リドラシック家の屋敷はアイトーネ街の真ん中にあった。貴族や豪商、高位の役人どもの邸宅が並ぶ街の真ん中だ。真っ白な漆喰塀が延々と続き、それをたどって歩いていくと、ハルオーキー風の装飾過多な青銅の門扇にたどりついた。子どもの頭くらいある、到底破れそうにない大きな錠前がついていた。格子の向こうに緑に囲まれた真っ白な大邸宅が見えたが、ここで怒鳴っても屋敷の中に聞こえそうはない。
青銅の門扉をがちゃがちゃやっていると、塀の影で見えなかったが門番小屋があったようで、一本角のぴかぴかの兜をかぶった中年の門衛が不機嫌そうな顔で現れた。
「リドラシック家に何の用だ」
「当主からの文をもらっている。クーリカフ街の探偵、スナブ・ランケンだ」
私が蛇を食べる鷲の家紋の入った便箋を見せると、門衛は矯めつ眇めつ文を見た後、革帯から鍵を取り出し、大門脇の小さな通用門の錠前を開けた。
「お嬢様の御用か」
「そんなことを聞いていいのかい」
門衛はしわの目立つ顔に、さらに深いしわを寄せた。
「生まれた時から知っている。心配ぐらいしても罰は当たらんだろう」
「そんなに具合が悪いのかい」
門衛は灰色の髭をもぐもぐと食べているかのように動かした。
「いや、そんなことはあるまい」
「じゃあ、どうして僕を呼んだのかな」
門衛はさらに髭をもぐもぐと動かし、屋敷のあたりに視線を泳がした。
「さあな、儂にはわからんことだ」
「僕をサンジェリィ随一の魔道探偵という人もいる。僕にはまったくその気はないけどね。お嬢様には、よほどの化け物が憑いているのかい」
「知らん。儂は何も知らんのだ」
門衛はそれ以上、何も語らなかった。
彼と一緒に邸宅までの緑濃い小道を歩いた。初夏の日差しが、大小の庭木に覆われた小道に光の斑模様を描いていた。時折吹き抜ける風は、まだ涼やかだった。
門衛が私の来訪を告げると、初老の厳しい顔をした女中頭が取り次いだ。派手な襞飾りのついた古風な前掛けは、彼女にはまったく不似合いだった。
玄関の間で待たされた後−この部屋だけでクーリカフ街の我が家兼探偵局と同じくらいあった−背の高い執事が女中頭とともに現れた。
濃紺の古くさい意匠の上着は裾が長く、やはり派手な襞飾りが袖口や裾についていた。長身の上にひどく痩せていたので、縦に引き伸ばされた戯画のように見えた。
「スナブ・ランケン様、お待ちしておりました。リドラシック家執事のケンプヘルクです」
執事は白い手袋をした細長い両手を腹の前で組んで、丁寧なお辞儀をした。
「スナブ・ランケン、探偵です」
執事が前に立ち、女中頭が後ろに立ち、私は挟まれたようになって、客間に案内された。幅の広い廊下は日が差さず、ひんやりとしていた。刺繍のある厚い絨毯は百年くらいはたっていそうだった。黴臭いにおいがした。
ケンプヘルクが重そうな扉を開けると、そこは庭に面した日当たりの良い部屋だった。明るい空色の壁紙、青と黄と朱の絨毯、黄褐色の円卓と椅子が幾つか置かれていた。庭に面した大きな出窓が開け放たれており、その前に中年の男女が座っていた。
「スナブ・ランケン殿をおつれいたしました」
「うむ、話は儂がする。お前は下がってよい。ナーモード、ディコンだ。パイレの金印のだ。探偵殿は飲まれるだろう」
リドラシック家の当主はたっぷりと口髭を蓄えた恰幅のよい男だった。下顎は弛み、腹も出ていたが、活力のありそうな黒い目をしていた。糊の利いた真っ白い襯衣は、陽の光を浴びて光っていた。太い指には金の指輪をしていた。
「仕事中は飲まないことにしています」
「そうか、だが、儂は飲むんだ。リドラシックだ。ノウスレック・セド・リドラシックだ。これはディラネープ・レド・リドラシック、家内だ」
リドラシック夫人は痩せており、年相応に皺が寄っていた。若い頃の美しさの欠けらを、白粉や頬紅で何とか貼り付けておこうという努力の跡が見えた。ほのかに黄色みのある白い上下を着ていた。首飾りにも指輪にも幾つもの宝石が煌めいていた。
夫人は眉間にしわを寄せたまま、黙ってうなずいただけだった。
「君に何とかしてほしいのは、他でもない娘のことだ。娘には何かが取り憑いておる。君はサンジェリィ一の魔道探偵だという触れ込みだ。憑き物を落とすぐらいできるだろう」
