あの巨大な洞窟の裏側か、さらに地下深くに小さな湖があるのじゃ」
「ともかく、助かったかと思ったらあの化け物だ。後ろからぶっ叩かれて、引きずられここに引っ張り込まれた。奥にも入口があるんだ。そのがらくたの陰だ」
「これは何なの？」
オーリューンが僧侶の座っている寝台のようなものを指差す。
ジャクレン僧は、杖でこんこんと、板切れを叩き?彼は河に落ちてもそれを失くさなかったのだ?答えた。
「生贄の台じゃよ。はっきりしたことは言えんがの、あの化け物はここの神を祀っていた神官か何かの成れの果てじゃろう。如何なる事由で、あのような姿になったのか、はたまた、もとよりあの異貌だったのか、それはわからんが、いずれにせよ神に供物を捧げるということだけは、忘れてはおらなかったらしいのう」
ハマームジークは腕組みをして、唸った。
「俺がその忌々しい寝床で目を覚ますと、あの化け物めが俺のはらわたを引きずりだそうと爪を構えてる所だったってわけさ。坊さんは隅で蛸みたいにのびてるし、戦斧は河で失くしちまうし、ブリュンベアルみたいに取っ組みあうしかなかったってわけだ」
「ブリュンベアル？」
オーリューンが聞き返す。
「イオロープの山ん中に住んでるでっかい獣だよ。そうだな、この部屋に入りきらないくらいでかい。三十イートはある奴だ」
「そんな馬鹿でかい獣が本当にいるの？」
ダーチェン人は鼻白んで、青い目を吊り上げた。
「俺の言葉が信用できないのか。よし、ならばブリュンベアルを歌った歌がある。まだ親父の手伝いをしていた頃につくった奴だが、そう悪い出来じゃあない。聞かせてやろう」
詩人志望の戦士は腰帯から鉄槌をはずし、壁際に積まれている祭器の中から頑丈そうなものを探し始めた。
「ねえ、吟遊詩人さん、疑ったりして悪かったわ。そんな生き物見たことなかったから、聞いてみただけよ。歌は王宮に戻ってから、宴の時にでも…」
ハマームジークは魔女の言葉には耳を貸さずに、青銅でできた円盾を引っ張り出した。
「さあ、聞かせてやろう。題して、『ぬばたまの森の主に捧げる連歌』だ」
巨人は猛烈な速さで三連の拍子を叩き付け、迷宮全体に轟き渡るのではないかという大音声で歌い始めた。詩はダーチェンの言葉なので皆目わからなかったが、巨大な野獣に対する畏怖と憧憬のような感情を歌っているらしい。
私には彼の歌がそれほどひどいものとは思えなかったが、オーリューンは耳をふさいだ。チャンザイノは眉根を寄せて、警告らしきことを発したが、大男の歌声にかき消されて何を言っているのかわからない。
黒衣の魔女は、人指し指をたてて、口の中で何事かつぶやいた。指先に小さな火花が散る。
オーリューンが腕を振り上げようとしたとき、巨人の歌をもかき消すかのような、重く低い唸り声が聞こえた。ハマームジークは鉄槌を振り回す手を止め、円盾を置いて、戦斧を握った。チャンザイノは寝台から飛び降りて、奇妙な手つきで数珠をまさぐる。女魔道士は指先に火を灯したまま、次なる呪文の句を唱え始めた。
もう一度、大きな唸り声がした。それから部屋が大きく揺れ、洞窟の奥に面する壁にひび割れが走った。
私たちは反対側の壁へと後退する。石壁がはらわたを奮わせる音と共に崩れ落ち、巨大な黒い影が現われた。
「ブリュンベアル！」
オーリューンが思わず呪文を中断して叫んだ。
「まさか！ブリュンベアルは獣だ、化け物じゃあない！」
先刻倒した怪物が神官の成れの果てだとすれば、こいつは神官の飼っていた番犬か何かの成れの果てなのかも知れない。首の周りの触手に引っ掛かってぶら下がっているのは、風変わりな意匠だが、鎖の類のように見える。
出自がどうであれ、今、目の前に現われたものは化け物以外の何物でもなかった。
大雑把な身体付きとしては、四つ足の獣のものを保っていたが、肩から胸にかけてが異常に大きく、体毛は一本もなかった。ぬめぬめと光る肌は青白く、あちこちに青緑色の腐敗した腫のようなものができている。ひどく痩せていると言うべきなのだろうか、それとも、こういう生き物なのだろうか、体表にはくっきりと骨の形が浮かび上がっており、きしむような音をたてて、ぬめる皮膚の下で骨が動く様は実に気色悪いものだった。
短い首の周りには鞭のようにしなる細長い触腕が数十本生えており、一本一本が別の生き物のように、勝手な方を向いて宙にくねっていた。手足には鳥の足のような鈎爪が生えていたが、長さがまちまちであり、奇形的な印象を与える。頭は犬か何かの髑髏に蛸の皮膚を乱雑に張り付けたような代物で、何本か欠け落ちた牙が大きな口からはみ出すように生えている。眼窩の奥深くに濁った黄色の目が冷たい硝子玉のように光っていた。
頭から、百足のような節を持った尾の先までは、優に四十イートはある。
「何だ！こいつは！」
ハマームジークは叫びながら、戦斧を振り上げ、のびてきた触手の一本を叩き斬った。傷口からは紫がかったどす黒い血が吹き出す。
