「来る。四人、左右から二人ずつにわかれてる。左手はあの大木の裏から、右手は土手の下の川から上ってくる」
ジリニオンが押し殺した声で言った。午後の陽が葉叢から差し込むアプラーチェの森は、絵に描いたような美しさだった。鳥のさえずりと瀬音が耳に入るすべてのもので、武具の音も軍靴の音も聞こえては来なかった。私もそれなりに場数は踏んでいるつもりだったが、ジリニオンの言う敵の気配はわからなかった。
だが、彼女が言うからには、危機が迫っているのだ。それはここ数週間の戦いと道行きで、確信できた。
「私は左手を引き受ける。ランケンは右手を」
「ああ」
私は剣の鯉口を切り、右手の堤の方に目と耳を集中させた。涼やかな瀬音を乱す物音は何も聞こえず、葉叢がざわめくこともないように思えた。
「伏せて！」
言葉より早くジリニオンの手が私の頭を押さえつけた。ひゅんという風を切る音がして、今まで私の頭があったところを矢が飛んでいき、古木の幹に突き刺さった。
「敵の得物まではわからないのかい」
二人で下生えの中に身を潜めながら、私は聞いてみた。
「たまに見えるときもある。調子のいいときね」
黒と青の皮鎧に身を固めた女戦士は、少年のような引き締まった面立ちに、笑みを浮かべた。
「今日は駄目。おなか空いてるし」
「ふむ、昨日の兎は小振りだったからな」
ジリニオンは小鼻にしわを寄せて声を立てずに笑った。
「私は魔法使いじゃない」
そんな場合ではなかったが、私は下生えの中で彼女を抱きたい衝動に駆られた。頭の上を何本もの矢が鋭い音を立てて飛んでいった。
叢を踏みつける足音が私の耳にも聞こえてきた。右手からは渓流をかき乱す水音も聞こえる。
「行くか」
「そろそろね」
ジリニオンは左手に、私は右手に、下草の中を素早く動いた。身を伏せながら堤の上に姿を現した敵が見えた。確かに二人、甲冑に身を固めたモンヴェルティ配下の兵士だ。
私は下草に身を隠しながら、短剣を投じた。喉元に命中したが、鎧に阻まれた。だが、敵の気を逸らすには十分だった。
私は叢から身を起こし、抜いた刀で一人の太股に斬りつけた。鎖帷子のない内股を刃が斬り裂き、兵士は前屈みになって倒れた。兜の下からのぞいた首筋に剣を叩き込み、兵士は死んだ。
もう一人が堤の上から飛びかかってくる。戦斧で私の頭を叩き割ろうとする。私は叢に身を転がして刃を避けると、背後から奴に斬りつけた。切っ先が革鎧を切り裂いたが、振り向きざま、唸りをあげて斧が迫ってきた。肘の辺りに斬りつけると、斧ごと奴の腕が飛んだ。悲鳴を上げる兵士の喉元を突き刺すと、静かになった。
大木の下では、二人の敵兵が血まみれになって横たわり、ジリニオンは大きな下生えの葉で刃の血を拭っていた。
「やれやれ、君と一緒じゃなければ、もう三回くらい死んでいるね」
女戦士は長剣を鞘に収めると、顎をつんと上げてふふんと笑った。手足の長い肢体に腰が締まった意匠の黒の革鎧がよく似合っている。鮮やかな深い青の洋袴に黒革の長沓、引き回しは洋袴と合わせた青色だった。
黒髪を首の辺りで切り揃え、涼やかな瞳も黒い。化粧もせず男姿だが、その美貌は隠せはしない。
「モンヴェルティの奴、本当にしつこい。あの樵が言っていた噂はでたらめかな」
「ふむ、ロシェカーがうまく逃げおおせたのなら、サレームの魔女たちに逆襲されてもおかしくはないがね」
「あの下種野郎が化け物の餌食になったことを、どこかの神に祈ろうか」
ジリニオンは吐き出すように言った。
「神様を選ぶのは難しいね。それに神と化け物の違いもよくわからない」
女戦士はうんざり顔でうなずいた。
ジリニオンとは、モンヴェルティ将軍の傭兵団で知り合った。私を乗せてきたイオロープからの船はメルカー東岸を目の前にして、〈海魔の環礁〉で座礁し、沈没した。嵐の海を漂流し、翌朝には何とかケニーズォートの海岸にたどり着いたが、イオロープを出るときに手にしていた幾許かの金貨はなくなり、私は一文無しになっていた。
ケニーズォートの港町はモンヴェルティの軍とサレーム旗下の女将軍ロシェカーの軍の戦闘の真っ最中だった。私は、沈没船の漂着物を略奪に来たロシェカー軍に殺されそうになったが、同じく略奪に来たモンヴェルティ軍のジリニオンに救われて、そのまま雇われ兵士となった。
世界を放浪する長い旅の末、メルカーに戻ってきても、東の玉座をめぐる戦いは終わっていなかった。玉座を争うイリヴァーツとシンデックの戦などには何の興味もなく、その戦の末端であるモンヴェルティとロシェカーの争いなど、まったくどうでもいいことだった。だが、メルカーはあまりにも広く、西海岸の宝玉都市はあまりにも遠い。大陸を横断してサンジェリィに向かうために、この地で当座の金を得るためには、他には仕事はなかった。
私はジリニオンとともに刃を振るい、傭兵としての仕事をこなした。敵軍の兵に恨みがあるわけでもなく、戦意が高揚することなどあるはずもなく、私は自分の命が危ないとき以外は留めを刺さずに、場合によっては目立たぬように敵を逃がしたりした。
ジリニオンは、最初それが不思議でならないようだった。
「スナブ・ランケン、どうして、おまえは敵を殺さない」
彼女は美しい面立ちに、素朴な表情を浮かべて、疑問を呈した。私には彼女のような美貌の若い女が傭兵などしていることの方が、よほど疑問だった。
「別に恨みがあるわけじゃないからね。僕は当座の路銀を手に入れさえできれば、それでいい。勲功をたてて、大将になりたいわけじゃない。だいいち、戦も軍隊も大嫌いなのさ」
ジリニオンは、珍しいものでも見るような顔つきで、私の顔をしげしげと見た。
「男はみんな大将を目指すものかと思っていたが、おまえはそうじゃないのか」
「君は詩人や絵描きや楽人を見たことがないのか」
「ああ、そういう者たちね。だが、そういう者たちは不具だったり、心根がひどく弱い者たちだろう。おまえは剣技に秀でた立派な剣士だ」
私は改めて東部の野蛮さを感じたが、彼女に責任があるわけではなかった。
「お褒め頂いて恐縮至極だが、僕は心根が弱い情けない男なのさ」
「そうか」
そう言うとジリニオンはいきなり私の肩をつかんで引き寄せ、荒っぽいくちづけをした。
「ふん、そうでもないだろう」
「いや、弱い男なのさ。特に君みたいに強い女性には、形なしさ」
ジリニオンは私に対する興味と欲望を隠そうともせず、私はしなやかで力強く、屈託のない彼女に、虚しい戦いへの慰めを見いだした。
彼女とそういう仲になって、すぐに気がついた。ジリニオンには特別な力が備わっていた。いつも、誰よりも先に、敵の気配に感づいた。山一つ隔てた谷に待ち伏せする敵兵を頭数と得物まで言い当てたこともあった。まるで見えない遠眼鏡でものぞいているかのようだった。私も傭兵隊も、彼女のその力のおかげで、幾つもの戦に勝利し、生き永らえた。
敵兵との斬り合いでも、その力は発揮された。まだ二十になるかならぬかの若さだったが、敵の一手を常に先読みして刃を振るい、次から次へと敵を屠った。
「君は魔道の心得があるのか。呪文を唱えているところも、神にも魔物にも祈りを捧げているところを見たことはないが」
ある夜、息が切れるほど交わった後で、私は尋ねてみた。その日、私は奪わなくてもいい命を奪い、いささか気持ちが荒んでいた。
「神様とか異界のものとか、ランケン、おまえは信じてるのか？」
「信用してはいないが、そういう名前で呼ばれるものは存在しているだろう」
ジリニオンはきれいに筋の通った鼻に、しわを寄せて苦笑いした。
「私はそんな奴らは知らない。ジャクレンの聖人もヴィンズク教やジクロイスの神も、〈失われた神々〉だって、知りはしない。でも、私にはわかる」
「ふむ、神様とかいう連中に頼らずに、いろんなことがわかるのなら、それに越したことはない。どうせ、連中は信用ならない」
「そうね、誰も信用できない、誰もね。私は神様なんて見たことない。でも、見えるものがある。誰も信じてなくても、見えるものは見える。魔法使いなんて、みんな頭がおかしいのさ。どこにいるのか知れない神様や精霊や魔神に頭を下げてつまらない力を得るなんて、みんな頭がどうかしている」
ジリニオンは自分は戦場に捨てられた子どもだと語った。母の顔も父の顔も知らない。物心ついた頃から、その特別の力を頼りに生き抜いてきたと言う。
「おかしな話だけど、本当に小さい頃の記憶がない。十くらいの頃、物好きな傭兵の大将に拾われた。その時はジリニオンという名前しか覚えていなかった。戦で大将が死んだ十四からは一人で生きてきた」
「ずっと傭兵稼業かい」
「いや、野盗をやっていたこともある。でも、貧乏な農民や羊飼いから略奪するのは、性に合わない。傭兵なら最初から戦が仕事と決まっている。すっきりさ」
ある意味で彼女は「良心的」な傭兵なのだろう。
二
しばらくは順調だった。モンヴェルティの軍団はケニーズォートを制して、北西のマプルークの谷に置かれたロシェカーの砦を目指した。ジリニオンの〈力〉によって本陣前の渓谷に潜んでいた強襲隊を発見し、山上から攻撃して追い散らした。そのまま砦に突入し、谷の奥からの別動隊と挟み撃ちにしてロシェカーの軍団を壊滅させた。女将軍は捕らえらたという噂だった。
夜は勝利の宴だった。ロシェカーの砦には食料も酒もたっぷりあった。煌々と燃える松明の明かりの中、誰かが弾く提琴の楽音にあわせて、兵士たちは野卑な歌を歌い、洗練とはほど遠いが、生き生きとした踊りを踊った。
ジリニオンは酔って近づいてきた男を二人ばかり殴り倒したが、上機嫌だった。
「将軍が来ている。朝には給金が出るらしいぞ」
誰かの噂を聞きつけて、ジリニオンが言った。モンヴェルティの軍団とはいうものの、私たちは将軍の顔など見たことはなかった。ケニーズォートからの一連の戦は、チャッシュという武将が率いていた。
「そうか、では、旅立ちだ」
ジリニオンは表情を変えず、杯に注いだ葡萄酒を飲み干した。
「西に行くのか」
「そうだ。サンジェリィを目指す」
「そこはいいところなのか」
女戦士は口の端から鳥の骨をはみ出させたまま尋ねた。
「そうだな。とても大きな街だ。交易で栄えている。港は帆柱の森のようだ。詩人や絵描きや踊り子が山ほどいる。酒場は夜明けまで開いている。戦はない」
「そうか。私には向いていないところみたいだな」
私はうまく答えられず、杯に残っていた酒を干した。ラグラン大通りを着飾って歩くジリニオンは、確かに想像しづらかった。
私たちは無言で次の杯を干した。
突然、ジリニオンが酒杯を落として、頭に手をやった。眉根にしわが寄り、額に汗が浮かんでいる。
「どうした」
「誰かが、誰かが、叫んでいる」
私の耳には宴の喧騒しか聞こえなかった。
「敵襲か？」
「違う。誰かが叫んでいる。子どもの声か女の声だ」
ジリニオンは立ち上がると、剣を手にして走り出した。
「おい！ どこへ行くんだ！」
私は慌てて外していた剣を腰に下げて、後を追った。酔っぱらった兵士たちの間をすり抜けて、ジリニオンは砦の奥に向かった。丸太を組み合わせて作った二階建ての建物に向かう。今やモンヴェルティのものとなったロシェカーの本陣だ。
本陣には傭兵隊ではなく、将軍直属の兵士が入り口を守っていた。誰何する衛士ｚを無視して、ジリニオンはずかずかと建物の奥の部屋に向かった。私の耳にも聞こえてくるものがあった。女の悲鳴、それもまだ若い、子どものような声だった。
奥の部屋の戸口には、箒と大釜を組み合わせたサレームの紋章を縫い取った布が、まだかかっていた。ジリニオンはその布を払って、中に入った。私もすぐ後に続いた。
全裸にされ後ろ手に縛られた女が、部屋の真ん中にいた。大柄な体躯に燃えるような赤髪の女だ。左肩から乳房にかけて月と蛇と蝙蝠の刺青がある。その蛇や蝙蝠の絵姿には、何本もの太い焼き串が突き刺され、血が流れ出していた。体中に赤黒い殴打の跡がある。股間からも血が滴っていた。
女は私たちが入ってくると、緑色のぎらつく瞳で、きっとこちらを見た。抵抗の炎は彼女の心中から、まだ消えてはいないようだった。あたりに散らばっている甲冑の立派な作りからしても、彼女が女将軍ロシェカーなのだろう。
部屋の中には他にも女達がいた。いや、子どもと言うべきだろう。七八歳くらいから十歳くらいなのだろうか。三人の娘がやはり後ろ手に縛られていた。一人は裸に剥かれ、股間から大量の血を流し、死んでいた。
二人の男がいたが、子どもを殺した男はすぐにわかった。背の高い椅子に座った黒い甲冑の男が、血まみれの短剣を手にしていた。顔の下半分が髭で覆われており、太い眉毛は左右がほとんどつながっていた。冷酷で暗い灰色の目が私たちを見た。