「僕は祈祷師でも魔法医でもありません。ただの探偵です。魔道探偵云々というのは、喧しい世間の噂に過ぎません。そういう事件に慣れていることは事実ですがね」
リドラシックは髭と同じくらいたっぷりとした眉毛を上下に動かして、しかめっ面を作った。
「祈祷師！そんな奴は駄目だ！これが（と言って、夫人を顎で指し示した）懇意にしているジャクレンの坊主を呼んでみたが、血相を変えて夜中に逃げ出しおった！トリプロ街で評判だという呪い師も呼んでみたが、金だけ取ってやはり逃げ出しおった！」
ナーモードという女中頭が、高そうな壺に入った酒を持ってきた。当主は大振りの二つの切子の杯に琥珀色の酒をなみなみと注ぎ、一つを私の方へ押しやった。
「旨い酒だ。飲みたまえ」
私は一口だけすすってみたが、二口目を飲むと仕事をする気がなくなりそうだったので、酒杯を置いた。リドラシックは自分のやり方で酒をあおった。それから、私が関わった二、三の事件について知っていると言った。
「君は謙遜しているのかも知れないが、娘の一件を解決できるのは君しかおらんと私は思っているのだ」
どうやらリドラシック氏は私のことについて、私以上によく知っているつもりらしかった。
「それで、娘さんはどんな具合なんですか」
当主の酒杯はすでに空になっていた。夫人は薄い水色の瞳に暗い影を湛えて、酒壺と亭主の顔を交互に見た。リドラシックは、再び杯を酒で満たし、一口で半分ほど飲み干すと、娘の様子を語った。
「一日四十ダズンとその他に必要な掛りを頂きます」
当主が語り終えた後、私はそう言って、高い酒をもう一口飲んだ。
二
ケンプヘルクが娘の部屋へ案内してくれた。部屋は二階の奥まった方にあった。
「大事なご令嬢の部屋だというのに、屋敷の裏手にあるのは、何かわけでもあるのかい」
「子ども部屋から移る時に、夕陽の見える部屋が良いとおっしゃって、お嬢様がこの部屋をお選びになったのです」
執事は無表情に抑揚のない声で答えた。
「お嬢様は朝日よりも夕陽が好きなのかい」
「お嬢様は夕空や月夜、星空がお好きなのでございます。お年ごろの娘らしいお心でございます」
執事の台詞には、少しだけ固い調子が混じっているようにも聞こえた。執事は扉を叩いたが、何の返事もなかった。
「お嬢様、お客様でございます」
執事が扉を開けると、温い澱んだ空気が流れ出した。この部屋だけは初夏の爽やかな天気とは無縁のようだった。ケンプヘルクは私を部屋に通すと、そそくさと姿を消した。
部屋にはほとんど色彩というものがなかった。薄灰色の絨毯に銀鼠色の壁紙、箪笥も椅子も机もみな黒かった。西側を向いた窓は、黒い刺繍模様の窓掛が日の光を半ば遮っていた。果物の饐えたような甘酸っぱいにおいがした。
大きな黒い寝台が部屋の真ん中に置かれていた。枕元には葬儀用の黒と白の紙の造花が飾られていた。寝台は黒い敷布で覆われ、黒い布団と黒い枕の間に白い小さな顔がのぞいていた。白い顔は小さなククッという笑い声を漏らした。
「あなたがお父様が今度呼んだ人ね」
少し舌足らずの砂糖菓子のように甘い声がそう言った。
「スナブ・ランケン、クーリカフ街の探偵だよ」
彼女はまた小鳥のようにククッと笑った。
「あたし、ヴィーナ。病気なの」
「どんな病気なんだい？」
「いつも寝床にいるから病気なの。病気だからいつも寝床にいるのよ。あなた、探偵なのに、魔法や祈祷ができるの？」
私は黒檀に白い象牙をはめ込んだ椅子に腰を下ろした。さり気なくファバーン剣の柄頭を触ってみたが、妖魅の気配は伝わっては来なかった。
「わかったわ、その剣ね。それであたしに憑いてるものをやっつけるつもりね。でも、そんなことをしたら、あたし死んじゃうわ」
ヴィーナは怯えるわけでもなく、また小さく笑った。血の気のない青白い顔は、額で切り揃えた真っ黒な髪で囲まれている。大きな黒い瞳には暗い輝きがある。目の縁には一週間も眠らなかったかのような深い隈。形の良い鼻と口は小さい。唇だけは血色が良く、濡れた珊瑚色をしていた。
「君には何かが取り憑いているのかい」
少女は薄笑いを浮かべて、黒い枕の上の頭を横に振った。
「知らないわ、そんなこと。あたしはあたしなのよ」
太陽が西の空に傾きかけていた。黒い透かし模様の窓掛を通った幾筋かの金色の光が、黒い寝台に歪んだ絵模様を作った。
「もうじき、日が暮れるわ」
