私がアトスの店を出たときには、すでにあたりの店は戸閉まりを終え、街は静まり返っていた。酒神アルオリクの紋章で飾られた扉の向こうに、ミューツィーの尖った顎と大きな胸が消えた。私は音の消えた街路に一人立った。
霧が出ていた。霧雨の湿っぽい匂いと冷たさが、私の体に残っていたディコンの温もりと、ミューツィーの匂いを消した。伸びをするように夜空を見上げて、ひとつ吐息をもらした。星はひとつも見えなかった。
私はクーリカフ街にある家、スナブ・ランケン探偵局という看板のある扉へ向かって歩き出した。宿酔い横丁には誰も居なかった。私に聞こえるのは、擦り切れた沓のかかとが、これまた擦り切れた石畳にあたる鈍い響きだけだった。
すぐにラグラン大通りに出た。デリン灯が青白い光の輪の列をつくっていた。霧が光にあたって亡霊のように漂っていた。私は通りの真ん中を歩いた。鈍い沓音だけが私に聞こえた。数十歩ごとにデリン灯の発する幽かなぶうんといううなりがこれに加わった。
しばらく歩いた。霧が帽子と外套に浸み込んでいった。濡れた顔を手で拭った。手を外套の裾にこすりつけた。どこも濡れたままだった。
ひとつ角を曲がった。壊れかかったデリン灯が緑色がかった光を明滅させていた。私は立ち止まり、じいじいと小さな音をたてているその燈火を見上げた。ほっそりとした青銅の柱の頂部から斜め上に突き出した六角形の白い棒がちらちらと光っていた。明るくなったときは、青白い、金物でできた月のように光ったが、すぐに緑玉のような色合いを帯びて明るさが落ちた。消えそうになり、また光った。瞬いた。その繰り返しだった。
私は帽子を取り、濡れた前髪をかきあげた。デリン灯を見たまま、何度もかきあげた。目の前の右手は緑光に染まって見えた。
然るべき位置に帽子を戻し、また明滅するデリン灯を見つめた。目に赤色のものが焼き付いた。
それまで見えなかったものがそこに現れた。女だった。中背で均整のとれた体をしていた。黒い胸の大きくあいた服を着ていた。東方風の異国的な顔立ちだった。まっすぐの眉と切れ長の目と肉感的な唇をしていた。髪は短く、長くそこに立っていたかのように雫が光っていた。黒い袖口からのぞいた二の腕が白くぬめるようだった。女の瞳は半ば透き通った金色をしていた。
私は女の顔を見た。女は私の顔を見た。女の唇の端がほんの少し動いて幽かな笑みをつくった。私はこの女を知っていた。
霧は霧雨と言える程のものになっていた。頬にさらさらと水が触れるのを感じた。女の顔に小さな水滴が幾つかついた。
デリン灯が明滅し、女の白い肌は硝子のような緑色になった。
私は右手を伸ばし、女の頬についた雨を拭った。女の頬の手ざわりが私の股間へ伝わった。
私の喉が干涸らびた音をたてた。
「今晩は、ワシェ・イム・モエヤ」
「久し振りね、スナブ・ランケン」
デリン灯の明滅に合わせて、背徳の女神ヨーラの代理人の声は上下し、掠れた。
私はモエヤ婦人を両腕に掻き抱いた。婦人の体は冷えきっていた。そのまま石畳の上に押し倒した。黒衣の裾をまくり上げ、下着を取り去った。交わった。彼女の体は冷たく湿っていて重かった。私の体の下のそれは確かに重かった。透き通った金色の瞳は何処も見ていなかった。街路を犯す行為はとてつもない快感だった。
女の腹の奥深く私は精をもらした。絶対に彼女が母になることはあり得なかった。
私と女は折り重なったまま、路上に倒れていた。彼女の中で私のものが縮んでいった。気分が悪かった。額が濡れた路石に触れた。冷たかった。
私は立ち上がった。女は路上に横たわり、私を見つめていた。何処も見ていない琥珀の瞳は、私の目の奥に焦点が合っていた。口の端が歪んでほほえんだ。小さな黒子があった。
懐から短剣を抜いた。デリン灯がじいっと音をたて、大きく明滅した。女の肌は蜥蜴のような緑色になった。私は跪き、短剣を振りおろした。豊かな乳房が一瞬ひしゃげて、すっと刃がはいり込んでいった。白い粘土につき刺さるへらのように短剣は柄まではいっていった。
女は表情を変えず、私を見つめていた。女の顔は青くなり、白くなり、緑色になり消えた。
私は濡れた石畳に折れた短剣を突き立ててしゃがみ込んでいた。剣先には白い血がついていた。霧雨に流されてそれは路上にどろりと落ちた。
その場に尻をついて後ろに手をついた。上を見た。わずかな明暗のある暗灰色の空があった。しばらくそうしていた。
寒気がした。私は立ち上がり、歩き出した。家に着くと寝床にもぐり込み、朝まで眠った。
