舞台では半裸の踊り子たちが、若い肉体を誇示して跳ね回り、身をくねらせていた。イヌン川左岸の居酒屋〈舞姫の園〉は、酒も料理も大したことはなかったが、若い娘たちの踊りで客を集めていた。
サンジェリィに踊りを見せる店は幾らでもあるし、もっときわどい衣装（というほど布はまとってはいないが）を売り物にした店もあるのだが、〈舞姫の園〉はそうした店とは一線を画していた。月ごとにロラストの山の民の踊りやナクシャッツの密林の踊り、アニャチ皇帝の後宮の舞、果ては遠くダーチェンの鋼の舞等々、嗜好を凝らした様々な舞台を楽しむことができた。
今夜の出し物は『蝶の舞』、半ば透き通った色とりどりの薄衣をまとった娘たちが、背中に極彩色の紋様を描いた大きな蝶の羽をつけて、舞台の上を舞っていた。蝶の羽もまた、透き通る布地で出来ており、良くしなる竹でも骨に使ってあるのか、踊り子たちの動きに合わせてひらひらと優雅な動きを見せていた。
ゼアートはしばらく娘たちの踊りに視線を注いでいたが、やがて嘆息すると、硝子の酒杯の中のディコンを一口すすった。
「主役のいない舞台なんて！」
小さな円卓に置かれた洋灯には、色硝子の火屋がついていた。赤と青の光に照らされたゼアートの痩せた顔は、細い眉の両端がひどく下がって、王立劇場で古くさい悲劇を演じる老いた役者のようだった。
「約束の期限を過ぎて二週間か。悪いが、他に男がいたという様子はなかったのか」
劇作家志望の青年は、眉間にしわを寄せ私を睨んだ。
「そんなことはない。マリファーラは僕を愛してくれている。今回の屋敷勤めの件だって、次の〈百蘭座〉の公演費のために引き受けてくれたんだ。主役はもちろんマリファーラだ。これが成功すれば、結婚を申し込むつもりだったんだ」
ゼアートは悲しげに首を振り、杯の酒を飲み干した。ゼアートとは、この店で知りあった。劇作家としての成功を夢見る青年は、今はこの店の舞台の演出を任されていた。工夫を凝らした踊りの舞台は評判も良く、踊り子の一人、マリファーラとは恋仲だった。
マリファーラは店の踊り子たちの中でも、一番の人気者だった。長くしなやかな手足の動きは、見る者を舞台の上の別世界へ差し招き、小振りだが形の良い乳房と細い腰、小さな締まった尻は、男たちの目を釘付けにした。長い黒髪が舞に合わせて生き物のように動くと、客席からは溜息が漏れた。ことに『蝶の舞』はマリファーラの得意とする出し物で、お忍びでやって来る貴族や大商人もいるという噂だった。
私もゼアートのお奨めで、二三度、彼女の舞台を見たことがあった。もう少し若ければ、ゼアートを出し抜いてちょっかいを出していたかも知れない。評判通りの魅力的な娘だった。顔立ちだけなら、もっと整った娘も同じ舞台にいたが、マリファーラの舞いの前では、ただの美貌では勝ち目がなかった。
舞台では『蝶の舞』が山場となり、鱗粉を模したきらきらと光る紙吹雪が天井から舞い落ち、その中で娘たちが大きな羽をしならせて踊っていた。舞台の袖に隠れた楽士たちは小さな太鼓や鉦を複雑な律動で打ち鳴らし、ヴィオロネンが流れるように滑らかに上り下るする旋律を奏でた。
「セロクトルの別邸には行ってみたのかい」
「ああ、もちろん行ったが、門前払いさ。土鬼みたいな顔をした下男が出てきて『マリファーラは約束の期限通りに屋敷を出た。金は支払ったし、行く先など知らん』でお仕舞いだ」
悲嘆に暮れる青年は、通りかかった馴染の女給に合図し、女給は渋々といった調子で、次の酒を注いだ。
セロクトルはラグラン大通りに店を構える織物商〈ジェグーロ〉の若主人だった。マリファーラはセロクトルの別邸へ一月という約束で勤めに出た。仕事は、セロクトルのために舞を舞うこと、主人の身の回りの世話を焼くこと。
金持ちの大店の主人が踊り子を囲うというだけなら、どこにでもある話だった。だが、妙なことにこの屋敷勤めの話は、セロクトル本人ではなく、父親のジェゴロクトルが持ってきた話だという。
「端からおかしな話だったんだ。本人じゃなくて、父親が息子のために女を世話しようというんだからな。しかも、遠回しな物言いだったが、同衾はするなと言うんだ。舞を見せて、身の回りの世話をして、それだけでいいと言うんだ。それで、二千ダズンだ」
ゼアートは深い溜息をもらし、視線を円卓の上に落とした。
「マリファーラは僕が次の芝居のために金が必要なことを知っていた。だから、妙な誘いでも引き受けたんだ。きっぱり断れなかった僕のせいなんだ」
青年は芝居がかった仕草で首を振った。役者を志したこともあるこの男は、どんな場面でも芝居染みた仕草が勝手に出てしまうようだった。だからと言って彼が人をだます人間とは思えなかった。
「金はある。屋敷勤めの前金だ。確か一日四十ダズンだろう。これでマリファーラを探し出してくれ。頼む、スナブ・ランケン」
ゼアートは音を立てて重そうな革袋を卓上に置いた。私は革袋を手に持ち、金の鳴る音を聞いてみた。
「これは受け取れないね」
私は革袋を演劇家の前に押し戻した。
「何だって、引き受けてはくれないのか」
青年は今にも泣き出しそうな顔をした。舞台では、音曲も静まり、明かりが落とされる中、蝶たちは静かに袖へと姿を消していった。
「この金を僕に払ってしまっては、〈百蘭座〉の公演のためにまた金策が必要になってしまうだろう。マリファーラの舞台は僕も見たいからね。舞台が成功したら、たっぷりはずんでもらうよ」
「おお、すまない、スナブ・ランケン。感謝するよ。もしも僕が自分の劇場を持つことがあったなら、君の名前を冠することを誓うよ。おお、本当にありがとう」
ゼアートは、目に涙を滲ませて、私の手を握りしめた。あたかも、もう一件は解決したかのような喜びようだった。スナブ・ランケン劇場がウラック街に開場する事があるとは思えなかったが、私はまた一つ、ろくでもない芝居に首を突っ込むことになった。
二
翌朝、セロクトルの別邸へ向かおうと、クーリカフ街の我が家兼探偵局の扉を開けると、馬車が待っていた。二頭立ての小振りの二輪馬車で、ぴかぴかに磨かれていたが、家紋や屋号の類いはどこにも描かれていない。金持ちの商人や貴族が、忍んで悪所に出かける時などに使われるものだ。黒塗りではなく、葡萄茶色というのが、洒落ていた。
御者は渋皮のような顔色をした男で、濃紺の外套に短い鍔の帽子を目深に被っていた。いかにも口が堅そうな気配が漂っていた。
「スナブ・ランケン殿ですね。お乗りください。〈ジェグーロ〉のジェゴロクトル様が折り入ってお話したいとのことです」
「〈ジェグーロ〉？ 僕の買えるような布地も服もおいてるとは思えないね。これから仕事に出かけるところだ。帰ってからにしてくれないかね」
御者は灰色の澱んだ目で、御者台からぎろりと私を見おろした。馬車を走らせる他にも仕事ができそうな男だった。主に都合の悪いことを脅してもみ消すとか、そういう類いの仕事だ。
「ジェゴロクトル様はお忙しいのです。是非にも、今朝、ランケン殿にお会いしたいとのことです」
「ふむ、そうかい。ちょうどデネン街に行こうと思っていたところだ。辻馬車代わりに乗せてもらうとするか」
セロクトルの別邸のある街の名を聞いても、御者は表情を変えずに頷いた。外套の腰の辺りには、長めの刺刀でも差しているような膨らみがあった。
馬車はラグラン大通りには入らずに、一本裏の旦那通りと呼ばれる道を通った。女道楽に通う商家の旦那衆がよく使うので、そう呼ばれている道だ。この道を通うことをむしろ自慢にしている者もいる。ラグラン大通りの商家は、大通りに面した正面は工夫を凝らした派手なつくりを競っていたが、この裏通りではむしろ質素を競うようだった。狭い裏木戸と商品を運び込む蔵の大きな戸口が交互に並んでいた。
二輪馬車は黒く塗られた目立たない木戸の前で止まった。質素といっても安い作りというわけではない。扉の金飾りは細やかな打ち出し細工の見事な蝶の紋様だった。
御者が木戸を開けて一声掛けると、頭の薄い中年の男が現れ、案内してくれた。
「スナブ・ランケン様ですね。朝からの急なお呼び立て、申し訳ありません。ジェゴロクトル様がランケン様の御高名を聞き、是非にとのことでして」
男はいかにも商人らしい腰の低さだったが、目尻にしわのよった細い目が心から笑うことがあるのかは、疑問だった。
木戸の内側は小さな裏庭だった。母屋と蔵に囲まれた小さな庭だったが、丸い池のまわりを手入れの行き届いた庭木が囲み、季節の花々が植えられていた。
その中を蝶が飛んでいた。白、黄色、青紫、それに焦げ茶の紋様の羽根を持つ小さな蝶が、何匹も舞っていた。蝶は桃色や薄黄色や白い小さな花々の間をひらひらと飛び回っていた。
「きれいな庭だね」
「ありがとうございます。セロクトル様が蝶がお好きなもので、このように丹精しております」
男は如才なく答えたが、この庭が自慢というわけではなさそうだった。
裏庭が見える部屋に通された。四隅の柱は細く黒い。壁は渋い枯れ草色で焦げ茶色の腰板は顔が映るくらいに艶があった。小振りの黒い机と緑色の絹張りの椅子が置かれていた。部屋の隅に置かれている花の生けられた小さな青い壺は、アニャチから西の大海を渡ってきた物だろうか。硝子の入った窓からは、庭を舞い飛ぶ蝶たちが見えた。
扉が開き、灰色の髪の男が入ってきた。年の頃は五十を過ぎたあたりだろうか。小柄で少し腹が出ている。鼻筋が通り、目と眉はくっきりとし、口は優しげで小さい。若い頃は美男だったろう。だが今は、灰色の目の下が弛み、隈ができている。鼻から口の両端には深いしわが刻まれ、澱んだ表情をしていた。
「私がジェゴロクトルです。いきなりの御足労あいすみません。何分、忙しい生業でして」