もう一人は痩せて血色の悪い男で、薄汚れた鼠色の長衣をまとっていた。木の実をつないだ数珠を幾重にも首にかけ、額から剃りあげた頭にかけて、青と赤で渦巻き模様と三角形を組み合わせた印を描いている。東部にはよくいるというヴィンズク教の僧侶崩れだろう。魔道士として雇われているのだ。
「何をしている」
ジリニオンが咽から絞り出すような声を出した。甲冑の男は驚いたような顔をした。
「は！ この儂が何をしているかだと！ それは儂の台詞ではないか！ 雇われ兵士が将軍の間で何をしている！ おう、おまえは女だな。そうか、おまえがジリニオンか。働きは聞いているぞ。これが終わったら、おまえの話を聞こうと思っていたところだ……」
「その子を殺したな」
ジリニオンはモンヴェルティ将軍の言葉を遮り、剣を引き抜いた。
灰色の法衣の男が、モンヴェルティとジリニオンの間に割って入った。
「将軍閣下、ここは私めにお任せを。心眼とやらの本当の力を試してみることとしましょう」
「ジャラーレスク、お前の法力とやらも試されてちょうど具合が良いだろう」
「御意」
禿頭の魔道士は深くうなずき、懐からも数珠を取りだし、握った。
「御主が心眼の持ち主とか言う女人か。聖なるヴィンズク様のお言葉を聞くが良い」
ジャラーレスクと呼ばれた男は、手にした数珠をまさぐりながら、怒りに表情を固くしたジリニオンをじっと見つめた。
「カウ、ワム、シャウ、チャウ、ツァ……」
僧侶崩れの魔道士は、口中でぶつぶつとよくわからない言葉をつぶやいた。
「ジリニオン！ 呪文だ、気をつけろ！」
何人もの衛士が部屋に入ってきたので、私は助けに行くことができなかった。ジリニオンは、わずかの間、男が唱える文句を聞いていたが、何の躊躇もなく剣先で道士の数珠を引っかけ、ばらばらにした。禿頭の男は短い悲鳴を漏らして、後退った。
「ジャラーレスク、何をしている！」
「は、将軍閣下、この女人にはヴィンズク様のお言葉は届きませぬ。それに、私には、この女人の心が、全く見えませぬ。この女人は〈呪われた力〉を持っていますぞ」
モンヴェルティは「この役たたずめ！」と魔道士に罵詈を浴びせた。
「貴様は子どもを殺したな！」
ジリニオンは抜き身を手に詰め寄った。将軍は血のついた短剣に一瞥をくれたが、冷たい瞳と強い声音には、何の変化もなかった。
「尋問をしているのだ。おまえなぞが口を挟む場ではない。ジャラーレスクの呪文も通じぬとは面白いな。これまでの働きに免じて、一度だけなら無礼も許そう。だが……」
ジリニオンは一度で済ませる気はなかった。長剣を振りかざすと、飛ぶような動きで雇い主に襲いかかった。モンヴェルティは子どもの血に染まった短剣を投じたが、女戦士はまるで予期していたかのように刃を避けて、真正面から髭面の将軍に斬り込んだ。
モンヴェルティは手甲で何とか攻撃を受け流すと、椅子ごと後ろにひっくり返った。大きな木の椅子が邪魔をして、ジリニオンは斬りつけることができなかった。
「出会え！ 謀反だ！」
衛士が大声で叫ぶ。たちまち部屋の中は剣戟の場と化した。私はジリニオンに襲いかかろうとする衛兵に一撃を加え、注意を分散させた。
「ジリニオン、何をするつもりだ！」
私は彼女の意図をつかみきれなかった。
「知れたことよ！ 子ども殺しを殺すのさ！」
単純な答えが返ってきた。女剣士は短髪をたてがみのように振り立てて、逃れようとする将軍を追った。私は後ろから彼女に斬りつけようとする衛士を二人ばかり倒して、入り口の方へ向き直った。次の敵が現われるまでわずかな間が合った。私は縛られた女と子どもの縄を切った。
「立てるか！ 逃げろ！」
「かたじけない」
女将軍ロシェカーは乳房に刺された焼き串を引き抜いた。傷口から新たな血が流れ出した。
私は自分の引き回しを裸の女の肩にかけ、入り口から突進してきた兵士の剣をはじき飛ばすと、逃れようとするモンヴェルティをジリニオンと挟み撃ちにした。
「貴様ら！ 何の真似だ！」
黒髭の将軍は膂力もあり動きも素早い、歴戦の男だった。手にした大剣をまるで短剣のように素早く振り回し、私とジリニオンの攻撃を受け続けた。
「よくわからんね」
私は本気でそう答えたのだが、モンヴェルティは気に入らなかったようだ。激しい突きが既のところで、胴に入るところだった。
「愚弄するか！」
将軍は次の一撃を繰り出したが、ジリニオンの剣がその刃を叩き、私は救われた。
「地獄に落ちろ！」
ジリニオンの次の一撃がモンヴェルティの頭を打ち砕くかと思われたが、将軍は素早く半身を引いて、長沓でジリニオンの脛を蹴った。体勢が崩れたところへ、反撃の刃を繰り出したが、戸口から入ってきた新手が振り回す槍が、かえって将軍の邪魔をした。
「馬鹿者！」
室内は再び混戦となった。見れば、拷問を受けていた女と二人の子どもは、部屋の奥の別の扉から姿を消すところだった。これで、ジリニオンの目的の一つは果たされたのだろうか。
私は篝火を蹴倒し、戸口の掛け布を引きはがすと火の上に投じた。大きく炎が上がり、本陣は更なる混乱に陥った。
「ジリニオン、逃げよう！」
背中合わせに、次々やって来る兵士たちと斬り結びながら、私は女たちが逃げた裏手の扉を目で指し示した。
「うむ」
ジリニオンは少し不満そうな顔したが、子どもたちとロシェカーがすでに部屋にいないのを確認すると、面持ちが変わった。
「今晩はこれまでか」
女戦士は尋常ではない速さで、出口への道を切り開いた。瞬く間に三人の兵士が血を噴いて倒れる。私は側面と後ろから来る奴らを引き受けた。
「逃すな！ サレームの犬だぞ！」
モンヴェルティの大声が聞こえた。だが、私たちは陣営の裏手から谷の奥へ、山の中へと逃れた。わずかな月明かりしかなかったが、ジリニオンは驚くべき正確さで山道を走った。私はついていくのに精いっぱいだった。黒々と木々がそびえる森の中を、無数の追っ手の矢が飛んできたが、一本も当たることはなく、夜気と木々の梢を震わせるだけだった。
東の空が白む頃、私たちは尾根の上に立ち、はるか眼下の砦を見下ろしていた。朝餉の支度か、薄白い煙が細く上っている。
「そろそろ話を聞こうか。今ごろ、砦では傭兵連中に給金が支払われてる頃だろう。僕は西に旅立つつもりだった」
夜通し山道を走ったジリニオンの顔は薄汚れて、目の下には隈ができていたが、それでも表情には輝きのようなものがあった。
「巻き込んで済まなかったな。次に給金をもらったら、みんなおまえにやるよ」
「そんな話を聞きたいわけじゃない」
ジリニオンは乱れた髪をかき回して、一人で納得するようにうなずいた。
「声が聞こえたんだ、頭の中に。ひどい目にあっている子どもの悲鳴、それから……」
彼女が言い淀んだので、私は黙って待った。少しの間を置いてジリニオンは言葉を続けた。
「あの女の声だ。私に呼びかけていた。おまえの力が……って」
「女将軍ロシェカーと知り合いなのか」
ジリニオンは首を振った。
「そんな偉い奴に知り合いはいない。兄弟姉妹も両親も知らない、天涯孤独の身だ」
ロシェカー将軍はサレームの生まれだという話は聞いたことがあった。サレームは幾多の女魔道士、妖術師を輩出している〈魔女の町〉だった。心眼を持つジリニオンと縁があっても、おかしくはないように思えた。
「ランケン、おまえの考えていることはわかる。だが、私は魔女じゃない。魔道書なんて見たこともないし、呪文も知らない。異界のものなどと、かかわったこともない。サレームのことなど知らない」
「ふむ、まあ、いいさ。君はひどい目にあって殺されそうな子どもを救ったんだ。いいことじゃないか」
「ちょうど、拾われた頃、同じくらいの歳だったのさ。だから、ひどく許せないと感じたんだ」
彼女はこれまでの傭兵稼業で、もっとひどいことを見聞きしてきたのではないか、という疑念が起こったが、私は黙っていた。何か、特別な何かが、彼女の中で起こっている気がした。
「ロシェカー達はどうなったんだろうね」
私は話題を変えてみた。
「うまく逃げ延びた。そういう、何だろう、言葉じゃない、そういう感じが夜明け前に伝わってきた」
「そうか。子どもたちもか」
「多分、そうだと思う」
私は戦いの行く末には興味はなかったが、二人の子どもの命を救うことに寄与できたことは、うれしかった。ジリニオンの言う〈感じ〉が、どこまで正しいのかはわかりはしなかったが。
モンヴェルティは執拗に追っ手を差し向けてきた。ジリニオンの〈力〉の助けも借りて、その度に撃退したが、私たちは追われるようにアプラーチェ山中を北西に向かって移動した。モンヴェルティの手からロシェカー将軍を助けた以上、サレームに出向いてそれなりの報償を得るというのが、傭兵としての筋道だったが、私たちの道行きは海沿いのサレームからは離れるばかりだった。
やがて、ジリニオンは奇妙なことを言うようになった。
「誰かが私を呼んでいる」
「頭の中でかい」
「そうだ。誰かがこの森と山の先で私を呼んでいる。ぼんやりとしているけど、そういう声が聞こえるんだ」
「またロシェカーが君を呼んでいるのかい」
「わからない。あの時みたいにはっきりとは聞こえない。でも、誰かが呼んでいるんだ。ロシェカーとは違うような気がする」
彼女の黒い瞳は、青空の向こうのとても遠いところを見ているように思えた。
「ふむ、そうかい。路銀もないし、君の心の声につきあうしかないね」
ジリニオンは少しだけうれしそうな顔をした。
三
「あそこだ。あそこから声が聞こえてくる」
ジリニオンは梢の向こうを指さした。幾重にも重なる大木と緑の葉叢の隙間に、かろうじて灰色のものが見えた。
「知っているのか」
「いや、知らない。ただ、あの建物から何かが聞こえてくる」
「ふむ、まあ、行ってみよう」
四人の敵を倒してから半日ほど歩き、木立の中には斜めの金色の光が差し込んでいた。しばらくぶりに屋根のあるところで眠れるのだろうか。
ジリニオンは足を速めた。黒い瞳は何かに憑かれているようにも見えた。森が切り開かれて、高い丸太の柵が四角く巡らされていた。上部は尖り、高さは十イート（約三メートル）はある。柵の向こう側に黄灰色の背の高い建物があった。子どもが四角と三角の積み木を重ねたような何の飾り気もない木造の建物だ。柵のこちらから見えるのは上半分で、二階には露台とも胸壁とも見える張り出しがある。三階は物見櫓のように見える。いくつか見える小さな窓は赤錆びた鉄の鎧戸が閉まっていた。
門扉は重そうな板戸に鉄枠の補強が為されていた。柵も扉も緑色の苔がこびりつき、鉄枠は錆びていた。古びた砦のようにも見えたが、紋章も何もなく、住人を想像するのは難しかった。樵や猟師の家でないことは確かだろうが。
ジリニオンは門扉を掌で押した。その手が震えていることに私は気づいた。
「何か感じるのか」
「わからない。声が声でなくなってしまった。何かわからないものがここから……」
そういう彼女の額には汗が浮かんでいた。私は剣の鯉口を切った。
扉は動かなかった。ジリニオンは何度か拳で叩いた。
「裏に回ってみよう」
私には彼女のような特別な力はなかったが、ここを離れた方がいいことぐらいはわかった。だが、ジリニオンは納得はしないだろう。
「ああ」
女戦士は扉から手を放すのにも、抵抗があるようだった。彼女がようやく私と一緒に柵にそって歩き出したとき、錆びついた蝶番が軋む音がして、扉が開いた。
「どなたでしょうか」
半分ほど内側に開いた扉から、女が顔を出していた。まだ若いのだろうが、白い肌は奇妙にくすんで見えた。いくらか頬がこけ顎が尖っている。古びた卵色の貫頭衣を着て、艶のない黒髪を頭の後ろで縛っていた。前髪は斜めに額にかかり、その下の黒い瞳は伏し目がちで、どこかぼやけたように生気がなかった。
その女とジリニオンは、どこかが似ていた。黒髪と黒い瞳以外は顔の造作も違っているのに、奇妙な相似がそこにはあった。
ジリニオンは女の声がすると歩みを止めて、目を丸く見開き、胸を膨らませて息を飲み込んだ。それから、ゆっくり振り返った。
女戦士は革鎧の胸を押さえて、荒く息を吐いた。額にはまた汗が浮かんでいた。灰色の砦の女は、ジリニオンを見てすっと目を細めた。記憶を探っているかのように見えた。探し物が見つかったのか、彼女は一瞬目を見開き、来訪者を見たが、すぐにうつむいてか細い声で言った。
「何のご用でしょうか」
ジリニオンが黙っているので、私が答えた。
「旅の者だ。山道で迷った。一晩泊めてもらえないだろうか」
女は無言で扉を開き、私たちを迎え入れた。
柵の中の庭には、わずかばかりの畑があり、伸び放題の木々と草が、その周りと建物へ向かう道のあたりだけ刈り取られていた。鶏が何羽か、草をついばんでいた。