「化け物だよ！それ以上説明があるものか！」
私がそう答えると、チャンザイノが真面目な顔でうなずいた。私はジャクレン教徒の酒落心に感心しながら、唸りをあげる触手を斬り払った。
化け物は鈎爪と牙と触手を、次々に繰り出し、私たちを餌食にせんと迫ってくる。その動きには、どこか壊れた操り人形のような不自然なぎごちなさがあったが、肉食獣の鋭さが失われているわけではなかった。
ダーチェン人と私は、のたうつ触手を十本ばかり斬り落としたが、奴の歪んだ体には血がにじむ程度のほんのわずかの傷を負わせることしかできなかった。巨大な相手に対し私とハマームジークの刃はあまりに小さすぎた。
「部屋から出るんだ！通廊に後退して、呪文を！」
オーリューンと僧侶はうなずき、一足先に退却した。
「扉の所で時間を稼ぐか！」
大男は突き出された怪物の鋭い爪を戦斧でなぎ払った。がっという音がして、火花が飛び散る。
「呪文を早口で唱えてくれることを祈ろう」
私たちも、浅浮き彫りのある通路に抜け出した。黒衣の魔女と黄衣の僧侶は滝壷へと続く曲がり角の所に立ち、神秘の言葉を唱えている。私たちは、扉の左右に陣取り、奴の追撃を待った。地下回廊は奴が自由に身を動かすには少しばかり狭すぎる。奴は私たちが待ち構える扉まで、巨体を運ぶのにいささか苦労していた。
薄汚れた白い触手が、扉を粉々にして飛び出してきた。化け物は地響きをたてて、狭い戸口に体当りをする。石作りの通廊の壁がぐらりと動き、浅浮き彫りが、ひび割れて剥がれ落ちる。二度、三度と巨大な衝撃が加わり、ついに扉のまわりの壁は崩れ落ちて瓦礫の山と化した。
奴は髑髏面を左右に振り、千もの金床と鉄槌を打ち合わせたような狂った雄叫びをあげた。
巨大な爪がダーチェン人と私を襲った。
私たちは瓦礫の山の影に転げるように逃げ込み、先鋒として繰り出されてくる触手を斬り払いながらじりじりと後退した。奴の体で私たちが傷つけられるのはほとんどぞの触腕のみだった。通廊の狭さと奇形的な体つきのために、奴の歩みは速くはない。それが私たちの命をかろうじて長らえさせてくれていた。
「呪文はまだか！後がないぜ！」
ハマームジークが舌打ちをする。魔道士と僧侶がこの世ならざる力を呼び出している回廊の角までは後二十イートもなかった。
化け物は私たちと背後の二人の姿も認めたのか、黄色い眼球の奥に冷たい炎を灯して、迫ってくる。
「伏せろ！」
チャンザイノの声が響いた。大男と私は滑り込むように石畳につっ伏す。頭上で巨大な鈎爪が唸りをあげた。
「エルス、バナーニア、ゼムル、イスト……」
魔女の姿が、滝壷からの青白い光の中に、黒い影となって浮かび上がって見えた。細い身体のまわりを金色の霞のようなものが取り巻き、渦を巻き、燃え盛っている。まるでオーリューン自身が炎となっているかのようだった。
「バナーニア、アボム、ニュークス！」
ダーチェン人と私の頭上を、朱と金と青紫の光の洪水が流れた。黒衣の魔女の全身から発せられた光の河は、決壊した堤から溢れた濁流のように、空中を、化け物めがけて凄まじい勢いで突き進んだ。
奴は光の河に飲み込まれた。白熱する光の泡のようなものが、幾つも吹き上がり、爆発する。何が起こっているのかは私たちにはよくわからなかった。ただ、朱と金と青紫の光の渦の中で、時折、奴の歪んだ体らしき黒い影がのたうつのが、見えた。
光の河は竜巻のようにぐるぐると奴の上で回り、闇の中に消えた。
化け物はうずくまったまま、動かなかった。
触手と尾は黒い炭となって、跡形もなく焼け落ちていた。体のあちこちが中から破裂して燃え上がったかのように、黒い大きな傷とも穴ともつかぬものが体中を覆い、新たな紫じみた血のようなものを流している。青白かった皮膚は真黒に焼け焦げ、炭のようになったり、剥がれ落ちて垂れ下がり、その下から何か桃色の肉のようなものを露出させていた。
「やれやれ、助かった。化け物もすげえが、お嬢ちゃんもすげえな」
「人を化け物といっしょにしないでね、鍛冶屋さん。もうこれ以上の術は知らないわ」
オーリューンは大きく肩で息をしながら、言った。オーリューンの顔には疲労の色が強く現われていた。先刻の術は、チャンザイノの法力の助力を得てもなお、彼女には手に余るものだったようだ。
「こいつは失敬」
大男は、怪物の残骸を信じられぬというように眺めた。
それが動いた。全身をぶるぶると奮わせ、ゆっくりと奴は身を起こした。炭となった皮膚や触手がばらばらと落ちる。紫がかった血が体中から滴り落ちる。眼窩の奥で黄色い目が、氷のような光を放つ。巨大な顎を開き、牙をがちがちと鳴らす様は勝ち誇っているかのようだった。
「どうなってるの？これじゃバナーニア自身を呼び出さない限り、倒せない。ほんとに化け物よ！」
オーリューンが絶望を込めて毒づく。
「お嬢ちゃん、そのバナーニアとやらを呼び出すには、後どれくらいかかる？」
「バナーニアを呼び出せる人間なんてこの世にはいないわよ！」
