その家は、市街からややはずれた沼拓地にほど近い、人気のない草原にあった。黄灰色の腰ぐらいまでの高さの叢の中に頼りない踏み分け道がのびており、少しばかり地面が盛り上がったごく小さな丘の上に、家はまわりの叢に溶け込むような灰色に朽ちて建っていた。がっしりとした木造のこじんまりとした建物は沼地からの湿気と雨風にさらされて、すっかり色あせ、腐り、朽ち果てようとしていた。
家のまわりには骨のように白い枯れ木が包みこむように立ち並び、狭い庭には、敷石らしい灰色の石が幾つか転がっていたが、どれにも文字のようにも見える痕跡が刻まれていた。
私はしゃがみ込んで、敷石の上の枯れ葉と乾いた土を払い、それを読み取ろうとしたが、私の限られた知識とそれが刻印されてからの年月が邪魔をした。
顔を上げると、母屋の奥の方に小さな木造の社のようなものが見えた。母屋以上に古びて、破風が斜めに傾き、歪みに耐えられなくなった扉が框から今にも飛び出しそうになっていた。サンジェリィの古い家には一族の霊を奉る社や納骨堂を敷地内に持っている所があるが、私はこの社のような建物にはお目にかかったことはなかった。
間近にきて、私はこの家が思ったほど古いものではないことを知った。せいぜい数十年しかたっていないようだ。だが、家は長年誰も住んでいないかのように、荒涼とした佇まいを見せていた。
玄関に通じる狭く急な階段を上り、扉を叩いた。返事はない。もう一度少し強く叩くと、骸骨の腕のような枝にとまっていた真っ黒い烏が、不愉快な鳴き声をあげて飛び立った。
その声に応えたかのように、扉が開いた。朽ちかけた扉と同じような顔色をした女が立っていた。
化粧っ気のない蝋のような肌をした細身の女だった。アニャチの方の血を引いているのか、小づくりの美しい少女のような容貌だったが、腕には灰色の布にくるまった赤子を抱いており、目尻にはしわが二、三本あった。年の頃は三十近いように思えた。肩までの栗色がかった髪と、同じ色の瞳は、どちらも同じくらいくすんでいた。灰色の貫頭衣を赤紫の腰紐でゆるくしぼっていたが、服には食べものか何かの染みがたくさんついていた。
「初めまして、スナブ・ランケンです。ラクスさんからご主人の件に関して、依頼を受けて来た者です」
女は何も答えず、私の顔を見ていた。鳶色の瞳で私の顔を見つめていた。まるで、人間の姿を生まれて初めて見たかのようだった。
「シュクナ・ザディ夫人ですね、ご主人のワング・ザディさんのことで、依頼を受けた者です。ラクスさんからこちらに来るようにと言われたのです」
女は名前を呼ばれたことで、ようやく私を人間と認めたらしかった。
「あ、主人の、ことで……主人はあいにく留守で……お入りいください」
家の中は、外見以上にすさみ荒れ果てていた。床板や壁の鏡板はあちこち穴が開き、どす黒い闇をのぞかせており、薄暗い部屋の四隅では、親指ほどもある蜘蛛たちがそれぞれの縄張りを築いていた。床の上には枯れ枝、落ち葉、土埃、腐った泥、それに鳥や鼠、得体の知れぬ虫の死骸までが、あちこちに散乱していた。足の下で嫌な音がしたが、どうやら白骨化した何かの死骸を踏み潰したらしかった。
「猫が、いるんです……猫が、生き物を捕ってきて……」
シュクナ夫人は私の胸中を察したかのように、細い声でそう弁明した。小さな形の良い唇が、微笑みをつくった。子どものように無邪気な笑みに見えた。
私は食堂なのだろうか、中央に小ぶりの食卓と椅子が四つある部屋に通された。椅子は二つはばらばらに壊れていた。私は形をとどめている椅子に注意深く座ったが、椅子は触れただけでぎしぎし音をたてた。夫人は別の部屋に行き、子どもを置いて、かわりに葡萄酒の壜と硝子の杯を二つ持って現われた。
シュクナ夫人は埃だらけの壜からほとんど黒に見える赤葡萄酒を注いでくれた。すえたような臭いがしたが、夫人は何も言わずに一口飲んだ。私もならったが、口の中に何かのかすが残った。ひどい味だが、どうやら毒ではないようだった。
「今日はラクスさんはおいでにはならないのですか」
夫人は葡萄酒をもう一口飲み、鼻の奥でくすくすという笑い声を出した。
「ラクスはあいにく、留守なんです。アナリタの親類が急に亡くなったというので暇を出したのです」
夫人は細い腕をのばして、私の杯に葡萄酒を満たした。酒はいっぱいになり、溢れて食卓布に新しい染みをつくったが、夫人は一向に気にならないようだった。
「ラクスからは何と聞いているんです？」
「ご主人のワング・ザディさんがここ半月ほど帰らないので、捜してほしいと」
「それだけ？」
「この屋敷に幽霊が出没するので、そちらも何とかしてほしいと、依頼を受けました」
夫人は私の答えに満足したように微笑んだ。少しばかりずるそうな笑みだった。
「ラクスが言ってたわ。あなた、探偵さんなんでしょう？でも、幽霊退治も出来るって」
私は肩をすくめた。どうも本業以外の評判が一人歩きしていて困る。
「人捜し、物捜しが仕事ですよ。ただちょっとばかり、化け物の類いに好かれてるだけです」
「ラクスはどんな幽霊が出るって言ってたの？」
「シュクナ夫人、あなたが女中のラクスさんを使いに出したのではないのですか？」
夫人は虚を突かれたように、ぽかんと口を開けて私の顔を見た。そしてしばらく黙っていた。
「……そうよ。でも、わからないじゃない、ラクスがなんて言ったのかは…」
私は青ざめた顔で屋敷の怪異を語る初老の女の顔を思い浮かべた。三日前に訪ねて来たラクスという女は、最初は主が半月近く行き方知れずだという話をしていたが、やがて自分が長年働いている屋敷に起こっている奇怪なことについて語り始めた。黒い影や足音を始めとする様々な音について、それから幾つかのある痕跡について、使用人たちの失踪について、そして控え目ながらも女主人の変貌についても。
「ご主人が失踪された時のことについて、詳しくお話願えませんか」
「主人は……ある朝いなくなっていましたわ」
「ある朝、何の前触れもなく、ですか」
シュクナ夫人は細い首をかしげて、意味のわからない笑みを浮かべた。
子どもの泣き声が聞こえて来た。引きつるような弱々しい声が灰色の扉の向こうから聞こえて来る。
途端に夫人の笑みはかき消え、口許にはすねたような表情が現われた。彼女は何も言わずに席を立つと、泣き声のする扉へ消えた。
私はすえた葡萄酒を一口すすった。ひどい味だが、酒の効能はちゃんとある。
