その頃、私はクーリカフ街に探偵局を開いて間もなく、訪れる依頼人も少なく（今でも決して多いということはないのだが）金はなかったが、暇だけは持て余していた。事件のない時は、世界放浪の旅の記録などをしたためていたが、奇怪かつ忌まわしい数々の出来事に彩られたその旅行記は、執筆者の気分を必ずしも昂揚させるものではなかった。
気分の滅入った午後は、扉に『本日休業』の木札を下げてラグラン大通りをぶらぶらと当て所なく歩くこともままあった。
その日はワイセン十字路近くのトラクト広場で市場が開かれていた。晴れ渡った空の下、様々な露店が並び、怪しげな口上を口々に商売に精を出していた。色とりどりの幟には、やたらと世界一だの最高級だのといった言葉が連なり、かえって商品の信用を貶めていたが、買い手にしても、サンジェリィ市民にはそういったものにだまされる純朴な手合いはそうはいないので、大きな問題にいたることはないのだった。
私は蜥蜴の尻尾や蛇の抜け殻、干涸らびた鶏の鶏冠といった物が並んでいるアニャチ人の薬屋をのぞき（薬屋は、私は良くない霊に取り憑かれていると言って、猿の木乃伊の足の指を熱心に薦めたが、鄭重にお断りした）その隣のひびの入った只の壷を帝国時代のものと称してえらく高値で売っている男に、歴史の質問を二三行った。壷屋は私の質問に一つも答えられず、機嫌が悪くなりそうだったので、次の露店に移った。
色のあせた灰青色の小さな天幕を張ったその店には、酒神アルオリクの紋章を染め抜いたこれまた色あせた幟が掲げられていた。粗末な木の椅子と小さな酒卓が置かれ、天幕の奥にはあまり見覚えのない種類の酒の壜や樽が陳列されている。
店には二人の人がいた。一人は主とおぼしき白髭の老人で、アニャチ風の袖口の拡がった黄と赤の派手な柄の長衣を着て、煙管からゆっくりと煙をくゆらせている。もう一人はこんな店には似つかわしくない若い娘で、店先の床机に腰を下ろし、銅の酒杯で真昼間からシェアをあおっていた。
私は娘の姿を横目で値踏みしながら、店の奥の酒場を見て回った。
「旦那、いい酒がそろってますよ。他じゃ買えない逸品ばかり、これなんかどうです。『白鹿』、あの海に沈んだ伝説の国ファバーンの末裔がつくった酒です。よそじゃ、絶対手に入りませんよ」
主は大振りの細長い壜に入った酒を指し示したが、白い男鹿が描かれたそのはり札に記されたファバーン文字は、私がアニャチを旅したときに見かけたものとはだいぶ異なっているように思えた。
白髭の酒屋は、次々と並んでいる酒の口上をまくしたてた。密林王国ナクシャッツに咲く人食い花の蜜からつくられるという食人花の酒、東部の宮廷で様々な陰謀策略に用いられる媚薬入りのアナイズ酒、荒廃の地イオロープで珍重されるオルニャック、厳寒のエスカールで、年に一度の祭礼の時だけ飲まれるというヴォートゥーカ……
半分くらいは偽物とすぐわかり、残りの半分は旅の途中で飲んだことのあるものだった。
主の話は途中から、右の耳から左の耳に通り抜けていくものとなり、私はシェアを飲んでいる娘の観察に力を注いだ。
年の頃は二十才になるかならぬかといったところだろうか。栗色の髪をうなじのあたりで短く切っている。瞳も明るい栗色で大きな目には生気が宿り、やはり大きめの口は顔の中に真紅の花が咲いたようだった。ちょっとだけ上を向いた鼻が愛敬も加えている。派手で目立つ顔だちだったが、純粋で無垢な何かが表情に輝きを与えていた。薄茶色の袖なし膝上までの服の腰を青緑の帯できつく締め上げ、豊かな肉体を誇示している。突き出した大きな乳房と肉づきの良い尻は嫌でも目に焼きついた。
昼から酒を飲んでいると言っても、悲嘆に暮れた様子はなく、只、秋の日差しの下で幸福そうにシェアを飲んでいた。