「とにかく、逃げろ！」
ダーチェン人が足元のおぼつかない魔女を肩にかつぎ上げた。私たちは通廊の角を曲がり、滝壷へと走った。怪物は、一歩一歩自分の体を確かめるかのようにゆっくりと、だが、執拗に追って来る。
「どうする？滝まで逃げてもその先がない」
私は走りながら誰へともなく、次の手を尋ねた。
「滝壷へ落とすか」
ハマームジークが答える。
「どうやって？」
「わからん」
「仕方がない」
チャンザイノが、独り言のようにつぶやいた。
「何だって、坊さん」
私たちはすでに滝のすぐ裏側まで来ていた。光る水が青白く私たちを照らした。化け物の半ば破壊された体は滝の青い光を浴びて、いっそう不気味な死の仮面となって、近づいてくる。
「皆、かたまれ。離れると危ないぞ」
黄衣の僧は短くそう言うと、数珠を握り、杖で中空に何かを描き始めた。私たちは、彼の側により、ジャクレンの聖句らしきものに聞き入るしか仕方がなかった。
怪物が迫ってくる。牙を打ち鳴らし、鈎爪で床と壁を削りながら、進んでくる。琥珀のような瞳の冷たい輝きか、背筋に寒気を走らせる。
化け物は最後の数十イートを、跳んだ。不揃いの巨大な死の爪が宙から振り下ろされる。
だが、鈎爪は私たちの足元を空振りした。
私たちは宙に浮いていた。
チャンザイノの杖から発せられた薄緑の光の幕のようなものが私たち四人を包み、空中に浮かせたのだ。私たちは、洞窟の天井と怪物の焼けただれた背中の間を飛び、奴の背後に降り立った。
「何だい、こりゃ、こんな技もあったのかい、坊さん」
「ふむ、伊達に齢を重ねているわけではない」
化け物は、目の前から獲物が突然消えたことが理解できないように、しばし、頭を振っていたが、やがて、低い唸りを上げながら、こちらを振り返った。黄色い硝子のような目が私たちを認めた。
「下がっておれ！」
チャンザイノは怪物に向かい仁王立ちになると、再び杖を振りかざし、宙に奇怪な印形を描き出した。青自い光が尾を引き、空中に文字のようなものがつくられていく。
「情け深き師、ジャクレンよ、どうか我に殺生をお許し下され」
僧侶が、杖を下げても不思議なことに印は消えなかった。
チャンザイノは大きく息を吸い込み、一瞬止めると、短い気合いの声と共に吐き出した。
吐き出された息は、凄まじい突風だった。大風は空中の青い印を巻き込み、怪物に吹き付けた。
青い風が、化け物の体を二度、三度と回る。幾筋かの閃光が私の目を焼いた。
怪物は、鉄と鉄とを擦り合わせたような耳を裂く叫び声をあげた。不可思議な大風に逆らうように、手足を動かし、もがいた。
その手や足は、見えない刃で斬り裂かれた。恐ろしく鋭利な刃物で切られたように、手も足も、幾つもに斬り落とされ、風に吹き飛ばされて、滝壷へ落ちていく。頭も胴も、まるで料理人に包丁で乱切りにされたかのように、ばらばらになった。吹き出るどす黒い血も烈風に飛ばされる。
不死の怪物であった幾つもの肉の塊は、吹きすさぶ霊風の中、次から次へと滝壷へ転がり落ちていった。水飛沫があがり、無数の宝石のかけらのようにきらめく。
「ふう…もったいぶって隠してたのかい、こんな荒技を」
ダーチェン人が溜息をついた。
「ジャクレンの教えは殺生を禁じておる」
「相手が化け物でもかい？」
「さようじゃ」
「難しい教えだな」
ハマームジークはジャクレン教の教義には得心がいかないようだった。
滝の方から新たな水音が聞こえた。重く大きなものが蠢くような響きが足元に伝わる。
「先を急いだほうがいい。どうやら誰かの食事の邪魔みたいだ」
滝の向こう側に、黒い巨大な蛸の足のようなものの影があった。何か固いものを齧っているかのような音も聞こえる。
大男はいやな顔をして滝の方を指差した。私は肩をすくめて首を振った。
「何か、いるんだ。恐ろしく大きい」
ハマームジークは黙ってうなずいた。
「お嬢ちゃん、歩けるかい」
「大丈夫よ、まだ、法力が効いてるみたいだわ」
「儂を怨むなよ。ここで仏になるよりは、しわが一本できるほうがましじゃろう」
オーリューンは、唇をへの字に曲げたが、文句は言わなかった。
10
二番目の扉は怪物の出現で、周囲の壁ごと破壊されていた。中をのぞくと、瓦礫の中に、無数の古びた人骨が散らばっていた。幾つかは比較的新しいものもあるようだったが、私たちにそれを調べる余裕はなかった。
残された戸口はもはやひとつのみだった。
通廊の最深部の扉は、他の二つと同様の青銅の枠付きの頑丈そうなもので、さほどの歪みもなく閉ざされていた。
「儂から入ろう」
チャンザイノは静かに前に出て、把手を引いた。
剣を握る手に脂汗がにじんだ。
扉は微かな軋みをたてて、開いた。
二十イート四方ほどの部屋で、壁際には作り付けの棚があり、朽ち果てた書物や得体の知れない金属の祭器類が転がっている。人間が座るには多少大きすぎる、形もどこか歪な椅子が二脚、分厚い埃にまみれている。天井からは緑青の吹いた銅の燭台が下がり、奇妙な灰色じみた薄明かりを放っていた。燭台には蝋燭は立っていなかったが、奇怪な明かりはまるで、風に揺らぐように、ゆらゆらと揺れていた。