子どもの泣き声は不意に消え、女が戻って来た。最初に屋敷の戸口で見たとき以上に、白く乾いた肌に見えた。整った美しい顔は木目の細かい粘土で作られた仮面のようだった。
「家の中を案内します」
夫人は私の意志は確かめず、客間を出た。
屋敷の中はどの部屋も一様に荒れ果てていた。
古い一族らしく、壁には先祖のものらしい肖像画が何枚もかかり、青銅や大理石の像も幾つか、埃と蜘蛛の巣にまみれて立っていた。
「シグゼン……ハクス……ハッターン……」
彼女は小声で歌でも歌うように一世紀前の一族の者の名前をあげ連ねながら、邸内をまわった。私は幾度か、今のこの屋敷のことやワング・ザディについて質問をしたが、彼女からまともな答えは返ってはこなかった。
やがて夫人は二階へ続く階段の影の、薄暗い壁にかかった縦長の肖像画の所で立ち止まった。縦が七イート（一イートは約三十センチ）、幅が三イートほどの油彩画で、もともとひどく暗い色調で描かれていたものが、歳月による汚れと階段の影でさらに黒ずみ、ほとんどおぼろげな人の輪郭しか見えないものとなっていた。
「これは…誰の…」
彼女は私の存在を半ば忘れたかのように、その黒い肖像画に見入っていた。私の質問にも絵の方を見たまま、答えた。
「マクザリス」
「御先祖の一人ですか」
女はほの暗い闇の中にぼんやりと浮かぶ黒い人影に、まだ、視線をさまよわせたまま答えた。
「人殺しです」
私はあらためて、その黒い絵を見上げた。裾の長い外套のようなものを着たがっしりした体格の男ということしか、見て取ることはできなかった。顔も乱れた長い髪か帽子かにさえぎられて黒い影になっている。目を凝らすと右手に赤黒い棒のようなものを持っていることがわかった。
「何を持っているんです？」
「鉈よ。あの鉈で、たくさんの、たくさんの人を殺したの」
女は乾いた声で答える。
「セベ・チャグルの神官だったのよ、彼」
「人喰い神の？」
「そう、たくさんの人を殺したの、鉈で手足をね、ドン、ドン、って斬り落として、おなかはね、ちょっと傷をつけておいて、両手でビリビリって、引き裂いて、はらわたを全部引きずり出して……でも彼は食べなかったわ。ちゃんと神に捧げていたのよ。ここで、生け贄の儀式をとりおこなっていたの」
シュクナ夫人は、うっとりとした夢見るような目つきで肖像画を見上げ、その黒い男に寄り添うように、額縁に手をかけた。
私は背中にじっとりと汗をかいていることに気づいた。女はマクザリスという名の殺人者の黒い顔にじっと視線を注いでいた。恋人の肖像でも見つめるように、乾いた白い顔の中で鳶色の目だけが濡れて輝きを放っていた。
私は次の台詞が思いつかず、ただ夫人と黒い絵を見ていた。シュクナ夫人は視線を黒い殺人者に注いだまま、しゃべり続けた。
「この屋敷はセベ・チャグルの神殿があった場所に建っているの。このあたりではきっと最後に残った『失われた神々』の神殿よ。先代のザディ男爵がこのあたりの農夫や職人を率いて滅ぼしたわ。祭司の一族は村人たちに八つ裂きにされて皆殺しになったの」
「では、この男も？」
夫人は額縁にかけた白い指を、愛撫するかのようにすべらせた。
「マクザリスはその頃、東の山々に旅に出ていたそうよ。山中の洞窟で古の魔道書をさがしていたとか。彼が帰ってくると神殿はなく、男爵の新しい屋敷が建っていた。この家のことよ。マクザリスは旅から帰ったその足で屋敷に押し入り、鉈で男爵の一族を皆殺しにしたわ」
「すると、先代も……」
女は私の方を見ずに、乾いた笑みを浮かべた。
「ザディ男爵はその夜、サンジェリィに用向きがあって、留守だったのよ。朝方帰ってみると、今度は彼が驚く番だったわ。屋敷の中はくるぶしまで血とはらわたで埋まり、その中で血塗れのマクザリスが、人喰い神へ供物を捧げる儀式を執り行っているところだったわ。生け贄は男爵夫人、私の母よ。先代はマクザリスを殺して母を救った。セベ・チャグルの神官一族は根絶やしにされたの」
シュクナ夫人は血塗られた一族の歴史を語り終えた。彼女の口調は凄惨な話にはあわない淡々としたものだったが、先刻までとは違って、はっきりした意識と、不健全なこもった熱意が、そこには込められていた。
「それで、父上と母上は？」
「母は私を産んだときに死にました。父も私が十二の時に死にました」
「お気の毒に」
彼女は、唐突に話題を変えた。
「今晩は、ここに泊まっていってください。怖いのです。ラクスも今日は戻りませんし、私一人なのです」
夫人は額縁から手を離し、冷たく乾いた指先で私の腕にそっと触れた。硝子玉のような鳶色の瞳が私を見据えた。
「ラクスさんの言われたように、幽霊が出るのですか」
「そう……です」
女は私の腕をとった手に少しだけ力を込めたが、私には彼女が怯えているようには思えなかった。
陽が傾き、荒れ果てた屋敷の中に朱色の光をそそぎ込んだ。影は長く濃くなり、青黒い闇のかたまりが部屋のあちらこちらに出来た。
私は食堂で、夫人の現れるのを待っていた。彼女は夕食をつくるからと言って、私をここに残して消えた。
食卓の上には、葡萄酒と杯がそのまま残されていた。切り子細工の硝子の酒杯には、黒ずんだ葡萄酒の残りが半ば固まってこびりついていた。私はしばらく迷ったが、杯に半分ほど酒を注いだ。生温かくなっていた酒は、昼間よりもさらにひどい味だった。
太陽は、窓の外の白い木々の向こうに姿を隠し、部屋の中には闇が霧のように流れ込んでいた。天井から下がる大きな燭台を見上げたが、蝋燭は一本も立っていなかった。
「お待たせしましたわ」
彼女が両手に皿を持って現れた。焼けた肉の臭いがしたが、食欲よりも、吐き気を誘うような独特の臭いだった。
「私はもう済ませましたから……」
夫人は別室から手持ちの燭台を持ってきて灯をともした。
何の肉かは、よくわからなかった。すえたようなひどい味がした。銀の食器には、ひからびた何かがついていた。かさかさした麺麭を酸っぱい葡萄酒で流し込んだ。
シュクナ夫人は私の向かいの席に座り、葡萄酒を時々思い出したように口に運んだ。灰色の服には料理の時につけたのだろう、黒っぽい新しい染みがいくつもついていた。細い指先や口許にも何か赤黒い汚れがついているようだった。
「お子さんは、もう休まれたのですか」
「ええ」
女は、少しだけ表情を曇らせて、そう答えた。
私は無言で食事を続け、彼女は杯を運んだ。
案内された寝室は二階だった。階下の荒れ果てように比べれば、埃と黴の浸食を受けてはいるものの、二階は人の住める状態にあると言ってよかった。
