１
私がその噂を聞いたのは、すっかり葉を落とした木々が、最初の木枯らしに打ち震える頃だった。『アトスの店』の敷居が高くなった私は、『天海亭』や『黄色い牝馬亭』『ノーウォンの店』などを転々として、夜の乾きを癒していたが、その噂はどこの店でも、聞こえてきた。
『天海亭』の海賊あがりの主人が言うには「知ってますかい、旦那。北のブランザの港では、海賊ゲラン一味を倒したうえに、何でも三十イートもある化け物烏賊をやっつけたそうですぜ。いやあ、俺もほどほどのとこで堅気になってよかったって思ってますよ」
『黄色い牝馬亭』で、おくびを何回もしながらシェアを飲んでいた人夫が言うには「東のエコーツの街で、大商人のトールズが殺されたんだ。あいつめ、俺たちにろくな給金も払わねえで、大儲けしてやがった。おまけによ、地獄の魔物と取り引きまでしてたってそうじゃねえか。ざまあみろ、魔物といっしょにあの世行きさ」
『ノーウォンの店』の赤い絹の服を着たアニャチの女が、煙管をくゆらせて言うには「南のシマンの街では、領主のアドクード様を倒されたそうよ。お城の奥で、生け贄に娘たちを捧げて魔法を使っていたんですって。恐いわね。『勇者』様がいて良かったわ」
勇者と呼ばれるその男は、サンジェリィ近辺の町々で妖怪退治を続けているようだった。異界の怪しのものを倒せば勇者と呼ばれるのなら、この私、スナブ・ランケンも勇者様ということになるのだろうが、誰も私をそう呼ぶ者はいない。私は大都サンジェリィのクーリカフ街で、しがない探偵商売を営む一介の市民でしかなかった。
私の依頼人は、逃げた亭主を捜してほしい魅力の尽きかけた中年女だったり、盗まれた密輸品の宝石を取り戻してほしい交易商人だったりなのだが、どういうわけか、私の関わる事件には、この世ならざるものの影が蠢いていることが、しばしばだった。だが、誰も私を勇者とは呼ばない。無論、呼ばれたくもなかった。私はわたしで、ただの男だ。
戦乱の続く東部でならいざ知らず、幾つもの都が交易で栄えるメルカー西岸では、勇者などと言う古めかしい言葉を聞くことすらまれだった。噂によれば、その男は自ら勇者と名乗っているとか。私は苦笑を禁じ得なかった。
また、しばらくすると、別の噂も居酒屋の喧噪の中で、今度はもう少し小さな声で囁かれるようになった。
「昨日、ヘルキュの四つ辻で、占い師の婆さんが殺されたってよ」
「ヘルキュの？ああ、ライシー婆さんか。良く当たると評判だった……そういやあ、一週間ばかり前にもウブセの方で骨相占いが斬られたって話があったなあ」
「アイトーネ街の御屋敷の門に魔道士が磔になってたってのは、本当なのか」
「七芒星形の刺青があったっていうじゃねえか。本物の妖術使いだよ。くわばら、くわばら……」
『天海亭』からの家路は暗かった。デリン灯の緑がかった明かりも届かない路地を抜けて、私は夜道を辿っていた。月は満ちていたが、今は雲にその青白い光を遮られている。夜風が冷たく頬を切る。
足音が聞こえてきた。小さな軽いぱたぱたという足音と、金具がぶつかりあう音の混じった革の長沓の足音が幾つか。
荒い息づかいと、小さな悲鳴が聞こえ、足音の主が私の胸に飛び込んできた。
「ああ、助けてください！殺されます！助けて、助けて！」
アニャチ風に髪を頭の両脇で結い上げた女だった。袖のたっぷりした西方風の着物を幅の広い腰帯で締め上げている。数珠か真珠かはわからなかったが、幾重にも首飾りや腕輪を身につけている。
私は女を後ろに押しやり、剣の鯉口を切った。風が強くなり、月光が雲間から射し込んできた。
現れたのは、三人の人影だった。月光を浴びて白く輝く甲冑に身を固めた男がひとり。右手には抜き身の長剣がある。髪は黄金色。もうひとりは女。赤い襞の多い着物をまとっていたが、その上からは革の胴鎧を着込んでいる。手には反り身の細い剣。長い黒髪を頭の後ろでたばねている。いまひとりは白い頭巾をかぶった男。十字形を細く引き延ばした形の杖を手にしていた。
「そこの女を渡してもらおう」
甲冑の男が居丈高に言った。自分の命に従わない人間がこの世にいるはずはないとでも、思っているかのようだ。
「何故に」
「その女は、淫祠邪教に与する女魔道士。我らの手で成敗し、汚れから救い出す」
今度は女が答えた。高慢な口調は男と変わらない。
私は背後にかばった女の顔を見やった。目が大きく、唇がぽってりとしている。普段は赤く艶やかなのだろうが、今は青ざめていた。曲がりくねったアニャチ文字の縫いとりが着物に施されている。数珠や硝子玉の飾りものからして、占い師といったところだろう。
「助けて！私はただの占い師よ。あいつら人殺しだよ。ライシー婆さんを殺したのを、私、見たんだ。何が勇者だ！頭がおかしいんだ！」
アニャチ風の女は私の肩を揺さぶった。美しい顔の中に、脅えと怒りと健気さが同居していた。
白い頭巾の男が、小声で何か囁いた。甲冑の男は、一歩足を踏み出し剣を正眼に構えた。
「私は勇者グノー。この世界の救い主だ。汚れに満ちた世界を、光に満ちた新世界へと変える。邪悪な魔物をすべて征伐するのだ」
月明かりに照らされた男の顔はまだ若い。二十歳は越えていないだろう。頬骨は高く口元は引き締まっている。好男子だが、眉間の狭さがどこか偏屈な印象を与えていた。
「気狂い！何が勇者だ。人殺し！」
『勇者』は剣を振り上げ、突っ込んできた。
「逃げろ！」
私は女を後ろに突き飛ばし、ファバーン剣を抜いた。刀身の神秘文字が緑色の光を放っている。この場に魔道の力が働いている証左だ。
グノーの動きは速い。若いがかなりの腕前のようだ。私は奴の刃を太古の魔剣で受け、なぎ払った。火花が散る。
一瞬の間もなく奴は次の一撃を打ち込んできた。胸の前で受けとめ、鍔迫り合いで奴の胸元へ迫った。月光を宿した奴の青い双眸の奥で金色の熾火が燃えているような気がした。
奴は速さもあり力もあったが、それを十全に使いこなすにはまだ幼すぎた。私は、手首をひねって奴の長剣を払った。剣は勇者の手を離れ、路上に転がった。
体勢を崩した奴の臑に蹴りを入れると、勇者グノーは派手な音をたてて、石畳に倒れた。
赤い服の女が反り身の長剣を舞うように振り回し、襲いかかってきた。恐ろしく身が軽い。私が横になぎ払った剣を避けると、彼女は宙を飛び、私の背後に降り立った。振り向き様、曲刀を受け、直ぐさま打ち込む。女は必死で避けたが、私の切っ先は彼女の黒髪を一イートばかり、切り落とした。
後ろでグノーが立ち上がる音がした。振り下ろされる刃をかいくぐると、私は懐の手裏剣を投げつけた。三分の一イート程の短い小刀は奴の右肩に突き刺さった。奴は肩を押さえ、またも剣を取り落とした。
赤い服の女は曲刀を胸の前で逆さまに構え、十字形に素早く印形を結んだ。
「クルザ・イア！」
短い呪文と共に彼女の刀は赤熱し、炎が私めがけてほとばしった。
「スン・ナ・ハッ！」
もうひとりの女の声と共に、一陣の冷風が巻き起こった。氷の礫が炎とぶつかりあい、一瞬でそのどちらもが消えた。
「今宵はここまでじゃ、グノー、セスティヤ。世界を救う道は、まだ遠い」
白衣の男の声が響いた。しわがれてはいたが、力強い、深い声だ。
勇者グノーとセスティヤと呼ばれた女は、恨みを込めた目つきで私をにらみながら、白い頭巾の男の側に寄った。頭巾の中の顔は影になって見えない。男は何事かつぶやき、十字の杖で石畳を二度ばかり突いた。
彼らの足下から霧がわき起こった。霧はたちどころに彼らの姿を包みこみ、竜巻のように渦を巻いて、夜空へ吸い込まれていった。三人の姿はもはや路上にはなく、どこか遠くから鳥の鳴く声のような音が、かすかに聞こえてきた。
「ありがとうございます。お陰様で命拾いをしましたわ」
女は頭を下げると、シャオナンと名乗った。
「あれが街で噂の勇者様かね」
「もう、占い師を四人、魔道士を二人も殺しているのです。世界を救うとか何とか言って、問答無用で斬りかかってくるのです。ただの辻占いに、魔神も妖魅も関係ないというのに……」
「君もただの占い師なのか」
女は鼻白んだ様子で言葉を続けた。
「さっきのは、ちょっとした護身用の術ですわ。水芸のようなもの、あれで世界が滅ぶわけないでしょう」
「いや、助かったよ。家まで送ろう」
２
彼女の家は古びた寺院が立ち並ぶゼモン街にあった。傾いだ瓦屋根の門をくぐると石灯篭が並ぶ境内だったが、枯れ草の中にかつての栄華を思わせる石像が幾つも倒れ伏していた。すでに廃寺になって久しいようにも見える。尖塔は屋根が落ちているようだった。
奥の本堂から明かりがもれていた。橙色の光を背にして背の高い黒い人影があった。
「シャオナン、心配したぞ」
「道士様、私、この方に命を助けていただいたのです。勇者に殺されそうになって……」
「何、勇者に」
道士と呼ばれた男は、初老のがっしりした体格の男だった。黒い法衣に身を包み、剃り上げた頭にくすんだ銀の頭環をしている。顔立ちは険しく深いしわが刻まれているが、黒い瞳にはどこか悪戯好きの子どものような光があった。
「黒道士様よ、ええと……」
「スナブ・ランケン。探偵商売です。人捜し、物捜しその他いろいろ」
「シャオナンが世話をかけましたな。このような所ですが、一献差し上げたい」
私たちは本堂の脇にある別棟に入った。質素な板張りの間の中央には炉があり、小さな炎が上がっていた。
