その日も私は仕事がなかった。珍しくも日の出の頃に目が覚めて、顔を洗ってきれいに髭も剃り、部屋の掃除もして依頼人を迎える準備は整ったのだが、私を訪ねて来る御客は羽虫一匹ありはしなかった。
そろそろ陽も傾きかけ、窓からは金色の光が私のくたびれた部屋に射し込んでいた。アトスの店で一杯ひっかけるにはいささか早い。そこで私は大きな黒い机の引き出しからマルテのディコン酒の壜と酒杯を取り出し、半分ほど注いでみた。
酒壜は情けないほど軽く、もはや私の命の糧もあとわずかなことは明らかだった。ここいら辺で女房に逃げられた哀れな旦那か誰かあらわれてくれないと、港で船荷積みでもして汗を流さなければならなくなりそうだった。
とりあえず心を軽くすべく杯をあけると、酒神アルオリクの御導きか何か知らないが、扉を叩く音がした。
「スナブ・ランケン探偵局はこちらでございましょうか」
えらく慇懃な物腰でそう言い、依頼人が入って来た。
葡萄茶色の上下揃いの服を着た初老の男だった。頭はだいぶ禿げ上がっていたが、それほどの歳というわけではなさそうだ。
「そうですよ。私がスナブ・ランケンです。人捜し、物探し、身上調べその他諸々承っております」
懐がさびしいせいか、いつもより少しばかり丁寧な自己紹介を私はした。
そう、私はこのメルカー西海岸でも指折りの大都サンジェリィはクーリカフ街にスナブ・ランケン探偵局というものを開いている。仕事は家出人を捜し出したり、警邏隊には言えない盗品を取り戻したり、人物の素性を調べたりといったことだ、本来は。
「私はアイトーネ街ムイラア町のウォイダー男爵の使いで参りました。男爵の執事ルーコルと申します」
男は職業的な柔らかい口調で言った。
「で、ルーコルさん、どんな御用件でしょうか。ウォイダー男爵が家出でもなされましたか」
ルーコルは私のくだらない軽口に表情を変えはしなかったが、机の上に出しっぱなしだったディコンの壜と空の杯にちらりと目をやった。
私はほころびのある赤い来客用の椅子に座ったルーコルにマシュウ茶をいれてやった。
「ランケン様、これから申し上げることはぜひ、どなたにも秘密にしていただきたいのですが…」
「依頼人の秘密は守ります。もちろんのことです」
ルーコルが私の言葉を信用しているかどうかは変化のない表情からはわからなかったが、いずれにしても話しづらい用件であるらしい。
「実はランケン様…そのう、あなた様にお願いしたい件というのは、その、当家で起きております奇怪至極な事件を、ぜひあなた様の御力で解決していただきたいということなのです」
ふん、糞ったれめと私は口の中でつぶやいた。別段、私の父親が七本指のうろこのある化け物だというわけでもないし、古文書にあらわれる『失われた神々』の信徒であるというわけでもないのだが、何故か私の下に転がり込んでくる事件には、妖怪変化魑魅魍魎、亡霊魔神妖しげな事どもが絡んでくる場合が多い。これは私がかつてシュヌベル大学をとび出して世界を放浪していた時分から、十余年を経た今日に至るまで変わらぬ現象なのだった。口の悪い警邏隊の友人ノップラントなどは、私のことを魔道探偵などとぬかす始末だ。
「ルーコルさん、一応言っておきますが、私は化け物退治の専門家ではないし、もちろん魔道師でもない。私の持っている不可思議な力といえば、見張りの役ぐらいにしかならない中古の魔剣ひとふりだけです。化け物の方で勝手に私を好いているらしいだけですよ」
「いえいえ、そのような御謙遜を申されては……ランケン様の御力で怪異を打ち払った数々の事件を私どもはよく存じ上げております」
どこでそんな話を聞いたのかは知らないが、ルーコルはとにかく私にダズン金貨を支払う決意のようだった。
「お話を伺いましょう、ルーコルさん」
ルーコルはかすかに眉根をひそめて頷くと、ウォイダー男爵家に起っている奇怪な出来事を語った。
「私の主人、アバラン・ウォイダー男爵は、情け深く公明正大であることではサンジェリィのあまたの家々の中でもひときわ名高いお方です。醜い政争、つまらぬ縄張り争いなどはお嫌いで、どなた様にも恨みを買い、怪しげな呪術、また怨霊などに脅かされる原因となるほど人から恨まれ憎まれたことなど、私がお仕えしているこの二十年来というもの一度もありはしません。にもかかわらずここ三ヶ月ばかり御屋敷を覆う怪異の影は明らかであり、何か得体の知れぬ超自然のものが邪悪な力をもって仇なそうとしているとしか思えないのです。
「人死にが出たわけではありません。天井から血がしたたり落ちてきたり、寝台が揺れ動いたりといったことが起ったわけではありません。けれども召使い、使用人たちは次々に暇をとり、屋敷を逃げ出してしまいました。今でも残っているのは私と他数名の特に忠義の者だけです。壮健をもってなったアバラン様もすっかりお痩せになり、奥方様はサロプ村の方へ御静養に出かけている始末です。このままでは当家は見えざる悪しき手によって滅び去ってしまうことでしょう」