部屋の中には大きな寝台がぽつんと置かれていた。私は黴臭い敷布に身を横たえた。
この家に関することを整理して考えてみようとしたが、一向に頭は働かなかった。この家が破滅の淵にあることと、シュクナ夫人の精神に得体の知れぬ黒い影が差していることだけは明らかだったが、それ以上のことは何もはっきりしなかった。
風のない静かな夜で、薄曇りの空から淡い月光が部屋に差し込んでいた。ゆっくり動く雲を眺めているうちに私は睡魔に襲われた。
目を開けると、月はだいぶ傾いていた。もう夜半を過ぎているようだった。
子どもの泣き声が、遠く聞こえた。夫人の子どもが夜泣きしているのだろうが、その声がどこから聞こえてくるのかが、わからなかった。夫人の寝室は一階のはずだったが、私には泣き声はもっともっと下の方から響いてくるように思えた。
泣き声は近くなり、また遠ざかり、次第に奇妙に歪んだうめき声のようなものになっていった。甲高い悲鳴のようになり、低い苦悶の声のようにもなり、時折、耳障りな嬌声のような声も混じっているように聞こえた。
声は異様さを増していき、いつまでも続いた。ただの赤ん坊の泣き声とは、もはや思われなかった。それは、決して大きな声にはならなかったが、階下から壁を伝い、寝台の脚を昇り、私の耳に潜り込んできた。
身を起こすと背中が寝汗でぐっしょり濡れていた。夜気がそれを冷やし、不快さをいや増した。
様子を見に部屋を出ようとしたとき、階段をきしませる足音が聞こえた。ぎしりぎしりと、ゆっくりした足音が聞こえる。夫人が上ってくるのだろうか。
だが、足音は近づくでもなく遠ざかるでもなく、ただ続いた。いつの間にか泣き声は止んでいる。
私は腰の短剣を確かめ、燭台をつかんだ。
扉を開けると、何かが動いていた。
黒い影が見えた。月光を浴びた階段の上の白っちゃけた壁に、大きな黒い人影が揺らめいた。
燭台の明かりをかざしても、どこにも影の主らしき姿は見あたらなかった。
影は手に何かを握っているように見えた。
影はゆっくりと動き、階下の闇の中に溶け込み、消えた。
私は、蝋燭がつくる頼りなげな光の輪の中を歩き、一階に降りた。泣き声も足音ももう聞こえなかった。
シュクナ夫人の寝室は一階の奥だった。部屋の前は、窓からの月光もまったく届かず、闇が集っていた。
二度、三度、扉を叩いたが、返事はなかった。そっと押すと扉は開いた。
一瞬、部屋の中で闇が動いたように思えた。
鏡台の前に、夫人は座っていた。小さな洋燈の光が、燃え尽きようとしているのか、ゆらゆらと揺らめき、夫人の影を水草のように動かしていた。
夫人は鏡の中の自分をぼんやりと見つめていた。白い夜着を着て、放心したようにしているその姿は、まだ年若い少女のようにも見えた。
「奇妙な物音がしたので、様子を見に来ました。大丈夫ですか」
彼女は私の姿を鏡越しに見ると、うっすらと笑みを浮かべた。
「大丈夫です。子どもの泣き声でしょう、もう、寝ましたから……」
「そうですか」
私は部屋に引き返した。もう物音は聞こえてこなかった。
うとうとしかけた頃、かすかな足音と気配に、私は目を開けた。枕の下の短剣に手がのびた。
寝台の脇に白い人影が立っていた。シュクナ夫人だった。
「どうしました？」
「怖いんです」
女は無表情にそう言って、私の寝台に身をすべり込ませてきた。私の胸に頭をのせて、幼女のように身を丸めた。彼女の細く冷たい体は小刻みに震えていた。
「怖いの……とても寂しかった」
私はしばらく、震える彼女を抱いていた。
「私、夫とはもう三年も寝ていないのです」
私は黙っていた。
「夫はあちこちで女をつくって……」
彼女は面倒になったのか、それで十分と思ったのかそれ以上の夫婦の秘密は打ち明けなかった。私は彼女が抱いていた赤ん坊のことを思い、三年という数字だけは少なくとも嘘なのだろうと思った。
それから、私たちは無言のまま、交わった。
彼女の体は痩せていて冷たくかわいていた。口づけをかわすと、柔らかく小さな舌だけが、ことさら熱く感じられた。彼女は行為の最中もほとんど声をたてなかった。
終わった後、彼女の体はほんの少し熱くなったような気がした。体の奥の芯から、こもった熱がほのかに伝わってくるような気がした。私は眠りに落ちた。
夢の中で私は、自分の影を見ていた。私の影は、漆黒の大きな影だった。それがザディ邸の色の落ちた灰色の壁に映っていた。影は右手に大きな鉈を握っていた。私は自分の右手を見た。鉈は鈍い鉛色に光っている。私はそれに血糊がついていないのが不満だった。はやく、この鉈を血で染めなければならない。真っ赤な血を溢れるほど浴びて、神への供物を捧げなければならない。セベ・チャグルの御神はいつでも腹を減らしているのだ。
私は屋敷の中の部屋を一つずつ巡って、そこにいた者の頭を鉈で叩き割った。女、男、年寄り、子ども、一人、二人、三人、四人、数えるのはそこで止めた。鉈と私の右手は朱に染まり、ぼたぼたと血が床に流れ落ちた。私は言い知れぬ昂揚感に満たされた。
階段を上ると一人の男が立っていた。古ぼけた外套を着た、痩せた厳しい顔つきの男だ。眉間のしわがまるで峡谷のように見えた。灰色の目が語りかけるように私を見ていた。
私が鉈を振り上げると、男は避けようともせず、ただ窓から庭の方へ目線を走らせた。私はそのまま鉈を振り下ろしたが、男は一滴の血も流さずに紙切れのように二つに裂けた。
ぼんやりとした朝日の中で私は目を覚ました。寝汗が冷えて、気分が悪かった。湯を使いたかったが、この屋敷の中ではそれは困難なことに思われた。
隣に女はいなかった。敷布に手を当ててみたが、温もりはなかった。栗色の乾いた髪がひとすじ落ちていた。
食堂に降りていくと、彼女が朝食の支度をしていた。私たちは朝の挨拶を交わした。私は壊れそうな椅子に注意深く座り、薄汚れた食器を運ぶ彼女を見ていた。私たちは昨夜と同じように向き合って座った。昨日の残り物らしい肉がひとかけら、葡萄酒、乾いた麺麭、それに固まりかけた蜂蜜の壜が食卓に並んでいた。彼女は今朝は食事をいっしょに取った。
私たちは無言で食事を続けた。彼女の表情は、相変わらずつかみどころがなかった。昨晩、同衾したのは夢だったような気がしてきた。
「お子さんは……」
「まだ、寝ていますわ」
夫人は私の方を見ず、皿の肉をすくいながら答えた。赤みがかった煮汁が口許からひとすじこぼれ落ちて、白い喉を流れた。夫人はその後を細い指でなぞり、煮汁のついた指先をていねいにしゃぶった。
「あら、虫ですわ」