黒道士は白い磁器の酒杯に温かい白濁した酒を注いでくれた。
「カン酒じゃ。この街ではあまり飲めない酒ですぞ」
白い酒は甘酸っぱく飲みやすかったが、かなり強い酒のようだった。
「道士様は、私の父親代わりなの。女衒に売られそうになるところをお救いくださったのよ」
「そんな話はよい、シャオナン。それよりその勇者とやらだ」
シャオナンと私は三人の様子を話した。黒道士は黙ってうなずきながら、話を聞いていたが、最後に三人が霧と共に消え失せたことを話すと眉間のしわが深くなった。
「道士は勇者を知っているのか」
「いや、存ぜぬ。だが、その白い頭巾の男、ロンゲルトの鳥を呼び出すとはかなりの術の使い手と見える。油断ならない相手じゃな」
「ロンゲルトの鳥？」
シャオナンが聞き返した。私も聞いたことのない名前だった。
「冥界とこの世を行き交う妖鳥じゃ。死者の魂のみならず生者の魂をもついばんで冥府にさらっていくこともあるという。それを使い魔の如くにしているということは、相当の技を極めているということじゃろう」
「奴らの目的は何なのだろう。本気で世界を救うとか、考えているのだろうか」
「さてな。本気には違いないのじゃろう。でなければ、そうそう人殺しなど、できるものではない。三人で世界を救うか。このサンジェリィだけでも百万からの人間が生きておるというのにな」
私は剣を交えて間近に見たグノーの瞳の奥の暗い輝きが気にかかっていた。彼らは本気ではあるのだろうが、それは同時に狂気であるとも思えた。
「ランケン殿、御主は探偵であると申したな。では、御主を雇うことにするか」
シャオナンの顔がぱっと輝いた。何か楽しいことが始まると思っているのだろうか。
「一日、四十ダズン。他に掛かりを頂きますよ」
黒道士は、箪笥の引き出しから無造作に油紙の包みを取りだした。
「これで、どうじゃ。売れば百日分くらいの稼ぎになるじゃろう」
包みの中には、精緻な銀細工の獅子の置物が入っていた。マーレンかジンガス産のかなり古いもののようだった。メルカーでは滅多に手には入る物ではない。
「勇者とやらの正体を探ってくれ。彼らが何者で何をしようとしているのか」
私はうなずき、細工物を懐に収めた。
３
翌朝、扉を叩く音で眼が覚めた。日は高く昇っていたが、まだ眠っていたい気分だった。カン酒は後を引く酒のようだ。
扉を開けるとシャオナンが笑顔で立っていた。
「おはようございます、ランケンさん。さあ、仕事ですわ」
「君を秘書に雇った覚えはないよ」
「道士様から、お手伝いするように言われてますわ。私がいるといろいろお役に立ちますわよ」
シャオナンは屈託なく笑うと、昨夜の「水芸」の仕草をおどけてして見せた。
私は溜息をつき、頭をかいた。顔を洗って、ファバーン剣を身につけた。
シャオナンは占い師仲間に顔が効き、確かに役に立ってくれた。私たちは殺された占い師たちの家族や近所の者を幾人か当たってみた。多くの者は悲しみに暮れ、口を閉ざしがちだったが、誰も勇者などという者に心当たりはなく、殺されるほどの怨恨を誰かに買っているという訳でもないようだった。金を取られた者もいなかった。
陽が傾く頃、私たちの足はトリプロ街の方へ向かった。
行く手で騒ぎが起こっていた。剣戟の音と大勢の人間のどよめきが聞こえてきた。私たちは足を速めた。
人だかりの向こうに金髪と白い甲冑が見えた。私たちは、近くの薬問屋の看板の影に身を隠した。
勇者様御一行が対峙しているのは、マグゾル一家のちんぴらどもだった。十人ばかりいる。派手な柄の服をだらしなくはだけ、安物の宝石のついた腰帯には剣を吊っている。今、それは一本残らず抜かれていた。
「貴様が噂の勇者様か！この世を救うだと！」
ちんぴらどもの頭格らしい頭の薄い男が、つばを飛ばしながら言った。どっと笑いが起こる。
「いいか、ここは俺たちマグゾルの縄張りだ！何様のつもりか知らねえが、勝手なまねはさせねえ！」
「この世の悪を滅ぼし、新しい世界をつくるのが私たちの努めだ。お前たちのような邪悪の徒を許しておくわけにはいかない」
グノーはゆっくりと長剣を抜いた。セスティヤが偃月刀を逆さまに構える。
「はっはっは！そちらのお嬢さんはろくに刃物も使えないようだぜ！」
ちんぴらどもは口々に汚い言葉を吐きながら、にじり寄った。
「クルザ・イヤ！」
噴き出した炎は先頭に立っていた若いやくざ者の上半身を包んだ。生ける松明と化した男が絶叫しながらのたうちまわる。ひるむちんぴらどもの中へ勇者グノーが斬り込んだ。右に左に剣を振るい、次々にやくざどもを血祭りに上げていく。昨夜の傷が痛む様子はない。
運良く彼の刃を逃れた者をセスティヤの偃月刀が斬り刻んでいく。喉笛から吹き出た血があたり一面を真紅に染めていく。
かなわぬ相手と知ったマグゾルの舎弟どもは逃げ出したが、行く手を遮ったのは白い頭巾の男だった。夕日が頭巾の奥の顔を照らし出していた。
頬のこけた初老の男だった。顎髭に白い者が混じっている。肉の薄い鼻とへの字に結んだ唇は酷薄そうな印象を与えた。灰色の瞳の中には、昨夜グノーの眼の奥で見たのと同じ光がさらに強くぎらついているようだった。
「くそ！おいぼれめ、くたばりやがれ！」
与し易しとみたちんぴらは頭巾の男に襲いかかった。だが、男は十字架のついた鉄の杖で、やくざ者の刀を打ち払った。刀身が折れて、飛ぶ。頭巾の男はやくざの首筋を打ち据えた。鈍い音がして、やくざは血を吐いて倒れた。
薄い唇が動いて何かの呪文を唱えるのが見えた。自棄になって飛びかかっていくちんぴらどもを金色の光が包んだ。ちんぴらどもは胸を押さえ、口からだらりと血の塊のようなものを吐き出した。石畳の路上でひくひくと蠢くそれは、心臓に違いなかった。
十人の血まみれの死体の中で、血染めの長剣を天に振りかざし、グノーは叫んだ。
「我こそは勇者グノー！聖なるジクロイスより選ばれたる勇者である。汚れに満ちた現世を正し、光満ち溢れる真の世界を築く！我こそは勇者である！」
とり囲んだ人並みの中から、ぱらぱらと拍手が巻き起こった。マグゾルのちんぴらどもには、皆悩まされていたのだろう。
「おお……勇者……勇者様……」
「世界をお救いくださる……」
群衆の中から控えめながら賞賛の声が聞こえてきた。次第にその声は高まり、拍手の音も大きくなっていった。
「おお、勇者グノー様！勇者様！おお！」
いつしか人々は皆両手を振り上げ、血まみれの鎧姿の男の名を呼んでいた。
私は寒気を感じて、シャオナンの手を引いて、その場を離れた。
『天海亭』は、勇者グノーの噂話で持ちきりだった。いつの間にか倒したやくざの数は三十人にまで膨れ上がっていた。何人斬っても返り血が勇者の鎧にはつかなかったなどという馬鹿げた尾鰭までついていた。
私と女占い師は、隅の席で声を低めて話し合った。
「どうなってるのかしら？みんなあっという間に勇者様の信者だわ」
「誰もやくざが好きな者はいない。警邏隊もあまりあそこらでは役に立っていない。待たれていた英雄というところだろう」
「そりゃ、私だってあいつらが死んだからって、可哀想とは思わないけど……」
「みんな、自分が殺されそうにならなきゃ、わからないさ」
シャオナンはふうっと溜息をつくと、シェアを飲み干した。
「これからどうするの？探偵さん」
「家捜しさ。勇者様は野宿はしないだろう。宿を探し当てて探る」
４
グノー一行の宿はすぐわかった。次の日に復讐に来たマグゾル一家を皆殺しにし、マグゾルその人をも一刀両断にしたからだ。『黄金の蹄亭』の前は野次馬でごった返していた。
私たちは、フランジースコから着た商人夫婦というふれ込みで、宿に潜り込んだ。顔を知られているので、ジャクレン教徒が時折かぶる深い頭巾を調達し、顔には聖句を絵の具で描き込んだ。
食堂では、グノー一行のまわりに人の輪ができていた。勇者たちは求められるままに旅すがら成敗してきた邪な魔道士や魔物の話をしていた。話半分としても恐ろしい殺戮の旅のように思えたが、人々は高慢そうな若者の話に相づちを打ち、女魔道士の話に歓声をあげた。
その内誰かが聞いた。
「このサンジェリィでは、これからどんな悪をお打ちになるおつもりなのですか」
「この街は古い古い街。石畳の下には幾重にも古の都が眠っています」
赤い衣の女が厳かな声で言った。
「そこには、旧き邪悪な神々もまた。トリプロ街では、未だそれらの神々を崇める魔道士、妖術師もいると聞きます」
聴衆が静まった。無論そうしたことを信じない人も多いが、古いしきたりを知る人々にとっては、そうしたことに触れることは今でも禁忌だった。
グノーが言葉を引き取った。
「我らがこの都でなすべきことは、それです。旧き邪悪なものどもを打ち砕き、新しい真の世界をつくるのです」
勇者を囲んだ人々が返す言葉を探している内に、白い頭巾の男が先手を打った。
「我らは、聖なるジクロイスに祈りを捧げる刻限じゃ。この世界を救うための大切な修行の時間じゃて、何人も部屋に近寄ってはならん」
勇者たちは再びざわめきだした人々を後に部屋に引き上げていった。
私たちもさりげなく食堂を出て、彼らの後を追った。
彼らの部屋は中庭に面した別棟だった。もちろん、最上級の部屋である。評判を聞いた宿の主が只同然で提供したらしい。