私は足を組み直した。
「ルーコルさん、何が起っているのか、はっきりとおっしゃって下さい。長い話は苦手なものでね」
執事は喉の奥で唸り声をあげた。
「手短に申せば、何かが当家にあらわれたのです」
「何かとは？」
「わかりません。何かを見た者がいるわけではありません。只、女中の一人が東の窓の外に空を覆う蠢く固まりのようなものを見たとわめいて屋敷を飛び出して行きましたが、この女はあまり頭の回らない生まれも卑しい女でして……」
「では、いったい何が起っているのです」
「そのう……感じられるのです。何か、得体の知れない何かが屋敷に侵入し、我々のまわりに存在することが感じられるのです。それは、そう頭の中に何かぶよぶよしたものを押しつけられているとでも言えばいいでしょうか……同時にまた生温かい肉の中に埋もれているような感覚をおぼえることもあります。目に見え、耳に聞こえ、肌にふれるものは何もないのに、その、意志を持った何かが、生きて蠢く何かがいることがわかるのです」
私はマシュウ茶を飲み干し、もう一杯ついだ。確かに何やら得体の知れない話だ。ウォイダー家ではそろって麻薬でも試しているのだろうか。
「始めは三ヶ月ほど前のこと、それはほんの一瞬のことで終わりました。それから二週間ほどたって、今度は誰にもはっきりわかるほど、四半刻ほどの長さでそれが起ったのです。その後、それはもっと頻繁に起るようになりました。時間も長くなり、昨日などは一刻近い時間にわたって、その姿のない何かが屋敷の中に充ち、動きまわったのです。私どもは只、なす術もなくその異常な感覚に耐え、力なく祈りの言葉を口にするだけでした。今朝になってまた二人ほど使用人が逃げ出しました。そしてアバラン様はかねてより噂を聞き及んでいたランケン様に私めを御遣わしになったのです」
「ふうむ、なるほど奇怪至極な事件ですな。三ヶ月前とおっしゃいましたが、その頃御屋敷では何か変わった事はありませんでしたかな。もちろん、それ以外にということですが」
ルーコルは冷めかけたマシュウ茶を一口すすった。
「いいえ、何も思い当たることはありません」
「そうですか。一日三十ダズン、それに事を調べるのに必要な経費をいただくことになります」
執事は柔かな笑みを浮かべた。
「おお、それでは御引き受けいただけますか。ありがたいことです。御礼は十分させていただきます」
私は立ち上がると、少しすそのほころびた暗緑色の袖なし外套とつば広帽子、それにファバーン剣を身につけた。
そろそろ陽も傾きかけ、窓からは金色の光が私のくたびれた部屋に射し込んでいた。アトスの店で一杯ひっかけるにはいささか早い。そこで私は大きな黒い机の引き出しからマルテのディコン酒の壜と酒杯を取り出し、半分ほど注いでみた。
酒壜は情けないほど軽く、もはや私の命の糧もあとわずかなことは明らかだった。ここいら辺で女房に逃げられた哀れな旦那か誰かあらわれてくれないと、港で船荷積みでもして汗を流さなければならなくなりそうだった。
とりあえず心を軽くすべく杯をあけると、酒神アルオリクの御導きか何か知らないが、扉を叩く音がした。
「スナブ・ランケン探偵局はこちらでございましょうか」
えらく慇懃な物腰でそう言い、依頼人が入って来た。
葡萄茶色の上下揃いの服を着た初老の男だった。頭はだいぶ禿げ上がっていたが、それほどの歳というわけではなさそうだ。
「そうですよ。私がスナブ・ランケンです。人捜し、物探し、身上調べその他諸々承っております」
懐がさびしいせいか、いつもより少しばかり丁寧な自己紹介を私はした。
そう、私はこのメルカー西海岸でも指折りの大都サンジェリィはクーリカフ街にスナブ・ランケン探偵局というものを開いている。仕事は家出人を捜し出したり、警邏隊には言えない盗品を取り戻したり、人物の素性を調べたりといったことだ、本来は。
「私はアイトーネ街ムイラア町のウォイダー男爵の使いで参りました。男爵の執事ルーコルと申します」
男は職業的な柔らかい口調で言った。
「で、ルーコルさん、どんな御用件でしょうか。ウォイダー男爵が家出でもなされましたか」
ルーコルは私のくだらない軽口に表情を変えはしなかったが、机の上に出しっぱなしだったディコンの壜と空の杯にちらりと目をやった。
私はほころびのある赤い来客用の椅子に座ったルーコルにマシュウ茶をいれてやった。
「ランケン様、これから申し上げることはぜひ、どなたにも秘密にしていただきたいのですが…」
「依頼人の秘密は守ります。もちろんのことです」
ルーコルが私の言葉を信用しているかどうかは変化のない表情からはわからなかったが、いずれにしても話しづらい用件であるらしい。
「実はランケン様…そのう、あなた様にお願いしたい件というのは、その、当家で起きております奇怪至極な事件を、ぜひあなた様の御力で解決していただきたいということなのです」