サンジェリィ有数の織物商人としては、随分と丁寧な口の利きようだった。交易で栄えるこの大都で、一番力を持っているのは貴族でも役人でもなく、商人たちだ。名ばかりの貴族などよりはるかに裕福な暮らしをしている者も大勢いる。
「僕は仕事に行く途中に、お宅のあまり品のいいとは言いかねる御者に半ば強引に連れて来られた。それなりの理由がおありなのでしょうね」
ジェゴロクトルは、一瞬顔を強ばらせたが、すぐに柔和な笑みを取り戻して、言葉を続けた。
「これはこれは、ご不快な思いをさせたようで、申し訳ございません。キロマーは役に立つ男なのですが、何分いささか粗野でして」
「仕事柄、それも致し方ないでしょうね。それで、僕を呼び寄せた用件は？」
ジェゴロクトルは大きく頷き、これから本題に入りますよと仕草で知らせた。
「サンジェリィ随一の魔道探偵というお噂をお聞きしまして、是非ともお力をお借りしたく、お呼び立ていたしました」
「世辞はいらない。本題に入りましょう」
「はい。実は、我が息子をお救いくださいたく、お呼び立ていたしました。我が息子、セロクトルは何かこの世ならざるものに憑かれているようなのです」
「ほう」
「我が息子セロクトルは、幸いなことに商才にも恵まれ、ご婦人向けの新しい柄の織物や服で、我が〈ジェグーロ〉を一回り大きくしました。私も良い跡取りに恵まれたとうれしく思っておりますが、一旦店を離れますとデネン街の別邸にこもって出てこないことがございました」
ジェゴロクトルはそこで言葉を切ると、視線を窓の外に移した。視線の先を追ったが、裏庭では相変わらず色とりどりの蝶たちがひらひらと舞っているだけだった。
「息子は蝶道楽なのでございます」
ジェゴロクトルはそういって溜息をついた。落とした視線の先でも、卓布の上で薄紫の蝶が舞っていた。
「別邸の方で、蝶を芋虫から育てて羽化させ、その舞う様子を眺めるのが、何よりの楽しみなのです」
そういう趣味を持つ男たちがいるのは、私も知っていた。高じれば、蝶のために庭を作り温室を建て、サンジェリィにはいない異国の蝶を求めて、遠く南のナクシャッツにまで船を出すものもいると言う。
「息子は蝶の羽の柄を使った生地や服を売り出し、成功しました。今や〈ジェグーロ〉と言えば蝶の柄模様とまで言われております。商売の役に立つならと、私も息子の道楽を大目に見ておりました。それが、この一月ばかりは様子が違っているのです」
「と言うと」
「店に出てこないのです。蝶が羽化すると言って、一日二日店を空けることはこれまでもあったのですが、この一月、別邸にこもったままで、私が行っても青ざめた顔で、大事な蝶が羽化するところだから、店には行けないと追い返される始末です
「私は別邸で息子の世話をしている女中に話を聞きました。長く当家に仕えている信頼できる女です。女中の話はひどく恐ろしいものでした。それで、私は怪事件にかけては大都随一というスナブ・ランケン様にお願いしようと思い至ったのです」
ジェゴロクトルは黒い卓子の上で組んだ両手の親指をぎごちなく動かした。
「幽霊でも出ましたか」
男は唇を噛んで渋面を作り、うなずいた。
「その通りです。しかも蝶の幽霊が出るというのです」
三
デネン街はサンジェリィでも南西の外れの方に位置していた。豪商や貴族の屋敷が集まるアイトーネ街からはかなりの距離がある。大都の一角とは思えないほど辺りには木立も多く、イヌン川から枝分かれした小川も流れていた。
セロクトルの別邸は白い土塀に囲まれ、先の尖った背の高い格子の門扉で閉ざされていた。呼び鈴をしつこく鳴らしているとゼアート言うところの「土鬼みたいな顔をした男」が現れた。
男は当然のように私を追い返そうとしたが、ジェゴロクトル直筆の書状を見せると、渋々門の鍵を開けた。顎が四角く張り、唇からは糸切り歯が飛び出し、小さな目は吊り上がり、鼻は尖り、確かに悪鬼のような顔をした男だった。
「探偵か、ここに来ても何もないぞ。お坊ちゃまは大事な蝶々が孵るのを待っておられるだけだ。何もありはしないんだ」
土鬼−ガスレンと名乗った−は、ひどいしゃがれ声でそう主張した。
「シモーゴナという女中は違うことを言ってたんじゃないか。大旦那様は何かひどく恐ろしいことが起こっていると考えている。だから、僕を雇ったのさ。シモーゴナは今日は？」
ガスレンはくぐもった声で短い答えを返した。
「暇をいただいて、家に帰ったさ」
「首にされたということか」
土鬼は、小さな目でじろりと私を睨んだ。
「シモーゴナは、化け物がどうとか、幽霊がこうとか、つまらぬ戯け話ばかりするので、お優しいお坊ちゃまも、ついに堪忍しきれなかったんだ。あんな女に騒がれたんじゃ、お坊ちゃまのお心は波風たつばかりだ」
ガスレンはそう言って、手に触れた細長い草の葉をちぎって捨てた。
素晴らしく趣味のいい邸宅だった。緑に覆われた広い庭には、美しい花々が咲き乱れ、人工のものなのだろうか、小川が流れ、小さな池もあった。木立の向こうに見える屋敷は暗灰色の土壁に黒い柱を見せた渋好みで、所々に入る黄褐色の瓦が艶やかさを加えていた。
〈ジェグーロ〉の裏庭同様、洗練された美しい庭だったが、一つ違うことがあった。この別邸の庭には蝶の姿がなかった。蝶道楽のはずのセロクトルの別邸には、蝶は一匹も飛んでいなかった。
ふと見ると、幅広の緑の葉の上に芋虫がいた。葉に溶け込むような鮮やかな緑色に、黄色や黒、紫の斑模様が入り、所々に深紅の斑も飛んでいる。掌ほどある大きな芋虫で、ナクシャッツの密林ならいざ知らず、サンジェリィではあまりお目にかかれないものだった。
芋虫はゆっくりと動いて、口をもぞもぞとさせ、葉を食べているようだった。見ていると、その背中の斑模様が女の顔のように見えてきた。黄色い顔の中に落ち窪んだ紫の目が二つ並び、その下の赤い斑は歪んだ唇のように見える。黒い縞模様は長い髪のようだった。芋虫が動くと、その女の顔は表情を変える。苦悶のようにも嘲笑のようにも見えた。
「その虫に触ってはいけません。それは世にも稀なる蝶の仮初めの姿なのです」
中背の男が立っていた。灰色の艶のある仕立ての良い服を着ている。灰色の生地の中には、わずかに赤や緑、青の入った蝶の絵模様が織り込まれていた。鼻筋の通った整った顔立ちと灰色の目は父親譲りのようだが、頬のこけた顔はあまり壮健なようには見えない。三十位のはずだったが、もっと老けて見えた。目の下には隈ができ、憂鬱の気が顔に貼り付いていた。
「お坊ちゃま、こちらは……」
ガスレンの言葉を私は引き取った。
「スナブ・ランケンです。お父上の依頼でやってきました」
私はジェゴロクトルからの書状をセロクトルに見せた。蝶道楽の男は、無表情にそれを読むと私に返した。
「父もシモーゴナの話を真に受けているんですね。私はその蝶−ジュウファ蝶と言います−の羽化がどうしても見たいので、しばらくこもっているだけです。ただ、それだけなんです」
庭の見える客間らしき一室に通された。ゆったりとした革張りの長椅子に腰を下ろすと、そのまま埋もれて眠り込んでしまいそうだった。卓子には、飛び交う蝶の螺鈿細工が埋め込まれていた。灰色の壁には幾つもの額がかかり、色とりどりの蝶の標本が飾られていた。
セロクトルは自分でマシュウ茶を入れて、卓子の上に置いた。良い香りがした。
「アニャチから取り寄せた茶を少し混ぜたものです。香りが違うでしょう」
「フーキェン辺りのものですね」
私の答えにセロクトルは少し驚いた顔をした。
「ほう、良くご存じですね。世界中を旅して魔物妖物を退治なさったという噂は本当なのですね」
「世界を旅したというのは本当ですが、魔物退治をして歩いたわけじゃありません」
私たちは当たり障りのない異国の文物についての会話をしばらく交わした。セロクトルは、声に張りはなかったが、商人らしく如才なく会話を続けた。
「お聞きになっているとは思いますが、私は蝶道楽でしてね。珍しい蝶を求めて、あなたのように遠い異国を旅したいものだと、いつも夢見ているのですよ。いかんせん、〈ジェグーロ〉の跡取りなぞに生まれたおかげで、ままなりませんが、出入りの船乗りに頼んで、フラリディアやナクシャッツの蝶の卵や幼虫を手に入れてもらうこともあるのです」
「それでは、あの庭にいた芋虫も、どこか異国のものですか」
私の問いにセロクトルが答えるまで、わずかな間があった。静かな笑みが一瞬強ばり、すぐ元に戻った。
「ジュウファ蝶は遠くアニャチの都ハイナッシャグからの船で運ばれたものなのです。遠い異郷の蝶ゆえ、私にもいつ蛹となり蝶となるか、見極めができかねます。それで少しばかり店の方を留守にしているのです。店の方はハンテューダもいますし、父もいます。私が幾日か空けても、何も困ることはないのです」
〈ジェグーロ〉の若主人は声を立てずに笑った。自嘲的な乾いた笑いだった。
「そうですか。それでは、シモーゴナの言っていた、何かがこの屋敷に出る、あなたは何かに憑かれているというのは、事実ではないということですね」
セロクトルは静かに首を振って否定した。
「シモーゴナは長く我が家に勤めてくれていましたが、蝶や芋虫はどうも苦手のようでね。私が蝶の世話に血道を上げているのも、良く思ってはいませんでした。それで、父にご注進に及んだのでしょう。寄る年波で少し気の病の気があったようなので、暇を出しました。もちろん、これまでの働きに報いることはしたつもりです」
「シモーゴナの話によると、あなたは夜半に何かを見て、恐ろしい叫び声をあげたり、眠れぬ日々を過ごしているということですが」