私たちの部屋は物置同然の屋根裏部屋だったが、仕事には好都合だった。私たちは窓を抜け出し、屋根伝いに別棟に向かった。
もちろん部屋の鎧戸は閉まっていたが、屋根の明かり採りの窓には鎧戸はない。
部屋の中では香が焚かれており、酸っぱいような独特の匂いが鼻の奥を刺した。白頭巾の男が十字型の杖を握って、くぐもるような声で祈祷の文句を唱えていた。
頭巾の男と向かい合って、グノーとセスティヤが座っており、頭を垂れて頭巾の男の後をついて詠唱している。床の上には白墨で十字架と古クァロニアン風の文字が描かれ、一定の唱句を唱えると、頭巾の男がその上に革袋から赤い液体を垂らしていった。
グノーが白い上衣を脱いだ。鍛錬を積んでいる体の上には、うっすらと幾つもの傷跡が見える。右肩にはまだ赤黒い傷があったが、驚くべきことにもう傷口はふさがっているようだった。
「聖なるジクロイスと……の名の下に……勇者に新しき肉と肌を……」
頭巾の男はぼそぼそとした低い声で言葉を続けた。ジクロイスともう一つ、何かの名前を唱えているようだったが、うまく聞き取れない。
頭巾の男は革袋から握り拳程の赤いものを取り出した。心臓だった。グノーの右肩にそれを押しつけ、握りしめ、鮮血を滴らせた。男の指先には鉄製の鉤爪がついていた。男はその爪で心の臓から肉片をえぐり取ると、グノーに渡した。
勇者はその肉片を口に運んだ。幾度か顎を動かして、飲み込んだ。
さらに短い祈りを唱えると、グノーの体をうっすらとした金色の光が包んだかに見えた。
セスティヤが勇者の肩の血をぬぐい取った。彼の肩にはもはや、傷跡は見えなかった。
「まるで死霊使いの術だわ」
私の肩をつかんだシャオナンの指は震えていた。
女占い師の言葉が聞こえたかのように、頭巾の男の灰色の眼が明かり取りの方を見上げた。
頭巾の男は杖をかざすとくわっと口を開き、耳には聞こえない声を発した。十字の先端から緑がかった金色の光の玉が飛び出し、窓を突き破った。
「逃げるぞ！」
私たちは屋根瓦に足をとられそうになりながら、走った。母屋の屋根まで来たとき、行く手に赤い衣の女が立ちふさがった。
私たちは邪魔になる頭巾をはぎ取った。
「む、お前たちはいつぞやの……」
背後からグノーの声も響いた。
「今宵こそは成敗してくれよう」
私はファバーン剣を抜きながらたずねた。刀身の神秘文字は淡い緑色の光を発している。
「あの白頭巾の男は何者だ」
「マンデック様は聖なるジクロイスの御言葉を伝える神父様だ」
グノーは自信に満ちた声で答えると、長剣を正眼に構えた。
「神父が妖術を使うのかい」
「妖術などではない。奇跡の力、聖なる法力だ」
セスティヤが、鋭い声音で反論する。気が長い方ではなさそうだった。
「ものは言いようだな」
「不敬な奴らだ。お前たちのような輩がこの世に悪をもたらしているのだ」
グノーが一歩間合いを詰める。屋根瓦が長沓の下でこすれあって、耳障りな音を立てる。
「お前は気の触れた人殺しだ」
「私は世界を救う勇者だ」
「やっぱり気が触れてるよ」
二人の勇者は、じりじりと近づいてきた。次の一歩は、白刃を伴った跳躍となるのかもしれない。
私はシャオナンにささやいた。
「屋根から降りる魔法ってのはないのか」
「そんな都合いい術あるわけないでしょ」
「じゃあ、飛び降りるぞ」
「え？」
私はシャオナンの腰をつかむと緩い傾斜の屋根の上を、道の方へ駆け下りた。
「跳べ！」
十イートばかりあったが、運良く足は折らずに済んだ。私たちは、暗い路地を走った。背後から、鎧と剣が鳴る音と罵り声が聞こえたが、二度三度、細い小路を曲がって走ると聞こえなくなった。法力とやらをもってしても、悪徳の都の裏道を迷わず走ることは不可能のようだった。
５
「マンデック？そう言ったのか」
「ああ、ジクロイスの神父マンデックと」
黒道士はカン酒の杯を途中で止めて聞き返した。
「道士は知っているのか」
しばし沈黙の後、黒衣の男は杯を干した。
「昔、トリプロ街にそういう名前の妖術使いがいたという話は聞いたことがある」
「当時から勇者とやらを育てていたのかい」
「口寄せの術に長けていた。死霊使いじゃ。死者の復活の術を探求しているという話もあった。じゃが、ある時、この街を出ていった。新しい神を求めて、東部へ修行へ行ったという噂じゃった。まさか、ジクロイスに帰依しているとは、それこそ八百万の神々も驚くことじゃろうな」
「どうして、死霊使いがジクロイス教徒になったのかしら」
シャオナンは自分の杯に白い酒を注いだ。
「さてな、それはマンデック自身にしか、わからないじゃろう。はっきりしているのは、奴が今でも強大な妖術を使えるということと、いずれここへやって来るということじゃ」
「ここへ？なぜ？」
「この寺院は奴らにとっては、旧き邪悪な神の巣窟じゃからな」
道士は立ち上がり、私についてくるように身ぶりで示した。
角灯を手に私たちは本堂の奥の大きな扉を開いた。短い板張りの暗い廊下があり、その先には太い格子扉がついていた。本堂とつながるように建てられた別棟の小さめの社だった。
道士が明かりをかざすと格子戸の向こうに黒々とした岩肌が見えた。人の背丈の倍ほどはある縦長の卵形の石が、その社の中に納められていた。石の表には、短冊形の紙が何枚も貼り付けられていた。短冊には、ファバーン文字にも似た意味のとれない奇怪な文字が書き連ねられている。何かを封ずる守り札のようだ。
「この石を守るためにこの寺は建てられた」
「石を？」
「正しくはこの石が封印しているあるものが甦らないように、ということじゃ」
「石の下には何が？」
「ユッガと呼ばれるものじゃ。失われた十二柱の神々の眷属じゃよ」
「『失われた神々』の……」
私は鳥肌がたつのを感じた。数千年前に神々の闘争に破れた恐ろしいものたちの記憶は今でも私たちの心の奥底に刻み込まれ、太古の祖先から脈々と伝えられているものらしい。
「誰がどうやってここにそれを封印したのかは、わからない。ただこの黒石を代々私の家系が守ってきた。封印を解けば、死と恐怖と殺戮が西部のすべての都を滅ぼすと伝えられている」
「あの三人はそれの解放をねらっているのか」
「いや、違うじゃろう。彼らはそれがここにあることが許せないのじゃ。封印されているとはいえ、それはこの石の地下深くに存在している。生きておるのじゃ。彼らはそれを抹殺したいのじゃろう。邪悪な神の眷属がこの世にあること自体が許せないのじゃ」
「しかし、そんなことができるのか」
「できる、と信じておるのじゃろう。信じていれば、すべてがかなうと。愚かなことじゃ」
黒道士は、静かな声でそう言ったが、その口調には憐憫の情が混じっているように思えた。
私は幾つかの意味で、まだ道士ほど人生について達観できているわけではなかった。
６
鋭く風を切る音が聞こえた。中庭の玉砂利を踏みしめる音も引き締まった鋭い音に聞こえる。青空を冷たい風が舞っていたが、勇者グノーは額に玉の汗を浮かべ、長剣の素振りを繰り返していた。
「何をそんなに力んで斬ろうとしているんだ」
グノーは切っ先をこちらに向け、私を睨めつけた。
「おっと、今日は果たし合いに来たんじゃない」
私は手にした手裏剣を弄びながら、言った。
「その気なら、とっくにこいつを投げていたさ。首筋に刺されば、妖術の儀式が始まる前にお陀仏さ」
グノーは小馬鹿にしたように私の手元を見やった。怪しの術が我が身を守ってくれると信じているのだろうか。
「妖術ではない。聖なるジクロイスのお力だ。尊い法力だ」
「名前が違うだけだ。マンデックは元はトリプロ街に巣くっていた死霊使いだ」
私が彼の教祖の正体を告げても、勇者は全く意に介さなかった。
「マンデック様は預言者だ。ジクロイスのお言葉を伝えてくれる」
私は話題を変えてみることにした。
「なぜ、勇者などと名乗る。たった三人でこの世の悪を根絶やしにするつもりなのか」
金髪の若者は少し間をおき、切っ先を見つめ微動だにしなかった。
そして、少しだけうわずった声で答えた。
「天啓だ。御導きがあったのだ。私がその役目を担うとな」
「ジクロイス様が夢枕にでも？人殺しをしろと」
男は刃をゆっくりと地ずりに構え、声を幾分落とした。
「私はある準爵家の生まれだ。かのクァロニアン戦役の折り、勲功のあった武家に与えられた爵位だ」
勇者の口の端に、少しだけ皮肉な笑みが浮かんだように見えた。準爵は、報酬も領地も与えられなかった王家がばらまいた名前だけの貴族だ。
「幼少の頃より正しい行いに努め、世の中に善をなすことを父母に教えられてきた。剣の修行にも励み心身を鍛えた。だが、私には歩むべき道が決められていた。我が家は代々サンジェリィ周辺の道普請を司るお役目が王より与えられている。文字どおりの歩むべき道だ。来る日も来る日も、泥にまみれて働く人足たちの監督をするのが仕事だ。私は父の見習いでそうした日々を十六の頃より送った」
「人殺しを続けるよりもはるかに素晴らしい道のように私には思えるが。泥にまみれるのはおまえさんたちじゃないだろうしね」
グノーはひときわ鋭い音をたてて剣を降り下ろした。
「あるとき、私は人夫のひとりを斬った。そいつは力に任せて仲間が汗を流して手にした金をせびり取っていたのだ」
刃が空を斬る音が中庭に響き、黄金色に輝く二の腕から汗が飛び散った。