ヴィーナは笑い、白い頬に小さな笑窪ができた。
しばらく二人とも何も喋らなかった。私は黒い寝台と白い少女の上に、夕陽が描く絵模様を眺めていた。ヴィーナは窓の向こうの赤い光を見ていた。視線はずれているのに、私は自分がずっと見つめられているような居心地の悪さを感じた。
やがて部屋の中に薄闇が訪れると、ヴィーナは寝床の中で起き上がった。
「お茶でも飲みましょう、探偵さん」
彼女はゆっくりと寝台から降りた。黒い透かし刺繍の寝着の裾が乱れて、細い白い足が見えた。見えたのは白い少女の足だけではなかったように思えた。黒と灰色の斑模様の関節のないぬめぬめとした何かが、白い足と絡み合うように見えたようが気がした。
私はぎくりとして剣の柄に手をやった。微かな痺れにも似た感覚が伝わってきた。日没と共に何かが動き出すのだろうか。
灰色の絨毯の上に立った彼女の寝着の裾からは白い小さな足が見えるだけだった。ヴィーナは黒い卓子の上に硝子の杯と黒い細い硝子瓶を置いた。瓶には何の貼札もなかった。彼女は杯に濁った灰色のものを注いだ。残光が灰色のものに不気味な赤い色合いを与えた。
「どうぞ。秘密のお茶よ。元はコルヴァナのお茶だったけど、今はあたしの秘密のお茶なの」
少女は腰を下ろして灰色の−お茶−を一口飲んだ。硝子の器を手にして口に近づけると、甘く饐えたようなにおいがした。口に含むと甘さと苦さが入り混じった奇妙な味がした。
「これはどうやって作るんだい」
「秘密よ。秘密のお茶って言ったじゃない」
彼女はくすくすと笑い、私の質問をはぐらかした。部屋の中には灰色の宵闇が満ち、その中でヴィーナの白い顔だけがぼんやりと光を放っているように見えた。
「もう一杯どう？」
私の答えを求めているわけではないようだった。彼女は再び杯に灰色のものを注いだ。
「もっと美味しくしてあげるわ」
ヴィーナは私の杯を口元に持っていくと、とろりとした唾を垂らした。
「飲んで」
女王然とした物言いに、私は言われるままに灰色のものを飲んだ。明らかに一杯目とは違う、甘く強い酒のような味がした。
「暗くなってきたわね」
ヴィーナは自分の盃を干すと寝台の脇にある小さな洋灯に灯を点した。卓子に戻ると、彼女の背後の明かりが部屋に奇怪な影を映した。火屋に隠し模様の細工でもなされているのだろうか。ぐねぐねとした縞模様、ひどく歪んだ渦巻模様が部屋中に広がった。洋灯の光にはほとんど色というものがなく、色のない部屋に奇怪な白と黒の絵模様を描き出した。
「きれいでしょ。不思議な洋灯なのよ」
「ああ、きれいだ」
そう言った途端に白と黒の模様がゆっくりと回り出した。回り灯籠の仕掛けでもしてあるのだろうか。幾重もの縞模様や渦巻模様は、中心が幾つもあるかのように、大きく小さくぐるぐると蠢き回った。
次第に絵模様ばかりか部屋全体が歪んで渦を巻いているかのように見えてきた。ヴィーナだけが動かず、美しい白い顔に笑みを浮かべてこちらを見ていた。黒い瞳の中には奇怪な渦巻模様が映っている。
得体の知れぬ“お茶”に何かが入っていたのか、あるいは何かの術中にすでにはまっているのか、椅子に座っているのに自分の体がぐらぐらと揺れて倒れそうな感覚にとらわれた。ファバーン剣を抜こうとしたが、腕をまっすぐに動かすことができず、なかなか抜くことができない。
「あたしを斬るつもりなの、探偵さん。その剣がないと何にもできないのね」
ヴィーナは渦巻く瞳を大きく見開き、クックッと笑った。挑むような嘲笑だった。古代の魔剣の柄からは、魔道の存在を示す痺れるような感覚がはっきりと伝わってきた。
「君は、何だ？」
「何だって、何？ あたしはあたし、ヴィーナよ」
頭の中に嬌笑が響き渡ったが、目に映るヴィーナは、変わらず小さな笑窪を浮かべているだけだった。
「その寝台には何かがいるのか」
黒い掛布団は彼女が抜け出た後も、膨らみを保っているように見えた。
「御自分で確かめてみたら、探偵さん」
私は立ち上がろうとしたが、尻が椅子に貼り付いたかのように動けなかった。ぐるぐる回る渦巻模様のせいか、黒い布団が幾許か蠢いたかのように見えた。
「この部屋には何かがいるのか」
「あたしとあなたしかいないじゃない」
「祈祷師や呪い師もこうして追い返したのか」
「あたし、知らないわ」
