一

「喉が渇いた」
　アズラミーラは駱駝の上で、不思議なほど日焼けしていない白い喉をのけぞらせ、高慢な口調でそう言った。
「ああ、僕も同意するよ」
　私の答えに彼女はひどく不満そうな膨れっ面を作って見せた。いかに美形の娘とはいえ、そろそろその表情を見るのにも飽きてきたところだった。私は辛抱強く次の台詞を考えた。
「フルムタルジュの緑水地はもうすぐなんだろう。君の先祖伝来の古地図に間違いがなければ、日暮れ前にたどりつけるはずだ」
　アズラミーラは私の言葉には応えず、もう一度「喉が渇いた」と繰り返した。
「水筒の水は君が今朝全部飲んでしまった。後は小便でも飲むしかないね」
　アズラミーラは砂漠には似合わない氷のような青い目で私を睨んだ。口で言うほど弱っているわけではないらしい。砂漠の都、マフラクバードで生まれ育っただけのことはあるのだろう。
　アズラミーラはマフラクバードの王女だった。東西の交易で栄華を極める緑水都市の一つ、マフラクバードの姫君、〈砂漠の宝珠〉と讃えられる美姫だ。どこまでも自分の意を通そうとする気性の強さは、その美貌の素晴らしさに劣ることはなかった。
　歳は二十歳前、小柄で細身な体はまだ少女の名残がある。白に金茶の薄衣の上下を通して、しなやかな曲線が見て取れた。金糸銀糸の縫い取りに宝石をちりばめた帯で締められた腰は驚くほど細い。小作りで繊細な顔立ちに青玉の瞳、艶やかな黒い髪は東西の民の血が混じりあうこの土地が生み出した奇跡だった。金の耳飾りには金剛石がきらめき、金銀の鎖編みの頭環の中央には第三の目のように青玉が光っている。
「スナブ・ランケン、サーンジェリィとかいう都の男は、皆おまえのような下品な口を利くのか」
　王女は小さな頭に被った白い面紗を持ち上げ、珊瑚色の唇を尖らせて見せた。
「マフラクバードの女がみんな君のように高慢なわけではないだろう」
「私はマフラクバードの王女、高慢さは美徳の一つだ」
　私は肩をすくめて見せたが、王女の気に入る仕草ではなかったようだ。
「おまえには王女に対する敬意というものがないのか。サーンジェリィとやらには女王はおらぬのか」
　アズラミーラはただ高慢なだけの世間知らずというわけではなく、好奇心も旺盛な頭の良い娘だった。歴史や地勢の知識も豊かなようだったが、さすがにはるか彼方の大海の向こうの大陸にまでは、その知識は及んでいなかった。
「王はいるけどね。民議会の決定を無視するわけにはいかない」
「民議会とは何だ」
　駱駝の背に揺られながら、サンジェリィの政治に仕組みについて説明したが、三百年も続く王朝の世継ぎには理解の難しい問題だった。

　世界を彷徨う旅の途上、路銀が尽きてきた私は、マフラクバードとハッサブハを結ぶ隊商の護衛の仕事にありついた。近頃、隊商を襲う盗賊団〈砂塵の獅子〉の出没が頻繁だということで、私のような彷徨の旅人でも、腕さえあれば仕事口はあった。ハッサブハへの往復の旅は幸いにも賊の襲撃はなく、無事に終えることができた。だが、マフラクバードに戻ったその夜、盗賊騒ぎどころではない大事件が持ち上がった。
　謀反が起ったのだ。仕掛けたのはアキュラーブ王子、アズラミーラの兄だった。マフラクバードを支配するイムラタリーク王朝は女系の王朝で、代々女王が国と都を統べていた。王位にあるヤーシュマリカ女王の後はアズラミーラが継ぐことが決まっていた。だがアキュラーブ王子は自らが王となりマフラクバードの支配者となろうとした。近衛兵大将のハディラ＝ジュールを引き込み、実母であるヤーシュマリカ女王を殺して王宮を占拠した。近衛部隊は二派に分かれて激戦となったが、反乱は用意周到に計画されていた。盗賊団〈砂塵の獅子〉の正体はアキュラーブ王子子飼いの傭兵隊であり、内通者の手により市内に引き込まれ、宮殿を襲撃した。
　あちこちで火の手が上がり、市内は混乱に陥った。私は護衛隊の仲間と酒を飲み、宿屋で眠っていたところを騒ぎで起された。護衛隊仲間には、この機に乗じて略奪に繰り出す者もいたし、中には王女への忠誠心から王宮での戦いに馳せ参じる者もいた。だが、旅人である私には関係のないことだった。報酬はすでに手にしていたし、戦乱のマフラクバードに留まる理由はなかった。一番良さそうな駱駝を選ぶと、騒ぎの続く市内を脱出した。
　月光の下を西方にある緑水都市ハッサブハへ向かっていると、背後からもう一頭の駱駝の足音が聞こえた。月明かりに白い服をまとった小柄な乗り手が見えた。後ろを振り向きながら、何とか駱駝を急がせようとしている。さらに後方には松明が見えた。火明かりは急速に近づいてくる。駱駝ではなく馬に乗っているようだ。
　白衣の乗り手と松明を持った騎手は、ほぼ同時に私に追いついた。
「逆賊に追われている！　加勢を！」
　息を切らしてはいるが、しっかりした声が叫んだ。若い女の声だ。女は私を盾にするように駱駝を回り込ませた。追手は黒い馬に乗った近衛兵だった。磨き上げられた銀の兜が月明かりに映える。頭の羽飾りは一本だから、特に偉い奴ではないのだろう。
「その女を渡してもらおう！　アキュラーブ王の命だ！」
　近衛兵は反りの強い偃月刀を抜いた。兜の中の顔はまだ若い。
「王だと？　よくも恥知らずな僭称を！　母君亡き後、マフラクバードの王はこの私アズラミーラ以外にはおらぬ！」
　横目で憤怒に歪んだ女の顔を見た。青い瞳が月光を映して冷たい炎を放っていた。女は腰帯から細身の偃月刀を抜いた。
「そこの男、アキュラーブ王の命だ！　その女を渡せばたんまり褒美が出るぞ！　刃向かえば命はない！　どちらかを選べ！」
　近衛兵は間合いを詰めた。私は兵士と女を交互に見やった。
「かかわり合いになるつもりはなかったんだがな。成り行きだから仕方ないか。どちらもいやだね」
　私は剣を抜いた。ファマルフットの市場で買った安物だ。給金で新調しておけばよかった。
「馬鹿め！」
　銀の兜の兵士は偃月刀を振り上げ、突進してきた。私の駱駝はおびえて逃げようとした。私は駱駝から飛び降り、砂の上を転がった。すれ違いざまに近衛兵の馬の尻に斬りつけた。馬は悲鳴を上げてさお立ちになる。兵士は投げ落とされた。私は身を起して剣を振るおうとしたが、砂に足を取られて、一呼吸遅れた。その間に近衛兵も立ち上がり、偃月刀を構えた。二振りの剣が月夜に火花を散らした。二手、三手と刃をあわせると、いやな音がして私の剣は半ばから折れた。兵士が偃月刀を振り上げた刹那、彼は鈍い呻き声をあげて倒れた。俯せになった死体の背中には、鎖帷子を貫いて短い鋼の矢が突き刺さっていた。
　王女はゆったりした袖口の中に機械仕掛けの小さな弩をしまい込んだ。
「礼を言うぞ。その方、名は何と申す」
　アズラミーラ王女は皮肉交じりの微かな笑みを浮かべて、そう言った。

　それから三日、私たちは砂漠を進んだ。王女はハッサブハに向かおうという私の提案をにべもなく否定した。
「私のいう通りに進むのだ」
「どこへ向かおうというんだ。ハッサブハならあんたの国とは交易で共存している。亡命を受け入れてくれるかも知れない」
「ハッサブハのビルニークラ女王は黄金と若い男にしか興味のない豚女だ。金と美形の奴隷と引き換えに、すぐにも私をあの非道の悪鬼に引き渡すだろう」
　アズラミーラは辛辣な口調で隣国の女王と自分の兄を批判した。
「アキュラーブ王子とは反りが合わないようだね」
　アズラミーラがいきなり弩付きの左腕を私に向けたので、私は駱駝の上で身を反らし、危うく転げ落ちそうになった。
「名を聞くだけで虫酸が走る！　あの悪鬼は母君を殺した親の仇だ！　それだけではない、私を妃としようとしているのだ！」
　私は砂でいがらっぽい喉から、できるだけ穏やかな声を出して聞いてみた。
「マフラクバードの王家では兄妹で結婚するのが仕来りだと聞いたが、そうではないのかい」
「王家の清い血を継ぐためだ。だが、代々兄妹、姉弟で血を継いでいけば、血は濁っていく。聖祖ハーディシムラーリカ二世は清い血を保つための掟を作った。三代に一代は王家の外からの血を入れて、王家の血筋に生気を吹き込むのだ。私はその代だ。それを知っていながら、あの蠍めは私を娶ろうとしているのだ！」
　アズラミーラは握りしめた拳を震わせ、小さな果実のような唇を色がなくなるまで噛みしめた。その件についてそれ以上尋ねるのは止めておいた。
「ふむ、それで行く先は？」
　アズラミーラは射貫くような視線で私を見た。
「他言すればおまえの命はないぞ」
　脅しではなく、本当にそうするつもりなのは明らかだった。
「誰にも言わないと僕だけの神に誓おう」
「アーリマーズン以外に神はおらぬ」
「では、自分自身に誓おう」
　様々な国、様々な民が集う交易都市の王女らしく、アズラミーラは宗教には寛容なようだった。
「フルムタルジュに向かうのだ。我が祖先が王家に万が一の変事があったときのために作った秘密の緑水地だ」
「そこにたどりつけば助かる算段があると？」
「行けば、わかる」
　アズラミーラは王家の秘密をそれ以上私に教えるつもりはないようだった。
　アズラミーラは、内懐の革の筒から、古びた羊皮紙の地図を取り出すと、砂礫がどこまでも続く砂漠の中で丘陵の姿と太陽の作る影、それに時折の瞑想で進む道を決めた。夜になると慎重に星々の位置を見極め、ひざまずいて神に祈りを捧げた。この地の神々にさして詳しいわけではなかったが、どうも祈る相手はアーリマーズンとは違うようだった。
　水が尽きれば砂漠では死ぬしかない。だが、アズラミーラは秘密の緑水地の発見に絶対の自信があるのか、死を怖れる姿を見せるには誇りがあり過ぎるのか、時折、不平をもらしながらも、駱駝を進めた。
　三日目の日が傾きかけようかという頃、アズラミーラは目の前の低い砂丘の向こうを指差して言った。
「着いたぞ。あれがフルムタルジュだ」
　女王が指差す先を見ると、低い岩山の向こうに砂色の方形がほんのわずか頭をのぞかせていた。私たちはの岩山のてっぺんに駱駝を進めた。四方を砂礫の山に囲まれて、黄色い石で作られた四角い建物があった。差し渡しは四十イート（約百二十メートル）ほどだろうか。高さは二十イートほど（約六メートル）、中央の大きな方形を囲むように少し小振りの方形が四隅に重なるように配置されている。建物の周囲は青く光る水を湛えた掘割に囲まれていた。
　不思議なことに水があるにもかかわらず、木も草もどこにも見当たらなかった。岩山に囲まれた窪地に、堀で守られた小さな石の城塞が立っているように見えた。あるいは、城塞ではなく、墳墓のようにも見える。
　ともあれ、ここがアズラミーラの希望の地であることは間違いないようだった。美しい青い瞳に不穏な光を宿して、アズラミーラは岩山を下っていった。