「またあるとき、私は父の上司に当たる役人を斬った。奴は賄を受け取り、道普請の手を抜かせ、私腹を肥やしていた。切り通しの石組みが崩れ、旅商人がひとり死んだ」
砂利を踏みしめる音にも力が入り、彼の足の下で小石が砕けて散っていくようだった。
「父は、咎めを受けて役を解かれ、事実上隠居同前とされた。準爵家といっても、領地などないに等しい。我が家はたちまち貧窮した。父も母も失意の内に病に倒れ、死んだ。私は屋敷を逃れ出て、この都を離れ、さまよい歩いた。この矛盾と過ちと悲劇に満ちた世界でどうやって生きていったらよいのか、わからなかった。そして、東の荒れ地で修行なさっていたマンデック様と出会ったのだ」
彼の人生には同情すべき点も多いかもしれないが、そうした人間は数多い。ほとんどの人間は同情されるべきものを抱えて生きている。
「この世のすべての悪を滅ぼすつもりなのか」
グノーは、間髪を入れず答えた。
「そうだ。私は聖なるジクロイスに選ばれし勇者だ。それが私の為すべき仕事だ」
「この世のすべての人間を斬るのがその仕事とやらになるぞ」
若者は、初めて長剣の構えをとき、私を見て、苦笑いを浮かべた。
「馬鹿なことを言うな。私は世の人々を信じている。小数の悪しき者のために惑わされているのに過ぎない。強欲な商人、権力を振りかざす施政者、そして邪悪な神々を崇める魔道士、妖術師、こういった者どもを成敗していくのが、私のこの世における努めなのだ」
確かに彼は、選ばれた聖者にふさわしいある種の純粋なものをその心中に持っているのかも知れない。だが、私は口の中に苦いものを感じた。
「市井の罪もなき占い師を殺すのも勇者の仕事か」
グノーは私の言葉が信じ難いといった様子で、首をひねった。
「罪がない？彼奴らは人心を惑わし、怪しのものへの信仰へと人を導く、妖魅の手先だ。暗黒の魔道士と変わりはない」
「そうよ、聖なるジクロイスの教えだけが、世の人々を正しき道に導いてくれるの。その御言葉を伝えてくださるのがマンデック様よ」
女剣士兼魔道士は、今日は胴鎧を脱いでおり、襞の多い赤い上衣に肌にぴったりした暗い紅色の洋袴という出で立ちだった。浅黒い肌の面長の顔は美しいと言ってよかったが、グノーと同じ傲慢そうな表情と黒い瞳の奥の暗い光が、彼女の魅力をそいでいた。
「旅芸人だった私の父と母は、占い師の水晶玉の中身を信じて行き先の街を変えたわ。東のその街に行けば、これまでにない成功と名声を得られると自信たっぷりに、占い師は言った。その街の王は、ことのほか芸人の取り締まりに御執心だった。一座は捕らえられて、父と母は殺されたわ。私は逃げ出したけど、野盗に捕まって嬲りものにされた。そのとき、マンデック様が現れて、奇跡の法術で私を救い出してくださった」
セスティヤは、目を潤ませて、中空のどこかを見つめた。彼女だけに見える光を見つめて、法悦の表情を浮かべた。
「その水晶玉占い師は、もう殺したのかい」
「もちろんよ。ジクロイスの聖火で焼かれ、灰に帰ったわ。この街の邪悪を滅ぼした後は、あの愚劣な王も……」
彼女は、恍惚とした表情のまま、そう言った。
「どうやら会談決裂のようだな」
私は、『黄金の蹄亭』を後にした。彼らは追っては来なかった。
７
私は、二人の話を、黒道士に伝えた。道士は目を閉じて一言「愚かなことじゃ」と言っただけだった。
夜半を過ぎた頃、耳慣れない鳥の声が聞こえた。甲高い、金物をこすりあわせたような不快な声が、どこか遠い空の上から響いた。
「ロンゲルトの鳥だ。そろそろ、お出ましのようだな」
黒道士は両端に鉄の帽子をかぶせた六尺棒を手にした。手首には虹色の光を放つ銀の数珠をまきつけている。
「シャオナン、おまえはこれを持て」
道士は、白木の箱から風変わりな短剣を取り出すと、彼女に手渡した。白銀の刀身が蛇のようにくねくねと左右に曲がっている。
「私、斬り合いなんて苦手だな」
女占い師は、おびえた顔つきで、黒道士と私を交互に見た。
「その剣は、おまえの中にある力を外に引っぱり出してくれる。『釣瓶の剣』という代物じゃ。いずれ、儂に代わって、この寺をおまえが守ってくれるときに、授けようと思っておった」
シャオナンは、奇怪な剣をしげしげと見つめた。
「だって、これどうやって使うの。私、わからないよ、道士様」
道士は、娘の手から一旦剣を取ると、自分の腕を切る仕草をした。
「まずは普通の剣として使えばよいのじゃ。おまえの命が危うくなったときには、その剣で、自らの腕に傷をつけるのじゃ。血が流れ出るとともに、おまえの中の力も溢れ出し、おまえを救ってくれるじゃろう」
「あんまり、使いたくないなあ、私……」
再び、釣瓶の剣を受け取ったシャオナンは、幅広の腰帯に挟み込んだ。
私たちは本堂を出て、灯籠が並ぶ境内を門の方へ向かった。冷たい夜風が渦を巻くように吹いて、落ち葉を舞い上げる。灯籠の明かりが二つ三つかき消された。
内から掛けたはずの閂が落ちており、傾いだ門扉はすでに開いていた。門の下に三人の人影があった。
門の影から三人が進み出る。引き抜かれた長剣と偃月刀に、月光が映えて光る。
私は、ファバーン剣を抜いた。見るまでもないことだが、古代の秘文字は、淡い緑色に光を放っている。
「お主らが勇者とやらか。この荒れ寺に何用じゃ」
黒道士が野太い声を発した。
「お前がこの地で守護している旧き邪悪なものを滅ぼす」
グノーが一声一声に力を込めて、強い調子で返した。
「マンデック、死霊使いのマンデック、これは何の冗談じゃ。お主、ここに眠っているものが、どういうものか、知っておるじゃろう」
二人の剣士の間、いまだ門の影の闇の中に、白い頭巾が浮かび上がった。頭が十字形の錫杖を手にしている。
「いかにも、存じておる。だからこそ、今宵こうしてここにおるのだ。この背徳の都から、あらゆる悪徳を滅するに、まずその根元を絶って行かねばならない。例え、それがいかなる存在であっても」
白衣の男は、低いが決然とした口調で、言った。
「愚かなことじゃ」
黒衣の男は、つぶやくように言った。マンデックはそれには答えず、月光がつくる影の中へ、身を移した。
グノーがすり足で一歩前へ出た。私は、半身に構え、太古の魔剣の切っ先を上げる。
最初に仕掛けたのは、勇者の方だった。そう名乗るからには、先手を取るのも誉れのひとつなのだろう。
グノーは凄まじい気合いとともに、正面から打ちかかってきた。私は、斜めに身を走らせて、白刃をよけると、奴の手元に打ち込んだ。勇者はかろうじて、鍔で私の一撃を受け止め、押し返す。
真っ向勝負なら、私はこの若者に負ける気はしなかった。手強いことは間違いないが、手練手管では、まだまだだ。私は彼らを人殺しと非難したが、手に掛けた人数を比べるなら、私の方が多いことは確かだろう。人殺しとしては、私の方が上手ということだ。
私とグノーは、激しく斬り結んだ。
傍らで、呪文を唱える声が聞こえた。
「クルザ・イア！」
赤い鎧の女が、短く強い言葉を発する。橙色の火球がシャオナンと黒道士の方へ飛ぶ。
シャオナンが水の呪文を発するよりはやく、黒道士が、胸に下がる銀の数珠に手を触れ、何事かつぶやく。
火球は二人の直前で目に見えない壁に阻まれたように四散した。
セスティヤが、一瞬驚きの表情を見せると、すかさず女占術士が印を結び呪文を発した。
「スン・ナ・ハッ！」
青白く光る無数の氷の刃が、赤い衣の女を襲う。セスティヤは、大きく一歩跳び退ると、曲刀で体の前に円を描いた。炎の輪が宙に浮かび、氷礫は湯気となって消えた。
私はグノーの鎧に守られていない部分に、幾筋かの傷を負わせていた。白装束に赤い血がにじんでいる。
門の近くまで、奴を押し戻し、長剣を払い上げると、太股に刃を走らせた。鮮血が吹き出し、勇者はもんどりうって倒れた。
その時、奴の背後の影の中で、白い頭巾が動いた。マンデックが、錫杖を掲げ、くぐもった声で奇怪な言葉を発する。ファバーン剣の緑の光が一瞬またたいた。
十字形の杖の上部から、金色の光の輪が飛び出し、傷ついたグノーの太股にからまった。光が解けるように薄れると、大きな赤黒い蚯蚓のようなものが奴の足に絡みついているのが見えた。それは奴の傷口に取り付き、白い泡のようなものを吹き出した。
金髪の男は、全身をぶるぶると震わせると、何度か大きく息を吸い込み、立ち上がった。頬が紅潮し、青い瞳には狂気染みた光が宿っている。口許から一筋よだれがしたたり落ちた。
「ランケン、そやつには、狂戦虫が憑いておるぞ！」
その虫の退治法まで聞きたかったが、その時セスティヤの偃月刀が黒道士に斬りかかった。道士は六尺棒で、弧を描く刃をはじき返し、赤い胴鎧に突きを入れたが、女魔術師は猫のような身のこなしで、銀色の棍棒を避ける。
シャオナンが、氷の呪文を発した。セスティヤはこれもかわしたが、氷礫が幾つか、頬を斬り裂き、血が流れ出した。
勇者グノーは、自らの体の内に溢れる力を試すように、長剣を二三度、空に向かって振り下ろした。刀身からはかすかな金色の光が放たれている。体全体が一回り大きくなったように見えた。
「悪を、悪を、討ち滅ぼす！我こそ、勇者だ！」
グノーは月を仰いで絶叫した。
そして、凄まじい勢いで突進してきた。