灰色の家は一階は玄関屋根が四角く飛び出し、かろうじてただの方形に変化をつけていた。小さな窓にはどれも錆びた鉄格子がはまっていた。ここは牢獄なのだろうか。だが、こんな辺鄙な森の奥にわざわざ誰が獄舎を建てるだろうか。
女は黙って私たちを玄関まで導いた。風雨に晒された扉を開けると「どうぞ」と短く言った。
幾つかの燭台に灯が点っていたが、家の中は薄暗かった。玄関広間は中央に大きな机があり、椅子が何脚か無造作にその周囲に置かれている。奥には階段があり、他の部屋に続く扉も幾つかあった。暖炉に火は点っていなかった。
男が椅子から立ち上がり、私たちを出迎えた。薄汚れた白い長衣を羽織った猫背の痩せた男だ。丸い眼鏡をかけ、灰色の髪は乱れていた。女が何事かささやくと、男は眼鏡の位置を直してジリニオンの方をじっと見た。得心がいったかのように小さくうなずいた。私には一瞥をくれただけだった。
ジリニオンの眉根にはしわが寄っていた。見たくないものを無理して見ているかのような、苦い表情だった。
「道に迷ったとのこと、お困りでしょう。今夜はここにお泊まりなさい。何のもてなしもできないが、夜露をしのぐことはできる」
男はぎごちない笑みを浮かべて歓迎の意を表した。丸眼鏡の奥の目には抑えた何かがあるように思えた。
「ありがたい。僕はスナブ・ランケン、こっちはジリニオン」
ジリニオンはまだ苦い面持ちのまま、小声で「かたじけない」と言った。眼鏡の男は何度も小刻みにうなずき、両手の指をこすり合わせた。
「私はクーライ、クーライ博士です。世の喧騒と戦を避けて、ここで暮らしています。これは娘のロニーペル」
女はうつむいたまま一礼した。クーライと名乗る男は、眼鏡の奥の小さな黒い目でじっとジリニオンを見つめた。
「私の顔に何かついているとでも言うのか」
ジリニオンが苛立って、とうとう口を開いた。
「いや、女人の武者など見たことがないもので。失礼した」
そういうクーライの視線は、なおもジリニオンから離れがたいように見えた。
私たちは一階の廊下を挟んだ部屋を宛てがわれた。私の部屋はごく狭く、質素な寝台と椅子、机があるきりだった。長らく使われていないようで、黴臭く、埃が積もっていた。小さな窓があったが、鉄格子がはまっていた。
ロニーペルが食事の支度ができたら呼びに来ると言い残して去ると、すぐにジリニオンが廊下の向かい側の部屋から私を呼ぶ声がした。
「ランケン、見てくれ。何だい、この部屋は」
ジリニオンの部屋には窓はなかった。狭い室内には寝台と机、椅子があった。何の装飾もない無味乾燥なものだったが、どれも小さく、子ども用としか思えなかった。机の上には木の椀が三つ伏せて置かれていた。この部屋も長く使われていないようで、埃が積もっていた。
「どういうつもりなんだ」
「あの女は何か言ってたかい」
「いや、部屋の前で、ここです、と言って、さっさと行っちまった」
「ふむ、君が小柄に見えたのかな」
「馬鹿言え」
ジリニオンは私とほとんど同じ背丈があった。女としては長身だ。
彼女は机の上に置かれた、薄黄色の木の椀を手に取った。椀の中には骰子が一つ入っていた。
途端にジリニオンは雷に打たれたかのように、全身を硬直させ、頭と胸を押さえてうずくまった。
「どうした！」
彼女は苦しそうな息を吐きながら「大丈夫だ、ただ、何かが……」と言った。
「僕の部屋に行こう」
私は彼女の腕を取って、廊下を挟んだ部屋に連れて行った。ジリニオンは、寝台に身を横たえると、胸を大きく上下させて、息を整えていたが、しばらくすると、平静を取り戻して半身を起こした。
「私の部屋には窓もない。こっちの方がまだましだね」
彼女は立ち上がり、鉄格子を握ってゆすってみたが、錆びてはいるものの、役目は果たしているようだった。
「あの部屋に何かあったのかい」
「わからない。あの骰子を見た途端に、気分が悪くなった。何だろう、わからないんだ。凄く嫌な感じがした」
ジリニオンは苛立ち、不安を感じているようだった。私は少し違う話をしてみた。
「君を呼んでたのはあの陰気な娘かい。それとも世捨て人の先生の方かい」
ジリニオンは革の胴鎧を脱ぎ捨てながら答えた。
「それも、よくわからない。いや、あの博士じゃあないね。でもあの娘なのかどうなのか。ここに入ったら、声はぼやけてますますわからなくなった。ここは変な場所だ。このあたりが重苦しくしょうがない」
ジリニオンは鎧から開放された胸乳を押さえて頭を振った。細身だが、意外と乳房は豊かだった。
「頭の中もずっともやもやしている。何だろう、何か思い出せないことがあるみたいだ」
「君がわからないことで、僕がわかることはあまりないね。とりあえず、一晩ここで過ごしてみるしかないか」
私たちは家の中を探索しようかと策を練ったが、部屋から出る前にロニーペルが食事の支度ができたと迎えに来た。
ジリニオンがロニーペルに食ってかかるかと思ったが、女戦士は何も言わなかった。
「彼女の部屋は子ども部屋だった。寝床が小さすぎる。他に部屋はないのかい」
私の問いかけに、ロニーペルは振り向きもせずに、静かに答えた。
「他に部屋はありません。辛抱してください」
食事は玄関広間に用意されていた。暖炉には細い火が入り、幾つかの燭台の火と共に部屋の中をくすんだ黄色に染めていた。薄味の汁で、鶏肉と雑穀と野菜が煮込んであった。曇った銅杯に注がれた葡萄酒は苦味があった。
「どちらまで旅を」
食卓の上に置かれた蝋燭の炎が眼鏡に映り、クーライ博士の表情は読み取り難い。
「サンジェリィまで」
私の答えに博士は少しばかり肩をそびやかした。
「それは、それは。サンジェリィなら、昔、しばらくの間いたことがありますよ。長旅になりますな。見たところ、どこぞの陣中の騎士殿とお見受けしますが」
ジリニオンと私は顔を見合わせて苦笑した。騎士殿とはずいぶんとよく見てもらったものだ。
「ただの雇われ者さ。モンヴェルティの軍にいたんだが、戦にはもううんざりしたんでね。西岸に行ってやり直そうかと」
「モンヴェルティ将軍とサレーム勢は、なかなか決着をつけられないでいますからな。モンヴェルティは劣勢なのですか」
隠遁生活を送っているくせに、戦況に関心があるのだろうか。
「それはまだわからない。サレームの魔女が召喚した化け物にやられて敗走したという噂もあるが。いずれにせよ、サレームからの本隊がロシェカーの陣に到着すれば、マプルークの谷で決戦だろうがね」
クーライ博士は骨張った指で杯をつかみ、葡萄酒を飲んだ。私も飲もうとしたが、杯は空だった。ロニーペルがすぐに気づき、私の脇に来て瓶から酒を注いでくれた。
「あなたもいかがですか」
ロニーペルに声を掛けられたジリニオンはまた胸のあたりを押さえて、首を振って断った。この娘と口をきくのは、どうにも抵抗があるようだった。
「学者なんだろう。こんな山奥で何をやってるんだ」
ジリニオンの問いに、クーライ博士は薄い唇の端を持ち上げて、笑いのような表情を作った。
「生き物について研究をしています。森の様々な生き物について。彼らがどのように危険を感じて、どのようにそれを避けるのか、あるいは仲間に伝えるのか、そんな研究をずっとしているのです」
ジリニオンは困惑したような面持ちになり、葡萄酒を飲み干した。ロニーペルが注ぎに来ようとするのを制して、自分で瓶から酒を注ぎ、もう一杯飲んだ。
「ある種の生き物は、言葉を持たずとも、危険を仲間に伝える力を持っています。吠え声や鳴き声とも違う何かです。あるいは遠くから忍び寄る敵や、場合によっては天変地異を感じ取る力も」
「沈む船から鼠が逃げ出すとか、そういうものかい」
「まあ、そんなものです」
イオロープからの船が沈む前に鼠たちがどうしたのか、観察しないでしまった。
クーライの話を聞いていると、頭の中のどこかで記憶の欠けらがわずかに動いたような気がした。クーライという名前だろうか、それとも、生き物の特別な力に関する話だろうか。
サンジェリィでも研究をしていたのなら、シュヌベル大学にいたこともあるのだろうか。放浪の旅に出る前には、私はシュヌベル大学の学生だったが、クーライという教授がいたかどうか、すぐには思い出せなかった。
私がそのことを尋ねようとした時に、ジリニオンが青い顔で立ち上がった。
「長旅で疲れている。すまないが、休ませてもらう」
「おや、それはいけませんな。今夜はゆっくりお休みなさい。ロニーペル、部屋まで案内を」
クーライが慇懃な調子で言い、娘は立ち上がりかけたが、ジリニオンは手振りでそれを制した。
「いや、もう道は覚えたよ。また、子ども部屋に案内されては困る」
「そうですか。それでは良い夢を」
私もジリニオンとともに寝室へ戻った。彼女は廊下でふらつき、膝をつきそうになった。
「大丈夫か」
寝床に横たわった彼女の額には、また汗が浮かんでいた。掌で拭うと奇妙に冷たかった。
「何だか、よくわからない。あの女が近づくと、頭の中に渦巻きが起こって、胸が苦しくなる。それに、やっぱり別な声もするような気がする」
「別な声？」
「ここに私を呼んだ声だ。言葉にならない声だ」
「すぐ、ここを出よう」
「いや、ここを探る。いったい何がどうなってるのか、どうしても知りたい」
女戦士は寝台の上で半身を起こそうとしたが、できなかった。
「少し休んだ方がいい。家捜しをするには、まだ早い時間だ」
彼女はうなずき、瞼を閉じた。私は椅子に腰掛け、鉄格子のはまった窓越しに見える月に目をやった。弦月から少し膨らんだ月はぼんやりとした白い光を放っていた。薄く霧が出ているようで、乱れた庭木も柵も、その向こうの森も、霞んで見えた。
睡魔が私を襲い、白い霧と月光に包まれるような感覚の中、私は眠りについた。
四
女の呻き声で目が覚めた。寝台の上でジリニオンが身悶えしていた。額と胸を押さえて、苦しげな声を漏らしている。
彼女の側に寄ろうとしたが、その時、私は部屋の中に何かがいることに気づいた。
部屋の扉の前に、青白い人影が立っていた。膝上くらいまでの白い寝間着姿の若い女だ。裾からのぞく足は棒のように細い。瞼のすぐ上で真っすぐに切り揃えた黒髪も青白い燐光を放っているように見える。逆三角形の小さな白い顔の中に黒目がちの瞳がやけに大きく見えた。小さな唇は色がほとんどなく、死人のようだった。
その唇が動いて、言葉を発した。垣間見えた口の中だけがやけに赤かった。
「ジリニオン」
青白い女は消え入りそうな声でそう言った。
「ジリニオン……」
女はもう一度呼びかけると、静かに寝台の方へと近づいてきた。
名を呼ばれた女戦士は「誰だ！」と叫ぶと、かっと目を開いて身を起こした。だが、近づいてくる白い女を見ると、凍りついたように身じろぎもできなくなった。
私もまた異様な恐怖を感じていたが、体を動かすことはできた。寝台と白い女の間に入って、剣を抜いた。
「おまえは誰だ」
私の姿に白い人影は小首をかしげて不思議そうな面持ちになった。それから「パトゥーヌ」と一言だけ答えた。それが彼女の名前なのだろうか。
女は右手をすうっとあげると、こちらに突き出して近づいてきた。背後でジリニオンの呻きともすすり泣きともとれる声が聞こえた。
「おまえは何者だ。それ以上近づけば斬る」
パトゥーヌと名乗った娘は艶いた小さな笑いを浮かべると、そのまま歩み寄ってきた。全身から冷や汗が噴き出した。剣を振り上げようとしたが、異様な重さを感じて動かすことができない。
「……ジリニオン」
もう一度女はその名を呼んだ。ジリニオンの大きな悲鳴が響いた。その声が一瞬呪縛を立ち切った。私は剣を振り上げ、白い娘に斬りつけた。
何の手応えもなかった。刃は女の肩口から腰まで斬り裂いたはずだったが、まるで風に吹き払われる白い霧のように、その部分だけが消え去り、次の刹那には全身が雲散霧消した。
「ランケン！」
背中からジリニオンが抱きついてきた。暖かい涙と冷たい汗を首筋に感じた。
「あれは、あれは何？ でも、私、知ってるような気がする」
ジリニオンはひどく混乱していた。私はしがみついてくる彼女の腕をようやく一度引き離して、体の向きを変えると固く抱きしめた。
「知ってるって？」
「わからない。わからないけど、あの白い女のことは知っているような気がする」
しばらくして少し落ち着くと、ジリニオンは私から離れて、脱ぎ捨ててあった胴鎧を身に付け始めた。
「大丈夫なのか」
ジリニオンはうなずいて、腰帯に剣を佩いた。
「確かめるんだ。ここが何なのか、あの女やロニーペル、博士が何者なのかを。そうでないと頭がおかしくなりそうだ」
「このままおさらばして、二度とこのあたりには近づかないっていう手もあるが」
「そういうのは性に合わないんだよ」