部屋の奥にはもうひとつ扉があり、その前に、ひとりの女が大きな椅子に埋もれるように座っていた。
白い飾り気のない長衣には埃が積もり、まるで蜘蛛の糸で編まれた布地のようだった。青白い肌は生気なく、漆黒の髪も埃を被ったように艶がない。細面の顔だちは、充分すぎるほど整って美しかったが、黒い瞳は曇った硝子玉のように光がなかった。
部屋の中には異様な気が張り詰めていた。それは特別な力を持たない私やハマームジークにも嫌でもわかるものだった。空気は重く鉛の海を泳いでいるようだった。胸の当りに重苦しいものがのしかかり、気分が悪くなった。
「ここは危ないわ。ここの気は狂ってる……」
オーリューンが胸を押さえてつぶやく。
ハマームジークは見えない何かを見るように、周囲の宙を見回している。
黄衣の僧侶は前に進み、懐から何かを取り出した。真新しい紙束だった。幾重にも折られ、赤い細紐で括ってある。
「ペリニューン様……」
僧は女にそう呼び掛けた。女は今初めて、私たちに気がついたかのように顔をあげた。白い仮面にあいた黒い穴のような虚ろなまなざしで、私たちを順番にゆっくりと見遣った。彼女の視線からは黒い闇が流れ出してくるようだった。
「ペリニューン様、チャンザイノでございます。陛下の命を受け、この者たちとやって参りました。ペリニューン様、さあ、爺と一緒に帰りましょう」
私たちは、互いの顔を見合わせた。
「陛下はペリニューン様に詫びがしたいとの仰せです。あのような女に現を抜かしたのは、不徳の致すところだと、余にはペリニューン様しかおらぬと、たいそうお嘆きの様子です。どうか、王宮にお戻りください」
ペリニューンと呼ばれた女は、じっと宙に視線を迷わせ、小刻みに上下左右に首を振った。半開きになった口許は、時折、引きつった笑みのような形をつくった。仕草はぎごちなく不自然で、彼女の中で何かが壊れているのは確かなようだった。
「これは、陛下が御自ら認めました文でございます。どうか、御一読ください」
チャンザイノは手紙を差し出したが、ペリニューンは取ろうとしなかった。僧侶は歩み寄って、女の手の中にその文を押し込んだ。
ペリニューンはしばらく、それに気がつかないようだったが、不意に手紙を広げると、食い入るように目を走らせた。読み終えると手紙を膝の上に起き、また視線を宙に投げかけた。色槌せた唇がほんの少し動いた。手紙は燃え出し、彼女の手の中で灰になった。
彼女はげらげらと笑いだした。天井に近いどこかを見たまま、笑い続けた。その笑いは不快な波となって私の耳に谺した。
「ペリニューン様……」
「何故、殿は来られぬのじゃ？何故、自らお出でになって、わらわを連れて帰ってはくれぬのじゃ？」
「……はっ……陛下は大切なお体故……」
女はチャンザイノの言い訳を鋭くさえぎった。
「怖いのじゃ、ガラム・アラムー殿は大変にお優しい御方故な、わらわが怖いのじゃ、この魔窟が怖くて仕様がないのじゃ」
ペリニューンはまた笑い声をあげた。その細い首から出るとは思われぬ男のような低く、太い声で、恐ろしく虚しい笑い声をあげた。
「ガラム・アラムーは嘘つきじゃ。わらわを裏切った。生涯、わらわを愛すと誓ったにもかかわらず、他の女を抱いたのじゃ。わらわを恐れ、疎ましく思い、遠ざけたのじゃ」
「ペリニューン様、陛下は悔やんでおられます。ペリニューン様を求めて、毎日お嘆きのあまり、お気持ちもお体も衰えているご様子です。どうか……」
老僧は女の前にひざまずいたが、女はそれを見ていなかった。
「……何故、御自ら来られぬ？来るのは金と名誉に目がくらんだ兵士どもや無頼の輩ばかりじゃ。何故、我が殿はわらわを連れ戻しに来てはくれぬ？……」
ペリニューンは膝の上の灰を握り締め、ぼろぼろと崩れ落ちるそれにくちづけた。そして、低く短く叫んだ。
「滅びよ！」
オーリューンが悲鳴をあげ、頭を押さえてうずくまった。
「だめよ、だめよ、だめよ！」
部屋の中に稲妻が走った。ペリニューンの全身は青い電光に包まれ、火花を散らしている。空気がさらにいっそう重くなる。目に見えない泥のようなものが周囲を取り巻いているようだ。はらわたを奮わせるような低く重い呻き声がする。何かか蠢いている。耳が痛い。青紫の半ば透き通ったどろどろとしたものが部屋中に渦巻いている。それは稲妻と共にペリニューンの身体に蛇のように巻き付き、ゆるゆると蠢く。
笑い声が響き渡る。完全に正気を失くした歪んで膿みただれた笑いが、頭の中を駆け回っている。
ペリニューンの身体がばらばらに千切れていく。身体の中から引き千切られるかのように、指が千切れ、手足が千切れ、首が折れ、胴が二つ、三つに裂けていく。血は一滴も出ない。干涸びた屍のようだ。稲妻と青い流動物に融合するように、八つ裂きになった身体は宙に紛れてなくなっていく。