食卓の上で、豆粒大の小さな虫が二匹折り重なっていた。紫がかった背中を光らせて、虫たちは交わっているらしかった。もぞもぞと動いている虫たちの上に、夫人は麺麭くずをぱらぱらと落とした。虫たちは小さな足を蠢かして、迷惑そうに麺麭くずを振り払い、行為を続けた。
「食べない。あれの方がやっぱり大事なのね」
彼女は独り言のように言った。虫たちの上に顔を近づけ、鳶色の瞳を見開いて輝かせていた。唇に笑みが浮かんで、童女のように見えた。
「これはどうかしら」
夫人は、蜂蜜の壜を手に取ると、中身を指先ですくい、虫たちの上にとろとろとそれを落とし始めた。彼女の指先から金色の蜜がゆっくりと紫色の背中に流れ落ちていった。二匹の虫は刺のついた細いたくさんの足を動かし、何とか金色の蜜の海から逃れでようともがいた。
「ほら」
彼女は手を止めて、私の顔を見てにっこりと笑った。瞳に硝子玉ではない輝きがあった。十歳の子どものような目の輝きだった。彼女はひどく魅力的だった。
それから、彼女は指についた蜂蜜をていねいになめ取った。二匹の虫は、蜜の中で動かなくなった。
食事が終わって、私は一度戻って魔除けの道具などを取ってくると言った。
「駄目です。帰らないでください。怖いんです。昨日の夜も、幽霊が出たのでしょう」
シュクナ夫人は私の腕をつかんで、そう言った。夫人の目は私の目を見ていた。朝食の時のような生気はなかったが、別の強い光が浮かんでいるようだった。
「夕刻前には戻りますよ。心配しないで」
「駄目なんです……あの、昼間だって幽霊は出るのでしょう」
彼女は私の背中にまわり、玄関の扉に手を当てた。遊び相手が帰ってしまうのをいやがる子どものような仕草だった。
「大丈夫ですよ。ちゃんと午後には戻ってくる」
「駄目です。ラクスも帰ってこないし……一人では怖いんです」
私はため息をついた。
「私、お昼の支度をしますわ」
彼女は乾いた顔に笑みを浮かべると、突然気が変わったらしく、立ち去った。
私は扉に手をかけてみた。それは見えない鍵で閉ざされていて、幾ら力を込めても、ぎしぎしと鳴るだけだった。
私は二階に戻り、ファヴァーン剣を鞘から抜いてみた。角張ったファヴァーン文字は幽かに緑の光を放っているようにも見えたが、定かではなかった。この太古の魔剣から、歳月はその魔力のほとんどを奪い取っていたが、妖力を感じ取り持ち主に伝える力はまだ残されていた。偶然にも（運命あるいは奇跡と言うこともできるだろうが、私にとっては偶然だった）古の英雄から譲り受けたこの魔剣に、私は幾度か命を救われたことがあった。
私は剣を腰帯に吊ると、屋敷の中の探索を始めた。邸内の部屋は閉ざされていることはなく、どこの部屋でも入れた。どの部屋も同じように荒廃していた。廊下や部屋の隅、特に一階には血痕を思わせる黒ずんだ染みがあちこちについていた。シュクナ夫人の姿はどこにも見あたらなかった。
私は食堂から台所に入った。大きなかまどがあり、石造りの流しがあった。流しは腐った食べ物のかすと黒ずんだ染みでひどく汚れていた。赤黒く汚れた肉切り包丁と、赤い染みと黒い黴で斑になった布巾が置いてあった。台所全体に生臭い悪臭が漂っていた。夫人は昼食の支度と言っていたが、彼女の姿はここにもなかった。
たくさんの瓶や壜が置かれていたが、中身の入っている物は少なかった。麺麭粉には黒い小さな虫がわいていた。空の砂糖壷には、ひからびた大きな蟻の死骸が数匹入っていた。
流しの下に、口が一イートほどの瓶が二つ置かれていた。一つは蓋がなく、中から白っぽいものがのぞいていた。私はしゃがみ込んで、中をのぞき込んだ。悪臭の源はこのあたりらしく、吐き気が込み上げてきた。その瓶には、ばらばらになった大小の骨が数十本入っていた。肉を良くこそげ落としていないらしく褐色の腐敗物がこびりついていた。人骨かと思われるものもあったが、途中で折られていて、よくわからなかった。シュクナ夫人はかなり荒っぽい料理をするらしい。
その隣の瓶には木の蓋がついていたが、猛烈な腐臭はそんな物で防げるようなものではなかった。私は手巾で口を押さえて、蓋を取った。赤黒い半ば腐った生肉がいっぱいに入っていた。肉だけでなく幾つもの内蔵も見受けられた。どこからか真っ黒い大きな蝿が数匹現れ、腐肉の瓶にたかった。私は吐き気をこらえて蝿を追い、蓋を戻した。
台所には、他にも興味深いものが落ちていた。衣服の切れ端と思われる布きれだった。土間の隅にあったそれには褐色の染みがついていて、乾いて固くなっていた。かまどの灰の中をかき回すと焼け残った布地が少し出てきた。
台所の煤けた窓から外を見ると、黒雲が生き物のように蠢き、空に広がっていた。低い雷鳴が二度響いたが、それは足下から聞こえてくるような気がした。
台所とシュクナ夫人の部屋は短い暗い廊下でつながっていた。扉は少し隙間が開いていた。中をうかがったが夫人はいなかった。部屋には寝台と箪笥が二つ、鏡台、椅子が二脚、長椅子、机があった。寝台の枕元には大きな花瓶が置かれていたが、花は遠の昔に枯れたままになっていた。色あせた花模様の絨毯にはたくさんの汚らしい染みがついていて、元の模様がよくわからないほどだった。
甘い女の匂いのかわりに、台所と同じような腐臭が漂っていた。腐臭は寝台の脇に置かれた大きな洋箪笥から漂ってくるようだった。箪笥の前の絨毯にはひときわ大きな黒い染みがついていた。
私はそっと両開きの箪笥の戸を開いた。吹き出る臭いに、私は咳込んだ。悪臭は間違いなくここからのものだった。箪笥の中には灰色と黒が斑になった黴の生えた布がかかっていた。それをはぎ取ると、腐臭の主がゆらゆらと揺れていた。
洋服を掛けるための太い鉤針に後ろ首を突き刺されて、それはぶら下がっていた。半ばひからびて、所々肉が落ちて白い骨が見えていたが、何らかの処置がなされているのか斑状に紫じみた青白い肌とぶよぶよとした肉が残っていた。吐き気を催す臭いはそこから発せられているのだった。白いきれいな骨になるまで、人間は自分の存在を誇示したがるものなのだろう。
目はくり抜かれ、鼻と耳はそぎ落とされていた。腹には胸から下腹まで大きな傷があり、不器用に糸で縫い合わされていた。男の骸のようだったが、股間のものは切り落とされていた。足下には腐汁が溜まってひからび、褐色の澱になっていた。
彼をワング・ザディと考える確かな証はなかったが、他の誰かと考える理由もなかった。夫はある朝、妻を喜ばそうと箪笥の中に隠れてしまったのだ、永遠に。