「ふむ、そうだろうね」
私は彼女が鎧の留め金を締めるのを手伝った。
私たちはそっと廊下に出て、あたりの様子をうかがった。手燭をかざしてみたが、誰かがいる様子はなかった。右手は建物の奥へ向かい、扉がある。左手に行けば玄関広間だった。
「奥を探ってみるかい」
「しっ！」
蝋燭の光の輪の中に浮かんだジリニオンの横顔はひどく硬く、黒い瞳にはまだ恐れの色が残っていた。だが、逃げるという選択肢はないようだ。
「広間だ。広間に何か……」
そう言って彼女は私の手を握った。汗ばんで少し震えていた。
私たちは剣を抜いたまま、廊下をゆっくりと左に向かった。玄関広間に通じる扉はわずかに開いていた。中からは蝋燭の明かりと、青白い何かの光が漏れ出していた。隙間からのぞくと、椅子に座ったクーライ博士の姿がみえた。丸い眼鏡には蝋燭の灯ではない、白いぼんやりとした光が映っていた。
声が聞こえた。
「おまえの〈力〉が必要なんだ。これが最後の機会なんだ。おまえだって、姉妹が帰ってきて嬉しいだろう……」
絞り出すようなクーライ博士の声だった。
「今度はうまくやる。今度こそだ。おまえの時は失敗したが、今度は大丈夫だ。おまえのせいで儂は……いや、おまえのおかげか……おまえが呼び戻してくれたんだな……ああ、パトゥーヌ……」
クーライ博士は哀願とも呪詛ともとれる奇妙な調子で白い影に語りかけた。椅子に座った体は前後にぎくしゃくと揺れていた。
「笑うな！ 儂を笑うな！ おまえたちの父親だぞ！ おまえのせいで儂は……笑うなと言っているだろ！ 消えろ、パトゥーヌ！ 部屋へ帰るんだ！」
博士は突然燭台を投げつけた。嘲るような笑い声が聞こえたような気がした。扉の隙間から白い人影が四散するのが見え、燭台が床に落ちる音が聞こえた。暗い部屋の中で、博士は卓子の上に両肘をつくと、両手で顔を覆い、すすり泣いた。眼鏡を外して、溢れ出た涙を掌でこすった。
のぞいている間、ジリニオンはずっと私の手を握っていた。白い影が消えるときには、痛いほどの強さで私の手を握った。
その時、ジリニオンではない誰かが私の上着の裾を引っ張った。驚いて剣を突き出すと、「ひいっ！」という短い声が聞こえた。手燭の光の中に見えたのは、ロニーペルだった。
「逃げて、ここから逃げて」
ロニーペルは青ざめた顔にひどい脅えの表情を浮かべて、かすれ声を出した。
「どういうことだ。そろそろ誰かが説明してくれてもいいだろう」
「気づかれます。こちらへ」
青ざめた女は剣先に追われるように、後退った。私たちは寝室に戻った。扉を閉めるとロニーペルは内側から掛け金を締めた。
ジリニオンはロニーペルが近くにいると、どうにも落ち着かないようだった。剣を抜くと切っ先を女の白い喉元に突きつけた。
「もう、うんざりだ。この幽霊屋敷はどうなってるんだ。おまえが近づくとどうして、こんなに奇妙な気分になるんだ。私は、私とここは……」
ロニーペルはジリニオンの話を遮るように口を開いた。
「はやく逃げるのです。クーライ博士はあなたが欲しいのです。はやく逃げないとあの子たちが来ます。私が裏口へ案内します。さあ、はやく！」
「逃げるのは性に合わないんだよ。あんたやあの博士、あの白い幽霊は何者だ。私とどんな関係があるんだ。それを知るまではここを出られない……何だ、これは！」
ジリニオンは言葉を続けることができず、頭を押さえてうずくまった。
「もう、遅いわ、あの子たちが」
ロニーペルは泣き顔になって頭を振った。廊下の向こうから物音が聞こえた。不規則なばたばたとした奇妙な足音が聞こえてきた。くぐもった呻き声、獣の鳴き声のような音も。
部屋の扉が乱暴に叩かれた。唸り声のようなものが聞こえる。かろうじて「開けろ！」と言っているようにも思えたが、ただの獣の声のようにも聞こえた。
「戻りなさい！ ビーズェス、クーズェス、戻るのよ！」
ロニーペルは扉に張り付くようになって、そう叫んだ。扉の外の何者かは、ますます激しく扉を叩き、荒れ狂った吠え声をあげた。
「駄目だわ、あの薬よ！ 何を言っても無駄だわ」
ロニーペルが悲痛な言葉を口にするのと同時に、掛け金が吹き飛び、扉が乱暴に押し開かれた。扉に突き飛ばされたロニーペルは寝台の脇まで転がり、鼻血を噴き出して呻いた。
廊下から入ってきたものは、思いの外、人間らしい姿をしていた。がっしりした胴体から頭と手足がちゃんと生えていた。右腕は二本あり、足は三本あったが。右肩には子どもの頭くらいある大きな出来物が盛り上がっていた。
身の丈は五イートほど（一メートル半）だが、異様に肩や胸が大きく、裸の肩には大きな肉が盛り上がっていた。額が異常に膨らみ、申し訳程度の髪の毛がその上に垂れ下がっている。顔は鼻の辺りが凹んだようで、丸い血走った目は左右で位置が随分違っていた。ぎざぎざの裂け目のような口からは乱杭歯が飛び出している。
下半身は上半身に比べて貧弱に見えたが、腰に巻いた薄汚れた布から突き出した三本の足は、脛から下に逆向きに節があり、まるで犬の足のようだった。
私は血の泡を吹いているロニーペルを窓際の壁まで引きずり、長剣を手に怪物と対峙した。ジリニオンも苦悶の表情を浮かべながら、どうにか剣を構えていた。背後は鉄格子の窓だけだった。退路はない。
怪物は二本の右腕を振り回し、部屋の中に突進してきた。私は少なくとも一本の腕には斬りつけ、赤黒い血がほとばしったが、奴は痛みなど感じないようだった。もう一本の右腕か、あるいは左腕かの拳に、私は殴り飛ばされた。口の中に塩辛い血の味が広がった。
ジリニオンが私の前に立って、剣を振りかざした。
「化け物！ 死ね！」
女戦士の剣が降り下ろされようとしたその刹那、ロニーペルの悲しい声が響いた。
「駄目よ！ 殺さないで！」
ジリニオンは一瞬躊躇した。だが、怪物はためらわなかった。太い腕がジリニオンの側頭部をまともに捉え、寝床の脇の壁まで吹き飛ばした。ジリニオンは呻きもせずに動かなくなった。
私は剣を構え直し、化け物の股間から剣を突き上げようとした。ロニーペルが私の腕にしがみついた。
「やめて！ いい子なのよ、ビーズェスもクーズェスも！」
白い顔を血まみれにした女は、私の腕をつかんで放さなかった。私が一瞬彼女の方を振り返った隙に、太い腕が頭上に降ってきた。鉄格子の窓から見える月のまわりに星々が煌めき、私は気を失った。
五
気がつくと縛られて床に転がされていた。寝室ではなく、黴臭い廊下だった。壁の燭台から広がる光の輪の中に、がっしりとした扉が見えた。黒光りする漆喰で塗り固められ、錆びた鉄の輪の取っ手がついていた。大きな錠前が三つもかかっている。扉の下の方には、また小さな扉がついており、そこにも鍵がかかっていた。
すぐ隣には椅子があり、ジリニオンが縛られ、座らされていた。俯いた顔が見えた。目は開いていたが虚ろで、眼差しはどこにも向いていないように見えた。
扉の前にはクーライ博士とロニーペル、それにビーズェス、クーズェスと呼ばれていた化け物が立っていた。ロニーペルは肩を震わせて、泣いているように見えた。
怪物はせわしなく頭を動かし、奇妙なしゃべり声のような音を出している。燭台の近くに立っているので、様子がよく見えた。右肩に大きく盛り上がった腫れ物には、顔がついていた。血走った一つ目、二つの穴のような鼻、歪んだ裂け目のような口が、赤紫色の出来物の上についていた。しゃべり声のような音は、どうやらその第二の頭からのものらしかった。第一の頭はその声に応じてうなずいたり首を振ったりしているらしい。どちらがビーズェスでどちらがクーズェスなのだろうか。
クーライ博士は背中で手を組み、薄笑いを浮かべていた。丸眼鏡の奥の小さな黒い目には喜びと興奮の色が見えた。
「騎士殿もお目覚めかね。今夜、うまくいけば、実験台の人間がこれから必要になる。おまえは頑健そうだから、役に立ってもらうよ。では、そろそろ始めようとしようか」
「何をするつもりだ」
口の中が切れているらしく、しゃべると血の味がした。
「ようやく、娘が帰ってきたのだ。今度こそ、成功させる。私の力で超人が生まれるのだ。百万の軍隊にも勝る力を持った超人だ。魔道士や妖術師ではない。人間の力を超えた力を持つ人間だ！ 意志の力ですべてを動かし、破壊できる人間だ！ クァロニアン帝国ですら、実現できなかった超人を私が作り出すのだ！」
最後の台詞を聞いて、頭の中で動いていた記憶の欠けらが然るべき位置に収まった。シュヌベル大学にいた頃、クァロニアン帝国時代の禁断の研究を行おうとして、大学を追放された教授がいたという話を聞いたことがあった。人の心を読んだり、壁の向こうのものを言い当てたり、思念の力でものを動かしたりする研究だ。貧しい学生を金で雇って、怪しげな薬で人体実験を行い、死人が出たという噂だった。
私がシュヌベル大学に入るよりも前の話だが、その教授の名は、確かクーライと言ったはずだ。
クーライ博士は小振りの香炉を取り出すと、蝋燭から火を移し、ジリニオンの前の床に置いた。薄い煙があがり、嗅いだことのない香りが広がる。奇妙な匂いだが不快というわけではなく、むしろ殴られて痛む頭がすっきりするような気さえした。
「どうかね、なかなかいいものだろう。おまえにとっても、気付け薬にはなるだろう。だが、私の娘たちにとっては、もっと別の効能がある」
「いい薬だね。おかげで思い出したよ。僕はこれでもシュヌベル大学の元学生だ。あんたの噂は聞いたことがある。帝国の禁断の秘薬を使って超人を作ろうとして、追放された教授っていうのは、あんただろう」
クーライは少しばかり驚いたようだった。丸眼鏡の奥で小さな目が見開かれるのがわかった。
「ほう！ 騎士殿は学士様でもあったか！ こんな蛮夷の地でそんな人間に出会えるとは。さよう、いかにも私はシュヌベル大学を追われた身だ。だが、この東部に来て、私は見つけたのだ。帝国末期に研究されていた超人兵士の子孫の村だ。迫害を逃れて、大陸の果てまでやって来たのだ。だが、その村もこの戦乱の中で、滅びようとしていた。そこから私はこの子たちを救い出したのだ」
「なるほどね。その割には、娘たちにはあんまり感謝されていないようだが」
クーライはひどく私の腹を蹴った。存外、気の短い男なのかもしれない。息が詰まって、次の台詞が出てこなかった。
「スナブ・ランケンとか言ったな。そうか、どこかで聞き覚えのある名だと思ったが、あの堅物の息子か！ その嫌みな口の聞き方はそっくりだ。おまえの父親には恨みがあるぞ。私を追放した急先鋒の一人だからな。帝国の遺産など一欠けら残らず、港に捨ててしまえと言いおった！ では、息子の体で帝国の遺産の意味合いをたっぷり試させてもらうこととしよう」
クーライは香炉にもうひとつかみの粉末を入れた。さっきのものとは違う、刺激のある匂いがあたりに広がった。香炉をジリニオンの鼻先に持っていき、薄白い煙を吸い込ませた。
椅子に縛られている女戦士の息が荒くなっていくのがわかった。虚ろな目に光が灯ったかのように見えた。すすり泣いていたロニーペルが両手でこめかみを押さえて頭を振った。縛った黒い髪が頭の後ろで揺れた。ビーズェスとクーズェスは、奇怪な会話を続けていたが、余分な手足が奇妙な踊りのように動いた。
「やめて！ こんなことをしても、何にもならない、パトゥーヌの〈力〉を抑えることなんてできないわ！」
ロニーペルが泣きながら叫んだ。
「もう抑える必要もないさ。パトゥーヌはジリニオンの存在を感じ取って、ここへ呼び寄せたのだ。無意識の力だ。離れ離れになった妹に会いたいという無意識の意志が、呼んだのだ。その意志が、ジリニオンの心を開く。忘れていた精神の力を呼び起こすのだ！」
クーライ博士は骨張った手に力を込め、見えない何かをつかむかのように胸の前で震わせた。ジリニオンの方へ歩み寄ると、震える手で彼女の頭をつかみ、上を向かせた。
「ジリニオン、思い出せ！ おまえが逃げ出して十三年だ。あの子ども部屋はおまえの部屋だ。お椀と骰子で遊んだろう。おまえはいつも完璧だった。外したことなんて一度もない。記憶を失っていても、〈力〉は持ち続けているはずだ！」
ジリニオンはクーライ博士の顔を見上げた。床の上の私には彼女の表情は見えなかった。だが、椅子に縛りつけられた体に力がこもり、首のあたりが震えるのが見えた。怒りか、恐怖か、悲しみか、激しい感情が沸き起こったのは、間違いなかった。
「思い出したか！ 私だ！ 飢え死にしかかっていたおまえたちを魔女の村から連れ出したクーライ博士だよ。覚えているだろう。ほら、おまえたちの救い主だ。おいしい兎汁を食べただろう。ほら、お椀と骰子でたくさん遊んだだろう。思い出すんだ！ 可愛いジリニオン！」