彼女にシェアを一杯奢ろうかと、考えていると、白髭の主が陳列棚の下の方から、小振りの壜を持ち出してきた。
「旦那には、どうやらありきたりのもんじゃご満足いただけないようですな。でも、これはどうですかな。御覧になったことがありますか」
主はそれまでのいかにも商売人らしい口調を変えて、声を低めて秘術を囁く魔道士のような調子で話しだした。
私は主から渡されたものを手に取ってみた。広げた手ほどの長さのそれは、壜のような形をしていたが、白木を彫って作られた入れ物のようだった。真ん中あたりに継ぎ目があり、くすんだ緑色の紙の帯が巻かれている。さらにその上にかつては白かったらしいはり札がしてあった。古色蒼然とした代物で全体に黴とも染みともつかぬ薄茶色や灰色のものが浮き出ていた。
「確かに見たことがないものだな、これは」
「こいつは夜逃げしたカナーっていうトリプロ街の酒問屋が持ってたもんでね。カナーの蔵は百五十年前からあるっていう話だからね、その酒も帝国時代のもんかも知れませんな」
はり札には酒神アルオリクの紋章が記されている。麦らしい穀物の穂が円を作りその中に大振りの酒杯を持った髭面のアルオリクが描かれているという図柄は、居酒屋でよく見かける浅浮き彫りと同じだが、表現技法は古めかしく、装飾の多い文字は確かにクァロニアン帝国の頃の書体を思わせるものだった。
振ってみると、コトコトという音がする。この中に直接酒が入っているわけではなさそうだった。
「いくらだい、これは」
酒屋は白髭をしごいて、もっともらしい表情を作り、法外な値をつけてきた。私はしばらくやり合った末、彼が最初に言った値段の半分ほどの額で、その酒を手に入れた。それでも、ちょいと高めのディコンがひと壜買える値だった。
主のいささか不満げな顔を尻目に、私は店先の床机に腰を下ろした。先刻から、娘は私と主のやり取りを興味深げに見ていた。シェアよりはこの謎めいた酒を奢る方が、より彼女と親密になれることは間違いない。
「世紀の秘酒の開封の瞬間に、お付き合い願えますか」
赤い唇から笑みがこぼれ、大きな目からは期待と好奇心があふれ出た。
「どんなお酒なのかしら。はり札には何て書いてあるの」
私ははり札の薄れた文字を読み取ろうとした。
『ジャング修道院二百年の伝統の技で……の門を開き、素晴らしい夜を貴殿に……アルオリクの祝福が貴殿にありますように……』
「修道院でお酒を作ってたの？あたしだってそれなら入れるわ」
「ふむ、妙な話だね。まあ、開けてみることにしよう」
白木の入れ物の上下をねじると、緑の紙は破れ、入れ物は上下に分れた。黴くさい臭いと共に中から出てきたのは掌ほどの小壜だった。アルオリクの紋章が刷られた札が張ってあり、中には鮮やかな緑色の液体が入っていた。
同席の娘は大きな目を丸くして、小壜を眺めた。
「緑色のお酒なんて見たことないわ」
「同感だね」
彼女は私の顔をちょっとの間見つめて、ふふんと笑った。
「あなたって、そういうしゃべり方しか出来ないの？」
「女性としゃべる時は、こうしろって祖父に言われてる」
娘は赤い唇を大きく開けて、笑った。
木の栓には紙で封が為されていた。何かの門らしき絵と、『世界を開け』という意味の古語が記されている。私は封を破り、栓を抜いた。
吹き出してきた匂いに私は一瞬、息を詰まらせ、咳込んだ。酒というより、薬草を煎じたもののようだった。それも飛び切りひどい臭いのものばかり集めて、一世紀も煮込んだようだ。
娘も顔をしかめて、鼻をつまんでみせた。そんな仕草がとても魅惑的だった。
「さすが、修道院の酒だ。体にいいし、修行にもなる」
「お坊様の考えることなんて、あたしにはわからないわ」