また彼女がクスクスと笑うと、それに合わせるかのように部屋中に広がった歪んだ縞模様が動き回り、影のはずのそれがまるで黒い蛇か触腕かのように壁から抜け出し、私の方へと向かってきた。
何とか剣を抜き、椅子に座ったまま振り回した。刀身のファバーン文字は緑色の光を放っている。剣が触れると黒いうねるものは灰を吹き飛ばしたように四散して消えた。消える間際の黒い影の先端には、熾火のような小さな赤い目が光っていたような気がした。
僅かに残っていた夕陽の名残も消え、部屋の中は怪しく這いうねる白い光の渦巻模様に照らされるのみとなった。動きは先刻よりは穏やかになり、心の臓の鼓動のように脈打っていた。
「あたしの寝床に何がいるか知りたいの？」
少女の声は毒を孕んでいるようだった。
「ああ、君の中に何がいるのかもね」
そう答えるだけで、喉から声を絞り出す努力が必要だった。
「ここまで来て」
ヴィーナは立ち上がり、蠢く光の輪の中を寝台へと後退った。寝着の裾からは白い足しか見えなかった。唇からもいつしか赤みが消え、黒ずんだ小さな葡萄の実のように見えた。
「こっちへ来て、探偵さん」
少女は甘く囁くような声でそう言った。軽やかな仕草で黒い寝台に上がった。黒い寝着の裾が乱れて、すんなりと伸びた白い足が見えた。その刹那、ぬめぬめとした黒い何かがその足に絡んでいるように見えた。黒と灰色の滑る光沢のある蛸の足のようなもの。
私はファバーン剣を杖にして、何とか立ち上がろうとした。太古の神秘文字が異界の力に逆らい、緑色に明滅した。見えない縛めが断ち切られたようで、私は椅子から立ち上がることができた。不意に力が入ったので、体が卓子にぶつかり、黒い硝子瓶が落ちた。絨毯の上に灰色の液体がこぼれると、まるで酸でも入っていたかのように白い煙が上がり、絨毯には焼け焦げができた。
私は一歩一歩黒い寝台に歩み寄った。鎖が巻き付いているかのように足は重かったが、恋い焦がれた女の寝床へ引き寄せられるかのように、私は重い足を引きずって黒い寝台に向かった。
ヴィーナは黒い布団から白い顔と片手だけを出して、娼婦のように人さし指だけで手招きをした。
寝台に近づいていくと、再び渦巻模様の動きが激しくなり、部屋全体がぐるぐると回転しているかのような酩酊感に襲われた。私はファバーン剣を振り上げ、寝台の脇で妖しい光を放っている洋灯に打ち下ろした。硝子の火屋が砕け散った。白い欠けらが異様にゆっくりと、きらきらと星屑のような輝きを発しながら、飛び散っていった。白い炎は揺らいで一瞬強い光を放って消え、火屋の欠けらが絨毯の上に舞い落ちると、部屋は闇に包まれた。魔剣の神秘文字だけが、淡い緑色の燐光を放っていた。
「やったわね、探偵さん」
闇の中に少女の声がした。寝台は私の前方にあるはずだったが、声は四方を回りながら響いてくるように聞こえた。明かりが消えて目の回る感覚は消えたが、今度は耳から奇怪な感覚が侵入してきた。
ヴィーナのくすくす笑いが四方八方から聞こえてきた。まるで小人になった彼女が、部屋の角々に潜み、交互に笑っているかのようだった。
「探偵さん、あたしを抱きたい？」
嬌笑とともに、そんな声が耳のすぐ側から聞こえた。暖かく柔らかい裸身が押しつけられたかのような感覚が一瞬あった。甘酸っぱいにおいが鼻孔をくすぐった。
細い指先が体のあちこちをまさぐった。服を着ているのに、肌をじかに触られている感じがした。まさぐる手は胸から背中へ、背中から腹へと、瞬時に移り、捉えることができない。手が十本もあるアニャチの神像のようだった。
生暖かく湿ったものが肌に触れる。女の舌先のようにも感じるが、得体の知れない虫か何かに触れられているようにも感じる。舌のようなものは肌をつついたり舐め回したりしながら、次第に密着し、体に巻き付いてくるかのようだ。何本もの細い指はいつの間にか首筋に集まり、ゆっくりと喉を締め上げ始めた。
私は襯衣を脱ぎ捨て、肌にまとわりつく何ものかを剥ぎ取ろうとしたが、指は自分の胸を引っ掻くばかりだった。首のまわりの指を引き剥がそうにも、何もつかむことはできなかった。
「くそ！」
私は罵詈を吐き、燐光を放つファバーン剣を自らの胸に押しつけた。刀身の神秘文字が緑色にぱっと閃き、焼けるような熱さとも氷のような冷たさともつかぬ、異様な痛みが走った。一瞬体中が痺れて倒れそうになったが、奇怪な指や舌の感触は消え去った。