私は布を戻し、箪笥を閉めた。それから吐き気と闘いながら、部屋の中を探った。ありがたいことに死骸の収集品は、少なくともここにはもうないようだった。もう一つの箪笥の中には、衣服と若干の日用品が見つかっただけだった。
鏡台の引き出しの中には、長く使われていないらしい化粧品と化粧道具、かなり高価なものと思われる香水、指輪、首飾り、頭痛薬が入っていた。引き出しの二段目にはペンとインク壷、吸い取り紙、数枚の黄ばんだ便箋、それに赤い革張りの小ぶりの筆記帳が入っていた。
便箋は使われていなかったが、革の帳面には細く神経質な文字が書き連ねてあった。シュクナ夫人の日記帳だった。私は急いで頁をめくった。
前半三分の一ほどは、屋敷での日常が淡々とつづられていた。夫は男爵とは言っても、港での交易の仕事に手を出していて、数日に一度しか戻らないようだった。数週間航海に出かけて帰らないときもあった。数人の使用人と赤ん坊を抱えて、夫人は屋敷で子どもの成長だけが楽しみの、静かな日々を送っていたようだ。だが、夫が自分のことをあまり相手にしてくれないことへの不満といらだち、寂しさがしばしば文面に顔を出していた。二十頁目くらいから、それは使用人の一人と夫が不義をはたらいているのではないかという疑惑に変わっていった。昨夜の夫人の台詞はあながち嘘というわけではないのだろう。
日記の記述に明らかな変事が見られるようになるのは半年ほど前からだった。五月のある日に、彼女は屋敷の地下の物置で、ある発見をしていた。かすれ気味の乱れた文字で次のようなことが記されていた。
「五月二十日
午後、地下の物置を整理していて、父の日記を発見する。私自身の恐ろしい秘密を知った。父は私の本当の父ではなかった。私の父は、邪教の神官、人殺しのマクザリス。マクザリスが母を犯して私が生まれた。私は殺人鬼の子。私の体にはおぞましい邪宗の、どす黒い人殺しの血が流れている。私は殺人鬼の娘。マクザリスはたくさん人を殺した。この屋敷が血と臓物で溢れるほど殺した。私の父はマクザリス、おお、何ということなの……」
日記はこの後一週間ほど書かれておらず、次の記述は何事もなかったかのように平穏な屋敷の日常が書かれていた。だが、彼女の心はこの忌まわしい過去を、乗り越えることが出来たわけではなかった。それは日記が書かれなかった一週間の間に、彼女の心の奥底まで染みわたり、黒いねじれた根を生やしていた。次に奇妙な記述が現れるのは六月になってからだった。
「六月三日
夕刻、階段の上で夫とモルーアが抱擁しているのを見る。私の抱いた疑惑は間違いなかった。私は私の取るべき手段で、この件に片を付けようと思う。私の血が私の為すべきことを教えてくれる。父が私を導いてくれる」
夫人は「私の為すべきこと」を三日後に成し遂げていた。
「六月六日
午後、モルーアを殺害する。裏の薪小屋で、鉈で頭を割る。血があんなに噴き出すものとは知らなかった。鉈で手、足、体をばらばらに切断する。大仕事ですっかり疲れてしまったが、父の血が私を導いてくれた。これでモルーアは、夫を惑わすことは永遠にできない」
その後の日記は、また静かな日常の記録に戻っていた。使用人を殺したことに対する罪悪感の記述はどこにもなかった。が、時折「今日は父の声を聞いた」「血の臭いがどこからかする」「為すべきことがある」といった、意味不明のことが、夕食のおかずのことや、子どもが熱をだしたことなどの合間に、突然現れていた。
七月にはいると、そうした奇怪な記述は頻度を増していった。書き手の精神の異様な変調は明らかになっていった。
その月の終わり頃に、彼女はふたたび鉈を振るっていた。
「七月二十四日
夕刻、父の肖像を見る。黒々とした姿を見ているうちに、血の臭いが体の中からわき起こってきた。台所で鼠取りにかかっていた鼠を鉈で殺す。小さな頭が飛んで、ちゅるちゅると血が噴き出した。血とはらわたを父に捧げる。私には私の為すべきことがよくわかっている」
八月には、彼女は三、四日おきに、鼠、小鳥、猫などの小動物を殺害していた。殺した動物の肉を餌に野犬を呼び寄せてそれを殺したりもしていた。殺した生き物はみな「父に捧げる」のだ。そうした異様な行為を繰り返す一方で、彼女は夫が自分をかえりみないことを嘆き、新たな猜疑心にとらわれ始めていた。
「八月十二日
夫とファレンスが関係を持っているのは間違いがない。ファレンスからは夫の白い血の臭いがする。私にはわかる。ファレンスの腹を裂いて、夫の白い血とあの女中の汚い赤い血を全部抜き取らなければ駄目だ。父の血が為すべきことを教えてくれる」
六月の殺人と違って、今度は夫人は夫とファレンスなる使用人との関係の証拠は何も握ってはいないようだった。だが、彼女には確信があり、迅速に判断して「為すべきこと」を実行していた。殺人はその翌日だった。
「八月十三日
夕、祠の脇で、ファレンスを殺害。すぐに父の前に運び、腹を裂き、血と臓物を捧げる。前よりもとても上手にできたので、うれしい。血の導きのおかげだ。父もよろこんでいるようだ。やはり、鼠や犬では駄目だ」
九月になると、もはや殺人の衝動は抑えられないものになっていったようだった。小動物は相変わらず殺し続けていたが、次第に屋敷には、犬猫も鳥も寄りつかなくなり、邸内には鼠もいなくなっていた。日記の文章は、支離滅裂で意味不明のものが多くなっていた。その中で、殺人の記録だけが奇妙に冷静に書かれていた。
「九月十五日
朝から、血が乾いている。何とかしなければならない。犬も猫ももういない。
午後、タディン夫人の子どもが庭に迷い込む。まさしく父の導きだ。カルマットに言って、送らせる。屋敷を出た草原で待ち伏せる。カルマットは頑健で、何度も鉈を打ち下ろしたので顔がつぶれてしまった。子どもは怖ろしさで逃げることもできなかった。肉が柔らかいので、斬るのも楽だ。新鮮な肉と血で、父もずいぶん生気がでてきたようで、うれしい」
カルマットというのは作男か何かだったのだろう。日記はいよいよ文字は乱れ、うわごとのような、呪文のような言葉がくり返し書かれていたり、意味を為さなくなっていった。記述があるのも毎日でなく、途切れ途切れになってくる。
「十月三日
マクザリス、マクザリス、我が父よ！人殺しの私の父、私も人殺し、血が流れている、人殺しの血がどくどくと体の中に流れているから、もうすぐ、もうすぐ、もっと血と肉を！はらわたを！はらわた、はらわた、はらわた、次は誰、次は誰、どの肉塊？」