私は卓の上にあった木の盃に少しだけ、その得体の知れない酒を注いだ。
「毒味をしてみよう」
「大丈夫なのかしら」
娘は形の良い眉を寄せて、心配そうに言った。子供のように表情がくるくると変わる。見ていて飽きない。
「アルオリクの紋章がある。酒には違いないさ」
私は緑の酒を一口含んだ。そうは言ったものの、いささか不安がないわけでもなかったが、口に入れるとそれは杞憂であることがわかった。緑の酒は、今までに飲んだどの酒よりも甘く、爽やかな味がした。かなり強い酒で、口の中がかっと熱くなったが、舌触りはまろやかで、飲み難いということはなかった。
私は彼女の酒杯にも注いだ。
「大丈夫、アルオリクのお墨付きだ。美味い」
娘は信じられないというちょっと不審げな顔をしたが、杯を手に取った。
「酒神の祝福がありますように！」
私たちはありきたりの乾杯の文句を並べて、杯を鳴らした。
一口飲むと、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「おいしい。不思議、一口飲むと匂いも気にならなくなる」
二口、三口目あたりで、私たちは異変に気がついた。
「もう、酔っ払ったのかしら。まわりが揺れてる」
彼女は体をふらふらさせて、今にも椅子から転げ落ちそうだった。私は彼女の隣に行って支えようとしたが、立ち上がると、辿り着く前に自分が倒れそうなことに気づいた。ディコンをひと壜空けたみたいに、まわりの景色がぐるぐると回っていた。だが、妙なことに意識ははっきりしている。普通の意味で、酒に酔ったというのとは、明らかに違うようだった。景色全部がどろどろに溶けて、水に流れていくように見えた。小さな卓の向こうの彼女が限りなく遠かった。彼女は私の名前を呼ぼうとしていたが、彼女はそれをまだ知らなかったし、私もまた彼女の名を知らなかった。
目に見えるものはすべて形を失くし、色とりどりの墨流しのようになった。市場のざわめきもまた、すべてが溶け合い、音の洪水のようになった。一瞬、頭の中に白い光が満ち、次の瞬間には、私は別世界に立っていた。
天気と季節は変わらず、よく晴れた空には秋の雲が静かに流れていたが、空の色は奇妙な桃色がかった薄紫だった。私は背の低い潅木がまばらに並ぶ草原に立っていた。木々の葉は色づいていたが、赤や黄色ばかりというわけでもなく、鮮やかな青緑や紫色も混ざっており、美しい点描画のような景色をつくっていた。足元の草も、所々に目の覚めるような橙色や青紫の葉が長くのびている。空はよく晴れていたが、地上近くには薄い霧か霞のようなものがたなびいていた。
変化は身形にも及んでいた。私は革に鋼の板を打ち付けた軽い胴鎧と揃いの兜を身につけ、腰には偃月刀を吊っていた。漂泊の戦士といった出で立ちだ。
緑の酒のはり札の文が頭に浮かんできた。『…門を開き…』の門とは異界への門であったらしい。不思議とこの奇怪な事態にあっても、大きな驚きや不安といったものは感じなかった。この世界の住人としてのもうひとりの私が、私の中に存在しているようだった。
私は娘の姿を探したが、見当たらなかった。同じ酒を飲んだからには彼女もまたこの世界に来ているに違いない。何の手掛かりもなかったが、私はもうひとりの自分の無意識に従うかのように足を動かした。
美しい景色の中をしばらく歩くと、行く手にそびえたつ幾本もの柱が見えてきた。幾分赤味がかった高さ三十イート（約十メートル）ばかりの白い石柱が、二十本余りも立ち並んでいる。地上には同じ石作りの低い石段や長椅子、それに祭壇のようなものが置かれている。屋根のない神殿といった感じだが、柱や祭壇の配置は不規則で、気まぐれな巨人の子が戯れに置いたかのようだった。