「確かに夜はあまり良く眠れていませんね。ジュウファ蝶の様子が気になってね、夜中に声を上げたというのは、少しばかり道楽に身が入り過ぎて、気が昂ぶっていたからでしょう」
「シモーゴナ自身が怪異を見たという話はどうですか」
セロクトルは、目尻をぴくりと動かし、問い返した。
「シモーゴナが何を見たというのですか。私は知らない話です」
「そうでしたか。シモーゴナはこの屋敷で、蝶の幽霊を見たと言っているのです」
蝶道楽の男は、今度は声を上げて笑った。
「蝶の幽霊を見たと？ はて、それはいかに道楽者の私とて、お目にかかったことはありませんな。確かに標本のために薬液で殺めることはありますが、その何倍も育てて野に解き放っています。それほど、恨まれることはないと思いますがね」
セロクトルはもう一度芝居じみた虚ろな笑い声をあげた。
「それでは、ここには何も怪異なことなどないとおっしゃるのですね」
「そうです。父には何も心配はいらない。ジュウファ蝶の羽化を見届けたなら、すぐに店に出るからとお伝えください」
その台詞は、帰ってくれというセロクトルの意思表示だった。部屋の扉が開いてガスレンが無愛想な顔を出した。
「お帰りはこちらだ、探偵殿」
私は長椅子から立ち上がりながら、セロクトルに聞いてみた。
「マリファーラの舞いはどうでしたか」
私が踊り子の名を口にすると、途端にセロクトルもガスレンも身を強ばらせ、動きを止めたように思えた。一つ息を吐いてから、主が口を開いた。
「あの女をご存知なのですか」
「ああ、左岸の〈舞姫の園〉には何度か行ったことがあるんですよ。あの踊り子をこの屋敷に招いたことがあると、お父上が仰っていたものでね。確か、蝶の舞が得意な娘でしたよね」
セロクトルはひどく硬い声で、窓の外の庭を見ながら答えた。
「父が勝手に送り込んできたのです。私が蝶道楽ばかりで、女遊びも知らないからと。妻を娶って〈ジェグーロ〉の跡継ぎをはやく作れということです。無論、下賤の女の蝶の舞など、見るに堪えないものでした。約束の金は払って、早々に出ていってもらいましたよ」
ガスレンが無言で私を睨め付け、扉を大きく開いた。
「そうですか。マリファーラは、近頃〈舞姫の園〉には出てこないんですが、店を変えたとか何かご存知ありませんか」
ガスレンは私を刺すような目つきで睨んだが、若主人は抑えた声で答えた。
「さあ、わかりませんね。私はそうした方面には興味はないのです。父は若い頃散々放蕩したので、私にも少しはその味を覚えろ、と言いたいのでしょうが、私はそんな生活はご免ですからね。下賤の女の行く先など、知るわけはありません」
父親との確執と女性への忌避感がそんな物言いをさせているのかも知れないが、私はこの男が嫌いになってきた。
「なるほど、そうですか。それでは、自分で良く捜してみますよ。僕はあの娘の踊り、結構気に入ってたんでね」
私は二人の突き刺さるような視線を感じながら、部屋を出た。庭の小径を行くと後ろからガスレンがついてきた。
「もうこの屋敷には来るな。お坊ちゃまは、あの蝶のことで頭がいっぱいなのだ。うまく孵ってきれいな蝶になれば、またお店にも出て行くさ。そう、ジェゴロクトル様にお伝えするんだ」
「やれやれ、この家の主人は君かね。君がそう言ったということをジェゴロクトルに伝えようか」
「ジェゴロクトル様はとにかくお坊ちゃまのことをご案じなのだ。踊り子をここにやったのも、お坊ちゃまの行く末を案じてのことだ」
「そうかい。僕は〈ジェグーロ〉の跡継ぎをさっさと作っておきたいからかと思ったがね」
「無礼なことを言うな！ 左岸の踊り子風情に〈ジェグーロ〉の跡継ぎを産ませると思うか。ジェゴロクトル様は、マリファーラの蝶の舞いを見て、少しでもお坊ちゃまが生身の女に興味を抱いてくれはしないかとお思いになったのだ」
私はガスレンの話にあまり興味がないような振りをして、庭の葉叢の中にジュウファ蝶とかいう蝶の芋虫を探した。行きには一匹しか見かけなかった大振りの虫は、注意して見ると至る所にいた。あちらの葉、こちらの葉、茎の上、木の枝や幹にも、あの幼虫がいた。十匹、二十匹という数ではなかった。目を向ける庭木には、必ず数匹のあの芋虫が、女の顔のような斑のある体を蠢かしていた。
「いったい、アニャチからどれだけの芋虫を運んできたんだ。それとも卵から孵したのか」
私は葉叢の上の芋虫を数える手振りをして、土鬼に訊いてみた。
「お坊ちゃまは蝶を育てる達人なのだ。だから、こんなに増えたんだ」
そう答えるガスレンの嗄れ声は、いやに固く、鬼のような顔には恐怖といってもいいような表情が浮んでいた。
「そうかい、これが全部蝶になったら、さぞかし見事だろうね。また見に来るよ」
ガスレンは言葉にならない唸り声のような声で答えた。私の背を押すようにして、門の外に出すと閂に鍵をかけ、足早に屋敷の方に立ち去った。すぐにその方向から、叫び声が聞こえてきた。恐怖と狂気に彩られた男の悲鳴だった。セロクトルの声には違いなかったが、何を叫んでいるのかはわからなかった。
四
数日をかけて、念のため、左岸の踊りを売りにしている店や、ラクシャー街の娼館もあたってはみたが、マリファーラらしき女が入ったという話は、聞き出すことは出来なかった。そもそも、そんなことがあれば、とっくにゼアートの耳に入っていただろう。
ゼアートによれば、マリファーラに身寄りはなく、イヌン川沿いの安下宿で彼と半ば同棲していたという。セロクトルの別邸を出た後、行くところなどないはずだった。
ジェゴロクトルは、シモーゴナはここ数年は別邸に住み込みで、セロクトルの身の回りの世話をしていたと言っていた。三十年近く〈ジェグーロ〉で働いていて、身寄りといえば、遠くホーラヤスタンに妹夫婦がいるだけだという。ホーラヤスタンまで確かめに行っていては、一月はかかるだろう。
もう一軒だけレテューナ橋袂に気になる店が残っていたので、紅灯に灯が点る少し前、その店を訪れた。イヌン川の右岸に新しく開いた店で、左岸の店から何人かの踊り子を引き抜いたと、ちょっとした騒ぎになっていた。額に傷のある主を脅したり金をちらつかせながら話をしたが、何も収穫はなかった。
店を出る頃には、すっかり日は落ち、レテューナ橋の袂ではデリン灯が薄緑の光を放っていた。〈ジェグーロ〉に急ごうと、明かりもない路地に足を踏み入れると、誰かが私の肩をつかんだ。同時に首筋に冷たいものが押しつけられた。
「命が惜しかったら、嗅ぎ回るのは止めにしろ」
押し殺した作り声が耳元でそう言った。
「何の話かね。僕は夜の街を楽しんでいるだけさ」
「とぼけるな。〈ジェグーロ〉の若主人のまわりを嗅ぎ回ってるのは知ってるんだ」
男はさらに強く刃を首筋に押し付けた。
「そうかい、お勤めご苦労なことだね。あんたの主はどっちなんだい。いや、金が本当の主ってことか」
「ふざけるな！」
男の体に力が入るのがわかった。私は男が動くよりも一瞬はやく、頭突きを食らわせ、うめく男の腕から逃れた。ファバーン剣を抜いた。三千年前に海に沈んだ国の魔剣に刻まれた文字は、魔道の存在に呼応して燐光を放つ。だが、今、刀身の神秘文字は暗く沈んだままだった。
男は暗い色の外套を着て、鍔のある帽子を目深に被っていた。顔は見えなかった。男は手にした短剣を投げつけ、私が避ける間に腰刀を抜いた。家並の隙間から漏れるデリン灯の光を映して、刃が光った。
男は無言で斬りかかってきた。動きは素早く、暗闇で人を襲うのに慣れているのかもしれなかったが、斬り合いはそうでもないようだった。一太刀二太刀、刃をあわせ、ファバーン剣が左腕に傷を負わせると、踵を返して表通りへと逃げた。逃げるのは得意なようで、すぐに夜の雑踏の中へと姿を消した。
首筋がひりひりした。押しつけられた刃で、肌が浅く切られ、血が滲んでいた。
〈ジェグーロ〉はもう店仕舞いしており、表の大戸には鍵がかかり、飾り窓には鎧戸が降りていた。裏の旦那通りに回ると、丁度、頭の薄い男−ハンテューダという名の使用人頭なのだろう−が裏木戸の戸締まりをしているところだった。
「これは、ランケン様、どうなさいました」
ハンテューダは首筋から血をたらした私の姿に驚き、恐怖と嫌悪の入り交じった表情を浮かべた。
「夜分すまんが、ご主人はいるかね」
「はい、おりますよ。今、お話してまいります」
「それは良かった」
ハンテューダは「はい、はい」と意味のない相槌を打って、奥へ走っていった。すぐにこの前と同じ部屋へ通され、ジェゴロクトルが現れた。
「これは、ランケン殿、その怪我はどうなされました」
「大した事はありませんよ。仕事柄よくあることでね」
私は別邸での話をかいつまんで伝えた。ジェゴロクトルは、息子が悲鳴を上げたことよりも、女中の件が気になるようだった。
「シモーゴナに暇を出した？ 私に無断で？ あの子は本当にそんなことをしたのですか？ シモーゴナは当家で三十年も働いている信頼できる女です。安っぽい幽霊話などに惑わされるような頭の軽い女ではないのです。そのシモーゴナが必死で訴えてきたのですから、何かが起っているのは間違いないと思いました。だから、あなたを雇ったのです」
私の話に実りがないことにも不満のようだった。
「マリファーラという踊り子のことはご存知ですね」
ジェゴロクトルは一瞬虚を突かれたような表情になり、それからいささか不本意そうにうなずいた。私は別邸で聞いた話を確かめた。ジェゴロクトルはその通りだと言った。
「あの子が蝶にばかり夢中になっているのは、私どものせいなのです。私も妻も若い頃はさんざん放蕩を尽くしたものでね。あの子は私たちが互いの浮気のことでなじりあうのを幾度も見て育ちました。妻が家を出ていた時もあります。それで、あんな風になってしまったんです」