だが、狂気にさいなまれた笑い声だけは、頭の中に響き渡っている。
「逃げなきゃ！ここにはいられないわ。気が狂うわ！」
オーリューンが頭を押さえ、うめくように言った。
「チャンザイノ、どうなってるんだ！チャンザイノ！」
老僧はやっと我に帰ったかのように振り返ったが、私には彼がひとまわり小さくなってしまったかのように見えた。
「貴様、俺たちを謀ったな！」
ハマームジークが僧侶の黄衣の襟首をつかむ。
「奥の扉じゃ。そこが地上へとつながる道のはずじゃ」
彼は弱々しく小さな声でそう言った。
「とにかく、ここを出よう。話は後だ」
巨人は不承不承手を放した。
私たちは部屋を横切ろうとしたが、事態はそう簡単ではなかった。部屋全体が大地震のように大きく揺れており、前に進むだけでも容易ではなかった。壁や天井からは大小の石板やその下の岩が崩れ落ち、私たちの行く手を阻んだ。
「くそ！この穴蔵全部が崩れてるんじゃねえだろうな！」
「おそらくな」
「何だと、このくそ坊主！」
ハマームジークの罵詈に僧侶は淡々と答える。
「ペリニューン様はすべてを解放させるおつもりなのじゃろう。御自分の力をすべて解き放って、この迷宮に眠るすべてのものも解き放つおつもりなのじゃ」
天井から三イート四方ほどの石板が、剥がれ落ち、チャンザイノとハマームジークの間に落ちたが、老僧は意に介さなかった。
ダーチェン人は石板をよけながら、わめく。
「無事に上に戻ったら、とっくり話を聞かせてもらおうじゃねえか！」
扉はすぐそこだった。だが、その前には部屋中に充満している青紫の霞のようなものが一際濃く渦をなしていた。私たちが一歩近づく度にそれは凝結し、形あるものとなっていった。
それは幾つもの顔を持っていた。人間、それに近いもの、獣、蜥蜴のようなもの、どれもひどく醜く歪められた顔が、十も二十もそれの全身に巨大なできもののように浮かび上がっていた。赤黒い鞭のようにしなる舌がそれぞれに口から出て、蠢いている。手や足はない。絶えず形を変える等身大の汚泥の塊のようなものだ。
十数本の舌が一斉に、襲ってきた。
私たちは降り注ぐ石塊に打たれながら、後退さった。
次の一撃が来る。そいつの舌の長さには限りというものがないようだった。
私は剣を振ったが、幻影のように見えながらも、それには実体があり、しかも恐ろしく硬かった。鉄の鞭をなぎ払うかのように、火花が飛び散る。
どろりとしたものが飛び散り、私の二の腕に降りかかった。焼けるような痛みがある。見ると、ハマームジークの斧が、鷲くべきことに怪物の舌を斬り裂いていた。巨大な戦斧は全体が薄緑色の鈍い輝きに包まれており、鉄の舌を両断している。
「ハマームジーク、その斧だ！それなら勝てる！」
「おうよ！結構な呪いだ！」
巨人は化け物に突っ込もうとした。
「待て！」
チャンザイノが叫び、杖を振りかざした。
「大いなる師ジャクレン、この魔窟の旧きものどもより、我らを救い給え、異教の巨人にも大いなる慈悲あらんことを！」
黄衣の僧は青く光る杖を動かし宙に印を結ぶ。
大きく息を吐くと青緑色の光の幕のようなものが私たちの前に出現した。
「いかな怪しの斧と言えど、この妖気の中で無事とも限るまい。この光が守ってくれよう。ハマームジークに続いて一気にここを抜けるのじゃ！」
ダーチェン人は一声鬨の声を上げると、魔力を秘めた斧を振り回して、化け物の懐へと飛び込んだ。光の幕はその巨体を包むように一緒に前進する。周囲に渦巻く青い流動物は光の幕に押されるように飛び散り、流されていく。
巨入の首を締めあげようと鉄の舌が襲い来る。私は必死でそれを振り払った。刃と赤黒い蚯蚓か蛇のような舌がぶつかりあう。私の剣ではそれを斬ることはできない。ただ、なぎ払うだけだ。瞬く間に刃がこぼれていく。
「退け！化け物！」
ハマームジークは戦斧を怪物の体の中心へ叩き込んだ。青白い稲妻が走り、それの全身を覆う無数の顔が苦悶に歪んだ。二度、三度と巨大な刃を印き込む。電光が走り、雷鳴が轟く。
ずたずたに裂けた怪物の傷口から、青紫の泥状のものが宙に流れ出す。それは拡散して霧か霞のようなものになっていく。残った部分も内側から崩れるようにばらばらに千切れて元の青黒い流動物に戻っていく。
「うおおー！」
巨人はぼろぼろになった化け物の中へと突っ込んだ。そのまま戦斧で奥の扉を叩き割る。私たちは後に続いて、妖魔が渦巻く部屋を抜け出した。
扉の向こうはごく狭い洞窟だった。道は急な昇り坂で、所々に荒削りの階段がある。地響きと振動は、おさまることなく、小石や土塊が絶えず落ちてくる。
「これはどこへ通じてるんだ、坊さん」
大男は窮屈そうに身をよじりながら、進んでいた。
「北の岩山のどこかじゃろう。地上への通路であることは違いないと思うが、地図にもはっきりは描かれておらぬ」
「ふむ、希望がわいてくるな」
「急いだ方がよい。山そのものが崩れるかもしれぬ」