建物の入り口の低い段の上に、ひとりの老人が腰を下ろしていた。薄汚れた白い長衣をまとい、大きな土瓶から、直に何かを飲んでいる。近づくと強い酒の匂いがした。髭を伸ばした赤ら顔はどこかで見たような気もしたが、思い出せない。老人は小さな目に涙を浮かべながら、酒をあおっていた。
「いかがなされた。ご老体に飲み過ぎは芳しいとは言いかねると思うが」
「おお、これは戦士殿、ご忠告ありがたいことだ。だが、この老いぼれを止めなさるな。儂の可愛い一人娘が、囚われの身となってしもうたのだ。この儂には娘を救い出す力はない。こうして、ここで酒で悲しみを紛らわすしかないのだ」
老人は、また一口、酒をあおった。
「囚われとは？不逞の輩にさらわれたとでも」
「娘を捕えているのは、『新しき神の使徒』。傲慢で、礼儀を知らぬ、悪辣な奴らだ。自らの神の教えを強引に押しつけようとする。従わぬものに容赦はしない」
「して、娘御は何を致したと？」
老人は首を振り、また酒を飲む。
「酒を飲んで、男を一人二人ものにしただけのことだ。それが奴らには極悪な振る舞いと映ったのだろうて。ああ、戦士殿よ、貴公のお力で我が娘を救い出してはくれまいか」
私と、もうひとりの私にとっても、この老人の願いを聞き入れることはごく当然のことと思えた。
「娘御はどこに捕われておられる」
「おお、では我が娘を救い出しに行ってくだされるのか」
私はうなずき、老人は酒焼けした顔をほころばせ、よろよろと立ち上がった。
「この中だ」と言って、石柱が並ぶ中を指差す。
「ここは元々は儂らの場所だったのだが、『新しき神の使徒』が占領して儂らを追い出した。儂らに入れぬように結界を張り、娘を中に捕えたのだ。だが、別世界より参った貴公なら入れる」
「私がどこから来たのか御存事か」
老人の小さな黒い瞳の奥に深い光が宿ったような気がしたが、すぐにそれは失せ、涙ぐんだ哀れな面持ちとなった。
「貴公の魂は冷たく沈んでおる。さあ、その力で我が娘を助けてくれ」
不思議な老人は道を開けるように一歩退いた。私が石段に足を踏み入れると、手に持った瓶の酒を振り掛けた。
「何を？」
「儂らが神の祝福が、貴公にありますように」
老人は髭をしごくような素振りをしたが、何かの印形を結んでいるようにも思えた。掛けられた酒の匂いが身を包んだが、それは私の心と体を奮い立たせ、活力で満たした。
神殿の中に入ると突然あたりの見え様が変わった。美しい赤紫の空は見えなくなり、柱と柱の間には灰色の屋根と壁が現われた。どこからか、暗く低い詠唱が聞こえる。陰気な迷路のような廊下を私はその声を頼りに歩いた。
やがて、ちょっとした広間のようなところに出た。真ん中に薄鼠色の長衣を着た男が後ろ向きにあぐらをかいていて、独り言のようにつぶやいた。
「酒の臭いがする。くさい、くさい、悪徳の臭いだ。許さん、許さん……」
言葉と共に広間の隅に、灰色の霞のようなものが沸き立ち始めた。それは次第に四つ足の獣の形を取り始め、横幅の広い犬のような姿になった。犬は三匹現われ、私に飛びかかって来た。
最初の一匹が左腕の小手に噛みついた。捲れ上がった唇から白い泡を吹き、獣は私の腕を噛み千切ろうとする。びっしり生えた牙が革と鋼に食い込んでくる。
次の一匹の襲撃を私は身を倒してよけ、同時に腕に食らいついている怪犬を石板の床に叩きつけた。犬は、ぎゃんという鳴き声を発して腕から離れた。三匹目と、身を返して来た二匹目から、床を転がりながら逃れた。
立ち上がって、剣を抜いた瞬間に最初の奴がまた飛びかかって来る。今度は腕の変わりに刃を奴の口に食わせてやった。牙と歯肉と赤い血が飛び散る。霞から生まれた化け物でも今は生身の体を持っているらしい。
