女の悲鳴が聞こえた。灰青色の雲に覆われた空に悲痛な声が響きわたった。黄金色に枯れた草むらの向こう、細波を立てて流れている小川の向こう岸に三人の人影があった。
　灰色の長衣のはだけた胸元を覆って逃げる若い女、それを追う革鎧を身につけた二人の兵士。
　私は肩に背負ったすりきれた麻袋を投げ捨て、剣の鯉口を切って走り寄った。
　女は水飛沫をあげて川にはいり、恐怖に乱された顔で逃げ惑う。兵士たちは銀の縁取りのついた兜の中に表情を隠して追いすがる。剣は抜いてはいなかった。
　私が川岸に着くと女はこちら側の土手を這い上ってくるところだった。まだ若い、頬の赤い農夫の娘という感じだった。顔立ちはがっしりしていたが健やかな美しさがあった。
　私は泥にまみれた彼女の手を取り岸に引っ張り上げた。恐怖と疲労で女は私の足許に崩おれた。
　二人の兵士もまた川にはいり迫ってくる。兜の庇の下の顔は自らの力を信じており、口髭には傲慢さがへばりついていた。
「大の男が二人で若い娘を追い回すとは尋常ではないようだな」
　兵士のひとり、幾分背が高く色黒の方が答えた。
「貴様は何者だ。見ない顔だな。我々をレドリュージュ男爵様に御仕えする者と知っての狼籍か」
　兵士はどうやら余り言葉の使い方を知らないらしかった。
「狼籍というのはおまえたちの今しているような行為を指すものと大方の人は言うだろうね」
「貴様、我々を愚弄する気か！」
　もうひとりのやや幅の広い男の方が怒りに髭を震わせて言った。ごつごつした手が短めの剣を抜いた。
　背の高い方の兵士がもうひとりを制して言う。
「我々はレドリュージュ男爵様に御仕えする女を探しにこのギルーベの村にやってきたのだ。そして目についたのがその女だ。男爵様からは報酬がたっぷりその女の家族には支払われることになっている。城で働くのは非常に名誉なことでもある。その女のために一番良いことなのだ。さあ、女をこちらに渡せ」
　私は足許で震えている女に声をかけた。
「奴らはああ言っているが、君はどうするつもりだ」
　女は激しく首をふり泣き声を上げた。
「いや、いや、いや、お城になんて行かないわ、いやよ、殺される！いや、ああ、旅のお方、どうか私を……」
　その後は涙に消えて聞き取れなかった。
「というわけだ。この人は嫌がっている。帰っておまえたちの御主人に伝えるんだな。あなたの人望は領民の中では地に落ちていますとな」
　今度は二人そろって剣を抜いた。
「男爵様を愚弄する族は生かしてはおけぬ」
　幅の広い男の剣がまず私の足を払おうとする。相手は二人だが土手の上にいる私には地の利があった。奴の剣を避けて兜を思い切り蹴飛ばした。奴は土手の泥に足を取られて川に仰向けに漬かることになった。
　背の高い奴は私がもうひとりを相手にしている間に土手の上に上がり右手から斬りかかって来た。
　蛇のような形の紋章が浮かびあがった刃が突き出される。私は剣を抜いた。二振りの鋼鉄が噛み合い火花が散った。鈍い陽光が刀身に反射する。
　奴は力で私を押し切り、脳天に剣を振り下ろしてきた。私はすんでのところで奴の剣を避け、鎧の脇の隙間に深々と剣を突き刺した。口髭を血に染めて、兵士は倒れた。
　休むまもなく、川から這い上がった男が襲いかかってくる。相棒の死骸にちらりと目をやり、怒りに顔を赤くして突っ込んで来た。
　猛烈な突きをかわし、首筋に剣を振り下ろしたが、奴は意外な素早さで死をまぬがれた。奴の剣が私の灰色の外套を裂く。脇腹に鋭い痛みが走った。
「死ね！余所者め！」
　口から白い息を吐いて、奴は剣を振りかざす。私は動きを読んで刃を逃れると、頭を打つと見せて、奴の腹に剣を突き通した。薄い革鎧を突き抜け、剣は奴の胃の中に納まった。
　短い戦いは終わり、生きている人間は半分になった。
　私は剣の血を拭うと鞘に納め、座り込んでいる娘の側によった。
「もう大丈夫だ。奴らは二度と起き上がれない」
「ああ、ありがとうございます、ああ……ありがとう、お城に連れて行かれたら……生きて帰っては来れませんでした……」
　私はまだ震えている女に手を貸して立ち上がらせた。袖口と裾をしぼったこの地方の農夫たちの着る地味な服をまとっていたが、はだけた白い胴元には金の細い首飾りが下がっていた。赤く上気した頬にふと触れたくなった。
「私は、エレーネと言います。ギルーベの村の村長の娘です。あの、よろしければ御名前を……」
「スナブ・ランケン。はるか西方、アニャチから大洋を隔てたメルカーの都、サンジェリィから来た。当て所なく、旅をしている」
「サンジェリィ……聞いたことのない都です。よほど遠い所なのですね。私はアニャチという所も知りません……」
　エレーネの言葉はそこで途切れた。目が大きく見開かれ私の背後を見つめたまま動かない。口は叫ぶように開かれたが声は出なかった。
　私の背後に氷のような冷たさを感じた。体の中にじかに突き刺さってくるような冷たさだった。剣に手をかけ振り向いた。
　たった今斬り殺した二人の兵士の死骸が立っていた。痴呆のように口をぽっかりと開け、空ろに目を見開いている。今死んだばかりだというのに顔はぞっとするような灰色になっていた。
　二人の周りには白い霧のようなものが取り巻き、蛇のように蠢いている。それ自体、生きて意志があるもののようだ。
　死んだ二人の口が動いた。だらだらと血を吐きながら、かすれたおぞましい声で奴らはしゃべったのだ。
「ス……ナブ……ラン…ケ…ン……おまえの……名は覚え……ておく……」
　死骸は声をそろえてそれだけ言うと、手にした剣をかざした。私は剣を握り直した。冷たい汗が吹き出る。
　だが奴らは襲いかかっては来なかった。刀身の紋章が黄色く光ったかと思うと、奴らは自らの手で剣を首に押し当てた。異様にどす黒い血が噴水のように噴き出し、二つの首が落ちる。血ではないものもそこから噴き出していた。乳色と灰色が入り混じった、無数の蚯蚓がからみあったようなもの。それは奴らの首からぴくぴくと震えながら飛び出し、宙に浮かび上がった。すると、二人にまといついていた白い霧がそのものを包み、灰色の雲の中へと凄まじい速さで昇って行った。
　二つの首無しの死骸が崩れると同時にエレーネの悲鳴が野原に響き渡った。