女戦士の悲痛な叫びが狭い廊下に谺した。
「おまえは！ おまえは！」
「思い出せ！ ジリニオン！ おまえは私の娘だ！ おまえは〈力〉の持ち主だ！ おまえは逃げ出したが、戦士となってここに帰ってきた。こんな奇跡があるだろうか！ おまえは姉妹で一番活発で元気な娘だった。狩も上手だし、〈力〉の素質もあった。そうだ、ジリニオン、おまえは戦うのだ！ おまえの力は戦場でこそ、万能の威を誇ることができる！ 千人隊を蹴散らせ！ 一万の軍団を吹き飛ばせ！ おまえこそ、超人だ！」
クーライはジリニオンの両肩をつかみ、興奮して叫びながら、激しく揺さぶった。
「駄目よ！ 何もなかったのよ！ ジリニオン、はやく逃げて！」
走り寄ったロニーペルは、クーライの腰に抱きつき、ジリニオンから引き離そうとした。
「何をする！ この、出来損ないの子を産んだおまえが！」
その言葉を聞くと、ロニーペルは恐ろしい叫び声をあげ、爪でクーライの顔を引き裂こうとした。抑えていた激情が噴き出したようだった。
「おまえが！ おまえが産ませたんだ！ あのかわいそうな子たちを！ 殺してやる！」
黒漆喰の扉の前は阿鼻叫喚の様を呈した。ロニーペルはクーライ博士に組み付き、狂乱の体で男に爪を立てようとした。クーライ博士は丸眼鏡を飛ばして、女を遠ざけようとしたが、必死で喰らいついてくる女から逃れることはできなかった。
奇怪な笑い声が沸き起こった。双頭の怪人はこの騒ぎが面白いのか、高低二つの引きつった笑い声をあげ、余分な手足をぎくしゃくと動かして、異様な踊りを披露した。
その中に、突然、冷気が這いよってきた。いや、本当に冷たい風が入ってきたわけではない。何かが、冷たい何かが、現われたのだ。
白い人影が扉の前に出現した。膝上までの白い寝間着を着た黒髪の娘だ。青白く光る小さな顔の中で、黒い大きな瞳が黒曜石のような光を放っていた。
「……ジリニオン……」
パトゥーヌという名前らしいその白い影は、すっと手を女戦士の方へ差し伸べた。扉のすぐ前に現われ、何イートも間があるのに、その白い手はクーライ博士の体を突き抜けて、ジリニオンの額に触れた。
「ジリニオン……ジリニオン……ジリニオン……」
白い娘の幻はその名を呼び続けた。
何度めに名前を呼ばれた時か、ジリニオンは頭を上げた。視線が定まらなかった黒い瞳が、突然、焦点があって、強い輝きを発した。
その刹那、クーライ博士の悲鳴が響いた。ロニーペルの爪が頬を深く引き裂き、鮮血が噴き出した。
ビーズェス、クーズェスは、三本の腕と三本の足を振り回し、狂気の舞踏を続けた。
何か途轍もなく強い衝撃が、あたりを襲った。見えない巨大な拳で殴られたように、私は全身に強い力を受け、気を失いそうになった。ぼやける視界の中で、黒漆喰の扉に白いひびが入っていくのがわかった。
ビーズェス、クーズェスがひびの入った扉を三本の腕で殴りつけた。ひび割れが広がり、黒い扉は割れて崩れ落ちた。
異様な臭気が流れ出した。糞尿と汗と血と、女の匂いが入り混じっていた。
部屋の中は一本の蝋燭で照らされているのみだった。四角い何の装飾もない部屋だった。奥の方に白い寝台が置かれ、その近くに椅子が一つ、小さな卓子が一つ、隅の方に用便に使うような壺があった。部屋の中にあるものはそれだけだった。
寝台には白い寝間着を着た女が横たわっていた。長い黒髪が白い敷布の上に広がっている。切り揃えた前髪の下の落ちくぼんだ目は閉じられていた。
白い亡霊のような姿は、寝台の方へゆっくりと歩いていき、霧のように形をなくして、横たわる女に吸い込まれた。
寝台の女は目を開いた。また、見えない力が波のように押し寄せてきて、私の体を揺さぶった。
女−パトゥーヌ−は、寝台から降りて、部屋の真ん中に立った。
「ロニーペル……」
パトゥーヌはそう呟いたが、白い顔には何の表情もなかった。美しく整った娘の顔は、白い革でできた仮面のようだった。ただ、真っ黒な前髪の下の黒目がちの目だけが、冷たく刺すような光を放っていた。
「ああ、パトゥーヌ、ああ、寝てなくちゃ駄目よ。また、具合が悪くなるわ。パトゥーヌ、寝てなくちゃ……」
ロニーペルが狼狽した様子でよろよろと白い寝間着姿の娘に近づいた。
「ジリニオン……」
パトゥーヌが、また呟くとジリニオンは視線を白い服の女に向け、部屋の中へと歩き出した。
しわがれた笑い声が響いた。血まみれの顔でクーライが笑っていた。
「そうだ、そうだ、ジリニオン。パトゥーヌの〈力〉がおまえの記憶を呼び起こす！ おまえの〈力〉を呼び起こすだろう！ 無敵の女戦士が生まれる。戦場で男たちはおまえの前に死体となってひれ伏すだろう！ パトゥーヌ、おまえの〈力〉を妹に注ぎ込め！ おまえのその溢れ出す〈力〉をジリニオンに注ぎ込むのだ！」
「駄目よ！ パトゥーヌ、駄目よ！ 具合が悪いのよ、起きては駄目！」
ロニーペルは無表情に立ち尽くす白い服の娘にすがりつくようにして、寝台の方へ押し戻そうとした。
「邪魔をするな！ 出来損ないが！」
駆け寄ったクーライは乱暴にロニーペルの肩をつかむと、パトゥーヌから引き離し、廊下の方へ突き飛ばした。
「パトゥーヌ、パトゥーヌ、私のかわいい娘よ、〈力〉を、〈力〉を、おまえの妹に注ぎ込め！ 強靭な戦士となって帰ってきたのだ！ 〈力〉を呼び起こせば、無敵の戦士が誕生する！ ああ、パトゥーヌ、私の願いを聞いておくれ」
クーライ博士は白い服の女の前にひざまずき、血まみれの手を広げてパトゥーヌの体をなで回すような仕草をした。だが、その手は決して彼女に触れることはなく、まるでそこに見えない壁があるかのように、一イート（三十センチほど）の間をおいて、命令とも哀願ともつかない奇妙な言葉と仕草を繰り返した。
ロニーペルは廊下に座り込んで、啜り泣き、小さな声で「駄目よ、駄目よ……」と言い続けている。震える肩にはクーライの血の手形がついていた。双頭の怪人は部屋の中で、奇怪な頭を傾げながら、事態の成り行きに気を向けているようだった。
「ロニーペル、縄を解いてくれ。今しかない」
私の押し殺した声に、女は涙で赤くなった目で答えた。
「はやく！」
ロニーペルは、いざるようにして近づいてきて、のろのろと縄を解き始めた。
「ここは何なんだ？ いや、君たちは何者だ？ あのいかれた博士とやらの娘なのか？」
縄を解きながら、ロニーペルは首を振って否定した。
「私たちは博士の実験台なのです。特別な〈力〉を持った兵士を作るための」
「敵の襲来を予知するような〈力〉か？」
「それは〈力〉のごく一部、ジリニオンにはその〈力〉があるのですね」
縄は緩み始めたが、まだ腕を引き抜けない。ジョーリボアの盗賊結社で、縄抜けの術も教わっておけばよかった。
「他にどんな〈力〉があるんだ。君たちは魔女なのか。サレームの軍勢には女妖術師がいるという噂だが、ご同輩かね」
「サレームのことなど、何も知りません。魔女も妖術も何も。私たちはずっとここにいるのです。他のことは何も……」
クーライ博士は、まだひざまずき、震える手でパトゥーヌを愛撫するかのような仕草を続けている。話している言葉は、次第に熱に浮かされたうわ言じみてきた。
「〈力〉を、〈力〉を、私が生み出すのだ！ 私こそが新しい人間を生み出すのだ！ おお、私のパトゥーヌ、いい子だから、〈力〉をうまく注いでおくれ……」
ビーズェス、クーズェスも奇怪な体を不自然に動かしながら、まだその様子を見ていたが、右肩に乗った人面疽のような顔の不気味な目が、こちらを向いているような気がした。
「クーズェスの目を見てはいけません。あの子も〈力〉を持っているのです。あの子の心に取り込まれてしまいます」
ロニーペルの声はひどく暗かった。
「あの化け物は……」
「化け物なんて言わないで！ 私の子どもなのよ！ 博士が私に生ませたのよ！ 超人を作るために！」
ロニーペルの声は聞き取れないほど小さかったが、それは恐ろしく暗く深い陥穽から立ち上ってくる怨嗟の声だった。
縄が解けた。いささか手足は痺れていたが、動けないことはない。
「パトゥーヌ、ジリニオンに〈力〉を！」
クーライの大きな声が響き、博士は無表情に立つ白い女の方へ、両手を差し伸べた。
ばちんという何かが弾けるような音がした。クーライの体は二十イート（約六メートル）も弾き飛ばされた。血飛沫が上がってパトゥーヌの白い面のような顔と寝間着に、細かな真紅の斑模様を作った。
床に転がったクーライの顔と手には、大きく裂けた傷が幾つも開いて、血が流れ出していた。呻き声をあげて、身をくねらせているから、命はあるようだ。
ロニーペルは手で顔を覆い、引きつった短い悲鳴を上げた。強ばった指と乱れた前髪の間から片方の目だけがのぞいていたが、大きく見開かれた目は、異様な眼光を放っていた。黒い瞳のまわりには青白い光の輪が描かれ、瞳が小さくなったかのように見えた。
ジリニオンは夢遊病にでもかかった様子で、ゆっくりと前へ進んだ。姉妹は間近で相対した。
「ジリニオン……」
パトゥーヌが妹の名を囁いた。私は、これから起こる何かを止めるために飛び出そうとした。
思わぬ力が私を引き止めた。ロニーペルが私の腰に抱きついていた。
「もう、駄目よ」
暗い深い淵から響いてくるような声が、そう言った。途端に体から力が抜けて、私はロニーペルと共に倒れ込んだ。ロニーペルの生暖かい体が私を押さえ込み、血の臭いが私を包んだ。クーライの血の臭いなのか、彼女の体からのものなのか、よくわからなかった。
何か正体のわからない、見えない波のようなものが押し寄せてきた。ビーズェスとクーズェスは、六本の手足を振り回して、狂気じみた踊りを踊っていた。ジリニオンが手をのばし、パトゥーヌがそれに応えて白い細い手を差し出した。私に覆いかぶさったロニーペルの体が小刻みに震え、熱くなるのがわかった。喘ぐ声は、悦楽の絶頂を味わっているようにも聞こえた。
パトゥーヌの体が青白く光っていた。薄い霧のようなものが全身から湧き出し、薄紫のちらちらとした光の粒を伴って、ジリニオンの体に絡まり、その中へ吸い込まれていった。ジリニオンは肩で大きく息をして、苦しみとも悦びともつかない声を漏らした。ロニーペルが「ああっ」と呻いて、びくんと体を痙攣させた。
「ジリニオンが……目覚めたわ」
私の耳元でロニーペルが囁いた。その声には、もう、不安や恐怖よりも、喜びの響きが感じられた。私はロニーペルから逃れて、ジリニオンのもとへ行こうとしたが、熱を持ったような女の体は奇妙に重く、蔦に絡まれたかのように、引き離すことができなかった。
「ジリニオン、ジリニオン、思い出したでしょう。あなたはここから逃げ出したのよ。七つの時よ。来る日も来る日も、〈力〉を引き出す訓練をさせられたり、変な薬を飲まされたりで、あなたは逃げ出したのよ。その後、私は子どもを産まされて、パトゥーヌも同じ目に遭いそうになって……」
ロニーペルは私の体を押さえつけながら、擦れた声で話した。ジリニオンに語りかけているのか、私に話しているのか、それとも自分を確かめるための言葉なのか、よくわからなかった。
突然、ジリニオンが頭を押さえて「わあーっ！」という大きな声を出した。それはただ、咽から出された声ではなかった。扉の破片が吹き飛び、踊っていたビーズェス、クーズェスが倒れた。蝋燭が吹き消されたが、青白い幽鬼のような燐光が辺りを照らしていた。
頭を抱えてうずくまるジリニオンにパトゥーヌが優しく手をかけた。ジリニオンは立ち上がり、こちらを向いた。それは私の知っている女とは違う女のようにも見えた。彼女の体も青白い光に包まれ、黒い瞳の奥には刺すような光があった。
二人はこちらにゆっくりと歩いてきた。彼女たちが一歩一歩近づいてくると、見えない何かの塊に押されているような感覚が強まった。ロニーペルは私の体の上でがたがたと震えていた。
二人は私たちのすぐ前で止まった。
「ロニーペル……」
二つの声が重なって、姉妹の名を呼んだ。
「駄目よ、私はもう駄目よ」
身を震わせてロニーペルは啜り泣くような声を出した。
二つの白く光る手がのびてきて、ロニーペルの身に触れた。薄紫の光の粒のようなものが、白い霞とともに流れて、私の体まで包み込んだ。
頭の中を激しく殴りつけられたかのような衝撃があった。脳みそを見えない手で握られ、揺さぶられているようだった。
目ではなく、頭の中に、揺れ動きながらある光景が見えた。紅蓮の炎が踊っている。黒い煙が渦巻いている。木と藁でできた小さな家々が燃えている。丸眼鏡が炎を映して光っている。子どもの泣き声が聞こえる。女の泣き叫ぶ声も聞こえる。何かを哀願してるような、悲痛な声だ。女の声は鈍い斬撃の音とともに途絶え、子どもの泣き声だけが残った。