私は、跳び退り、奴の刃を受け止めたが、先刻までの倍ほどの力があるように感じた。受けきれず、足下の石柱に足をとられて、ひっくり返った。
「おおうー！」
獣のような声をあげて、グノーが打ちかかってくる。必死に身を転がして白刃を避ける。金色に光る長剣が、石柱に当たって火花を飛ばした。
信じ難いことに、太さ一イートはある石の柱が、砕け散った。
私は立ち上がり、どうにか次の一撃をファバーン剣で受けた。その瞬間、刀身の神秘文字は膨れ上がるように、緑光を放った。剣が折れなかったのは、この剣の中にまだ残っている太古の妖力のおかげに違いなかった。
剣には魔術が施されていても、私は生身の人間だった。勇者の凄まじい膂力に、私ははじき飛ばされ、叢の中に転がった。グノーの力と速さは、常人のものではなかった。
グノーは狂ったように、右に左に長剣を振り回し迫ってくる。石灯籠をなぎ倒し、凄まじい力と速さで、打ち込んでくる。
私は倒れた時に、強く背中を打った。息が一瞬つまり、体が動かなかった。剣を杖に立ち上がろうとする。月光の中にぎらりとグノーの白刃が光った。
「地獄の妖物！退散せよ！」
黒道士の大音声が響いた。緑色の光の鞭のようなものが、迫り来る勇者の背後から、太股に巻き付く。
グノーの足に巻き付いていた奇怪な大蚯蚓のような虫は、びくびくとのたうつと、血肉の欠片となって、飛び散った。
一瞬、緑の光がグノーの体を包み、揺らめいて消える。グノーの歩みが遅くなり、振り上げられた切っ先がゆっくりと下がる。刀身を包んでいた金色の靄は消え去った。発せられていた妖気のようなものが消え、グノーはかろうじて立っているように見えた。
私は背中の痛みに顔をしかめながら、黒道士と合流した。
「ありがとう、助かったよ」
「東部の妖術師が戦の時に使う、狂戦士の術の一つじゃ。一時的に、戦いへの狂熱を吹き込み、常人の何倍もの力を出させる。幾度も使えば、兵は廃人になると言われておる」
黒道士は、渋面をつくり、頭を振った。
「道士様、ランケン！」
女占い師の悲鳴が聞こえた。
赤い衣の女が、踊るような動きで、刃を走らせている。シャオナンは釣瓶の剣を手に、必死で死の刃から逃れていたが、すでに、二の腕や足からは血がしたたっていた。
私と道士はシャオナンのもとへ駆け寄った。セスティヤと彼女の間に割って入る。
「邪心の手の者め！炎の剣で清める！イア・ザイ・クルザ・イスト！」
セスティヤは、一歩下がると、偃月刀を地擦りに構え、甲高い声で呪文を発しながら、円を描いて剣を振り上げた。
刀身が瞬く間に赤熱し、燃えあがった。灼熱が襲う。赤い服の女は、だが、平然と炎の剣を構え、斬りかかってきた。
炎の刃が弧を描いて襲いかかってくる。ファバーン剣を握る手が焼けるように熱い。刃を合わせると、袖口から煙が上がってきた。
「スン・ナ・ハッ！」
シャオナンが呪文を唱えたが、氷礫は、赤衣の魔術師に届く前に、蒸気となって消えた。
「シャオナン！釣瓶の剣を使うのじゃ！」
黒道士が六尺棒で、グノーの一撃をはじき返しながら、叫んだ。先刻までの異様な力は失われたが、それでお仕舞いと言うほど脆弱な相手ではないようだった。
「え！これで私の体斬るの？」
おびえた声が答える。
「それには、まだはやい。その剣を頭上に掲げて、呪文を唱えるのじゃ」
シャオナンは言われるままに、蛇のように曲がった剣を、高く掲げた。
「スン・ナ・ハッ！」
彼女が呪文を唱えると、黒道士はその傍らに立ち、数珠を握り、詰屈な唱句を発した。
「ナル・シャー・ダイフォ・ハッ！」
釣瓶の剣が、まるで生きている蛇のように蠢いたかに見えた。白銀の光が螺旋を描いて刀身から飛び出し、素早く宙に広がった。
霧とも霙ともつかぬものが宙に満ちた。息をすると喉が痛いほど冷たいものが侵入してくる。
一瞬で、炎の剣は光と熱を奪われ、黒ずんだ銀色の鋼鉄に戻った。刀身を見る見るうちに白い霜が覆っていく。霜はセスティヤの赤い鎧から黒髪まで、白く凍りつかせた。
倒れそうになる女魔術師を、勇者グノーが支えた。
「おのれ、邪悪な妖術使いどもめ」
白い甲冑の若者は、歯を食いしばり鬼のような形相で、私たちを睨めつけた。
私には、彼らの使う術と、黒道士やシャオナンの使う術に本質的な違いがあるとは思えなかったが、彼らにとっては根本から違うものなのだろう。彼らと口論する気は私にはなかった。
「そろそろ、勝負といこうじゃないか。勇者様よ」
グノーは無言で剣を構えなおした。セスティヤはまだ、霜に覆われぐったりとしている。
その時、どこからか、悪臭が漂ってきた。腐肉の臭いだ。その源を探す間もなく、私たちは突然起こったものすごい風で、吹き飛ばされ、押し倒された。
８
ごうっという音を立てて猛風が頭上から吹き荒れる。枯れ草、枯れ枝が舞い、寺院の屋根からは瓦さえ吹き飛ばされ、宙を舞っていた。
「おお！あれは、あれは！」
道士が頭上を指さした。巨人の剣を擦り合わせたかのような、耳をつんざく何者かの鳴き声がした。
月光を浴びて、荒れ寺の屋根の上に取り付いているものがあった。
それは巨大な鳥のように見えた。翼を広げると差し渡しは、五十イートはあろうか。灰色の巨大な翼は、あちこち羽が抜け落ち、骨さえのぞいているところがある。痩せこけた胴も、まるで猫に食われて放置された死骸のように、羽毛がまだらに抜け落ち、肉がそげ、骨がのぞいている。
不自然に細長い首の先に、小さな頭がついており、落ちくぼんだ眼窩からこぼれ落ちそうな真紅の目玉が一時の休みもなく動いていた。
嘴は長く尖っており、薄汚れた灰黄色をしている。赤黒い染みのようなもので、汚らしい斑模様ができていた。
「道士様、あれは、あれは？」
シャオナンは私の腕をつかみ、震えていた。出会った夜のように、頬が青ざめている。
「ロンゲルトの鳥じゃ。地獄の妖鳥を呼び出して、何を……」
黒道士の疑問はすぐに解けた。奇怪な巨鳥は、長い鈎爪のついた脚と、巨大な嘴で、本堂の奥の社の屋根を壊し始めたのだ。
「死人使いめ、あの鳥を使って、石を退けようとしているのじゃ！」
死骸のような怪鳥が、嘴で一突きすると社の屋根瓦が吹き飛び、屋根は突き破られた。鳥は、開いた穴に鈎爪を引っかけ、屋根を引き剥がした。もの凄い音がして、太い梁が折れ、木っ端が飛び散った。
「くそ！馬鹿なことを！」
黒道士は罵詈を吐くと、数珠を握り本堂の方へ走った。
「ランケン、マンデックを！儂はあの鳥をなんとかする！」
「わかった！」
私は、未だ月光の落とす影になっている寺の大門の影を見やった。闇がうずくまっているような青黒い影の中に、白衣の妖術使いの姿がほの見える。彼は、魔法錫を体の前に立て、蝦蟇の鳴き声のような低い奇怪な声で呪文を唱え続けていた。
私は、まだ震えている女占い師の細腰を叩き、吹き荒れる風の中を、門の方へ向かった。
グノーが私の前に立ちふさがる。
勇者の碧眼のまわりにはどす黒い隈ができていた。先ほどの狂戦士の術が、堪えているのかも知れない。だが、まだ若者の中には、勇者としての狂熱が滾っているようだった。
「マンデック様には、指一本触れることは能わぬ。貴様を滅ぼす！」
かっと目を見開き、白い鎧の男は、長剣を突き込んできた。空を斬り裂く唸る音が聞こえる。間一髪で、私は切っ先をかわし、奴の首筋にファバーン剣を走らせた。
グノーの首から一筋の血が走る。だが、皮を少しばかり裂いただけだ。奴は、くるりと身を翻すと、私の腹をなぎ払った。上衣が裂けて、鋭い痛みが走った。切っ先がかすめたのだ。
素早い次の一撃を跳び退って避け、身を入れ替えた。勇者の背中越しに、石屋の屋根が完全に引き剥がされるのが見えた。
もはや、寺院は本堂も半壊し、黒い石がなかばその姿を月光にさらしていた。地獄の鳥は、狂ったような雄叫びをあげ、長大な嘴で周囲の柱と壁を突き崩している。
黒道士は、銀の数珠を高く掲げ、跳び荒ぶ瓦礫をものともせずに、聞き取れない呪文を発している。青から緑、黄色まで移ろいゆく、怪しの光が、彼の体を取り巻いていた。
グノーは壊れゆく社をちらりと見やると、口許に歪んだ笑みを浮かべた。
「今、邪悪なものが姿をあらわす！我らに討伐されるがために！」
「おまえは気狂いだ！」
勇者は、獣のような鯨波の声をあげると、突進してきた。
「ナル・シャー・ダイフォ・ハッ！」
突っ込んでくるグノーのすぐ後ろから、女の声が響いた。シャオナンが白く光る水蛇のような剣を振りかざし、叫んでいた。
白い塊が、怪鳥の巻き起こす風を完全に無視したように、爆発した。痛いほどの冷気と氷の霧が瞬時にグノーを包んだ。
全身を白い霜で覆われて、奴は倒れた。何とか私に向かって来ようと突き上げた顎から、小さな氷柱が垂れ下がっている。死にかけた虫のように、奴は手足を蠢かせた。
シャオナンは、自らも凍りついたように、妖剣を構えたまま、震えている。
私は、頭を垂れて呪文を唱え続ける死人使いへ走り寄り、ファバーン剣を振り上げた。
その時、背後で悲鳴が聞こえた。男の声だった。
振り向くと、もはや完全に破壊された寺院の前に、黒道士が仰向けに倒れていた。
ロンゲルトの鳥と呼ばれる化け物は、道士の体から鈎爪を離すと、黒い石の頂に飛び上がった。そして、鈎爪で石をつかむと、巨大な翼をはばたかせた。
巻き起こる突風で、瓦礫が吹き飛び、石灯籠が倒れる。巨大な石臼が轢かれるかのような音がして、黒い巨石が少しだけ、動いた。