小さな嬌笑が響き、闇の中に幽鬼のように白い少女の顔が浮かんだ。まるで彼女の肌自体が光を放っているようだった。
「探偵さん、気に入ったわ。家庭教師の先生もお医者様も祈祷師も呪い師も、みんな逃げ出しちゃったけど、あなたは遊んでくれるのね」
ヴィーナの顔は紙で出来た燈籠のようだった。中で燃えている灯は、ときに紫がかり、ときに青みがかり、奇怪な色艶を少女の肌に与えた。黒い瞳の中には、まだ先刻のような奇怪な渦巻模様がぐるぐると回っていた。
少女は黒い掛布団を足の方からぱっとまくった。灰色染みた白い光の中に奇怪なものが露になった。
白く細い足があった。女らしい肉付きはまだ薄いが、もう艶めかしさを感じさせる、美しい足だ。だが、黒い布団の中にあったのは少女の足だけではなかった。
ぬめぬめとした光沢を持つ黒と灰色の何かが、そこには蠢いていた。斑模様のそれは蛸か烏賊の足に似ていた。だが、吸盤はなく滑らかで濡れた肌を持っている。太いものは彼女の股と同じくらい、細いものは指と同じくらいで、それが何本も何本も巣の中でのたくる蛇のように絡み合って蠢いてた。黒と灰色の斑模様だが、中には紫や藤色の死斑を思わせる色合いのものもあった。
どこからどう生えているのかわからないが、奇怪な触腕は白い少女の足と一体となり、ヴィーナの下半身を形作っていた。
「どうしたの、早く来て。あたしと遊びたいでしょう」
彼女は白と黒の足をくねらせ、淫靡に絡ませ、私を誘った。私はファバーン剣を構え直したが、黒い寝台に足を進めることができなかった。
「弱虫なのね、探偵さん。その剣がないと何もできないのでしょう」
くすくすと少女は笑い、私を挑発した。
「弱虫の方が生き残れるんだよ。蛮勇は死を招く。家庭教師に習わなかったかい」
私は魔剣を手に一歩進んだ。
「屁理屈をいうのね、探偵さん。屁理屈いう人、あたし、嫌いよ」
「僕もほかの奴らと同じように追い出すつもりかい」
ヴィーナは少しだけ黙って考えているような振りをした。
「あなたはおもしろいから、追い出したりしないわ。もっとあたしと遊んで」
彼女の考えている遊びというのが、どんなものなのか、あまり想像したくなかったが、私はさらに一歩進んだ。魔剣に刻まれた神秘文字はさらに明るく緑色の光を放った。
黒い敷布の上で少女は白い足をゆっくりと大きく開いた。蛸のような触腕と長虫のようなものは白い足に絡みついたり離れたりしながら、別の生き物のようにぐねぐねと蠢いている。
少女の股間には異常に大きな陰裂があった。頭から吸い込まれそうな大きな桃色の肉の裂け目が、白い足と黒い足の根本に口を開けていた。それは女性器なのか、それとも似た何か別のものなのか、判然としなかった。白と黒の足の付け根にあるそれは、鮮やかな珊瑚色の大きな唇のようでもあり、ぬらぬらとした液汁を垂れ流す傷口のようでもあった。
ヴィーナがさらに足を開くと、肉の割れ目の中に大きな一つ目が現れた。血走った大きな眼球が、少女の陰唇の中からこちらを見ていた。眼球は不自然にきょときょとと動き、その度に陰毛の代わりのように周囲から生えている蚯蚓のような触腕が、ざわざわと淫らな動きを見せるのだった。
ごくりという音が聞こえたが、それは私が唾を飲んだ音だった。ヴィーナは挑むようにゆっくりと腰を動かし、その度に奇怪な女陰は波打つように閉じたり開いたりして、私を誘うのだった。黒い布団の上の白い顔は、わざとらしく舌なめずりをして、にやにやと笑い続けた。
私はさらに一歩進み、寝台のすぐ側に立った。女陰の中の目は明らかに私を見ていた。縦に裂けた大きな一つ目は淫らな笑いを浮かべて、私の目に視線を合わせていた。
ファバーン剣には冷たい緑の炎が燃えていた。知らずの内に剣を振り下ろすために右手が上がっていた。剣から力が−あるいは剣の意志なのだろうか−伝わってきたかのように、右腕に妙な力がこもった。
剣を振り下ろし、奇怪な目玉を斬り裂けば、一件落着となるのだろうか。少女に憑いているらしい何ものかは粉砕され、彼女は元に戻るのだろうか。
突然、左手に生暖かい感触があり、私は身を固くした。見ればヴィーナの細い白い手が私の左手をつかんでいた。