青灰色のお仕着せのような服を着た三人の黒髪の少女。絵歌留多、骰子、積み木などが、子ども部屋の中を乱舞している。真っ暗な部屋、赤い灯火、黒い丸薬、白い粉薬、銀色に光る注射器も舞い飛んでいる。
丸眼鏡の奥にぎらぎらとした光を宿したクーライの顔が見える。クーライの顔は粘土細工のように歪み、悪鬼のような顔になり、蝋細工のようにとろけたかと思うと、また形を成す。
黒い甲冑姿の武人が見える。顔の半分を覆う髭、冷たい灰色の目、こちらの顔も捩じれ、歪み、怪物のようだ。二人の鬼が何か語り合っている。
激しい嵐の夜、濡れ鼠になりながら柵を乗り越える少女、狂乱するクーライの顔、泣き叫ぶ二人の少女、怒り狂う武人の顔、激しい稲光がそれらのものを照らしては闇に落とし、また照らし出す。
その後、頭の中の光景は突然灰色となり、しばらく、動かなくなった。やがて、その中に赤い点が現われた。それはじわじわと大きくなり、不定形な血の染みのように頭の中いっぱいに広がっていった。
その真っ赤な闇の中に、のしかかるようにクーライの巨大な顔が現われた。舌なめずりをし、犬のような尖った歯を剥き出し、目玉を血走らせた大きく重い姿が覆いかぶさり、身が裂けるかのような痛みが走った。
痛みは何度となく繰り返され、その度に新たな血の染みが広がり、濡れそぼったどす黒い闇がすべてを覆い尽くした。どこからか、赤ん坊の泣き声が聞こえた。弱々しく途切れ途切れの鳴き声が、幾重にも谺した。
クーライの顔は赤黒い闇の中で見え隠れし、下卑た笑いを浮かべたり、怒りにひどく歪んだり、失望に沈んだりした。
絵の具で塗り替えたかのように、頭の中がまた薄灰色になり、また血の染みが広がった。異様なまでに鮮やかな真っ赤な染みが急激に広がる。そこにまたクーライの顔が現われたが、それはひどい苦痛と恐怖と怒りに満ちていた。気の触れた絵描きが絵の具を出鱈目に塗りたくったかのように、その顔は真紅の染みの中で、紫や黄や青のどぎつい色を帯びて、荒れ狂った。
やがて画家の塗る絵の具は黒だけとなり、赤い闇は黒い真の闇となって何も見えなくなった。
白く輝く暖かいものが最後に一瞬頭の中に広がったかと思うと、体を押さえつけていた重いものが、ふとなくなった。パトゥーヌは立ち上がり、二人の姉妹と手をつなぎ、二人と同じように青白い燐光に包まれていた。黒い瞳には生気が宿り、夜空の星のような銀砂の輝きが見えた。
クーライは三姉妹の姿を恍惚とした表情で見つめていた。傷口から流れ落ちる血も気にならないようだった。
「お父様」
三人の女の声が響きあって聞こえた。嘲笑と残酷を孕んだ、ぞっとするような声だった。
「ジリニオン、目覚めたのだな！ そうだ、おまえは私の娘だ！ 特別な〈力〉を持った娘だ！ ロニーペル、おまえもか！ おまえも〈力〉を取り戻したのか！ おまえたち三人が揃えば、どんな軍団も敵ではない！ おまえたちは超人なのだ！」
「お父様」
三人の姉妹は、もう一度その名で男を呼んだ。そして、最初はジリニオンが、二番目にロニーペルが、三番目にパトゥーヌが、白く光る手を突き出して手首を動かし、奇妙な仕草をした。
嫌な音がして、クーライの手足が奇妙な角度に曲がった。悲鳴を暗い廊下に響かせて、男は床に転がった。
「おまえたちは！ ああ、おまえたちは……」
クーライは血まみれの顔を激痛に歪ませて、わめいた。
三姉妹は一歩、二歩、前に進んだ。
「お父様」
クーライは巨大な蜘蛛のように折れ曲がった手足をばたつかせ、後退ろうとした。
「止めろ！ 止めろ！ 私は……おまえたちの父親なんかじゃない！」
「そう呼んでもいいんだよって、何度も言ったじゃないの」
その声はパトゥーヌのものだろうか。少しばかり舌足らずで、甘い毒を含んだ声だった。
「あなたはビーズェス、クーズェスの父親じゃないの」
ロニーペルの声には底意地の悪い皮肉が混じっていた。
「おまえは、母さんを殺した！ 思い出した！ 見ていたんだ、あの村で」
ジリニオンは憤怒に震える声でそう言った。
クーライは引き裂かれた顔を恐怖と困惑でさらに歪ませ、裂けた唇から血を滴らせて呻いた。
「そこまで記憶が戻ったか！ 完璧に消したはずなのに！」
丸眼鏡の男は廊下を這いずって後退った。ぎくしゃくと手足を動かして何とか立ち上がると、廊下を玄関広間の方へ走った−それが走ったと言えるならばだが。
六
三人姉妹は、ゆっくりとクーライの後を追った。ジリニオンもロニーペルも私のことは眼中にないようだった。ビーズェス、クーズェスは大きい方の首を傾げて、小さい方の頭は何かしゃべりながら、女たちの後をついていった。
私も同様に三人の後を追った。双頭の怪人と横に並ぶようになったが、ビーズェス、クーズェスは私に一瞥をくれて、笑い声らしきものを漏らした。仕方ないので、私も彼らの二つの顔を見比べながら、笑い顔を作ってみた。私たちは奇妙な笑顔を交わしながら、クーライと三姉妹の後をついていった。
クーライはあまりよく動かない手足を滑稽なまでの仕草でばたつかせながら、必死に逃げようとしていた。三人の女はその後をただゆっくりと歩いていった。三人は時折顔を見合わせては、くすくすという笑い声を漏らした。何か楽しいことが待っているのだろう。
暗い廊下を奇妙な行進が続いた。三姉妹はクーライの歩みが遅くなると立ち止まり、笑みを浮かべながら顔を見合わせた。私と双頭の怪人がその後に続く。
廊下の左右には、幾つかの扉があった。右側にある最初の扉の前に来ると、三人の内、誰かが「パトゥーヌ」と囁いた。
パトゥーヌはその扉の前に立ち、手のひらをかざした。扉が開いた。誰もいない部屋の中から、薄白い光が漏れだした。扉が完全に開くと、そこから、何か小さなものが飛び出してきた。四角や円筒や三角形の小さなものが幾つも幾つも宙に浮いて、飛び出してくる。それは暗い廊下を飛び回り、やがてパトゥーヌの掌の上に集まりだした。
それは子どもが遊ぶ積み木だった。見えない手によって、それは積み重なり、形を作っていった。簡素だが、塔のある館のような形が出来上がっていく。パトゥーヌの手の上に浮いたまま、見えない手が童話に出てくるような城を組み立てていった。
「ほら、お父様、見て。上手でしょう」
パトゥーヌの声はぞっとするような甘いささやき声だった。クーライは首を捩じ曲げるようにして、積み木の城に一瞥をくれた。おもちゃの城がひどく恐ろしいものでもあるかのように、短い悲鳴を上げてすぐ前を向き、また這いずり始めた。
パトゥーヌは控えめな嬌笑をあげて、白い手を何かの印を送るようにぱたぱたと動かした。途端に積み木の城は吹き飛ばされ、宙を飛んでクーライに降り注いだ。
這いずる男は、まるで短剣にでも刺されたかのような悲鳴を上げて、手足をばたつかせた。
次の扉の前では、「ロニーペル」という声が聞こえた。ロニーペルは、少しばかり躊躇する様子を見せながら、扉に手をかざした。扉が開き、白い光が漏れ出した。同時に部屋の中からは、奇妙な猫の鳴き声のような音が聞こえてきた。
ビーズェス、クーズェスは、その声を聞くと突然踊るような動きを止めて、立ち尽くした。奇怪な鳴き声は次第に変化し、赤ん坊の泣き声らしきものとなった。ビーズェス、クーズェスはその声に合わせるかのように、奇妙な嗚咽のような声を上げ、三本の腕で交互に二つの頭を抱えた。
ロニーペルは頭を垂れて、肩を震わせていた。部屋の中からは白い光とともに、光るものが幾つも宙に浮かび出てきた。奇妙に折れ曲がっているので、最初はよくわからなかったが、それは銀の匙や肉叉だった。どれもが首のあたりで捩れたり曲がっていたりした。
その曲がった食器が何本も何本もロニーペルの頭の周りに集い、ゆっくりと廻っていた。奇怪なことに始めは銀色に輝いていた匙や肉叉は、次第に赤く染まっていった。内側から血が滲み出てくるかのように。
ぽたぽたと血を滴らせながら、何十本もの匙や肉叉が、ロニーペルの周りを廻っていた。やがて、ゆっくりとロニーペルは頭を上げた。血走った目からは、血涙がこぼれ落ちるかに見えた。
短い獣の吠え声のような音が聞こえた。ロニーペルの声だった。歪んだ匙や肉叉は一斉にクーライめがけて宙を飛んだ。
「ぎゃっ」という短い悲鳴が何度も何度も聞こえた。銀の食器はクーライの背や尻に何本も突き刺さった。食器から滲み出る血とは別に、クーライの肉から滲み出た血がだらだらと流れ出した。
奇怪な血みどろの行進は続き、ジリニオンのものだったらしい部屋の前まで来たが、部屋の扉を開ける前に、ジリニオンはこめかみに手を当て、つぶやいた。
「来る。大勢だ。いや、もう来ている」
ロニーペルは少し困ったような顔をして二人の姉妹の顔を見たが、ジリニオンは来訪者の気配を探り続け、パトゥーヌは表情を変えなかった。
「ジリニオン、誰が、いや何が来るというんだ」
私は三姉妹の前に飛び出した。これ以上怪しげなものが現れてはたまらない。ジリニオンは少しだけ正気を取り戻したような面持ちで、眉間にしわを寄せた。
「敵だ。モンヴェルティの軍勢だ！」
ジリニオンが呻くようにそう言った刹那、玄関の方から大きな音が聞こえた。扉が破られたのだろうか。馬の嘶き、武具の鳴る音、大きな野太い声がした。
「クーライ博士、クーライはいるか！ モンヴェルティ将軍がおまえの果実を刈り取りに来たぞ！」
その声を聞いたクーライは、そこに希望を見いだしたのか、背中と尻に何本も銀の食器を突き立てたまま、必死で廊下を走り出した。
「モンヴェルティだと！ ここまで追ってきたのか！」
「わからない。この家に入ってからは、家の中に渦巻くものに囚われて、外のことは何も見えなかった」
ジリニオンの答えがまともだったので、私は少し安心した。
「ジリニオン……君は今、正気なのか」
少しの間を置いて、女戦士はどこか夢見るような響きのある口調で答えた。
「ああ。思い出しただけさ、子どもの頃のことを」
ロニーペルとパトゥーヌは「モンヴェルティ……将軍……」という言葉を谺のようにささやきあい、二人で顔を見合わせたりしていたが、やがてパトゥーヌの白い顔には薄笑いが浮かび、ロニーペルは目を細めて何か恐ろしげな表情を浮かべた。
私の剣もジリニオンの剣も怪人に襲われた部屋に落ちていた。私はそれを拾い上げ、彼女の手に押し込んだ。
「君の剣だ。しっかり持つんだ」
剣を持った手の上から強く彼女の手を握ると、ジリニオンの顔はまた少しまともに戻ったように見えた。
クーライは玄関広間の扉を開け、転がるように入り込んだ。二人の女は静かにその後を追ったが、広間に入る前にロニーペルが振り向いた。
「ビー、クー、ここにいるのよ。いいこと」
双頭の怪人はぎくしゃくとした動きでうなずくような仕草を見せて、戸口に踏み止まった。ロニーペルは息子たちが足を止めたのを見て、それからジリニオンを見た。ジリニオンは前へ出ようとした。私は剣を持っていない方の彼女の手を強く握った。
「止めておけ。君たちの〈力〉がどれほどのものか知らないが、相手は百戦錬磨の兵士たちだぞ。数はどうだ？ 得物は何だ？」
「しかし……」
ジリニオンの心中では、場数を踏んだ傭兵としての判断と、覚醒した超人としての何か、そして復讐心が、葛藤と混乱を沸き起こしているようだった。
「ジリニオン」
ロニーペルとパトゥーヌの声が重なりあって、姉妹の名を呼んだ。ジリニオンは眉間にしわを寄せ、苦しげな声で答えた。握った手が震えていた。
「敵は多い。外にもいる。二十、三十、いや百近い。一度退いて様子を見よう」
二人の姉妹は、ジリニオンの警告を聞いて顔を見合わせ、何事かささやきあったが、表情を変えることもなかった。二人はこちらを一瞥して、そのまま玄関広間に入っていった。
ジリニオンはその後を追おうとしたが、私はもう一度彼女の手を強く握りしめた。
「行くな！ 死なせるわけには行かない」
ジリニオンは振り向き、私の顔を見た。唇を噛みしめ、ひどくつらそうな表情だったが、黒い瞳には冷静さが戻っていた。
私たちは広間への扉の左右に陣取り、中の様子をうかがった。ビーズェス、クーズェスは私のすぐ後ろで部屋の中をのぞき込んだ。
広間は松明の炎で照らされていた。黒い甲冑姿の男たちが十人ばかりもいるだろうか。部屋はひどく狭く見えた。兵士たちの鎧には血がこびりつき、傷を負っているものもいた。泥と血で薄汚れた顔には疲労が見えた。モンヴェルティ将軍の黒い目は、まだぎらつく光を失ってはいなかったが、どこか狂気じみた色があった。
「おお、クーライ博士、これはまた奇態なお出迎えだな。山暮らしで糧食が尽きて、自分の尻を食べるまでになったのか。援助は十分かと思っていたが」