生温い、腐った風が流れ出した。怪鳥のはばたきとは関係のない世界で動いているように、黴臭い腐臭が生き物のように境内を這い回った。
黒い石の袂からは、かすかな鈍い灰色の光が漏れていた。妖鳥は、いぶかしげにその光をしばし見つめた。真紅の目玉をまるで不安な人間のように二三度動かすと、大きくはばたき飛び立った。
地獄の鳥は、鷹から逃れる雀のように、もの凄い速さで天空に舞い上がり、月の中の小さな黒い点となり、あっと言う間に消え去った。
「道士！」
「道士様！」
私とシャオナンは、倒れ伏している黒衣の男に駆け寄った。
「黒道士様、しっかり、しっかりしてください」
シャオナンが、苦しげな息をする男を抱き起こした。
「心配はいらん。これしきのことで……」
道士はそこまで言うと、口から真っ赤な血を吐き出した。滴る血がシャオナンの服を朱に染める。胸のあたりの法衣が裂け、赤い傷口が見えた。
私とシャオナンは、引きずるように黒道士を大きな墓石の影に運び込んだ。
「道士様、道士様！」
「大丈夫じゃ、そう簡単には黒い石の番人が死ぬわけにはいかん、じゃが……おお、恐ろしいことが……」
黒道士は、震える指で、瓦礫となった本堂の向こうを指さした。
黒い巨石に鈍い灰色のひび割れが走っていた。いや、よく見ればそれは石が割れているのではなく、その中からにじみ出たかのような薄灰色の光が稲妻のように、黒い岩肌を走っているのだった。
灰色じみた光は次第に強さを増し、一本の縄のように寄りあわさっていった。太い巨木のようになった灰色のものは巨大な糸くずのように絡み合い、不定形の塊となった。無数の大蛇が絡み合い蠢きあうかのようなものが黒い石の上に巨体を張り付かせていた。
差し渡しは三十イート近くあるようだ。灰色から紫、濁った緑色、黄褐色へ変化を続ける。蠢く蛇のようなものの合間からぎらりと光るものが見える。目だった。血のように赤い巨大な眼球が幾つも幾つも澱んだ視線を投げつけていた。
ところどころで蛇のようなものはまるで寄生虫の群のように細く無数に枝分かれして、宙に向かってその細くのびた触腕を振り回している。
「あれは……あれは？道士！」
「ユッガの一部じゃろう」
「一部って……」
シャオナンが息を飲み込んで言った。
「ユッガはまだ封印されている。ロンゲルトの鳥は、畏れをなして逃げおったようじゃ。まだ、奴らは太古の封印の呪文を完全に解いてはおらん。じゃが、封じる力が弱まってはいるのじゃ。儂の力もな。じゃから、あのような幻が地上に映し出されておる」
「幻？あれは幻影なのか」
「ああ、ユッガの一部、頭なのか、手足なのかはわからんが、その幻じゃろう。ただし、力は持っておる、見よ」
蚯蚓のような無数の触手が、勇者めがけて、伸びた。一本一本がそれぞれの意志を持っているかのように動きながらも、のたうつ蛸の足のように一つのものとなり、勇者に迫る。
マンデックの低い詠唱が、少しだけ高くなったかと思うと、ほのかな金色の光がグノーとセスティヤの体を包んだ。体を覆っていた霜が瞬時に湯気となって消え、全身に力感が戻った。
グノーは金色の光を放つ剣を振り回し、襲い来る触腕を斬り払った。黒道士は幻と言ったが、それは多分に実体をともなった幻のようだった。斬られた蚯蚓状のものからは、濁った緋色の体液とも霧ともつかぬものが噴き出し、勇者の白い甲冑を汚した。
「聖なるジクロイスの御名により、おまえを成敗する。地獄に堕ちよ！」
グノーは、凄まじい勢いで長剣を振るい、次々に襲いかかってくる触手を打ち払った。だが、触手は斬られても斬られても、ユッガの体を形作る縄状のものから枝分かれして、若い勇者を握りつぶそうと迫ってくる。
グノーの傍らで剣を振るっていたセスティヤは、怪異の攻撃の手がゆるんだ隙に数歩後ろに下がった。もちろん、逃げ出すわけではなかった。勇者に敗北や逃走はあり得ないのだ。
女剣士は偃月刀を逆手に構えると、短いが力強い呪文を発した。瞬時に赤熱した刃から、三日月型の光の刃が飛び出し、化け物の本体に命中する。小さな炎と煙があがり、蠢く太い蛇のようなものに黒焦げの穴があいた。どろりとした赤い液体が流れ出す。
セスティヤの魔剣からは次々に光の刃が発せられ、奇怪なものの体に突き刺さり、触手を根本から切断した。
「愚昧なるものよ、この世はお前の存在するべきところではない。塵に返るのだ」
マンデックの持った十字形の杖が金色の光を発していた。元死霊使いの僧侶は口中で何事か、呪文を唱えた。呪文ではなく祈祷だと彼は言うかもしれないが、いずれにせよ、信じ難いことが起こるのには違いはない。
マンデックは目をつぶり唱句を低く唱えながら、杖を上下左右に動かし、何かの印を結んだ。
彼の足下から白い霧がわき起こった。霧は生き物のようにゆるゆると流れて、ユッガの方へと向かっていく。大きく輪を描き怪魔を取り囲むと、渦巻きながら霧は高く立ち昇っていった。
霧は金色の光を発し始め、不可思議な濃淡を描きつつあった。私にはそれは、おぼろげな無数の人の姿のように見えた。虚ろに開いた大きな眼窩を持った無数の亡者たちのように見えた。
無数の亡霊のようなものが、邪神の眷属に取り付いていた。それは骸骨同然の腕を持っていた。それらのものが、蠢く蛇のようなものを引き裂き始めた。動物の屍骸にたかる甲虫の群れのように、霧状の亡霊たちは怪物の体につかみかかり、噛みつき、その灰色の肉（と呼べるのだろうか）を引きちぎった。
赤黒いどろりとした体液が飛び散り、噛みちぎられた塊が鈍い音をたてて、落下した。
怪物は苦痛の声をあげるわけではなかったが、振り回す触腕の勢いは弱まり、勇者を攻撃するよりも、取り憑いた金色の亡霊たちを振り払おうともがいているように見えた。
セスティヤの呪文が高い声で響き、大きな三日月型の炎と光が怪物に突き刺さった。どーんという音がして、縒りあわさった蛇のような体の一部がはじけ飛んだ。ぽっかりと開いた大きな傷口からどす黒い液体が飛び散る。
グノーは黒い石のまわりの瓦礫の山を駆け上がった。長剣の金色の光が一際強くなった。剣のみならず白い甲冑を赤く染めた彼の全身が金色の光に包まれているようだった。
「おお、ジクロイスよ、邪悪なものを塵に返したまえ！」
勇者は大音声で叫ぶと、輝く長剣をセスティヤの炎の術が開けた傷口に突き立てた。
化け物は全身の無数の触腕を一斉にびくびくと痙攣させたかと思うと、海胆の刺のように突き出し、グノーと金色の亡霊たちをはじき飛ばした。
「グノー！」
赤い鎧の女剣士が勇者に駆け寄る。
「大丈夫だ、セスティヤ。それより見ろ、我らは邪神に勝利したぞ！」
のたうちまわる無数の触腕が残っていた社の柱を打ち倒し、瓦礫をさらに打ち砕いた。怪物は明らかに断末魔にもがき苦しんでいるようだった。大きな穴のような傷口からはとめどなく濁った赤い液体が流れ出している。
やがて触手は、その先端から乾ききった粘土が崩れていくように、ぼろぼろと壊れ始めた。灰色の塊がどす黒い液体を霧のように振りまきながら、崩れていく。絡みあい捩れあった巨体がほぐれて、無数の大蛇のようになりながら、崩壊していく。
それが怪物の本体なのだろうか、蛇のようなものが崩れ落ちた中から、赤い球体が現れた。ぬらぬらとひかる数百数千の赤い目玉の集積物だ。蛙の卵のように無数の赤い眼球が寄り集まって大きな歪な球を形作っているのだ。
セスティヤの術とグノーの剣による傷は、その球状のものにも到達していた。球形の四分の一ほどが黒く焼け焦げぐずぐずに爛れ崩れて、うっすらと白い煙をあげていた。
「勇者グノー、止めを刺すのだ。その聖剣で邪神を滅ぼすのだ！」
ジクロイスの狂僧が叫んだ。マンデックは先刻の術で、力を使い果たしたかのように杖にすがるようにして立っていた。しかし、その灰色の瞳はまだ力強く光を放ち、声には強い響きがあった。
勇者と呼ばれる男は、剣を握り直すと立ち上がった。苦痛に美しい顔を歪めると、胸のあたりを押さえる。白い胴鎧はひび割れ、赤い血が流れ出していた。化け物に投げ出されたときに傷を負ったのだ。
「グノー！」
よろける勇者をセスティヤが支えた。
「セスティヤ、私は聖なるジクロイスに選ばれた勇者だ。この世の邪悪を滅ぼすまで、死の顎は私に近づくことはできない」
グノーは長剣を杖に立ち上がると、赤い球体に歩み寄った。血が胴鎧の下から滴り落ち、脚甲まで、赤く染めていく。
無数の赤い目玉は、虚ろに、近づいてくる剣士を見つめていた。顔のない目には何の表情もない。ただ、硝子の義眼のように、近づいてくる傷ついた勇者を映し出していた。
グノーは大きく剣を振り上げた。
セスティヤの偃月刀から、マンデックの十字杖から、金色の光が流れ出し、勇者の長剣に新たなる金色の光を与えた。
振り下ろされた刃は赤い球体に深く食い込み、ほとんどそれを両断した。金色の光がほとばしり、貫き、無数の眼球が破裂して吹きとんだ。
後には、赤黒いどろどろの粘液だけが残った。
「ユッガを倒したの？」
シャオナンが、声を潜めるようにして言う。
私は答えを知らなかった。黒道士も、無言で血と粘液と灰が飛び散る戦いの跡を見つめていた。
グノーも、セスティヤも、マンデックも人形のように、動かなかった。
９