　　　　二

　駱駝を降りた私たちは、まずは堀の水で喉を潤した。水は驚くほど澄んでおり、また驚くほど冷たかった。堀は建物の前では直角に曲がり、幾つもに枝分かれし、石の橋が架けられ、庭園のようになっていた。庭の中央の水底から水が湧きだしているようだ。
　私はそこを見ようと石橋に足をかけた。
「待て！」
　アズラミーラが鋭い声で私を制止した。私が振り返ると、アズラミーラはわずかな笑みを浮かべて、小石を放り投げた。小石は石橋の向こう側まで宙を飛んだが、突然白く光ると粉々に砕け散って砂埃と化した。
「おやおや、とんでもない緑水地だね。一時の憩いが永遠の眠りになるってことかい」
「二百年の昔からフルムタルジュを守っている魔法の壁だ。カムルジャマスの魔力は歳月にも砂塵にもすり減ることがない」
　王女は誇らしげに王家を守護する魔道士団の名を口にした。マフラクバードの繁栄を陰で支えていると言われている通力を操る道士たちだ。
「それは結構だが、この剣呑な結界は誰が解くんだい」
　アズラミーラは小さな顎の先をつんと上げると、口元に薄笑いを浮かべ、私に退くように手を振った。石橋の袂に立つと、面紗を上げて両腕を広げ、早口に呪文を唱えはじめた。
「我はウンムラトゥーラの裔、誉れ高き聖なる王家の裔、マフラクバードの王女、アズラミーラなり。太陽と砂と風、冷たき月と水の力を受け継ぐ者なり。我にはこのフルムタルジュに入り、吉報をもたらし、久遠の光を注ぐ者なり。アーフラ＝オルメニ、クラジス、ターンク、アーフリ＝メイシャ、ドワンジ、ムーライ、イーラン、エーラク……」
　その後はマフラクバードや近辺の都市で交わされるパルサビア語とは異なる、佶屈怪異な発音となり、尋常ではない速さでアズラミーラの唇から飛びだした。とても聞き取ることはできなかった。
　やがて不意に呪文が途切れると、アズラミーラは両手を空に延ばし、太陽を仰ぎ見た。一言何か囁くと、今度は砂の上に跪き、唇を地に着けるようにして、また何か囁いた。そして、体を起すと、ゆっくりと石橋を渡った。
　橋を渡りきっても、アズラミーラの体が破裂することはなかった。王女はこちらを振り向き、小さな唇の端に薄笑いを浮かべて、私を差し招いた。
　王族などという人種を信頼してはならないことは、世界を彷徨う旅で十分にわかってはいたが、今ここで私に選択肢はなかった。アズラミーラは笑うと年相応の可愛い娘に見えた。
　私はゆっくりと石橋を渡った。橋を渡りきるところで、一瞬体に痺れが走ったが、手足がばらばらになったり、胸板が破裂することはなかった。
「おまえは魔法を学んだことがあるのか」
　王女はぶっきらぼうにそう尋ねた。
「いや、魔道士の修業をしたことはない。怪しのものがかかわる歴史については幾らか学んだけれどもね」
「そうか。よくあの結界を通れたな。王家の血を引かぬおまえに身には何かが起るかもしれぬと思っていた。よほど異界のものに好かれていると見た」
　私は肩をすくめるしかなかった。王女は唇の端だけでにやりと笑って、建物の正面へと足を進めた。
　左右には大きな石造りの方形が張り出し、入り口とおぼしき部分は一段奥に引っ込んだようになっている。堀を渡り建物に近づくと、砂漠の熱気が衰え汗が引いていくのを感じた。建物は黄色い石を寸分の隙もなく組み合わせてできている。浮き彫りや彫刻の類いは何もない、四角い石の塊が組み合わされた素っ気ない造りだった。
　人間の背丈より幾分大きめの框らしきものが真ん中にある。そこが入り口なのだろう。だが、長方形の石の枠の中には同じ砂色の石がはめ込まれているだけで、把手らしきものも何もなかった。
「ここでもう一つ呪文があるのかい。王家の娘が魔道にも長けているとは知らなかったよ」
「フルムタルジュへ入るための呪文は、代々の王女に引き継がれる。だが、皆ただ芝居の台詞のように覚えるだけだ。本当にフルムタルジュを開くことがあるなど、考えもしないからだ。だが、私は違う」
　アズラミーラは私のほうを見もせずにそう言うと、おもむろに懐から短刀を取りだした。金銀細工の柄に宝石が煌めいている。鋭い切っ先で小指の先を突くと真っ赤な血が玉となった。
「ここで必要なのは呪文ではない。王家の血だ」
　世継ぎの女は血の滴る小指の先を、扉らしき石板の真ん中に押し当てた。血は石の上を流れ落ちはしなかった。黄色い石の中に吸い込まれていくようだ。王女が小指を押し当てているところから、八方に絹糸のように細い赤い筋が走った。その筋が扉の端まで達すると、アズラミーラは指を離した。足下がふらつき、王女は倒れそうになった。
　私は慌てて彼女を抱きとめた。鳥のように軽い体だった。
「無礼者め。私の許しなく私の身に触れて、ただですむと思っているのか」
　王女は毒づいたが、あまり本気ではないようだった。頬から赤みが消え、唇も白くなっていた。存外血を吸う扉らしい。
「王家の礼儀作法にはとんと縁がないんでね」
　アズラミーラはまた唇の端だけを歪めて笑った。氷の青い目は笑うことがないらしい。恐ろしく美形だが、あまり魅力のある笑顔ではなかった。王女はそれでもしばらく私に身を預けて、息を整えていた。
　扉の上に現れた血の筋はほどなく消えた。石が擦れる重い音がして、扉は建物の奥へと動いた。石板が後退してできた黒い隙間から、冷たい風が吹き出してきた。
「開いた！　二百年の歳月を経て、フルムタルジュの扉が開かれたのだ！」
　支える私の腕にも、アズラミーラの体が震えているのが伝わってきた。

　　　　三

　扉の中は砂漠の夜のように寒かった。入り口からの光で見て取れる範囲では、幅十イート（約三メートル）ほどの通廊が奥へとまっすぐ続いているようだった。床も左右の壁も表とは違う黒い石でできていた。光沢があり、陽の当たっているところでは、半ば透き通った硝子のようにも見えた。
　後退した扉の背後で奥に目を凝らしていると、また石の擦れる音がして、扉が閉まった。辺りは全くの闇に包まれた。
「開け方は知っているんだろうね」
「内側から開く方法は伝わってはいない」
　アズラミーラは平然とした口調でそう言った。
「やれやれ」
　私は溜息をついたが、王女は闇の中でくすりと笑った。
「怖いのか、スナブ・ランケン」
「怖いね。命は惜しい。ここで君と二人で死んで干涸びて木乃伊になるのは真っ平だ。何百年かたって掘り出されて、どこかの博物学者の陳列棚に収まるはめになるのは、御免こうむりたい」
　アズラミーラはまた小さな笑い声を漏らした。顔が見てみたかったが、真っ暗で何も見えない。
「心配は要らない。このフルムタルジュに入ることができたのだ。私は必ずマフラクバードに戻り、あの毒蠍から王位を奪い返す」
　王女の言葉は自信に溢れているというよりは、強い決意を示すものだった。王宮育ちの華奢で高慢な小娘だが、柔弱さとは無縁のようだった。
「道が見えてきたか」
「ああ、何だこの光は？」
　目がなれてきたのかと思ったが、どうやらそうではなかった。青白いぼんやりとした揺らめく光が行く手の両側にまっすぐに続いていた。通廊の左右の端に光が連なっているらしい。
「闇訪れれば青き光尊き血筋の者を誘う……『星月夜秘事別録』にある通りだ！　間違いはない」
　青白い光は次第に強さを増し、月明かりよりも明るくなった。幅十イートの通廊の両脇には二イート（約六十センチ）ほどの水路が左右にあり、水が流れていた。光はその水底から発しているようで、水の流れが作る波によって揺らめき、怪しい影を通廊の中に映していた。
　水路の外側には黒い壁が続いていた。硝子のようにも見える黒い壁に、水底からの光がゆらゆらと反射して、壁の向こうに何かがいるような錯覚を覚えた。
　行く手は朧な闇の中に消えて、よくわからない。
「行くぞ」
　アズラミーラは私の意志を確かめる気もなく、通廊を進みはじめた。私は誰に見せるわけでもないが、肩をすくめて後を追った。先刻、建物に近づいて感じた冷気は、ますます強くなり、水底からの光を浴びて息が白く見えるほどだった。暑い砂漠の地底に、こんな冷気の満ちる場所があるとは驚きだった。何らかの強力な魔術が働いているのだろうか。
　通廊はかなり長く続いていた。しばらく行ったところで、左右に分かれる細い道があったが、アズラミーラは躊躇うことなく先へ進んだ。左右には黒い硝子のような壁が続いていた。青白い燐光が私たちの歪んだ姿をそこに映しだした。水路の中からの光は進むにつれて強まり、半ば透き通った壁の中にまで届いた。
　ふと見ると、アズラミーラでも私でもない顔がそこにあった。目と頬が異様に落ち窪んだ木乃伊のような顔が確かに見えた。
「これは何だ？　壁の中に誰かいるぞ！」
　私が立ち止まって叫ぶと、アズラミーラも立ち止まり振り返った。青い光に照らされた花の顔には、冷たい笑みが浮かんでいた。
「気が付いたか」
「おい、ここはいったい何なんだ？　王家に変事があったときのための避難所かと思っていたが、そんな単純なものではないだろう。そろそろ、教えてくれてもいいんじゃないか」
　アズラミーラは私に向かって二歩三歩戻ると、白衣に包まれた細い腕を水路の向こうの黒い壁に突き出し、滑らかなその表を白く細い指で撫でて見せた。
「ここにいるのは女王アズラトゥーラの忠実な臣下たち。女王とともに二百年の眠りについている」
「ここは王家の墓だというのか」
　王女は青い氷の目を細め、恐ろしげな笑みを作った。
「違う。ここは陵墓ではない。ここは待つ者の場所だ」
「待つ者？　誰が何を待つと言うんだ」
「おまえは旅人ゆえ、アズラトゥーラの言い伝えなど知らぬのだな。なら、教えよう。ここフルムタルジュの緑水地は、五代女王アズラトゥーラが永き眠りにつき、来たるべき時を待つ場所なのだ」
　旅人の私でも、アズラトゥーラの名は聞いたことがあった。女王であるとともに、恐ろしい力を持つ女魔道士で、その妖力に怖れをなした家臣たちに暗殺されたという話だ。その名は禁忌とされたが、数百年の時を閲した今日でも、砂漠の民の間では時折疎ましい名として囁かれる。私がその事を言うと、アズラミーラは小さな嘲笑をもらした。
「民はそのように言うておるのだろう。だがアズラトゥーラは死んではおらぬ。永遠の美を得るためにここで時を待っているのだ」
「永遠の美？」
「そうだ。アズラトゥーラは〈砂漠の宝珠〉と謳われた美貌の女王だった。美しいだけではない、したたかな駆け引きの技に加え、強大な力をもった当代随一の魔道士でもあった。だが、アズラトゥーラにも自らの肉体が老いていくのを止める魔法だけは作り得なかった。そこで、アズラトゥーラは王宮の魔道士たちに、永遠の若さを保つ魔法を突き止める事を命じて、自らは仮初めの死を迎えることとした。冷気の魔術で、朽ち果てることのない永い眠りに着いたのだ。永遠の美を実現する魔術が編み出された暁には、この地より目覚め、再びマフラクバードの女王として君臨するはずだった」
〈砂漠の宝珠〉という美名の持ち主はアズラミーラだけではなかったようだ。
「それで永遠の美を実現する魔術とやらはできあがったのかい」
　アズラミーラは喉の奥でくくっと笑い声をあげた。
「そのようなものはない。そのような魔術はこの二百年間、誰にも編み出すことはできなかった。ナジャラムールのように数百年生きたとされる魔道士はいるが、幻術で若い姿を見せることはできても、真の姿は木乃伊のような醜怪な老人だ。永遠の命、永遠の美など、誰にも実現できない。
「私には幼いころから魔術の才があった。母君とカムルジャマス道士たちについて修練を積んだが、永遠の若さを保つ術など誰も知る者はなかった。おまえはアズラトゥーラが暗殺されたという言い伝えを聞いたと言ったな。それは真実ではないが、出鱈目と言うわけでもない」
　私たちは話ながらゆっくり歩を進めた。左右の黒硝子の壁の中には、頬のこけた木乃伊のような従者たちの姿がよりはっきりと見えるようになってきた。古風な鎧兜に身を固め、腰には剣を吊り、手には槍を持った戦士たちが並んでいる。アズラトゥーラ女王の親衛隊なのだろうか。この戦士たちも死とは異なる仮初めの眠りについているのだろうか。
　アズラミーラの声は誰かに話を聞かれるのを気にするかのように、次第に低く小さくなっていった。
「アズラトゥーラは謀られたのだ。女王の専横と恐るべき魔法の力を怖れた家臣たちとカムルジャマス道士の陰謀だ。百年の後には永遠の美の魔法が完成するという偽りの予言と神託を信じて、アズラトゥーラはここで眠りについた。道士たちも家臣たちも永遠の美の魔法など、どうでも良かった。絶対的な権力を持つ魔女を地上から消し去り、都合よく操れる年若い王女を王位に就けたかっただけだ」
　アズラミーラは軽蔑の念を込めた調子で、二百年前の王家の秘密を語った。意地の悪そうな嘲笑が白い小さな顔に浮かんだ。
「畏怖されるような魔力を持った女王が、そんな簡単に騙されるものかね」
　王女は冷たい青い目で私の顔をちらりと見て、鼻でふふんと笑った。
「おまえは女の心がわかっておらぬな」
　私の渋面を見て、アズラミーラはもう一度小さく笑った。驕慢と嘲りをそこから取り払うことができたなら、どんなに愛らしい笑顔になるのだろうかと思ってみたが、その方法は考えつかなかった。
「アズラトゥーラは肌が崩れる病に罹っていたという言い伝えもある。だから美を保つ魔法に執着したのだという話だ。二百年の昔の話だ。本当のことは誰にもわからぬ。大事なことは、私の血によって、この秘密の寝所に入ることができたということだ」
「アズラトゥーラの末裔である君には、二百年前の女王を目覚めさせることができるというのか」
　アズラミーラは黙って満足げな笑みを浮かべ、うなずいた。
「もう一度、アズラトゥーラを騙そうというのか。随分と大胆だね」
　王女は突然私の腕を取って、身を寄せてきた。甘い汗の匂いがした。耳元で囁くように年若い〈砂漠の宝珠〉は話を続けた。
「しいーっ！　声が高い。アズラトゥーラに聞かれるぞ」
　アズラミーラは私の肩に頭を寄せて、くすくすと笑った。悪意のある冗談はお得意らしい。
「よいか、サーンジェリィのスナブ・ランケンよ。おまえは今マフラクバードの歴史に残る陰謀にかかわっているのだ。わかっているか」
　アズラミーラは私の耳朶をなめんばかりに唇を寄せ、囁いた。
「私はアズラトゥーラを騙すのだ。イムラタリーク王朝最大の女魔道士を騙すのだ。永遠の美の魔法が完成したと言ってな。アズラトゥーラの魔法の力があれば、あの蠍めとその軍勢を一気に蹴散らすことができよう！　母君の仇を討って、正統なる継承者であるこのアズラミーラが、マフラクバードの女王となる！　スナブ・ランケン、おまえはこの一大事に私に仕える運命を抱いて、この地に訪れたのだ！　よいか、私の命に従い、しっかりとするのだ！　さすれば、事が成った暁には思いも寄らぬ僥倖が待っているかもしれぬぞ！」
　少しかすれた声と甘い女の匂いはたまらなく魅力的だったが、話の中身はそうでもなかった。
「なるほど。君がマフラクバードの女王になったら、足の指でもなめさせてもらえるのかな」
　アズラミーラは細い指先で私の頬を思いきりつねった。
「何たる不敬だ！　サーンジェリィでは王女に対してそのようなことが許されるのか！」
　アズラミーラはそれほど怒っているわけでもなさそうだった。
「だが、おまえが本当に我が意に忠実に働くのなら、左手の小指に接吻をゆるそう」
　とびきりの甘い声でそう囁くと、アズラミーラは私の腕を離して先を歩き出した。〈砂漠の宝珠〉の左手の小指がどれ程価値のあるものなのかはわからなかったが、私には選択の余地はなさそうだった。