こうした記述が、殴り書きに近い乱れた文字でくり返されていた。二週間前の日付には、箪笥の中のものについての記述があった。
「十月十一日
夫が一月ぶりに帰宅する。屋敷の荒廃の様と、使用人の不在について私とラクスを叱責する。ラクスを下がらせて、この部屋で殺害。父に必要なところを捧げる。父はいよいよ元気になってきた。命が溢れている。後、ほんの少し、ほんの少し、次は誰、次は誰、鉈を血に浸したい！人殺しの血が流れる音が聞こえる」
日記はそこで終わっていた。私は掌に冷たい汗をかいていた。日記帳についた汗の染みをぬぐって、注意深く引き出しの中に戻し、部屋を出た。屋敷の中に夫人の気配はなかった。
地下室への入り口は、階段の下にあった。鍵はかかっていなかった。台所で見つけた洋燈を手にして、私は狭く急な階段を下りた。そこにも扉があったが、鍵はなく中は真っ暗だった。地下室は十イート四方ほどの狭いもので、両側の壁に作り付けの棚があり、雑然といろいろな物が置かれていた。錆びた大工道具、壊れた額縁、埃だらけの古びた壷、行李が幾つか、使われなくなった食器。
漆喰で固められた壁に、セベ・チャグルの神殿の痕跡を私は探したが、それらしい痕は何もなかった。地下室はこの屋敷が建てられたときに新たにつくられたものらしかった。
行李の中には虫食いだらけの衣類が少し入っていた。先代ザディ男爵、シュクナ夫人の「父」の日記はその下にあった。黒い皮の表紙には黴が生え、頁の縁は黄ばんで崩れていた。
日記は、セベ・チャグルの神殿を滅ぼして新しい屋敷を建て、移り住んだその日から始まっていた。最初の部分は、邪教の神殿を討ち滅ぼし、悦びと人々の賞賛に包まれた幸福な日々が、押さえられた筆致で記されていた。それは、マクザリスが帰ってきた日にすべては一変する。数日間、日記は途切れ、五日後に怖ろしい凶事が簡潔に記されていた。
「十二月七日
二日、朝、帰宅す。邸内は酸鼻を極めり。父、母、祖父、弟、使用人三人、皆肉塊とされり。その血潮と臓物、我が踝を隠す。彼の黒き獣は、我が妻の胎内に汚らわしき精を注ぎ込めり。我、悪逆なる殺人鬼に復讐を果たす。我が妻を辱めた両の目、両の耳、鼻、そして厭わしき逸物を彼奴めの手にしたる鉈にて、切り落とせり。彼奴も生身の体なれば、世にもおぞましき絶叫をとどろかせ苦悶せり。されど、我の溶岩の如く燃えたぎる復讐心は、いまだ収まらず。我、彼奴を邪悪なる宗門の陰惨たる地底の納骨堂に、鉄鎖で繋ぎ止める也。彼奴が、まったき闇の中で、傷の痛みと飢え渇きにて悶死に至ることを思うと、我が心幾ばくか安まらん……」
だが、ザディ男爵には安らぎは与えられなかった。彼の妻はマクザリスのものと思しき子を身ごもっていたのだ。シュクナ夫人が生まれた日の記述は以下のようだった。
「十月二十日
……夜半過ぎ、我が娘、この世に生を受けり。ああ、然るに、我が妻は赤子とその命を引換にして、黄泉の国へと旅立ちぬ。これもまたあの人殺しとその一門の呪いであろうか。我、只、涙して赤子を抱くのみ。無垢そのものに見えるこの赤子に、あの凶悪なる人非人の血が流れていようとは、我ならぬ誰が知ろう。しかれども、赤子には何の罪もなきこと明らかなれば、我が娘として生涯愛しむことを誓わん……」
男爵は、シュクナ夫人に深い愛情を持って育てたようだったが、彼の慈愛は赤黒い闇に吸い込まれ、虚しいものとなってしまった。
私は地下室の壁と床をもう一度探ったが、どこにも扉らしきものはなかった。先代ザディ男爵が書いている地下納骨堂への入り口はここにはないようだった。
地下室から出たが、邸内は薄暗かった。時刻はもう昼近いはずだったが、空にはいっぱいに黒雲が広がり、陽光はその隙間から幾筋かもれてくるだけだった。私は階段の下の暗がりにかかっているマクザリスの肖像を見上げた。右手に握られた鉈の鈍い朱色が昨日よりも強くなっているような気がした。殺人鬼の肖像を見上げている私の脳裏に、突然昨夜の夢が甦った。私は階段を上り、二階の廊下に立った。私のあてがわれた部屋とは反対側の壁に、夢で見た険しい顔つきの男の絵が掛けられていた。男は地味な灰色の服を着ていたが、胸にはプルクト神殿が信仰心が特に厚いものに授ける銀の鳥を型どった胸飾りをつけていた。セベ・チャグルの神殿を破壊するのは、サンジェリィのどの神殿、どの寺院にとっても、大きな働きに違いない。肖像の主の名は記されていなかったが、彼が先代ザディ男爵に間違いなかった。ザディ男爵は、悲しげな暗い灰色の瞳で、私を見下ろしていた。
天窓からひとすじの陽の光が差し込み肖像画を照らし出した。絵の具の盛り上がりと光の具合からか、一瞬、ザディ男爵の目線が私を離れて窓の外に流れたように見えた。二階の廊下の窓からは、庭の奥の傾いだ社が見えた。私の「為すべきこと」をシュクナ夫人のもう一人の父親が教えてくれたのだ。
私は階下に降り、玄関の扉の前に立った。ファヴァーン剣を抜くと、朝よりもずっとはっきりと古代文字が緑色の光を放っていた。私は扉の取っ手に剣を振り下ろした。小さな青緑の火花が散って、結界が破れた。
社は屋敷よりもはるかに古いものだった。灰色じみた木と漆喰でつくられており、正面の扉は斜めになり半ば開いていた。中には人の背丈ほどの灰色の四角い石柱が建てられている。それには邪悪な一族を封じるための碑文が刻まれていた。
「悪しき人喰らいの神を永遠に失われた神とするために、またその神を崇める人殺しどもを永遠に葬るために」
と碑文は読めた。石碑は社の他の部分と比べると明らかに新しいものだった。
石碑の後ろに黒い石の扉があった。表には『ニベの書』でもなければ、お目にかかれない蛇のように曲がりくねった神秘文字が一面に刻まれていた。私には読むことは出来なかったが、それはむしろ幸いというものだろう。
観音開きの扉の下には、砕けた蝋のかけらと破れた黄ばんだ紙切れ、切断された錆びた鎖が落ちていた。刻印がなされた蝋と呪文が書き連ねられた御札で封印され、その上に鎖で閉ざされていたのだろうが、すべては無駄になっていた。床石には、何かを引きずった赤褐色の痕が残されていた。
この黒い扉の奥で何が行われているかを考えると、恐怖よりも先に吐き気が込み上げてきた。このまま市街に戻り、警邏隊のノップラントにすべてを話して後を任せるというのが、最善の策かも知れない。だが、それは私には選べない最善の策だった。私に出来るのはこの扉の向こうへ行くことだけだった。