すると、黒い石が動いてできた地面の割れ目から、何かが現れた。何本かの太い棒のようなものだ。紫がかった薄い肌色をしている。幾つかの関節を持っており、それは何かを探し求めるように動いた。
それは手だった。性格には指だ。一本が人の背丈の倍ほどもある巨大な指だった。あまりに大きいので掌までは、地割れから姿を現すことができないのだ。
指は寒天状の赤黒いものと砕け散った触腕の灰色の破片をかき集めると、素早い動きで地中に消え去った。
勇者一行は凍りついたようにその場に佇んでいた。グノーの甲冑から血がしたたり落ちる音だけが聞こえた。
地割れの中から、また何かが現れた。今度は少なくとも外見は異形のものではなかった。一人の男が黒い土の裂け目から体を引っぱり出し、勇者たちの前に立った。
「父上！」
グノーがかすれた声を上げた。
勇者に父と呼ばれた男は、白髪混じりの初老の男だった。顎髭を蓄え、いかつい顔つきだったが、グノーに似ているようにも見えた。男は落ち着いた手つきで古ぼけた上着についた土埃を払った。
「お、おまえは……」
マンデックがもつれる足で、男とグノーの間に入った。十字の杖を掲げようとする間もなく、男は老僧を打った。人間の腕ではない赤黒い何かが一瞬見えた。マンデックは、十イートも吹き飛ばされて動かなくなった。
「父上、何を、何をなさるのです！」
男は何もいわなかった。ただ、両腕をすうっと突き出すと、息子の首に輪を作った。父と呼ばれる男は無言で、息子の首を締め上げた。勇者は身をもがき、父親の姿をしたものの手を逃れようとしたが、顎髭の男は無言のまま、彼の首を絞め続けた。
男の指は相当の力で、グノーの首を締め上げているらしかった。強力の勇者は何とか彼の手を引き離そうとしていたが、できなかった。
「父上、グノーです……息子の……」
勇者の喉はつぶれかけ、声はかすれて途切れ途切れだった。
ついにグノーは腰帯から短剣を引き抜いた。柄頭で、父親の姿をしたものの腹を強く突いた。
ずぼっという妙な音がした。グノーの右手は短剣ごと相手の腹の中だった。藁人形の腹を突いたかのように、地底から来た男の腹は破れてしまったのだ。
「おおお、ああ……」
勇者は訳の分からない叫び声をあげた。少なくとも今の一撃は彼の首に輪を作っていた両腕の力を弱めるには有効だったようだ。悲鳴をあげることができたのだから。
父親の腹から引き抜いたグノーの腕には、無数の指ほどの太さのある蚯蚓のようなものがまとわりついて、蠢いていた。地下から現れた男の腹の中は、はらわたの代わりにその吐き気を催すもので満たされているらしかった。その長虫のようなものは、グノーの腕を這い上がっていく。
「おおお！」
勇者は嫌悪の叫び声を発しながら、父親の腹から無限に這い出てくる赤黒い虫のようなものを振り払い、後退った。
「グノー！」
セスティヤが偃月刀を構えて呪文を唱えた。
「クルザ・イヤ・ヴァスタ・イア！」
女剣士は赤く光る刃を大きく頭上で振り回した。
すると、刀身から噴き出した炎の流れが鞭のようにのびて、地底の男の腹からわき出ていた蚯蚓のようなものの流れを断ち切った。
セスティヤはさらに炎の鞭を振るい、男の体に幾重にも巻き付けた。気合いとともに、炎の鞭は大きく燃え上がり、地底の男の全身を炎が包み込んだ。
赤い鎧の女は勇者に駆け寄り、引きずるように、大地の割れ目から遠ざかった。
「グノー、グノー、しっかりして、あれは御父上じゃないわ。あれは、あれは……化け物よ」
セスティヤの言うとおり、それは化け物だった。しかも最悪の化け物に違いなかった。
炎に包まれたそれは、ぐずぐずに形をなくし頽れたが死んだ訳ではなかった。黒焦げの人型のものの背中にひび割れが入った。蛹から蝶が生まれ出るように、真っ黒い骸の中から、ぬらぬらと輝く白いものが出現したのだ。
それは最初、まるで立ち上がった芋虫のように見えたが、次第に形が整っていった。
それは人間の女の姿になった。四肢の均衡は崩れ、目鼻立ちも溶けかけた蝋細工のようだったが、二本の足で立ち、歩いていた。
「グノー、グノー……」
その声はセスティヤが発したものではなかった。燃え尽きたものから生まれた全裸の女が発したのだ。
「……母上……」
「グノー、グノー、さぞかし疲れたことでしょう。さあ、もうお眠りなさい……」
甘く柔らかな声を発してその女は傷だらけの勇者に近寄ってきた。
「母上……私は、私は……」
「グノー！よく見て、あれは御母上じゃないのよ！化け物よ、邪悪な妖魔なのよ！」
勇者は答える代わりにセスティヤの手を振りほどき、よろよろと母親の姿を模したものの方へ近づいた。
「グノー、だめよ！ああ、だめよ！」
セスティヤは偃月刀を振りかざし、地底の女の方へ走った。女はかっと口を開き、赤い長虫を吐き出した。宙を飛んでくる妖虫を右に左に斬り払い、女剣士は怪魔の懐へ飛び込んだ。
偃月刀が炎を発しながら、女怪の首を斬り落とした。血に似てはいるがそうではない、赤黒い液体が噴き出し、蚯蚓のようなものが数十匹、こぼれ落ちた。
「母上！」
グノーは悲痛な声をあげて、倒れ伏す白い体を抱き起こそうとした。それはすでに形を崩して、ぶよぶよとした白い塊になろうとしていた。だが、彼の目にはそう写ってはいないようだ。
「母上、しっかり、母上！」
「グノー、グノー、目を覚まして、これは化け物なのよ！」
「母上……」
勇者の腕の中で怪物の白い肌が縮んではじけ、中からはおぞましい無数の蚯蚓状のものがあふれ出した。なめらかな体節を持ったそのものは彼の全身にからみつき、愛撫するかのように蠢いた。
「セスティヤ……」
グノーは手にしていた短剣を無造作に、彼女の首筋に突き立てた。女剣士の末期の声は喉笛を斬られたので、泡を吹くようなはっきしりない音にしかならなかった。勇者は何度も何度も剣を突き刺し、引き抜いては突き刺した。本物の鮮血が噴水のように噴きあがった。ぐったりした女の死体を地面に放り出すと、グノーは血みどろの短剣を取り落とした。
蚯蚓のようなものが彼の体の中へ入っていった。口から鼻から耳から、奇怪な虫のようなものはグノーの中へ侵入した。体中の穴から血を噴き出して、勇者は自らが殺した仲間の骸の隣に倒れ、動かなくなった。やがて、再び蚯蚓のようなものはグノーの体から這い出し、地割れの方へと這いずっていった。
一組の男女の死屍だけが残った。
10
私たちは為すすべもなく、ただこの眼前の悲劇を見守っているだけだった。ジクロイスに選ばれし勇者は、血みどろの肉塊となって横たわっていた。
「今じゃ。奴は戦いで力を消耗し、一時の休息に入っている。今なら奴をもう一度封印できる。シャオナン、ランケン、力を貸すのじゃ」
黒道士は苦しげな息を吐き出しながら、立ち上がった。黒い法衣から、血が滴っている。
「ど、どうやって、道士様」
「石を戻すのじゃ。シャオナン、そなたの力を儂の中に呼び込む。釣瓶の剣で、右腕を斬り、儂の左手を握れ、ランケンはその剣を持って黒い石の前に立つのじゃ。その太古の魔剣の力が儂らに味方してくれよう、うまくいけばじゃが……」
シャオナンは、奇妙な剣を左手に持ち替えると、おそるおそる右腕に押しあてた。細い傷口から、一筋、赤い血が流れ出す。
私はファバーン剣を両手で胸の前に掲げて、鈍い光を放つ黒い石の前に立った。石と穴の縁とはほんの一イートばかりあいているに過ぎないが、その間隙より、封じられたはずの古代のおぞましいものが、腕をのばしているのだ。
私は恐怖を感じた。ファバーン剣はすでにその魔力のほとんどを失った古い魔剣だ。これまで何度かその力で命拾いをしたことはあったが、いつでも都合良く活性化してくれるとは限らない。今、ここでその気まぐれな力を発揮してくれなければ、私たち三人とも勇者と同様の運命を辿ることになるのだろう。いや、サンジェリィの都自体が滅び去るのかもしれない。ユッガと呼ばれるものの力は強大であり、また先刻の戦いぶりからして、人の心の隙間を食い破る邪悪そのもののようだった。
「オン・サラバトラ・アラナトア・ザン、オン・アラバトア・ナラバトア・ザン……」
黒道士の呪文が背中で聞こえる。声には力があったが、いかに奇怪な力を身につけた道士とはいえど、生身の身体の傷は相応に堪えているはずだ。
道士の呪文の後をついて、シャオナンもまた佶屈な呪文を唱和し始めた。はたしてこのまだ少女と言っていい女占い師の力というものが、どれだけのものなのか、私にはわからなかった。
私にできるのは、二人が及ぼす超自然の力を信じて、ファバーン剣が世界の秩序を構築しようとする意志を信じて、ただ、ここに立つことだけだった。
「ダン・サラバトア・ザン、ウォン・アラバトア・ザン……」
呪文の唱和が大きくなり、私は背中に温もりを感じた。背後から金色の光が発せられていた。ファバーン剣の刀身に写る金色の光がやがて、緑色を帯び始めた。ファバーン剣の刃からも妖力の光が放たれ始めたのだ。太古の英雄の魔剣は、混沌の邪神を封じるために、その深奥の力を放ち始めたのだろうか。
「ザン・トラナトア・オン、ダン・アラナトア・ザン……」
呪文はまるで耳の近くで大音声で発せられているかのようになり、背中は焼けるように熱くなった。刀身のファヴァーン文字はまぶしいほどの白緑色の光を発している。