　　　　四

　私たちは青白い光に照らされた死者の回廊を進んだ。途中、左右に道が分かれているところがあったが、アズラミーラはためらわず真っ直ぐに歩を進めた。どれ程建物の奥へ進んだのかはわからない。非常に長い回廊を歩いているような気がしたが、砂丘の上から見たフルムタルジュはさして大きな建物ではなかったはずだった。通廊はかすかに下っているようにも思えたから、いつの間にか私たちは砂漠の地底を歩いているのかも知れない。
　やがて、行く手にぼんやりとした青白い光の壁が見えてきた。通廊はそこで終わり、左右に三十イート（約九メートル）ほど広がっている。二十イートほどの先には硝子のようなものでできた壁があった。壁はちょうど十イートくらいの幅で三つに分かれており、左右の二つの部分は通廊の壁と同様の黒い硝子のようなものでできていた。中には無数の銀色の立方体を複雑に組み合わせたものが入っており、壁の手前の水路からの燐光に照らされて鈍く光っていた。
　中央の部分は少し様相が違っていた。壁は水晶か氷のように透き通り、銀の粉をちりばめたようにきらきらと輝いている。奥には左右の壁と同じような銀色の方形を組み合わせたものが見て取れた。
　その手前に女がいた。氷の中に閉じこめられたかのように、透き通る壁の中に女が立っていた。金銀と宝石をちりばめたわずかばかりの胸当てと腰布以外は全くの裸身だった。長身で手足が長く伸び、乳房と尻には豊かに肉がついている。まっすぐな眉の上で切り揃えた髪は漆黒で背中まで覆っている。頭には黄金の鎖編みの環を巻き、額の部分には大きな青玉が光っていた。
　幅の狭い形良く尖った鼻、傲慢さを湛えた小さな唇、少し尖った頤、砂漠の民とは思えぬ白い肌。瞳こそ閉じられたままだったが、その美しい容貌はアズラミーラにうり二つだった。私たちは紛れもなく二百年前の王女アズラトゥーラの元にたどりついたのだ。
　アズラミーラは壁の中の遠い祖先の姿を目にすると、すうっと息をのみ、しばらく何も言わずに見つめていた。私は硝子の壁を隔てて向き合う二人の女を交互に見やった。顔立ちはそっくりだが、壁の中の女の方が背が高く、肉付きも豊かだった。幾分かの青さを残したアズラミーラの美貌に比べ、アズラトゥーラは熟しきった果実のような色香があった。
「二百年も私を待っていてくれて、礼を言おう、女王アズラトゥーラ。今こそ、その通力が必要な時だ。正統なる王家の裔に力を与えたまえ！」
　アズラミーラの顔には自信に満ちた薄笑いが浮かんでいた。伝説の魔女を甦らせようというときにまったく豪胆なことだ。
　アズラミーラは透き通る壁の表にすっと手を伸ばした。掌を押し当て、目をつぶりうつむくと、小声で呪文じみた言葉を呟きだした。何を言っているのかは聞き取れない。聞こえたとしても、理解は不能な古の呪文なのだろう。
　辺りは息が白くなるほどの冷気に包まれていたが、アズラミーラの額には汗が浮かんだ。眉根にしわを寄せ、一心不乱に呪文を唱え続ける。壁に押し当てた掌からは血が滴り落ちた。建物に入るとき傷つけたのは左手の小指だったが、今、血が滴っているのは右手だった。
　流れ落ちた血の滴は壁の前を流れる水路に落ちた。青白く光る水に落ちた真紅の滴は、深く沈み込み、見えなくなった。赤い滴が一滴、二滴、三滴、水路に落ちると、アズラミーラは膝をついて座り込んだ。細い肩が荒い息で上下している。壁についているはずの血の手形はどこにも見えなかった。
　私はしゃがみこみ、娘の肩を抱いた。
「大丈夫かい、王女様」
　アズラミーラは薄く目を開いたが、私ではなく氷の壁の向こうの女王に視線を向けた。
「アズラトゥーラ、偉大なる女王、〈砂漠の宝珠〉よ！　あなたの血の末裔が、聖なるウンムラトゥーラの血の裔が、今あなたの目覚めを待っております！　今こそ、時が到ったのです！　おお、アズラトゥーラ、アズラトゥーラ、あなたの裔が目覚めを待っております！」
　アズラミーラは細い肩を震わせながら、熱っぽい声で偉大な祖先の復活を懇願した。
　突然、目の前に赤い靄がわき起こった。壁の前の水路からわき起こったそれは血腥いにおいを放ちながら、硝子の壁を這い登った。壁に吸い込まれるように赤い靄が消えると、どこかで金属が擦れるような音がした。
　目の前の壁が氷が溶けるように消えだした。炎にさらされた氷が溶けてなくなるかのように、壁はゆるゆると後退し、なくなっていく。水となって流れ落ちていくわけではない。宙に溶けだすように消えてなくなっていくのだ。
　ちらちらと光る銀の粉が舞い、壁はすっかり消えてなくなった。氷の壁の中に浮いているように見えた古の女王は、金銀の細い足輪で飾った素足を床につき、胸を張って立っていた。
「アズラトゥーラ、アズラトゥーラ、聖なる血の末裔、あなたの子孫、アズラミーラがお迎えに参りました」
　アズラミーラは足下の水路を渡ると、二百年前の祖先の足指に口づけた。その刹那、眠りの女王の瞼が開いた。瞳は翠玉のような緑色だった。
　アズラトゥーラ王女は緑玉の瞳で、足下に跪いている娘の黒髪を見おろした。色こそ違え、双眸に宿る冴えた冷たい光は半世紀の時を隔てた子孫と同様だった。
「顔を上げ、立つがよい、我が娘よ」
　王女はよく響く低い声でそう言った。誰もその声に抗う者はないという確信が、響きの中に聞こえた。
　アズラミーラはゆっくりと立ち上がり、数歩下がって王女と向き合った。
「おお、偉大なる我が祖アズラトゥーラよ。我は神祖ウンムラトゥーラ女王の第十四代の子孫、イムラタリーク王家の正統なる後継者、女王ヤーシュマリカの娘、アズラミーラにございます」
　アズラトゥーラは黙ってアズラミーラの台詞を聞いていた。
「おまえの血が私の眠りを覚ました。おまえが我が血を引く裔であることはわかっておる。私を目覚めさせたということは、永遠の美の魔術は完成したのだな。朽ちゆく我が美貌を甦らせ、永遠の美しさを保つ魔術が遂に編み出されたと言うのだな！」
　アズラトゥーラは長く細い指で左の頬をそっと撫でた。気がつかなかったが、白磁のような肌に、そこだけ、わずかな陰りがあるようにも見えた。
「左様でございます。二百年の時を要しましたが、遂に永遠の美の魔法は完成いたしました。カムルジャマスの魔道士たちがアズラトゥーラ様の御為に心血を注ぎ続けた成果が、今、実を結んだのでございます。四世サラブダムア大師がほんの一月ばかり前にその魔術を完成させました。この緑水地の名を頂き、〈フルムタルジュの秘法〉と名付けました」
「おお、二百年！　二百年の歳月が閲したと言うのか！　サラブダムアは私の魔道の師だ。六世とは！　サラブダムアは来ておるのか。　いや、待て。そこには、そなたとその下賤な成りの男しかおらぬではないか。カムルジャマスの道士たちや大臣たちはどうしたのだ。これはどうしたことか！」
　緑玉の瞳に鋭い光を宿し、事態を訝しむアズラトゥーラの前で、王女は頭を垂れ再び跪いた。
「アズラトゥーラ様、めでたきお目覚めにこのような貧しきお出迎えとなってしまったことを、幾重にもおわび申し上げます。お目覚めのおりに、まったくもってご不興なことではございますが、今、我らが王国は開闢依頼の危機に瀕しているのです」
　アズラトゥーラは眉間にしわを寄せ、緑の目で二百年後の末裔を見下ろした。
「申してみよ！　開闢以来の危機とは何か！」
　女王の声の冷たく深い声は、眠りの宮殿の中に幾重にも谺して響き渡った。