ふん、糞ったれめと私は口の中でつぶやいた。別段、私の父親が七本指のうろこのある化け物だというわけでもないし、古文書にあらわれる『失われた神々』の信徒であるというわけでもないのだが、何故か私の下に転がり込んでくる事件には、妖怪変化魑魅魍魎、亡霊魔神妖しげな事どもが絡んでくる場合が多い。これは私がかつてシュヌベル大学をとび出して世界を放浪していた時分から、十余年を経た今日に至るまで変わらぬ現象なのだった。口の悪い警邏隊の友人ノップラントなどは、私のことを魔道探偵などとぬかす始末だ。
「ルーコルさん、一応言っておきますが、私は化け物退治の専門家ではないし、もちろん魔道師でもない。私の持っている不可思議な力といえば、見張りの役ぐらいにしかならない中古の魔剣ひとふりだけです。化け物の方で勝手に私を好いているらしいだけですよ」
「いえいえ、そのような御謙遜を申されては……ランケン様の御力で怪異を打ち払った数々の事件を私どもはよく存じ上げております」
どこでそんな話を聞いたのかは知らないが、ルーコルはとにかく私にダズン金貨を支払う決意のようだった。
「お話を伺いましょう、ルーコルさん」
ルーコルはかすかに眉根をひそめて頷くと、ウォイダー男爵家に起っている奇怪な出来事を語った。
「私の主人、アバラン・ウォイダー男爵は、情け深く公明正大であることではサンジェリィのあまたの家々の中でもひときわ名高いお方です。醜い政争、つまらぬ縄張り争いなどはお嫌いで、どなた様にも恨みを買い、怪しげな呪術、また怨霊などに脅かされる原因となるほど人から恨まれ憎まれたことなど、私がお仕えしているこの二十年来というもの一度もありはしません。にもかかわらずここ三ヶ月ばかり御屋敷を覆う怪異の影は明らかであり、何か得体の知れぬ超自然のものが邪悪な力をもって仇なそうとしているとしか思えないのです。
「人死にが出たわけではありません。天井から血がしたたり落ちてきたり、寝台が揺れ動いたりといったことが起ったわけではありません。けれども召使い、使用人たちは次々に暇をとり、屋敷を逃げ出してしまいました。今でも残っているのは私と他数名の特に忠義の者だけです。壮健をもってなったアバラン様もすっかりお痩せになり、奥方様はサロプ村の方へ御静養に出かけている始末です。このままでは当家は見えざる悪しき手によって滅び去ってしまうことでしょう」
私は足を組み直した。
「ルーコルさん、何が起っているのか、はっきりとおっしゃって下さい。長い話は苦手なものでね」
執事は喉の奥で唸り声をあげた。
「手短に申せば、何かが当家にあらわれたのです」
「何かとは？」
「わかりません。何かを見た者がいるわけではありません。只、女中の一人が東の窓の外に空を覆う蠢く固まりのようなものを見たとわめいて屋敷を飛び出して行きましたが、この女はあまり頭の回らない生まれも卑しい女でして……」
「では、いったい何が起っているのです」
「そのう……感じられるのです。何か、得体の知れない何かが屋敷に侵入し、我々のまわりに存在することが感じられるのです。それは、そう頭の中に何かぶよぶよしたものを押しつけられているとでも言えばいいでしょうか……同時にまた生温かい肉の中に埋もれているような感覚をおぼえることもあります。目に見え、耳に聞こえ、肌にふれるものは何もないのに、その、意志を持った何かが、生きて蠢く何かがいることがわかるのです」
私はマシュウ茶を飲み干し、もう一杯ついだ。確かに何やら得体の知れない話だ。ウォイダー家ではそろって麻薬でも試しているのだろうか。
「始めは三ヶ月ほど前のこと、それはほんの一瞬のことで終わりました。それから二週間ほどたって、今度は誰にもはっきりわかるほど、四半刻ほどの長さでそれが起ったのです。その後、それはもっと頻繁に起るようになりました。時間も長くなり、昨日などは一刻近い時間にわたって、その姿のない何かが屋敷の中に充ち、動きまわったのです。私どもは只、なす術もなくその異常な感覚に耐え、力なく祈りの言葉を口にするだけでした。今朝になってまた二人ほど使用人が逃げ出しました。そしてアバラン様はかねてより噂を聞き及んでいたランケン様に私めを御遣わしになったのです」
「ふうむ、なるほど奇怪至極な事件ですな。三ヶ月前とおっしゃいましたが、その頃御屋敷では何か変わった事はありませんでしたかな。もちろん、それ以外にということですが」
ルーコルは冷めかけたマシュウ茶を一口すすった。
「いいえ、何も思い当たることはありません」
「そうですか。一日三十ダズン、それに事を調べるのに必要な経費をいただくことになります」
執事は柔かな笑みを浮かべた。
「おお、それでは御引き受けいただけますか。ありがたいことです。御礼は十分させていただきます」
私は立ち上がると、少しすそのほころびた暗緑色の袖なし外套とつば広帽子、それにファバーン剣を身につけた。