彼女は帰って来た。甦って帰って来た。そんなことは、もちろんわかっていたことなのだ。
霧が出ていた。霧雨の湿っぽい匂いと冷たさが、私の体に残っていたディコンの温もりと、ミューツィーの匂いを消した。伸びをするように夜空を見上げて、ひとつ吐息をもらした。星はひとつも見えなかった。
私はクーリカフ街にある家、スナブ・ランケン探偵局という看板のある扉へ向かって歩き出した。宿酔い横丁には誰も居なかった。私に聞こえるのは、擦り切れた沓のかかとが、これまた擦り切れた石畳にあたる鈍い響きだけだった。
すぐにラグラン大通りに出た。デリン灯が青白い光の輪の列をつくっていた。霧が光にあたって亡霊のように漂っていた。私は通りの真ん中を歩いた。鈍い沓音だけが私に聞こえた。数十歩ごとにデリン灯の発する幽かなぶうんといううなりがこれに加わった。
しばらく歩いた。霧が帽子と外套に浸み込んでいった。濡れた顔を手で拭った。手を外套の裾にこすりつけた。どこも濡れたままだった。
ひとつ角を曲がった。壊れかかったデリン灯が緑色がかった光を明滅させていた。私は立ち止まり、じいじいと小さな音をたてているその燈火を見上げた。ほっそりとした青銅の柱の頂部から斜め上に突き出した六角形の白い棒がちらちらと光っていた。明るくなったときは、青白い、金物でできた月のように光ったが、すぐに緑玉のような色合いを帯びて明るさが落ちた。消えそうになり、また光った。瞬いた。その繰り返しだった。
私は帽子を取り、濡れた前髪をかきあげた。デリン灯を見たまま、何度もかきあげた。目の前の右手は緑光に染まって見えた。
然るべき位置に帽子を戻し、また明滅するデリン灯を見つめた。目に赤色のものが焼き付いた。
それまで見えなかったものがそこに現れた。女だった。中背で均整のとれた体をしていた。黒い胸の大きくあいた服を着ていた。東方風の異国的な顔立ちだった。まっすぐの眉と切れ長の目と肉感的な唇をしていた。髪は短く、長くそこに立っていたかのように雫が光っていた。黒い袖口からのぞいた二の腕が白くぬめるようだった。女の瞳は半ば透き通った金色をしていた。
私は女の顔を見た。女は私の顔を見た。女の唇の端がほんの少し動いて幽かな笑みをつくった。私はこの女を知っていた。
霧は霧雨と言える程のものになっていた。頬にさらさらと水が触れるのを感じた。女の顔に小さな水滴が幾つかついた。
デリン灯が明滅し、女の白い肌は硝子のような緑色になった。
私は右手を伸ばし、女の頬についた雨を拭った。女の頬の手ざわりが私の股間へ伝わった。
私の喉が干涸らびた音をたてた。
「今晩は、ワシェ・イム・モエヤ」
「久し振りね、スナブ・ランケン」
デリン灯の明滅に合わせて、背徳の女神ヨーラの代理人の声は上下し、掠れた。
私はモエヤ婦人を両腕に掻き抱いた。婦人の体は冷えきっていた。そのまま石畳の上に押し倒した。黒衣の裾をまくり上げ、下着を取り去った。交わった。彼女の体は冷たく湿っていて重かった。私の体の下のそれは確かに重かった。透き通った金色の瞳は何処も見ていなかった。街路を犯す行為はとてつもない快感だった。
女の腹の奥深く私は精をもらした。絶対に彼女が母になることはあり得なかった。
私と女は折り重なったまま、路上に倒れていた。彼女の中で私のものが縮んでいった。気分が悪かった。額が濡れた路石に触れた。冷たかった。
私は立ち上がった。女は路上に横たわり、私を見つめていた。何処も見ていない琥珀の瞳は、私の目の奥に焦点が合っていた。口の端が歪んでほほえんだ。小さな黒子があった。
懐から短剣を抜いた。デリン灯がじいっと音をたて、大きく明滅した。女の肌は蜥蜴のような緑色になった。私は跪き、短剣を振りおろした。豊かな乳房が一瞬ひしゃげて、すっと刃がはいり込んでいった。白い粘土につき刺さるへらのように短剣は柄まではいっていった。
女は表情を変えず、私を見つめていた。女の顔は青くなり、白くなり、緑色になり消えた。
私は濡れた石畳に折れた短剣を突き立ててしゃがみ込んでいた。剣先には白い血がついていた。霧雨に流されてそれは路上にどろりと落ちた。
その場に尻をついて後ろに手をついた。上を見た。わずかな明暗のある暗灰色の空があった。しばらくそうしていた。
寒気がした。私は立ち上がり、歩き出した。家に着くと寝床にもぐり込み、朝まで眠った。
彼女は帰って来た。甦って帰って来た。そんなことは、もちろんわかっていたことなのだ。