「滅多に見られねえな。ぜひ地上でそいつを見物したい」
青い妖気はここまでは侵入してこなかった。戦斧の魔力に恐れをなしたか、あるいは何らかの結界の作用がまだ保たれているのかもしれない。
「あの女は何者なの、チャンザイノ」
「『ナジャクスの光』ってのは、何だったんだ！」
二人の問いに僧侶はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「『ナジャクスの光』などというものはない。あるとすれば、ペリニューン様御自身か。ペリニューン様は代々ガラムリン王家につかえる巫女様じゃ。この北の洞窟には『失われた神々』か、その眷属が封印されておる。その名がナジャクスじゃ。封印を守り、旧きもの力を封じておくために、特別な力を持ったある一族が、代々王家につかえておる。大昔には『失われた神々』を祀る神官だったのじゃろう。今では自らもその出自や自分たちの秘めている力について、よくわからなくなっておる」
「その巫女さんにあの王が手をつけたってことか」
「一族は代々の王と交わり、子を為してきた。陛下もペリニューン様と交わったが、子どもはなかなかできなかった。その内、よからぬことになってしまったのじゃ」
洞窟は続いていた。道は時折、平垣な場所もあったが、昇り続けており、地上へと向かっているのは間違いはなさそうだった。だが、振動と不気味な低いなにものかが蠢くような音は激しさを増し、足元にもひび割れが走り始めていた。胸が押し潰されるような恐怖がじわじわと広がっていった。
「よくないことって？」
不安を振り払うかのように、オーリューンは話の先を促した。
「二人は愛しあわれてしまったのじゃ」
そう言ったチャンザイノの声は、ただの老人のようだった。
「ペリニューン様の愛の深さに、陛下は恐れをなした。他の女にご寵愛を注ぎ、逃れようとなさった。ペリニューン様はお怒りとお悲しみの内に、この地下迷宮に下った。その時から、陛下は御自分がペリニューン様を求めていることにお気づきになられたのじゃ」
「ふん、陳腐だ！」
大男は決め付けた。
「よくある話ね」
魔女は振り向いて、うんざりした様子で私の顔を見た。
私は質問を続けた。
「よくある話じゃすまなかったのはなぜだ」
「ペリニューン様には、本当の御自分の力を、御することはできぬ。この洞窟の中で、お心を乱したペリニューン様がどのようなことを為すのかは誰にも予見できぬことじゃ。何としてでも、お連れせねばならなかった」
「最初から、本当のことをなぜ言わねえ！」
ハマームジークの言葉に老僧は沈黙したが、しばらくしてぽつりと答えた。
「陛下の名誉のためじゃ」
「いい加減にしろ！何が名誉だ！くだらぬ見栄じゃねえか！」
巨人の怒りの声に答えるかのように、一際大きな揺れが襲ってきた。しんがりの私の後ろで足元が大きく崩れて三イートもの地割れが広がった。天井や壁からは土砂が振り注ぐ。私たちは口をつぐんで、ひたすら先を急いだ。
洞窟はいっそう細くなり、先頭のハマームジークは擦り抜けるのに苦労をしていた。天地左右を囲む岩肌には、無数のひび割れが走り、足の裏を突き上げるかのような大きな振動が休みなく続く。ひたすら前へ進み続けるしか、助かる道はなかった。
這うようにして、もはや竪穴と化した通廊を抜けると小さな踊り場のようなところに出た。床は平石が敷いてあり、石作りの急な階段が上に延びている。その上方から、かすかな黄色っぽい光が射していた。
私たちは、階段を駆け上がった。四角く切り取られた真っ青な空が見えた。
奇怪な浅浮き彫りのある井戸から這い出すと、私たちは、ガラムリン城謁見の間の正面に広がる中庭に立っていた。
11
地震と不気味なくぐもった音は地上でも変わりはしなかった。城の背後にそびえる岩山からは大小の岩石が崩落しており、古びた砦を打ち壊し続けていた。従者や兵士たちが口々にこの世の終りが来ると叫びながら、逃げ惑っていた。
ガラム・アラムーは庭に突き出した低い壇に立ち、異様な速さで雲が流れていく空を見上げていた。土気色の顔につくりもののような濁った瞳が埋め込まれている。
「よく戻ったな。御苦労であった。宝物庫の鍵だ。好きなだけ持って行くがよい」
王は力なく宝石がはめ込まれた黄金の鍵を差し出した。
ハマームジークがふんだくるように鍵を受け取った。
「俺たちをだましたな！おまけに痴話喧嘩のあげくが、この様か！」
巨人は言葉を吐き捨てた。
アラムーは視線を落とし、何も答えなかった。
「貴様のくだらねえ色恋沙汰のために、あの穴蔵で死んだ奴が大勢いる！」
ダーチェン人は戦斧を握り直した。怒りで顔が赤らんでいる。
黄衣の僧が大男の前に立ちはだかった。
「坊さん、どいてくれ。俺はこの役立たずの王様とやらを、斬る」
チャンザイノは動く方の手を刃にあて、押しとどめた。
「許せ、詩人よ。儂は……何としても、陛下とペリニューン様をお救いしたかったのじゃ」