　　　　五

　恐ろしい軍団が砂漠を進んでいた。先陣を切るのは、徒で進む長槍と剣を携えた兵士たち、その後ろには投げ槍としても使える短めの槍と偃月刀を備えた騎兵たち、後尾には長射程の大弓を背負った弓兵が続いた。
　決して大軍団ではない。いや、人数だけを問えば、それは取るに足らない軍勢だった。おそらく五百人にも満たない。だが、その姿を間近で見る者あれば、間違いなく恐怖におののき、熱い砂礫の彼方まで逃げ出すことだろう。
　兵士たちは誰もが生身の人間ではなかった。茶色く干涸びた肌と肉は、ところどころぼろ布のように穴が開き、そこからは黄ばんだ古い骨がのぞいている。顔の半分が髑髏と化している者がいる。片腕がほとんど骨となっている者がいる。肋が丸見えとなっている者がいる。
　だが、彼らは生きた兵士だった。落ち窪んだ眼窩の奥には、ぎらつく瞳を宿し、二百年前と変わらぬ狂気じみた忠誠心で、女王アズラトゥーラのための戦に、今、突き進んでいるのだった。
「素晴らしい軍団でございます。この姿を一目見れば、怯懦のアキュラーブは砂鼠のように尻尾を巻いて遁走することでありましょう」
　アズラミーラは馬上から死の軍団を見渡し、古の女王に語りかけた。豪奢な馬具の下からは、黄ばんだ骨が垣間見える。
「ふむ、王子の分際で聖なるマフラクバードの王位を簒奪しようとは、笑止なことよ。男は女の奴隷に過ぎぬことを、骨の髄まで刻み込んでくれよう」
　女王アズラトゥーラの声は分厚い銀色の頭巾の中からくぐもって聞こえてきた。フルムタルジュの緑水地をでる前に、女王は全身を覆おう頭巾付きの長衣をまとった。陽光が命取りとなる吸血の魔物のように、アズラトゥーラは砂漠の太陽の下に決して肌をさらそうとはしなかった。ただ、頭巾の幾重もの襞の奥からは、緑色の双眸が怪しい燐火のようにのぞいていた。
　軍団はフルムタルジュを三日前に出発した。女王アズラトゥーラは王女アズラミーラの語る王家存亡の危機を信じたのだ。想像を絶する王女の魔術は、フルムタルジュに眠る兵士たちを甦らせた。二百年前、女王に忠誠を誓い、ともに眠りについた兵士たちは、呪文を解かれ、目覚めた。
　だが、彼らを眠らせていた魔術はアズラトゥーラに施されたものよりは低級なものだったらしい。アズラトゥーラによれば、眠りの術そのものは同じでも、永の年月、肉体を保つための術が、アズラトゥーラのためのものと比すれば不完全だったということだった。
　かくして、半ば死の顎門に捉えられ、半ば肉体を損なった、恐怖の軍団が誕生した。恐るべきアズラトゥーラの魔術は、半ば朽ち果てた兵士たちの肉体にも、驚くべき強健さを与えた。兵士たちは千切れそうな腱と筋肉を、若き兵士たちのように使い、熟達の技で剣と槍、弓矢を扱うことができた。
　やがて、黄褐色の土壁に青い陶器の瓦屋根を載せたマフラクバードの門が見えてきた。屋根の上にはアキュラーブ王子の徴である黄色の三角旗がなびいていた。
　王女と女王は何事かしばらく相談していたが、どちらのものとも取れない笑い声が聞こえると、アズラトゥーラが私に命を下した。
「スナブ・ランケンとやら、その方、使者として城門へ行くのだ。偉大なる王女アズラトゥーラがマフラクバードの正統なる世継ぎアズラミーラとともに還った。門を開き、すべての将と兵は跪き、許しを請い、恭順を誓え。さすれば、大いなる慈悲が賜われんと伝えるのだ」
　私は肩をすくめて見せた。アズラトゥーラはそれを見て、銀の長衣の肩をわずかに震わせて、くぐもった笑い声を漏らした。
「あんたの自慢の骸骨兵士を差し向けた方がいいんじゃないか。あいつらの姿を見て、喋るのを聞いたら、無血開城間違いなしだろう」
「我が忠実なる軍団は、交渉事にはむかぬ。息の漏れる口では、伝わるものも伝わるまい。ここはおまえの役割だ」
　アズラトゥーラは冷たくそう言い放った。うまくいったら、小指に接吻を許してくれるのかもしれない。いや、もしかしたら足の小指をなめさせてもらえるのかもしれない。
　いつの間にか、私の周りには偃月刀を抜いた木乃伊の兵士が何人も集まっていた。少し後ろでは弓兵がこちらに狙いをつけている。やはり、選択の余地はないというわけだ。
「案ずるでない、異国の男よ。我が軍団が確かにその方の命を守る。だが、万が一にも裏切るようなことあらば、千里の弓矢がおまえの心の臓を射貫くことを忘れるな」
　頭巾の下でまたいやな笑い声が聞こえた。この二人の女を相手取るのはどうにも分が悪い。私はできるだけ身を低くして、門の方へ駱駝を進めた。漆喰の壁の上からは、兵士たちが弓矢でこちらに狙いをつけている。
「使者だ！　使者だ！　アズラトゥーラ女王とアズラミーラ王女の言葉を伝えに来た！」
　大声で怒鳴ると、城壁の兵士たちはいささか戸惑った様子で、何事か語り合っていた。私は駱駝の足を緩めて、ゆっくりと城壁に近づいた。やがて、銀色の兜のてっぺんに黄色い羽飾りをつけた男が門に上の現れた。
「女王アズラトゥーラの使いとは戯けたことを申すな！　二百年も昔に死んだ女王が黄泉の国から使いをよこしたと申すか！」
「まあ、そんなところだ。それにアズラミーラ王女は間違いなく生きているぞ。あの軍団が見えるだろう。話ぐらいは聞いておいた方がいいぞ」
　黄色い羽飾りの男は短慮なようだった。
「戯けたことを！　アズラミーラ王女が生きていたとしても、あの程度の軍勢で何ができると言うのだ！　おい、この男を射よ！」
　塀の上の兵士が弓弦を引き絞った。乾いた空気を鈍く裂く音が聞こえた。兵士は矢を放つことはできなかった。鎖帷子を貫いて、緑の尾羽根のついた矢が胸に突き刺さっていた。続いて二本の矢が飛来し、あと二人の兵士が命を落とした。この距離で正確に心の臓を射貫ける射手など、この世にいるはずはなかった。
　城壁の指揮官は、慌てて身を伏せ、辺りを見回した。聞こえるはずのない嬌笑が、遠く影のように見える軍団から聞こえてきたような気がした。
「だから、言っただろう。話を聞けと」
　黄色い羽飾りの男は狭間胸壁からわずかに顔をのぞかせた。
「申してみよ！　その王女と女王を騙る者たちは何と言っているのだ！」
　私は二人の尊大な女の言葉を伝えた。黄色い羽飾りがゆれているのは、城門の指揮官がうなずいているからだろう。
「よし、わかった。アキュラーブ様にお伝えしよう。アキュラーブ様はアズラミーラ王女の安否をご心配になっている。よいか、アキュラーブ様のお言葉を待つのだぞ！」
　黄色い羽飾りの男は姿を消した。私はいやがる駱駝を駆って、奇怪な軍勢の下に戻った。私が首尾を伝えると二人の魔女は何事か囁きあい、笑い声を漏らした。
「そなたの兄がどんな応えを返すか、楽しみだな」
「あの蠍めは臆病な癖に狡猾です。何を言ってきても、努々信用してはなりませんぞ」
　二百年前の女王は銀の頭巾の中で含み笑いでもしているのだろう。
「わかっておる。だが、信用できぬ相手でも利用することはできる」
　アズラミーラは「その通りです」と言って、肩をそびやかした。本当は肩をすくめてみたかったのかも知れない。
　やがて、城門に変化が現れた。狭間胸壁の上には銀の兜が陽光を浴びてきらきらと光を放った。黄色い羽飾りと黄の幟も揺れていた。どう見ても無血開城という雰囲気ではなかった。
　城門がわずかに開き、馬に乗った使者が現れた。無地の水色の三角旗を掲げ、攻撃の意志のないことを示していた。使者はこちらに近づいてくる。私は二人の魔女に促され、城門の方へ向かった。どうにも割に合わない仕事だ。
　使者は城門の上にいた黄色い羽飾りの男だった。兜の目庇の下で、不安げな目つきを隠せない。
「マフラクバード国王アキュラーブ陛下のお言葉を伝える。王女アズラミーラについては特別の慈悲を与える。兄王陛下への恭順の意あらば、一人で門へと進むようにと。アズラトゥーラ女王の名を騙る者については、とくと吟味する。王女アズラミーラが城門に入った後、一人で進むように。従わぬ場合は、一兵残らず殲滅する。以上が陛下のお言葉だ」
「その通り伝えよう。だが、ろくなことにはならないかも知れないがな」
　男は不快そうに吐き捨てた。
「以上がアキュラーブ王のお言葉だ！」
　私たちは互いの陣営に戻った。王女と女王は私の報告を聞いても怒るわけでもなく、むしろ満足げな様子だった。
「交渉決裂というわけだな。そなたの兄はなかなか勇猛と見えるな」
　アズラトゥーラは妙に感情のない声で言った。
「蠍めが、どこまで近衛兵を掌握しているものか。裏切り者のハディラ＝ジュール将軍と〈砂塵の獅子〉などと名乗る犬どもの力があれば、我らを打ち負かすことができると、高をくくっておるのでしょう」
　アズラミーラは小さな唇に嘲笑を浮かべた。
　二人は小声で何事か相談を始めたが、時折笑い声も聞こえ、宴か遠乗りの計画でもしているかのように楽しげだった。
　相談事が終わるとアズラミーラは「仕様のない兄上だ」と呟き、一人で城門へと馬を進めた。私の側を通るとき「心配は要らぬぞ、サーンジェリィの男よ」と囁いた。
　アズラミーラは投げ槍でも届くほどの距離まで近づくと、馬上からよく通る声を発した。
「我が兄、怯懦なる手段にてマフラクバードの王位を簒奪した僭主、母殺しの大罪人アキュラーブ！　我が身を欲しくば、自らここに来て奪ってみよ！　〈砂漠の宝珠〉はここにおるぞ！」
　応える声はなかった。城門が開くと、十騎、いや二十騎の騎兵が王女めがけて突進し、瞬く間に取り囲んだ。槍の穂先をアズラミーラに突きつける。
「おい、本当に大丈夫なのか」
　私の問いに銀の頭巾の中から答えが返ってきた。
「流石、我が末裔じゃ。肝が据わっておる。外つ国の男よ、アズラトゥーラの魔道の力をとくと見るが良い」
　古の女王は陽光に光る長衣の下で、何か印形を結んでいるのか、肩や手の辺りが蠢いた。なぜかそれは人間の腕とは異なる関節を持った何かが動き回っているように見えた。くぐもった低い声が頭巾の下から聞こえてくる。わずかにのぞいた翠玉の双眸がぞっとするような冷たい光を放っていた。
　駱駝が脚を妙な具合にばたばたと動かし、私は鞍から落ちそうになった。砂と石の黄褐色の地面が、揺れているように見えた。地震とは違う奇妙な振動が伝わってくるような気がした。
　アズラミーラを囲んだ騎馬隊に異変が起った。私の駱駝同様、騎兵を乗せた馬たちは、足下からの異変に怯え、興奮し、竿立ちになったり走り回ったりした。何人かの騎兵が落馬する。王女を中心にして砂地の上に黒ずんだ輪が現れた。馬たちはそこから逃れようと必死で動き回ったが、何かに脚をとられているように逃れでることはできない。
　突然、ざあっという大きな音がすると、砂の中から何かが現れた。黒い節くれ立った巨大な何本もの丸太、いや、虫の脚のようなものが、砂の中から突き出した。馬と騎兵たちはどちらも悲鳴を上げながら、瞬く間に地中に引きずり込まれた。幾人かは槍を振るって応戦したが、巨大な黒い鋏のようなものが、小枝のようにそれをへし折った。
　立っているのは王女アズラミーラを乗せた馬のみとなった。騎馬隊が吸い込まれた砂の上には、赤黒い染みが急速に広がっていった。遠目に見ても、城壁の上の兵士たちに動揺が広がっているのがわかった。
「なるほど、兵隊は砂漠の上を歩いている奴らだけじゃないってわけだね」
　頭巾の中で古の魔女は笑った。
「砂の下だけというわけでもないのじゃ」
　アキュラーブの兵士たちはどうにか次の命令に従ったようだった。空に雲霞のようなものが見えた。矢が一斉に放たれたのだ。私は盾を（骨の見えた馬に乗る気はしなかったが、武具だけはフルムタルジュにあったものを拝借した）構えた。だが、宙を裂く音は聞こえたが、矢はいつまでも落ちては来なかった。木の焦げる臭いがした。
　私たちの前方に焼け焦げた数百本の矢が落ちて、砂漠に黒い帯を作っていた。その上には、朱と燃える陽炎のようなものが宙を飛び回っている。それは尾羽根の長い巨大な鳥のような姿にもみえた。
「兄上はどうやら私を迎えに来てはくれないようだな。ならば、こちらから出向くとしよう」
　アズラミーラは大音声でそう叫んだ。死の軍団はその声を合図に進撃を開始した。