黒い扉を開けると、生温かい風が吹き出し、土と黴と腐った肉の臭いがした。私は洋燈をかかげて、地下へと降る階段に足を踏みれた。
階段はつづら折りになっており、すぐに地上からの光は届かなくなった。地下からは蛇がゆるゆると這い回るかのような風が吹き上げ、洋燈の明かりを揺らがせた。通路は狭く幅は人二人分ほど、天井も頭一つほど上に迫っている。亀裂の目立つまわりの土壁には、半ばはげ落ちた赤や青の絵の具で得体の知れぬ絵文字と奇怪至極な異形のものの絵が描かれていたが、あえて詳しく観察する気は起きてこなかった。頭上からは絶えず土や小さな砂利が少しずつ落ちてきた。言い知れぬ圧迫感と生き埋めの恐怖に、全身に脂汗がにじんだ。
階段は十数段ごとに折れて、地下深く続いていた。五十段ばかり降り、階段が終わると、細い通路になっていた。その先から明かりがもれていた。私は洋燈を吹き消し、息を殺して先に進んだ。恐らくは屋敷の真下になるあたりだった。
通路の向こうは数百本の蝋燭で鈍い橙色に照らされていた。不規則な凹凸のある円形の部屋で、石と土の壁が太い木の柱で補強されており、差し渡し三十イートほどの広さがあった。天井は低く七イートほどしかない。壁際の幾つもの窪みの中には、数十体の骸骨や木乃伊が立ち並び、虚ろな黒い眼差しを当て所なく投げつけていた。ここがセベ・チャグルの地下納骨堂なのだ。
だが、この場所の耐え難い不快感は、過去のものである乾いた髑髏や木乃伊たちが醸し出しているわけではなかった。堂内には、大量の腐りかけた肉と臓物、骨が散乱していた。鳥や猫十数匹の死骸、そして何人分かの人間の骸だった。
その内の一つ、まだ肉の付いている肋が見て取れる大きな固まりのようなものには、見覚えのある布きれがまとわりついていた。私を訪ねてきたラクスという初老の女が着ていた服と同じ、白地にくすんだ朱色の花模様の布の切れ端だった。彼女だったものの下には、大きな血溜まりが出来ていた。朱色の花は血を吸って真紅になっていた。
シュクナ夫人はその血溜まりの中に腰を下ろしていた。灰色の服は血に染まって、真っ黒になっていたが、一向に気にはならないようだった。彼女は腕の中に抱いた桃色の肉のかたまりを、ゆっくりと口に運んでいた。指先で器用に肉をちぎりとっては、口に運び、満足そうに食事を続けていた。彼女が抱えている肉塊からは、小さな人間の手足が生えていた。
納骨堂の中央には低い石の祭壇のようなものがあり、彼女はときおり、肉を自分の口に運ぶのを休んで、石壇の上のものに手をやっていた。黄褐色の人間のようなものがそこに横たわっていた。それは、木乃伊と言ってしまうには、少しばかり肉付きがよく、肌にも張りがあった。肌色から汚らしい茶色までの色が斑になった肌は、血と脂が塗り込められてぬらぬらと光っている。体のあちこちには肉が削げて骨が見えている部分やぽっかりと穴が開いている部分がある。足首からは錆びた太い鎖が下がっていたが先端は切断されていた。頭部には黒い乱れ髪が、幾筋か束になって生えていた。鼻と耳と股間の逸物は黒い糸で縫いつけられており、そこだけは他の部分よりは幾分か生気のある色をしていた。眼窩には濁った眼球が、左右あらぬ方を見て、埋め込まれていた。
夫人は壇上の奇怪な骸の口に、我が子の肉と臓物を押し込んでいた。彼女がひとかたまり桃色の肉を口に押し込む度に、死骸の横腹に開いた穴から赤黒い腐肉の固まりがずるりとこぼれ落ちた。
私は静かに納骨堂に足を踏み入れた。吐き気をこらえるのは容易なことではなかった。
夫人は私に気づき、血塗れの顔を上げた。彼女は驚くでもなく、悪びれる様子もなく、無心の笑みを浮かべた。
「そろそろ、お昼ね。食事を用意するわ」
私は壁際に手をついて、胃の中のものを吐き出した。昨日と今朝、私が食べたものは何だったのだろうか。
「具合が悪いのね。休んだ方がいいわ」
私は口許の胃液を拭ってようやく声を絞り出した。
「いや、僕は大丈夫だ。それより、君は……君は、ここを出なくちゃ駄目だ。君には医者が必要なんだよ」
彼女は鳶色の硝子玉の目で私を見た。目の奥に怖れと不安の色が読みとれた。
「駄目よ、あの人もラクスもそう言ったわ、おまえには良い医者がいる、ここを離れて海沿いの街に行こうって、奥様にはお医者様が必要です、お屋敷を出て、ゆっくりお休みになってはって、でも、私はここにいて、あの人もラクスもここにいるわ。あなたもよ。ねえ、もうすぐよ、もうすぐ、お父様が甦るのよ、私の人殺しのお父様が……」
夫人は右手に鉈を握って立ち上がった。差し渡しが一イートを超える大きな鉈だ。刃にも握りにもどす黒い血がこびりついていた。
「お父様の鉈よ、ここで見つけたの、これで何十人も殺したのよ。私はまだ七人しか殺してないけど、でもずいぶん上手になったわ」
彼女の足下では、数百の蝋燭が映し出す影がゆらゆらと蠢いていた。影たちはひとしきり大きく揺らめくと、吸い寄せられるように集まり、彼女の背後に大きな黒い影となって立ち昇った。鉈を振り上げた夫人の姿が天井まで届く黒い影と溶けあい、生ける泥流のようになって私に襲いかかった。
私は飛び退り、剣を抜いた。ファヴァーン文字が鮮やかな緑の光を放った。掌にしびれるような妖気が伝わってくる。
私は彼女の手から鉈を叩き落とし、黒い幻影から引きずり出そうとした。殺人鬼の影と溶けあった彼女は、細身の体からは信じられない膂力で鉈を振り回した。鉈を受けるファヴァーン剣の刀身が青い火花を散らした。太古の妖術で鍛えられたこの魔剣でなければ、間違いなく刃が折れていた。
血で足下が滑り、私は体勢を崩した。夫人は鉈を大きく振りかざした。黒い影と重なったその姿は、階段の下の黒い肖像画のそれだった。
分厚い刃が落ちてくる。私はぬめる血溜まりの中を必死で転げ回り、死の一撃を避けた。殺人鬼の鉈は、ラクスのものらしい足に当たり、重い音をたてて死肉に深く食い込んだ。私は夫人が鉈を引き抜こうとする隙をついて、彼女の足首を強く蹴りあげた。よろめく彼女に飛びかかり、右手首をつかんだ。
「これを放せ！この鉈を放すんだ！」
「駄目よ、駄目よ、あああ、お父様、助けて、あああー！」
彼女の声に応えるかのように、黒い影が私に絡みついてきた。氷を押しつけられたかのような冷たさと痛みが全身を襲った。視界の隅で、壇上の奇怪な死骸が、幽かに蠢いたような気がした。
一瞬ゆるんだ私の手を振りきって、シュクナ夫人は石壇の向こう側へ逃れた。
「あああ、お父様、もうすぐよ、もうすぐよ、今、人殺しの娘が血とはらわたを捧げるから！ああ！人喰いの神様！セベ・チャグル！私の血とはらわたよ！」