足に食らいついてきた奴の脳天を斬り裂き、腹に飛び込んできた三匹目を柄頭で思い切り殴りつけた。
口から血の泡を吹きながら襲いかかって来る一匹目の腹を裂き、残る一匹の首を斬り落として、最初の闘いは終わった。
「おおうう、悪徳の奴隷よ、呪われよ。神はお許しにはならぬぞ」
男は立ち上がり、こちらに顔を向けた。その顔は今斬った犬の化け物にそっくりだった。牙をむき出してくる犬男を、私は斬り捨てた。
広間は血の海になったが、犬男が生き絶えると、死骸と血は灰色の霞になった。
私は回廊を先を急いだ。『新しき神の使徒』とやらが仕える神はあまり親しみ深い神とは思えなかった。
道は曲がりくねっていたが、一本道だったので、迷うことはなかった。
次の広間に出ると、また灰色の服の男が待っていた。男は顔をすっぽりと覆う頭巾をかぶっている。頭巾の下からくぐもった声が言う。
「臭うぞ、悪魔の僕め。膿み爛れた背徳の臭いがする。神の名においてここは通さん」
男が両腕を広げると、その指先から乳灰色の毛糸のようなものが吹き出してきた。私は一気に間合いを詰めようとしたが、毛糸が手足に絡みつき、押しとどめられた。毛糸は後から後から吹き出し、私の体に巻き付いてくる。見ると、男の頭巾の側頭部は破れ、そこから羊のものを思わせる角が突き出していた。
私は剣を振り回し、何とか男に近づこうとしたが、切り裂く毛糸よりも、羊男の指から吹き出るほうがはるかに多く、自由は次第に奪われていく。腹のあたりに巻き付いた毛糸が胃の腑を締め上げ吐き気がした。
「悪徳の輩、そこで聖なる糸に巻かれて滅びるがいい」
男の頭巾はずたずたに裂け、歪な羊と人間の合の子のような顔があらわになった。
脳裏にあの娘の花のような笑顔が浮かんだ。今、探し求めている顔も知らぬ娘の影と彼女の姿が一緒になり、私は自分が求めている女が一人であるという確信を持った。
吐き気はますます強くなり、とうとう私は胃の中のものを吐き出した。驚くべきことに私が吐いたものが触れると、毛糸はしゅうしゅうと音をたてて溶けていった。羊男はのけ反り、飛び退った。
「おお、止めろ、何という悪臭だ。地獄の酒の臭いがする。ああ、悪魔よ、止めてくれ」
私は溶けた毛糸を引き千切り、羊男へ斬りかかった。羊男の角が槍のように伸び、私の剣と噛み合う。二度、三度と斬り結び、私が角に食い込ませた剣をねじると、角は根本から折れた。噴水のように血が噴き出した。羊男の体はどんどん萎びていき、灰色のぼろのようになり、血溜まりと共に灰色の霞に変わった。
不自然な角度で折れ曲がる回廊をさらに歩き続けると、大きな広間に出た。不規則な多角形の部屋で、石板が低い階段状に積み重なっており、中央付近の一番高いところに人影があった。
三人の灰色の服を着た男が立っている。下辺が長い十字の真ん中に円を配した黒い文様がその胸には描かれている。羊男と同様の頭巾を被っており、顔は見えない。
三人は手に手に鞭を持ち、交互に一人の女を打ちすえていた。女は頭から爪先までをすっぽり覆う手も足もない黒革の服を着せられて、鎖で木の柱に吊るされている。黒革の拘束衣は尻の部分だけ、白い肌があらわになっており、豊かな肉に赤い蚯蚓腫れが幾本も重なっていた。
灰色の服の男たちの鞭が打ち降ろされると、芋虫のような女体はのたうち、革の中から、くぐもった悲鳴が聞こえた。灰色の長衣の股間の部分は下から肉棒に突き上げられており、ひとりの男は服の裾が割れて、黒ずんだ一物がのぞいていた。
私の姿を認めると、男たちは手を止めた。
「来た、来たぞ。腐った臭いの悪徳の使者だ。おおう、鼻が潰れてしまいそうだ、酒の臭いがする」
男たちは口々に好き勝手な罵詈を並べ立てた。
「その娘を返してもらおう」