　　　　六

　弓兵の第二射がまた空を薄暗くしたが、炎の鳥が優雅に宙を舞うと、無数の黒焦げの棒切れとなって、砂漠に散乱した。第三射は斉射ではなく、ばらばらに射るという作戦のようだったが、ほとんど成果は出なかった。炎の鳥の舞いを逃れた何本かの矢がフルムタルジュの兵士の錆びついた胸甲や兜を貫いたが、兵士たちは一瞬戸惑うような素振りを見せるものの、矢を突き立てたまま、進軍を続けるのだった。
　城門が近づいてくるにつれ、城壁の上で慌てふためいているアキュラーブ王子の兵士たちの姿が見て取れた。口髭を蓄えたいかつい大男が指揮をとり、兵士たちに弓矢、弩、投槍による攻撃を命じていたが、変幻自在に形を変える炎の鳥がほとんどの飛び道具を焼き尽くした。運良く炎の壁を逃れた鏃も、木乃伊のような兵士たちには何の効果もなかった。
　次に城壁の部隊はもう一度斉射を行った。だが、これは炎の鳥を引きつけるための作戦だった。何割かの兵士は、まだ一人前方にいるアズラミーラに向かって矢を放ったのだ。
　突然、アズラミーラの姿が消えた。あとには騎馬隊を飲み込んだときのように崩れ落ちる砂の穴が残り、矢も槍もその中へ吸い込まれた。次の刹那にはその穴から砂が噴水のように噴き上がった。見れば、その砂の柱の頂きには白い薄衣をなびかせたアズラミーラが立っている。
「我らが魔術に弓矢と槍で立ち向かえると思うのか！　門を開き、マフラクバードの正統なる主を迎え入れよ！　謀反人アキュラーブを生きたまま我らに差し出せば、その者の命は助けよう！　門を開け！　女王と王女を迎え入れよ！」
　とても二十歳そこそこの娘のものとは思えない、深い響きをともなった声がそう言い放った。その声は前方にいるアズラミーラから発せられているのか、私のすぐ側にいるアズラトゥーラから発せられているのか、よくわからなかった。いずれにしても、人間離れした恐ろしい音声が、砂漠の空に轟きわたった。
　城壁の兵士たちにしばしの沈黙が訪れた。兵士たちは狭間胸壁の影に身を潜め、口髭の指揮官は姿を消した。その間にも不死の軍団は前進を続けた。砂の柱は静かに高さを減じて、アズラミーラは私たちと合流した。
　門が開いた。だが、アキュラーブは降伏する気はないようだった。鉄鋲の打たれた門扇の向こうには、先端の尖った銀の兜に黄色い羽飾りを揺らした騎馬部隊が待ちかまえていた。
「放て！」
　城壁の上で黄色地に赤い獅子の縫い取りがあるアキュラーブ王子の旗が振られた。一斉に現れた弓兵が矢を放った。同時に壁の向こうからは火球が幾つも飛んできた。攻城兵器を逆に使っているのだ。そして、近衛部隊が突撃を始めた。一挙に攻撃をすることで、魔法を使う間を与えまいとする作戦なのだろう。
　炎の鳥は飛んでくる矢の大部分を焼き尽くしたが、この距離となってはすべてを打ち落とすことはできなかった。不死の兵士たちは矢が命中しても怯むことはなかったが、衝撃で落馬する者や脚を射られて転倒する者もあった。
　火の鳥は火球を防ぐことはできなかった。すでに燃えているものを焼くことはできないらしい。油をたっぷり染み込ませた枯れ草と木っ端の塊は落下すると燃えたまま飛び散った。二百年の眠りで乾ききった兵士たちは、たちまち燃え上がった。
　そこへ近衛兵部隊が突入してきた。偃月刀を陽光と炎に煌めかせ、決死の勢いで斬り込んできた。
　不死の兵士たちの動きが決して緩慢というわけではなかった。骨や筋の見える半ば朽ちた体がどのような理屈で動いているのかは、うかがい知ることもできないが、アキュラーブの精鋭部隊相手に一歩も引かずに奮戦した。斬られても死ぬことはなく、戦い続けた。
　だが、本当の生者の俊敏な攻めの前には、次第に劣勢を余儀なくされた。火球の攻撃により炎上している者も少なくなかった。不死とはいえども、両手を切断されては戦にはならなかった。近衛兵の数は二倍、いや三倍はいるだろうか。
　二人の魔女と私はこの戦況を少し引いた後方から見ていた。炎の鳥は飛来する矢を防いではいたが、混戦の中に入って味方を燃やしてしまうことはできなかった。戦いは明らかに不利になりつつあった。
「そろそろまずいんじゃないのか。逃げる準備をしていてもいいかね」
　私の問いにアズラミーラは不敵な笑いを浮かべた。
「サーンジェリィの男よ。おまえは本当の魔道士の戦というものを見たことがないと見える」
　私の頭には幾つかの凄惨な戦いの有り様が浮かび上がってきたが、逐一それを語っている場合ではないようだった。アズラミーラは目顔で少し離れた場所にいるアズラトゥーラを指し示した。
　銀の長衣の下でよくわからないが、古の女王は印形を結びながら呪文を唱えているようだった。手を動かすたびに光る布地がうねうねと動き、まるでその下には墓場に這い寄る長虫が蠢いているかのようだった。
　突然アズラトゥーラは天を仰ぎ、両腕を高く差し伸べた。銀色の長衣の下から、白い絹の手袋に包まれた細長い手が現れた。その手は砂漠の陽光を浴びると、微かな白い煙を発しているように見えた。
「アリーフ・マタリ！」
　低く響く声がそう叫ぶと、わずかの間を置いて、その声に応えるかのようにくぐもった大音声が空から聞こえた。
　ほとんど雲もなく晴れ渡っていた青い空に、見る見る内に黒雲が広がっていった。青い空に穴が開き、そこから墨が落とされ広がっていくようだった。
　雨が降ってきた。それも城壁の前だけに。大粒の雨が乾いた砂漠に大きな黒い染みを作ったかと思うと、瞬く間に土砂降りの雨となった。雨は火球により燃え上がっていた兵士の炎を瞬時にかき消した。
　激しい雨に城壁からの矢は狙いを外したが、アズラトゥーラの弓兵たちは肉体の目ではないもので標的を見ているらしかった。幾人もの銀兜の兵士が胸壁の向こうに倒れていくのが見えた。
　アキュラーブの騎馬隊は城壁からの援護が少なくなったが、まだ数の上では有利に立っていた。斬られても血を流すことのない奇怪な軍団相手に剣と槍を振るい続けた。だが、次の妖術が彼らに襲いかかった。
　突然、何騎もの兵士が馬ごと転倒した。激しい雨で泥のようになった地面に脚を取られたかのようにも見えたが、そうではなかった。黄褐色の泥の中にぬめぬめと光る黒いものが見えた。
　巨大な蛇か蚯蚓か、あるいは鰻のようにも見えるものが、次々と馬の脚に絡みつき、引き倒していた。倒された兵士を銀の石突きのある二百年前の槍が突き刺した。近衛兵たちは黄色い泥の中に赤い血を撒き散らして、死んだ。地中からは時折、無数の牙を持つ口が?多分、それが頭なのだろうが、丸く開いた口以外のものはなかった?現れ、倒れた人馬の肉を食いちぎっては泥の中に姿を消した。
　城壁からは兵士たちが逃げ出しはじめた。髭面の指揮官が怒鳴り散らしていたが、効き目はなかった。遂に生き残りの近衛兵たちも退却を始めたが、不死の弓兵たちは人間離れした正確さで敗走する兵士を射貫いた。だが、わずか十騎ばかりの騎兵が門にたどりついても、扉は開かなかった。
「開けろ！　開けてくれ！　化け物相手の戦は御免だ！」
　恐慌に陥った兵士の叫び声が聞こえた。
「敵は本物の魔道士だ！　魔女だ！　アズラトゥーラ女王が甦ったのだ！　ここを開けろ！　開けろ！」
　怯んだ兵士を責めることは誰にもできない。この世ならざる力の恐怖を克服することは、古書古譚の勇者でもなければ能わざることなのだ。
　鉄鋲のある門は開かなかった。胸壁からの援護も消えていた。十騎ばかりの近衛兵たちは恐怖と絶望の叫びをあげながら、次々に矢に射貫かれていった。門の前には人馬の死体が折り重なり、血の川が流れた。
　アズラトゥーラの兵士たちは城門の前に到着した。矢が突き刺さったままの者、槍が胸甲から生えている者、兜に偃月刀が食い込んでいる者さえいたが、何の痛みも感じているようには見えなかった。ただ、完全に頭部を切断された者や火球の攻撃で炭と化すまで焼かれた者は、本当の死を迎えたようで、泥濘と化した砂漠に倒れたままだった。
　私はこの戦い、いや、殺戮に多少なりとも加担したことを悔いたが、かといって他にとるべき道があるわけではなかった。二人の魔女の側で、門の前に横たわる死骸を眺める他にできることはなかった。
「どうだ、外つ国の男よ。これが魔道士の戦というものだ！」
　アズラミーラは沸き起こる興奮を抑えきれないようで、上ずった声でそう言い、引きつった笑い声をあげた。嗜虐僻でもあるのかどうか、上気した頬と潤んだ青い目には、異様な艶気があった。私は無言でうなずくだけだった。

　　　　七

　マフラクバードの門は静寂を保ったままだった。アキュラーブ側は攻撃を仕掛ける勇気も、門を開いて交渉をする勇気もないのか、時間だけが過ぎていった。二人の魔女はどちらも気が短い質だった。
　半死人の軍団には破城槌も攻城塔もなかったが、王女と女王は意に介さないようだった。二人は小声で何か相談していたが、アズラミーラが門に近づくと、小さな掌をごつごつとした鋲のついた扉に触れた。しばし目を閉じ頭を垂れると、こちらを振り向き、アズラトゥーラに目顔で何事かを知らせた。アズラトゥーラは頭巾の中でうなずき、呟くように呪文を唱えはじめた。
　がらがらという鎖を引く音が聞こえ、重い軋む音をたてて巨大な扉が開きはじめた。扉の向こうからは、怒声と恐怖の声が聞こえてきた。幾人もの兵士たちが扉が開くのを止めようとしていたが、扉は動き続けた。
　半分ほど扉が開くと、向こう側で斬り合いが起っているのが見えた。門の左右の扉を開け閉めする仕組みのあたりで、偃月刀を振り回す者や血を噴いて倒れる者の姿が見えた。指揮官の怒鳴り声、馬のいななき、恐怖に呻く声が聞こえた。
　散発的に矢が飛んできたが、ほとんど効果はなかった。門の向こう側では扉を開けようとする兵士とそれを阻止しようとする兵士で戦いが起きていたのだ。混乱の中で、門の守備隊は何をなすべきかわからず、右往左往していた。羽飾り付きの兜の兵士はいない。近衛兵部隊は王宮に後退したのだろうか。
「聞け！　忠実なる我がマフラクバードの兵士よ！」
　また、あのアズラミーラのものでもありそうでもない声が響き渡った。
「マフラクバードの正統なる支配者ヤーシュマリカの娘アズラミーラは、伝説の大いなる女王アズラトゥーラの庇護の下、今より市中に入る。女王と王女を畏れよ！　二つの〈砂漠の宝珠〉の前にひれ伏す者には、大いなる慈悲が与えられるであろう。さもなくば、砂と空の中に棲むものたちに焼き尽くされ、喰らい尽くされる定めが待っている！　自らの道は自らで選ぶが良い！」
　いかつい顔に髭を蓄えた指揮官が、その声に負けじとわめきたてる。
「悪魔の声を聞くな！　古の女王の名を騙る砂漠の魔神だ！　たぶらかされるな！　アキュラーブ様こそがマフラクバードの王だ。アキュラーブ様の旗の下に新しいマフラクバードを作るのだ！……」
　髭面の指揮官は最後まで兵たちを叱咤することはできなかった。札鎧の胸甲に木乃伊の弓兵が放った矢が突き刺さったのだ。不思議なことに火矢でもなかったはずなのに、矢の突き刺さったところから炎が上がりはじめ、あっという間に男は火だるまとなった。地べたをしばらくのたうち回った末、髭の指揮官は黒焦げとなって動かなくなった。
　この魔術は門の衛士たちにわずかに残っていた迷いを打ち消すのに十分だった。兵士たちは我先に町の奥の方へと逃げ出しはじめた。幾人かの兵士は武器を投げ捨て、ひざまずいて頭を地面にこすりつけんばかりにした。
　死の軍団はマフラクバードに入城した。