血糊でかたまった髪を振り乱し、夫人は絶叫した。巨大な地響きがして、納骨堂は揺れ動き、壁に大きな亀裂が走った。私は彼女に飛びかかろうとしたが、はらわたのかたまりに足を取られ、間に合わなかった。シュクナ夫人は自らの腹に鉈を押し当てた。すでに血で真っ黒になっている服の腹からさらに真っ赤な血がにじみ出した。
夫人は細腕にさらに力を入れ、真横に自分の腹を斬り裂いた。そして、左手を腹の中に押し込むと、自らの臓物をつかんで引きずり出した。
「ああー！私のはらわたよ、お父様食べて、食べてええええー！」
夫人は、ずるずると引っ張り出した血みどろの臓物を、父親の骸の口の押し込んだ。血塗れのその顔には、恍惚の表情が浮かんでいた。開いた小さな口から唾液がしたたり落ちた。死骸の半ば骨がむき出しになった顎が、蠢いたように見えた。
夫人は鉈を握り直すと、白く細い喉に押しつけて、横一文字に斬り裂いた。
鮮血が滝のように溢れ出て、マクザリスの骸の上に降りかかった。
血と臓物にまみれた死骸が、確かに動いたような気がした。真紅に染まった胸がわずかにふくらみ、どろりとした目が自分の居場所を確かめるように幽かな光を放ったような気がした。
そのとき起こった激しい地響きに揺り動かされたのかも知れないし、凄まじい勢いで噴き出るシュクナ夫人の血流に動かされたのかも知れない。夫人が絶命して倒れるときに死骸のどこかにぶつかったからなのかもしれない。
真相は今となってはわからない。私が次の瞬間には、ファヴァーン剣を何度も死骸に突き立て、ばらばらに引き裂いてしまったからだ。剣を振り下ろす度に、ファヴァーン文字が刻まれた刀身からは緑青色の光が飛び散った。殺人鬼マクザリスの異様な骸は、幾つもの半ば柔らかく半ばひからびた肉塊と砕けた骨のかたまりになった。体内からは大量の腐った肉と臓物がこぼれ出した。腹には胃の腑が、胸には心の臓が納められていた。他にも幾つかの臓物が然るべき場所にあったように思えたが、私はあえて確かめはしなかった。黒い影は骸が破壊されると同時に、揺らめく百の小さな火影に戻っていた。
シュクナ夫人は、痴呆のように目を見開き口を開いたまま死んでいた。法悦の面もちも少女のように無邪気な笑みもなく、ただ虚ろな鳶色の目が硝子の義眼のように宙を見つめていた。私は彼女の瞼と唇を閉じ、手巾で顔の血を拭った。それで彼女の表情が戻るわけではなかった。私は彼女の顔にそっと手巾をかぶせた。
地鳴りは収まらず、天井からは土塊がひっきりなしに落下していた。壁の亀裂は大きく広がり、柱と梁にも裂け目が入っていた。私は大急ぎで、周囲の壁からひからびた木乃伊を何体か持ち出し、石壇の周囲に置いて蝋燭で火をつけた。乾燥していた木乃伊はすぐさま燃え上がり、納骨堂の中のすべての肉と骨とはらわたを炎に包んでくれた。
炎と土砂に追われ、這うようにして地上へ戻ると、足下から低い雷鳴のような音が聞こえてきた。地面が大きく揺れていた。黒い扉を抜けると、石碑は三つに折れて倒れていた。
生きるもののいなくなった屋敷は、不快な軋む音をたてていた。黒雲が渦巻く空を背にしたザディ邸は奇妙に白く見え、まるで骨でつくられているかのように見えた。二階の窓は見えたが、ザディ男爵の肖像画はここからは見えなかった。
地底からどうして火がまわったのか、一階の邸内に炎が大きく踊っていた。大きな揺れが襲い、背後で社が大音響をたてて倒壊した。砕け散る壁土の中から、白い人骨が幾本も飛び出した。
地割れが足下を走った。炎が窓から吹き出し、館全体を包んでいった。私の為すべきことと出来うることはもう何もなかった。私は火の粉の降る中、骨のような木立の中を抜けて、屋敷が立っている小さな丘を駆け下りた。
振り返ると、丘の頂には赤い巨大な炎が燃え盛っていた。炎は不自然なほど赤く、まるで地底から鮮血が噴き上げているかのようだった。やがて、凄まじい轟音とともに、屋敷はその異様な業火の中に崩れ落ちた。荒れ狂う炎の中に見えていた黒い残骸も、地響きとともに、地底奥深く邪教の納骨堂の中へと沈み込んでいくのだった。
警邏隊は焼け跡から何も発見できなかった。屋敷の跡は完全に土砂に埋まっていた。市街では地鳴りは聞こえたものの、地震はなかった。新聞の中には、三十年前セベ・チャグルの神殿が打ち壊された事件との関係を取り沙汰すものもあったが、彼らに書けるのは曖昧な推測だけだった。失火と偶然にも起きた大陥没によって、ザディ家は滅びたのだ。
三日ほどして、鼻をきかせたノップラントがやってきた。いつもの薄汚れた外套を着て、いつもの革草履を履き、いつも通り、にきびの痕とそばかすでいっぱいになった顔に、苦い表情を張り付けていた。
「事件のあった日に、おまえらしき人物を沼沢地の近くで見た奴がいる。だいぶ煤けた成りだったという話だ。知っていることを素直に話せ」
ノップラントは私の出したシェアを一息に飲み干して、一息に話をして、それからおくびをした。
「人違いだろう。僕は何も知らない。何も話すことはないよ」
ノップラントは空になった酒杯をもてあそびながら、隈の出来た鋭い目で私を見た。私も彼の目をしばらく見ていたが、彼がため息をついたので、シェアをもう一杯注いだ。有能な警邏は一息で二杯目を飲み干した。
「二ヶ月前に、タディン夫人の子どもが行方知れずになっている。あの近くでだ。知っていることは？」
私は机の引き出しから『古鴉』を取り出して、自分の酒杯に注いだ。ノップラントは仕事中だと言って断った。
私は知っていることを話した。ノップラントは表情を変えなかった。彼の表情を今よりも苦々しいものにすることは誰にも出来ないことなのだ。
「証拠は何もない。焼け跡を百イートばかり掘れば別だが。タディン夫人とザディ家の使用人の家族には、この話をするのかね」
ノップラントは黙って杯を振り、私はディコンを注いだ。彼にはシェアとディコンの区別はないらしく、赤みがかった琥珀色の酒を一息で飲み干した。
「それは俺が考える問題だ。おまえが悩む必要はない」
「あなたも、これ以上悩み事をふやさない方がいい」
ノップラントは酒杯を置いて立ち上がった。扉に手をかけながら、彼は言った。
「使用人の家族には、何も話さない。タディン夫人には何か別の話をしよう」
私は黙ってうなずいた。ノップラントは不幸な話の在庫品を私の十倍は持っているのだ。
私は、それからしばらくの間肉を食べず、しばらくの間女を抱かなかった。