「その剣、嫌いよ。それがないとあなた何もできないの？」
いつの間にか少女の顔からは、笑いが消えていた。私の手を握った細い指にくっと力がこもった。左右の手から相異なる力が体内に流れ込んでいるように思えた。二つの力は心の臓の辺りでぶつかりあい、鼓動が高まり胸苦しくなるのを感じた。
私はファバーン剣を絨毯に覆われた床に突き立てた。私の意志なのか、少女の意志なのか、よくわからなかった。剣は嫌みを言うように右手に刺すような感覚を残した。
「勇気があるのね、探偵さん。男らしいのね」
ヴィーナの声には勝利の響きがあった。私は力の緩んだ彼女の手を振りほどき、洋袴と下ばきを脱いで黒い寝台に入った。
冷たく湿った柔らかいものが下半身に絡みついてきた。その異様な感触は恐怖と嫌悪を超える情欲をもたらし、一物は痛いほど固くなった。黒い掛布団から出ている白い細い腕が私の首に絡みつき小さな白い顔に引き寄せた。
間近で見るヴィーナの顔は艶がなく白い紙でできている仮面のようだった。真っ黒い穴のような瞳の中では、歪んだ渦巻模様がぐるぐると回り続けていた。黒い果実のような唇が見る見る赤みを帯び、針で突けば血が滴るようになった。
不意に白い顔と奇怪な下半身の間がどうなっているのか、気になった。少女の顔と怪物のような女陰とは、本当につながっているのだろうか。私はヴィーナの腕を振りほどいて身を起こし、黒い布団を剥ぎ取った。
薄い肩の下には思いの外豊かに膨らんだ乳房があった。その下には肉の薄い白い腹が続いていた。だが、その下には闇があった。白い肌は織りの荒い布のような透き間を見せ、折り重なった蜘蛛の巣のようになり、闇の中に消えていた。黒く滑る触腕と白い少女の足の混合物は、女陰のすぐ上の辺りで網目状となり、やはり闇の中に消えていた。
その間、少女の下腹の部分は黒い闇だった。闇の中にちらちらと光を発して、奇怪な渦巻模様が蠢きながら回転していた。頭がくらくらして、歪んだ渦巻の中に吸い込まれそうな感じがした。頭から渦の中に落ちていきそうだった。
私は落下する自分の体を支えるように、少女の両の手首をつかんだ。細く折れそうな手首だった。冷たくもなく、さりとて人肌の温もりには足りないような、奇妙な生暖かさだった。
ヴィーナの小さな顔が強ばり、瞳の渦巻模様が一瞬消えて、怯えた少女の表情が表れた。
「怖いわ」
赤い実のような唇がそう動いたように見えた。声はどこからか聞こえてきただろうか。不意に沸き起こった征服欲と加虐心が、恐怖をかき消し、私は少女の股間に一物を強く突き入れた。
生暖かい肉の感触があり、狭隘な道の入口に抵抗感があった。私は腰に力を込め、その狭い関門を突き破った。
ヴィーナの目と口は大きく開かれ、瞳の中で回転する渦巻が破裂して銀の粉を撒き散らした。赤い肉孔のような唇から、吐息と共に甘い女の匂いが立ち昇った。切ない笛の音のような音が、白く細い喉から漏れ出した。
私は突き入れた一物を激しく動かした。私の物の先端は、闇の中の渦巻に届いているのだろうか。私が挿入しているのは、年端もいかぬ小娘の肉の穴なのだろうか。それとも異界の何ものかの子宮なのだろうか。
人間の足ではないものが下半身に絡みつき、肌を這い回り、締めつけ、蠢いた。私の動きに呼応しているようでもあり、ヴィーナ−あるいは何ものか−から、引き離そうとしているようでもあった。一物を挿入している部分からは、細い蚯蚓のような這いうねるものが無数に伸びて、私のものの根本や腰から尻に絡みつき、奇怪な愛撫を続けた。
だが、突き入れた一物の先端には、何もなかった。熱を持ったひどく狭い肉の通廊は私のものをきつく締めつけたが、その先にはぽっかりと冷たい空洞が広がっているようだった。
入り混じった恐怖と快楽が私の動きを後押しし、きつい肉の道が一物を絞り上げるように蠢いた。ヴィーナの白い顔にはうっすらと汗が滲み、紙のような肌に赤みと艶が浮かんだ。細い指はいつの間にか私の指に固く絡んでいた。
赤い穴のような唇が震えて、小さな呻き声が漏れた。私は少女の中の冷たい空洞に向けて精を漏らした。
眼前のヴィーナの白い顔も、黒い寝台も、灰色の部屋も、すべてが流れてぐるぐると渦を巻いた。歪んだ白と黒の縞模様があちこちで小さな渦巻を作りながら、見えるものすべてを巻き込んで、視界一杯に広がる大きな渦潮を形作り、ぐるぐると回転した。