　　　　八

　市内ではほとんど抵抗らしい抵抗は起らなかった。市内の警備に当たっていた兵士たちは、城門の守備隊が逃亡するのを見て、自分たちも逃げ出すか、武器を捨ててひれ伏した。アキュラーブ王子の傭兵隊〈砂塵の獅子〉の姿もなかった。王女と女王の奇怪極まる軍団は、マフラクバード市中の王宮に向かう大通りを、堂々と行進した。
　路上に市民の姿はほとんどなかった。皆、家の中で息を潜めているのだろう。いつもなら道の両側に並んだ天幕に無数の人々が集い、いかがわしい売り子の声、値切る客の声、嬌声と叫び声で蒼然としている市場通りも、深閑としていた。天幕の奥の方では、売り物の山に身を隠すようにして、市場商人たちが抜け目ない目つきをこちらに向けていた。この大乱の中で身の安全を保ちつつ、どうして商機をつかむか、観察に余念がないのだろう。
　王宮の門の前には、先の尖った銀の兜の一隊が待ちかまえていた。先頭に立つ馬上の男は、相当に位が高いらしく、虹色の羽飾りを兜の上に十本くらいつけていた。油でかためた細い口髭はぴんと反り返り、同じくらい細い鋭い目がこちらを睨め付けていた。
「ハディラ＝ジュール、出迎えご苦労なことだな。近衛兵大将の役目、ご苦労である」
　アズラミーラが嘲笑を隠した冷たい声で言った。ハディラ＝ジュールと呼ばれた男は眉間のしわを深くしただけで、何も答えなかった。この男がアキュラーブ王子と結んで謀反を起した近衛兵大将なのだろう。
「ところでハディラ＝ジュール、ひとつ聞きたいのだが、おまえは今誰の近衛兵なのだ。王家の正統なる後継者このアズラミーラか、それとも怯懦な裏切り者のアキュラーブか、答えよ」
　しばしの沈黙があった。ハディラ＝ジュールはアズラミーラの方を見ているようで、その実、細い目はどこも見ていないようにも見えた。
「砂漠の悪魔の力を借り、奇っ怪なる術策を労して世を支配する女ども！　父なる神、イェルザームの御力が御主らを滅ぼすであろう！」
　狂気じみた鬨の声が響いた。ハディラ＝ジュールは長槍を構えて恐ろしい勢いで突撃を開始した。彼のあとには十数騎の近衛兵が、等しく狂気じみた声を上げて続く。この謀反の背景には、信教の問題もあるらしい。
「笑止！　父なる神は母なる神の胎内より産み出されたことを忘れたか！」
　アズラミーラの冷笑が近衛兵たちの鬨の声をかき消すように響いた。冷笑の影では、ほとんど聞き取れない低い呪文が唱えられた。
「魔女め！　父なる神の成敗を！」
　ハディラ＝ジュールの長槍が王女の細身の体に向かって、恐ろしい速さで突き出された。アズラミーラは避ける素振りも見せなかった。銀の穂先が白い長衣に包まれた体を貫いたかに見えた。だが、苦悶の声を上げ、口から血を噴き出したのはハディラ＝ジュールの方だった。アズラミーラの腹に突き刺さり、背中に付き出すはずの穂先は、近衛兵大将の胴鎧の背中から血みどろになって突き出していた。
　ハディラ＝ジュールは信じられないという面持ちで、ぽっかりと開いた胴鎧の腹から噴き出す鮮血を見つめた。それから顔を上げると、血走った細い目が見開かれ、薄笑いを浮かべるアズラミーラの顔を見やった。面持ちはそこで強ばり、動かなくなった。馬上から崩れ落ち、長槍がハディラ＝ジュールの腹から抜けると、彼の背中から突き出していた刃も消えた。
　この恐るべき魔術の仕業を見た近衛兵たちは突撃を躊躇し、馬の脚を止めた。死んだ大将ほどには、イェルザームなる神への忠誠心はなかったのだろう。戦場での躊躇いは死を招く。不死の弓兵たちが、驚くべき素早さで矢を放った。近衛兵たちは次々に矢に貫かれ、倒れ伏した。わずかな生き残りの兵士は、馬首をめぐらし遁走した。後にはアズラミーラの高笑いだけが残った。軍団は、近衛兵大将の死体を踏みつけて進んだ。
　王宮の門はすでに放棄されていた。半ば骨と化した腕で、二百年前の兵士たちが、青銅の鋲のついた宮殿の門を押し開けた。彼らの干涸びた脳髄の中には、二百年ぶりの帰城に何らかの思いが沸き起こっているのだろうか。崩れかけた面立ちからそれを読み取ることはできなかった。
　王女と女王は死の軍団の大半を武者溜まりに残すと、十人ばかりの精鋭らしき兵士たちを連れて、次の門へ向かった。二つの門を潜り抜けたが、衛士は誰もいなかった。死体こそ片づけられていたが、そこかしこに数日前の戦の名残の血痕、焼け焦げが残っていた。
　宮殿の大広間の扉は、青みを帯びた大理石の円柱に囲まれた荘厳なものだった。黄金の輪が付いた扉は、一面に象牙の彫り物で覆われ、あちらこちらに青玉、緑玉、金剛石、翡翠、黄玉、紅玉等々の宝石が鏤められている。
　アズラミーラとアズラトゥーラはこの豪奢な扉の前で立ち止まった。
「不潔な犬の臭いがします」
「〈砂塵の獅子〉などと名乗る賎民どもが、我らを出迎えてくれるというわけか」
　アズラミーラは小さくうなずき、残忍な笑いを浮かべた。
「私は犬には手を触れたくありません」
「そうじゃな。サーンジェリィの男よ、そこなる葦を一本手折っておくれ」
　アズラトゥーラが手袋をした手で指す方を見ると、広間前の中庭に設えた池に一群の葦が生えていた。
「そこの葦じゃ。いや、もそっと細い方が都合が良い」
　私が葦を手折って手渡すと、アズラトゥーラは器用に葉を取り、茎だけにした。アズラミーラが指し示す扉の把手のあたりには、鍵穴らしき小さな穴が開いている。銀の長衣に身を包んだ王女は、その穴の中にそうっと葦の茎を差し込んだ。覆面の中で何事か呟くと、その葦の先から、声が聞こえてきた。
「くそっ！　まさかフルムタルジュに本当にアズラトゥーラ女王が眠っていようとは！　しかも、それをアズラミーラが復活させようとは！　くそっ！　生きて捕えよなどと命じた余が愚かであった！」
　引きつった震える声はどうやらアズラミーラの兄、アキュラーブ王子のものらしかった。
「だから言ったのだ！　女色に迷うようでは、革命など成就せぬと！　いかに妹御が麗艶この上ない〈砂漠の宝珠〉とは言え、そなたとは王位を争う身、しかも代々魔道に長けた王家の女だ。まずは命を奪わねばならぬ身に執着するからこの様だ！　それにカムルジャマスの魔道士団はどうしたのだ！　こちらに立つはずが、早々に中立を決め込んでギーシアンの砦に逃げ込み、一歩も出ぬではないか！」
　こちらはもう少し年嵩の砂漠の風に鍛えられた荒々しい声だった。〈砂塵の獅子〉の首魁であろうか。
「そういう貴様の盗賊団こそどうしたのだ！　魔女が襲来したという一報を聞いて、すぐさま先を争って逃げ出すとは！　〈砂塵の獅子〉が聞いて飽きれるは！　砂鼠盗賊団とでも名を改めるが良かろう！　はっ！　いずれにしてもこの人数しか残っていないのでは、名乗る必要もないがな」
　葦の茎から聞こえてくる謀反人二人の諍いを聞いて、二人の魔女は笑いをこらえているようだった。
「本当に仕様のない兄上です」
　アズラミーラはやけにうれしそうに細い白い手で口を覆って笑いをかみ殺した。
「所詮は男の浅はかな妄念じゃ。そろそろ仕舞いにするが良かろう」
　若い王女は凄艶な笑みを浮かべてうなずいた。アズラトゥーラは再び葦の先に近づき、かがみ込むと、ほとんど聞こえないような小声で呪文を唱えはじめた。それから葦の先に顔を寄せ、頭巾をずらして茎の中に息を吹き込むような仕草を見せた。
　しばらくは葦の先からは、相変わらず罵りあう二人の声が聞こえていた。やがてその声の調子が変わりはじめた。
「暑い、やけに暑いな」
「天窓を閉めてしまったからな。うむ、それにしても暑いな」
　さして待つこともなく、声には焦燥の色がはっきりしてきた。
「おお、暑い！　何という暑さだ！　これは尋常ではないぞ！」
「うむ、これは貴様の妹御か墓場から甦ったという魔女の魔術ではないのか！　これでは耐えきれぬぞ！」
　恐怖の響きを伴った声に、二人の魔女は満足げな笑みを交わしあった。
　葦の茎から聞こえてくる声は次第に狂乱の体を示しだした。
「暑い、暑い、気が狂いそうだ！　ラムラサッド、ここにはもういられぬ！　奥の神殿から抜け出すか、正面から突破を試みなければ、蒸し焼きだ！」
「わかっておる！　だが、だが、扉が開かぬ！　くそっ！　これも魔術か！　くそっ！」
　その後はもはやまともな会話にはならなかった。二人のものだけではない、恐怖と苦痛の悲鳴、叫び、嗚咽がか細い葦の茎から、凄まじい勢いで噴き出してきた。どんどんと扉を叩く音、剣や斧で打ちつける音も聞こえてきた。
　突然、意味の有る言葉が葦から飛び出してきた。
「アズラミーラ！　アズラミーラ！　そこにいるのであろう！　アズラミーラ！　余が間違っていた！　男の身でありながら王位に就こうなどと大それた考えを抱いたのは、間違いであった！　助けてくれ！　助けてくれ！　おまえの奴隷として一生を過ごそう！　後生だからここから出してくれ！　アズラミーラ！　アズラミーラ！」
　兄王子の命乞いを聞くアズラミーラの美しい顔には、凄みのある恐ろしい表情が浮かんでいた。青玉のような瞳は大きく見開かれ、小さな鼻孔は激しく広がりすぼまり、桃色の舌先をのぞかせた珊瑚色の濡れた唇からは、荒く生々しい息が吐き出された。まるで閨房での激しい交わりの最中でもあるような、異様な興奮が彼女に訪れているようだった。
「遅過ぎますわ、兄上」
　荒い息の下で彼女はそう短く呟いた。
　やがて白煙が葦の先から吹き出し、恐ろしい絶叫が聞こえたかと思うと、葦の茎に火がつき、瞬く間に燃え尽きた。鍵穴からは絶叫と共に朱の炎が細く長く噴き出した。肉の焼ける臭いがあたりに漂った。
　やがて炎は消え、細い白煙が一筋立ち昇るのみとなると、アズラトゥーラが鍵穴に近づき、手袋の指で印形を結んだ。白煙と悪臭を吐き出しながら、象牙の扉が開いた。
　煙が薄れると、宮殿広間の凄惨な様相が見えた。あらゆる家具調度は焼き尽くされ、木製のものは炭となり、黄金も銀も溶け出して形を止めていなかった。燻された石柱には真っ黒い煤がこびりつき、熱のためかひび割れが随所に見られた。床の上は敷き詰められていた絨毯が灰色の奇怪な絵模様をつくり、その上に苦悶の姿で横たわる幾つもの死体があった。
　扉に取りすがっていたのか、開くと同時に頽れてきたのは、アキュラーブ王子の遺骸なのだろう。半ば溶解した王冠の下には真っ黒い炭と化した髑髏が、恐怖の表情を貼り付かせたままひび割れていた。その後ろに倒れ伏す大柄な骸は、かろうじて残る胴鎧の獅子の浮き彫りからして〈砂塵の獅子〉の頭領ラムラサッドなのだろう。
　広間には十数体の黒焦げの死骸があった。頭領と共に残った盗賊団の者たち、王子とともに残った極く少数の近衛兵たちは、象牙の扉の近くと、これもまた黒焦げとなった壇上にそびえる丈高い玉座の後方の扉のまわりに集まって、何とかこの焦熱地獄から逃れようとして、折り重なるように倒れていた。
　王の間にはいまだ異様な熱気が残っていたが、アズラミーラの碧眼の冷たい光は、その熱さえ冷ましていくようだった。氷のような青い瞳が、頽れた兄の死骸を見下ろした。
「まあ、兄上、そのようなお姿になられては、髑髏を思い出の品にすることもできませんわね」
　年若い魔女が嬌笑をあげると、古の魔女の低い笑い声がそれに重なった。恐ろしい笑い声の二重奏が廃虚と化した広間に響き渡ると、そこかしこで炭となった死骸がひび割れ、崩れ落ちた。