巨人はジャクレン僧の灰色の目をにらみつけた。斧を握る手に力がこもる。チャンザイノの掌から、一筋血が流れ出した。
その時、ガラム・アラムーは激しく咳込み、どす黒い血を吐き出した。
「陛下！」
僧侶が駆け寄り、王の額に血にまみれた二本の指をあてて何事かつぶやく。
「チャンザイノ、無用だ。ダルの実を飲んだのだ。いかなる法力とて、もはや役にはたたない」
「おお、陛下、何ということを……」
老僧の灰色の目からは涙がこぼれ落ちていた。
「ダルって、暗殺のための薬によく使う木の実よ。はらわたが腐って溶けてしまうの」
オーリューンが声を潜めて、私と巨人に言った。
ハマームジークは喉の奥で喰り声をあげて、刃を下ろした。
「陛下……」
「チャンザイノ、言わずともわかっておる。ペリニューンの怒りが私とこの街を滅ぼすのだ」
私は胃の中に重いものが溜まっていくような不快感を感じた。
「それは違う。この街を滅ぼすのは、あなた自身だ」
岩山から転げ落ちてきた巨大な岩石が、天守を直撃した。大音響と共に、城の上半分近くが崩れ落ちる。中庭にも大小の石塊が降り注ぐ。
チャンザイノはよろめく王に手を貸そうとしたが、自らも大きな揺れに足をとられて、倒れた。
「儂は陛下と残る。お主たちははやく逃げるのじゃ。ナジャクスが解き放たれれば、誰も生き延びることはできん。はやくこの街から逃げるのじゃ……」
「チャンザイノ……すまぬ」
王は、ただひとりの臣下の脇に膝をつき、しゃがみ込んだ。顔は鉛のような色になり、口許からは血が休みなく流れ出していた。
「陛下も、ペリニューン様も、お優しい御心をお持ちだったのですじゃ」
僧侶は血だらけの王の手を握り、そう言った。
チャンザイノの意見には必ずしも賛同はできなかったが、私は黙っていた。優しさとひ弱さの境目は明らかではないことが多い。
瀕死の男は、血の泡を吹きながら、くぐもった声を出した。
「……ペリニューン……愛している……」
彼は鉛色の死人のような手を、崩れ行く岩山へと差し伸ばした。
巨大な爆発が起こった。
山が二つに裂けた。
もうもうたる粉塵が青空を覆い、陽光を灰色の光に変えた。
古の神が姿を現わした。蛇のように長い体躯と、蛸のように長い触腕を持つものが、大きく広がった北の岩山の裂け目から、滑るように出てくる。
蝙蝠のような翼を広げ、それは宙に浮いた。数百イートはあると思われる巨体が海中の魚のように、空を泳いでいる。体節のある身体をくねらせ、無数の細い触腕は、何かを探すかのように休みなく蠢いて空を切る。
崩壊する山が巻き立てる噴煙にさえぎられ、その姿をはっきりと見て取ることはできない。だが、それが、光る滝の下に祀られていた彫像の実物であることは間違いなかった。
「おおう、ナジャクス！」
チャンザイノが数珠を握って、聖句を唱える。
旧きものは、塵煙で黄色く曇った空を、ゆっくりと動く。私はまるで自分が水底から、水面を見上げているかのような錯覚を覚えた。
ナジャクスと呼ばれるそのものは、やがて、動きを変えた。粉塵の中におぼろに霞むその姿は、地上の私たちを認めたようだった。
それは地上に近づいてきた。
長大な尾が、半ば破壊されたガラムリン城を打った。
石塊が飛び交い、私たちはさえぎるものもない中庭を逃げ回った。城はまったくの瓦礫の山と化した。
アラムーとチャンザイノは、降り注ぐ石の雨にも動かずうずくまっていた。流れる鮮血が彼らの身体を覆った。
空から、赤黒い触腕がのびてきた。蛸の吸盤のようなものをそれは持っていたが、その肌は蛇のような鱗状のものに覆われていた。
それはぐったりしたガラム・アラムーの血まみれの身体に巻き付き、天空へと運んでいった。
「ペリニューン！」
黒衣の魔女が恐怖の叫び声をあげ、震える指で空を指差した。
強風が粉煙を吹き飛ばし、旧き神の姿を一瞬あらわにした。
青白く輝く蛇のような身体の先端には、狂った笑いを凍りつかせたままの巨大な女の顔があった。
触腕は男を女の口へと運んだ。ばりばりという骨が砕ける音がして、真紅の血が霧雨のように降り注いだ。
異形の神は、空中で身体を一回転させると、空の高みを目指して、昇っていった。崩落を続ける岩山からの土埃と、切れ切れに射す陽光に紛れて、その巨体はすぐに見えなくなった。
狂気じみた嬌声が、どこからともなく響き渡った。それは耳を介さず直に脳髄の中に響いてきたように思えた。
やがて地震はおさまり、後にはすっかり山容を変えた北の岩山と、完全に崩れ去ったガラムリン城の残骸が残った。
「坊さん、大丈夫か！」
ハマームジークが血だらけで倒れている老僧を抱え起こした。傷は深く、彼の命を救うことは誰にも困難なことは明らかだった。
「ふむ……これもジャクレン師の教えに背き、殺生を行った報いというものじゃろうて……心優しき大男よ、吟遊詩人になるには、もう少し心を鍛えることじゃな……」
「説教してる時じゃあねえだろう。おい、お嬢ちゃん、炎の精霊とやらは傷を癒しちゃくれねえのか？」