自責の念があるにはあるのだろうが、息子に女を押しつけるという解決方法が正解であるかは、疑問だった。
「マリファーラは左岸で踊り子になる前は、ラクシャー街の店にいたことがある。ここだけの話ですが、何度か遊んだことがある。心持ちは良い娘だし、蝶の舞いとやらが得意だ。息子には良い相手だと思ったのです。ランケン殿は、別邸での怪事にあの娘が絡んでいるというのですか」
おそらく彼は薄々そう思っているのだろう。だが、それを認めることはしたくないのだ。私はとりあえず曖昧な答えをしておいた。
「さて、まだ何もわかりませんね。マリファーラは別邸を出た後行方が知れません。シモーゴナもそうです」
「遊女の行く先など、誰にわかるものですか。シモーゴナはホーラヤステンに帰ったのではないのですか」
ジェゴロクトルは私の答えが不満だったらしい。不愉快そうな面持ちでそう言った。私は、息子同様、だんだんとこの男が嫌いになってきた。
「ところでこの首の傷なんですが、どうやら僕がこの仕事をすることを快く思わない御仁がいるらしいんですよ」
「何ですと」
ジェゴロクトルは驚きを隠さなかった。
「息子さんが怪事に悩まされるままにしておきたいのか、あるいは何か明かされてはならないことがあるのか」
「しかし、この件を知っているのは……」
「いや、今はそれ以上のことを御聞きするつもりはありませんよ。御当家ほどの御大尽なら、色々と御事情もあるでしょうからね」
ジェゴロクトルはううーんと唸ったきり、何も言わなくなってしまった。顔色がひどく悪くなり、額にはうっすらと脂汗が浮んだ。
私は〈ジェグーロ〉を辞去した。ハンテューダは主が見送りに出ないことをひどく申し訳なさそうに詫びた。
五
私にできることは、今一度セロクトルの別邸を訪ねることだけだった。だが、まともに行っても、その後の芋虫の育ち具合について聞かされるのが関の山だろう。
訪問は深夜にひっそりと行うのが得策のように思えた。幸いにも、セロクトルの別宅の塀はそう堅固なものではなかった。
デネン街辺りは、深夜の人通りなどないに等しい。私は鉤繩を使って、易々と塀を乗り越えることが出来た。前回の訪問で、庭の見取り図は頭に入っていた。庭木の混みあった築山の頂辺りに、立ち降りた。集く虫の音の他に物音はなかった。
木立の向こうの屋敷には灯が点っていた。宵っ張りで芋虫を調べているのだろうか。だが、明かりは屋敷の中からだけではなかった。
庭全体が奇怪な燐光に包まれていた。淡い黄緑色の無数の小さな光があった。蛍かと思ったが、飛ぶ様子はなかった。無数の小さな明かりがもぞもぞと蠢いていた。
近くの光に顔を寄せてみた。庭木の葉の上で燐光を放っているのは、あの芋虫だった。アニャチから取り寄せたジュウファ蝶とかいう蝶の幼虫の背の紋様が、暗闇で怪しい光を放っているのだった。
無数の恨みがましい女の小さな顔が、庭中で無言で蠢きあい、光っている。奇怪至極なおぞましい光景だった。
ファバーン剣を半ば抜いてみると、刀身の神秘文字が緑の輝きを放っていた。芋虫の怪光よりはだいぶ青みのある色合いだが、似通った緑の光に私は暗闇の中で苦笑した。
屋敷の方から、異様な叫び声が聞こえてきた。私は声のする方へ足を進めた。悲鳴が続いたかと思うと、引きつった笑い声が響く。時折、声は静まるが、すぐにまた狂気染みたわめき声が聞こえてくる。庭を埋め尽くすような黄緑の燐光は、その声にあわせるかのように明滅を繰り返した。魔剣のファバーン文字もまた、悲鳴にあわせるかのように明滅した。
屋敷の窓には鎧戸は閉まっておらず、硝子戸越しに中を窺うことができた。声は最前私が訪れた客間の奥にある部屋から聞こえていた。
その部屋はセロクトルの自室なのだろうか。部屋の中は蝶だらけだった。壁一面に額入りの蝶の標本が掛けられ、わずかに見えている壁面には蝶柄の壁紙が貼られていた。ティリーあたりのものだろうか、大きな蝶の形の凧が天井から下がっていた。豪華な吊り燭台も金銀細工の蝶の形だった。
その部屋に凄まじい形相のセロクトルがいた。鉛色の顔に玉の汗を浮べ、血走った目を大きく見開き、何かを見つめていた。震える唇ががくがくと動き、何かをわめいていた。最初はよく聞き取れなかったが、狂気の叫びというだけではなく、意味を持った言葉になっていた。
「……もうすぐだ。もうすぐお前は蝶になるのだ。美しい蝶だ。本物の蝶だぞ。優雅で、この上なく美しい、天上の生き物だ。うれしいだろう！ うれしいだろう！」
セロクトルは引きつった異様な笑い声をあげたが、その顔はとても笑っているようには見えなかった。彼の視線の先には、私には何も見えなかった。
奥の扉が勢いよく開いた。私は窓の下に顔を隠した。土鬼の声がした。
「お坊ちゃま、しっかりなさいませ！ この部屋にはお坊ちゃまとガスレン以外、誰もいませんぞ！ お坊ちゃま、お気を確かに！ あの女はいません！ ここには誰もいません！」
そろりと窓越しに覗くと、ガスレンは若主人の肩を揺さぶり、何とか正気に戻そうとしていた。セロクトルはまだ虚空を見つめ、叫び声と笑い声を交互にあげていた。
「マリファーラ！ お前は本当の蝶になるのだ！ この世で最も美しい生き物だ！ もう、無様な衣装など身に着けなくてすむ。天鵞絨よりも柔らかく、絹よりも優しい、天然の羽がお前を包む。マリファーラ、お前は蝶になるのだ！」
蝶道楽の男は口から泡を吹きながら、そうわめきたてた。ガスレンは一旦主人の体を放すと、戸棚から焦げ茶色の小さな瓶を取った。長椅子に身を沈めてげらげらと笑う男の口に、小瓶を押しつけた。
セロクトルは口中に流れ込んだ液体にむせたが、すぐに静かになり長椅子に横たわり動かなくなった。ガスレンは恐ろしげな顔を苦悶に歪め、長椅子の上の主を見おろした。吊り上がった目から涙が流れ落ちた。
「お坊ちゃま……。こんな、こんなことになるとは……」
土鬼は肩を震わせて啜り泣いた。ぐったりとした主人に毛布を−ここにも薄紫の蝶が飛んでいた−掛けると、吊り燭台の灯を落とし、静かに部屋を出ていった。後には闇と静寂が残るだけのはずだった。
闇に包まれた部屋の中に、動くものが見えたような気がした。微かな光を放つものが暗い宙をひらひらと舞っていた。ぼんやりと青や赤、緑、黄色など様々に色合いを変えながら飛ぶそれは、蝶のように見えた。シモーゴナという女中が見たのはこれだったのだろうか。
光るものはそっとセロクトルの上に舞い降りた。するとその光は蕩けるように横たわる男の上に広がり、大きな一つの蝶の姿になった。虹色の燐光を放つ大きな羽がセロクトルを覆うように身を重ねた。
その羽の下から女の腕が見えた。虹色の羽の下から白い女の細い腕がのびて、男を抱きすくめていた。
薬で眠っている男は、身じろぎもしなかった。だが、ファバーン剣からは先刻よりもはっきりと痺れるような感覚が伝わり、刀身の神秘文字はくっきりと緑色に浮かび上がっていた。
動かないセロクトルの心中で、ひどく恐ろしいことが起っているのは間違いなかった。
六
別邸の塀を乗り越えて、暗い路地に出ると私を待っている者があった。微かな月明かりの中に、鍔広の帽子を被った男の姿も認められたが、今度は奴は一人ではなかった。他に三人の黒い影があった。
「おい、犬みたいに嗅ぎ回るのはやめろと言ったはずだ」
帽子の男がまた作り声で言った。
「仕方ないね、商売だからね。まあ、あんたも商売だろうからね。汚れ仕事に二人雇うにはそれなりの金が入り用だろう。誰の金だい。御者や下男がそんなに金を動かせるとは思えないがね」
「勝手にほざいてろ！」
帽子の男は一言吐き捨てると、三人の後ろに引っ込んだ。今晩は雇い人の側に回るつもりらしい。代わって三人の男たちが剣を手に前に出てきた。黒っぽい頭巾で顔を隠しているが、暗殺士にしてはあまりに隙だらけの構えだった。トリプロ街辺りで、ちょいと腕自慢のやくざ者か兵士崩れを集めてきたのだろう。
三人がさらに一歩間合いを詰めた。私はゆっくりとファバーン剣を抜いた。別邸での怪異のせいで、まだ刀身の神秘文字が緑色の光を放っていた。
「近頃は僕の名前も少しは売れているそうじゃないか。魔道探偵スナブ・ランケンという名を聞いたことはあるかい。この剣は精気を吸う魔剣だ。呪文が光ってるのが見えるだろう。この剣で斬られると擦り傷でも、一滴残らず生命と魂を吸い取られて木乃伊のように干涸びることになるが、覚悟はいいかね」
私のはったりは存外効いた。三人は斬りかかるのをためらい、一瞬動きを止めた。私は魔剣を振るう代わりに、塀を越えるのに使った縄を投げつけた。
先頭の男が蛙のような声を出して、前へ倒れた。縄が首に巻き付き、先端の鉤爪が喉に突き刺さったのだ。縛術はさして得意なわけではないが、イリスボーナの盗賊組合との付き合いも無駄ではなかったようだ。
残った二人は虚を突かれて、さらに動きが硬くなった。私は二度、三度、ファバーン剣を振るった。生暖かい血飛沫が降りかかり、二人の男は、路上に倒れ伏した。ハンテューダに言えば、掛かりとして新しい外套を仕立ててくれるのだろうか。だが、蝶柄は御免被りたかった。
「確かキロマーという名前だったな、御者君」
帽子の男は逃げようとしたが、私は手裏剣を投げつけた。ふくら脛に刃が突き刺さり、奴はうめいて倒れた。私はファバーン剣の切っ先で帽子を払い、喉元に刃を突きつけた。
「この茶番劇を仕組んでいるのは誰だ？ 若旦那はこんな物騒なことは考えないだろう。ガスレンや貴様に金があるとも思えん。まさかジェゴロクトルが自分で仕組んでいるわけじゃあるまい」
「知るか！ くそ！」