　　　　九

　謀反は鎮圧された。アズラミーラは新たに近衛兵大将に任命したヤディードを使って、謀反に参加した数名の大臣、役人を捉えると、王宮の中庭で斬首し、首は宮殿の門の前に串刺しにして並べた。その中には、黒焦げの半ば崩れた兄王子の首級もあった。
　宮殿の門の上?そこには黄金と大理石、色とりどりの陶板模様で飾られた謁見台が設えてあった?にアズラミーラが姿を現すと、集まったマフラクバード市民たちは歓声を上げて迎えた。禁欲と贖罪を説く父なる神イェルザームの教え、それにアキュラーブ王子は、マフラクバードの民にはあまり人気がなかったようだった。
　もっとも、人々が心の底から諸手を上げてアズラミーラの帰還を歓迎していたかといえば、いささか疑問ではあった。魔術の恐怖を目撃した市民も大勢おり、古の恐るべき魔女アズラトゥーラが復活したという噂も市中には流れているようだった。
　私は王女とともに謁見台に上り、王女を危難から救った異国人の英雄として紹介されたが、アズラトゥーラの姿はそこにはなかった。
　顔見せが終わると私は宮殿内の豪華な一部屋をあてがわれた。白磁の壺に入った香り高い酒と湯気の立つ料理が運ばれてきた。
　腹は減っていたが、この酒と料理に手を出して良いものか、いささか疑念が湧いてきた。切子硝子の杯に、透き通った酒を注ぎ、じっと視線を注いでいると、声が聞こえた。
「毒など入ってはおらぬ」
　部屋の入り口の帳が開き、アズラミーラが現れた。素肌が透けて見えそうな白の薄物をまとい、幅広の金と銀の綾織りの腰帯が細い腰を際立たせている。裾には深い切れ込みが入り、白い股がのぞいていた。
　王女は身を寄せるように隣に座ると、私の手から杯を取り、一口飲んで見せた。
「アーハダーンのハラク酒だ。滅多に飲めるものではないぞ」
　アズラミーラは蝋燭の明かりを受けてきらきらと光る酒杯を私に返した。口に含むと、強い酒精とともに、爽やかな香りが鼻に上ってきた。薄荷や肉桂などの香料が入っているようだ。
「お毒味、感謝するよ。あまり高い酒には縁がないもので、どうやって飲むのか、迷っていたのさ」
　王女は微かに鼻で笑い、杯に酒を注ぎ足した。
「私は約束を果たしにきた。サーンジェリィのスナブ・ランケン、おまえに私の左手の小指の先に接吻を許そう」
　若き王女は細い体を捩るようにして、私の前にか細い左手を差し出した。薄衣の下では腕に押上げられた乳房が白くうねり、ハラク酒の香りも忘れさせる甘い女の匂いが鼻孔をくすぐった。氷のような青玉の瞳は、その奥に極光のような妖しい光を宿していた。
「これはこれは。ただの傍観者になんともったいないことを」
　私は肩をすくめて皮肉な笑いを浮かべたつもりだったが、吸い寄せられるようにアズラミーラの細い指先に顔を近づけていた。薄桃色の細く小さな爪が艶やかに光っている。
　私は王女の指先に口づけた。軽く唇を寄せただけのつもりだったが、アズラミーラが指先を動かしたのだろうか、小さな指は私の口の中に入り込み、舌先を撫でた。
　一瞬、わずかに血の味がしたような気がした。アズラミーラはすっと指先を引き抜いた。
「さて、異国の男よ、おまえにはもう一つやってもらわねばならぬことがある」
　ありがたいご褒美も頂戴したし、この辺でお暇するよ、と言おうとしたが、舌先から奇妙な痺れがひろがり、言葉が出てこなかった。
「アズラトゥーラと私はこれから宮殿の地下にある秘密の部屋に行く。そこは古の御世、王家の魔女とカムルジャマスの魔道士たちが、新たなる妖術を生み出さんと様々な試みを行った場だ。今では王家の書庫として、往古の魔術の呪文書、巻物、粘土板も収められている」
　そんなところには何の興味もないねと言いたかったが、やはり舌は動かなかった。それどころか、体中にちりちりとした感じがひろがり、目の前の王女の姿も紗幕越しに見るように朧に霞んで見えた。
「完成した永遠の美を保つ魔法は、この〈黄金の蛇の間〉に封じてあると、王女には言ってある。カムルジャマスの魔道士たちはギーシアンの砦に難を逃れてまだ帰還していないが、明日には戻ってくるだろう。道士たちがアズラトゥーラにどういう態度をとるかはわからぬ。恐れおののいて、かしずいてしまうかもしれぬ。つまり、今宵こそが機会ということだ」
　王家の娘の血には、色々な効能があるものだ、指先への接吻ひとつで男を意のままにするとは、さすがに〈砂漠の宝珠〉と言われるだけのことはあるね、と皮肉を言いたかったが、もはや舌には感覚がなかった。
　アズラミーラは美しい顔に邪な笑みを浮かべ、優しげな手つきで私の頬を撫でた。左の小指の先には、わずかに血のにじむ傷があった。
「口が利けたとしても、何の機会かなどと無粋なことは申すまいな。ひとつの国、ひとつの都に女王は二人はいらぬ。わかりきったことだ。今のところ、〈フルムタルジュの秘法〉の秘密を私が握っているから、アズラトゥーラは大人しくしているが、真実を知れば当然私を生かしてはおくまい。もし永遠の若さを保つ魔術があったとしても、それを手に入れれば、同じことだろうがな。
「今宵、三日月が中天に昇るころ、私とアズラトゥーラは〈黄金の蛇の間〉に降りて、若さの魔術を封じてある水晶の方形から取り出し、その力をアズラトゥーラに施すことになっている。アズラトゥーラがそんなに簡単に騙されるか心配なのか。アズラトゥーラはどうやら陽の光を浴びると肌が崩れていく奇病に冒されているらしい。単に若さを保ちたいというだけの話ではない。命そのものが懸かっているのだ。私の話にのってくるしかないのだ。ふふん、哀れなものだ。二百年も眠って待った揚げ句、自らの末裔に騙されて本当の死を迎えるとはな」
　声を立てて笑うアズラミーラの姿が、やけに子どもじみて見えて、私はかえって恐怖を感じた。小指以外の部分に接吻を許すと言われても、ご遠慮申し上げよう。
「おまえの役割は簡単だ。私が水晶の方形を開けるその瞬間、アズラトゥーラに矢を放つのだ。私の発条仕掛けの弩を与えよう。マフラクバードの武器職人の匠の技になる代物だ。小さいが精度は高い。アズラトゥーラを殺せなくとも良い。騙されたと知ったアズラトゥーラが呪文を唱える前に一撃を加えられれば良いのだ。その隙に私がアズラトゥーラを殺す。よいか。水晶の方形が開いたその時に背後からアズラトゥーラを射るのだ。おまえに選ぶ道はない。服従の魔術の効き目は夜明けまでだ。仮に術が解けたとしても、おまえはこの秘密、イムラタリーク王家第十三代から十四代への王位継承の秘密を知っているのだ。私に逆らって命を永らえることはできぬ。
「ふふ、そう心配することはない。おまえの腕と度胸があれば、そう難しい仕事ではあるまい。成功の暁には、おまえを十七番目の婿として迎えよう。よいか、〈砂漠の宝珠〉、マフラクバードの第十四代女王の私の王婿だぞ。この砂漠の国の男でこれ以上の栄誉と幸せはない。おまえの諸国を流離う旅も、これで目出度い終焉を迎えるのだ！　我が愚兄に感謝することだな！」
　アズラミーラは動けない私の耳元に唇を寄せると「我が王配となれば、私の体のどこにでも、接吻を許そう」と蕩けるような声で囁き、耳朶を噛んだ。またぞろ、怪しげな血を注ぎ込まれるのではないかと不安になったが、甘美な感触を残して王女は唇を放した。