「この女は欲望、淫らで飢えた汚らわしいものだ。聖なる鞭がこの女の肉に潜む悪しき性を追い出す」
「もっともっと打って、悪しき血を流さねばならぬ」
「もっともっと血を流して、肉欲の悪魔を打ち倒すのだ」
彼らの頭巾の下から引きつり歪んだ笑い声が洩れてきたような気がして、私は気分が悪くなった。頭巾の覗き穴から気狂いじみた血走った目の、ぎらぎらとした輝きが見えてくるようだった。
「酒を飲み、男と交わることが悪徳か」
「欲望の奴隷、快楽の奴隷だ、この女は。あらゆる世界に悪徳を振りまく、邪悪の娘だ。男を惑わし、女を堕落させ、秩序を破壊し、混沌をもたらす」
「混沌無きところからは何も生まれない」
「新しき神の秩序があれば、他に必要なものはない」
この男たちとの会話には何の意味もないことを私は悟った。剣を振りかざして階段を駆け昇った。
三人の男たちは人間のものとは思われぬ金切り声をあげ、襲いかかって来た。鞭が唸り、私の剣を奪い取ろうとする。私は最初の奴の鞭を身を低くして避け、二番目の男の鞭を腕ごと斬り落とした。鮮血が噴き出し、降りかかる。そのまま三人目の奴の懐に飛び込み、背中まで剣を突き通した。
剣が骨に引っ掛かったのか、なかなか抜けない。背中に焼けるような痛みが走る。残った灰色の男の鞭だ。石段に転がったところに次の一撃が来る。かろうじてかわすと、目の前に斬り落とした腕があった。
拾って投げつける。腕がまだ握っていた鞭が、生きている男の鞭と絡み合う。私はその隙に、剣を引き抜いた。
三人目の男は腕を一本余分にぶら下げたまま、息絶えた。
腕を斬り落とされた男が、きいきいという耳障りな呻き声をあげながら、残った腕で灰色の頭巾を脱ぎ捨てた。そこから現われたものは鳴き声と矛盾しないもの、醜く歪んだ豚の顔だった。
豚男は大きく開いた鼻の穴から薄汚れた桃色の膿とも肉ともつかないものをぼたぼたと滴らせ始めた。
口からはよだれをだらだらとたらしながら、豚男はわめく。
「背徳の輩よ、聖なる肉がおまえを覆い、食らい尽くす！」
聖なる肉と称する腐汁の塊は鎌首をもたげた蛇のように立ち上がり、私の動きをうかがう。
私は躊躇しなかった。一気に石段を飛び降り、豚男に斬り込んだ。聖なる腐肉が盾のようになり、立ちふさがる。斬り裂こうとするとそれは幾つもの塊に分れ、私の体に張りついてくる。それが触れた肌は、氷の塊に触れたかのように凍りつき、激しい痛みが走った。
だが、私は痛みをこらえ剣を振り回し、飛んで来る固まりかけた膿のようなものを払って、豚男の眼前に立った。私は彼らが何者であるか知らなかったが、最も憎むべき、どうしても容認しがたい敵であることはわかっていた。
豚男は大きく息を吸い込んで、鼻から膿汁を噴き出そうとした。私はその前に奴の首と胴を切り離した。噴水のように血が噴き出し、豚男は死んだ。
三人の偽善者の骸は、見る見るうちにぐずぐずに崩れていき、灰色の煙となって消えた。
私は剣先で注意深く女を捕えていた黒い革服を切り裂いた。汗にまみれた白い肌が飛び出してきた。娘は私に抱きついた。彼女の汗は、極上の酒の匂いがした。
「ああ、助かったわ、ありがとう」
娘の愛らしい顔と声は、紛れもなく市場の酒屋で出逢ったあの娘のものだった。
大広間の周囲を覆っていた灰色の屋根と壁が急に薄れていく。それは陽光に照らされ消え行く霧のように、見えなくなっていった。
私たちは柱だけがそびえる神殿で、赤紫の空の下、抱き合っていた。私は身と心とが暖かいもので満たされていくような気がした。
「向こうではまだだった。自己紹介といこう。スナブ・ランケン、あちらではクーリカフ街で探偵局を開いている。君は？」