私は崩れて流れていくヴィーナを夢中で抱きしめたが、私の体も一緒に形のない白と黒の流れとなり、渦巻の一部となっていびつに歪みながら回転していくのだった。
三
部屋の中にはぼんやりとした灰色の光があった。黒い透かし刺繍の窓掛から鈍い光が差している。夜が明けたらしい。
私は黒い寝台の上に裸で横たわっていた。隣で丸くなっている小さな白い裸身に、一瞬ぎょっとした。鈍い明かりの中に浮かび上がる少女の裸身は、ちゃんと胸と腰が繋がっており、その下にはすんなりとのびたきれいな二本の足だけが続いていた。真っ白な内ももに赤い血の跡が少しだけついていた。
部屋は昨日初めて見た時のままだった。白と黒と灰色でまとめられた陰気だが美しい部屋だった。寝床のすぐ側にファバーン剣が突き立てられていたが、刀身の神秘文字は灰色に曇ったままだった。
服を着て、剣を鞘に収めると、ヴィーナが目を覚ました。ぱっちりと開いた黒い瞳には、奇妙な渦巻模様はなく、窓掛から漏れる鈍い光が映っているだけだった。
少女は型通りに黒い布団で裸身を隠したが、恥ずかしがっている風でもなかった。
「あら、探偵さん、まだいたのね。朝まで遊んでくれたのは、あなただけだわ」
「ご気分はどうかね、お嬢様」
ヴィーナは鼻の頭を指でこすり、唇を小さな舌先で湿らせた。
「そうね、何だかいい気分だわ。すっきりした気持ちよ」
「そう、それは良かった」
私は黒い寝台の脇を通り、部屋を出ようとした。細い指が私の手に絡みついて引き止めた。
「ねえ、また遊びにきてよ」
少女は少しだけ媚びるような口調で言った。
「僕は仕事できたのさ。それに君の御両親は、僕がここに通うことを好まないだろう」
ヴィーナは赤い唇を尖らせて、不満そうな顔をした。小さな指に力を入れて、私の指を弄んだ。
「君が遊びに出ればいいのさ。もっと若くておもしろい遊び相手がいくらでも見つかる。君の“魔法”は十分に人を惑わすことができる」
少女は少し考えているような顔をして、それからくすくすと笑った。
「そう？ じゃあ、そうするわ」
ヴィーナは私の腕を引っ張り、私は顔を寄せて、小さな赤い実のような唇に口づけた。甘く蕩けるような味がした。
私は扉の握りに手をかけたが、一つ言い忘れていたことを思い出した。
「君は黒い服が似合うよ」
ヴィーナは黒い寝台の中でククッと小鳥のように笑った。小さな笑窪が愛らしかった。
「そんなこと、わかってるわ」
私はうなずき、甘いにおいのする少女の部屋を出た。
廊下に出ると、執事のケンプヘルクが昨日と同じ格好で立っていた。
「おはようございます、ランケン様」
「おはよう。君は一晩中ここにいたのかね」
長身の執事は表情を変えずに答えた。
「いいえ。ただ、夜半に何やら物音がしましたもので」
「どんな物音だい」
執事は言葉を探してしばらく言い淀んだが、うまい台詞は思いつかないようだった。
「……それが、そのお嬢様の声のような気がしましたもので……」
「お嬢様のどんな声だい」
「はあ、それはその……お苦しそうな声かと……」
執事は細長い首を妙な角度で捻って、嫌そうに答えた。
「魔物を退散させる特別な呪文と秘薬を使った。お嬢様が少しばかり苦しげな声を出しても致し方ない。絨毯が少し焦げたが、勘弁してくれよ」
「はあ、左様でございますか。それで憑き物落としはうまくいったのでございますか」
私も何となく首を捻ってみた。ケンプヘルクは訝しげな目つきで私を見下ろした。
「多分ね。お嬢様は少しばかり気性が変わるかも知れないが、心配はいらないと伝えておいてくれ。まだ寝てるんだろう、ご当主は」
執事は主人はまだ休んでいると答え、私は帰ると言った。
「しかし、ランケン様、謝礼のことなどもありますので……」
「あの飲みっぷりではお目覚めは昼過ぎだろう。僕は忙しいのさ。礼金は決まり通りだ。クーリカフ街の探偵局へ届けてくれ」
私はますます疑わしげな目で私を見ている執事を置いて、屋敷を出た。
十イート（約三メートル）くらいある門柱の脇に灰色の髭の門衛が仏頂面で立っていた。
「朝まで持ったのは、お前さんが初めてだな。みんな、真夜中過ぎにはここに駆け込んできた」
「そうかい、じゃあ、昨日は良く眠れたろう」
門衛は眠そうな目を細めて、私の顔を不愉快そうに見た。