御者は外套の中から剣を引っ張り出そうと試みたが、私は奴の二の腕に剣を突き刺した。短い悲鳴が喉から漏れた。
「本業は御者だろう。腕がなくなったら、仕事にあぶれるぜ」
突き刺した剣先をひねると、今度は少し長い悲鳴があがった。
「わかった、わかったから、その剣を抜いてくれ！」
「まず、しゃべってからだね。腕がなくなる前に全身干涸びるかも知れないな」
「畜生め！ ハンテューダだ！ ハンテューダが仕組んでるんだ！ 俺は金のためにやっただけだ！」
痛みに耐えかねたのか、はったりを信じたのかはわからない。
「ハンテューダ、ふうーん。僕がセロクトルの一件を調べるのが、どうしてハンテューダには都合が悪いんだい」
「ハンテューダは〈ジェグーロ〉の身代を継ぐつもりなんだ。若旦那が幽霊に取り憑かれて死ぬか、気が触れれば、跡取りは他にいねえ。ハンテューダは自分が継げると思ってるんだ」
「やれやれ、なんて陳腐な話なんだ。ガスレンは仲間か？」
自分の台詞もひどく陳腐なものに聞こえた。
「奴は関係ない」
「じゃあ、何で奴は僕が別宅に行くのを歓迎してくれないんだ」
「そんなこと知るか！ だが、奴は何か隠してるんだ。あの家に人を入れたがらねえわけがあるんだ！」
それ以上の収穫はなさそうだった。私が剣を抜くと、御者は足を引きずりながら逃げ去った。
七
扉を叩く音で目が覚めた。何か奇怪な夢を見ていたような気がしたが、うまく思い出せなかった。黄色、黒、赤、青、緑、様々な色合いの縞模様や斑模様が瞼の裏にぼんやりと残っているようだった。目を閉じると、その色模様がゆるゆると蠢き、何かの形をなそうとしていた。
また、扉を叩く音がして、私は目を開いた。鎧戸の隙間からは鈍い陽の光が差していた。
軋む寝床から出て、客間兼仕事部屋を通り、扉を開けるとゼアートが立っていた。劇作家志望の青年は、青ざめた顔をしていた。元より痩身だったが、頬がこけて目が落ち窪んで見えた。
「ランケン、蝶が、蝶が僕を呼んでいるんだ。マリファーラの身に何かが起ったんだ。蝶が呼んでるんだ……」
ゼアートはその場に倒れそうになった。私は彼の痩せた体を支えて、客用の長椅子に運び込んだ。机の引き出しからディコンの瓶を取り出し、小さな酒杯に注いで色の悪い唇に押しつけた。
「少し飲んだ方がいい。それから話を聞こう」
痩身の青年は、杯のディコンを一口飲んで咳き込み、落ち着くと残りを飲み干した。
「蝶だ、蝶が僕を呼んでるんだよ」
口調は落ち着いてきたが、ゼアートは最初の台詞をもう一度繰り返した。
「〈舞姫の園〉の楽屋に蝶の群れでも現れたのかい」
「いや、そうじゃない。夢だ、夢の中なんだ。ここ何日も続けて蝶の夢を見るんだ。その夢の中で……」
「わかった。じっくり話を聞くことにしよう」
私は自分用にもう一つ杯を用意すると、それぞれの杯に琥珀色の酒を注いだ。
「どんな夢を見たんだ。マリファーラが現れたのかい」
「そうじゃない、いや、そうかもしれない。そうだ、あれはマリファーラに違いないんだ。夢の中に蝶が現れる。見たこともない美しい蝶が何匹も何匹も現れて、乱舞するんだ。なんてきれいなんだと見とれていると、だんだんにその蝶の羽の模様に見覚えがある気がしてくる。それはマリファーラが蝶の舞いの時に身に付けていた羽の模様なんだ。たくさんいた蝶は、いつの間にか一匹になっている。ひらひらと目の前を飛んで、羽から光る粉を撒き散らすんだ。金色に光るきれいな粉だ。ところがその粉がだんだんと色が変わっていく。金色だったのが、赤くなっていくんだ。真っ赤な粉が蝶の羽からどんどん撒き散らされていく。それは、それは、血飛沫なんだ。血飛沫を撒き散らしながら蝶は飛んでいるんだ。血飛沫は僕に振りかかってくる。血腥い臭いまでする。血飛沫が霧のようになり目の前が真っ赤になる。その真紅の霧の中を蝶が飛んでいるんだ……」
そこまで語ると、ゼアートの声は金切り声になった。
「ランケン、マリファーラは死んだのか！ あの別邸で何が起ったんだ！ ああ、僕のマリファーラは！ マリファーラ！ マリファーラ！」
青年は頭をかきむしり、長椅子の上に倒れ込んで、身をよじり啜り泣いた。
何も心配はないと言ってやりたかったが、できなかった。もう一杯無理にディコンを飲ませ、酒に弱いゼアートがぐったりするのを待って、私は〈ジェグーロ〉に向かった。そろそろ、決着をつけなければならなかった。
旦那通りの裏木戸から〈ジェグーロ〉に入ったが、案内してくれたのは見慣れぬ顔の若い男だった。使用人頭はどうしたかと尋ねると、少し困ったような顔をして、今日は体の具合が悪いと答えた。
ジェゴロクトルは目の下に隈をつくり、憔悴した様子だった。
「ハンテューダが店に出てこないんですよ。この前のお話を聞いて、まさかと思いながら、使いの者を家にやるともぬけの殻でした……」
私がうなずくとジェゴロクトルは肩を落とし、深い溜息をついた。
「二十年来、私の片腕と思ってやってきたんですよ。フランジースコに出店を出して任せようかと思っていたのに……」
いささか気の毒ではあったが、私はもう一人の裏切り者についても話した。
「昨晩、あなたのところの御者が与太者を雇って襲ってきました。斬り伏せて、問い詰めるとハンテューダの名前が出てきました」
私はセロクトルの柔弱に乗じようとした使用人頭の企みを話した。
「それでは、この幽霊騒ぎはハンテューダが仕組んだことなのですか。息子を心労でどうにかしてしまおうという作り事なのですか」
ジェゴロクトルは灰色の顔を赤くして呻いた。
「いや、違いますね。あの屋敷には何かがあるのは間違いない。息子さんをひどく悩ませる何かがね。ハンテューダはそれに便乗しただけでしょう」
「しかし、何かっていうのはいったい何なのですか。息子は本当に亡霊に取り憑かれているのですか。それに……あの女なのですか。あの踊り子が息子に取り憑いているんですか」
ジェゴロクトルは苛立って大きな声でまくし立てた。
「それをこれからはっきりさせようと思います。あの屋敷の間取りを詳しく教えてください。もし、親鍵があれば、貸してください」
ジェゴロクトルはどっと息を吐くと、力を無くして椅子に座り込んだ。使用人を呼ぶと、丁寧に畳まれた図面と真鍮製の大振りの鍵を持ってこさせた。
「これが別邸の図面です。元々は私が使うために建てたものです」
私は図面を広げてみた。隠し部屋のようなものがあったが、ジェゴロクトルは内密の商談のためのものだと言った。秘密の逢瀬のための部屋なのかも知れないが、尋ねるのは止めにしておいた。地下室もあった。葡萄酒などを貯蔵するために作ったとジェゴロクトルは言った。
「どの部屋もこの鍵で開くのですね」
「ああ、そうだ。好きに開けて調べてくれ。私は息子を救いたいのだ。真っ当な男になって、この〈ジェグーロ〉を継いで欲しいのだ」
ジェゴロクトルは図面と鍵を力なく私に差し出した。真っ当な男とはどんな男なのか、訊いてみたかったが止めておいた。
ジェゴロクトルが望むような結末が待っているとは、到底思えなかったが、私は図面と鍵を受け取り、デネン街の別邸へと向かった。御者はいなかったので、馬丁から馬を借りた。雲はだんだんと厚くなり、街は昼過ぎだというのに妙に薄暗かった。
八
別邸の門には錠前が降りていたが、親鍵を差し込んで少しいじると開けることができた。門をくぐる時から、ファバーン剣に触れなくても、何かが起きていることがわかった。鳥肌の立つような嫌な感じ、ちりちりと首筋の毛がさかだつような嫌な感じがした。庭を屋敷の方に歩いていくと、嫌な感覚は一歩ごとに強まっていくようだった。剣を抜くと、刀身の神秘文字は揺らめくような緑色の輝きを発していた。
庭木に蠢いていた燐光を発する芋虫は姿を消していた。無数に蠢いていたものが姿を消したことで、庭は気味の悪い静けさに包まれているようだった。
空はひどく暗い鉛色だった。暗鬱な雲の波から一陣の風が吹いて、葉叢をざわざわと揺らした。奇怪な芋虫がどこに行ったのかがわかった。庭木の葉の裏側には、蛹の姿があった。無数の芋虫は蛹となって葉裏に姿を隠していたのだ。
間近の一匹に顔を寄せてその姿をよく見てみた。何とも異様な姿形の蛹だった。色は芋虫から緑色が抜けて、薄黄色に赤や黒、青の紋様が描かれていた。ふっくらとした体は中ほどで括れて曲がり、葉裏に糸で身を下げた様子は、まるで縛られた女が吊り下げられているかのようだった。体の斑紋は、責められた女が痣を作り血を流しているかのように見えた。
私がそっと葉に触れると、蛹は敏感にそれを感じ取ったかのように、幽かに身をくねらせたように見えた。それは苦悶に身を捩る女の姿のようだった。
一匹が身を捩ると、その動きが波のように伝わった。隣の葉から隣の木へ、ゆるゆるとした動きが伝播して、庭全体が喘ぐ女のような淫靡な動きを見せた。どこからか女の悶える声が聞こえてきたようだった。
頭を振って目を擦ると、その奇怪な動きは消えた。蛹は葉の裏に何の動きも見せずに静かにぶら下がっていた。私が今見たものは、この屋敷を覆う妖気がもたらす幻影だったのだろうか。
私は思わずファバーン剣を蛹に近づけた。太古に失われた国の神秘文字は緑色の妖しい光を放った。すると、葉裏にひそむ奇怪な蛹は、ぼうっとした黄緑色の燐光を発した。まるで魔剣の力に応えるかのように、蛹は不可思議な光を発した。
その光は庭中に広がっていった。幻ではなかった。庭中に蛍のような薄い黄緑色の小さな光が広がり、幽かな淫靡な蠢きも広がっていった。
「何をしている！」
ガスレンが鬼のような形相でこちらを睨みつけていた。小さな吊り上がった目は血走って、両の手は見えない何かを握りつぶすかのように震えていた。