金色と緑の光に照らし出された大地の割れ目に、何か動くものが見えた。泡立つ赤い泥のようなものが、地の底から吹き出していた。それは流れてしまうことはなく、見えない手が泥の像を造っているかのように高まり、大きな塊になろうとしていた。
地の底のものは再び力を蓄えて、地上に異形のものを送り出そうとしているのだ。
それは次第に人のような形をとり始めた。赤い肉の人形のように見え始めた。
「オン・サラバトア・ザン・アラバトア・ダン！」
大音声とともに詠唱が途切れた。一瞬の静寂の後、私の全身を金色の熱い光が包んだ。光はファバーン剣の緑光の中へ流れ込み、刀身を稲妻が駆けめぐる。私は無意識のうちに剣を振りかざし、渾身の力を込めて、宙に叩きつけた。
烈光が雷鳴とともに、迸った。金色と鮮緑色のまばゆい光が赤い泥のようなものを焼き尽くした。光はまるで大蛇のように黒い石に巻き付き、揺さぶった。大地が揺れ動き、私は剣を握ったまま必死で立ち続けた。悪臭とともに、嘔吐でもするように、地面の穴からは赤い泥状のものが吹き出してくる。光はそれを焼き焦がしつつ、黒い封印の巨石を揺さぶった。
地鳴りのような音がして、石が動いた。家ほどもある巨石が、数イート宙に浮かび上がったのだ。それは光に包まれて、ゆっくりと地面の穴の真上に移動した。
地底からは赤い泥だけでなく、灰色の無数の触手が踊り出た。触手は光に焼き焦がされながらも、封印の石に絡みつき、何とかそれをまた、動かそうとした。
「ダン・アラナトア・ザン！」
背中でほとんど悲鳴のような声がして、人が倒れる音がした。同時に剣から迸る光がひときわ強くなった。
灰色の触手が、緑色の炎をあげて、燃え上がった。緑の炎は猛烈な勢いで数百の蠢く触腕を焼き尽くすと、赤い泥を煙と変え、一気に大地の穴の奥へと滑り込んでいった。
石に巻き付いていた光の流れもその後を追うかのように地底へ流れ込んだ。大地を揺るがして、巨石は穴の上に落下した。
砂塵が収まった。黒い石は、元の場所に戻った。地の底の古のものの棲家は完全に地上への出口を塞がれていた。
私は全身の力が抜け、その場に膝をついた。剣を握っていた両腕が激しく震えた。掌には冷たい汗が噴き出した。ファバーン剣は光を失い元の鈍い鉛色に戻っていた。
「シャオナン！道士！」
這いずるように後ろを向くと、二人が倒れていた。シャオナンの顔は血の気を失い青い。黒道士の顔色はさらに悪く、灰色に見えた。
私は二人の首筋に手を当てた。心の臓は動いていた。
「道士！シャオナン！しっかり！石は元に戻った！奴は再び封印された！」
最初に目を開いたのは黒道士の方だった。重たげに瞼をあげたが、その目はいまだ、強い眼光を失ってはいなかった。
「おお、ランケン、そなたの力が役に立ったぞ。大したものよの、その剣と、そなたの力は」
「僕はただ、剣を持って立っていただけだ」
「ふむ、それでも良かろう」
道士は血のにじんだ唇を歪ませて笑みをつくった。
「道士、シャオナンは」
「大丈夫じゃ。この娘の妖力も大したものじゃ。シャオナンの力がなければ、最後のものを倒すことはできなかったじゃろう」
黒道士は、倒れている女占い師の首の後ろに手をやり、ほんの少し動かした。女は身じろぎし、目を覚ました。
「ああ、ランケン、道士様、あの化け物は……」
「お前とランケンの力で、地の底へ逆戻りじゃ。安心せい」
シャオナンは私の肩越しに、黒い石が元通りになっているのを見て確かめた。頬にうっすらと赤みが戻り、笑顔があふれた。
「ああ、良かった。あんな蚯蚓の化け物にとりつかれて死ぬかと思うとぞっとしたわ。ああ、良かった」
そのとき、私の耳に、何か低いつぶやきのような音が聞こえてきた。誰かが、低い押し殺すような声で、何事かを詠唱しているような気がしたのだ。
私は周囲を見渡した。黒い石は何事もなかったかのように、立っており、周囲には壊れた社の残骸が散らばっている。石の近くには二つの死体。
いつの間にか、倒れ伏す二人の側にマンデックが立っていた。狂僧の白い法衣は血に塗れて真紅となり、十字の鉄錫は先端が一イートばかり折れ曲がり、死神の鎌のように見えた。左腕がだらりと下がっているのは骨が折れているかららしい。
法衣の男は震える唇で何事かつぶやき続けていた。灰色の目は血走り、もはやどこを見ているとも知れなかった。
「奴は何を？」
「口寄せの術のように思えるが……もしや……」
黒道士の表情が険しくなった。
呪文をつぶやき続けるマンデックの口許からは青白い煙のようなものが流れ出していた。それは、彼の身体をすべりおりて、倒れているグノーとセスティヤの身体の上に雪のように積もっていく。
「どうやら、あ奴は、死霊使いとして、最後の術を成功させるつもりのようじゃ」
黒道士が押し殺した声でつぶやく。
「最後の術って？」
シャオナンの問いに、道士はためらうように答えた。
「死者の復活じゃ」
私はまだしびれの残る手でファバーン剣を握りなおした。
「……見よ、邪悪な異教に身を置く滅びの民よ。聖なるジクロイスの御心のままに、勇者は永遠にその勤めを果たすのだ。見よ、我ら聖なる戦いを為す者、義のために戦う者に、死はその大鎌を振るうことはできない。我らが御心を全うするまで、死の顎が我らを捉えることはないのだ！」
マンデックは血を吐きながら、そう言った。そして、手にした錫杖を自らの胸に叩きつけた。先端が折れ曲がっていたそれは、狂僧の胸板を突き破り、深く食い込んだ。鮮血を迸らせながら、マンデックは杖で自らの胸を引き裂いた。肋をこじ開けるように杖を引っぱり出すと、その先には脈打つ心臓が突き刺さっていた。
狂信者は、信じ難い力で自らの心臓を握りしめ、グノーとセスティヤの死骸の上に掲げた。老僧の骨張った指に力が入り、真っ赤な血がだらだらと二人の骸に降り注いだ。
「……この世を……正しき世に……」
元死霊使いは、自らの心の臓を握りしめたまま、倒れ伏し、動かなくなった。
しばらく誰も動く者はなかった。時折シャオナンの喉の奥から引きつるような悲鳴の切れ端がもれてくるだけだった。
やがて、むくりと勇者が立ち上がった。女剣士も立ち上がった。死霊使いの最後の術は成功したのだった。
奇怪な長虫に襲われて死んだグノーの顔は鼻も耳も口も裂けて、ずたずたの肉塊のようだった。まだ乾ききらない血で、全身が朱に染まっている。
セスティヤの喉元にはグノーに斬りつけられた傷口がぱっくり口を開けていた。赤い鎧の上に流れ出した血が、黒ずんだ縞模様をつくっている。
死の淵から蘇った二人は、のろのろとした足取りで、近づいてきた。手にはそれぞれ血塗れの長剣と偃月刀を下げている。
二人は口を動かして何事かしゃべろうとしているようだった。だが、グノーの口と舌は形がわからないほど裂けていた。セスティヤの切り開かれた喉笛はひゅうひゅうという奇怪な音をたてるのみだった。
女魔道士は、偃月刀を逆さに構え、火炎術の呪文を唱えようとした。弧を描いた刀身が輝くことはなく、避けた喉から新たな血が流れ出した。
全身が鉛のように重かったが、私はファバーン剣を振り上げた。鉛色の刃の上の、緑の光はもう微かだ。
薙ぎ払うと、重い手応えがして、セスティヤの首は地に落ちた。頭を失った胴体は、なお二歩三歩前へ進んだが、のめって倒れると動かなくなった。
グノーは、血の泡を吹きながら、何か声を出していた。まだ、頭に刻み込まれた勇者としての台詞を繰り返しているのだろうか。
長剣が、ゆっくりと振り下ろされた。私は半歩左に避けながら、勇者の首に太古の魔剣を食い込ませた。
首は枯れ草の上に転がり、上を向いて止まった。見開かれたままの青い瞳に、曙光が差し込み、硝子細工のように美しい光を放った。
11
勇者は、魔物と戦って相打ちになり、討ち死にしたという噂が流れた。彼らの尊い犠牲のおかげでサンジェリィは救われたのだ、という者もあった。
二月も過ぎ、年が明けると、もう誰も勇者のことなど思い出さなくなった。街角では、怪しげな神託を下す占い師が評判になった。マグゾル一家の縄張りには、両隣の街から、新しいやくざ者が流れ込み、刃傷沙汰を繰り返していた。
黒道士の傷は癒え、壊れた社は、小さいながら建て直された。近隣の旧家と占術師組合から、寄進があったのだと、黒道士は言った。
家出した絹商人の息子を捜し出して百ダズンを手にした帰路、デリン灯の薄緑の明かりの下に、小さな黒い天幕があった。二人も入れば一杯の黒と赤の天幕は、占い師が使うものだ。
私は入り口の紗幕を開けた。中には、頭の両側に髪を結い上げ、数珠を幾重にも胸に下げた女が座っていた。
「僕の未来を占っておくれ」
シャオナンは、小さな机の上に並べた、動物の骨や、筮竹、水晶玉を一通り触ってから、私の目をのぞき込んだ。
「あなたは占いを信じるの？」
「いや」
「何かを信じたことはあるの？」
彼女の大きな黒い瞳の中では、蝋燭の朱色の光が揺らめき踊っていた。一瞬、そのきらめきの中に吸い込まれそうな気がした。
「わからない」
「そう、じゃあ、止めておきましょう」
女占い師は、悪戯っぽく微笑むと、手早く商売道具を片づけはじめた。
「店仕舞いかい」
「これから、あなたと飲みに行くの。私の占いにはそう出ているのよ」
「とりあえず、それは信じてみようか」
彼女は屈託なく笑い、私は肩をすくめて、天幕を畳むのに手を貸すことにした。