錆びた鉄をすり合わせたようなモンヴェルティの声に、誰も笑うものはいなかった。クーライは力尽きて膝を折り、将軍にすがるような格好になった。
「見ろ、私の娘たちを！ 見ろ！ この光り輝く姿を！ さあ、娘たちの〈力〉を見ろ！」
クーライの声はすでに正気のものとは思えなかった。ひきつり、かすれて、裏返り、わめき立てた。
モンヴェルティはすがる男を蹴り倒した。背や尻に刺さった食器がさらに深く食い込み、クーライはぎゃっと悲鳴を上げた。髭の武人は、静かにたたずんでいる二人の娘に目をやった。
「おまえたちがクーライの作った無敵の兵士だというのか！ 魔術に拠らず、自らの特別な力で奇跡を起こす超人だと！」
モンヴェルティは燐光を放つ娘たちを交互に見やり、おそるおそる手を伸ばした。
「おまえたちが……儂に奇跡を起こしてくれるのか？ この女たちが？ 見ろ、この兵たちの有り様を。ひどい負け戦だ。サレームの魔女どもめ！ 化け物どもめ！ だが、おまえたちが……。〈力〉を見せてみろ。おまえたちの〈力〉を見せてみろ！」
将軍は薄汚れた黒い指で二人の娘の肩に手をかけようとした。途端に大きな体は発条で弾かれたように後ろに吹き飛び、兵士たちの中に倒れ込んだ。どよめきが起こった。
モンヴェルティの暗い笑い声が響いた。
「おお、いいぞ。この儂を触れもせずに弾き飛ばすとは。いいぞ！ もっと〈力〉を見せてくれ！」
床の上からはクーライの引きつった笑い声が起こった。
「見せてやれ、見せてやれ、〈力〉を！ 私の娘たちだ！ 私が作り上げた超人だ！ 神にも妖魔にも坊主どもにも頼ることはない、人間の力を越えた〈力〉を持つ超人……」
クーライの言葉は突然途切れた。見えない手で首をつかまれているかのように、不自然な動きで男は立ち上がった。そのまま、ゆっくりと爪先が床から離れた。
呻き声がかすかに漏れたが、すぐにその声も途絶えた。足を宙でばたばたと動かし、首に巻き付いた見えない手を引きはがそうと、手は首のあたりをかきむしった。鼻血が噴き出し目玉が異様に飛び出した。
クーライの首は手首ほどの細さになり、大きく手足が痙攣したかと思うと、眼球が飛び出し、目からも耳からも口からも血を噴き出した。ぱんという音がしてクーライの頭は破裂した。部屋中に血と脳味噌、髪の毛と頭蓋骨の欠けらが飛び散った。
呆気にとられて兵士たちは、剣を構えることもできずに、クーライの首なしの骸が頽れるのを、ただ見ていた。くすくすという小さな笑い声が聞こえた。姉妹のどちらが笑っているのか、二人で笑っているのか、背中からはわからなかった。
扉の反対側では、ジリニオンがまた眉間にしわを寄せていた。私の後ろでは双頭の怪人が、短い驚きの声を上げたが、兵士たちは誰も気づかないようだった。
「これは、これは！ 傑作だ！ クーライめ、長く待たせただけの仕事はしていたわけだな！ 他にどんなことができる？ 見えない手で人を縊り殺す以外には？ いや、どれくらい離れたところからその技は使えるのだ？ 敵が多くても大丈夫なのか？」
立ち上がったモンヴェルティは、顔に飛んだクーライの頭の欠けらを拭きとりながら、矢継ぎ早に姉妹に問いかけた。
「そうだ、まずはあの魔女めを殺すのだ！ ロシェカーをおまえたちの〈力〉で殺せ！ 今頃、マプルークの谷の陣地に舞い戻っているやもしれぬ！ あいつを殺せば化け物どもを呼び出すことはできまい。そうなれば勝機はまだまだある！」
黒髭の将軍は興奮気味に語り、また二人の女に近づこうとした。また、同じようにばちんという音がして、モンヴェルティは床の上に転がった。
「何をする！ 貴様ら、この儂に刃向かう気か！ 何を笑っている！ 貴様らはこの儂がそこの首なし男に大金を払って作らせたのだ！ どんな魔道士の力も凌駕する超人を作って見せると持ちかけられてな。貴様らは儂の剣だ、弓矢だ、鎧だ！ 逆らうことなど許さん！ 取り押さえろ！」
数人の兵士が姉妹の腕を捕まえようと前に出たが、いささかためらいがあるようだった。だが「はやくしろ！」という将軍の怒鳴り声に、兵士たちは手甲をつけた手を伸ばした。野太い悲鳴が上がり、四五人の兵士がもんどり打って倒れた。
「何をしているのだ！ 貴様ら、儂のものにはならんというつもりか！」
将軍は髭面を怒りで赤くして怒鳴り散らした。二人の娘は嘲笑ともとれる笑いを漏らした。
「ジャラーレスク！ ジャラーレスク！ 貴様の出番だ。見えない手には見えない手だ！ この女どもを何とかするのだ！」
兵士たちの間をかき分けるようにして、薄汚れた黒い長衣をまとった見覚えのある男が現れた。
僧侶崩れの魔道士は、手に持った数珠をじゃらじゃらと言わせながら、硬い表情でヴィンズクの聖句か何かを口の中でぶつぶつと唱え始めた。
「チャウ、ファン、ショウ、ラーン、エグ、チャウ……」
調伏の呪文なのだろうか、短い音節の言葉をつないで、魔道士は呪文を唱え、数珠を持った手で印形を結び、もう一方の手でせわしなく額の印に触れた。
「ひれ伏せ、ひれ伏せ、我が足下に伏せよ！ 我が足は、ヴィンズク様の御聖体より、賜りしものなり！ チャウ、ファン、ショウ、ラーン、エグ、チャウ……」
魔道士はしわがれた声で呪文を続けたが、二人の娘は燐光に包まれて、小さな笑い声をもらすだけだった。
ジャラーレスクの禿頭には玉の汗が浮かんでいた。どの程度の力を持つ道士なのか知らないが、顔には端から恐れの色が見えていた。
「ひれ伏せ！ ひれ伏せ！ 我が足下に伏せよ！ ヴィンズク様の足下に伏せるのだ！」
魔道士が大声でそう命じた刹那、手にしていた数珠がばらばらになって弾け飛んだ。ひれ伏したのは道士の方だった。見えない力で上から押さえつけられたように、膝を折り、呻きながら腰を折り曲げて、額が床につかんばかりとなった。
「この無能め！ 抑えられんのなら殺せ！ ジャラーレスク、この女どもを殺せ！」
ジャラーレスクは見えない力に何とか抵抗し続け、上半身を起こした。首にかかった数珠を握りしめると、別の呪文を唱え始めた。
「クワ、シン、シャクラ、スエ……」
ヴィンズクの道士は必死の形相で呪文を唱え、数珠をまさぐったが、口も手も思うようには動かないようだった。ロニーペルとパトゥーヌはゆっくり一歩前に出た。兵士たちがざわめきながら、一歩退く。ジャラーレスクは咽から絞り出すように呪文を唱え、震える手で印を結んだ。
首にかかった幾重もの数珠が、するすると動き出した。持ち主の手の動きとは関係なく、まるで蛇が這っているかのように数珠は動いて、まずジャラーレスクの両の手に巻き付いた。魔道士は数珠を自らの意志に従わせようとしたが、無駄だった。数珠は両の手に絡みつき、印形を結ぶどころか、動けないように両手首を縛り上げた。
「おお！ 何と邪悪な！ ヴィンズク様、私にお力を、お力を与えたまえ！」
僧侶崩れの魔道士は、まるで若い修行僧のように真剣な面持ちとなって、彼の力の源泉に救いを求めたが、ヴィンズク様は多忙なようだった。残りの数珠が動いて、彼の首を締め上げ始めた。見る見るうちに顔は真っ赤になり、呪文も救いを求める声も発することはできなくなった。
嫌な音がした。咽が潰れて、首の骨も折れたのかもしれない。首を絞めていた数珠がちぎれ飛ぶと、口と鼻から鮮血を噴き出して、魔道士は死んだ。
「殺せ！ 殺せ！ この女どもを殺せ！」
モンヴェルティが叫んだ。兵士たちはためらいながらも、剣を手にロニーペルとパトゥーヌを取り囲み、じりじりと輪を縮めた。
無言で、ジリニオンが部屋に飛び込んだ。モンヴェルティの兵士たちが一気に二人の娘に襲いかかったのは同時だった。
もう運を天に任せる他はなかった。私もジリニオンの後を追った。幾つもの白刃が姉妹に迫った。ジリニオンと私はその幾つかを食い止めたが、その必要はなかったかもしれない。
切っ先が姉妹を包む燐光に触れる寸前、何かが破裂したような大きな音がして、十人ばかりの兵士たちは吹き飛ばされた。私もジリニオンも見えない力で部屋の入り口まで押し戻された。
「怯むな！ 打ち取ったものには褒美をやるぞ！ 取り立ててやるぞ！ 殺せ！」
モンヴェルティは玄関の戸口まで後退し、叱咤の後には、振り向いて家の外の誰かに下知していた。家の外にも兵士たちが控えているようだ。
「うおぉー！」
将軍の言葉に勇を奮ったのか、幾人かの兵士が剣を振りかざして突進した。私は近くにいた一人に横手から斬りつけた。残る三人ばかりが姉妹に襲いかかった。先頭の一人の刃がロニーペルの肩口に触れなんとした。
ロニーペルの悲鳴が部屋の中に響いた。だが、斬られたわけではなかった。剣先は彼女の肌を斬り裂く寸前でぐにゃりと曲がった。もう一人の剣が彼女の胸板を貫こうとしたが、刀身は一気に押し潰され、鉄の塊と化した。
パトゥーヌに斬りかかった二人の兵士もまた、その肌に鋼鉄を食い込ませることはできなかった。ロニーペルの悲鳴が聞こえた次の刹那には、二人は剣を取り落とし、鎧の胸を抑えて苦悶の声を上げた。口から血を噴いたかと思うと、二人の兵士の胴鎧の胸のあたりが大きく盛り上がった。鎧は内側から裂けた。血みどろの握り拳大のものが大量の鮮血とともに飛び出した。見えない手が心の臓をえぐり出したのだ。
「化け物！ 化け物だ！」
剣を潰された二人の兵士が声を合わせるかのように叫んだ。部屋の中の他の兵士たちも一気に恐慌に陥った。我先にと戸口へと駆け込み、この恐怖から逃れようとした。
「退くな！ 貴様ら、退くな！」
玄関で将軍は鬼のような形相でわめき立てたが、恐怖に駆られた兵士たちを止めることはできなかった。生き残った十人ばかりの兵士たちは将軍を押しのけるようにして、家の中から逃げ出した。モンヴェルティは死体の散らばる部屋の中に残ったジリニオンと私の姿を認めた。
「貴様らは！ そうか、やはり！」
モンヴェルティは表情だけで人を殺せそうな様子だったが、唇を白くなるほど噛むと、踵を返して外に出ていった。パトゥーヌとロニーペルはその後を追うようにゆっくりと玄関に向かった。
「だめだ！ 行くな！」
ジリニオンの声だった。女剣士は二人の姉妹に駆け寄ろうとした。ロニーペルが一瞬、その声に引かれて振り返った。
空気が裂ける音がして、開いた玄関から無数の矢が飛び込んできた。だが、二人の姉妹の前には見えない盾があるようだった。矢は二人の体のほんのわずか手前で弾かれ、折れて、周囲に飛び散った。
「ああ、良かった」
ジリニオンが安堵の声を漏らした。ロニーペルが再び振り向き、かすかな笑顔を見せた。パトゥーヌもわずかに横顔を見せた。
ロニーペルの笑顔が凍りついた。一本の矢がその胸を貫いていた。卵色の服の胸に真っ赤な血の花が咲き、見る見るうちに広がっていった。赤い花が開いていくのと合わせるかのように、彼女の体を包んでいた淡い白い光が薄れていく。
頽れる姉妹の体をジリニオンとパトゥーヌが抱き留めた。
「おい、おい、死ぬな！」
「ロニーペル……」
ジリニオンの声は大きく、パトゥーヌはささやくような声だったが、悲痛な声であることに違いはなかった。
「やはり、おまえか。チャッシュから聞いて、おまえも〈力〉の持ち主ではないかと思っていたのだ」
黒髭の将軍は弓矢を携えて、再び戸口に姿を現した。まわりを何名もの弓兵が固めている。
「そうか、その女どもの仲間なのだな。嵐の晩に一人が逃げ出したとクーライが嘆いていたのが、おまえか。まさか、儂の傭兵になっているとはな」
ジリニオンはモンヴェルティの方を見ようともせず、ロニーペルに呼びかけ続けたが、射ぬかれた女は身動きしなかった。黒い双眸は光りなく見開かれたままだった。
私の背中から、狼の遠吠えのような声が響いた。ビーズェス、クーズェスの声だった。振り向けば双頭の怪人は、合わせて三つの目から、大粒の涙をぼろぼろとこぼし、奇怪な容貌を悲しみでさらに歪ませ、泣き叫んでいた。
慟哭とも吠え声ともとれる大きな声を上げて、兄弟は私を突き飛ばして、驚くべき速さで戸口へ突進した。
甲高い叫びが轟いた。どうやらそれはパトゥーヌの口から発せられたもののようだった。ジリニオンは剣を振りかざし、甥っ子の後を追った。
二人とも間に合わなかった。ジリニオンは後退る双頭の怪人に押されて、倒れそうになった。
ビーズェス、クーズェスの胸板には何本もの矢と槍が突き刺さっていた。三本の腕が胸に刺さった槍を引き抜いた。途端に噴水のように鮮血が噴き出した。ロニーペルの息子たちは、部屋中を真っ赤に染めながら母親のすぐ側に仰向けに倒れた。
倒れた拍子に、子どもたちの腕は母親にのばされ、母親の腕は子どもたちの胸に差し伸べられた。どちらの腕も血まみれだった。