「クーリカフ街？それは違う世界でのことね。その世界の人々はあたしのことをアルオリクの娘、ミュツェールと呼ぶわ」
私は少なからぬ驚きをもって、今一度、娘の華やいだ顔を見つめた。
「よくわからない。君の父上は、酒と宴の大神で君は神の子ということかい。それとも、そういう通り名があるってことかい」
神の子と名乗る娘は、真紅の唇を私の耳元に押しつけささやいた。
「あなたは変わった人だわ。ここに来ても、自分が誰だか忘れない。心の臓が動きながら、凍りついてるのね。あたしが少しだけ、暖めてあげる。あたしは正真正銘、酒神アルオリクの一人娘よ」
娘の唇が私の唇に重なり、柔らかい舌が私の舌と絡み合った。娘の唾液は舌が蕩けるような美酒だった。
長い長いくちづけの後に、白衣の老人がにこやかな笑みを浮かべて現われた。先刻とは打って変わって、明るく剛胆な笑いを浮かべている。齢そのものも若返ったようで、老人というのは似つかわしくないくらいだった。
「戦士殿、礼を言おう」
「父上、このお方が……」
酒神は大きくうなずき、紫の空に響かんばかりの大きな笑い声をあげた。
「戦士殿、お主なら儂らの窮状を救ってくれると思ったわい。お主は濃らの使徒であり、守護者でもある。さあ、祝いの酒だ」
アルオリクがそう言うと、空の色が、いっそう鮮やかになり、雲がほとんどないにもかかわらず、雨が落ちてきた。雨は一粒一粒が素晴らしく美味い酒だった。私は酒神の娘と抱き合いながら、天から降り注ぐ美酒を飲み干した。
私とミュツェールは酒の雨の中、くちづけを繰り返し、交わりを繰り返した。神の娘との交わりに私は文字通り身も心も酔い痴れた。いつの間にか、神殿には大勢の異形のものが現われ、盛大に、粗野だが喜びに満ちた宴を繰り広げた。
酒の雨は様々な酒に変化しながら降り続いた。やがて、雨粒は青くなり、そして緑色の酒が降り注いだ。それが口の中に入ると、言い知れぬ心地好さが体中に広がった。まわりの景色が流れ出した。腕の中のミュツェールの姿までも水に溶けるように流れていく。私は狼狽し、娘を強く抱きしめたが、その肉の感触も、手の中からこぼれる水のように薄れていく。
「ランケン、心配しないで。向こうでも、ね……」
彼女の甘いささやき声が耳の奥に響いたかと思うと、白い光が頭の中に満ちた。
酒屋の店先には五人の男が倒れていた。揃いの薄灰色の長衣を身に付け、その胸には黒で中心に円のある十字が染め抜いてある。装束同様、仲良く五人とも気を失っていた。
私の横にはあの娘がいた。私たちは妙な気恥ずかしさを感じて、互いの顔を見つめた。
「旦那、強いね、五人もいたのに、あっという間にのしちまった。こいつら、近頃、ジクロイスとかいう神の教えを広めるとかいって、酔っ払いから酒を取り上げたり、逢引の男女の邪魔をしたり、ろくでもないことばかりしていたんだ。いやあ、すっとしましたよ」
主は笑みを浮かべて、のびている男の脇腹を爪先で蹴った。
卓の上には緑の酒がこぼれている。壜は石畳の上で割れていた。
「恐ろしい化け物に捕まって食べられそうになる夢を見ていたわ。そしたら、あなたが出て来て、助けてくれた……でも、こいつらは……？」
私は彼女の腰に手を回し、腕に触れる乳房の感触を楽しみながら答えた。
「どうやら、その緑の酒のお陰で、僕は君の騎士になれたらしい。僕はスナブ・ランケン。クーリカフ街で探偵局を開いている。君は？」
彼女は神の娘と名乗るのだろうか。
娘はちらりと私の腕に目をやり、鼻でくすりと笑った。それから、もう半イートばかり、服からはみ出しそうな体を擦り寄せてきた。
「ミューツィーよ。父さんは宿酔横丁で飲み屋をやってるわ」
私たちはその晩、『アトスの店』でディコンを明け、私はそのまま彼女の寝床に転がり込んだのだった。