オーリューンは、小さな唇を噛んで首をふった。
「無理を言っちゃいかん……魔道士だから何でもできるわけではない……ことに男と女の仲はな……難しいものじゃて……」
チャンザイノはしわだらけの頬を歪めて、皮肉っぽい笑みをつくって見せた。魔女は無言でうなずいた。
「……西から来た男よ……お主は……」
血の気のない顔に、憐れみともとれる微かな笑いが浮かんだ。老僧の言葉はそこで途切れた。その先を聞くことは、死霊使いでも呼ばないかぎり、誰にもできなくなった。
私たちは中庭に僧侶の遺骸を埋めた。土饅頭の上には、不可思議な力を見せてくれた杖を立てた。持ち主を失くしたそれは、只の棒切れだった。ジャクレン教の葬儀のやり方は誰もよく知らなかった。
「仕方ない。俺はダーチェンの鍛治屋の神に祈るか」
ハマームジークは鉄槌で戦斧を叩くと、短い旋律を歌った。
「バナーニア、エルス、アム、カナム、エルス、イム、ゾナム……」
オーリューンは青空に向かい、不可思議な呪文を並べた。
私には祈るべき神はいなかったが、老僧の魂の安らぎを胸中で願うことだけはできた。
「坊さんは、痴話喧曄の仲裁で死んじまったってわけだ。まったく、ろくでもない話だ！」
ダーチェン人が唸るように言う。
「チャンザイノにとって、あの二人は我が子のようなものだったのかしらね」
女魔道士は、同意を求めるように私の顔を見た。
「愛情を注ぐ対象……かな」
私は曖昧な答えをしながら、もうひとりの死んだ男のことを思った。
ペリニューンは歪んだ形にせよ、自らの愛を全うすることができたのかも知れない。
ガラム・アラムーは誰かをうまく愛することができずに死んでしまった。
「……うまくいかないことが多いのさ」
「え？」
オーリューンが聞き返す。
「いや、何でもないよ。それより、どうする？」
私は巨人が大きな手の中で玩んでいる金色に輝く鍵を指差した。
「掘り出すには人足が千人くらい必要だな」
私の台詞に、ハマームジークは恨めしそうな目つきで、広がる瓦礫の山を見つめた。
「雇うにも金がないぜ」
「死ぬ思いをして、只働きというわけね」
黒衣の魔女は、唇を尖らせて不満気な顔をしたが、突然笑いを浮かべた。
「その斧を売るのよ！金の鍵もね！」
ハマームジークは斧を売ることには、不満があり気だったが、女魔道士の、他にもどんな呪いが込められているかわからないという台詞で、渋々承知した。市場の武具屋は、戦斧の意匠に首をひねりながらも（彼は斧の入手先を知りたがった）高値で引き取った。鍵は故貫屋で売った。
斧と鍵は合わせて五千ダズンの金になった。私たちはそれを山分けした。
12
『シャー・メギルガ』の四つ辻は、大勢の人々でごった返していた。
再び山が崩れ、街を押し潰すとか、旧きものが舞い戻り、今度はすべての市民を食らい尽くす、といった噂が街中に飛び交っていた。予定を操り上げて出立する隊商、家財道具を荷馬車に積み込んで街を離れようとする人々が、争って街道を四方へと走り去っていく。
馬のいななきと車輪の軋む音、怒鳴り声、泣き声、悲鳴が聞こえる。
城跡では、王の跡目争いが起こっているという噂も流れていた。混乱に乗じた強盗や追いはぎも現われていたが、それを捕縛するべき兵士たちは一足先に街から逃げ出しているか、盗人の一味に加わっていた。
ガラムリンの街の未来は、荒野を吹き荒れる砂塵の彼方に見えなくなっていた。
私たちは新しい馬に股がり、四つ辻に立った。
「俺は西に行く。サンジェリィやらフラン・ジースコやらの都会を少しばかり、覗いてみたくなった。火を吹くお嬢ちゃん、俺と来ないか！」
巨人の言葉に、魔女は少しばかり考えているような素振りを見せた。
「悪いけど、私は南に行くわ。南部の沼地の祈祷師に会ってみたいのよ」
ダーチェン人はがっかりした様子で大きな肩をすくめたが、すぐに大声で笑い飛ばした。
「わかった。沼地で素敵な蛙の王子様でも見つけてくれ！おい、ランケン、お前は？」
「北に行くよ。ここら辺は少しばかり、暑すぎる」
「はは！軟弱者め、エスカールで、氷より冷たい雪女でも見つけるんだな！では、さらばだ。いずれガラムリンの迷宮の歌をつくる。お前たちのことも歌ってやるよ」
吟遊詩人を目指す男は、真新しい戦斧の刃を陽光にきらめかせて、黄金街道を東へと走り去った。
「確かに暑いわ」
オーリューンは肩にはおった引き回しを脱ぐと、腰に巻きつけた。新しい黒い上衣も袖なしで、むき出しになった細い肩の、褐色の滑らかな肌がまぶしかった。
私は目を細めて、彼女のほっそりした姿態を見つめた。黒い瞳と、柔らかい唇が私に視線を返した。
栗毛の私の馬が、一声いなないた。
「おわかれだ」
「おわかれね」
私たちは、馬上で身を乗り出して、くちづけを交わした。かすかに濡れた二人の唇を、乾いた熱風が瞬時に乾かした。
白銀街道を、彼女は南に、私は北に、馬を進めた。
私も彼女も、振り返ることはしなかった。