「この化け物が、これが失敗作なのか！ ふん、柔弱者を恐がらせるには役立つだろうがな」
モンヴェルティは髭面に冷酷な薄笑いを浮かべていた。
「もう一度だけ機会を与えよう。儂に忠誠を誓い、おまえたちの特別な力を儂のために使うのだ！」
ジリニオンは姉妹と二人の甥の骸を静かに横たえると立ち上がり、剣を構え直した。
「〈力〉とやらは、貴様のような下司野郎を殺すために使うことにする」
パトゥーヌは何も答えなかったが、細い手を剣を持つジリニオンの手にそっと添えた。白い燐光が二人の体のみならず、刀身にまで広がり、刃は冴えた月光のように輝いた。
「そうか、では残念ながら死んでもらおう。貴様たちのような〈力〉が他の軍勢に使われるようになってはたまらんからな」
モンヴェルティは捨て台詞を吐いて、素早く玄関の外に退いた。ジリニオンが追おうとしたが、パトゥーヌの手がそれを留めた。彼女の瞳に黒い炎のようなものが見えた気がした。
「射よ！」
モンヴェルティの命ずる声が聞こえたかと思うと、戸口からは無数の矢が飛び込んできた。
ジリニオンが刃を一閃させた。剣に触れた矢も、そうでない矢も、すべて弾き飛ばされた。
すぐさま第二射が来たが、今度は剣を振るう前に、矢は折れて、裂けて、飛び散った。
二人の女は玄関から外へ出た。私も後を追った。松明が荒れた庭を照らしていた。モンヴェルティはひどい負け戦だと言っていたが、まだかなりの兵士が残っているようだった。丸太の柵の門扉は破られ、庭にも柵の外にも兵士と馬が集まっていた。
門と玄関の中間あたりに弧を描いて槍衾が立てられ、その後ろから弓兵が二人の女と私に狙いをつけていた。
「射よ！」
兵士たちの後ろからモンヴェルティの声が響いた。矢だけでなく投げ槍も飛んできたが、何の効果もなかった。ジリニオンが光る剣で振り払うと、刃に触れる前に矢も槍も吹き飛んだ。パトゥーヌが静かに手を前へ押しやるように動かすと、驚くべきことに飛び散った槍と矢が、空中で行く先を転じた。矢と投げ槍は軍勢の方に飛んでいき、兵士たちの悲鳴が夜空に谺した。矢と槍を胸甲から突き立てて、兵士たちがばたばたと倒れる。
馬たちが異様な嘶きを上げて、暴れ出した。つながれていた綱を引きちぎり、逃げ出すものもいる。馬と同時に兵士たち全体に恐慌が広がった。
「何を怯えている！ 相手は小娘二人に痩せ犬一匹だ！ 殺せ！ 殺すのだ！」
将軍の叱咤に、十名ばかりの兵士が槍や剣を構えて突進した。
ジリニオンが夜空に向けて剣を突き上げると、それは長さが二十イート（六メートルほど）はありそうな光の刃に変じた。兵士たちは近づく前に銀の光に斬り裂かれた。鎧も兜も盾も何の役にも立たなかった。まるで剃刀で紙を切るかのように武具は斬り裂かれ、首が飛び、胴が二つになり、腕と足がちぎれ飛んだ。
その後ろから突っ込んできた兵士たちは見えない巨人の手でつままれたかのように、宙に舞い上がった。操り人形が自分の糸を切ろうとするかのように、兵士たちは剣や槍を振り回したが、見えない〈力〉を断ち切ることはできなかった。
パトゥーヌが掌を閉じて、開くと、十人ばかりの兵士たちが順番に空中で破裂した。見えない巨人に口から息を吹き込まれたように、体が丸々と膨らんだかと思うと、鎧が弾け飛び、血とはらわたを空から振り撒いて、ばらばらになった。下にいた兵士たちは、血と肉片と臓物の雨を浴びることになった。
「もう、嫌だ！ 化け物だ！ こいつらは化け物だ！」
誰かがそう叫ぶと、生き残った兵士たちは門に殺到した。
「貴様ら！ 逃げるつもりか！ 儂への忠誠は……」
モンヴェルティの姿は我先にと逃げる兵士たちに飲み込まれ、声も聞こえなくなった。
パトゥーヌがジリニオンの剣を持つ手に自らの手を添えた。二人は一緒に銀色に輝く光の剣を頭上に掲げた。
「ジリニオン！ もう十分だ。敵は逃げ出している。ジリニオン！」
私の声は逃げ惑う兵士たちの怒声に紛れて、多分届かなかったのだろう。二人は光の剣を一緒に動かした。剣の先がすうっと伸びて、館を囲む木の柵に達した。人の背丈の倍はある丸太が次々と根元から切断された。先の尖った何本もの丸太が宙に浮いた。姉妹が剣を降り下ろすと、その仕草に合わせて、丸太は門にひしめく兵士たちに向かって飛んだ。狭い門に集まっていた数十人の男たちは、何本もの巨大な槍に貫かれ、押し潰され、赤黒い挽き肉のようになった。流れ出た血が踝まで浸しそうだった。
柵の中で生き残っているのは、私たち三人だけになった。ジリニオンとパトゥーヌは門に向かって進んだ。二人が手を動かすと、行く手を塞いでいた丸太と肉の塊が吹き飛び、門とまわりの柵が大きな音を立てて倒れた。
「ジリニオン、もうたくさんだ。これ以上殺しても意味はない」
私は二人の背中に声をかけた。二人とも振り返らなかった。
「モンヴェルティがまだ生きている」
そう答えたのはジリニオンの声だろうか。
「みんな殺すの」
そう答えたのはパトゥーヌの声だろうか。
私には身を張って二人を止める勇気はなかった。私も彼女たちを化け物と思っていたのかもしれない。
二人は、足が宙に浮いているのか、死体と門と柵の残骸の上をすべるように進んだ。私は血と肉と臓物に足を取られそうになりながら、門の残骸を乗り越えた。
兵士たちはアプラーチェの森の奥の道へと走って逃げ出していた。まだ数十人はいるだろうか。あたりには放棄された野営の用意や松明が残っていた。ジリニオンは剣を鞘に収めた。二人は手をつなぎ、もう一方の手を静かに持ち上げた。
打ち捨てられて燃えていた松明が何本も何本も宙に浮かび上がった。暗い森の中に幾つもの火の玉が浮かび上がるようで、それは奇妙に美しい光景だった。
姉妹がほんの少し手を動かすと、森の奥の方で恐ろしい音がした。生木が裂ける音だ。何本もの木が、逃げる兵士たちの行く手を遮って倒れた。どよめき、悲鳴が聞こえた。何人かは倒れる木の下敷きになったのだろう。
また二人が手を動かすと、宙に浮いた松明が、悲鳴のする方へと飛んでいった。生木がすぐに燃え出すはずもなかろうに、暗い森の奥はぱっと明るくなった。その中に炎に包まれて悶え苦しみ、奇怪な踊りを踊る黒い人影が幾つも幾つも見えた。
背後で笑い声が響いた。かすれて引きつり、歪んでいたが、モンヴェルティの声だった。
「見事だ！ 素晴らしいぞ！ 百人の儂の兵どもを二人で皆殺しか！ 何という〈力〉だ！」
将軍はばらばらになった死骸と門の残骸の中から身を起こした。全身血まみれだった。黒い髭も黒い鎧も赤く染まっていたが、両眼だけは、まだ黒くぎらつく光を放っていた。
「殺す前に聞いておく。おまえがクーライに命じて私たちを……作らせたのか」
ジリニオンは振り向き、再び剣を抜いた。刀身には尋常ではない光が宿っている。
「儂はクーライの話に乗ったまでだ。奴は魔術とは違う〈力〉を持った超人を作ると持ちかけてきた。クァロニアン帝国で研究されていた超人兵士を蘇らせるとな。奴は特別な〈力〉があるという三人の子どもを見せてくれた。薄汚れた乞食同然の子どもだったが、賽の目を操ったり、絵歌留多を見ないで当てたりという芸当ができた。それがおまえ達だ。
「儂は戦の度に魔道士どものふがいなさや神頼みの頼りなさにうんざりしていた。そこで奴の話に乗ったのだ。打ち捨てられたこの砦を直して与え、金もくれてやった。だが、奴の研究とやらは遅々として進まなかった。南部での戦が続き、儂も滅多にここを訪れることはできなかった。だが、ふん、なるほど、奴めはしっかり仕事はしておったというわけだ」
モンヴェルティは饒舌だったので、私も訊いてみることにした。
「ロシェカーの陣での狼藉は、そういう子どもを探していたというわけか」
「そうだ。サレームの魔女どもには、そういう〈力〉の欠けらを持った者もいるらしい。おまえ達もサレーム近くの焼き打ちされた村から拾ってきたとクーライは言っていた」
「拾ってきた？ 違うわ、あいつは母さんを騙して殺して、私たちを連れ去ったのよ」
ジリニオンの記憶は、少なくともその部分に関しては、明瞭になっているようだった。
「もう、いいわ。もう、殺しましょう」
パトゥーヌがぽつりと言った。
「殺されはせんぞ！ 儂は東の玉座を手に入れるのだ！」
将軍はまだ手にしていた剣を振り上げ、猛然とパトゥーヌに斬りかかった。尋常な人間には止められない速さと激しさで。
だが、その剣は、彼女の頭を粉砕する前に、硝子のように粉々に砕け散った。無数の鉄の破片が黒髭の男の顔中に突き刺さった。目は潰れ、鼻は斬り裂かれ、唇はずたずたになった。赤い肉塊のような顔で、怒りと苦痛にわめき散らすモンヴェルティの胴を、ジリニオンの光の剣が両断した。桃色の泥のような夥しいはらわたをまき散らしながら、将軍は死んだ。
森の中の家は炎に包まれていた。松明の火が丸太の柵に燃え移り、家の方にも火が回ったのだ。見れば、その炎の中から白く薄い人影のようなものが現れた。もやもやとして形は定まらなかったが、それは、ロニーペルの姿のようにも見えた。白い影はふわりと宙を舞って、姉妹の元に降り立った。影はすうっと二つに分かれると朧な霞のようになり、渦巻きながらジリニオンとパトゥーヌの体の中へ吸い込まれていった。
七
木々の向こうから朝日が差し込み始めた。爽やかなはずの山の夜明けは、死体が焼ける臭いに包まれ、無残に破壊された無数の骸を陽光が照らし出した。
二人の姉妹を包んでいた白い光は、日が昇るにつれてかき消されるように見えなくなった。二人は死と破壊の現場を無表情に眺めていた。
「さて、夜も明けた。僕は西に向かうことにするよ」
ジリニオンは少しだけ私の顔を見て、少しだけ何かを考えている風だった。パトゥーヌの表情からは何も読み取ることはできなかった。
「皆殺しにしてやる」
随分と間を置いてから、ジリニオンがひとりごとのように言った。
「何だって。もう、十分殺したじゃないか」
「子どもを殺し、女を痛めつける奴らを皆殺しにしてやる。戦を起こして、弱い者を殺す奴らを一人残らず根絶やしにする」
ジリニオンの黒い瞳には、朝の光明を打ち消すかのような、ぞっとする暗い輝きが宿っていた。私の知っている屈託のない女戦士とは違う人間が、そこには立っていた。
「馬鹿なことはやめろ。この戦乱の東部でそんなことを始めたら、無限に人殺しを続けるしかないぞ。僕と一緒に西部に行こう。パトゥーヌも一緒に来ればいい。サンジェリィで一番の女占い師になれるさ。奇術師になったっていい。千客万来、拍手喝采を浴びて、たっぷりの金を稼いで、面白おかしく暮らせるさ」
自分の台詞がやけに空々しく聞こえて、私は語りながら、顔が強ばるのを感じた。
「そのサンジェリィという町は私には向かないね。さよなら、ランケン」
ジリニオンは短い言葉で別れを告げた。パトゥーヌは何も言わず、私に視線も向けなかった。
二人は手に手を取って、まだ木々と死体がくすぶっている森の中へと歩き出した。朝日の中、二人の姿は思いの外早く見えなくなった。
私はひとり西に向かった。夕刻に山裾近くの林で、大釜と箒の紋章の旗をたなびかせた軍勢と出会った。ロシェカー将軍の軍勢だった。紅色の甲冑に身を固めた女将軍は私の顔を覚えていた。
「マプルークでは世話になったな。恩賞を取らせよう」
ロシェカーは馬から降りると、自分の革袋から数枚の金貨を取り出した。兵に命じて、食料を幾らか持ってこさせた。
「相棒の女剣士はどうした？ 私はあの者に用があるのだ」
「砦から逃げ出してすぐ、離れ離れになった。どこへ行ったものやら……」
「そうか。あの女はもしやすると……」
ロシェカーは語尾を濁した。
「おまえもなかなか腕が立つように見受けられた。私の軍に加わらぬか。私の命を助けたのだ。モンベルティの軍にいたことなど不問だ」
女将軍は緑色の瞳で私をじっと見た。私は言い知れぬ不安を感じた。頭の中で「あの女はどこだ」という声が聞こえたような気がした。
「斥候が戻りました！」
兵士の甲高い叫びが奇妙な緊張を打ち破った。
「申せ！」
「はっ、この先の山中でモンベルティの残党が全滅しております」
「何と！ 詳しく申せ！」
「はっ、古い砦らしきものが焼け落ちており、あたりには百近い兵の死骸が……」
ロシェカーも兵士たちも斥候の報告に聞き入り、私に注意を向けるものはいなくなった。私は静かに木々の間に身を隠し、軍勢から離れた。
西へ足を向けたはずなのに、北はエスカール、南はナクシャッツにまで及ぶ、ひどく長い旅となった。
旅路の果てにサンジェリィに帰り、クーリカフ街で探偵局を開いてからも、随分と長い年月が過ぎたが、東の玉座をめぐる戦乱が収まったという話は伝わってはこない。ジリニオンとパトゥーヌは未だ目的を果たしてはいないようだ。