　　　　十

〈黄金の蛇の間〉は黒焦げになった女王の玉座の裏側から通じる曲がりくねった通廊を降りていき、幾つもの階段を下り、地下牢の入り口から分かれる頑丈な青銅の扉を潜ったその先にあった。アズラミーラは道順を秘密の言葉で綴ったパピルスを私に飲み込ませ?文字通りの意味だ?私の唇と額を撫でながら、早口の呪文を囁いた。
　手を引かれて広間に行き、玉座の後ろの入り口で背を押されて、真っ暗な通廊に入り込むと、不思議と頭の中に道筋が浮かび上がった。松明も何もなかったが、目の前には進むべき道がぼんやりと白く見えた。
　先に〈黄金の蛇の間〉に行き、柱廊に潜んで待てというのが、アズラミーラの命令だった。服従の呪文の効き目は十分で、意識ははっきりしてきたものの、アズラミーラの言葉に抗うことはできなかった。やれやれと肩をすくめることもできない。
　アズラミーラは十七番目の王婿にしてあげるなどと言っていたが、果たしてこの宮殿の地下から生きて帰ってくることができるのか、はなはだ疑問だった。伝説の王女暗殺の秘密を知る男を生かしておく情けがアズラミーラにあるのだろうか。私は何とか道筋を覚えておこうと努力したが、曲がり角と枝分かれはやけに多く、石段は下るばかりではなく、上りもあって、覚えきれるものではなかった。
　やがて、堅い木の格子のはまった扉が幾つも並ぶところへ出た。視界の隅に地下牢の中で死んだ者たちの朽ちた骨が見えた。秘密の魔道の部屋と近いということは、この牢に入れられた者は、得体の知れない妖術の実験に使われていたのだろうか。
　一面に奇怪な生き物や文字の彫琢が施された青銅の扉があった。この扉の前には灯が点っていた。松明の炎ではない青緑の冷たい光が、頂部が丸く膨らんだ硝子の管から発せられていた。サンジェリィの夜を照らすデリン灯にも似た人工の明かりだった。この地にも〈失われた神々〉以前の古怪な文明の名残があるのだろうか。
　アズラミーラに言われた通りに扉に手を当てると、口と舌が勝手に動いて、呪文を呟いた。扉は開いた。
　さらに通廊が続いていたが、これまでとは違って左右の石壁には蛇の鱗のような紋様が彫り込まれ、ところどころには壁龕が穿たれ、蛇のような蠍のような生き物の彫像が置かれていた。その側には緑色の明かりも点っていた。
　幾度か角を曲がると通廊は急に広くなり、大きな迫持型の出口となった。迫持の向こうは〈黄金の蛇の間〉だった。
　差し渡しは六十イート（約十八メートル）はあるだろうか。ほぼ円形の部屋で、高さも四十イートはあり円蓋で覆われている。私の出たところは部屋の周囲をぐるりと囲んでいる露台の部分で、壁面には書棚が設えてあり、無数の古びた書物、巻物、木簡、壺や箱の類いがびっしりと置かれていた。一階から伸びる何本もの太い円柱が露台を貫通して円蓋まで届いていた。私はこの円柱の影からアズラトゥーラを狙うことになっているのだ。
　部屋は幾つもの薄緑の光る硝子の管のようなもので照らされており、そのせいか黄金がふんだんに使われているにもかかわらず、寒々として見えた。
　一階の床には色とりどりの石や陶板で、絵模様と、何かの呪文なのだろう、曲がりくねったパルサビア文字が幾重もの円を描いていた。その中央には金色の鱗を輝かせた大蛇像が差し渡し三十イートほどのとぐろを巻いていた。大蛇は中央の円形の壇を囲むように作られ、もたげた鎌首が壇の真ん中でこちらを睨んでいた。丸い目玉は巨大な青玉、真っ赤に塗られた大きく開いた口には、一片が一イートばかりの真四角の箱のような物をくわえていた。箱は水晶のような薄紫の半ば透き通るものでできており、呪文が刻まれている。中では青緑色の光が妖しく明滅していた。
　私はアズラミーラに命じられた通りに戸口の側の円柱の後ろに身を寄せて、二人の魔女の到来を待った。左腕に革帯でつけた機械仕掛けの弩は信じられないほど軽かった。どのような精緻な仕掛けなのかはよくわからなかったが、五本の短い矢を装填することができ、中指に引っかけた輪を操作することで射ることができる。
　身の動きすべてが傀儡人形のように操られているわけではないし、自分でものを考えることもできるのだが、試しに柱の影を離れて書棚の巻物を手に取ってみようとすると、金縛りにあったようにその場を動けなくなった。迂闊な自分に腹を立ててみても始まらない。アズラミーラとアズラトゥーラを待つしかなかった。
　どれ程の時間が経ったのか、炎と違って燃え尽きることのない人工の明かりは、変わらず時折明滅するだけだったが、やがて露台の下の方から女の軽い足音が二つ聞こえた。私のいる真下あたりにもう一つの出入り口があるらしく、二人の魔女の姿が黄金の蛇の間近に現れた。
　アズラミーラは私の部屋を訪れたときとは違う、袖無しの白い長衣に金色の幅広の帯を締めている。腰帯には短剣一振りも差していないようだ。私を信頼しているのか、アズラトゥーラを信用させるための術なのか。
　アズラトゥーラは陽の光を遮る銀の長衣はまとっておらず、フルムタルジュで二百年の眠りから目覚めたときと同じ金細工の胸当と薄衣の腰布、その上から虹色の光を発する透き通る長衣をまとっている。長く伸びた白い腕と脚の肉付きには、アズラミーラの華奢な手足とは違った匂うような色香があった。
　だが、ゆらめく薄緑の光を受けて白く浮かび上がる肌のそこここに、わずかに斑な濁りが見える。これがアズラミーラの言っていた陽光に肌が崩れると言う奇病の証なのだろうか。
　二人の女魔道士は黄金の蛇のまわりを歩き、壇上に上った。
「ここに永遠の若さを保つ魔法が封じられているのじゃな」
　アズラトゥーラの声は震えてこそいなかったが、伝説の女王、イムラタリーク王朝最高の女魔道士といえども、今は気持ちの高まりを押し隠すことはできないようだった。
「その通りです。アズラトゥーラ様が眠りについた後、代々の王女、カムルジャマスの魔道士たちが秘術の探求に勤しんで参りましたが、永遠の美を保つ術の完成には今一歩のところで到らず、永の年月が過ぎ去りました。いつしかアズラトゥーラ様の御名は古びた史書と民草の言い伝えの中でのみ囁かれることとなったのです。
「私は幼い頃より、道士サラブダムアの導きにより古き文書に親しみ、古の魔道の討究に努めて参りました。その中でアズラトゥーラ様の永遠の美を保つ秘術への探求を知り、カムルジャマスの魔道士団の力を投じて研究を進めてきたのです。その秘術はこの黄金の蛇がくわえる水晶の方形の中に封じてあります。
「この秘術が完成し、アズラトゥーラ様が眠るフルムタルジュへ赴こうとしていた矢先、愚兄アキュラーブの謀反が起き、図らずもアズラトゥーラ様のお力を借りることになってしまいましたが、今こそ、その借りをお返しすることができます」
　アズラミーラが長広舌を振るうのを、アズラトゥーラはじりじりとした様子で聞いていた。
「その話は一度フルムタルジュで聞いておる。はようその水晶の箱を開けるのじゃ」
　年若い王女は落ち着き払った表情で一礼すると、黄金の蛇の顎門に近づいた。蛇の鼻先に指で触れながら、早口で呪文を唱えはじめる。呪文が始まると、私は左腕をあげ、アズラトゥーラ女王の白い背中に弩の狙いをつけた。引き金の輪をはめた中指に微妙に力が入る。自分の目で見て、自分の腕と指で狙いをつけているのだが、その意志は自分のものではなかった。
　アズラミーラは金の蛇の鼻先に触れた手をさっと動かし、声の調子を高めて呪文を終えた。蛇の口がいかなる仕掛けによるものか、大きく開き、王女は青白く光る水晶の箱を手に取り、さらに一言呪文を唱えた。その刹那、水晶の箱は砕けて四散し、中から黄金の眩い光条がアズラトゥーラ目がけて噴き出した。同時に私の左手の中指が勝手に動き、発条仕掛けの矢が次々に飛び出した。
「ぎゃっ」という短い悲鳴が上がった。アズラトゥーラの背中には五本の短い矢が突き刺さり、鮮血が薄衣を真紅に染める。だが、アズラトゥーラにより大きな痛手を与えたのは、水晶の箱から飛び出した光の束の方のようだ。呻き声をあげてもがき苦しむアズラトゥーラが身を捩らせてこちらを向くと、恐ろしい姿が目に入った。
　黄金の光はアズラトゥーラの白い肌を恐ろしい熱で焼き焦がし、顔も胸も腹も赤黒く焼け爛れ、だらだらと幾筋もの血が流れ出している。火傷の及ばない部分にも、白い肌に薄汚れた褐色と紫の斑点が浮かび上がり、それが見る見る内に広がっていく。
「おのれ！　謀ったな！　おのれ！」
　狂乱したアズラトゥーラは悶え苦しみながら手を伸ばして、アズラミーラを捉えようとするが、すでに目がよく見えないのか、爛れた血まみれの指先が宙をつかむばかりだった。
　〈黄金の蛇の間〉に、勝ち誇るアズラミーラの嬌笑が響き渡った。
「どうだ、〈太陽の矢〉の魔術の味は！　謀反人どもを平らげてから、大急ぎで仕掛けた割りには、結構な威力であったようだな。永遠の美の魔術など、どこにもありはしないのだ！　おまえの腐りかけの肌を癒す術もな！　マフラクバードに二人の女王はいらぬ！　おまえのことは、二百年の眠りの後にイムラタリーク王朝の危難を救い、力尽きたと、史書に記すとしよう。救国の英雄として語り継いでやろう！」
　アズラミーラは狂ったような笑い声をあげ、足輪の中に巧妙に隠した短剣を手にすると、獣のような呻き声をあげながらくるくると回っている血まみれの女王に近づいた。
「死ねい！」
　アズラミーラが短剣を振りかざしたその時、アズラトゥーラは凄絶な唸り声をあげ、王女の細い腕につかみかかった。尖った爪をアズラミーラの腕に食い込ませ、掻きむしった。
「何をする！」
　古の女王と若き王女は、爪と短剣を互いの体に食い込ませようと激しくもみあう。アズラトゥーラの背中からは五つの矢傷から血がどくどくと流れ出したが、凄まじい怒りと復讐の念は、それでも魔女の体を突き動かした。
「呪われよ！　呪われよ！　魔術により汚れた血、禁断のアッザルファザッドの呪文により汚れた血をおまえにも！」
　アズラトゥーラは焼け爛れた唇から血を滴らせながら、恐ろしい呪詛の言葉を吐き出した。アズラミーラの短剣が女王の喉頚に突き刺さり、血がほとばしった。王女の腕と胸を掻きむしっていた指から力が抜けて、アズラトゥーラは床の上に頽れた。
　アズラミーラは大きく肩で何度も息をして、上気した顔でアズラトゥーラを見下ろしていた。美しい顔にはアズラトゥーラの血と自らの血が飛び散り、引っかかれた胸と腕の傷からは血が幾筋も流れ落ちている。
「化け物め！　スナブ・ランケン、ここに降りて此奴の首を刎ねよ！」
　王女はそう命じたが、その時、私は呪文の効力が失せていることに気づいた。アズラトゥーラを射貫いたことで、呪文は目的を達して力を失ったのだろうか。頭のどこかに絡みついていた鎖が消えて、奇妙な脱力感とともに新たな活力が満ちるのを感じた。私は肩をすくめてみせた。
「首を刎ねよと命じているのだ！　私の命が聞けぬのか！」
「ご先祖様にはまだ言いたいことがあるみたいだ。聞いておいた方がいいんじゃないか」
　アズラトゥーラはまだ死んではいなかった。爪のはがれた血みどろの手を伸ばし、アズラミーラの足首をつかんだ。アズラミーラは必死で振りほどこうとしたが、瀕死の魔女の力はまだ尽きなかった。
「我が裔よ、我が娘よ、おまえの体には我が呪われた血が混ざり入った。二百年前、永遠の若さを得ようとし、砂漠の悪魔アッザルファザッドの力を利用しようとした報いとして、我が血には呪いがかかったのだ。陽光により肌が崩れる奇病じゃ。この病は血でうつるのじゃ。王家の者にだけな。おまえの体内に入った私の汚れた血が、おまえの若き美しい肌を腐らせていく。おまえは二度と砂漠の陽の下に立つことはできぬ！　くく、くくくく、フルムタルジュの氷の棺がおまえを救ってくれるかもしれぬな！」
　アズラトゥーラは崩れた唇から大量の血の泡をごぼごぼと吹き出して、息絶えた。
　アズラミーラは大きく目を見開き、腕と胸の引っ掻き傷を見つめた。必死に傷口を覆う二人の魔女の入り交じった血を拭った。震える手を自分の目の前に差し出し、肌に曇ったところがないか確かめようとしたが、拭いきれない血がそれを妨げた。
　長い長い悲鳴が響いた。王女は美しい黒髪をかき乱し、よろよろと〈黄金の蛇の間〉を歩き回った。二階へと上がってくると、壁の書棚に並んだ古文書や巻物を手当たり次第に引っ張り出した。
「どこかに呪文が！　この呪いを解く呪文があるはずだ！　おお！　何ということだ！　サラブダムアはどこだ！　カムルジャマスの道士たちは！」
　狂乱の体でアズラミーラは魔道書を踏み散らかし、私の側へと近づいてきた。
「スナブ・ランケン！　サーンジェリィの、異国の魔術は？　砂漠の悪魔の呪いを解く術を知らぬか！」
　血まみれの王女は私の腕に取り縋り、哀願するかのように泣きわめいた。流れ落ちた涙が化粧を溶かして、血に染まった頬に青黒い筋を描いた。
「僕は魔道士じゃないからね。君は魔女だろう。カムルジャマスの魔道士団もいる。アズラトゥーラが言ったようにフルムタルジュで眠りに着くという手もある」
　アズラミーラは私に猛烈な平手打ちをくらわした。目から星が出そうだった。
「この蠍め！　その無礼な舌を抜き、肩の骨を砕き、王宮の門に吊るしてくれよう！　衛士は、衛士はおらぬか！」
〈砂漠の宝珠〉は大声でわめいたが、円蓋に虚しく谺が響くだけだった。
　ひとしきり叫ぶとアズラミーラは床に膝をつき、むせび泣いた。肩を落として啜り泣く姿は、初めて歳相応の姿に戻ったように見えた。
　しばらくするとアズラミーラは顔を上げて私をじっと見た。化粧はすっかり落ち、瞼は泣きはらして真っ赤だった。震える声でアズラミーラは言った。
「スナブ・ランケン、私は、私は美しいか。私の肌は腐ってはいないか」
　美しい化け物だ、とでも答えれば格好が良かったのかも知れないが、私は生きてこの地下室から出たかった。
「ああ、きれいさ」
　そう答えたが、その時私は気づいた。夜明けの澄んだ湖水のように青かったアズラミーラの双眸は、輝く翠玉のような緑色となっていた。それは床の上に血まみれになって死んでいる女王アズラトゥーラの瞳の色だった。

　　　　十一

　暗い通廊を地上に戻る間中、アズラミーラは私の腕にしがみつき、震えていた。時折、恐怖の発作が起り、息が上がり嗚咽をもらした。王宮に戻ると、夜はまだ明けていなかった。王女の寝所の前では、番兵が槍を持って立ったまま居眠りをしていた。
　私はアズラミーラ王女が国を乗っ取ろうとしたアズラトゥーラと戦い、勝利したが傷を負っていると告げ、侍女と医師を呼びにやらせた。
　五人くらいは寝られそうな天蓋付きの寝台に彼女を寝かせると、露台に向かって開け放たれている大きな窓に窓掛けを降ろそうと思ったが、幾重にも掛かった美しい織物は、みな光を通す透き通ったものだった。都の家々の屋根の向こうがわずかに白みはじめていた。
「厚い布地の何かを持ってこさせよう。絨毯を代用してもいいかのしれない」
　私が床の上の豪奢な織物を引っぱり上げようとすると、羽根布団の下から細い腕が伸びて、存外強い力で私を引っ張った。アズラミーラは私の首にまだ血まみれの腕をかけ、大きな寝台の上に引き寄せた。
「サーンジェリィのスナブ・ランケン、私は約束を果たそう。おまえを十七番目の王婿として迎えよう。いや、序列はどうとでもなる。第一王婿としても良い。ここにいて欲しいのだ。我が身のどこにでも接吻を許そう」
　熱い吐息が耳にかかり、王女は素足を私の体に絡めた。囁く声には熱がこもり、滑らかな肌は心地よかった。布団の中の仄暗い闇で、緑色の瞳が妖しくぎらぎらとした煌めきを放っていた。だが、熱い体から立ち昇る生臭い血の臭いが、蠱惑的な魅力を帳消しにした。
「接吻はもう十分だね。怪しげな魔術も、もうたくさんだよ」
　私は女の腕を振りほどき、立ち上がった。
　王女は羽根布団の影の闇の中から、異様に輝く緑色の瞳で私を睨め付けた。
「この私を置いて去るというのか。マフラクバードの女王たる私を！」
「女王にも王婿にも興味はない」
「おのれ！　無礼千万な異国人め！　砂漠の悪魔に呪われるがよい！」
　王女は何か縁起の良くない呪文を唱えようとしたらしいが、その時、寝所の扉が勢いよく開き、十人ばかりの人間がどっと入り込んできた。何人もの侍女、医師、番兵、それに新しい近衛兵大将までが、手燭や医療具や茶道具や偃月刀を手に手に、青ざめた顔をしてやってきた。
「姫様、姫様、いかがなされました！」
「傷は！　お気をしっかりお持ちなされ！」
「敵はどこです？　あの木乃伊どもが謀反を起したのですか！」
　たちまちのうちに、私を押し退けてアズラミーラの寝台のまわりには人垣ができ、燃える緑色の瞳はその陰となり見えなくなった。私はそっと寝所を抜け出し、王宮の門へと急いだ。背後から「スナブ・ランケンを！　あの異国人を捕えよ！」という引きつった叫び声が聞こえたような気がした。
　武者溜まりにはひどい腐臭が漂っていた。差し始めた曙光の中、アズラトゥーラ女王の兵士たちが折り重なって、倒れていた。主の死によって魔術が解け、急激に腐敗が始まっているようだった。宮殿はどこもかしこも血と腐敗の臭いだらけだった。
　私は追手が現れる前に何とか王宮を抜け出し、夜が明けきる頃には隊商の列に紛れてマフラクバードの都から西に逃れた。
　アズラミーラとマフラクバードの都がその後どうなったのか、不思議と噂に聞くことはなかった。
　アズラミーラは自らが殺めたアズラトゥーラと同じ運命を辿ることになったのだろうか。秘密の緑水地の地底で眠りにつき、未来の秘術の発見を待っているのだろうか。それとも、〈黄金の蛇の間〉にこもり、砂漠の悪魔の呪いを解き、永遠の美を保つ魔術をつくり出そうとしているのだろうか。
　どうでもいいことだった。私は王女にも女王にも興味はなかった。