「やあ、随分と虫たちも育ったようだね。この分だともうじき蝶になるのかい」
「誰の許しを得てここに入った！ 貴様……」
私は鈍く金色に光る親鍵をガスレンの目の前に差し出した。
「ジェゴロクトルからこれを預かっている。この屋敷の中は、どこであろうと出入り自由だ。とっくりと調べてくれという話だ」
ガスレンは色の悪い唇を噛み、鍵を睨んで歯軋りした。
「若旦那は元気かい」
「お坊ちゃまは、今、この蝶の羽化を迎えて気持ちが昂ぶっているところだ。貴様が余計な口出しをする場合ではない！」
土鬼は行く手を遮るように、私の前に腕組みして立った。
「お忙しいところだろうが、僕としては会って話がしたいね。この奇っ怪な蝶について、姿を消した女中について、それからマリファーラという踊り子の話も是非聞きたいのさ」
ガスレンはますます険しい顔つきになり、大蜘蛛のような手を体の後ろに回した。
「止めておいた方がいい。君が只の庭師だとも思えないし、セロクトルのことを真剣に思っていることはわかる。でも、僕は玄人なんだ。刃傷沙汰は嫌いだが、人殺しはうんざりするほどしてきた」
ガスレンは背に回した手をゆっくりと動かし、大振りの短剣が姿を現した。
「駄目だ。お坊ちゃまは今お忙しいんだ。貴様に邪魔をさせるわけにはいかないんだ」
忠実な下男の目には、固い意志の光が宿っていた。無意味に人の命を奪う、虚しい光だった。私はこの男を殺したくなかった。愚かしい殺人だ。他にもっと殺すべき人間はいるのだ。もっとも、殺すべき人間を全て殺していたら、この世の人間の九割は殺さなくてはならないかもしれない。希代の殺人鬼になるのが落ちだろう。
ガスレンは短剣を手ににじり寄った。背後の屋敷から叫び声が聞こえてきた。セロクトルの声だ。
土鬼は主の悲鳴に気を取られた。私は彼の手を打ち、短剣を奪い取ろうとした。
その時、異変は庭でも起った。庭全体がざわめいた。風もないのに葉叢が揺れ、その影から無数の薄黄緑の小さな光が漏れ出した。豆の皮でも剥けるかのような、小さな音が庭中から聞こえてきた。ジュウファ蝶の羽化が始まったのだ。
縛られた女のような奇怪な蛹は身を捩り、赤や黒の紋様の入った背に一筋の裂け目が入ったかと思うと、薄黄色の半ば透き通った皮の中から、濡れそぼった羽が現れた。黄色に黒、赤、濃紺の色が見えた。
羽化は庭中で一斉に起っていた。何百、いや何千といるのだろうか、あちらの葉影でもこちらの葉影でも、蛹の背が割れ、鮮やかな色合いの濡れた羽根がぬるりと姿を現していた。
再び屋敷の方から恐ろしい叫び声が聞こえてきた。声は「マリファーラ、マリファーラ」と踊り子の名を呼んでいるように聞こえた。
「お坊ちゃま！」
ガスレンが背後に気を取られた瞬間に、私は奴の刃物を打ち、叩き落とそうとした。だが奴は既のところで私の剣を避け、素早く飛び退った。
「そう簡単にここを通すわけにはいかないんだ」
ガスレンは糸切り歯をむき出しにして、恐ろしげな表情を作り、一声叫ぶと飛びかかってきた。逆手に持った短剣を右に左に振り回す。動きは素早く、油断ならない相手だった。
ファバーン剣と土鬼の刃がぶつかり合い、火花を散らした。巧みに踏み込んで、懐に切っ先を突き入れてくる。私は腰を引いて避けて体勢を崩した。短剣が肩口に振り降ろされる。身を捩ってかわすと、返す刀で奴の腕に斬りつけた。
ぎゃっという悲鳴をあげて、ガスレンは剣を取り落とした。右腕からは鮮血が噴き出している。私は奴の剣を蹴り飛ばし、緑の光を放つ刃を喉頚に突きつけた。
「ここら辺にしておこうじゃないか。さもないとセロクトルを世話する人間がいなくなってしまうからね」
ガスレンは血を滴らせる右腕を左手で押さえ、文字通り鬼のような顔で呻いた。
「貴様……」
その時、庭を包む奇怪な騒めきがひときわ大きくなった。庭中の葉叢で羽化した蝶が羽を広げていた。黄色に赤、黒、濃紺で描かれた奇怪な紋様が、花が開くように庭中に広がっていた。
ジュウファ蝶の広げた羽根の紋様は、悶え苦しみ血の涙を流す女の顔のように見えた。何百何千という女の苦悶の顔が、別邸の庭中に現出していた。蝶たちがゆっくりと羽根を動かす度に、女たちの顔は歪み、蠢き、悲しげな表情を変えた。
どこからか女の啜り泣きが聞こえてくるような気がした。それが本当に耳に届いている泣き声なのか、私の頭の中に届いている声なのか、判別はできなかった。
また、セロクトルの叫び声が聞こえてきた。その声に応えるかのように蝶たちの羽ばたきが激しくなった。ぱたぱた、さわさわという無数の小さな音が渦巻き、大きなうねりのようになった。
蝶たちが一斉に飛び立った。何百何千という極彩色の羽根が視界を覆った。ちらちらと光る金色の粉は、蝶たちの羽根から散り落ちているようだった。
無数のジュウファ蝶は庭の上に舞い立つと群を成してぐるぐると宙を舞った。黄と赤と濃紺と黒の変幻自在な絵模様が、宙を流れ、沸き立ち、円舞を踊った。
私もガスレンも、しばしその舞いに目を奪われ、立ち尽くした。その時、またしてもセロクトルの声が聞こえた。
蝶たちが動いた。群れは川の流れのように屋敷の方へ向かった。色鮮やかな急流が宙を流れていく。
ガスレンが傷ついた腕を押さえながら、蝶たちの後を追った。私もその後を追い、屋敷へと走った。蝶たちが顔の脇をかすめるように飛んでいった。羽根から落ちる金色の粉が肌に触れると、ひりひりとした痛みが走った。ジュウファ蝶は毒蝶なのかもしれない。
蝶たちと土鬼と私は、競うように屋敷へと向かった。ガスレンもまとわりつく蝶たちに苦しんでいるようだった。別邸の玄関は扉が開いていた。ディコラート風の瀟洒な玄関へ、色彩の洪水が飛び込んでいった。
蝶たちはしばし玄関の間を乱舞したが、見えない何かに導かれるように屋敷の奥へと向かい始めた。セロクトルの悲鳴もそちらから聞こえてきた。私もガスレンも、群れ飛ぶ蝶たちを追った。
蝶たちが向かっているのは私が通された客間でもなく、その奥の若主人の部屋でもなかった。薄暗い廊下の奥へと群れは飛んでいった。廊下の突き当たりには、床の上にはね上げ式の扉があり、それが開いていた。その四角い黒い穴の中から、セロクトルの声が聞こえてきた。
悲鳴とも呻き声ともつかぬ奇怪な声は、行方知れずの踊り子の名前を呼んでいるようだった。
「お坊ちゃま！ 今、参ります！」
ガスレンはもはや私のことなど眼中になく、地下室への暗い戸口に飛び込んだ。私もすぐ後を追った。
床の上の戸口の中は急な階段になっていた。ガスレンの背中の向こうには洋灯の明かりが見えた。階段を十数段降りるとそこは煉瓦造りの地下室だった。酒蔵として作られたものなのだろう。壁際の棚には葡萄酒らしき酒の瓶が並び、酒樽もあった。だが、薄暗い明かりで見た限りでは、今の主の熱意が注がれているようには見えなかった。
部屋は二十イート（約六メートル）四方程の広さで、壁は煉瓦、床は土のままだった。床の上には壊れた棚、割れた酒壜、はがれ落ちた漆喰の欠けらなどが散乱していた。洋灯が一つ置かれて、黄色い光を放っている。
その床の上に座り込んでいる男がいた。セロクトルだった。こちらに背を向け膝をつき、向かい側の壁に頭を向けていた。
無数のジュウファ蝶がそのまわりを群れ飛んでいた。蝶たちの羽根の紋様は、薄暗い地下室で妖しい燐光を放ち、小さな光の斑模様が部屋中を舞っていた。
「お坊ちゃま！」
ガスレンが若主人の肩をつかんで揺さぶったが、セロクトルは邪険にその手をはねのけた。
「もうすぐだ。もうじき羽化する。もうじき生まれ変わるんだ！ マリファーラ！ おお、お前は美しい蝶に、蝶になるんだ！」
セロクトルは目の前の煉瓦の壁に手を差し伸べて、声を震わせた。私は床の洋灯を手に取り、壁に近づけた。煉瓦自体は古いものだが、漆喰はまだ新しいように見えた。一度壁を崩して、もう一度積み直したのだろうか。壁には胡粉でアニャチの文字によく似た象形文字が幾つも書きつけられていた。
煉瓦の壁の真ん中辺りに、一ヶ所、煉瓦が抜けてぽっかりと穴が開いているところがあった。その四角い穴の中から、黄緑色の光が漏れ出していた。群れ飛ぶジュウファ蝶は、その穴を中心にして奇怪な円舞を舞っているようにも見えた。
穴の中に目を凝らしたが、ゆっくりと脈動する燐光以外、何も見てとることはできなかった。ファバーン剣の神秘文字は緑光を放ち、掌には痺れるような感覚が伝わってきた。
私は床の上に転がっていた鉄梃を拾い上げ、壁の穴から煉瓦を崩し始めた。
「止めろ！ 何をする！」
後ろからセロクトルが飛びかかってきた。思わぬ力で羽交い締めにされる。
「ここに何を埋めた！ いや、誰を埋めた！ 踊り子か！ それとも侍女か！」
「止めろ！ 今、羽化するんだ！ 新しい姿で甦るんだ！ 大事な時なんだ！」
私とセロクトルは噛み合わない言葉を叫びながら、もみ合った。必死の男の力は存外に強く、壁を壊すどころではなくなった。私は鉄梃を手放し、何とかセロクトルを振りほどこうとした。肘打ちを食らわそうとしたが、激しく動き回る相手に、うまく当てることができなかった。後ろ向きにすねを蹴り飛ばそうとしたが、床の上のがらくたに足を取られた。
ひどい痛みが腹を襲う前に、鉄梃を手にした土鬼の恐ろしげな顔が一瞬見えた。もう一度ひどい痛みがあって、すうっと気が遠くなった。
九
目が覚めると後ろ手に縛られて、床に転がされていた。ぼんやりとした視界がはっきりする。蝶の群れが舞い飛び、壁の穴からは黄緑色の怪光が揺らめきながら漏れ出していた。気を失っていたのは、大した時間ではなかったのだろう。
セロクトルは壁の前に座って、ゆらゆらと肩を揺らしていた。呪文のような呟き声が聞こえたが、何を言っているのかはわからなかった。