「そうでもない。お前さん何をした。夜中に声が聞こえた。遠い声だったが、あれは確かにお嬢様の声だ。お嬢様の部屋の方に変な光も見えた。お前さん、お嬢様に何をした」
へたな答え方をすると、槍で突かれそうな雰囲気だった。
「憑き物落としの秘術を使ったのさ。〈失われた神々〉の時代から伝わる秘密の呪文なんだ。いささかの苦痛はあるが、済んでしまえば大丈夫だ。ところで、その光というのはどうなった」
門衛は〈失われた神々〉と聞いて、首を振ってジャクレンの聖句を呟いた。灰色の口髭が毛虫のように蠢いた。
「白っぽい光がしばらくぴかぴかして、それから渦巻みたいになって、火の粉みたいなものを散らしながら空に昇っていった。あれが憑き物なのか」
「そうだろうね。それで、光が昇ってからは静かになったのかい」
門衛は眉根をひそめて、私の方を睨んだ。
「いいや、光が天に昇ってからだ、お嬢様の声が聞こえたのは。あの声は……」
私は彼の口に指を押し当てる仕草をして黙らせた。
「その声は憑き物が落ちた後の安堵と解放の声だ。僕の仕事はうまくいったみたいだ。話してくれてありがとう」
門衛はまだ言いたいことがありそうだったが、扉を開けて私を通してくれた。私はリドラシック家を後にした。
十日ほどして、ケンプヘルクがやってきた。長身の執事は来客用の椅子の革の破れた所を気にしながら、身を折るようにして座った。
「こちらが、先日の謝礼金でございます。あれ以来、怪しいことは起こらず、お嬢様もすこぶるお元気でございます」
執事は家紋の入った布でていねいに包まれたダズン硬貨を差し出した。私は中身を確かめて懐に納めた。
「それは良かった」と私は言ったが、長身の男はそれほど嬉しそうでもなかった。
「実は今日こちらに伺ったのは、お礼のためだけではございません。スナブ・ランケン様に新たに仕事を依頼したいと、ご主人様が申しております」
ケンプヘルクは懐からもう一つ、家紋入りの布に包まれたものを取り出した。こちらは金子と違って、薄べったい代物だった。
「ご主人様からのご依頼状でございます」
私は傷だらけの卓子の上に置かれた包みには触れずに、執事に尋ねた。
「怪しい事は起こらなくなったんだろう。もう、僕の出番はないはずだ」
執事は折り曲げた身を起こして、薄い眉を片方だけ上げ下げした。
「確かに怪異は起こらなくなりましたが、あれ以来、お嬢様のご様子がおかしいのです」
「おかしいと言うと？」
ケンプヘルクは今度は眉と一緒に唇の端も上下してみせた。
「お嬢様は夜のお出かけがお好きになりました。しかも、イヌン川左岸のいかがわしい店に出入りしているらしいのです」
私は笑い出しそうになった。堪えたつもりだったが、執事には不快な表情に見えたようだった。
「先日など、お咎めになったご主人様をひどく汚い言葉で罵ったのでございます」
私はどうしても、頬が緩んでくるのを抑えることができなかった。
「それで、詩人か絵描きの恋人でもできたというのかい」
ケンプヘルクは眉根にしわを寄せ、神妙な表情になった。
「それをランケン様にお調べいただきたいのです。ご主人様はお嬢様のご乱行をいたくご心配しております。今一度ランケン様のお力をお借りしたいというご存念でございます」
リドラシック家の執事は主人からの書状を私に差し出した。
「それは受け取れない。サンジェリィ一の魔道探偵としてはだね、金持ち不良娘の素行調べなんて仕事は、引き受けられないんだ」
ケンプヘルクは差し出した手紙をしばらくそのまま持って、私の顔をじっと見た。誠意を持って依頼しているのか、リドラシック家からの依頼文を受け取らない探偵を非難しているのか、よくわからなかった。
「そうですか、それは至極残念なことです。お嬢様もそのようにお思いかと」
長身の男は折り畳んだ体を伸ばして立ち上がり、帰っていった。
ヴィーナがどんな不品行を行っているのか知らないが、生身の人間相手ならば、そう大したことではないに違いない。まだ、昼前だったが、私は小さな不良娘の誕生を祝って酒杯を傾けた。窓からの日差しを受けた琥珀色のディコンの中に、歪んだ渦巻模様がぼんやりと浮かんだ気がした。ヴィーナの小鳥のような笑い声がどこからか聞こえたような気がした。
私は火酒を一息に飲み干した。