すぐ側にガスレンが座っていた。手にはまだ鉄梃を持っている。
「生まれるとな、生き餌が要るかもしれないそうだ。おあつらえ向きだな、お前さんは」
土鬼は醜怪な顔を歪めて嫌な笑いを見せたが、若主人の声が高まるとすぐそちらを向いた。
「おお、おお、わかるぞ。感じる。マリファーラ、感じるぞ。お前が新しい命を得るのが！」
奥の壁全体が淡い黄緑色の燐光を発していた。蝶たちはますます激しく地下室の中を飛び回り、折り重なる羽音は女の囁き声のようになって谺した。
視線を壁からそらすことはできなかったが、私は手足を動かして縄の具合を確かめた。急いだせいかぞんざいな縛り方で、何とか抜け出せそうに思えた。
「マリファーラ！ マリファーラ！ 今こそ誕生の時だ！」
セロクトルは狂気じみた叫び声をあげ、ガストルも壁の変異に目を奪われていた。私は必死で手首を動かした。少しだけ手応えがあったが、眼前で起きようとしている変異に間に合うかどうかはわからなかった。
黄緑色の光は、穴の開いたところから漆喰の線に沿って広がっていった。奇妙な光る格子模様が塀に現れた。壁の向こうからは何かが蠢く音、固い何かが壁を引っ掻いているような音が聞こえた。
「マリファーラ！ マリファーラ！」
セロクトルが叫ぶと、壁の向こう側の音がひときわ高まったように思えた。壁の煉瓦がわずかに動いて、はがれた漆喰の粉が落ちた。
突然、壁の真ん中が膨らんだかと思うと、一気に煉瓦の壁は崩れ落ちた。黄緑色の鮮やかな光が溢れ出した。セロクトルは言葉にならない歓喜の声を上げた。
黄緑の光の中に、何かが蠢いていた。人間ほどの大きさのある中ほどがくびれた紡錘形のもの。光の中に黄色と黒と赤、藍の模様が見て取れた。それは巨大なジュウファ蝶の蛹だった。
蛹は羽化の途中だった。だがそれは尋常な蝶の羽化とは明らかに異なっていた。背中ではなくて腹の方から割れているのだろうか、こちらに向けて壁を崩したものが突きだし、動いていた。
それは、巨大な虫の脚とも人間の腕ともつかない代物だった。煉瓦を引っ掻き、壁を崩した先端部は、黒光りする鉤爪のついた虫の脚先だった。だが、黒い固い肌は先端から離れると次第に白く柔かなものとなっていき、女の細腕へと変化していた。
腕は四本あった。四本の虫の脚とも女の腕ともつかないものが、巨大な蛹から皮を破って突き出し、蠢いていた。
腕の生えている上部には、薄い被膜に包まれて女の顔らしきものが見えた。顔と四本の腕は、奇妙な艶めかしさで蠢き、ひざまずくセロクトルを差し招いているかのようだった。
「マリファーラ、マリファーラ、そうか、苦しいのか、おお、僕が手伝ってあげよう！ お前の生まれ変わりを！」
セロクトルはふらふらと立ち上がり、壁の中の奇怪なものに近づこうとした。
「お坊ちゃま、駄目だ！ そいつは化け物です！ 触ってはいけません！」
ガスレンが嗄れ声で叫び、若主人に後ろから取り付いた。
「何をする、ガスレン！ 私は、私は……」
「駄目だ、お坊ちゃま！ そいつに触っちゃ駄目だ！ やっぱりこんなことは間違ってる！ 私がお止めすればよかったんだ！」
主従二人は怪物が生まれようとしている壁の前で激しくもみ合った。私は手首を遠慮なく動かして、もう少しで解けそうな結び目と格闘した。
その間にも、壁の中のものは奇怪な動きを止めようとはしなかった。頭を包んでいる薄い被膜に裂け目が入った。中のものが頭を強く前に突き出すと裂け目は広がり、中から黄緑色に光る粘つくものが滴り落ちた。
現れた“顔”は極めて奇怪なものだった。それは確かに女の顔に良く似ていた。細面で小作りな造作は、マリファーラそのままかもしれない。だが、鳶色の瞳があるべきところには、無数の小さな宝石が集まったような、虫の目がついていた。黄緑の光の中で、その蝶の目だけは青緑の輝きを放っていた。愛らしい小さな唇もあるにはあった。だが、それが開くと、中から現れたのは桃色の舌先ではなく、黒い渦巻き状の管だった。黄緑の粘つく液を滴らせながら、奇怪な生き物はその管を伸ばしたり丸めたりしてみせた。
「お坊ちゃま！ よくご覧ください！ これは、これは化け物です！ 踊り子の生まれ変わりなどではありません！ これは怪物です！」
「何を言う！ 何を言う！」
ガスレンの声にはどこか我が子を諭すような調子があったが、セロクトルは激昂していた。
「お坊ちゃま！ 目を覚まして……」
土鬼の言葉はそこで途切れ、苦しげな呻き声となった。セロクトルの手には、血に塗れた短剣が握られていた。
「お前が、お前が、おかしなことを言うからだ！」
ガストルは若主人の方に手を伸ばしかけたが、力尽き頽れた。
「ああ、マリファーラ、お前が化け物でなぞあるものか！ おお、なんて美しい目なんだ。エイマン王の宝物庫のどんな青玉でもかなうまい！」
蛹の下部に裂け目が入り、脚が飛び出した。艶めかしい青白い太股と細い脛の先には、人間のものではないもう一つの関節があり、そこから先は黒く固い刺のある脚になっていた。
腹部にも亀裂が入り、巨大な蛹は左右に分かれて頽れた。怪物は支えを失ったように、前のめりに床の上に手足をついた。
それはまさに蝶女としかいいようのないものだった。黄緑の粘つく光る液に濡れた体は人間の女のものだった。青白い肌は艶めかしい曲線を描き、胸には小振りの乳房が揺れていた。四本の腕と二本の脚は途中までは人間のものだが、先端に行くに従って黒い虫の脚となっていた。人間の目の代わりに青玉のような虫の目がついた顔は、奇怪でありながら美しいということもできた。額からは二本の細い触覚が生えて、小さく震えている。頭には濡れそぼった短い黒髪が貼り付いていた。
四つん這いとなった背中は大きな濡れたもので覆われていた。毛皮のようにも見え、皮のようにも見えた。折り畳まれたそれは背中から脚先まで届き、黄色、黒、赤、藍などの鮮やかな色模様が見て取れた。それが蝶の羽であることは間違いなかった。
蝶女は弱々しく三和土の上を這い、こちらににじり寄ってきた。触角が震え、頭を左右に振り、何かを探しているようだった。彼女の黒い爪先がガスレンの流した血溜まりに触れた。蝶女はゆっくりと頭をそちらに向けた。人間の唇の中から渦を巻いた黒い虫の口吻が伸び出た。その先端を血溜まりに浸すと、歓喜に身を震わせるようにして、怪物はガスレンの生き血を吸い始めた。見る見るうちに床の上に溜まった赤いものがなくなっていく。血溜まりがなくなると蝶女は土鬼の死体に覆い被さり、腹の傷口に直に口吻を差し込み、血を啜り取った。黒い嘴管は半ば透き通っており、中を真っ赤な血が流れていくのが見えた。
「ああ、ガスレン、お前は最後まで私に忠実に仕えてくれたのだな。お前の血が、お前の命が、マリファーラの新しい命の糧となっている！」
セロクトルの言葉はもはや身勝手というよりも支離滅裂だった。狂気は男の脳髄の奥深くまで冒しているのだろう。
ガスレンの死体は生き血のみならず、体内の液汁を全て吸い取られて、干涸びた木乃伊のような有り様となっていく。最後の一滴まで吸い尽くしたのか、蝶女は傷口から黒い管を抜き取り、口の中へしまい込んだ。先刻までとは異なるしっかりした動きで、青玉の目で地下室の中を見回しているようだった。
「マリファーラ、私だよ、セロクトルだよ。わかるかい、わかるだろう。私がお前を本当の蝶にしてあげたんだよ。蝶になれば、お前を愛することが出来るんだ。蝶になれば、蝶になれば……」
狂気にぎらつく目でセロクトルは怪物を見つめて、手を差し伸べた。蝶女は小首を傾げて男を見つめ返すような仕草をした。触覚が小刻みに震えた。それから背中を丸めて、大きな羽を震わせたが、それは思うように動かないようだった。
「そうだ、ここじゃ駄目だね。陽の光がお前の羽を乾かし、美しい大輪の花を咲かせてくれるよ。さあ、こっちだ」
セロクトルは怪物を手招きしながら、階段を昇り始めた。無数の蝶たち、そして蝶女がその後を追って動き始めた。もはや私のことなど眼中にないようだったが、まだ私は手首の縄を解くことができなかった。
蝶女は大きな羽根を引きずるように階段を四つ足で昇って行った。ジュウファ蝶の群れがそれを守るかのようにひらひらと飛び回る。最後の一匹が階上に消えた時、手首の縄が解けた。ファバーン剣は部屋の隅に転がって薄緑の光を放っていた。這いずって近づき、痺れる指で剣を握って足の縄を切り、階段を駆け上がった。
十
地下室から出ると、やけに陽の光が眩しく感じられた。蝶女の姿もセロクトルの姿もすでに廊下にはなかった。私は目をしばたたかせながら、庭に走り出た。
鉛色の雲には幾つも切れ目ができて、幾条もの神々しい金色の光が差し込んでいた。一条の陽光が目の前の庭園にも差し込み、緑の葉叢を輝かせている。
玄関を出てすぐのところで、セロクトルはひざまずき、震える両手を宙に差し伸べていた。鮮やかな緑を背景にして、無数のジュウファ蝶が舞い踊っている。黄、黒、赤、紺の鮮やかな羽が瞬く星のように蠢き、無限に変化し続ける絵模様を描いていた。
無数の蝶たちに囲まれて、蝶女−マリファーラと呼ぶべきなのだろうか−が羽を広げていた。彼女の羽は虹の輝きを放つ黒だった。輝く黒の中に金色や青緑、紫などの鮮やかな色彩が不可思議な紋様を作っている。紋様は羽の付け根から左右対称に広がり、波打ち、渦巻き、美しい天然の意匠となっていたが、その中にただ鮮紅色だけが、何の規則性もなく、まるで生き血が激しく飛び散ったかのように異様な艶やかさを見せていた。
「マリファーラ、おお、完璧だ。完全な美の生き物を私は目にしている！ おお、マリファーラ、今こそ私はお前を愛することができる！ もうお前は無様な衣装をつけた下賤の踊り子ではないのだ！ お前は完璧な美の化身だ！ これで私はお前を愛することができる！」
マリファーラと呼ばれている怪物は、セロクトルの言葉に聞き入るかのように頭を傾け、触覚を震わせた。青い宝石の目からは表情を読み取ることは出来なかった。
「セロクトル！ 踊り子に何をした！」
蝶道楽の男は、私の声にゆっくりと振り向いた。落ち窪んだ眼窩の中で、血走った灰色の目が、異様な光を放っていた。口元からよだれを滴らせながら、男は答えた。
「ご覧の通りだよ！ このジュウファ蝶はただの蝶ではないのだ！ 遠くアニャチの奥地、クム＝ルーン・ヤンの山に棲むという奇跡の蝶だ。人の体に卵が入れば、その人間と自らを同化し、類い稀なる人蝶となる！ クム=ルーンの黄衣の魔道士たちが作り出した驚くべき魔法の蝶なのだ！」
「マリファーラの体にその蝶の卵を産み付けたのか！」
「その通りだよ！ クム=ルーンの魔道士の術は完璧だった！ 見たまえ、この美の結晶を！ 完璧な美を持った蝶だ！ この蝶なら、蝶ならば愛することができる！」
セロクトルの声は狂気の叫びとなり、口元からは白い泡がこぼれ落ちた。
「おお。マリファーラ、マリファーラ！ 完璧な美の化身よ！ 今こそお前を愛そう！」
狂った男の声に、蝶女の人の形をした唇が、わずかにほころんだように見えた。
セロクトルは膝をついたまま、女神を崇める狂信者のように、怪物ににじり寄った。蝶女は黒い羽を動かした。人の背丈を超えるほどの大きさなのに、羽は小さな蝶の羽と同様に、重さがないかのようにひらひらとはためいた。
「マリファーラ、マリファーラ！」
男の手が蝶女の黒い鉤爪の手に触れなんとした刹那、黒い蝶は宙に舞い上がった。笑い声が聞こえてきた。女の嬌笑だった。マリファーラによく似た口がその笑い声を発していた。開かれた唇からは、時折黒い渦巻き状の管が見え隠れした。
蝶女はセロクトルの手が届くか届かないかという高さを飛んだ。男の手が伸びるとさっと逃れ、また近くによってきては、嘲るような笑い声をあげた。
「マリファーラ、おお、マリファーラ、私の手の中へ来ておくれ！ おお、マリファーラ、今こそ私はお前を愛しているんだ！」
狂人は哀れっぽい声をあげて蝶女の後を追い、翻弄された。女の笑い声は高まり、まるで左岸の賑やかな酒場にいるかのようだった。蝶女だけが嬌笑をあげているわけではないようだった。一緒に飛び回る無数のジュウファ蝶もまた、百人の矮人がふざけ騒ぐかのような、無数の小さな笑い声を重ね合わせているのだろうか。
蝶の群れの中で、くるくると回るように動き回るセロクトルの姿が、次第に霞んで見えてくるようだった。金色にちらちらと光る靄のようなものが、彼の体にまとわりついていた。蝶の羽から舞い落ちる粉が帳のようになって、彼の姿を霞ませているのだ。
「おお、マリファーラ、マリファーラ！」
セロクトルは宙を舞う蝶女に手を伸ばし、哀願の声をあげ続けた。踊り子の面影を宿した怪物は、気のふれた男を嬲るかのように、手が届くか届かないかの高さを美しい羽をはためかせて飛び回った。
小さな蝶たちの羽からは金色の粉が、蝶女の大きな羽からは、黒い粉が舞い散った。黒い粉は、その羽と同様に漆黒でありながら、陽の光を浴びて虹色の輝きを発した。まるで〈舞姫の園〉の『蝶の舞』が最高潮に達する時のように、きらきらと光る鱗粉がセロクトルの姿を霞ませ、踊り子の名を呼ぶ声もまた擦れさせた。
この見世物の結末はもうわかりきっていたが、私はたった一人の客として、見続けた。ファバーン剣は緑光を発し、この世ならざる力の存在を示す感覚を伝え続けたが、私は剣を握る手に力を込めることはしなかった。ただ、結末のわかっている『蝶の舞』を見続けた。この剣を振るえば、怪物を斬り殺すことができるのかも知れない。セロクトルの命を救うことができるのかも知れない。だが、私はそうはしなかった。ただ、悪い冗談のような見世物を見続けた。
セロクトルの声と動きは次第に弱々しくなっていった。金色と黒の粉がまとわりつき、肌に貼り付き、口や鼻から吸い込まれていった。吸い込まれた毒が限界に達したのか、二度三度体をひどく痙攣させると、セロクトルは膝をついた。それでもまだ顔は蝶女に向き、両手を上げてマリファーラという名を呼び続けた。蝶女はぎちぎちというような恐ろしい笑い声をあげた。その笑い声は、およそ人間離れしたものだったが、勝ち誇った嬌笑のようにも聞こえた。
「マリ……ファーラ、マリファー……」
石を擦るようなひどく擦れた声がセロクトルの喉から絞り出された。その顔にはびっしりと金と黒の光る粉が貼り付き、左岸の〈新しい芸術家〉が作った奇怪な彫像のように見えた。
次の台詞は彼の口から出てこなかった。代わりに真っ赤な血が溢れ出した。鼻からも耳からも目からも鮮血が噴き出し、体を覆った金と黒の美しい絵模様を汚していった。腕と足と首と体がばらばらに動いて、セロクトルはのたうちまわった。狂人が手にする操り人形のようだった。
無数の蝶たちがひときわ激しく羽ばたき、金色の粉をセロクトルの上に降りかけた。最後に黒い大きな羽が、まるで重さなどないようにはためくと、虹色に輝く黒い粉が男の体を覆った。
セロクトルは、ひっくひっくというしゃっくりでもしているかのような声を二三度あげた。そして、動かなくなった。
私はおずおずと蝶道楽の男に近づいた。蝶女は静かに地上に降り立ち、青く光る目で動かない男を見つめていた。
「セロクトル……」
私は男の名を呼び、彼の肩に手をかけようとした。
その時、新たな変異が始まった。男の全身からは、しゅうしゅうという音とともに、白い煙が立ち昇った。金と黒の鱗粉が男の体を冒しているようだった。酸で溶かされていくかのように、セロクトルの青白い肌は泡立ち、解け出し、どろどろの肉汁と化して流れ始めた。
恐ろしいことに彼はまだ生きていた。手足はひくひくと蠢き、溶けゆく唇が動いて、最後の言葉を口にしようとした。
「マリファーラ、愛しているんだ……」
私の耳にはそう聞こえたが、それは腐り落ちる唇と、抜け落ちる歯列が作り出した偶然の音なのかも知れない。
蝶女はこの場に全く不似合いな、可愛らしいともいえる仕草で首を傾げ、小さな笑い声をあげた。触角が震え、唇からは黒い渦状のものが出入りした。だが、崩れ蕩けた男の腐汁を吸い取る気はないようだった。
マリファーラだったものは、黒く美しい羽を羽ばたかせ、優雅に舞い上がった。無数の金色の蝶たちが彼女のまわりを取り囲み、舞い踊った。蝶女はもはや形を成さない男の死骸に空中から一瞥をくれると、金色の蝶たちを従えて雲間から差し込む陽の光の方へ飛び去っていった。
後日、港辺りの酒場で聞いた話だが、その日、金色にきらきらと光る小さな雲のようなものが港の空に現れ、西の大洋の彼方へ飛んでいくのを見たという者がいた。黒い衣をまとった美しい女が海の上を金色の蝶に囲まれて飛んでいくのを見たという船乗りもいた。
蝶たちが飛び去ると、ファバーン剣の光は消えた。私は使うことのなかった剣を鞘に収めて、別邸の中を調べた。ジェゴロクトルが預けてくれた鍵が役に立った。
セロクトルの部屋に近い隠し部屋からは、死んだ若主人の日記−いや、観察記録というべきなのだろうか−が見つかった。特に驚くようなことは書かれてはいなかった。マリファーラの求愛−それが本心からのものなのか、請け負った仕事としてのものなのか、あるいは女に初心な蝶道楽の男をからかっただけなのかは日記からはわからない−に戸惑ったセロクトルは女を殺した。正確には殺してはいないのかも知れないが。
マリファーラはセロクトルの気を引こうとしてのことなのか、男が育てていた幼虫をわざと殺した。「あたしと蝶とどちらか魅力的なのか」と言って。これはセロクトルには許しがたい行為だった。男は眠っている踊り子に標本を作るための薬液を注射した。日記の記述によれば、マリファーラは昏睡状態になったものの、わずかに息をしていたという。
ちょうどその頃、遠くアニャチからジュウファ蝶の卵が届いた。セロクトルは動かない踊り子の体にジュウファ蝶の卵を植え付け、地下室の壁の中に塗りこめた。魔道の申し子であるジュウファ蝶の力によって、マリファーラが蝶として蘇生するように。
実験は成功したのだ。マリファーラは奇怪極まる、しかし美しい蝶女として甦ったのだ。一度死んだ脳の奥には−あるいは魂の奥底には−セロクトルへのある種の思い−気まぐれな慕情か、怨念か−が消えずに残っていたのだろうか。
女中のシモーゴナは、マリファーラの亡霊を見てジェゴロクトルに注進したために、殺された。ここでも蝶のための薬が役に立った。几帳面なセロクトルは、意識を失った女中を枯れ井戸に落として殺したと、しっかり書き残していた。屋敷の裏手の井戸を探ると、腐乱した女の死体があった。
一通り調べてから玄関前の庭に戻ると、セロクトルであった肉と汁の澱みには、無数の虫たちが集っていた。小さな肉片を巣穴に運び込もうとする蟻たち、肉塊に群がり肉を齧り汁をすすう甲虫たちが、忙しく立ち働いていた。肉汁を味わおうという蝿や蚊の類いも無数に集まり不快な羽音をたてていた。
だが、芋虫や蝶は一匹もいなかった。蝶たちも、やがて蝶となる芋虫たちも、セロクトルの死骸には何の興味もないようだった。
私は別邸の門を出て、ゼアートとジェゴロクトルに何と訳を話したらいいのか思案した。一つも良い考えは浮かんでこなかった。マリファーラの後を追い損ねたのか、一匹のジュウファ蝶がひらひらと私のまわりを飛び回った。暮れる陽の光を浴びて、金色の羽がきらきらと夢のように美しく輝いていた。
